>>64
>>62にあるように、
従来の風土、慣習、文化、雰囲気、といったものが無意識の圧となって、
行動(自分たちの生き方ルール創設)に至らなかった、と。
経典は、教理だから、本筋は仏陀に通じている、という体裁がとれるけど、
律、受戒は、釈尊その人によって定められた「具体的内容」であって、
本質云々の話じゃすまない。
(本質云々なら、現代日本仏教も形は破戒かもしれないが、本質精神は護戒だという言い訳が立つ)
ましてや、授戒の作法となれば、
それは、仏弟子としての儀式だから、「変える意味や都合」もなかったろうし。
違う国・地域、違う風土・文化の中へ入っていったとき、初めてそれらが要請されてくる。
律の細部の違いの多くは、その辺に由来してるんじゃなかったかな。
で、それが、比丘の姿勢・生き方に関する領域に及んだ時、
「十事」や「五事」或いはデーヴァダッタの事件となる、と。