阿含宗という宗教 324
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前スレ
阿含宗という宗教 323
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1621775593/ >>966神も仏も名無しさん2021/10/27(水) 10:17:27.62ID:HbZkolTf
>大慈大悲の不動尊 これを阿含の山伏と申せます。
それで宝生センセの山伏の袈裟は何色ですか?
位階も行満○○先達を通過して、大行満○○先達くらいでしょうか。
もっとも、宝生センセの場合、阿含宗から位階などもらわなくても、
昔から「大傲慢正大先達」様でいらっしゃる。 >>781神も仏も名無しさん2021/10/22(金) 18:53:43.65ID:0daGqcyZ
>釈尊の行いと人格は<人格統合が完成され、目前の釈迦が仏陀なのだと当時の民衆はたちどころに認める存在>と私は信じる。
釈尊を「目前」にしても、最初の五人の比丘は彼を解脱者とは認めなかった。
桐山さんも紹介しているように、道で釈尊に話しかけたウパカは
「目前」ではなく、後になってから帰依したのです。
桐山さんも紹介しているウルヴェーラ・カッサパも、「目前」にいる釈尊を
頑迷に認めず、最後に説教されてようやく帰依した。
プックサーティは釈尊を知らずに出家したので、同宿しても「目前」の人が
釈尊だとわからず、教法を教えてもらっている内に釈尊本人だと気が付いて、
出家を願い出た。
釈尊が「民衆はたちどころに認める存在」なら、どうしてこれらの事例では
たちどころに認めていないのだ?
宝生センセは阿含経など桐山さんの本でさえも読んだことがないのに、
慢心を垂れ流しながら、無知から来る妄想を書きまくる。 信者さんたちに注目してほしいのは、971の五人の比丘、三カッサパ、
プックサーティは釈尊の教法を言葉で聞いて、理解したから帰依したのです。
ところが、桐山さんは釈尊が神通力など奇跡的な力で布教したと書いた。
「布教のさいごのキメ手は、その持つ奇蹟の力であった」
「つまり、幻術としか思えないような超自然的な現象―――
奇蹟を起こして、布教を成功させていたわけである。」
(『阿含仏教超奇蹟の秘密』18−19頁)
本では神通力で帰依させた具体例としてウルヴェーラの神変を
出しているが、実際は桐山さんの上記の主張とはまったく逆です。
釈尊がいくら神通を示してもカッサパは帰依せず、最後に言葉で説教されて、
帰依したのです(『阿含仏教 超奇蹟の秘密』38ページ)。
桐山さんは仏陀の智慧とか、求聞持聡明法を体得したと宣言していたから、
信者さんたちは彼がものすごく頭が良かったと信じている。
だが、現実の桐山さんは自分で引用したのに、経典に書いてあることとは
逆の結論を出している。
きちんと文章を読むのではなく、直観と称して、自分の説に合わせて
斜め読みするから、こういうみっともないことを本にしてしまうのです。
また、桐山さんに異見できる人が誰もいない裸の王様だったのがわかる。
中学生ならまずしない間違いを本にしてしまった桐山さんの知性を疑うべきです。 「布教のさいごのキメ手は、その持つ奇蹟の力であった」
(『阿含仏教超奇蹟の秘密』18−19頁)
上記が真っ赤な嘘である証拠に、釈尊本人が神通による布教を否定している。
ケーヴァッダという青年が釈尊に神通を使って布教したらどうかと勧めた。
釈尊はその提案を次のように断った。
「それゆえ、ケーヴァッダよ。わたくしは、神通力による奇跡に欠点があるのを知り、神通力による奇跡に不安を感じ、
恥じ、避けるのである。」
(『原始仏典1』春秋社、477頁)
桐山さんは、釈尊が神通で布教したといい、
阿含経の釈尊はそれをしないと断っている。
桐山さんは徹夜で阿含経を読みふけり、求聞持法で超人的な記憶力があると言った。
では、どうしてケーヴァッダの話を知らないのですか。
釈尊の教法だと称して、釈尊の主張と正反対のことを書いている。
信者さんたちはこんな程度の桐山さんが阿含経を「体得した」と思いますか?
