>>941
宇宙(世界)そのものが消滅(帰滅)を繰り返している論は、長部経典の梵網経や起源経などでブッダが説いていますね。
起源経
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=951429&;id=30601040
(宇宙帰滅論は内容の違いこそあれインド哲学全般に見られるようですが)

相応部では無始相応として、「比丘たちよ、輪廻はその始めもなきものであって、生きとし生けるものが、無智に覆われ、貪欲に縛せられて、流転し、輪廻したる始原は知ることを得ない」と。

ということは、宇宙が帰滅しても業は消えないということになりますかね。

「中論」第一一章 前後の究極に関する考察
一 偉大な聖者は、『以前の究極(はじまり)』(括弧:J追加)は知られない、と説かれた。何となれば、輪廻は無始無終であり、それには始まりも無く、終わりも無いからである。
二 始めもなく、終わりも無いものに、どうして中があろうか。それ故に、ここでは前も後も同時も成立しえない。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&;id=9507546

おっと、この章も宇宙論ではなく無自性の証明論?でした。

でも
「中論」第二七章 誤った見解の考察
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&;id=9530389
では
一九 もしも或る人が、どこから来て、またどこかへ行くというのであるならば、その故に輪廻は無始の者となるであろう。しかしながら、そのようなものは存在しない。
とも説いているんですよね。
この一九章で言いたいことは、輪廻に始まりがないならば輪廻が尽きる(解脱する)こともなくなるだろうからそれはあり得ない、ということのようですが、一一章との整合性はどうなるのでしょうか?w