マインドフルネスPart.36
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※「正統派マインドフルネス」とされるジョン・カバットジン博士
※またその源流である道元禅、禅宗を尊重しましょう
※テーラワーダ理論はあくまでパラダイムの異なるもの
※(大乗に包摂されるもの)という諒解でお願いします
マインドフルネス瞑想は、宗教色を抑えて広く活用されやすくしたものですが、その元には宗教があります。
そこで当スレでは、マインドフルネス瞑想を主として、派生的に、あるいは根元的に宗教的な話をしましょう。
当スレで採用するマインドフルネス瞑想の定義については、Wikipediaをご参照ください。
マインドフルネス - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/マインドフルネス
『マインドフルネス(英: mindfulness)は、今現在において起こっている経験に注意を向ける心理的な過程であり、瞑想およびその他の訓練を通じて発達させることができる。
マインドフルネスの語義として、「今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること」といった説明がなされることもある。』
マインドフルネス瞑想は、その源流となった仏教瞑想を越えて、広い範囲でマインドフルネスの名称が冠される状況であり、宗教、健康法、心理学の各分野に今や広い裾野を持っています。
当スレが話題の対象とする「マインドフルネス瞑想」は上記定義のものですが、それ以外のマインドフルネスを冠する技法や、
瞑想一般の話題、呼吸法、マインドフルネス状態を喚起する瞑想以外の方法についても、禁止ではありません。
単発IDであっても過剰な発言量にならないよう程々に情報交換しましょう。
また、感情的なレスのやり取りは周りにも迷惑ですので控えてください。
前スレ
マインドフルネスPart.35
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1598869419/ >>748
悟ったかどうかは悟った人にしかわからない
尤も、僕は悟りとは関係ないのでどう思われても構いませんが 理解した、わかった←わかってなかった
あれだけのスピードで長文で説明した労力は無駄だったようだ
がっかり
>>663読み直してね シャボン玉ホリデーてこのおっさん何歳なんだよ
アラ還か? >>754
信じたいことを信じこむだけなら、別に人に尋ねることはない >>753
実際見たことはないよ
大人の人が話してるのを聞いたことがあるだけ 何だろうな、こうしてニセモノに騙されて道を間違ってく若者を見て
誰も気にかけないというのは??
禅定はサトリではない、これ全くの仏教無知の頃の自分でも知ってたけどね?
戒定慧、定がなかったらヴィパッサナーやマインドフルネスなんか成り立たない
若者がそんなことも書いてないインチキ本ばかり騙されて読んだ、ってことだよね
彼を馬鹿にしてるわけではなくて、売らんかなの出版が悪いってことね
何年経ってもそれが認められないらしいハマーンは脳の病気かなんかだろうから
まあ仕方ないと思うが… >>751 自己レス
わからないことを「わかった」ことにしたい人はみんなこうなる >>732
去ったあとかな?他のROMの人に向けてもレス。
悟りは目指さなくていい、仏も涅槃も目指さなくていいよ。寺に入る必要もない。
ただ言いたいのは真理(マインドフルネス)の道は一本道なんだ。
マインドフルネスを求める過程でその人の真の成功や幸福もセットでやってくる。
僧侶ならそれが僧侶の在り方として現れるだけで、在家なら在家のその人なりのありのままの在り方がやってくる。在家ならなにも宗教家として生きる必要もない。
その在り方は凡夫の意識の妄想願望とは違ってるかもしれないけど、やってきたらそれを真に求めていたと分かるはず。
少なくともマインドフルネスを観た人は死の恐怖は克服し、リアル生活では衣食住などに困ることはないでしょう。
仏教というのは今現在、マインドフルネスの道を1番論理的で、1番真理を正確にあらわしているので、このスレも一応自己啓発板ではなく宗教板としてやってるけど、
ホントはマインドフルネスは宗派も哲学もスピリチュアルでもあんまり関係ない。
目に見えないものを信じる力という意味では宗教というポジションが落ち着くけどね。
そしてそのマインドフルネスを(深刻な精神病に寄り道することなく安全に)求めるには瞑想や座禅しか方法が、今のところはないんだ。この先も瞑想や座禅しかないと思う。
動きや達成感を伴うやり方はメソッドとしてはイマイチなんだ。場合によっては精神病などの危険も伴う。
修業に達成感はむしろアダとなる。必要なのは無条件降伏。 >>748
禅定を経験すると、瞑想的意識や仏の意識を持とうとしなくても自然とその立場に立ち戻る。
あなたが、もともとずっとあるすべてを見るている感覚はあるということで、それは禅定経験するとそうなるのは確かなのだけど
話してる感じから禅定は経験してないようです。
もしかしたら近いのかもしれません。(安易なことは言えませんが)
いずれにせよ瞑想的感覚だけあっても解決しないし、近いのならなおさら瞑想修業したほうが良いです。
しかも禅定が来てからが本番で、これまたなかなか苦しい修業なんですが(^_^;) 近いという意味では、ハマーン北川だって近いと思ってるよ。その基地外ぶりというかハチャメチャぶりがね。苦しみも行き過ぎたらひっくり返ることもあるから。
アスさんもきっとそう思ってる。だからここまで根気よくやり取りしてるんじゃないか。
でも近そうに見えても、トリックアートのもう片方の見え方が、これがなかなか出来ない。 『教理をしっかり理解していない人が瞑想などによって、下手に言語慣習の剥落を経験してしまうと、言葉の消え去った心的状態というのは、事物の区別、自他の区別がなくなってしまうことですから、誤解が生じやすいのです。例えば「世界の実相そのものに触れ、それと合一を果たした!」というふうに、神秘授業中的な意味づけをしてしまう。』
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
『唯一の比類なき「この私」を起点とするというと、仏教は「無我にて候」ではなかったのか、などと反論されかねませんが、私は入り口は個人主義でなければならないと思っています。端から縁起説的な関係主義ではいけない。なぜいけないのかというと、その相互依存的な関係性ないし共同性を、個を、超えた"より大きな主体性、大我"と誤認する心の働きが生じるからです。個我の不全感をナショナリズムによって補完するみたいな話ですね。この大我には「この私」が仮託され、投影されています。無我どころか肥大した自我を呼び出してしまう。』 こう言えばよかったかな?もう居ないだろうけど
悟った人にしか悟ったかどうかはわからない
それと同じで
主体変更、ジャンプはした人にしか、したかどうかはわからない
呼吸見えてないことは、呼吸見えてる人にしかわからない
旅行の話は行った人にしか真贋はわからない
わかってない段階で頭で考えても無駄だからね、ホントに
旅行ガイドブック読んでもすぐにバレるので
アタマで考える前に事実を確かめることだ
ガイドブック読んでわかったつもりになってるとハマーンになる:D つまり、何もわからないのに意識が二つあるなんて話を延々と聞かされて、二つの意識を想像して、絶望や挫折をしなきゃもうひとつの"意識"には入れないなんて話を聞いて絶望を意識的に目指すようになって、
結局こんなスレ見てたらロクなことにはならんつーこった 禅定は、坐禅の度に毎回、安定してサマディに入れる境地で、五自在を備えおり、再現性があります。
一方、「禅定を経験したことがある」という言い回しからは、安定性、再現性が読み取れません。
たまたま経験に達したことがある、というニュアンスが濃厚です。
単発のサマディ体験で、再現性がないものは、正式な瞑想指導においては、基本的にノーカウントです。
それは、まだ禅定とは言いません。
在家の独学で禅定は、まず基本的に無理じゃないでしょうか。 もしも瞑想にオリンピックがあったとしたら、
自宅での独り自主トレで、オリンピック出場レベルの実力を身につけた
と言っているようなもので、非常に疑わしいです。
本当に禅定に達した人なら、5ちゃんで軽々しく禅定、禅定とは言わないでしょう。 一方、本当に禅定に達した人を誹謗するのは、修行者自身にとって大変な不利益となります。
出家修行者(比丘)や真面目な在家の瞑想修行者の言葉ならば、まず素直に耳を傾けるべきです。
しかし、故意ではなく勘違いからであったにせよ、禅定に達していない修行者が、禅定に達したと
思い込むと、そこで修行がストップしますし、瞑想についての言葉も嘘、妄言となっていまうため、
これもやはり本人にとって大変な不利益です。 禅定を経験したことがある、という言い回しに拘ってる禅定未経験者がいるね。
禅定は第一禅定に入ればあとは道は決まっているのでこのように言ったまで
(ただしどれだけ時間がかかるかは人による) また禅定経験した人なら、
例え話でも瞑想をオリンピックに例えることはあり得ないね
自主トレとか関係ないから。
ていうかこれ、ハマーンが定期的に貼ってるレスだね オリンピックのたとえは、昔スマナサーラさんが使っていたものと同じです。 >>716
この部分は小難しく考える必要があると思うよ
なぜなら、根本的な理を得ないと、修行の方法が何をやっていいのか分からなくなるし、
どれが正解だか分からなくなる
>>717
「現状維持」という言葉を「ありのまま」という言葉に置き換えてみよう
この「ありのまま」には、ネガティブな意味合いと、ポジティブな意味合い、
二つの意味合いにもとれる
間違った道をそのまま歩き続けるという「ありのまま」と、本来の道に戻る、
戻す、という「ありのまま」
今の否定というのは、>>710の、
>おん身は目標を追い求めて、目の前にあるいろいろなものを見ないのだから
ということ
>>719
もちろん、思考を関与させるところではないけど、かといって、多くの人は
なにがしかの「結果」を求めてるでしょう?
この「結果」を求めるというのが、思考が働いてる証拠
しかし、大局的に結果を求めることは、これと分けて考える必要がある
行に入る前の大局的な結果を求めるというのと、行そのものが結果を求める行為になってるというところ
高度に理を突き詰めていけば、結果を求めない方法によって結果を求めるという
方法論を編み出せると思う >>721
これはいい文章だね
まさにこれは正しい
で、
>一旦アレコレやってたのは諦めて瞑想するしかない。
ここが重要なんだよね
この方法、
修行の仕方とか、考え方
昔みたいに覚者に付いてただ黙って修行すればいいってことが
出来ない時代になってる
やるとしたら、一人でやるしかないんだよね
大抵のマインドフルネス指導者は本当の理を分かってないから、
絶対に上手く行かない
理を突き詰めていけば、一人でも、絶対にやれる方法があるはず
そしてそれは複雑なものではなくて、考え方としてはシンプルだ
だけど、そのシンプルな考え方に到達するまでには、
複雑な洞察が必要になってくる >>721
これはいい文章だね
まさにこれは正しい
で、
>一旦アレコレやってたのは諦めて瞑想するしかない。
ここが重要なんだよね
この方法、
修行の仕方とか、考え方
昔みたいに覚者に付いてただ黙って修行すればいいってことが
出来ない時代になってる
やるとしたら、一人でやるしかないんだよね
大抵のマインドフルネス指導者は本当の理を分かってないから、
絶対に上手く行かない
理を突き詰めていけば、一人でも、絶対にやれる方法があるはず
そしてそれは複雑なものではなくて、考え方としてはシンプルだ
だけど、そのシンプルな考え方に到達するまでには、
複雑な洞察が必要になってくる >>724
>その手前からもう一つの意識はある、元々あるもの
>だから人は割と簡単に「無」を見ることも出来る
この二つの意識なんだけど、一つは思考を介在しない、ありのままを観察している意識と、
もう一つは思考としての意識だよね
なので、大きく簡単に分けると、思考と意識、といった方がいいかもしれない
それで、人は簡単に無を見れるということだけど、これはなかなか難しいと思う
なぜなら、人間の思考はあまりにも強固だから
修行の最中にまで、いつの間にか思考に支配されてることがある
無に向かってるつもりが、思考で無になろうとしてる、
なんてことが
>しかし、そこでの観察者は普段の意識の延長なので、そこは+/-ある
観察的な意識は、思考の延長じゃないよ
だから、+−の一切無い状態
>自覚的には無であってもそこには執着、分別が起きる
これは意味不明
ありのままの観察意識になれば、執着分別はまったく起きないよ
なぜならそれらは思考の産物というか、思考そのものの働きだから だいたいそのとーりだけどここで連投してる連中は重箱の隅つつく性癖に始終巻き込まれているから色々言い返されそうだな 俺はたまにしか見ないし数日に1〜2回しか書き込まないけどね >>766-767
聖職者になるためのシステムで必要なんだろうけど
マインドフルネスには関係ないな
本質的にズレた話 >>773
小難しくできるだけシンプルに考えてみます。
普段私たちは、当たり前のように思考に一体化しています。+ーを判別解釈する自我装置にも
でも、言われてみれば、思考が展開するさまを意識すること、+ーを判別解釈する自我装置のさまを意識することは、落ち着きがありマインドフルであれば、いつでもやろうと思えば誰でもできる。
手や指がゆっくり動いているのを意識するように
ただ、長続きしない、気がつけばいつの間にか呑み込まれ引き摺られている
日々の慌ただしさの中で、醒め覚め続けることがなかなか難しい
さて、どうしましょう?
嫌気さして涅槃にジャンプ? >>776
そこは君の事を言ってる訳ではないよ
そうじゃなくて、その違いがわかるかどうかが知りたかったんだけど
+/-が無いと感じるところで実は思考から抜けていないところというのはある
自覚的には執着分別もない
非二元的な観察的な意識だと思い込むことも出来る
これがわかるかどうかなんだけどね
これは特徴的なことがいくつかあるんだが、君のレスからは読み取れなかったんだ
最近、指差し確認スレ見て来たんだけど
僕が言ったところに陥って魔境さまよってる人のレスが見られる
あのメソッドは疑似二重構造を体験しやすいと思うが決定的に足りてないと思う
以前、非二元からのマインドフルネスを説明していた人も同じだね >>782
彼はどうかわからないと思ってるが
お前はわからないから出てこなくて良いと思うよ
呼吸も手動瞑想の手も見えないだろ:D >>781
たまたまなんかの弾みで、スンゴイことに3回なったけど、安定性も再現性もないからノーカウント >>782
> さて、どうしましょう?
> 嫌気さして涅槃にジャンプ?
嫌気ではないんだよ、未だに全くわかってないな
事実、どうにもならないからジャンプする
麻墓だな >>788
瞑想してに決まってるでしょ
けど、マインドフルネスというのは常にそれの再現でもある >>790
だれかそんな話をしたのかな?アンカーミス? >>790
で、お前は手動瞑想の手は見えてるの?見えてないの? >>791
涅槃にジャンプしないと、マインドフルになれないでしょ
涅槃にジャンプするのにどんな瞑想してるの?
マインドフル抜きの >>793
マインドフル抜き?アンカーミス?
誰かそんな話してたっけ?
で、お前は手は見えるの?見えないの? 二重構造なんだから涅槃はイマココ:Dにある
ジャンプしなくてもマインドフルネスが起きるが、ジャンプしてないと起きない
放逸があれば瞑想しないとマインドフルネスは損なわれる
だから正定すなわち禅定が必須なんだよ
テーラワーダみたいな出家者にとっては常に正しく法を説く責任があるだろう
だからプロとして厳密に五自在も求められるだろうが
それは本質的なことではないと思うね
五自在に拘るなら、道元禅師はどうなるのか
そんなこと説いてないだろう
なら、彼の坐禅は禅定には入ってないのかな
そんなことはないよ >>793
〈今〉とか蒼穹とか言っちゃってるけど、手も見えないんじゃないの?
呼吸見えないのはわかってるけどさ
揚げ足鶏さん
さて、今朝はここまで >>794
アンカーミスではありません。
大丈夫?
あなたは何を実践していますかと問われて、具体的なことは何も言わず、はぐらかし拡散ぼやけ続ける
例えば、こんなことしています
>>514
仏像やなんか写真を1〜2m前に置いて坐り、集中して没入している
とか、これはこれで実際そうならば、自信を持ってそう言えばいいのに >>795
> だから正定すなわち禅定が必須なんだよ
一般的な仏教では定ではなく止を必須とすることが多いが、
八正道の正念と正定は逆にした方が手っ取り早いということか しかし正念と正定を逆にすると魔境にはまるリスクが高くなる 5ちゃんに課金するほどはまって、精神が不安定になるくらいカフェインをとる人だから >>798
そんなことは訊いてないでしょ
訊いてるのは、手が見えるのか見えないのか?だ
ハマーンは詰問はしてくるが、答えないよなぁ
見えてないのはわかってるけど
それ答えたら呼吸見えてないことも認めなきゃならないからトンズラするわけだ
自分のことは隠して「誰がこう言った」と都合の良い武器に見立てて殴ろうとするけど
そんなこと君には言えないことはバレバレなので:D
ほんと、そのゴミみたいな行動パターン止めなよ:D
>>802
魔境に「ハマる」なら正定ではないですよ 朝っぱらから一時間の動画なんか見てられないんですがね?
こちらは「ほぼワンダルマ」と繰り返し言ってるんでね
仏様をどうこうはトム向けのレスだよ
仏像でなくても何でも仏だから僕は仏像飾ってない
ちなみに、手なんか目をつぶって坐ってすぐ見えるよ楽勝(^^) 北川自演失敗乙
夜中のこれらも北川確定
>>779
>>780 >>795
なるほどなるほど
ジャンプしてない人にもマインドフルネス的な部分は見受けられる(ジャンプしてないときの自分のことを考えたら尊敬に値するのだが)
けど、そのマインドフルネスは仮の状態で、瞑想修業して定を得ないと、いつかは損なわれるものってことかー >>805
ビリビリ瞑想と違って、手動瞑想は別に手を見ているのではないんだけど
大丈夫?
何を観ていると思いますか?
その実践、理論両面の礎はそれぞれ何だと思いますか?
な〜んて詰問は二人組にはしません >>808
第五図は「生まれても居なければ死にもしない命」「死んでも死なない命」だから
本当は二重構造というのは人間誰でもなんだよ
それが仏性ということ
しかし、エゴとかシンキングマインドと呼んでる第四図の自分がいて
みんなそれだけが自分だと思い込みやすいからね
第五図から見ることが出来なくなる
それが「蓋」をして光を閉ざして無明になるということ
一瞬くらいは第五図が出てくることは誰だってそりゃあるだろうし、無碍に否定しないけど
それを意識的に、反応に反応して反応しない練習をするなんてことでは出来ないよ
それは第四図だから
仏教用語を自分の解釈しうる概念として仏法、佛世界を構築してしまうと
それも第四図になるし抜けるのは難しいと思うよ
だから、草木が仏だ、などと言ってやる先生が必要になる
本当を言うと定、禅定という言い方も第四図的に解釈されちゃうから(^_^;)
定とは呼んでない事が多いわけ
ボカしてるんじゃなくて通じる人には通じる
それが通じないからハマーンは第四図なわけだ:D キタガワガー キタガワガー キタガワガー
「北川には執着していませんよ」 >>810
> 810 ハマーン・カーン 2020/09/23(水) 11:55:36.76 ID:iXJx95mp
> >>805
> ビリビリ瞑想と違って、手動瞑想は別に手を見ているのではないんだけど
> 大丈夫?
大丈夫?
僕が言ったのはこう
>>805
> ちなみに、手なんか目をつぶって坐ってすぐ見えるよ楽勝(^^)
対象を見ようとしてるのがハマーン
「見えてる」のが僕
手動瞑想はやらないので、手が見えてるかどうかだけを話題にしてますよ
> 意味盲人のハマーンさん 手が見えなくて理論もへったくれもないでしょ:D
これだから、ハマーンは:D 礎は涅槃だね
それ以外には礎なんて何も無いよ
一文字もルアンポー師の言葉を知らなくともそれだけは間違いないなぁ〜
ただし、ハマーンの第四図仏教でどう解釈されてるかは
こちらの測り知れぬ無知蒙昧妄想世界だからね
手が見えないんじゃ:D
何を対象としても見えないわな:D
見てるのはハマーンの思い描いた映画だよ:D
理論??はぁ??:D
>>818
お前に言ってない どのみちハマーンは完璧に近い意味盲人、行間読めない人、日本語読めない人なので
何がポイントなのかわからんわな:D >>817
北川麻子さん
本当の名前で呼んであげました:D 7回中5回ハマーンと書き込んでもハマーンには全然執着してないですよ
僕が悪いんじゃなくて全てカフェインが悪いのです >>820
完璧に近い意味盲人、行間読めない、日本語読めない、ポイントを把握できない
そう言われ続けて生きてきたのね
ご愁傷様 >>807
お前この前も俺のこと北川だって妄想してたよな〜
確定妄想大好きなんだねえホント 結局手が見えないことを認められないハマーンはファンネル飛ばしてトンズラ:D >>827
通信簿には流石にここまでは書かれないか
総合して、「注意力散漫」
じゃね >>832
ハマーンの通信簿
一学期 注意力散漫、意味盲人
二学期 注意力散漫、意味盲人
三学期 注意力散漫、意味盲人
こういうこと?>< >>818
何時もポイント外してるお前に言われてもね
お前が読めてないだけなんだよなぁ
> 818 ハマーン・カーン 2020/09/23(水) 12:29:52.73 ID:VwzdeHtJ
> >>812
> 口数が多いだけで、要領を得ない駄文 注意力散漫では呼吸も手も見えませんわな:D
北川麻子こと麻墓ショーコさんみたく:D カフェインて妄想出るのかね?
ただでさえキチガイなのにカフェインでオーバードライブして妄想見えてたらヤバいな 行間の読めなさもハマーン=単コロ助なんだよなぁ
自演失敗するところも同じ
自分がわかってないことに無自覚な点も同じ
何でこう同じなんだろう
不思議だなぁ〜:D 何十度も言ってるけど
わからないことを「わからない」と事実ありのままに捉えること
それは評価でもないし、認識ですら無い
何故ならありのままだから
これ超重要だと思うから繰り返し繰り返し言ってるんだけどね
何故重要かわかるかな?麻墓&単コロ助(思いっきり重複してたら失礼) ハマーン、北川、メーテルをNGに入れたらほとんど何も残らない透明なアスペ 61 :偽和尚(白蓮華) ◆aCQE5.Z6UMcu :2020/05/12(火) 03:31:03.69 ID:MFGJYn2N
ここだけの話じゃがマインドフルネスは眉唾じゃぞ
あのスレを見てみろ
魑魅魍魎に満ちておるぞ
仏教哲学
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1588682951/16 単コロという地縛霊フルネスがへばりついてるからな:D 皆さんこの詐欺師ニセモノに騙されないでね(^_^;)
↓
北川麻子(進撃のカレーパン、ハマーン・カーン、メーテル、あっちゃん、単コロ) 単コロって誰のこと?
回線コロコロしてるアスペのこと? これだけ質問から逃げまくるんだから詐欺でしょ北川は
ファンネル飛ばして目立つやつは全て潰してきた
何故?
自分の商売に誘導する以外に何がある
瞑想からっきしな北川が ア○ペをコテから外すアスペ
ひょっとして気にしてたのか???w >>812
そっかそっか「蓋」はわかりやすいね。
ジャンプしなくても蓋が開いてる人もいるけど、それはいずれ閉じることもある蓋。
多くの人は歳を重ねると少しずつ蓋が閉じてくる。
その蓋に覆えば覆われるほどいつか地獄のような現実が広がるかもしれない。
それは必ずしも社会的犯罪者とは限らない、いわゆる善人にも起こり得る、またそのような人蓋があることがなかなか伝わらないから、生まれてくるということは恐ろしい。
マインドフルネスは蓋が開きっぱなしになることね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています