白鳥:  先ほどの話にちょっと戻るんですけども、観念とか、概念とか―教えの世界ですね、さっき話に出ましたあの教えの世界から禅の目指す状態、つまり法のわかる、法そのものになる条件というのはないんでございますか。
 
原田:  いや、聞くものと教えとの間に、自分というものを差し挟まなければ、直接耳に入る。直接ものが見えるということになります。自分というものの介在がなければ。いわゆる自分を立てて聞くとか、見るとかという、そういう意識がなければね。しかし私たちはいつでもそれをしているわけです。そんな意識をしながら、〈私は今、私がものを見ている〉〈私がものを聞いている〉というようなことを意識せずに、いつでもどこでも何をしておっても、それはきちんとそういうものと一体となっている状態というのはあるわけです。それを「今」とこう言っています。「今」からちょっとずれると、認識が起きて、ものを認める、ということになるわけです。ものを認めることが一番問題になるわけですね。
 
白鳥:  仏教―まさに仏の教えの中では、お釈迦様とか、あるいはお釈迦様が弟子たちに伝えたと言われるお経とか、あるいは宗派を開いた祖師さまとか、祖師さまの言語録とか、そういったものというのは、もの凄く大事にされますでしょう。これを必死になって学んでいる方もたくさんいますよね。
 
原田:  いらっしゃいますね。
 
白鳥:  これではやっぱり少なくとも禅の目指す禅の世界にはなり得ないわけですか。
 
原田:  「法」というものは、やはり教えというものを自分で理解して、教えを深く参究していくことによって、法に到達できるかというと、それはできませんですね。「私」というものが、どうしても残るわけです。「私」というものを一度忘れ去らないと、教えそのものにならないわけです。どうしても「私」というものの存在があるということですから。

白鳥:  ご老師の提唱の中に、それは厳しくおっしゃっているところがありましてね、「瞞(まん)ぜられる事なかれ」―誤魔化されてはいけないよ、というお言葉があったんですが、あれはどういう意味ですか。
 
原田:  これは例えば、素晴らしい景色を見たり、素晴らしい話を聞くと、自分を忘れて、〈あ、素晴らしいな〉というようなことで、やや自分というものをほんとに忘れて感動してしまうというようなことがございますでしょう。感動だけの世界。それはそれで勿論よろしいです。後から戻りますと、また一時的にそういうことを経験したということになるわけですけども。仏の教えもあまり素晴らしいものですから、禅の世界のことがあまり素晴らしいものですから、自分を忘れてしまって、そういう美しく咲いた花とか、感動的にその言葉を聞いてしまうということがあります。だから仏道を修行するということは、自己に参じること、自分を学んでいくことだ、ということを忘れてしまって、感動の世界だけに慕うということがあるわけです。それは気を付けなければならんと思いますね。ですから仏の仏道、あるいは仏の書かれたものを、素晴らしい感動の目でもって見聞するということは、大切なことでございますけども、それを自分の方に回してこないと、相手と自分のある世界というのは、これはほんとでないと思います。