大傲慢正大先達様の宝生センセが知ったかぶりの嘘を堂々と並べているのと
阿含宗の開祖様はそっくりです。 「布教のさいごのキメ手は、その持つ奇蹟の力であった」
(『阿含仏教超奇蹟の秘密』18−19頁)
桐山さんが生前示したという神通力はモンゴルのアメフラシの一つだけです。
だが、モンゴルの雨は奇跡ではなく、天気予報で雨が降ることを知って、
実際に降ってから、自分の力だと言い出した後出しジャンケンにすぎない。
現場にいた信者やF田管長でさえも護摩が終わるまで
桐山さんが雨を降らせると宣言したなんて話は知らなかった。
現地では雨が護摩の前日6/4から降り始めていて、モンゴルの国家緊急委員会も
鎮火の見通しを発表していた。
少し前からモンゴル全土の山火事が沈静化していたから、発表したのです。
なぜなら、六月は日本と同じ雨期で、各地で雨が降り始めたからです。
これで護摩を焚いた6/5に雨が降っても何も不思議ではない。
6/5当日も、前夜雨が降ったので朝、地面が濡れていたことを信者が話していた。
護摩を焚く前から雨が降っていたのです。
阿含宗ではまるで前々から雨を降らせると宣言し、6/5に突然雨が降り、
モンゴル人から奇跡だと大感謝されたという話になっている。
阿含宗の手前味噌にすぎない証拠に、モンゴル側から感謝状一枚もらっていません。
つまり、桐山さんには神通力なんてなかった。
桐山さんは自分の神通力を宣伝するのに釈尊を持ちだしたのではなく、
神通力などないのに、あるかのように人々を騙すために、釈尊の話を隠れ蓑に使った。
虎の威を借りる銀狐だった。
銀狐は天才的な宗教詐欺師だったので、未だに信者たちは桐山さんに
神通力や霊能力が有った、いや、>>967みたいに今でも有ると信じている。 一時期、阿含宗はモンゴルでの雨降らしを盛んに宣伝していたが
では、なぜ日本で降らせないのか疑問に思いましたね。
日本では数年おきに渇水で取水制限が行われているのだから。 雨降らせじゃないですが
中央線の人身事故多発で
阿含宗が自殺防止にのりだし
修法してましたね昔ですが。
今も中央線どんどん飛び込んでます
あの世への入り口と化してます笑 モンゴルの奇跡がインチキなのは、阿含宗側の資料をみれば十分です。
桐山さんが雨を降らせると決心して宣言したのは、6/3の首相との
面会の時だという。(『祈りは天地を動かす』坂田芳男、45ページ)
当然、映像ヤマトが同行しているのだから、記録されていいはずです。
信者さんたちは見たことがありますか?
6/3の午後は桐山さんの大好物の名誉博士号を授与された儀式もありました。
「しかし、桐山管長は、この日、午後、モンゴル国立大学訪問に際しても、学長は
じめ大学関係者たちに、この言葉をくり返し口にしているのである。」
(『祈りは天地を動かす』坂田芳男、47ページ)
「この言葉」とは雨を降らせる件のことです。
大学関係者に話をしたというわりには、肝心の学位授与に対する答礼の
スピーチはこの本で全文掲載されているが、一言も出ていません(51〜64ページ)。
「坂田芳男」は阿含宗の信者だった某放送作家のペンネームで、
彼はモンゴルのツアーには参加していませんから、阿含宗側からの情報を
鵜呑みにして、現場は何も一つ知らずに書いています。 桐山さんが6/3に突然、雨を降らせると思いついて、それを周囲に話を
したという証拠は、阿含宗側の自己申告以外はありません。
ただし、個人的な意見を言うなら、桐山さんが雨を降らせると
思いついたのが6/3だというのは本当でしょう。
柴燈護摩を焚くなら、一番気になるのは天気です。
二日前に天気予報を見たら、6/5は雨だと出ていた。
普通なら、マズイと思うが、そこに山火事の話を聞いて、
急きょ、雨を降らせるという奇跡の演出を思いついた。
だが、事前に信者に宣伝してしまって降らなかったら、大失態です。
そこで、周囲にはいっさい話をせず、後出しジャンケンをすることにした。
6/3に雨を降らせると決心したなら、阿含宗ではどうするでしょう。
祈りを集めますよね。
日本に連絡して、各道場に、雨が降るようにと護摩木祈願を呼びかける。
モンゴルに同行した三百人にも呼びかけて、祈りを結集する!
阿含宗では、成仏力だけではダメで、護摩木という現金の祈りの力を
集めることで、仏を動かし、天を動かすのだ!と叫んでいる。
普段なら、祈りだ、供養だと、護摩木という現金が少しでも集まるように
必死に叫ぶのに、桐山さんは祈りを集めようとはしなかった。
周囲に言って、外れたらマズイから黙っていたのです。
一緒に行った信者どころか、側近で当時、法務局長だったF田さん
にさえも言わなかったことは、彼の体験談を読めばわかります。 阿含宗は、開祖・桐山雄大僧正によって、1978年(昭和53年)4月8日に立宗されました。
日本の仏教界に新しい宗旨が開創されたのは鎌倉時代(1192年〜1333年)以来です。
ではなぜ、阿含宗という新しい宗旨を立てなければならなかったのでしょうか?
阿含宗立宗までの約24年間、桐山管長は「観音慈恵会」という仏教教団を主宰していました。
この観音慈恵会は、大乗仏教の経典「観音経」を依経としておりました。
しかし、桐山管長は、お釈迦さまが説かれたはずの因縁解脱法(成仏法)を探求しつづけた結果、
ついに大乗経典にはそれが無いことを知り、それまで小乗の経典と卑しめられていた「阿含経」こそが、
お釈迦さまが直説された唯一の経典であり、この「阿含経」だけに成仏法が説き示されていることを知ったのです。 成仏法を抜きにした仏教は、たんなる哲学、倫理、道徳でしかありません。
哲学・倫理・道徳でカルマからの脱出・因縁解脱などぜったい出来るはずがないのです。
たんにお釈迦さまの直説経典というだけではありません。仏教の目的である成仏するということ、
つまり仏陀になるための方法が、阿含経にしか説かれていないのです。
この事実を知りながら仏弟子として黙殺することはできません。
そのために、艱難辛苦(かんなんしんく)を覚悟して阿含宗を立宗されたのです。
この成仏のための修行法が、仏教学上、「七科三十七道品」と呼ばれているもので、
桐山管長は、これを「ブッダになるための、七種のシステムと三十七種類のカリキュラム」と呼んでおられます。 wiki 阿含経 より
阿含経(あごんきょう、アーガマ)とは、最も古い仏教経典集(スートラ)であり、初期仏教の姿を色濃く反映したものとされる。
阿含(あごん)とは、サンスクリット・パーリ語のアーガマの音写で、「伝承された教説、その集成」という意味である。
阿含の類義語には部(ニカーヤ)があり、パーリ仏典ではそれが用いられている。 「四日の朝、九時より準備を始めたのですが、ホテルを出る時には、雨が降っていま
した。その時は小降りになっていましたが、夜半から降っていたようでした。この
時にはまだ管長猊下が雨が降るよう祈願されているということを知りませんでしたか
ら、管長猊下がここでお護摩を焚かれるに際して、龍神様がお浄めの雨を降らして下
さっているのだと簡単に思っていました。」
(『祈りは天地を動かす』坂田芳男、131〜132ページ)
前日の6/4に法務部トップが何のために護摩を焚くのか、知らなかったのです。
これはいくら何でも変でしょう。
F田さんは護摩の現場の責任者ですよ。
そのF田さんが護摩が終わるまで、護摩の最大の目的を知らなかった!?
首相との会談や授与式にもF田さんは同行しただろうから、
桐山ゲイカが「雨を降らせるぞ」と言うのを聞いたはずです。
「学長はじめ大学関係者たちに、この言葉をくり返し口にしているのである」
なら、側近として同行したF田さんに聞こえなかったはずがない。
だが「知りませんでした」とはっきり書いている。
彼は桐山さんに同行しながら、そんな話は聞いていないのです。
桐山さんが雨を降らせると宣言したなど嘘だと、側近が証言しているのです。 「四日の朝、九時より準備を始めたのですが、ホテルを出る時には、雨が降っていま
した。その時は小降りになっていましたが、夜半から降っていたようでした。」
前日の6/4早朝から午前中は雨が降っていた。
桐山さんの祈りなんて妄想はいらない。
山火事の5/30の延焼中の場所が36カ所なのに、各地で雨が降り始めて、
6/4は8カ所まで急激に減ったので、国家緊急委員会は鎮火の見通しを発表した。
その理由は雨期が始まり、雨が降り始めたたからです。
6/5の護摩の後ではなく、前から雨は降っていたのです。
「五日法要当日、朝起きて窓の外を見ると、また雨が降っているではありません
か。夜中にはカミナリも鳴り、雨はたくさん降った様子でした。」
(『祈りは天地を動かす』坂田芳男、131〜132ページ)
信者さんたちは、これを読む前は、護摩が点火され、桐山ゲイカが
エイッと気合をかけると、一天にわかにかき曇り、土砂降りの雨が
降ったと信じていませんでしたか?
護摩とは関係なしに雨期が始まり、前日から断続的に雨が降っていたのです。
それを桐山さんは法力で降らせたかのように、護摩の終了後にようやく、
「このお護摩で雨を祈り、雨は降りました」(『祈りは天地を動かす』133ページ)
と信者たちに初めて発表した。
護摩が終わるまで、信者は誰も雨を降らせる話は知らなかったのです。
だが、現場にいて後出しジャンケンだとわかるはずの信者もモンゴルの奇跡を叫び始めた。
元大学教授も検証もせずに付和雷同したのだから、妄想の共鳴の典型です。
帰国後、モンゴルの奇跡の大合唱が始まった。
これが桐山さんの神通力、成仏法とやらの正体で、インチキです。
少し救いがあるのは、少数の参加者たちは、後出しジャンケンを疑っていたことです。 >>969 JBL ◆JBLfMwCXhY 2021/10/27(水) 18:54:35.70 ID:6VavXwU8
>桐山管長の遺骨を拝むのか?
そもそも釈迦仏教であれば遺骨を崇拝するなんてことはしません。
そう言うと、それは違うだろ、舎利信仰というものがあるではないか?仏舎利信仰があるだろう?
と言うかもしれませんが、実は釈迦仏教には阿含宗の信者が考えているような仏舎利信仰はありません。
桐山さんはスリランカから高い金を払って仏舎利と言われているものを買ったわけですが、
この時に舎利信仰の歴史や文献、経典なども著書で示しています。
ところがそれらは後世の密教の経典であったり大乗の経典であったり、実はお釈迦様その人が説いたものではありません。
そんなことはないだろう?と言うかもしれませんが、唯一釈尊が自分の遺骨の扱いについて示した経典があります。
これは大パリニッバーナ経です。
ここに後世の舎利信仰、舎利塔信仰、仏塔信仰のルーツがあります。
ならば阿含宗を標榜する桐山さんは真っ先にこの経典を紹介してねばならないはずです。
ところがこの経典を紹介されたことはありません。
そしてむしろ後世の大乗経典や密教経典における舎利を祀った時の功徳とかそういうところしか示していないのです。
実を言うとその仏舎利を祀った功徳なんていう話は釈尊の仏教とは本来相容れないものなんです。
釈尊自らが自分の遺骨を祀ることに対しての意義については、その大パリニッバーナ経にのみ示されているから、そこを見逃してはいけません。 >>969 JBL ◆JBLfMwCXhY 2021/10/27(水) 18:54:35.70 ID:6VavXwU8
>桐山管長の遺骨を拝むのか?
大パリニッバーナ経については岩波文庫で中村元博士による「ブッタ最後の旅」という現代語訳が安価で売られています。
非常に読みやすい分かりやすい本であるから、阿含宗を名乗る教団の信者であるならば絶対に買わねばならない本と言って過言ではありません。
それによると釈尊に対して弟子のアーナンダが質問します。
釈尊がお亡くなりになった後、遺体の処理はどうすればよいかと質問するわけです。
それに対して釈尊はお前たちは遺体の処理だの葬儀に関わるなと説きます。
しかしアーナンダは在家の信者達が釈尊の遺体を懇ろにお祀りするでありましょうから、どのようにすればよいかとなおも訊ねるわけです。
そこで釈尊が示したのが転輪聖王という世界を支配する王の遺体を祀るのになぞらえて、
真理を悟り清浄な教えを実践した人を祀るには、遺体を火葬にしてその遺骨を塔(ストゥーパ)に納め、
往来の四辻にその塔を人の目に留まるように建てなさいと指示しました。
その理由として、人はその往来の四辻にある塔を見ることによって、ここにかつて清浄な教えを実践された人の遺骨があり、
それはそのような浄らかな教えを実践した人がいたという証拠であり、記念碑であるのだから、
人はその塔を見るにつけその道の完成者が示した浄らかな教えを思い出すというわけです。
これが釈尊の遺骨も納めた塔を建てる意義です。
つまりそれを見るにつけ見た人は遺骨から何か不思議な力を頂くのでもなく、釈尊が生前示した教えを思い出し、
襟を正してそれを尊び、自分もまたその教えを実践しようという道標とするわけです。
そういうために塔を建てようとしたわけです。
どうせ在家によって遺骨はねんごろに祀られるわけです。
ならば大切なのはその意義です。
ここは釈尊は強調したのです。 >>969 JBL ◆JBLfMwCXhY 2021/10/27(水) 18:54:35.70 ID:6VavXwU8
>桐山管長の遺骨を拝むのか?
この大パリニッバーナ経の示している信仰はあくまでも教えを思い出すということが主体なのです。
教えというものは言葉によって示されました。
ならばそれをよく学び理解して自ら実行して初めて自分に役立つものです。
だから実は遺骨とか塔という形は問題ではないのです。
それは正しい浄らかな教えを思い出してもらうための方便に過ぎません。
つまり釈尊の遺骨に力があるというわけではない。
あくまでも釈尊が言葉として残した教えが主体で大切なのです。
釈尊は自らが亡くなる時、私はお前たちを置いて去る。自分がいなくなった後は自分が説いた教えを道しるべにしなさいと示しています。
また阿含宗でも勤行次第で読誦される雑阿含経の中でも、我(釈尊)のことを頼んでも漏尽解脱は得られない、
漏尽解脱を得るには、三十七道品の修道法を実践するしかないとはっきりと説いている。
だから釈尊は教えを示す教師であり、何も力を貸してくれないのです。
生きている時の釈尊でさえそうなのだから遺骨になった釈尊が力を貸してくれるはずなどありません。
釈尊はこの世からいなくなったのですから、遺骨というのは単なる物体に過ぎず、そこには何も宿りません。 >>969 JBL ◆JBLfMwCXhY 2021/10/27(水) 18:54:35.70 ID:6VavXwU8
>桐山管長の遺骨を拝むのか?
