大乗は仏教?ヒンズー教?キリスト教?その4
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仏教をベースに、キリスト教システムを乗せ、ヒンズー教からマントラと神を借りた大乗。その教義を批判的に論考する。
論理的議論ができない馬鹿は立入禁止。
・主張には根拠を付けろ。
・ソースは明確に提示しろ。
・大乗の欠陥が指摘されてるのが嫌!と思うなら見るな。 >>393
ロジックもなく、論破された主張を繰り返ししつこく喚き散らすのは迷惑だよな。 >>392
あとさ、岩波仏教辞典は何度も提示してんだから、いい加減読んだら?
釈迦によれば、縁起によって諸法は生じる。生じているのだから存在している。これが滅する。
絶対的有ではない。
かと言って、縁起によって諸法は生じるのだから「一切は無い」でもない。
最初からこれを前提にしてるのに、実有が分かってないとレッテル貼って悪口連呼。
ロジックで論破されて悪口に逃げてんのは浅ましい。 >>400
???
生じてないのになんで影響を受けるの? 悟れなくても威張れる派の鹿野園が言う、ことである。大爆笑である。 >>404
中論はなんでもかんでも不生だと言ってるんだが。
生じてないのになんで影響を受けるの?、か。
中論に対する適切な疑問だな。
お前も中論の破綻を見つけたな。感心感心。 >>399
二一 縁起したのではない苦しみがどこにあろうか。無常は苦しみであると説かれている。それ【無常性】は自性を有するものには存在しないからである。
二二 それ自体として存在するものが、どうして再び(J註:自律したものとして)生起するだろうか。それ故に<空であること>を排斥する人にとっては、苦しみの起こる原因【の真理】(集諦)は存在しない。
二三 それ自体として存在する苦しみが消滅することは、存在しない。汝はそれ自体を固執するから、苦しみの消滅【の真理】(滅諦)を破壊する。
(中論二四章 四諦)
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9530364
【中観派が答えていわく】
二 もしもこの一切のものが不空(J註:無or有)であるならば、【何ものかが】生起することも無いし、また消滅することもない【筈である】。何ものを断ずるが故に、また何ものを滅するが故に、ニルヴァーナが得られると考えるのか。
(中論二五章 涅槃)
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9530374
どうやら彼はここで龍樹が言ってることが分からないようですね 龍樹論師「六十頌如理論」
(第五偈)
真実を見ない人には、世間(輪廻)と涅槃についての慢心(固執)がある。
しかるに真実を見る人には、世間と涅槃とについての慢心(固執)がない。
(第六偈)
有(輪廻)と滅(涅槃)とのこの両者は、あるのでではない。 よく知るなら輪廻がすなわち涅槃である、と説いている。
(第七偈)
生起したものがなくなるとき、そのものが消滅したという。 それと同じく智者たちも、滅(涅槃)とは幻のようなものである、という。
(第八偈)
消滅によって滅(涅槃)があり、生成変化するものを知ることによってあるのではない、というなら、その滅は一体誰に直観されるであろうか。 その場合、消滅を知る者がどうしているであろうか。
(第九偈)
もし五蘊(心身の構成要素)が消滅していないなら、煩悩が尽きても涅槃はないであろう。 なぜなら〔五蘊が〕ここで滅するとき、解脱することになるから。
