狂った物質文明と人の心
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こうした「物質文明と精神文明の対立」という煽りかたは、キリスト教文化圏で生まれたものであり、
キリスト教的な価値観で現世を否定するものでしかない。
「人類はオッペケペーとズビズバの対立した社会で生きてる」と言っても、
「そのオッペケペーとは何なんだ」としかならないが、
我々は既にキリスト教的な価値観に汚染されているので、
「そうだ、物質文明とは悪なんだ」と騙されてしまうわけだ。
争いは対立から生まれる訳だが、
かの邪教は、対立を植え付けて争いを煽りながら、平和を唄って来た訳。
この悪魔の呪縛こそが人類の抱える宿痾であり、
人類の敵となって久しい共産主義もまた、このキリスト教の亜種に過ぎない。
(^。^)そして世界はキリスト教的正義対共産主義という悪夢の世界へと。(笑) 日本弁護士連合会のサイトの中に
「反社会的な宗教的活動にかかわる消費者被害等の救済の指針」
https://www.nichibenren.or.jp/activity/document/opinion/year/1999/1999_13.html
という日弁連が出したPDFファイルがある
(1999年3月26日)
内容は、法律家の立場から、今なお問題が多い霊感商法に対して一つの意見を提言する、というもの
なかなか興味深い資料ですな 人は、物質的な豊かさ、幸せを求めて 来ましたが ・・・
1 産業革命( 資本主義 )
● 人の考え方・行動を、ベルトコンベア式、単一的、機械的にし、人を製品化しています。
人間の個性、自由性、精神性が認められない。
社会のシステムに合わない者は除外され、人間の差別化が起こる。
人間関係の軽薄化。 家庭破壊。
現代の「 姥捨て山 」現象の出現。
産業革命は、必要なものですが、
その取り組みに、失敗したのです。
「 弱肉強食 」( 権力・知識 )が支配する社会となる ネットの発達
人間関係の軽薄化
いじめ
パワハラ
暴力
人と人との貶し合い
差別
仕事のストレス
勝ち組負け組
競争社会
子どものころから勉強,受験,上を目指せという教育を受け,
物質文明至上主義の中で育って ...
そのあまりの変化に人間の心がついていけていないのです 現代人は、現状に感謝できず欲望が暴走しているとよく言われていますね。
こうなる原因はいろいろとあると思いますが、物質文明の発達による人間関係の希薄化がひとつの原因だと考えています。
野生の動物たちがそうであるように、
またかつての人類が長い間そうであったように、
本来の大自然で生きるということはとても過酷で、お互いが心を通わせながら、
助け合ったり、分け合ったりして生きていく必要があるのです
しかし現代は、家電、コンビニ、インターネットなど便利なものがあり、
交通やインフラなども整備されているので、人と中身のある交流をしなくても生活が成立してしまうのです。
そして、これが「ひとりでも生きていける」という錯覚を生み出し、感謝をしなくなる原因になるのだと思います。
物や環境さえあれば一人でも生きていけるような社会が形成されてしまえば、
それを満たせるお金や地位に執着してしまう。また、
心の隙間を埋めるかのように欲望が暴走してしまえば自分のことで精一杯になり、周りのことも考えなくなる。
そしてつながりに感謝することをしなくなる。 権主義に走る人、犯罪を犯す人、精神を病む人が増えていますが、
このような人間関係の希薄化が原因となっている場合もあると思います。
そういう人ほど、「自分のことを分かってくれる人はいない」と言いますが、
とても危険だと思います。より人間関係が希薄化していくのです。
松下幸之助さんの言葉をシェアします。
『きょうこのごろの世の中、心のぬくもりの何とうすくなったことか。
頭がよくて、口先が巧みで、理が立って、それでなお寒々とした心の気配しかつたわらない人の何と多いことか。
そうした人と人との交わり。そこには、ジーンと胸にひびく感動もなければ、互いに募い寄る情感も生まれてこない。感謝の心がないのである。
ありがたく思う心がうすれたのである。米一粒にも天地の恩を感じ、人の情けに涙したあの日本人の心のぬくもりはどこへ行ったのであろう。
音もなく崩れゆくこの日本人の心を、慄然とした思いで省みたい。このままでよいのかと問いかえしてみたい 人の暖かみ全て奪われ、隠されてしまい、無責任な利己主義・個人主義の、人を信じられない、孤独な冷たい社会を作ってしまいました。
人間関係が壊され、私達が喜び・幸せに生きて行く上で、一番大切な根本となる家庭・夫婦関係を崩壊され、少子高齢化社会、未来のない、夢のない、希望のない社会を作り上げてしまいました。
将来の夢・希望・生き甲斐を奪い、悲観的で、「 どうでもいいや 」と焼けっぱちに成る社会、犯罪の横行する社会にしてしまいました この様に、西洋から発生した現代の文明は、
人は、心と体から出来ているにも拘らず、
あまりにも、
物中心の「 衣・食・住」の豊さを求めて行ったために、
心・心情( 思いやり )、「真・美・善 」の世界が消え、
そして、 ( 物質的、科学万能主義となり、
また、人間が物・道具として扱われ、物に支配され奴隷となり )
人間の 心が荒れ、人間関係の 希薄化・孤立化 が起きたり、
人間を 価値のない物・無力な物 にしてしまいました。
人間は、孤独な寂しい存在 になりました。 その結果、
心〈 心情 〉の世界 や
見えない世界が否定、分らなくさせられ
自殺、離婚、結婚、少子高齢化問題、家庭の孤立化・崩壊、
引き籠り、いじめ・虐待、様々な事件
などの問題を引き起こし、
心の問題 や ストレスに起因した、原因不明の病気、難病、
成人病、癌、認知症 など不幸な病気を、作って来ました。
経済状況も、世界的に悪く、良い方向が見えず、天変地異や
テロ( 宗教戦争 )など、不安が増える一方、となってしまい
ました。
そして、人々は、何が正しく間違いか分らなくなってしまい、
混乱しております 狂った物質文明?笑わせないでよ
gapminderでググりなさい 人類を進歩させてきたのは紛れもなく物質文明
精神の豊さの名の下に物質文明の発展を捨ててはいけない 宗教の創始者たち(イエス、ブッダ、老子)は、
宇宙の本質とは何か、
精神的な本質とは何か、
現実の本質とは何かについては、
それぞれ独自の考えをもっていて
相いれなかった。
しかし、道徳的な教えに関しては、
彼ら全員が一致している。
たとえば、物質的な富の追求は
間違った目的であるという解釈である。
また、没我性と他者への愛を持つことこそが、
人生における幸せと成功の鍵であると
口をそろえていっている >>15
あなたもgapminderでググる必要がありそうね 食べるものも無いような人間がいるのは問題かもしれない
しかしそういう人間が求めているのは食べるもの及びそれを得る手段であり
心の救いでは無いのだ 貧乏とは何か?
レオナルド・ダ・ヴィンチ
私を軽蔑するな 私は貧乏ではないからな
やたらと沢山のものを欲しがる者こそ貧乏なのだ
貧乏とは物質的に金銭的に足りてない者のことではなく
何でも欲しがる者のこと
つまり心が貧しい者のこと 貧乏でも満足している人間は金持ち、それも非常な金持ちです。
だが、金持ちでも、いつ貧乏になるかとびくついている人間は、
冬枯れのようなものです。
シェイクスピア著 『オセロー』
生活に“必要なもの”が揃っていれば、それは“金持ち”です。
しかし、それ以上の“快適なもの”を揃えている大金持ちが他にいると、とたんに “貧しい者”になってしまいます。
資本原理主義の中では、生活に“必要以上”のものを持って初めて“庶民”であり、
“必要過剰なもの”を持って初めて、“金持ち”になります。
搾取する側とされる側、気味の悪い勝ち負けが明確に色分けされた
場所で、自分の個性や判断力を埋没させている姿に貧しさは漂うのです 物質的豊かさを蔑ろにして精神だけ豊かにしようとしても
かえって精神の余裕を失う本末転倒な結果になるだけだ 実際これからの時代は、“勝ち組”“負け組”の二極化が進み、勝ち組は共食いを始め、
負け組は自殺者が急増するという予想もされています。
年収3000万円以上、資産1億円以上あって、初めて“中流”“小金持ち”とみなされるようです。
日本の平均年収約700万円、
その弱肉強食の社会では、我利我利(ガリガリ)と他との競争で勝つことだけが美徳とされ、共利共存の“弱きをたすけ”という情けを持つ余裕すら許されないでしょう。
そして必要以上のものを求めて、今の自分を必要以下に見てしまうところに、“心の貧しさ”はやってきます。 心の貧しい人ほど、外見や容器や量ばかり気にして、肝心の“中身”に意識が向きません。
某テレビで“幸せ”について語っている某占い師の身につけた何百万円もする装飾品の数々は、逆にその寂しさと貧しさを語っている気がします。
大切なこととは、自分にとって必要なものが何であって、今、苦しくとも自分を楽しませる気持ちがあるか? だと思うのです。
1000円、100万、1000万、10億、100億、1000億円…。
いったいいくらあれば、人は必要量を満たし満足するのでしょうか?
