そんなこっちゃ仏教が絶え果てます、いえ仏教だけは時代によらんです、まずもって真っ正面、真っ正直です。
慧開、こやつは実にしっかりしてます、紹定元年一二二八年東嘉の龍翔寺に首座となり、衲子、大衆雲衲のために請益すという、
大法を説くのに、古人の公案事跡を示して、門をたたく瓦子となす、すなわちかすっともかすらなくなれば卒業です、
自分というものまったく失せる、なんの問題も起こらぬとは、魚変じて龍と化す、通身他が為にするんです。
 語に響きありとはこれです、仏を道いいながら我田引水、自分の為にしかできない、まずはこれをもって標準として下さい、
論の正しさもですが、ちらとも残っていれば、そりゃ滞るんです、真っ正面に向かえば、是不是自ずからするんです。
 はい、ともに四十八則となる、名付けて無門関となすと。
 若しこれ箇の漢ならばと、依草付木の精霊という、インツーイッションだの個性だのいう、臍の緒くっつけたまんまというのかな、
あるいは学者インキと紙の、あっはっは今はパソコンの虫ですか、比較と関係点と線の平面蛙です。そうじゃない一箇の大丈夫です。
そうとなれば、たとい命失うとも、単刀直入に来い、八臂の那だとは、阿修羅王とて天地を支える三面八臂の大力鬼王ですとさ、
たといそんなんが出てきても、なんのその。
 西天インドの四十七仏、仏仏に単伝して、お釈迦さま迦葉阿難尊者と続き、達磨さんから二十三代また道元禅師より今に至る滴滴相承
です。これが他の思想宗教人間の多種と違って、まったく寸分の差異もないんです、星が頭へ入った等の中途半端じゃない、
一滴余さず器から器になんていう、まだるっこしいこっちゃない、地球ぜんたい宇宙そっくり相続です、単純です。
 ですからこれ、仏祖がどうの、ありがたやじゃない、仏祖のほうが命乞いをするほどにというんです、さあやって下さい、
このとおりはらばたさらけ出したぞ、若しあるいは躊躇せば、門前払いです。足の骨を折るぞ、窓越しに走馬を見る、一瞬すれば失う、
どうもこうもならんてわけです。
 そりゃまあ当然、ものみなこのようにあるんですよ、あっはっは禅宗無門関という、はあてこれなんぞ。

大道に門無く、万別千差というそのものこれ、この関を透過して、乾坤に独歩せよと。

乾坤に独歩するこれを、さあどうか得て下さい、生まれ本来ですよ、空手還郷。