(第十偈)
無明(迷い)を条件として生じたものは、正しい認識をもって見なら、生起であれ消滅であれ、いずれもありえない。
(第十一偈)
それこそが現世における涅槃であり、またますべきことなされたことである。 法〔を見る〕智の後に、もしそこに別のものがあるとするなら、
(第十二偈)
このように、非常に微細なものにも生起があると考える智慧のない人には、条件による生起(縁起)の意味は見られない。
(第十三偈)
煩悩が尽きた修行僧は輪廻が止息してなくなるならば、一体どうして完全な悟りを得た人たちが、その輪廻の始まりを説いていないのか。 (第十八偈)
生滅変化するもの(有為)における生起や消滅を妄分別(モウブンベツ)している人たちは、縁起の輪の中にこの〔迷い〕世界があることを全く理解していない。
(第十九偈)
あれやこれやに依存して生じているものは、実体をもって生起してはいない。実体をもって生起していないなら、そのものがどうして生起しているといわれるだろうか。
(第二十偈)
因が尽きて寂滅することが滅尽である、といわれるが、実体として尽きることのないとき、そのものにどうして滅尽ということがいわれようか。
(第二十一偈)
そのように何ものも生起することがなく、何ものも消滅することもない。
生起と消滅の道は、目的のために説かれている。
(第二十二偈)
生起を知って消滅を知る、消滅を知って無常を知る。
無常の中にあることを知るから、正しい法をも理解する。
(第二十三偈)
縁起は生起と消滅を離れている、と知る人々は、
誤った考えによって生み出された生死(有[ウ])の海をこえる。
(第二十四偈)
不変の実体を考える人は、愚かにも、あるとか、ないとか、
と錯覚する誤りのために、煩悩に支配され、自らの心によって欺(アザム)かれる。
(第二十五偈)
存在に通暁(ツウギョウ)している人々は、存在は無常であり、欺く性質があり、
空虚であり、空であり、無我であり、したがって空寂(クウジャク)である、と見る。
(第二十六偈)
よりどころがなく、支えがあるのでなく、根がなく、住所(ジュウショ)がなく、無明を因として生じ、始・中・終を離れ、
(第二十七偈)
芭蕉(バショウ)のようにもろく、蜃気楼のようである苦悩の世界は、
迷妄の城であり、あたかも幻のように現れる。
(第二十八偈)
この世界において、梵天などには、たとえ真実に見えようとも、
それも聖者には虚妄である、と説いている。 それ(虚妄)よりほかに何が残ろうか。 >>408
まーたそれかw。
俺「中論は破綻している。例えば、>>211」
大乗信者「中論は正しい!」
俺「だったらロジカルに破綻を擁護しなよ。」
大乗信者「中論にそう書いてあるんだから正しい!」
俺「中論がおかしいと指摘してるんだから、中論にそう書いてあるのは反論になってない。」
大乗信者「お前は中論を分かっていない!」
そんなみっともないこと繰り返してないで、ソース・根拠付けて明確に主張すりゃいいだろ。
俺はお前らの間違いを、明確にソース付きでコテンパンに論破するとき、ワクワクすっぞw。
お前らも論証を学べるといいな。 原子はそれ自体ではないと何度言えばw
堂々巡りとはまさにこの事!w >>414
中論「すべて不生!」
お前の疑問「生じてないのになんで影響を受けるの?」
お前にしては珍しく的確な指摘。感心感心。 >>411
???
結構親切に解説してると思うけど、それ、あなたの理解力の問題では? 凄いなここ
カノエンのアホさがドンドン
際立ってきてるw >>418
お前自身がお前の質問に回答したら?
中論「すべて不生!」 と喚いている。
しかし、「生じてないのになんで影響を受けるの?」
ねえ、何で?中論は破綻しているからだとしか考えられないけど。
お前のロジカルな擁護待ってるよ! 中論の破綻問題そのB
中論「すべて縁起!すべて不生!」 と喚いている。
しかし、「生じてないのになんで影響を受けるの?」
ねえ、何で?中論は破綻しているからだとしか考えられないけど。
中論絶対擁護マンのロジカルな擁護待ってるよ! ……大乗を誹謗して遂に気が狂ったか。
哀れなり、
哀れなり。 >>422
自分で、中論の破綻を指摘してしまった焦ってんのか?頑張ってロジカルな反論考えろ。
自分が頼ってたものが破綻していたことに気付いて動揺する気持ちは分からないでもないが。 それを(テトラ)レンマというか容中律と謂うかはともかく、八不や四句(否定)が理解出来ないのに龍樹をどうこういえばこういう悲惨な結末を迎える事は火を見るより明らかなのに……
哀れなり、
哀れなり。 >>425
釈迦の教えから外れ、ヒンズーから借りてきた神仏を拝んでるほうがよっぽど恐ろしい。俺には、そんな外道は怖くてできない。 >>426
何度も言ってるけど、仏教は段階的な理解と受容が必要なんだよ。
また、人それぞれ環境が違う事も考えて縁の下の力持ちになってやらなきゃならないだろ。
凡夫の浅はかな計らいで方便の枠を狭めて何になる。 >>427
釈迦は自分の教えが方便だなどとは一度も言っていない。
それなのに、「釈迦は方便だと言った」と捏造経典に書いちゃう大乗同人作家どもの神経は理解不能。 ヒンドゥー教の伝統の多くに於いては、ブッダをダシャーヴァターラ(神の十化身)として知られる最も重要な10の化身の最も新しい(9番目の)化身を演じさせている。これは大乗仏教の教義がヒンドゥー教に取り込まれ、ヒンドゥー教の1宗派として仏教が扱われるようになったためである。後述の通り、偉大なるヴェーダ聖典を悪人から遠ざけるために、敢えて偽の宗教である仏教を広め、人々を混乱させるために出現したとされた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BC%E6%95%99%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E9%87%88%E8%BF%A6
ヒンドゥー教「偉大なるヴェーダ聖典を悪人から遠ざけるために、敢えて偽の宗教である仏教を広めた」
大乗「釈迦の教えは方便」
あ…、納得。 >>430
ヒンドゥー教「偉大なるヴェーダ聖典を悪人から遠ざけるために、敢えて偽の宗教である仏教を広めた」
大乗「釈迦の教えは筏の喩え」
あ…、納得。 あなた、龍樹以上のつもりなの?
やめなさい。
でおーやポタ公や馬鹿鬼と同じ扱いを受けますよw 破綻に対する反論は未だに出ず、か。
中論の破綻問題そのB
中論「すべて縁起!すべて不生!」 と喚いている。
しかし、>>404「生じてないのになんで影響を受けるの?」
ねえ、何で?中論は破綻しているからだとしか考えられないけど。
中論絶対擁護マンのロジカルな擁護待ってるよ! で、結局>>1の仏教知識の欠如って事すね。
自身の知識の欠如が原因なのに、「大乗が〜」とか「龍樹が〜」とか迷惑な話です。 >>436
うむ。
完全論破されて悪口しか言えなくなった>>437みたいなのだけになった。 鹿野園もようやく精神病院行くのか
十年以上の嵐が去ってよかった もう、お辞めになったらいかがですか?
ブッダの仏教と大乗仏教は違うものです。
お互いに自分の信じた道を進めばいいだけです。
やり合ったところで結論など出ませんし、ブッダはそういうことを
「何の役にも立たない」
とおっしゃっています。 >>442
その通りですね
下らないことですよ
こんな事は
学者や学僧は何度もこのような問題にぶち当たってその上で信心堅固なわけですから 生臭大乗を仏教から切り離さないと釈迦の教えが絶えてしまう。仏教改革が必要。
現に、インドでは仏教はヒンズー教に合流した。釈迦の教えから外れ、神仏の崇拝を始め、現世利益を求める大乗の動きが、仏教の消失を招いた。
葬式でぼったくり、生臭坊主が金儲けする大乗ばかりの日本には仏教はない。真の釈迦の教えを学ぶ必要がある。 >>366
仏教辞典をお前がどう読んでどう理解したのかを聞いている
で お前に取っての自性の意味は? >>369
辞書の意味は聞いてない
お前が自性という言葉を正確に理解してるかどうかだから はよ答えろ >>372
有るんなら出せるよな?
その苦とやらを出して見せろよ
写メで構わんぞ >>373
見渡す限り誰もそんな事は言っていない
にもかかわらずお前にだけはそう見える
何故かと言えばお前の認知が病的に歪んでるから
認知バイアスという症状だよ 戒名で何十万も取るとか腐ってる。
キリスト教の免罪符だよな。キリスト教は免罪符をとっくの昔に廃止した。それなのに、JAP大乗は現代でもやってる。 >>391
存在ではなく関係性=縁起だと説かれた経典を読んでそうなるのはお前の論理的思考が中学生程度だからだよ
仏教は大人の高度な論理で理解出来ないと無理だから諦めな >>146
お前さあ、まーた自分の主張を否定するソースを出してたな。
空の思想史の43の図で、仏教はダルミン(基体)の存在を否定するが、ダルマの存在は認める、と示されてる。実線が存在するで、破線が存在しないだ。
自分の主張と真逆のソースを出すのは笑う。俺のためのソースをどんどん出して偉いな。
俺が正しくお前が間違っているから、まともなソースを出せばそうなるのは当然か。 >>451
無明と行の間に関係性が成立するなら、無明と行が存在している必要がある。
行はどこから存在したんだ? 感興のことば 25章
聡明な人は瞬時の間賢者たちに仕えても、仏の説かれた真理をはっきりと知る。
賢者の説いた、意義ある一つの句でも、目的を達するものであるが、しかし愚者にとっては仏の説かれたすべてのことでも、目的を達成するには至らないであろう。 >>454
だから、「依って(此縁や相依)」「ある(現象してる)」んでしょ?
で、無明は智慧の欠如であって実体はない。 >>455
・・・自分は賢者や聡明だって云いたいの? >>456
空の思想史の43ページの図
こうやってソースは具体的に明示しような。
お前の間違いを明確に示している図だな。前後の文章も読んで確認しとけ。 >>457
お前自身が言ってたろw。
中論の破綻問題そのB
中論「すべて縁起!すべて不生!」 と喚いている。
しかし、>>404「生じてないのになんで影響を受けるの?」
ねえ、何で?中論は破綻しているからだとしか考えられないけど。
中論絶対擁護マンのロジカルな擁護待ってるよ! 中論正しいマンが湧いてるけど、こうやってちょっとやり取りしてると、気付いたら中論を否定してしまう。
そりゃそうだよ。だって、中論は破綻してるから。 >>453
>空の思想史の43の図で、仏教はダルミン(基体)の存在を否定するが、ダルマの存在は認める、と示されてる。
>実線が存在するで、破線が存在しないだ。
電子版だからP43がどの位置か分からないが、おそらくダルマとダルミンの関係で「点線で云々」って書いてあるやつだろ?
が、そこに点線の説明はあっても実線の説明はない。
まぁ、お前の本には「実線は云々」って書いてあるのかもしれないし、お前にはそう見えるのかもしれないが。
でその図の後に
>仏教徒も現象世界は一応存在するように見えることは認める。
と書いてあるがな。
・・・文章の偽造か幻覚か知らないが、お前、それ終わってるよ。
精神病院に行きなさい。 >>460
やっぱり中論を読んだことないだろ。
龍樹は終局的には縁起を否定してるのだよ。
縁起の肯定はあくまでも言語による仮説としての方便・世俗諦として認めてるに過ぎないからな。
だから、掛かる意味において縁起の話をするときは此縁・相依を仮説して話すのだよ。
で、相手がその縁起を実体視するときはそのもの自体を否定するって事なのだよ。
>諸仏の説法は、二諦によっておこなわれる。
>世俗諦と勝義諦とである。
>これら二種の諦の区別を知らない人々は、ブッダの教えにおける深い真実を理解しない。
>ことばによる説明によらなくては、勝義は説かれ得ない。
>勝義にもとづかなくては、ニルヴァーナはさとられない。
>(龍樹 「中論」) >>462
2章の図3。そこに「点線は基体の存在が認められていないことを示す」と書かれているだろ。
ダルミンは点線だけど、ダルマは実線。ダルマは「存在が認められていない」ではないと明確に示している。
図4ではダルマが点線で、基体が実線。
ここまで明白に意図が示されていても、読み取れない奴は真逆に理解しちゃうんだな。 >>463
で、お前の>>404「生じてないのになんで影響を受けるの?」 には、どう理論的に言い訳するんだ?
発狂して逃げ回ってないで、ロジカルに説明しよう。 このスレで>>1に呆れ返ってる人たちはそういう二諦を踏まえてレスをしてるんだよ。
しかし、>>1は二諦が分かってないから「矛盾」だの「論理破綻」だの言ってるっと事。
それに尽きる。
とどのつまり龍樹の思想を理解してない、「中論」を読んでないって事。 >>464
> 2章の図3。そこに「点線は基体の存在が認められていないことを示す」と書かれているだろ。
> ダルミンは点線だけど、ダルマは実線。ダルマは「存在が認められていない」ではないと明確に示している。
> 図4ではダルマが点線で、基体が実線。
>
> ここまで明白に意図が示されていても、読み取れない奴は真逆に理解しちゃうんだな。
で、「ダルマの存在は認める」ってどこに書いてあるんだよ?
また、その図の後に
>仏教徒も現象世界は一応存在するように見えることは認める。
と書いてあるが。 >>466
苦しくなると「分かっていないーー!」と喚いてごまかそうとするのはいつもの手口だな。
逃げ回っててみっともない。 >>468
都合が悪くなるとすべて空。大乗の空は論理破綻の言い訳。 一言補足しておくが、有部では法有だから掛かる意味でのダルマ(法)を実体を認めてるがな。
大乗は否定してる、法空だ。 >>467
「仏教徒も現象世界は一応存在するように見えることは認める。」と書かれているだろ。
そして、2章の図3。そこに「点線は基体の存在が認められていないことを示す」と書かれているだろ。
ダルミンは点線だけど、ダルマは実線。ダルマは「存在が認められていない」ではないと明確に示している。
図4ではダルマが点線で、基体が実線。
点線と実線で意図を持って書き分けているのに、愚者は読み取れないんだな。 >>469
>>470
で、なんだ?
瞬殺されたんだから去れ。 >>473
お前は、論破される度に「瞬殺した!」と喚くw。 >>472
・・・やはり狂ったか
お前は発言の度に言うことが変わるが?
>ダルマは「存在が認められていない」ではないと明確に示している。(>>472)
>仏教はダルミン(基体)の存在を否定するが、ダルマの存在は認める、と示されてる。(>>452) >>475
理解力のなさを晒すねえw。
「点線は基体の存在が認められていないことを示す」と書かれている。
ダルマは実線で示されている。だから、ダルマは「存在が認められていない」ではない。つまり、ダルマは存在が認められている。
仏教はダルミン(基体)の存在を否定するが、ダルマの存在は認める、と示されてる。
これほど明確な文章ですら理解できないんだから、そりゃ図も理解できない訳だ。 ようやくソースの意味を理解できたようだな。議論とはこうやってするもんだ。しっかりしたソースを示せば、反対してる相手も認めざるを得ない。
相手に誤解があるなら、正しい理解と間違っている箇所を明確に指摘できる。
それなのに、愚者どもと来たら、根拠も提示せずに「僕チンが正しいーーー!!」と喚き散らすだけ。さらには、ソース付きで反論されても「お前が理解できていないーーー!」と喚き散らすだけ。
俺とお前ら愚者との圧倒的な差よ。 >>404
>生じてないのになんで影響を受けるの?
ええ
五 業と煩悩とが滅びてなくなるから、解脱がある。業と煩悩とは分別思考から起こる。ところでそれらの分別思考は形而上学的論議(戯論)から起こる。しかし戯論は空においては滅びる。
六 もろもろのブッダは「我(アートマン)が有る」と仮説し、「無我(アナートマン)である」とも説き、また「アートマンなるものは無く、無我なるものも無い」とも説いた。
※ 中観派には<定説>というのがないのである。
七 心の境地が滅したときには、言語の対象もなくなる。真理は不生不滅であり、実にニルヴァーナのごとくである。
(中論一八章)
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9529993
ということですね!
そして無明に覆われたものは分別思考に捉われるので不生不滅の理が分からずに影響されてしまうと
無明を滅せば(龍樹だと「無明とは明がないことだけれども明がないんだから、その反対である無明もない」という般若波羅蜜によって無明を実体視しないようにするということになりますか)老死も滅し苦も滅す
その時には世界を空と観察するので〈死の王〉からも影響されることもないと >>477
> ダルマは実線で示されている。だから、ダルマは「存在が認められていない」ではない。つまり、ダルマは存在が認められている。
> 仏教はダルミン(基体)の存在を否定するが、ダルマの存在は認める、と示されてる。
???
だから、その図の後に >仏教徒も現象世界は一応存在するように見えることは認める。 と書いあるだろ?
「ダルマが存在してる」なんて書かれてない、「一応存在するように見えることは認める」ってあるが?
気は確かか? >>480
「一応存在するように見えることは認める」と書いてるのは、その後の空ではダルマは存在しないと主張する立場もあったからだ。
しかし、それは本来の仏教の立場ではないから、図では
「点線は基体の存在が認められていないことを示す」と書かれている。
ダルマは実線で示されている。だから、ダルマは「存在が認められていない」ではない。つまり、ダルマは存在が認められている。
仏教はダルミン(基体)の存在を否定するが、ダルマの存在は認める、と示されてる。
ダルマは実線、ダルミンは点線と、敢えて区別して記述しているのに、愚者はその意図を読み取れないんだな。
愚者にこれ以上説明してやっても、みっともなく発狂し続けるだけだな。
お前の愚かさを一人で晒して発狂し続けてろ。 >>481
……マジで気が狂ったか?
そもそも仏教では基体(ダルミン)の存在を認めてないのに、その属性である法(ダルマ)がお前の脳裏では存在するのか?
例えば「私は歯が痛い」という時、私(基体、ダルミン)と痛い(属性、ダルマ)は各個独立して存在してない。
ダルマがダルミンを吸い上げるような形で現象している、つまり、>仏教徒も現象世界は一応存在するように見えることは認める、というのが仏教のポジションな訳だが?
お前は私の非存在(ダルマがダルミンを吸い上げるような形で)を認めながら、歯の痛みが独立して存在すると? >>482
恥晒してろw。
真ん中辺りに、図3が載ってる。
「点線は基体の存在が認められていないことを示す」と書かれている。
ダルマは実線で示されている。だから、ダルマは「存在が認められていない」ではない。つまり、ダルマは存在が認められている。
仏教はダルミン(基体)の存在を否定するが、ダルマの存在は認める、と示されてる。
http://togoku.net/musashi-tachikawa-sunyata/
ダルマは実線、ダルミンは点線と、敢えて区別して記述しているのに、愚者はその意図を読み取れないんだな。 たとえば、「私は(〜を)見る」と言ったとしよう。では、見る「私」とは、何であろうか。
それは、「私は(〜を)見る」というのだから、その見る前に存在している何ものかということになる。
それは見る以前だけではない、聞くよりも、読むよりも、歩くよりも、走るよりも前に存在している何ものか、つまりあらゆる作用以前に存在している何ものか、ということになってしまう。すなわち、作用を持たない基体(サブスタンス)としての私だ。
だがいったい、そういう現象に関わらない私という存在を、どうやって知ることができようか。第一、その私って、いったい何なのだろう?
もしそういう私があるとしたら、それが見るとは、どういうことになろうか。
もとより作用を持たないのであるから、どこかにあらかじめある「見る作用」と結びついて、はじめて見るということもできるということになるほかない。
しかしながら、いったい、見る作用のみが、どこかにあると考えられようか。
これはおかしな話である。ある意味では、そんなものがあるとすれば、ありもしない幽霊より怖いことだ。
したがって見る作用とは別に私があるということは、どうも成立しそうもない。
(入門 哲学としての仏教 竹村牧男)
続く (続き)
では見る作用と私は一つだとすれば、では聞く者は誰? ということになる。
そうすると、一体ではないが、別体でもない、というのが正しいだろうか。
しかし同じでもないし異なるのでもないという言い方は、ふつう、論理的には排除され、世間の言語においては通用しないものである。逆にいえば、世間の常識の言語世界は、じつはこのように矛盾を安易に排除した、浅薄な、虚偽に満ちた論理と認識の上に成り立っていることが知られてくる。
「私は(〜を)見る」という、きわめて単純素朴で至極当然な言い方のなかに、すでに大いに問題が潜んでいたのである。
それは、基体と作用をあらかじめわけておいて、しかもつなぐところが問題だったのだ。
それにしても、いつも我々は、私は、私は、と言っているが、その私っていったい何なのであろうか。
基体としての、変わらない、常住不変の私(=我=アートマン)があるとしたら、そういうものは自分のどこにあるのだろう。そんなものは、自分のどこにも、きっとないにちがいない。
ウィトゲンシュタインも言っている、私は歯が痛いというのは、ナンセンスだ。歯が痛む、その痛いの感覚以外にある私って何であろう。そんなものはあるとは思えない、言えない、と(拙著『インド仏教の歴史──「覚り」と「空」』講談社学術文庫、二〇〇四年、二〇六頁参照)。
これは龍樹の言っていることと同じことである。というわけで、結局、「私は(〜を)見る」という文章は成り立たないのである。
(入門 哲学としての仏教 竹村牧男) >>483
単 純 に お 前 の 誤 読 だ ろ 。
い つ も の 事 だ 。 悟れなくても威張れる派の鹿野園が言う、ことである。大爆笑である。 >>485
∞ノノハ∞
川^〇^ハレお話中すいません
視点が違う見方なのですけど
諸方無我って唯(タダ)識があるだけなので時間は発生しない
無漏で無為で良いでしょうか?
諸行無常は観察者がいると思うんですけど?
阿頼耶識の現量を対象として末那識の非量や意識の比量・非量で認識していると思うのですけど?
因縁和合して現象として顕現しているけど実体があるわけではないのに実体視してしまうのが問題で
有漏の有為で刹那だと思います 坐禅を始めてから、生まれて初めて大人の深い感情に共感することが出来るようになりました。それまでの自分はなんて幼稚で浅はかな人間だったのだろうかと恥ずかしくなりました。これからも未熟な自分なりに坐禅修行を継続していこうと思いました。 >>488
道元さんは「有は時なり、時は有なり」って見切ってますが、その有は仏教的には生じると同時に滅するって謂われてます。
過去現在未来という直線連続的な”時間”というよりも、現在現在現在の空間的な時間”観”と言ったほうがいいのかもしれません。 >>491
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ
>道元さんは「有は時なり、時は有なり」って見切ってますが、その有は仏教的には生じると同時に滅するって謂われてます。
過去現在未来という直線連続的な”時間”というよりも、現在現在現在の空間的な時間”観”と言ったほうがいいのかもしれません。
>その有は仏教的には生じると同時に滅するって謂われてます。
金剛般若経の
>一切有為法 如夢幻泡影 如露亦如電 応作如是観
一切の有為法も夢幻泡影の如く露や雷のように現象であって実体はないって事なんですね
ありがとうございました ちなみに
諸行無常
諸法無我
のような命題・法則自体が、唯識法相宗では五位百法の中の大別すると四つの有為法のひとつ、心不相応法の句身に分類されていたと思いました
五位百法
http://zaahan.us/Files/Article/1837/20170128145055_1.png >>488
諸法を観測した結果として何処にも私や私のものは発見出来なかったという事だから観測者は観測という行為の中にあるんじゃない? >>495
現象として存在するんだろ。素直に間違いを認めとけ。 >>487
大爆笑されているのはまともに反論もできないあなたの知能と教養のなさです。 >>496
中論の八章にも
一二 行為によって行為主体がある。またその行為主体によって行為がはたらく。その他の成立の原因をわれわれは見ない。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9507478
とありますね >>499
その次で行為も行為主体も否定してる。
一三 このように(J註:実在する)行為と行為主体とを排斥することによって
中論によるなら、行為も行為主体も否定される。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています