坐禅と動中の工夫23
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
坐禅の仕方
一息を離さないようにして念が入る隙を与えないようにします。
吸う息と吐く息と両方意識します。
しかし、いつのまにか一息から離れて念を追っかけてますので、気がつけば一息に戻ります。
雑念が出たら即「この念、何処から来たか」と、間髪を入れずその根元に一息で切り込むのがいいです。
念が出る前の心が禅定です。正念相続です。
動中の工夫
何もしてない時は坐禅と同じで一息に意識を置き余念の入る隙を与えない。
今の動作に意識を置きます。
他ごとを考えながら今の動作をしない。
動作はゆっくりと丁寧なほうが良い。
動作に隙を作らない油断しない。
真剣に命がけでする。
今やってる事を一心不乱にやればいい。
自分から目を離さない。
禅とは単を示す。
仏道はただ一つの道である。
仏道のただ一つの道とは一息です。
※前スレ
坐禅と動中の工夫22
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1629975144/ ロンさんさぁ……
貴方は根本のところが分かってないんですよ。
貴方は馬鹿じゃないから、自身の言ってる事が矛盾だらけで支離滅裂なのには気付いてますよね?
「修行なんてやりようがない」「本来佛」「最初に坐った時に終わってる」とか、確かにそれは正しいのですが、それはあくまでも如来蔵思想を前提にしているから正しいのであって、そう言わないと如来蔵思想と矛盾して論理的な破綻が生じるからなんですよ。 何故に「修行なんてやりようがない」「本来佛」「最初に坐った時に終わってる」とか言われる様になったのか、ある意味それは大乗思想の終極的な到達点でもあるのですが、そこに至るまでのプロセスを知らないで結論ばかり吹聴するのはどうかと思いますけどね。
悟りをひらかれたという方も、それまで「修行」といわれてる行動様式が、日常生活の中で消化されながら継続されてるでしょ。
盤珪さんだって「不生で整ってござる」と言いながらずっと坐禅を弟子達とされてるんですし、その他の禅師方もそうでしょ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています