坐禅と動中の工夫15
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坐禅の仕方
一息を離さないようにして念が入る隙を与えないようにします。
しかし、いつのまにか一息から離れて念を追っかけてますので、気がつけば一息に戻ります。
吸う息と吐く息と両方意識します。
スゥーハァースゥーハァーと息になり切って行きます。
最初は苦労しますが一息に徹し切るほど意識せずとも余念が入らないようになります。
また、一息に徹し切るほど一息が意識できません。
この徹し切るところが只管打坐です。
また念が出ても次の念、次の念が出る度に前の念が忘れて行きます、そして坐禅が終わったら何も残ってない感じになるのもいいです。
そして、念が認識出来ない、時折り念が出なくなる事もあります。
念が出る前のところにいる感じです。
これが正念相続です。
また、坐禅をして楽になってもそこに安住する事なしに楽に流されないよう息を離さないようにして楽を切って行きます。
こうやってなんの苦楽もなく皮一枚中身がらんどう空っぽになって行きます。
動中の工夫
何もしてない時は坐禅と同じで息に意識を置き余念の入る隙を与えない。
歩いてる時は息ではなくメインの歩いてる事だけに意識を置き歩くに成り切ります。
ご飯を食べる時はご飯を食べるだけ。
他ごとを考えながら歩いたり食べたりしない。
つまり動作によって余念が入る隙を与えないようにします。
動作はゆっくりと丁寧なほうが良い。
動作に隙を作らない油断しない。
真剣に命がけでする。
今やってる事を一心不乱にやればいい。
自分から目を離さない。
こうやって余念が入る隙を絶えず与えないようにして行きます。
そうすると四六時中、禅になります。
禅とは単を示す。
これだけをやって行く事が禅です。
徹し切った姿が只なんです。
菩提心を持ってやって行く、菩提心とは努力、忍耐、求道。
これが仏道の一本道です。
この道は 単を練る他 道は無し
単を練るとは今だけのことを真剣にやる。
前スレ
坐禅と動中の工夫14
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1616920012/ >>218
サーチ掛けたら議論スレが無かったんだよね。
議論したい人を誘導してくれると助かる。 >>205
2.についてですが、失礼ながらそれは貴殿の文脈の読み違えです。
>>214をご参照下さい。
最も愚輩が植木先生の注を部分抜粋したので文脈が読み辛かったと拝察しますが。 >>210
議論と一括して言ってるけど、ここでは単に自分の知識を並べて、自分勝手な解釈を主張し、
追求されるとはぐらかし、誤魔化し続け、最後には罵倒を繰り返すという類のものが問題になってるから、
そういうものを排除しよう、ってことなんだよ
ようは、ここで行や境地の話をすると、それを知識自慢とごまかしと罵倒で破壊する荒らしがいるってこと
スレタイに沿った議論が行われたり、仏教全般の議論が適切に行われるならば、
別にここでもやってもいいだろ
>>211
だけど、あきらかに確定した荒らしがいるわけだから、
今ここでそういうものと適切な議論をしているとしても、
それがやがてはそういうやつを助長して、確実に荒らしにつながっていくということは
もうすでに周知の事実になってるわけだから、そういうものらには、それ相応のスレに行ってやってくれってことだよ
ようは荒らし目的や、確定した荒らしに加担するような人のみが、
他のスレに行ってやればいいわけだよ >>224
意志疎通の為の議論であれば良いけどね。
をれ迄否定したら会話が難しくなるw
勝利宣言に夢中になるのは議論スレでって事で。 >ようは、ここで行や境地の話をすると、それを知識自慢とごまかしと罵倒で破壊する荒らしがいるってこと
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
それってただのオナニーで承認要求で増上慢なだけだろwww
何故なら、
> 「仏」とは、「仏のように行為する」実存の呼称である、ということになる。
> このとき、「悟り」も「涅槃」も現実的には何であるか認識不能だから、「成仏」は「自己」にはできない。「自己」に可能なのは、「仏になろうと修行し続ける」主体として実存することである。
> すなわち、「仏」は「仏となろうとする」主体の実存様式である以外に、現実化しないのだ。
> したがって、修行者が「成仏」したり「悟る」ことはない。
> なぜなら、ある時点で「成仏した」「悟った」と「わかった」瞬間、それが認識である以上は概念化するわけで、結局は超越理念として扱われるからである。
> それは「観無常」の立場が決して許容しない事態である。
> そうなると、成り行きは「成仏」「悟り」が無限遠に後退し、現実的に無効になり、修行や坐禅は事実上、ただ坐禅する、ただ修行する、ということになる。「成仏」と「悟り」は坐禅・修行という行為そのものへと脱落されるのだ。
>(超越と実存 南直哉)
だから。
こうした問題提起に対して何ら見解も示さずに、スレを荒らしてるのはお前らじゃないのか? >>225
そうそう、そういうことでいいよね
ようは、たとえ気に入らないもの同志でも、相容れなくても、
極端に言うと、真っ当な議論の中での罵倒でもいいわけだよ
また、カムイの境地はダメだ、オレは宇宙と一体になったんだ、っていうんでもいいでしょw
ようは、批判したら、その批判にこたえて主張すればいいわけで、
そういう真っ当な議論だったらいいわけだよね
別に相容れなくても
ところが、議論も糞も、最初から罵倒目的というか、あと、自分の主張のおかしさが指摘されてるのに、
反対に勝利宣言して、罵倒してくるやつがいる
これはもう、どうにもならんでしょ
また、単なる知識自慢は、実践とはまったくリンクしない、脳内学問であったことが明白になったから、
こういう行や実践的な境地を扱うようなスレでは、まったく役に立たないというか、
相容れないよね
そこに罵倒目的が入るもう箸にも棒にもかからなくなる
だから、そういう本質、真理、実践を追及しない、ただ単なる知的追求のみをしている人は、
議論スレがピッタリということだよね
厳しく、誰を排除して、誰を入れるということではなくて、
特定の荒らしを議論スレに誘導するってことだね >>226
無自性同志が縁起しているww
中道は小欲知足ww
今だにマトモな回答が返ってきてないんだが
これで勝利宣言はないわ。 >>228
>また、単なる知識自慢は、実践とはまったくリンクしない、脳内学問であったことが明白になったから
そうだね。
ストイックにならないと宗教は務まらない事を、鹿野園は笑いごとにしてるし。
まぁ失格やね。 南直哉はただのアホでしょう。。
それを引用するのもアホ。。w
おれは昔本屋でパラパラ見たことはあるが、そんだけでダメだこりゃのレベル。。
読む価値はない。。w >>229
> 無自性同志が縁起しているww
> 中道は小欲知足ww
> 今だにマトモな回答が返ってきてないんだが
であれば、
1.(大乗)仏教で有自性とされるものを列挙してくれw
2.実生活での中道のあり方として 少欲知足がまともじゃない理由を上げてくれ。
www 私は坐禅を辞めました。
なぜならば、坐禅をはじめとするあらゆる修行が悟りとは何の関係も無いように思えたからです。
心にキレイも汚いも無いと思うのです。それどころか、「無知は罪である」という言葉があるように、キレイな心ほどかえって残酷というか罪深いのではないかと思うのです。
真剣に悟りを開きたいと思うならば、とにかく沢山の本を読むことを意識したほうが良いと思いました。
知恵と智慧は別物だという考えもありますが、私は智慧は知恵の積み重ねた先にあるものだと思います。
よって、私は読書に専念することにします。 坐禅の実践というのは、簡単なこと。。
自我が後天的に出来上がることによって、主客分かれた、迷妄の世界に落ちる。。
だから、坐によって、いったん自我が脱落して、それ以前の主客未分を見る、ということだ。。
内外打成一片とか、本来の自己に出会うというのがこれね。。
もともとは主客分かれていなかったのだから、そのもともとにいったん帰ることができる、というだけ。。
それを見なければ、自我のカプセルの中に閉じ込められたまんま、ということもできるかもしれない。。
本来、迷いなどないが、また自我が悪いとかでもないが、坐禅の実際、だけを言うと上記のようになる。。
それを知らない人が、理屈でごちゃごちゃ言っても全く無意味。。w
百聞は一見に如かずなんだけど、自分が見たことないから、その存在を否定する、という愚かなことをやっている人たちがいる、というだけ。。w >>233
私はそうだとは思いませんけどね。
ちなみにこのスレで引用した南直哉の『超越と実存』は、2018年度の第17回小林秀雄賞を受賞しています。 >>239
まぁ自灯明から逃げている鹿野園君には無理でしょう。 >>230
あれだけ仏教を語りながら、行や境地を否定していることが露呈したわけだけど、
ビックリしたね
こういうやつがいるのかと。
ようは、こいつらにとって仏教は、知的追求の遊びのようなものなんだよね
だから行や実践、そこで得た境地の話をすると、馬鹿にしてくる
こいつらのやってることは、分別はダメだ、求めてはいけない、といいながら、
自分の頭をグルグルグルグル回転させながら、経験や洞察などの実践的解釈ではなく、
知的解釈で答えを語っているわけ
分別はダメだ、得るものがあってはならない、というのも、仏教解釈としての答えなわけ
本当にそうであるならば、頭を回してはいけないってことになるんだけど、
こいつのやってることは、実践じゃなくて、知的解釈で答えを出してるだけだったっていうね
これこれこういう理由だから、仏教では分別や得るものがあってはならない、
← いや、それだったら、まず自分が頭で仏教をこねくり回すのヤメロよ、 ってはなし。
しかし、こいつが厄介なのは、仏教ではこういう風に言っている、だから、行のときにこういう風に思うのは間違っている ← これ。
頭の解釈を、実践的な行や境地の批判に、
そのまま使ってくる
これは非常に厄介で悪質なんだよね >>243
知的解釈もして無いよ?
本の受け売りだけ。
だから議論スレで >>243
みすったw
だから議論スレのお題の自灯明に答えられない。
読んだことを消化できてないから、自己表現が出来ない。 >自我が後天的に出来上がることによって、主客分かれた、迷妄の世界に落ちる。。
>だから、坐によって、いったん自我が脱落して、それ以前の主客未分を見る、ということだ。。
仮にそうした体験をしたとしても、その体験したということを
>「成仏した」「悟った」と「わかった」瞬間、それが認識である以上は概念化するわけで、結局は超越理念として扱われる
って事ですよ。
それを禅宗では鑑覚の病というし、法相宗では尋思から抜けれないとは言ってる訳で。 悟りを否定する人たち、というのは、迷っている自分を認めたくない、というだけかもしれないと思う。。w
もちろん迷悟なし、もホントだけど、仏道は、豊倹より跳出するが故に、迷悟ありでもあるんです。。w
どっちかしか言わないのはおかしいよね。。
対機説法的に、言われるべきで、有無の二軒に落ちると、野狐というか、おかしい。。 >>246
もちろん、そうだけど、いったんは体験しないとお話にならん。。w >>242
www
そうですかw
幸せな人ですね、お花畑が見えてるんじゃありませんかw
233 神も仏も名無しさん [sage] 2021/04/04(日) 22:36:40.54 ID:kFLklbT1
南直哉はただのアホでしょう。。
それを引用するのもアホ。。w
おれは昔本屋でパラパラ見たことはあるが、そんだけでダメだこりゃのレベル。。
読む価値はない。。w
↓
240 鹿野園 ◆Bs4PlQ2rjutF [sage] 2021/04/04(日) 22:46:58.61 ID:0nQ9rA4x
>>233
私はそうだとは思いませんけどね。
ちなみにこのスレで引用した南直哉の『超越と実存』は、2018年度の第17回小林秀雄賞を受賞しています。
↓
242 神も仏も名無しさん [sage] 2021/04/04(日) 22:48:02.02 ID:kFLklbT1
>>240
知ったうえで言っている。。w >>248
体験してから言ったらどうですか?
…という水掛け論になるでしょw > 「仏」とは、「仏のように行為する」実存の呼称である、ということになる。
この時点で、アホだよな〜。。w >>236
「無自性同志が縁起している」
もうこれだけで、仏教を知らないし、仏教を偉そうに語る資格はない
モロ低レベルが露呈してる
こういう言い方をしといて、いくら他に仏教を難しく語ろうが、どんなに用語を重ねようが、
仏教の基本中の基本、土台、根幹のところをまったく理解していなかったわけだから、
すべてがダメなわけだよね
もし、「無自性同志が縁起する」なら、「無自性のもの」 + 「無自性のもの」 という風に、
「無自性のもの」という自性を認めていることになるw
なぜこの言い回しが悪いのが分からないかというと、「縁起によって無自性が証明される」 という理がわかってなかったから
それがわかってなかったってことが、見事に露呈した。
「あるもの」と「あるもの」があって、それが「縁起している」から、「無自性」であることが証明されるんだよ
「縁起」によって「無自性」が導き出される
無自性とわかっているもの同志が、縁起をする・・・・w
こんな珍妙な考え方は、仏教には微塵も無いわw
「無自性のもの」というものは存在しないし、また、それら「無自性のものたち」個々が、
縁起するということはあり得ないw
無自性というときにはすでに縁起しているからこそであって、
そうした「個々」は空になって存在しない
もし、同志が縁起するような「個々」があるとするならば、それこそ、縁起の思想の中において、
実体を認めていることになる
こんな仏教において大切なこと、基本中の基本、骨格的な骨格なものを、
こうも浅はかに間違えるとは、まったく仏教を語る資格はないよ > このとき、「悟り」も「涅槃」も現実的には何であるか認識不能だから、「成仏」は「自己」にはできない。
これも大バカだよね。。w >>243
>あれだけ仏教を語りながら、行や境地を否定している
いわゆる久松先生が云うような、即無的実存の全身的、直感的な把握は否定してないよ。
否定してるのは、二義的に認識して概念化する弊害で、そうしたものは結局は超越理念として扱われるから否定してるんですよ。 私は坐禅を辞めました。
なぜならば、坐禅をはじめとするあらゆる修行が悟りとは何の関係も無いように思えたからです。
心にキレイも汚いも無いと思うのです。それどころか、「無知は罪である」という言葉があるように、キレイな心ほどかえって残酷というか罪深いのではないかと思うのです。
真剣に悟りを開きたいと思うならば、とにかく沢山の本を読むことを意識したほうが良いと思いました。
知恵と智慧は別物だという考えもありますが、私は智慧は知恵の積み重ねた先にあるものだと思います。
よって、私は読書に専念することにします。 >>254
自灯明が判らない鹿野園君には酷な解説だぞ?w >>252
>「仏」とは、「仏のように行為する」実存の呼称である、ということになる。
>この時点で、アホだよな〜。。w
修証一等とは ”仏のように行為する” でしょw
曹洞宗の基本的な知識だけどw 私は坐禅を辞めました。
なぜならば、坐禅をはじめとするあらゆる修行が悟りとは何の関係も無いように思えたからです。
心にキレイも汚いも無いと思うのです。それどころか、「無知は罪である」という言葉があるように、キレイな心ほどかえって残酷というか罪深いのではないかと思うのです。
真剣に悟りを開きたいと思うならば、とにかく沢山の本を読むことを意識したほうが良いと思いました。
知恵と智慧は別物だという考えもありますが、私は智慧は知恵の積み重ねた先にあるものだと思います。
よって、私は読書に専念することにします。 >>254
駄文はいいから、無自性でないものを列挙してくれよwww >>244
そうだね、ほとんど受け売りだよね
洞察が働いてない感じがするんだよ
こんなにも低レベルな洞察なのかって。
>>245
そう、こいつは、ある一定の質問になってくると、途端に破綻するんだよね
それで罵倒や、瞬殺の勝利宣言を繰り返して、レスを流し、
反論を誤魔化しながら消していく
難しいこと言ってるのとは裏腹に、その本質は非常に稚拙だよね >>255
> このとき、「悟り」も「涅槃」も現実的には何であるか認識不能だから、「成仏」は「自己」にはできない。
>これも大バカだよね。。w
www
認識するものそれ自身は認識されないと思いますけどw
何故なら認識するものを認識するものを認識するものを…‥ って無限退行しますから。 >>263
自灯明が判らない鹿野園君にとっては、全てが無自性だよw >>264
そうそう。犬なのw
カムイに確認したら、議論を望んでは居ないようなので、議論でオナニーする鹿野園は引っ越すべき。 >>260
ぜんぜんそんな問題ではない。。w
定義としてアホだね、と言っているだけ。。
定義になっていないから。。w >>254
>2.実生活での中道のあり方として 少欲知足がまともじゃない理由を上げてくれ。
これの返事もよろしくね😘 >>265
何を言ってるの?w
あなたの頭の中では、認識するもの=悟りか?w
また珍仏教、来たね〜。。w >>268
www
定義も何も仏として行為することが修証一等でしょ?
違うとでも? 鹿野園君。
自灯明してないなら、それは座禅じゃないからw >>256
>二義的に認識して概念化する弊害で、そうしたものは結局は超越理念として扱われるから否定してるんですよ。
それがいわゆる知的解釈による回答というやつで、また、言ってることが矛盾してるでしょ?
自分で、二諦によって説かれなければならない、と言いながら、
二義的に認識して概念化して説明することを否定してるでしょ?
これはね、ちがうんだよ
本当の意味で「二義的に認識して概念化する」ことが否定されることもあれば、
正しい表現として、「二義的に認識して概念化する」こともあるわけ。
それを一緒くたにして、言葉通り、すべての「二義的に認識して概念化する」ことを否定するんじゃ、
じゃあ、そもそも自分が仏教を知的に解釈すること自体、否定しなさいよ、ってことになるよ
境地だろうがなんだろうが、「二義的に認識して概念化する」がなんでもかんでも否定されると思ったら大間違い >>270
そんな話はしてないでしょw
覚りを認識するって事は、覚りの外に観察者を置くことであって、概念化であり超越理念化でしょ。 > 「仏」とは、「仏のように行為する」実存の呼称である、ということになる。
> このとき、「悟り」も「涅槃」も現実的には何であるか認識不能だから、「成仏」は「自己」にはできない。「自己」に可能なのは、「仏になろうと修行し続ける」主体として実存することである。
> すなわち、「仏」は「仏となろうとする」主体の実存様式である以外に、現実化しないのだ。
この時点で、お釈迦様が悟りを開いたという仏教の大前提を否定。。
よって外道の見解。。w
お釈迦様自身も、後に悟りなどと表現しただけで、悟る前から悟りを知っていたわけではない。。
だから、悟る前に認識不可能だから、悟りは不可能、という論理は意味不明。。w
> したがって、修行者が「成仏」したり「悟る」ことはない。
外道の見解。。
> なぜなら、ある時点で「成仏した」「悟った」と「わかった」瞬間、それが認識である以上は概念化するわけで、結局は超越理念として扱われるからである。
>>159にあるように、お釈迦様自身が、超越的理念化している。。w
> それは「観無常」の立場が決して許容しない事態である。
無常だから、超越的理念が不可能と言いたいのか?
論旨が不明。。w
バカなんじゃないでしょうか?w
> そうなると、成り行きは「成仏」「悟り」が無限遠に後退し、現実的に無効になり、修行や坐禅は事実上、ただ坐禅する、ただ修行する、ということになる。「成仏」と「悟り」は坐禅・修行という行為そのものへと脱落されるのだ。
意味不明の独りよがりの結論。。
アホですね。。w 縁起を観察する自分が少なくとも居る訳だから二元だわな。
鹿野園君、君は座禅してないよ。
正師??いるわけねーw >>276
理念化の何が悪いの?w
悟りとか、仏陀って理念化でしょ?
宗教なんだから、あたりまえだよね。。w >>273
www
だから、
>「即無的実存の全身的、直感的な把握は否定してないよ。
>否定してるのは、二義的に認識して概念化する弊害で、そうしたものは結局は超越理念として扱われるから否定してるんですよ。
って言ってるでしょ? >>263
ほら、それだ
駄文じゃなくて、君の駄思想を説明するために、そういう文章になってるんだよ
>無自性でないものを列挙してくれよwww
だから、君のその駄思想の解釈によれば、
無自性でないもの = 「無自性の『もの』」 ということだろ?ww
これが縁起するわけだよな?ww
みっともないな
よくもこんな考えが出来るな
しかも、こんなにわかりやすく自分の非が説明されてるのに、
誰の目にも明らかなのに、それをなお、駄文といってごまかし否定しつづける
完全な議論放棄
完全な敗北拒否(勝利宣言)
ここまでくるともうダメだよね
これでもう、君があきらかに自分の間違いを修正できなかった
反証できなかったということが明白になったよ
「無自性のもの同志が縁起する」
自分の言葉で、自分を瞬殺してるだろw >>282
自灯明が判らない鹿野園君にとっては、全てが無自性さw >>282
鹿野園君が座禅してないって証明だよ。それw
>「無自性のもの同志が縁起する」
仏教を実践して無いと仮説するなら正しいよ。
自分を観て無いんだから。自覚も無い。
鹿野園君は座禅して無いし、正師に付いてるのも当然嘘。 >>226
> したがって、修行者が「成仏」したり「悟る」ことはない。
> なぜなら、ある時点で「成仏した」「悟った」と「わかった」瞬間、それが認識である以上は概念化するわけで、結局は超越理念として扱われるからである。
> それは「観無常」の立場が決して許容しない事態である。
これはよく読むとまったく意味不明だよね。。w
悟りは概念化するから、悟ることはない、という因果関係になっている。。
意味不明な論理。。 >>277
> この時点で、お釈迦様が悟りを開いたという仏教の大前提を否定。。
否定はしてないでしょ?
