(l.3.5)【敬わるべき人】 (第三章 剣)サンユッタ・ニカーヤ I

〔神いわく、ーーー〕
「なすべきことをなし了え、煩悩の汚れを滅ぼし、今や最後の身体をたもっている真人(阿羅漢)となった修行僧は、『わたしが語る』と言ってもよいのでしょうか。
また『人々が〔これこれは〕〈わがもの〉である、と語っている』と言ってよいのでしょうか。」

〔尊師いわく、ーーー〕
「なすべきことをなし了え、煩悩の汚れを滅ぼし、今や最後の身体をたもっている真人となった修行僧は、
『わたしが語る』と言ってもよいでしょう。
また『人々が〔これこれは〕〈わがもの〉である、と語っている』と言ってもよいのでしょう。
真に力量ある人は、世間における名称を知って、言語表現だけのものとして、〔仮に〕そのような表現をしてもよいのである。」

〔神いわく、ーーー〕
「なすべきことをなし了え、煩悩の汚れを滅ぼし、今や最後の身体をたもっている真人となった修行僧は、
慢心によって、『わたしが語る』と言うのでしょうか?
また『人々が〔これこれは〕〈わがもの〉であると語っている』と言うのでしょうか?」

〔尊師いわく、ーーー〕
「慢心を捨て去った人には、もはや結ぶ束縛は存在しない。かれには慢心の束縛がすべて払いのけられてしまった。聡明な叡智ある人は、死の領域を超えてしまったので、『私が語る』と言ってもよいであろう。
また『人々が〔これこれは〕〈わがもの〉であると語っている』と言ってもよいであろう。
真に力量ある人は、世間における名称を知って、言語表現だけのものとして、そのような表現をしてもよいのである。」
http://blog.livedoor.jp/youseethesun/archives/52183038.html

金剛般若経的に表現すると
「私は私に非ず、故に私と名づく」
といったところでしょうか。

だから阿羅漢が「私は悟った」と言うは何の問題もないと、ブッダの補償付きです(笑)