白鳥:  そんな広いものなんですか。
 
原田:  そうです。それから坐禅をしておっても、坐禅と自分とが二人連れになって坐っておれば、その人は坐っておっても坐禅をしていない、ということになるわけですね。
 
白鳥:  二人連れの坐禅。もう少しご説明頂けますか。
 
原田:  私が坐禅を行(ぎょう)じておるということになるわけですね。
 
白鳥:  さっき使われた「我」とか「自我」とかというものですか。
 
原田:  そういうことです。「私が坐禅を行(ぎょう)じておる」と言いますと、離れているわけです、坐禅と私。ですから絶えず自分の坐禅の状態を自分で眺めながら、今日は上手く坐れたとか、妄想がたくさん出過ぎるとかということが、いつもチェックしていますね。自分が離れているからよくわかるわけです。自分の坐禅の状態が。ですからそういうことでは、坐っておっても坐禅にはならない。むしろ寝ておっても、ほんとに横になったままで静かにものと一体になるべく努力をしておれば、よほどその人の方が禅をしておるということになるわけです。
 
白鳥:  身体の姿だけではない、と。
 
原田:  そうですね。
 
白鳥:  逆に伺いますが、今のは広い意味も含めて、坐禅でなければいけないのですか。その塩になるための過程というのは。
 
原田:  そういうことです。そういう自我を無くする方法、例えばものと一体になっていくことを「禅」と名付けております。だから「一体になる」ということは、それを「禅」と言っておるわけですね。それを「禅」と言っているわけですから、禅しかないじゃないでしょうか。