白鳥:  そこで続いて、「自らの主人公を確立する」ということをおっしゃっていますですね。
 
原田:  これは私たちが普通「主人公」というのは、ある家の中心になる人だとか、あるいは客観的に見まして、「あの方はどこどこのご主人ですよ」というようなこととは少し違うんですね。仏教でいう禅でいうところの「主人公」というのは。先ほどから申し上げているような「目覚めた人」という意味です。「自己に目覚めた人」という意味に受け取って頂くと、おわかりになって頂けるかと思いますけども。
 
白鳥:  その「自己に目覚めた」の、「自己」というのは?
 
原田:  無明から覚めた人、
 
白鳥:  つまり法というものが自らになっているような人のこと、
 
原田:  そういうことですね。ですから「私は主人公だから」という、また「主人公」なんていうことを、主人公になった人は、自分が主人公だからそんなものは認めきれませんでしょう。「随所に主となり、縁に則して用(ゆう)なる」という言葉がある。だからある時は主人公になっておるけども、ある時は野に行ってお百姓さんでも、その他の諸々の仕事ができるという、ほんとに自由になった人という。何でも自由自在にものができるということになって。
 
白鳥:  先ほどの「我」とか「自我」というものを消去できるということと、「主人公となる」ということと、なんかこう少なくとも日本語の中でいうと、なんかちょっと自己矛盾があるような気もするんでございますが。
 
原田:  自己という自己を認めておる間の自己というのは、ほんとに小さなものなんですね。ほんとに小さな自分なんです。ですけども、そうかと言って、自己がどこにあるか、と言ったら、もともと自我だとか、自己なんていうのは存在しません。ですけども、存在しているかの如くに誰しも思うわけです。この身の中に何かがあって、そして命令をして、何かをさしておるような、何かこの中に一つの別に存在するものがあるからのように思う。それは無明であれ、妄想であるわけですけども。そういうことではないということが、そのままが本来のものであったということに気が付きますと、そうすると、そのままが主人公になっていくわけです。ここでいう主人公になっていくわけです。大きくなっていくわけです。大きさというのは、比較を絶したものということですから、主人公だけのものということですね。そういうように、ここで仏教でいう、禅でいう「主人公」というのは、そういうことなんです。釈尊のお言葉をお借りすれば「天上天下唯我独尊」とか、臨済禅の言葉で言えば、「無位の真人」というのが、みんな主人公が変わった名前なんでしょうね。ですから「主人公」という言葉だけを捉えますと、どうしても、〈ああ、あの人はここの主人だった〉とかということになりますけども、そういうのとはちょっと違う意味があると思います。

原田:  今の状況から言いますと、私どもはわりに西欧的な、例えば「自我」、あるいは「自我の確立」なんていう言葉で、「日本人はそれが弱いんだ」と。ある種の、むしろ理想像としてですね、「自我を強固にしっかりと」という、こういう一種の目標として考えていたんですが、そうすると、これはやはり仏の法という観念からいうと、これは間違いなんでございますか。