だから釈尊が亡くなって後世になって生まれた功徳が得られる舎利信仰とは、
これは釈尊の望んでいなかったことといって過言はないでしょう。
本当の釈尊の意図を読み取るべきです。
遺骨なんかに囚われてはいけない。大切にすべきなのは教えです。
もちろん我々、私もお墓参りはします。
お墓参りをする時は父や母などに対して生前の感謝の気持ちを捧げるわけです。
しかしそれは自分自身の心の問題なんだから、父も母も何かしてくれるわけではないのは当たり前でしょう。
だからブータンの仏教では遺体というものは風葬や鳥葬にするのが当たり前とされています。
こちらの方が仏教の教えに則っていると言えますね。
ところが名前だけブータンの秘法とやらを売り物とする阿含宗ではこのブータンの教えが理解できていません。
むしろ遺骨を海に流すとかするのは粗末にあたり霊的に無知などとしていますが、
それはブータン仏教を無知だと罵ったことになります。
日本では遺体をそこらに遺棄することは認められませんから、お墓を作って祀って構いませんが。
ところが阿含宗では如来の加持力などと言って釈迦如来が仏舎利に宿って、我々に成仏の手助けをしてくれる力を与えてくれる
などと示してそういう信仰を示していますが、これは釈迦仏教的には大間違いということになるのです。
阿含宗として阿含経を説いた釈迦如来が本尊と言うかもしれませんが、そもそも釈迦仏教には本尊などというものはないのです。
本尊があるならばそれは自分自身です。
浄らかな教えを理解して実践してよく制御された自分自身を頼むしかない道なのです。 >>967
我、精子と共にあり
/⌒ヽ⌒ヽ
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八 ヽ
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>>980JBL ◆JBLfMwCXhY 2021/10/28(木) 20:11:39.69ID:cysjKFH7
>成仏法を抜きにした仏教は、たんなる哲学、倫理、道徳でしかありません。
>哲学・倫理・道徳でカルマからの脱出・因縁解脱などぜったい出来るはずがないのです。
因縁解脱なんて仏教にはありません。
因縁解脱は桐山さんの造語であり、内容的にも仏教の解脱ではありません。
あなたは981で、阿含経の由来を引用しているが、
その阿含経のどこに因縁解脱があるのですか?
桐山さんは何十という阿含経を講義しているが、その中に
因縁解脱という言葉も概念も、ただの一度も出てこない。
解脱は仏教の一番の目的であり、もっとも重要な事柄であり、
釈尊が一生かけて説き続きたという点には賛成しますよね?
それなのに、阿含経に因縁解脱という言葉すら出てこないのはどうして?
そのことをあなたは不思議というよりも、変だと思ったことはないのですか?
私は前からこの質問を信者さんたちに問いかけている。
もちろん、答えられた人は一人もいない。
因縁解脱は桐山さんの造語だから、阿含宗でしか通用しないオカルト用語です。
桐山さんが作った言葉や概念だから、阿含経や大乗経典にあるはずがない。 因縁解脱なんて、仏教では意味をなさない変な言葉です。
「因縁=縁起」ですから、縁起解脱?
縁起解脱なんて、日本語としても変だと思いませんか?
だが、その変な言葉をまるで仏教の当たり前みたいに使っているのが阿含宗です。
縁起とは釈尊の説く解脱を説明する時に使う基本的な法則で、
切るものではなく、理解するものです。
釈尊は縁起を使って、どのように解脱するかを説いた。
「煩悩がある→苦がある」(これがあるから、かれがある)
「煩悩がない→苦がない」(これがないから、かれがない)
これの縁起が成り立つから、煩悩を無くせば解脱すると説いた。
「縁起(因縁)を切る」という言葉は意味不明だが、あえて縁起(因縁)を
切るなら、釈尊の説いた「煩悩がない→苦がない」が成り立たなくなり、
解脱が成り立たないから、仏教は崩壊します。
因縁切りとか、因縁解脱という言葉自体が、どれほど無知で愚かで、
恥ずかしい言葉か、阿含宗の信者は理解していない。 >>980JBL ◆JBLfMwCXhY 2021/10/28(木) 20:11:39.69ID:cysjKFH7
>成仏法を抜きにした仏教は、たんなる哲学、倫理、道徳でしかありません。
あなたに質問するが、成仏法って、何ですか?
このスレでこの質問に正面から答えてくれた信者は一人もいない。
桐山さんは説明しているのに、誰も理解していない。
阿含宗の教義さえも理解せずに、ただ呪文のように唱えるばかりです。
だから、その嘘デタラメにも気が付かない。
釈尊は八正道という「道」は説いたが、成仏法なんて名前の修行法は説いていません。
成仏法は「仏に成る法」「仏陀に成る法」だと桐山説を真似て言うだろうが、
仏に成る法なんて説いている阿含経はどこにあるのだ?
阿含経では仏つまり仏陀とは釈尊本人を指す言葉ですから、「仏に成る法」は
「釈尊に成る法」になり、意味不明で、しかも釈尊に無礼な表現です。
阿含経では、釈尊は特別な存在で、弟子は二歩も三歩も下がっているから、
自分が釈尊(仏陀)に成るなんて表現するはずがない。
釈尊は唯一無二の仏陀です。
いずれ紹介しますが、仏陀とは一つの世界に一人しか現れないと
釈尊本人が言っているからです。
だから、第一の仏陀、第二の仏陀などありえず、オカルトというよりも、
釈尊を侮辱した外道の教義です。 因縁解脱、成仏法などは単に言葉の問題だけではなく、
中身が仏教の教法とはまるで違う。
桐山さんの成仏法、成仏力とは、主に、
・桐山カルマを断ち切って因縁解脱する
・不成仏霊や霊障のホトケを成仏させ、霊障のカルマを断ち切る
この二つのことを指している。
わざわざ桐山カルマと名付けたのは、仏教のカルマには阿含宗のような
意味はないからです。
仏教のカルマ「行為の訳。身・口・意による善悪の所行。」
桐山カルマ「すべてのものの存在原理であり、存在の根本動力」
カルマは行為という意味であって、存在原理や根本動力という意味はありません。
行為(カルマ)を断ち切る、霊障の行為(カルマ)って、どういう意味?
釈尊はカルマを行為という意味以外には使っていません。
仏教には存在しない桐山カルマを断ち切る法なんて仏教にあるはずがない。
桐山さんは阿含経から成仏法を発見したというが、桐山さんの創作概念の
桐山カルマを断ち切る方法が阿含経にあるはずがない。 桐山さんは四神足が成仏法であり、これだけが法であり、八正道だけでは
「完全には解脱できない」「初学の弟子に説いた」などと唾棄した。
だが、四諦(苦集滅道)の、解脱するための方法である「道」とは八正道です。
釈尊が説いた修行法とは、桐山さんが初学の教えと唾棄した八正道です。
釈尊は四諦の「道」とは八正道だと述べているのに、桐山さんは道とは
八正道ではないと否定しています。
桐山さんは釈尊よりもエライらしい。
桐山説では、四神足で神通力を得て桐山カルマを断ち切るのだという。
だが、釈尊は神通力で解脱するとは説いていない。
漏尽通(漏尽智)は「自己の煩悩の尽きたことを知る能力」です。
つまり漏尽通は解脱した後に生じるもので、漏尽通で解脱するのではありません。
両者の解脱と修行法を比較するなら、次のようになります。
釈尊説:八正道で煩悩から解放されること
桐山説:四神足で漏尽通を得て桐山カルマを断ち切ること
ごらんのように、方法も内容もまったく違う。
これで桐山さんが阿含経から成仏法を体得したなんて言っても成り立ちません。
桐山説は仏教の基本問題の回答が間違っており、落第です。
解脱の意味も、解脱する方法も釈尊とは違うのだから、阿含宗は外道です。 >>980
桐山さんが言っていることは滅茶苦茶でしてね。
JALさんが書いた文章は、桐山さんの教えの受け売りですが、
> 成仏法を抜きにした仏教は、たんなる哲学、倫理、道徳でしかありません。
まず成仏法なんてありません。
原始仏典のどこを探しても成仏法なんかありません。
また桐山さんが言う成仏法と同じ概念の内容もありません。
成仏法の概念そのものが桐山さんの創作です。
> 哲学・倫理・道徳でカルマからの脱出・因縁解脱などぜったい出来るはずがないのです。
既出の通りで、仏教はカルマ解脱、因縁解脱など説いていません。
徳が身について運命が良くなることは解脱ではありません。
そもそも運が良いということ自体無常であり変化することです。
変化する性質(無常)なのに運がいいだの、成功するだのっておかしな話しです。
いえいえ成功することは悪いことではありませんが、
因縁が切れて人生が万々歳になることは解脱ではないとうことです。
> たんにお釈迦さまの直説経典というだけではありません。仏教の目的である成仏するということ、
> つまり仏陀になるための方法が、阿含経にしか説かれていないのです。
> この事実を知りながら仏弟子として黙殺することはできません。
> そのために、艱難辛苦(かんなんしんく)を覚悟して阿含宗を立宗されたのです。
> この成仏のための修行法が、仏教学上、「七科三十七道品」と呼ばれているもので、
> 桐山管長は、これを「ブッダになるための、七種のシステムと三十七種類のカリキュラム」と呼んでおられます。
桐山さんは、その成仏の意味をまったく間違えていたわけですね。
完璧、完全に間違えています。
完璧に間違えている仏教の概念に基づいて、解脱だの成仏だの七科三十七道品だのと言っても、
土台が完全に間違えていますので、虚しく言葉が踊っているだけになっています。 JBLさんは信者ではないのではないかと思われます。
ただ阿含宗についてネットでもいろんな情報が拾えますから、とりあえずそれをコピペして、
これってどうなんだろ?と書いてるだけではないかと私は思っています。
でもとにかくそういうものであっても、いい批判ネタ、題材になるから良いのですが。 980 JBL ◆JBLfMwCXhY 2021/10/28(木) 20:11:39.69 ID:cysjKFH7
成仏法を抜きにした仏教は、たんなる哲学、倫理、道徳でしかありません。
哲学・倫理・道徳でカルマからの脱出・因縁解脱などぜったい出来るはずがないのです。
たんにお釈迦さまの直説経典というだけではありません。仏教の目的である成仏するということ、
つまり仏陀になるための方法が、阿含経にしか説かれていないのです。
この事実を知りながら仏弟子として黙殺することはできません。
そのために、艱難辛苦(かんなんしんく)を覚悟して阿含宗を立宗されたのです。
この成仏のための修行法が、仏教学上、「七科三十七道品」と呼ばれているもので、
桐山管長は、これを「ブッダになるための、七種のシステムと三十七種類のカリキュラム」と呼んでおられます。
上記は阿含宗のホームページに書かれてあることをそのままコピペしたものですね。↓
https://www.agon.org/sp/about/about_000009.php >>980 JBL ◆JBLfMwCXhY 2021/10/28(木) 20:11:39.69 ID:cysjKFH7
>成仏法を抜きにした仏教は、たんなる哲学、倫理、道徳でしかありません。
>哲学・倫理・道徳でカルマからの脱出・因縁解脱などぜったい出来るはずがないのです。
因縁解脱なんてものはないというのは深山さんが書いた通りであり、また成仏というのも通常仏教では使わない表現で、
仏教では成道と言います。修道とも言いますね。
そうであるならばこれってかなり倫理的であり道徳的である道ですよ。
もちろん単なる倫理道徳ではありませんが、倫理道徳もまともに実践できない奴ができるはずがないものです。
倫理道徳以上に倫理道徳的なのが仏教の修道であり成道であると言ってよいでしょう。
もう本当に四六時中自分を見つめて規制するわけです。
滝に打たれるだの焚き火をするとか呪文を唱えるとかそんなごまかしの話ではありません。
日頃の日常生活における自分を徹底的に観察するのだから、こんな厳しい倫理道徳はないと言ってよいでしょう。 解脱というのは己の煩悩から解放されることです。
人間なんだから煩悩をたくさん持っている。
これを一つずつでも少しずつでも構わないから減らしていき、なくしていく道です。
だから目標にすることと、その手段方法からしても、こんな倫理道徳的な厳しい話はない。 このスレッドは1000を超えました。
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