>>930
仏教では人に我ありとすることは出来ないので、法有我として諸行無常を説明する必要があった、というようなことを中村元先生が「龍樹」の中で書いていましたよ。

>部派教団の多くは、釈迦の教えに従い、諸行無常を説き、我(アートマン)を否定する一方で、独自に法(ダルマ)の実有を主張しました。
>特に強く法の実有を説いたのが、説一切有部でした。法(ダルマ)を精緻に分解してみせることによって苦を滅し、涅槃に至る道を示そうとした説一切有部にとって、世界の真理を言葉で説明することは、どうしても必要なことでした。
>そのために、釈迦の教えから一歩踏み込んで、スヴァバーヴァ《常にそれをそれであり続けさせているもの》を前提にすることによって、世界を法(ダルマ)の観点から体系的に説明づけたのでした。

>説一切有部は、アートマンのような実体を認めず、一切の存在は刹那刹那に生滅変遷すると説きましたが、その一方で、法(ダルマ)とは自然的存在を可能ならしめているあり方であり、諸行無常を諸行無常たらしめている無常ならざるもの(=スヴァバーヴァ)を想定することによって、この世の無常を説明しました。
>思えば、これは、しごくまっとうな考え方です。この世の真理を何らかのルールで説明しようとした場合、無常なる存在を無常ならしめている、より高次の原理があるのではないか、と考えるのはごく自然の流れであり、現代の私たちにとってもまったく違和感はありません。
>説一切有部は、さらに、「諸行は無常である」という命題自体も、変化しない真理(=スヴァバーヴァ)といえるのではないか、と考えたのだと思われます。
>このような高次のあり方そのものが、法(ダルマ)の領域で「もの」として有る(=実有)、自性として存在する、とされたのです。

>大乗仏教が批判の対象としたのは、まさに、この点でした。
>釈迦が説いた諸行無常の世界をより体系的に説明するために説一切有部が拡大解釈してしまったわずかこの一点に対して、大乗仏教徒たちは、痛烈な批判を加えたのです。

般若心経解説サイトからの引用ですが(NGワードに引っかかるようでURLの貼り付けはできません)、このサイト主の主張は中村元先生の「龍樹」に書いてあることのまさに要約ですね。