それ(覚り)が認識として概念化された時点で目的化・手段化、つまり常見に堕ちているということですよ。
> したがって、修行者が「成仏」したり「悟る」ことはない。
> 外道の見解。。
www
無我なのに何が悟るんですか?
何者かが悟るというのであれば無(非)我説と矛盾するって趣旨ですよ。
> 無常だから、超越的理念が不可能と言いたいのか?
> 論旨が不明。。w
> バカなんじゃないでしょうか?w
www
理念化した時点で「観無常」からは外れるでしょ?
お釈迦様もそうしたところ(理念化)に陥らないように「観無常」を説いたんですよ。 >>279
> 理念化の何が悪いの?w
> 悟りとか、仏陀って理念化でしょ?
> 宗教なんだから、あたりまえだよね。。w
観無常から外れる恐れがあるからでしょw >>286
迷悟の元だよね。
仏教を否定するなら、本自体を書くなよという結論。
賞を与えた評論者も、いいかげんアホw >>282
だから、無自性でないものはあるのないの?
ないのであれば当然に現象としてそれを分析した場合、無自性同士で縁起してることに他ならないでしょ?
どっちですか?
無自性でないものはあるのないの? >>288
アホすぎるだろwwwwww
何に対しての無常なのか解ってないwwww >>290
自灯明が出来ない鹿野園君にとっては全てが無自性であってるよw >>287
>「成仏」は「自己」にはできない。
否定してるじゃん。。w
仏教は、わかりやすく言って、お釈迦様が悟りを開いて法を説いた。。
それに従えば、皆悟れる、成仏できるという教えです。。
無我だから、誰も悟れませんとか、パープリンなことを言ってるのはあなただけです。。w
「超越的理念」であれば、現象界の無常とはかかわりないでしょうね。。w
お釈迦様自身が、悟りを否定するために、無常観を説いた?w
そんなわけねーだろ。。w >>290
まだ言ってるねw
実体があるように見えてる、独立して存在しているように見えている
そういうものがある
それは、通常、凡夫が見る世界というわけだよね
だけど、相依性によって成り立っている、
「これがあるとき かれがある これがないとき かれがない」 という説明において初めて、
独立して存在できない、つまり、自性が無いことが明らかになるわけだよ
縁起によって、自性がないことが証明される
自性があると思ってる凡夫の見方が、縁起によって空であることが証明されるわけ
だから、
>無自性でないものはあるのないの?
この質問自体も、的外れなわけよ >>294
>「成仏」は「自己」にはできない。
> 否定してるじゃん。。w
www
仏教では”常一主宰の自己”というのを否定してるんですよ。
その”常一主宰の自己”が成仏するって仏教では説きませんからw >>297
人間はもともと仏だから、誰でも成仏できる、と言うのが仏教です。。w
これを否定したら、外道決定。。w 常一主宰の自己、と、自己は別だろwww
国語が判らないらしいw >>296
www
まだ駄目ですか、分からないんですかw
では、子供にでも分かるように説明しましょう。
無自性の説明として
>それ自身で孤立的に存在する本体もしくは独立している実体を「自性」といい、それを否定して「無自性」が説かれる。
>(wiki daruma から)
ってあるんです。
つまり、自性のある者同士の縁起は否定されるんですよ。
で、例えばAとBが縁起の関係にある時、A・Bは無自性でしょうか?それとも違いますか? >>294
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ龍樹も非有非無
達磨大師は不識と答えていますけどそれ以外で答えられますか? >>300
自灯明が出来ないのは解ったからwwwww >>298
> 人間はもともと仏だから、誰でも成仏できる、と言うのが仏教です。。w
> これを否定したら、外道決定。。w
そんな話はしてませんよ。
誰でも成仏できるかどうかは置いといて、常一主宰の自己は否定されるってことでしょ。
常一主宰の自己っていうものがあってそれが成仏するというのが外道の見解って事ですよ。 >>285
>鹿野園君は座禅して無いし、正師に付いてるのも当然嘘。
これはホント、そう思うわ
そもそも、実践を否定しているっていうのは、すでに明白になったよね
自分で吐露してる
行自体も否定してるしね
>「無自性のもの同志が縁起する」
これがなんでおかしいのか、もっと皆に分かりやすく説明すると、
たとえば、人が「三日月」を見て、「三日月状の部分」と「欠けた部分」、それぞれに実体があると考えたとする
