>>921
多分、無限遡及ということになるのでしょうが…

説一切有部だと諸行無常という詩句時代に自性があり、五位七十五法の中の心不相応行法にある句身・文身が諸行無常の詩句を実体たらしめるので、諸行無常という命題は変易しません。

また般若-中観だと
大智度論巻四十三には

また次ぎに、常は、是れ一辺なり、断滅は、是れ一辺なり。是の二辺を離れて、中道を行ずる、是れを般若波羅蜜と為す。
又復た、「常、無常」、「苦、楽」、「空、実」、「我、無我」等も、亦た是の如し。
色の法は、是れ一辺なり、無色の法は、是れ一辺なり。
「可見の法、不可見の法」、「有対、無対」、「有為、無為」、「有漏、無漏」、「世間、出世間等」の、諸の二法も、亦た是の如し。

復た次ぎに、無明は、是れ一辺なり、無明の尽くるは、是れ一辺なり。
乃至老死は、是れ一辺なり、老死の尽くるは、是れ一辺なり。
諸法の有は、是れ一辺なり、諸法の無は、是れ一辺なり。
是の二辺を離れて、中道を行ずる、是れを般若波羅蜜と為す。
菩薩は、是れ一辺なり、六波羅蜜は、是れ一辺なり。仏は、是れ一辺なり、菩提は、是れ一辺なり。
是の二辺を離れて、中道を行ずる、是れを般若波羅蜜と為す。
(略)
須菩提の、舎利弗に語らく、『若し、菩薩摩訶薩は、般若波羅蜜を行ぜんと欲する時、色を行ぜず、受想行識を行ぜず。色の相を行ぜず、受想行識の相を行ぜず。
色、受想行識の常を行ぜず、色、受想行識の無常を行ぜず。
色、受想行識の楽を行ぜず、色、受想行識の苦を行ぜず。
色、受想行識の我を行ぜず、色、受想行識の無我を行ぜず。
色、受想行識の空を行ぜず、色、受想行識の無相を行ぜず、色、受想行識の無作を行ぜず。色、受想行識の離を行ぜず、色、受想行識の寂滅を行ぜず。

何を以っての故に、舎利弗、是の色なる空は、色に非ずと為す。
空を離れて色無く、色を離れて空無し。色は、即ち是れ空にして、空は、即ち是れ色なり。
受想行識なる空は、識に非ずと為す。空を離れて識無く、識を離れて空無し。空は、即ち是れ識にして、識は、即ち是れ空なり。
乃至十八不共法なる空は、十八不共法に非ず。空を離れて、十八不共法無く、十八不共法を離れて、空無し。空は、即ち是れ十八不共法にして、十八不共法は、即ち是れ空なり。

と例の如く常・無常に捉われず(これらの対立は第一義では無分別により成立しない)中道を行ずるべし、それが般若波羅蜜である、と説かれています。