「10億円くらいあれば“ラク”に暮らせるだろう」…、何のために“ラク”である必要があるのか?
本来ならば、10億円投資しなければ達成できない“夢”があって、初めて設けることのできる基準のはずです。
“楽しい”人生と“ラク”な人生の間には、 “死ぬほど生きる”と“死んだように生きる”くらい、かなりおおきな差があります。
年収も、偏差値も、環境も、外見も、結婚相手も、将来も、子供も、“平均”以上でなければ庶民にもなれないという考え方こそ、
“貧しい”ことだと思うのです。
不足感故の、見栄という名の満足の“虚構”…。 電気も通らない学校にも行けない
そんな生活を人類に強要するつもりなのか? 私の思う“豊かさ”の基準は、
「好きな時に、好きなことを、好きなだけ行える自分」があることです。
金がない、自信がない、好きなことがない…そう思い込むとき、本当に自分が貧しく感じます。
なぜなら、お金も自信も好きなことも、実は自分で創り出せるものであるからです。
たとえ状況を変えることができなくとも、「だからダメ」ではなく、
「だからこそ」と、自分の心の状態を楽しませることはできるのです。
お金を持っているからといって偉いわけじゃない、お金の遣い方を知っている人、
その品格・態度を持っている人が偉いと思います。
豊かさとは、人と比べた相対的なものでなく、自分の中にある“絶対的”なもので決まります であるのならば回線を切れ
5chだって物質文明の産物だ >>24
>>25
貴方の言ってることは分かります
けど物質文明だけでは足らないのです
精神文明をベースにして考えるべきです 電気が通らない学校にも行けないまともな水も飲めない
そんなんで心は豊かですだなんて
言いたくもない 勝ち組負け組の問題だって必要なのはよりよい富の再分配の仕組みであって
精神的な救済ではない 日本が世界一貧しい国であることについて
ロンドン在住、元国連職員の著者が見た
「日本は世界で"かわいそうな国"だと思われている」衝撃の現実。
若者の自殺、「社畜」的働き方、「人付き合い地獄」の社会、
「みんなで不幸になろう」という足の引っ張り合い、
グローバルな人材なんて育つはずもないおかしな教育、何でも人任せで自分で考えない「クレクレ詐欺」。
空気を読み過ぎて「セルフ洗脳」に陥る日本人たち。
こんな日本人の「貧しさ」を、世界の現実と対比させながら問いかける。
『自分が日本でかかっていた洗脳。
競争しなくてはいけない、
家族や友より仕事、進歩は偉い、田舎はださい、自販機とコンビニは重要、電車とバスは定時でなければいけない、
痩せてなければいけない、
群れなければいけない、流行は追わないといけない。どれも自分を不幸にしていた。』 負け組が精神的な救済の名の下に自らの状況を飲み込むようになってしまったら
余計格差が広がるだけだ
むしろもっと強欲でもいいぐらいだ
法律の範囲内でだが 人の幸せは、心の持ち方次第です。もし物質文明が幸せをもたらすなら、私達はとっくに幸せになっていなくてはなりません。
しかし物質文明(科学文明)が進んだ今日、かえって心の不安が高まっているではありませんか?。
後進国の人達が物質文明に取り込まれるに従い、精神的苦しみや自殺や鬱、
ストレスが増大しているのはその良い証です。
心の病が多くなっているということは、その文明が誤った方向へ進んでいる証しなのです
勿論、物質文明にも意味はあります。でもその意味を知った暁は、一日も早く物質文明から卒業しなければならないのです。
キンピカ、キラキラ、天にも届く高層ビルが建ち並び、その間を縫うように高速道路が走るといった文明は、
その限りであることを知って下さい そもそも世界を悲観的に見すぎである
ファクトフルネスを読め 人間どうしても華やかなものに目が行きがちですので、物質文明が栄えるのも止むえぬことかも知れません。
しかし大人になってくると、感性や本性が騒ぎ出しますので、精神的なものを求めたくなってくるのです。
人類は今物質文明に酔いしれていますが、やがてその儚さに気付き、
精神文明に大きく舵を切るようになるでしょう 先進国/後進国
の分け方自体が古い
自分達が物質文明によって
どれだけ豊かになったか意識するだけで
かなり幸せにはなれるはずだ 精神文明とは、人の本質、精神、幸せ、宇宙の本質を詳らかにして真の喜びを発見し、
その喜びに少しでも近づこうとする文明です。つまり天の利を地に降ろし、
天の幸せに劣らぬ幸せを地に開花させる文明です。
私達は幸せを勘違いして捕らえています。幸せは肉体が感じるのでしょうか?、
心が感じるのでしょうか?。心ですね。
ならば心に平安をもたらす文明こそ、真の文明ではないでしょうか?。
確かに便利さや快適さをもたらす物質文明は、心を喜ばす条件の一つではあります。でもいかに良い条件が整っても、
心に悩みがあっては真の幸せを掴むことはできないのです 金があれば本も読めるし映画も見られるし音楽も聞けるしゲームだってできるのだ
それで不満か? 物質文明は幸せを獲得する一手段ではありますが、目的では無いのです。
それに対して精神文明(真の自分を知る文明)は、幸せ得る目的そのものなのです。
なぜなら、真の人間を知らずして精神文明はあり得ないし、真の幸せもあり得ないからです。
昔の人達は不幸だったのでしょうか?
そうではありません
今の時代の方が精神的に病んでる人
自殺者が圧倒的に多いのです
物質文明では人と自分を比べた時から
不幸(劣等感)が生まれます 人類が物質文明によって得たのは便利さだけではない
表現方法もだ
ボカロなんてその最たるもの
今後も物質文明の発展が新たな文化を生み出すかもしれない
なんなら金がなければ受けられない精神医療は
心の悩みだって金で解決できることを示している >>40
お金を払ってまで精神科に行き
医者の食い物にされる
大体精神に異常をきたすこと自体がその文明が間違っていて
人を幸せにしていないのは明白です >>39
そりゃ昔は自殺するまでもなく
人が死にすぎていたと言うだけだ
昔の人間は自然と調和して生きていたのではない
自然に逆らえず死んでいただけなのだ
自殺ガン老衰が目立つと言うことは
裏を返せば他の病気では死ななくなってきていると言うこと
なんて幸せな時代だろうか 昔の人や1日1ドルの暮らしをしている人は
ほかにコンテンツが無いから信心深くあるしかない
しかい1日32ドルの暮らしなら
様々なコンテンツに触れることができるのだ いかなる大義名分があろうと
物質文明の発展を止めようとしてしまえば
待っているのは中世化
共産主義国がそうだし
そして日本もそうなりつつある もっと幸せになろうとしてもいいの
もっと富を得ようとしてもいいの
物質文明の発展と精神の発展は表裏一体なの 人間の心は物やお金では満たされません
同じく精神的なもの 愛や思いやりが大切です
https://happylifestyle.com/41 >幸せになるために必要なのは、物質的豊かさではありません。
精神的豊かさです。
精神的豊かさが大切だということは、あることがきっかけで気づきました。
私の家庭は、比較的裕福です。
私が留学できたことも両親のおかげです。
別の言い方をすれば、お金のおかげです。
私は日頃から、高価な物を買っていました。
それもたくさんです。
物がたくさんあるほど、幸福だと思っていたのです。
そのため、以前の私の部屋には、物がたくさんありました。
しかし、違うことに気づき始めました。
高価な物がたくさんあっても、心からの満足感がないのです >しかし、たくさん物を持たなくても、親しい友達が1人いるだけで変わりました。
すぐ心の中が満たされ、幸せを感じることができたのです。
もちろん物を持つことで喜びを感じることもあるでしょう。
しかし、精神的豊かさは、友達や家族など、人が大切です。
そうした経験があり、私は幸運にも幸せに気づけました。
大切なことは、精神的豊かさです。
本当は目に見えません。
もちろん買うこともできません。
幸せとは、当たり前のことです >友達が優しく話しかけてくれたこと
両親からの教育
友達が誕生日を覚えてくれていたこと
自分のことを心配してくれること
誰かが助けてくれたこと
どれもささいなことですが、大きな幸せです。
自分の周りには、すでにたくさんの幸せがあることに気づきます。
それらは精神的なことですから、お金で買えるものではないし、見えるものでもありません
しかし、生きるために大切なことです。
幸せになるために大切なことです。
それに気づきましょう。
幸せとは、手に入れることではなく、気づくことなのです。
幸せはそこから始まります。
今、置かれている状態がどれだけ幸せであるかということに、
気づくことが大切なのです 「自分自身が平安である人は、自分のまわりのものすべてに平安を認めます。
本質は美であり、真理であり、平安です。人はそれを醜いものとして、間違ったもの、暴力的なものとして捉えます。
…それだけのことです」
「幸福な人生を送るには、心の平安が必要です。人間の心は荒れ狂うガンジス河に似ています。
心はディヤーナ(瞑想)のような歯止めとなるものを効かせて抑制しなければなりません。ディヤーナとは一点集中です。
心の動揺が人類にあらゆる不幸をもたらすのです。穏やかで健全な人生を送るためには、心の平安を培わねばなりません」
「徳高い道に沿って考え、話し、行動するなら、人の意識は純粋となり、
内なる平安を抱きます。
知識は力である、と言われますが、美徳は平安です」 「快適であるということと平安であるということが混同されています。
快適さは平安と同じものであると受け取られています。
富む者、地位ある者、富豪や権力者は誰も平安を得ていません。
それが真実であることは調べればわかります。平安は、銀行の通帳や部屋数の多い家、倉庫や鉄の金庫の中に見出されはしません。
あなた方の態度はすべてあべこべのものとなっています。それは馬の前に荷車をつないでしまうのと同じ程滑稽なことです。
物質的なことは霊性のあとについてくるものです。心が馬であるのに、それが顧みられておらず、旅に備えて訓練されていないのです」
「単に憎しみを取り除いただけではアーナンダ(平安)を確実にすることはできません。愛をもまた、培わねばなりません」
「シャンティ(平安)は神の特性です。根気と忍耐と寛容をもって正しい
霊性の道に従う者のみが平安を得ることができます」 本当に心が穏やかなのであれば
物質文明が狂って見えないはず
あなたがどれだけ幸せか気づくことが大事だと得なら
その目線を物質文明に向けたっていい 人々は欲を敵視しすぎているの
幸せや霊性を求める気持ちだって立派な欲
否定されてはいけない 自ら不幸になろうとしてはいけない
もっと幸せになったっていい >>54
私は別に物質文明が悪いと言っているわけではありません
ですが精神的幸福が第一です
今の物質文明が人類を幸福にしていないのは明白です
精神文明をベースに考えるべきでしょう 人類が不幸に見えるのはそれは多分
それはあなたがどこかで不幸を感じていて
それを何かのせいにしたいから
人類はあなたが思っているよりずっと幸福になった
もし他にも物質文明によって不幸になったと思う人間がいたとしたら
単にそのことを忘れているだけ 人類は昔より遥かに死ににくく
より多く知識や文化を吸収発信できるようになった
霊的知識の交換だって情報技術の発展があってこそ
幸福じゃないかこの物質文明は 知識や権力よりも心の平安が大切です
松下幸之助さんも言ってますが
今の世の中頭が良くて口先だけが巧みで心の薄っぺらい人間が多くなったと嘆いています 20世紀は電話、自動車、機関車、飛行機などの発明 また 20世紀後半はコンピューター、インターネットと 我々の生活そのものを変えてしまう ものが 一般化しました。
第二次世界大戦後生まれの人々にとって はあたり前の生活なのですが
実は このようなものが大量生産されることにより コストが落ち 一般大衆にもいき渡ったという 資本主義の意義のあるところです。
しかしながら、物質 つまり ものを追求するために その交換財である 紙幣(お金)を稼ぐことが目的となってしまい、一部の金融機関関係者を中心とした人たちの横暴が
1929年の恐慌をまねき 、また、今回の「金融危機」にいたっているわけです。この金融危機は 欧米ではすでに「恐慌」にはいっているわけですが、発想の転換が必要です。
「物質文明」から「精神文明」への転換です。
日本国は古代より精神文明の国であったのですが、
敗戦により アメリカ占領政策の基 「物質文明」社会への転換を余儀なくされました アメリカ型資本主義が終焉を迎えたのですから、「助け合う」「困った人がいたら助ける」「お互い迷惑はかけない」など
人と人とのつながりを大切にする社会へ脱皮する機会でもあるわけです。
日本人が忘れているアジア型社会の模範は ベトナムにあります。 彼らは 助け合い、周りの人々に思いやりをもち 生きているのです。 儒教を中心として大乗仏教の国という日本と同じ土壌をもっていいます。
「物質文明より精神文明へ」これがこれからのキーワードです 人と人との調和
人と自然との調和を大切にする和の国であったわけです
https://youtu.be/7-jCtx0CLqw >>1
たぶん、物質見ていると
心がわからなくなるから
心は「形が無い=存在しない」とまで言うし ここで「物質文明」とされる現代社会では、カルトの連続テロ実行犯は裁かれたし、首謀者も捌かれたが、
では、
「精神文明」とやらだと、「慈悲でヤったった」なんて屁理屈が通って無罪放免なのか?(笑)
物質としての肉体に囚われたらダメなんだよな?(笑)
(^。^)昔の日本でも、そんな理不尽は許されませんよ。(笑) 多くの欧米人がいろいろ観察をしているが、ほぼ全てに共通しているのは、「人々は貧しい。しかし幸せそうだ」である。
だからこそアメリカ人のモースは、「貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない」と言ったのだ。
欧米では、
裕福とは幸福を意味し、貧しいということは惨めな生活と道徳的堕落など絶望的な境遇を意味するのだが、
この国では全くそうでないことに驚いたのである。
●イギリス人の詩人エドウィン・アーノルドなどは、明治22年に東京で開かれたある講演で、日本についてこうまで言っている。
「地上で天国あるいは極楽にもっとも近づいている国だ。…その景色は妖精のように優美で、その美術は絶妙であり、
その神のようにやさしい性質はさらに美しく、
その魅力的な態度、その礼儀正しさは、
謙譲ではあるが卑屈に堕することなく、精巧であるが飾ることもない。
これこそ日本を、人生を生き甲斐あらしめるほとんどすべてのことにおいて、
あらゆる他国より一段と高い位置に置くものである ハリスの通訳として活躍したヒュースケンはこう記す。
「この国の人々の質樸な習俗とともに、その飾りけのなさを私は賛美する。
この国土のゆたかさを見、いたることろに満ちている子供たちの愉しい笑声を聞き、
そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私は、おお、神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、
西洋の人々が彼らの重大な悪徳をこの国にもちこもうとしているように思われてならない」 お金や物に囚われない高い精神性
質素で飾らない素朴な生活と人柄
高潔な民度
当時多くの外国人が感銘を受けました
https://youtu.be/fgwAMsxozkI 扇動者による世の中の極端な見方に囚われていると言わざるを得ない 何かに飢えているなら
飢えている事に気付くことは
何も役に立たない
たらふく食って食いすぎて
幾らか落ち着いて
ようやく飢えている事に
気付くことが役立つ事にもなる
何に飢えているかを
出来るだけ具体的に
明確にすることは
役立つと思うが
好きな事をやること
したいことをすることで
十分かもしれない
私はそんな風に思うなぁ 心の飢餓 心の貧困ですかね
現代人が陥っているのは
物質的には満たされているのに
精神を病んだり 犯罪が起こったりするのはそれですね 「1」 メーソンというアメリカ人――1879-1914
彼は神道はインドの仏教より遥かに優れた精神原理で、よりよく現代生活に適し、儒教より内面的、
哲学的、かつはるかに深遠で更に西洋文化よりすぐれていると言いました。
「2」 イギリス貴族のポンソンビー1878−1937
皇室の尊厳に憧れ京都に住み、生活の凡てを日本式とし京都御所には土下座で遥拝しました。かれは日本で神を見た英国貴族といわれた。
「3」 元フランス大使のクルーデル
私が決して滅んで欲しく無いと願う世界の中の一つの民族は日本だと 「8」英国人ビッケン名古屋商科大学教授
「キリスト教文化は、科学、哲学、産業革命を生み出し現在の経済中心の世界を作り上げた。だが
ユダヤ、キリスト教を中心とする宗教は、闘争に明け暮れて、疲れ果てている。
これは人間と自然との関係を排除してきたからだ。
自然と人間、人間と人間の調和・共生を求める日本の古神道に帰らねば人類は救われない」
「9」 韓国人 金ワンソプ氏--親日派のための弁明より
「私の個人的な意見を言うなら、日本の神道は人類が作り出した、
もっとも理想的なかたちの宗教だ。」
「10」 フランスのエリート
「十数年前フランスの若いエリート達が伊勢神宮を見て自国の聖地は伊勢神宮程の精神性は無いと言った。
他の学者も伊勢の荘厳、森厳の静寂に宗教の根源的なものを感じた。」 「14」 ポルトガル人・モラエス 1854年--1929年
「日本には西洋世界に無い、他人を疑わない人情味あふれる人間関係がある。
平和で優美な日本の環境のとりことなった。」
「15」 フランス作家 オリヴィエ・ジェルマントマ
「日本の霊性に感動した、その霊感から発する日本の文化、芸術、文学を愛し溺愛する。
私は師であるアンドレ・マルローを那智の滝に案内した。その時、マルロー師は叫んだ、滝の中にアマテラスを見た、と。
神聖とは何かを日本でつかんだと話された。神道の中に神聖を体感されたのである。」
「16」 米国オハイオ州 コーイチ・パリッシュ氏 ワシントン州 「神ながら神社宮司」
「神道こそ神に近づく道であり、手順であり、それを厳格に実践することで、深く霊性を開発し、人格を高めることができるものである。
神道はわれわれ地球人にとって必要不可欠で「人類の宝」と確信する。」 「17」アーノルド・トインビー
トインビーは神道を高く評価し、「日本の活路」で言った。「戦後、日本人は近代化の道を邁進してきたが、その見返りとして心理的ストレスと絶えざる緊張にさらされている。
それは産業革命がもたらすまぬがれない代価である。ところが神道は、人間とそのほかの自然との調和のとれた協調関係を説いている。
日本国民は、自然の汚染によってすでに報いを受け始めているが、実は神道の中にそうした災いに対する祖先伝来の救済策を持っているのである。」。
物質文明が避けられない災いを救う宗教であると言っている。
「18」アーノルド・トインビー
昭和42年に来日した歴史学者トインビーは、真っ先に伊勢神宮に参拝して、千古の神宮林の繁る神域に立ち、「すべての宗教の基底になるものが伊勢神宮にあると感じ」毛筆で神宮に記帳した。
「19」社会学者エマーソン
「日本の神社、鎮守の森の中に神聖がある・・・・・」 繰り返すようだけど
あなたが思ってるほど
物質文明は狂ってはいない もし本当に人の心が狂っているとしたら
それは多分失われたウン十年で
物質文明の発展が鈍ったから
正しい未来への希望を見失ってはいけない ある行為が「いじめ」であるかどうかの判定は極めて困難であり、むしろその区別にこだわり過ぎているという指摘もある。
1994年の愛知県西尾市中学生いじめ自殺事件で自殺した生徒の父は「いじめかどうかは重要ではありません。その行為はいじめではない、と言われたら子供だって安心する。
教職員を含めてみんな面倒なことは避けたくて、いじめではないことを心のどこかで望んでいるのかもしれません。
でも本来は、仲間はずれにされたり、傷つけられたり、『ウザい』『キモい』『死ね』とけなされたりする行為そのものが問題なはずです。
定義が曖昧ないじめという言葉は、教委や学校が責任を逃れるための隠れ蓑になっているのではないでしょうか」と語っている
内藤朝雄によれば、いじめは相手の肉体的・心理的苦痛を快楽的に楽しむことを目的として行われるさまざまな行為であり、
学級など簡単には抜けることのできない集団のなかで、群れた「みんな」の勢いや「自分たちなり」の特殊な秩序を背景として、そのような行為がなされることをいう[8] 教育社会学者の藤田英典も(学校での)いじめを次の4つに分類し、多くのいじめに対する言説が
その特性の相違点を考慮していない点を批判している[14]。
モラルの低下・混乱によるもの。1980年代中ごろに頻発したタイプで、被害者が偶発的に決定されるところに特徴がある。
一種のモラル・パニックや集団ヒステリーといえる。
社会的偏見・差別による排除的なもの。1のケースと比較するといじめの対象となった理由(特定の社会的属性を持っていたということ)は明瞭であり、
差別意識自体を取り除く指導をすることがこの種のいじめの対策となる。
閉鎖的な集団内で特定の個人に対して発生するもの。教師など外部から実態が把握しにくいぶん、対策は難しくなる。
特定の個人への暴行・恐喝を反復するもの。3のケースと違って、加害者と被害者の属するグループは異なる場合が多い。 日本のいじめは特に1985年(昭和60年)ごろから陰湿化した校内暴力をさすことが多い[16]。
いじめによる暴行で重篤な場合は重傷を負わせられる、傷害の結果死に至ったり(山形マット死事件)、強姦されたり
(1996年の旭川女子中学生集団暴行事件)、自殺する例もある(1986年の中野富士見中学いじめ自殺事件)。
また、中学生が5000万円も恐喝によって得たり(名古屋中学生5000万円恐喝事件、2000年)、いわゆる問題児(モンスターチルドレン、不良行為少年)による単純な暴力だけでなく、
使い走り(パシリ)をさせたり、「物を隠す」「第三者の物を隠し、被害者に罪をなすりつける」「交換日記で悪口を書く」
「机に花を置き死亡したことにする」「被害者の名前を隠語にして被害者がききかえしても別人のことをしゃべっているふりをする」といった
「心に対するいじめ」もあり、シカト(無視、仲間外れ)などは水面下で行われることから、教師や周囲が気づかないうちに深刻な事態になりうる
子供に限らず、社会人(モンスター社員、クラッシャー上司)においても暴力そのものやパワーハラスメント、
セクシャルハラスメントといった職場いじめが起こっている。上司が部下に対し、職場で陰謀を巡らし、
「自分が悪い」と誤解させる状況を、故意につくられるような不当労働行為や、
責任をとって辞めさせるような状況をつくる不当解雇もある。 いかなる理由があろうとも
物質文明の発展が滞れば
待っているのは中世化
共産主義国がまさにその例 インターネットが普及した現代社会ではネット上におけるいじめ、
ネットいじめも存在する[34]。滝川高校いじめ自殺事件(2007年)では学校裏サイトでいじめが行われていた。
イギリスでもインターネット環境の発達とともにネットいじめが増加している[35]。
アメリカ合衆国、カナダでもネットいじめが深刻化している 物質文明を発展させ
未来への希望を見せることが
周り回って人の心を豊かにする 22歳の若さで亡くなったプロレスラーの木村花さんのツイッターに対し、「やめろ」、「気分悪い」、「消えろ」などと書き込んでいたアカウントが23日午後、続々と削除された。
木村さんは「毎日100件近くの率直な意見。死ね、気持ち悪い、消えろ、今までずっと私が1番、私に思ってました。
弱い私でごめんなさい」などと投稿し、悩んでいた様子を明かしている。著名人からはネットリンチについて批判の声が相次ぎ、BBCなど海外メディアも「ネットいじめがあった」と報じている。
これまで起きたインターネット上の中傷を巡っては、名誉毀損や脅迫容疑などで捜査当局が書類送検するケースがあり、
遺族らが投稿者に対し民事で損害賠償請求を起こす場合もある。 《いわゆる米英流の生活のしみを洗い去り、
皇国本来の国家観に立脚した生活の真義を打ち樹てねばならぬ。
金儲けのための生活、立身出世のための生活、
他人の困苦を顧みず己だけ快楽を得さえすればよいという独楽独善の生活、
精神を忘れ 金や物に捉われた生活、これらは何れも生活の真義を遠く離れたものである》 最近になって世界の識者は,従来の西洋的科学物質文明が一つの限界に突き当たっていることに気が付いた。
現在世界を覆っているさまざまの危機の元凶は,
突きつめると,すべて西洋文明を推進してきたその後遺症であることが分かってきた。
たとえば各種の公害,地球環境の悪化,地域紛争の激化,麻薬,暴力,エイズ,性の乱れなどの社会の退廃など,
すべて西洋型文明の当然の帰結とみることができる。今や文明の危機であり,人類滅亡の危機が迫っていることが,誰の目にも意識されるようになった。
それは文明の持つ表の華やかさに幻惑されて,
そのそこに潜む悪魔性,野蛮性に全く気がつかなかったからだ。 西洋に対する東洋,物質に対する精神,
それらを見直すことが,今起こっている世界の諸問題を解決する糸口となるのではないかと期待される。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています