白鳥:  今までの提唱を纏めたご老師の本を読ませて頂きましてね、「真の法の人」とか、「解脱(げだつ)の人」とか、あるいは「安心(あんじん)」というような言葉が出てきますですね。今のお話を聞いても、「法と教えは違うぞ」と。法とは何か。真の法の人とは一体どういうものなのか、という。
 
原田:  「法の人」というのは、法を自分のものにしたとか、しないとか、という―いわゆる悟りを開いたとか、
解脱をしたとかという人に係わらず、そういうことを全然ご存じない人でも、みんな法の人なんです。ということは、
私たちが認識ができるということは、過去と未来のことしかわからないんです。じゃ、過去と未来を区別している今は
何か、というと、「今」というのは絶対にわからないです。無いんですね。今という時は無いんです。
それを「法」と説明したわけです。無いものを「法」と説明して見せたということです。だから「法を掴む」ということは、
無いものと自分と同化した、ということになるわけです。ですから、みなさん方が全部今を―過去と未来しか
わからないんですけれども、確かに「今」という時がございますでしょう、わからないけれども有る。無いけれども
有るわけです、今という時間を。
 
白鳥:  今、私たちはまさに今がわかったようなつもりでいますね。
 
原田:  そうそう。それ過去になりますね、今わかるということは。わかるということは隔てができるから見えるんです。見えないということは、ものと一つになっているから見えないんです。ものと一つになっている状態を「法」と説明したわけです。
 
白鳥:  そうすると、今有る私も、また法の中にいる。法そのものである。
 
原田:  そうです。それを〈なるほど、そうか〉と坐って、〈なるほど、そうか〉と自分で頷く。それを「悟り」とこう言いますね。
ですから悟っていないという人は、一人もいないわけです。自分で気が付くか、付かないかのことです。
ですから正しい教えによって修行をしていけば、必ず自分のことですから悟れないという人は一人もいないんですね。
悟りを自覚することができるわけです。
 
白鳥:  法そのものであるということなんですね。それを妨げているものというのは、一体それじゃ何なんだろうか。これは如何なんですか。
 
原田:  仏教の言葉を使わせて頂きますと、「無明(むみょう)」と言っていますね。本来もともと一つのものであるのに、
それを二つに分けて考える。俗に言う言葉で「主体」とか「客体」とかと言いますけれども、これは二つ同時に考えられるもの
じゃない筈です。「主体」と「客体」。それからあるいは「善」と「悪」という。「好きだ」「嫌いだ」というのは、
同時に二つの意識を考えることはできませんですね。だけども、私たちはあまりにも早く移り変わっているものですから、
そういう「主体、客体」「善、悪」でも一緒に考えられるように思っています。だから比較をしてみるわけですよ。
比べてみるわけです。ですけども、事実は比べることはできないものですね。一つのものが終わらなければ、
新しい思想というものは出てこない筈なんです。ですけども、それは有るかの如くに善・悪を比べてみるということが
人の常としてあるわけでしょうね。