ところが、「三日月状の部分」と「欠けた部分」は、片方があるとき、もう片方も有り、
片方が無いとき、もう片方が無い、
つまり、片方が有るときに、もう片方が無いということはあり得ないし、
片方が無いときに、もう片方が有るということもあり得ない
完全に相依している状態で、単独で実体として存在できない
縁起で一体であるが故に、「三日月状の部分」「欠けた部分」という、実体のように見えていたものが、
実体が無く、無自性であったことが分かるわけだよね
「無自性であった」というのはつまり、「空」であったことがわかるわけだ。
つまり、「三日月状の部分という単独存在」も「欠けた部分という単独存在」も、無いわけ
幻想だったということだよね
それを、「無自性の三日月状の部分(単独存在)」と、「無自性の欠けた部分(単独存在)」 が縁起している、というと、
完全におかしくなるよね
あたかも無自性の単独存在が「有る」かのように語られている
しかも、それが縁起するというのだから、縁起というのは、無自性を導き出す理にも関わらず、
先に「無自性のもの」というものがあって、それが縁起するというのだから、無自性のもの同志がさらに縁起し、さらに無自性になるという、
「無自性」の働きが二つ重なることになる
おかしな話だよね
むろん、こういう考え方は、仏教には一つもないよ
これは仏教じゃない
アホですね >>300 >>303
おまえ、もう自分が何を云ってるのか解ってないだろww >>296
>>無自性でないものはあるのないの?
>この質問自体も、的外れなわけよ
www
的外れじゃないでしょw
自性を有するものはありますか?って事ですからw >>305
www
で、結局何がいいたいの?
仏教で言う自己は常一主宰ではないんですから、その自己が成仏するわけないでしょ? >>305
∞ノノハ∞
川^〇^ハレろんちゃんも言ってたでしょう
知らぬが仏でしょうwww
はい論破♪ >>304
良い譬えだね。
だけど、それはあくまでも仏教をある程度学んだ(実践した)者の見解な訳ね?
鹿野園君は仏教を実践して無いので、縁起が観れない。
なので、鹿野園君にとっては100%無自性が縁起している状態。
今日は鹿野園君の自己紹介に終わったね。 >>308
>で、結局何がいいたいの?
上のレスを読み返してください。。w >>257
良い心がけ、仏教に限らず、多くの教えを知ってごらん、必ず何処かにあなたのピッタリの教えなりが有るから、 ∞ノノハ∞
川^〇^ハレ名無し君は論点ずらししているダケだよwww >>314
これだろうなww
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坐禅と動中の工夫15
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1617445385/294
294 名前:神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2021/04/04(日) 23:42:41.77 ID:kFLklbT1
>>287
>「成仏」は「自己」にはできない。
否定してるじゃん。。w
仏教は、わかりやすく言って、お釈迦様が悟りを開いて法を説いた。。
それに従えば、皆悟れる、成仏できるという教えです。。
無我だから、誰も悟れませんとか、パープリンなことを言ってるのはあなただけです。。w
「超越的理念」であれば、現象界の無常とはかかわりないでしょうね。。w
お釈迦様自身が、悟りを否定するために、無常観を説いた?w
そんなわけねーだろ。。w >>304
>そもそも、実践を否定しているっていうのは、すでに明白になったよね
>自分で吐露してる
>行自体も否定してるしね
実践も行も否定してないだろ。
そうした実践や行が ”>超越的な何ものかと結託して、それを根拠に「自己」を肯定する(たとえば「真の自己」という観念)方法” に堕ちれば、”>所詮「自己」という錯覚から修行者を離脱させない” からこのスレで警鐘をしてるんだろ?
現にバカムイがそうなってるんだからw >>317
鹿野園君も
俺様正しい
俺様勝った
の自己肯定でクルクル回ってるだけじゃんw 少し禅を齧った方なら知ってるでしょ。
”鑑覚に守住するな”って事ですよ。
法を得ただの俺以外は分かってないだのってねw
…そもそも見性もしてないのに。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています