古本屋のつぶやき
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仏教思想のあれこれについて思った事を勝手につぶやくスレです。
1.sage進行でお願いします。
2.荒らしは完全スルーで。
3.体験談や雑談はお断り。
4.質問等には基本的に応じません。
5.コテハン・トリ付き推奨。
6.発言には何故そうなのか根拠の明示を。
7.その他、スレ主の指示にはご協力を。
*仏教辞典(出版社不問)等は必携です。 癒やしスレでは神について、旧約と新約の連続性が話題になっている。
これについて、例えば満潮の時に見えた二つの岩が引き潮の時に一つだった事は往々にしてよくある事で、どちらを真実と或いは錯誤とするものなのかを考えた場合、観点或いは遠近主義(パースペクティヴィズム)というのがあるわけで、掛かる意味に於いて、どちらも真理でありどちらも錯誤と云える。
もっとも公理上は新旧の神が連続とされるけど、それは一旦さておき、禅や西田哲学に惹かれてる者からすれば、むしろその「連続と非連続に通底するもの」に関心がある。 未分節も分節もいわゆる純粋経験(=意識現象)という西田哲学。 対立する未分節と分節を包括する「自覚」という西田の思想。 AはBであるというとき、その判断は主語と述語の一致や結合ではなくて、一般者の自己分化ないし自己限定である!? もしあらゆる述語一般を超越した個物がなお判断の対象となりうるとすれば、その場合、もはや個物を述語する一般者はないのだから、主語である当の個物自身が自己の述語となると考えるほかはない。
しかるに、それは個物が無限大の述語をもつということであり、主語が自分自身の述語となるということである。
すると、ここに包摂関係の逆転が生ずる。
つまり判断における述語(一般)と主語(特殊)の包摂関係を無限に拡大していけば、特殊化の極限にあると考えられる個物は、逆に最大の一般者、「一般者の一般者」つまり一般者の極限となり、したがって絶対無となる。
なぜなら、それはもはやどのような一般者としても規定されないからである。
そしてすべての特殊は、このような無限大の一般者すなわち「絶対無の場所」に映されると考えなければならない。
それをいいかえれば、個物は自ら無にして、自己の内に自己自身を映すのである。
それは主語が述語となり、述語が主語となるということにほかならない。
もちろん、ここでいう述語は単なる一般者すなわち抽象的一般者ではなく、具体的一般者であって、前者は後者の抽象的限定面と考えられなければならない。
こうして真の個物である真正の自己は絶対無であることになる。
それゆえ絶対無の場所は自己の内に個物を包むとともに、個物は自己自身の内に絶対無の場所を包むのである。
「包むもの」が同時に「包まれるもの」であり、反対に、「包まれるもの」が同時に「包むもの」である。こうして個と普遍は相即相入の関係にあることになる。
西田幾多郎の哲学――物の真実に行く道 (岩波新書) 新書 – 2022/5/20
小坂 国継 (著) 見るものが見られるものというのは直観的に把握されるけど、論理的に説明するとこうなるってお手本のような文章。
これは 💮 だなw 勿論、正当性云々は論じませんけど、マリア崇敬がカトリックの大事な事は存じております。
賢明な皆さんはニーチェの遠近主義(パースペクティヴィズム)をご存知かと思いますが、例えば満潮の時に見えた二つの岩が引き潮の時に一つだった事は往々にしてよくある事で、どちらを真実或いは錯誤とするものなのかを考えた場合、観点或いは遠近による視差が避け難い事は往々にしてよくある事だと思うんです。
掛かる意味に於いて、どちらも真理でありどちらも錯誤と云えるでしょうし、また、宗教や哲学者では「原典の積極的誤読」により新たな思想や信仰の水平線が切り拓かれる事はよくありますよね。 絶対は自分自身を否定し、その否定した自分自身に対するのである。
というのも絶対は相対に対することはできないが、しかし何ものにも対しないのは、それ自身、何ものでもないからである。
絶対とは、いわば自己否定の働きであって、不断に自分自身を否定する。
そうしてそのように否定された自分自身に対するのである。この絶対の否定態こそ相対にほかならない。
この意味で、相対は絶対の顕現であり、自己限定の諸相である。
絶対は自己を否定することによって自己を相対化し、そして相対化した自己に対するのである。
これが絶対と相対の真実の関係である。
同様に、相対はそれ自身では絶対に対することはできない。
もし相対が絶対に対するとすれば、その場合、相対はもはや相対ではなく、絶対であることになるだろう。
あるいは相対に対する絶対はもはや絶対ではなく、一つの相対であることになるだろう。
では相対はどのようにして絶対に対することができるだろうか。
西田の考えはつぎのとおりである。
相対は自分自身を否定することによってはじめて絶対に対することができる。
しかるに相対が自分自身を否定するとは、相対であることを否定して絶対になることである。
それゆえ相対は自己を否定して絶対になることによってはじめて絶対に対することができる。
だとすれば、絶対も相対も、ともに自己を否定することによってはじめて相対することができる。
対極の位置にある絶対と相対は相互の自己否定をとおして対面していることになるだろう。
そうして絶対と相対との間のこうした相互否定的な対応関係を、西田は「逆対応」と呼ぶ。
宗教的信仰において人間と神、衆生と仏が相対するのは、こうした逆対応によるのである。 神は絶対の自己否定として、逆対応的に自己自身に対し、自己自身の中に絶対的自己否定を含むものなるが故に、自己自身によつて有るものであるのであり、絶対の無なるが故に絶対の有である
by 西田幾多郎 『ハディース イスラーム伝承集成』のⅤは「婚姻の書」ではじまっていますが、ムハンマドは結婚しないと言っている者に対して、「なぜあなた方はそのようなことを言うのだ。わたしは誰よりも神を怖れ畏んでいるが、断食しては食べ、礼拝しては眠り、また女を娶りもする」と述べた上で、「このわたしの習わしを嫌う者はわたしの仲間ではない」と言いきっています。
禁欲についてもそれを斥け、「せっかくアッラーが許し給うたおいしいものを勝手に禁忌にしたりしてはいけない」とさえ述べていました。禁欲主義は、アッラーの教えに反するというわけです。
島田 裕巳 性(セックス)と宗教 (講談社現代新書) 1.挟帯の読み
=けったい
(唯識とはなにか「法相二巻抄をよむ」横山紘一 新装版第一刷 P251)
横山紘一は法相宗僧侶
2.無分別智を得るとあるのだから、有因有果
無分別智は無為法なので非該当(ちなみに後得智は有為法)
3.眼識は無記・現量
(唯識とはなにか「法相二巻抄をよむ」横山紘一 新装版第一刷 P89)
4.>>末那識は「有覆無記」「恒審思量」なのですが、
>>意識に対してその勢力は弱く間接的とされてます。
>>言わずもがな無記、つまり中性ですからそうなのでしょう。
>こんなことを主張する学者も僧侶もいない
(唯識とはなにか 唯識三十頌を読む (角川ソフィア文庫) 多川 俊映(二 第二能変 第七末那識ー意識下の自己中心性ー 末那識の性質 の項)) いま、ニコラウス・クザーヌスの「学識ある無知について(山田桂三 訳 平凡社 刊)」を読んでるのですが、こんなのがあるのです。
ところで、全て探究者という者は不確実なものに対して何らかの判断を下そうとする場合には、そのものをあらかじめ前提されている確実なものと比例的な仕方で比較する。
それゆえに全ての探究は比較によって行われる。
そして、求められているものが、比例的還元(proportionalis reductio)にあたって前提と少ししか離れていない場合には、それを捉える判断は容易である。
しかし、〔大きく離れていて〕多くの中間項を必要とする場合には、厄介で困難である。
このことは数学では周知のことであって、より先なる命題は最もよく知られている基本的諸原理に易々と還元されるが、より後なる命題は前者を媒介にして初めて可能なのであるから、その還元はより困難である。
それゆえ、探究は全て、難易の差はあっても、比例による比較によって成り立っている。したがって、無限なるものは、無限者としてどのような比例関係をも超えているために、知ることができない。 この第二の側面に関して先ず注意されなければならないのは、「無」といい「空」という絶対無分節の形而上的状態としての「現実」はそれ自身のうちに自己分節への存在的傾向を内包しているという事実これもまた禅においては理屈ではなくて体験的事実なのですがであります。
絶対無分節者はいわばどうしても自己自身を分節せずにはおられない。「無名」は「有名」に転じていかずにはおられないのです。 しかしながら、この「無名」の境地が禅の究極するところではないことにもまた注意する必要があります。
もしこれが究極の境地であるなら、一度言語分節の存在的次元を超え出てしまったら、もう言語など、なんの用もない、無用の長物ということになりましょう。
言葉もなければ対話もなく、一切の言語活動はただ純粋に否定的意義においてしか問題にもならないことになるはずでありましょう。
なぜなら、言語は「現実」の偽りの図像を描き出してみせる存在的悪にほかならないのですから。
そして事実、私はここまで、ただ言語的意味分節の否定的側面だけを論じてきました。
だが本当は、言語にたいする禅の見方には、これとは反対の積極的、肯定的な側面もあるのです。 朝日新聞出版
死者と霊性の哲学
ポスト近代を生き抜く仏教と神智学の智慧
末木文美士 霊性は精神の奥に潜在して居るはたらきで、これが目覚めると精神の二元性は解消して、精神はその本体の上において感覚し思惟し意志し行為し能うもの
(鈴木大拙 日本的霊性) 霊性の定義については、一応、大拙さんのそれを目安にしておこう。
勿論、異論はご自由にだけど、レベルが低いのはチョットなぁ。
↓
霊性は精神の奥に潜在して居るはたらきで、これが目覚めると精神の二元性は解消して、精神はその本体の上において感覚し思惟し意志し行為し能うもの
(鈴木大拙 日本的霊性) 『死者は生きている 「見えざるもの」と私たちの幸福』 町田宗鳳著 筑摩書房 「実存」とは自らを客体化し事物化してとることなく、あくまでも主体的に人格として常に神聖なるものの現前において、しかり「神の実存的現前」において「時間」の根源性において意識することである。
日常性の神学的意識とはこのことを意味するのである。
この人格的存在として実存者なる人間はかくして無限性への可能性において自らの良心的倫理性の内面性を常に人格的に決意し改悔し奉献し、最も人格的なるまさにこの人格自らの創造主なる父なるものへの対話的立場に立つものである。
これはそれ故にこの世に死して生くる「愛」の出来事としての根源的歴史性の行動でなければならない。
それ故またそれは新しき高き実在の発見としてその栄光の「視」として天使の歓喜と祝福をかいまみる「詩」的創造の瞬間でなければならない。
(吉満義彦 詩と愛と実存 ー序論に代えてー より) 埃まみれでも鏡は鏡に変わりはなくとも埃は鏡では無い。 ここには、北宗禅がもっていた定より悟りへの行道の立場が完全に突破されて、体用不二の徹底がみられる。それは現実的な用としての行道の契機であった分別や妄念の偶然性を批判して、絶対的な空寂の本体に帰入せしめることによって、透徹した一元論の立場を貫くものとはなったが、反面に本知の対象を欠くゆえに、用をたんなる気まぐれな遊びとし、ひいては体をすら無意味で偶然的な存在とする悪しき形而上学と化する危険性をはらむものであった r-──-. __
/ ̄\|_D_,,|/ `ヽ 【呪いのパンダ】
l r'~ヽ ゝ__.ノヽ/~ ヽ l
| | l ´・ ▲ ・` l | | とてもカワイイこのAAを旧統一教会関係者の荒らしが見たら即タヒします♥
ゝ::--ゝ,__∀_ノヽ--::ノ 他の場所にコピペしても無駄です♥
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ヽ;;;> \;;> 行為と煩悩の止滅によって解脱がある。
行為と煩悩は思惟より生じる。
それらはことばの虚構による。
ことばの虚構は空性によって滅せられる。
(中論 龍樹) 心の対象が止滅するときにはことばの対象も止息する。
というのは、ものの本性は涅槃のように、生じたものでも、滅したものでもない。
(中論 龍樹) 他のものをとおして知られず、静寂で、ことばの虚構をによって論じられる事なく、思惟を離れて、種々性を越える。
これが真実の形である。
(中論 龍樹) 七)。教理としての理解にのみとどまる者は、無自覚的に、自我意識による増上慢におちいっているのである。自我意識が否定され尽して、捉えるものと捉えられるものとの二元性を離れた超世間的知識が得られたときにはじめて、アーラヤ識を根拠として成り立っていた輪廻の世界の全貌が明らかになる。 >末那識は、常に自我に執着しているのですが、しかしこの悪の業には関与しないのです。
>善の業や悪の業は、実は意識的な行為によるものなのです。
>(『成唯識論」を読む 竹村牧男 P118 「有覆無記に摂めらる。」) >現量・・・現前にある対象をことばを用いること無く対象そのものを直接に認識する。
>(中略)
>この現量は術語を用いて表現すれば「任運にして無分別なり」「諸分別の行解を離れて任運に境の自相に称う」「境に任せてこれを縁ずる」などと定義される。
>とくに「分別を離れて境の自相に称う」という点に注目すべきである。
>境の自相とは対象の自体そのものいい、それを認識することを境の自相に称うという(現量が境の自相を認識するということは、つぎの比量が境の共相を認めるということと対比する)。
>(唯識とは何か ― 『法相二巻抄』を読む 横山 紘一 P117 ) 「一心にもっぱら彌陀名号を念じ、行・住・坐・臥(一切の生活のあり方を通じ)に時節の久近(時間の長短)を問わず、念々にすてざる者を是を『正定之業』と名づく。かの仏の願に順うがゆえに。もし礼拝読誦等に依るは、すなわち名づけて助業となす」(散善義) >仏教では真理の基準に、現量・比量・聖教量の三つの基準を立てている。
>現量は直接経験のことであり、それは疑いようのない事実であるので真理とされる。
>比量は推論による正しい認識で、論理的に正しいので真理とされる。
>聖教量は仏の説法(仏説)である経典の言葉であって、仏説は真理とされるのである。
>(唯識・華厳・空海・西田: 東洋哲学の精華を読み解く 竹村牧男 P45) 達磨不会禅(達磨禅を会せず) 夫子不知字(夫子字を知らず) (大慧)
地獄與天堂(地獄と天堂と) 総是閑家具(総にこれ閑家具) (普灯二九)
透過是非関(是非の関を透過して) 不住羅籠裏(羅籠裏にも住らず)
長伸両脚睡(長く両脚を伸べて睡れば) 無偽亦無真(偽も無く亦真も無し) (伝灯一五)
丁寧損君徳(丁寧は君徳を損じ) 無言真有効(無言真に功有り) (無門二七)
貪看天上月(天井の月を貪り看て) 失却掌中珠(掌中の珠を失却す) (類聚七)
独坐人不知(独坐人を知らず) 孤月照寒泉(孤月寒泉を照らす)
入林不動草(林に入って草を動ぜず) 入水不動波(水に入って波を動ぜず) (会元一六) ・悟りの智慧は有為法で、それがはたらくためにはその種子が必要というのが法相宗の論理。
・その種子は無漏法の本性住種姓が持つ。
・その本性住種姓が法界より等流せる法(経論)の熏習によって開発され習所成種姓となる。 資糧位
・所取・能取の二取に執着し、種子として蓄えられている(随眠)。
・仏性~本性住種姓(本来持っている)と習所成種姓(修業によって開発される)。 >現前に少物を立てて、是れ唯識の性なりと謂えり。所得有るを以ての故に、実に唯識に住するに非ず。 嫌がらせで変なの書くなよな。
吐き気がするんだよ、知障には。 今迄自分の書いた事
全部やって。皆が思うこと
全部やって。皆が想う事。
よろしくどうぞ 何でこういう嫌がらせっを平気でするんだろうな?
知障のやることは理解不能。
せっかくのスレが汚れる・・・ 鈴木大拙さんが面白いことを仰ってる。
>元来、「自性は常に清浄である」から、清浄を求めんとするときかえって清浄から離れ去る。
>求めんとする道程そのものが自性なのだから、これからそれへと進み行くことはない。
>これがそれで、それがこれだから、この二つをわけて、その間の移動を作るは、雲なき空に雲を出して天日を遮るものである。
>それは見性ではない。
>見性は直ちに見性で、性を見んとするとき、即ちそこに何かの技術か手段か媒介かを入れると、性は見えなくなる。
>見得たるものがあるとすれば、それは能所の上、知性的論理面の話で、見性の事実ではない。
>此処に修禅の本質的矛盾がある。
>神秀と慧能、北宗と南宗の分裂は、この矛盾そのものを表象していると云ってよい。
>悟りは元来悟りで、悟ることではないのである。
>それでも悟ると云わなければならないように人間が出来ているので葛藤がある。 だが現代仏教学のファウンダー、中村元はこれをあからさまに否定した。「チベット『律蔵』および漢訳『有部律破僧事』によると、釈尊はすでにさとりを開いたあとで、しばらくたってから十二因縁を観じたのであり、縁起説とさとりとのあいだに本質的な連関は存在しない」(中村『ゴータマ・ブッダ普及版上』春秋社) また知障の嫌がらせか。
こんなことをしてタダで済まないだろうな・・・ 諸行無常というとき自己言及のパラドックスが生じる訳ですが
「すべては無常である」といわれるが、このばあい、説こうとされていることを知らねばならない。
なぜなら、無常なるものも恒常なるものもなんらないからである。
もし存在があるならば、恒常なるものか無常なるものかであろうが、それらの存在がどこにあろうか、どこにもない、と説いたのである」
(瓜生津隆真訳「空七十論(七十詩頌の空性論)」『大乗仏典14 龍樹論集』中公文庫 p132)。
と、龍樹菩薩は答えてる。 論理操作の対象ではなく、危機意識という自覚に過ぎない。 中論
勝者(=佛)たちによって、空性はすべての見解を取り除く手段であると言われた。
しかし、空性を見解として持つ者は、救いがたいとも言われた。
(13−8)
空性は、間違って理解すると、捕まえ方を間違えたヘビのように、あるいは間違って唱えた呪文のように、愚か者を破滅させる」
(24−11)
したがって、この[空性の]教え(法)は愚者たちに理解しがたいと考えて、[釈迦]牟尼はそれを説くことを躊躇されたのであった
(24−12) 樋口カッター!
お前も、か~い
セックすセックす自分がセックす馬鹿組織 何の引用からかは忘れたw
直接経験
例えば「三本の煙突が立っている」という判断は誤っている可能性があるが、その判断のもとである、「三本の煙突が立っているように見える」という視覚経験それ自体は誤りようがない。
実際の煙突の数が二本であっても、感覚自体はすでに起こっていて打ち消しようがない。
これは「錯覚論法(argument from illusion)」といわれる。
そのような「見える、聞こえる、感じられる」といった感覚経験こそが、様々な知識や判断の土台にある。それ以上は遡れない最も基礎的な現れが「直接経験」である。
直接経験を「私的」なものとして、経験を「……のように私には思われる」と記述するのが独我論である。
しかし無主体論は独我論と反対のベクトルをもち、直接経験は一人称の経験でなくニュートラルなものなので、所有者など存在しないと考える。
例えば「三本の煙突が立っているように見える」という心的経験があっても、その経験を所有する「私」はない。
「私」という主体などは反省的に見出された概念、論理的構成物であって、直接経験自体は特に「誰」のものでもないのである。
また直接経験は非人称的なものだから、それを基礎にする考え方は必ずしも独我論にはならないとする。 妄想がなにかに関連付けられて起こるのなら、関連されるようなものが少ないほうが楽といえば楽。 認識するものそれ自体は決して認識されません。
そして、ヤージュニャヴァルキヤはそれは「非ず、非ずとしか云いようがない」と云ったわけです。
つまりそれは概念操作の対象ではないという事なのですが、それがいつの間にか概念操作の対象となり、「認識されなくとも、認識がある以上は認識するものがあるのではないか」ということから、真我論が形成されてその探求が為されていくようになったのではないのかと思うんです。
そしてお釈迦様もそれを探求するために苦行を行ったわけですが、いくら苦行を重ねても真我を得ることはなかったのです。
そりゃ、そうですよね。
概念操作の対象とならないものを概念化してそれを探求していたんですから・・・ 苦行以前にお釈迦様は、アーラーラ・カーラーマの境地(無所有処定)およびウッダカラーマ・プッタの境地(非想非非想処定)と同じ境地に達したが、これらを究極の境地として満足することはできず[4]、またこれらでは人の煩悩を救ったり真の悟りを得ることはできないと覚った。 有部は六根・六境・六識の実在を説く、まぁ、外界実在論なのですが、大乗仏教は識のみとする訳です。
唯識は基本的に四分説(見分(所量)・相分(能量)・自証分(果量)・証自体分(量果))を説くのですが、その発生に時間的な差異を認めません。
相分(能量) ←(三量)← 見分(所量)
↑(三量)
自証分(果量)
(現量)↑ ↓(現量)
証自証分
(現量は直接経験のようなもの(P87)) ヴェーダでは宇宙の根本原理としてブラフマン(梵)という常住が説かれ、アートマン(我)はそれに他ならないとされたわけです。
つまり、ここでは我=常住という図式が成立するわけです。
しかし、ブッダは五蘊は無常と喝破しました。つまり、五蘊は無常ですから我に非ずと。 五蘊説の蘊とはあつまりの意味であるから、五蘊とはつぎの五つのあつまりをいう。
色(ルーパ)─いろ・かたちのあるもので、感覚的・物質的なるものをいい、肉体もこれに入る。
受(ヴェーダナー)─感じてあらゆるものを受けいれる作用。
想(サンニャー)─表象作用、すなわちイメージを構成すること。
行(サンカーラ)─潜勢的な形成力で、能動的な心のはたらきをいう。
識(ヴィンニャーナ)─了別といわれ、認識・判断の作用。
この五つがあつまって、人間の自我を形成しているが、自我については、先に論じたように、無我であり、したがって「五蘊無我」という術語を生じた。
(インド仏教思想史 (講談社学術文庫) 文庫 三枝 充悳 (著) より) 874ありのままに想うものでもなく、誤って想うものでもなく、想いなきものでもなく、想いに消滅したものでもない。
このように行じたものの形態は消滅する。
けだし(世界の)ひろがりの意識は、想いを縁として起こるからである。
1037認識作用が滅することによって、名称と形態とがのこりなく滅する。
スッタニパータ 加行位での修行(順決択分)
順決択(智慧)分~煖・頂・忍・世第一法を行じる
煖にて下(明得定)の頂にて上(明増定)の四尋思、所取は空なりと観ずる
忍にて下(印順定)の四如実智、所取・能取はともに空なりと観ずる
世第一法にて上(無限定)四如実智、所取・能取の空を印じて無間に見道に入る
四尋思~名・義の自性・差別の空なることの観察
名~能詮、名前
義~所詮、名前に依って表わされるもの)
自性~名前に依って自体(体性)としてとらえられたもの
差別~主語・述語の中で認識されるもの
四如実智~名・義の自性・差別の空なること决定(印)、見道へ・・・
「名詮自性、句詮差別」
明得定~意識の中で捉えられる対象(所取)に実体はないと観ずる
明増定~上記を深く観じる
印順定~下忍で所取の無、中忍で能取の無へ、上忍で能取の無を認め(印す)る。
無間定~所取・能取ともに上記を深く観じその無なるを明瞭に認める お釈迦様の基本的なお立場は
>世の中には、多くの異った真理が永久に存在しているのではない。
>ただ永久のものだと想像しているだけである。
>かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考究を行なって、「(わが説は)真理である」「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いているのである。
>(スッタニパータ 886)
でありましょうし、具体的には
>師は答えた、「マーガンディヤよ、見解によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても清らかになることができる、とわたくしが説くのではない。
>無見解・無学・無知識によっても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる、とも説かない。
>それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、変化的生存を願ってはならぬ(これが内心の平安である)」。
>(スッタニパータ 839)
ということなのでしょう。
しかしながら
>わたくしはこのことを説く、ということがわたくしにはない。
>もろもろの事物に対する執著を執著であると確かに知って、もろもろの見解における(過誤を)見て固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。
>(スッタニパータ 837)
であると。
人は、>>246というように言語を仮設して、諸々の偏見にもとづいて思索考究を行なって、「(わが説は)真理である」「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いている、と識ったのですよ。 【アートマンの有無についてついておさらいしておきたい】
先ず、以下のような神話があり、
>世の始まりにおいて、この世はないものであった。それがあるものであった
>(チャーンドーヤ・ウパニシャッド3−19)
それがウッダーラカによって否定されたんです。
>息子よ、はじまりにおいて、この世はあるもの(サット)に他ならなかった。
>(6−2)
そして
>それは思慮した。私は多くなろう、私は増殖しよう、と。
>(中略)まさにその神格は思慮した。
>「さて、私は、これら三つの神格に、個体の生命であるこの自己をもって入り込み「名称と形態を様々に区分して作り出そう」と。
>(6−2)
とアートマンの由来と「梵我一如」を説いています。。
また、その根元的一者の「自己分節」によってこの世が創り出されたと。
>実にそのとき、世界は未分化であった。
>それは、「名称と形態」によって区分された
>ーそれは、これこれの名称をもち、これこれの形態をしている、と。
>(ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド1−4) 【アートマンの有無についてついておさらいしておきたい 1】
先ず、以下のような神話があり、
>世の始まりにおいて、この世はないものであった。それがあるものであった
>(チャーンドーヤ・ウパニシャッド3−19)
それが以下のようにウッダーラカによって否定されたんです。
神話から哲学への途が拓かれたと云ってもいいでしょうね。
>息子よ、はじまりにおいて、この世はあるもの(サット)に他ならなかった。
>(6−2)
そして
>それは思慮した。私は多くなろう、私は増殖しよう、と。
>(中略)まさにその神格は思慮した。
>「さて、私は、これら三つの神格に、個体の生命であるこの自己をもって入り込み「名称と形態を様々に区分して作り出そう」と。
>(6−2)
とアートマンの由来と「梵我一如」を説いています。。
また、その根元的一者の「自己分節」によってこの世が創り出されたと。
>実にそのとき、世界は未分化であった。
>それは、「名称と形態」によって区分された
>ーそれは、これこれの名称をもち、これこれの形態をしている、と。
>(ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド1−4)
そして「汝はそれである」と説かれるんです。
>この世界の一切は、この微細なものをそれ自身としている。
>それは真実在であり、それは自己である。おまえはそれである。
>(チャーンドーヤ・ウパニシャッド3−19) 【アートマンの有無についてついておさらいしておきたい2】
次にアートマンについて見てみましょう。
>心臓の内部に存するこのわがアートマンは、米粒よりも、麦粒よりも、芥子粒よりも、黍粒よりも小さい。
>(中略)心臓の内部に存するこのわがアートマンは、地よりも大きく、空界よりも大きく、天よりも大きく、これらの世界よりも大である。
>かれのうちに、一切の行動、一切の願望、一切の香り、一切の味が存する。
>かれはこの一切を自分のうちに包含している。
>かれは語らず、かれは悩むことがない。
>──これ、すなわち、心臓の内部に存する、このわがアートマンは、このブラフマンである。
>わたしは、この肉体を離れたときにこれと合一する。
>このように意向のさだまったものにはなんの疑惑もないであろう。
>── と、このようにシャーンディリヤは言った。このようにシャーンディリヤは言った。」 【アートマンの有無についてついておさらいしておきたい2】
次にアートマンについて見てみましょう。
>心臓の内部に存するこのわがアートマンは、米粒よりも、麦粒よりも、芥子粒よりも、黍粒よりも小さい。
>(中略)心臓の内部に存するこのわがアートマンは、地よりも大きく、空界よりも大きく、天よりも大きく、これらの世界よりも大である。
>かれのうちに、一切の行動、一切の願望、一切の香り、一切の味が存する。
>かれはこの一切を自分のうちに包含している。
>かれは語らず、かれは悩むことがない。
>──これ、すなわち、心臓の内部に存する、このわがアートマンは、このブラフマンである。
>わたしは、この肉体を離れたときにこれと合一する。
>このように意向のさだまったものにはなんの疑惑もないであろう。
>── と、このようにシャーンディリヤは言った。このようにシャーンディリヤは言った。」
>(チャーンドーヤ・ウパニシャッド3−14)
そしてそれは、ヤージュニャヴァルキヤによって
>見るという作用の主体たる見る者を見ることはできない。
>聞くという作用の主体たる聞く者を聞くことはできない。
>思うという作用の主体たる思う者を思うことはできない。
>知るという作用の主体たる知る者を知ることはできない。
>(中略)万物を認識する認識主体を、どうして認識することができようか。
>だからこれを、『ではない、ではない、のアートマン』という。
>(中略)それは把握できないものであり、不可説である。
>破壊されることもなく、汚れに染まることもなく、加えることも減ずることも出来ない。
>(ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド)
と喝破されたんです。 【アートマンの有無についてついておさらいしておきたい3】
ここまでのまとめ
1.シャーンディリア ~ 「梵我一如」
2.ウッダーラカ ~ 「汝はそれである」
3.ヤージュナヴァルキア ~ 「~ではない、~ではない」 【アートマンの有無についてついておさらいしておきたい3】
ここまでのまとめ
1.シャーンディリア ~ 「梵我一如」
2.ウッダーラカ ~ 「汝はそれである」
3.ヤージュナヴァルキア ~ 「~ではない、~ではない」
ブラフマンという根元的一者が、その思慮に依り名称と形態によって自己分節をし、個体(アートマン)となったのだと。
それ故に、「梵我一如であり」また「汝はそれである」と。
しかしその個体(アートマン)はそれを認識するもので、認識するものそれ自体は認識されようがないから「~ではない、~ではない」としかいいようがないと。
参照
岩波仏教辞典、インド哲学10講(赤松明彦)、インドの思想(川崎信定)他 >心臓の内部に存するこのわがアートマンは、米粒よりも、麦粒よりも、芥子粒よりも、黍粒よりも小さい。
>(中略)心臓の内部に存するこのわがアートマンは、地よりも大きく、空界よりも大きく、天よりも大きく、これらの世界よりも大である。
非常に面白い話ですね。
つまり、それは極大にして極小とでもいうのでしょうか。
こういう考察は、ニコラウス・クザーヌスも「無限なるもの」として、比例関係を超えたものとして、以下のように捉えてるようですが。
>ところで、全て探究者という者は不確実なものに対して何らかの判断を下そうとする場合には、そのものをあらかじめ前提されている確実なものと比例的な仕方で比較する。それゆえに全ての探究は比較によって行われる。
>そして、求められているものが、比例的還元(proportionalis reductio)にあたって前提と少ししか離れていない場合には、それを捉える判断は容易である。
>しかし、〔大きく離れていて〕多くの中間項を必要とする場合には、厄介で困難である。
>このことは数学では周知のことであって、より先なる命題は最もよく知られている基本的諸原理に易々と還元されるが、より後なる命題は前者を媒介にして初めて可能なのであるから、その還元はより困難である。
>それゆえ、探究は全て、難易の差はあっても、比例による比較によって成り立っている。
>したがって、無限なるものは、無限者としてどのような比例関係をも超えているために、知ることができない。
>(学識のある無知について) ここら辺は西田幾多郎も
>我々の自己は絶対者の自己否定として成立するのである。
>絶対的一者の自己否定的に、即ち個物的多として、我々の自己が成立するのである。
>故に我々の自己は根底的には自己矛盾的存在である。
>自己が自己自身を知る自覚ということが、自己矛盾である。
>故に我々はの自己は、どこまでも自己の底に自己を越えたものに於いて自己を有つ、自己否定に於いて自己自身を肯定するのである。
>(「場所的論理と宗教的世界観」より)
と云ってますね。 『小川 隆 禅思想史講義 』
北宗 長安 神秀・普寂
浄衆宗 四川 浄衆無相
保唐宗 四川 保唐寺無住
洪州宗 江西 馬祖道一
牛頭宗 江南 牛頭法融
南山念仏門 四川 果閬宣什
荷沢宗 洛陽 荷沢神会
(圭峰宗密 『円覚経大疏鈔』『裵休拾遺問』 (上記による)) 師地を掃く次、叫寺主、師に問う「何ぞ自ら駈駈たらんを得ん?」
師曰く、「一人有りて駈駈たらず」
寺主曰く「何処にか第二月有る?」
師掃箒を竪起して云く、「これは是れ第幾月ぞ?」
寺主無対。
(祖堂集 雲巖章)
「月に両箇有るを知らざれば、洞上の種草となること能わず」
瑩山 自性霊妙(じしょうれいみょう)、常住の法に於いて、断滅(だんめつ)の見を生ぜざるを名づけて不殺生(ふせっしょう)戒となす。
自性霊妙、不可得の法に於いて、可得の見を生ぜざるを名づけて不偸盗(ふちゅうとう)戒となす。
自性霊妙、無着(むじゃく)の法に於いて、愛着の見を生ぜざるを名づけて不淫欲(ふいんよく)戒となす。
自性霊妙、不可説の法に於いて、可説の相を生ぜざるを名づけて不妄語(ふもうご)戒となす。
自性霊妙、本来清浄の法に於いて、無明を生ぜざるを名づけて不飲酒(ふおんじゅ)戒となす。
自性霊妙、無過患(むかかん)の法に於いて、罪過の相を生ぜざるを名づけて不説四衆過罪(ふせつししゅうかざい)戒となす。
自性霊妙、平等の法に於いて、自他の見を生ぜざるを名づけて不自讃毀他(ふじさんきた)戒となす。
自性霊妙、真如遍法界(しんにょへんほっかい)に於いて、一相の慳執(けんしつ)を生ぜざるを名づけて不慳貪(ふけんどん)戒となす。
自性霊妙、無我の法中(ほっちゅう)に於いて、実我を計らざるを名づけて不瞋心不受懺謝(ふしんしんふじゅざんしゃ)戒となす。
自性霊妙、一切法中に於いて、生仏(しょうぶつ。衆生と仏)の二見を生ぜざるを名づけて不謗三宝(ふぼうさんぼう)戒となす。
(達磨大師相承一心戒文) 対象化し得ないものを対象化して元に戻そうとするからおかしくなる。 正見というのは
>カッチャーヤナよ、あるがままに正しい智慧をもって、世間における集起(集まり起こること)を見るものには、世間において「無いこと」はない。
>カッチャーヤナよ、あるがままに正しい智慧をもって、世間における滅を見るものには、世間において「有ること」はない。
>(『サンユッタ・ニカーヤ』一二・一五)
という事なんですけどね。
なんか特殊な見解を云うことのように言ってる方が某スレに居られるようですが😯 >存在するもの(有)と存在しないもの(無)とをよく知る世尊は、「カーティヤーヤナの教誡」の中で、「何かが存在する」ということと「何かが存在しない」とういこと、そのいずれも否定された
>(中論頌15・7)
>「何かが存在する」というのは常住論であり、「何かが存在しない」というのは断滅論である。
>したがって、賢者は存在・非存在(有無)に依拠してはならない。
>なぜならば、「およそ固有の性質を持って存在するものが存在しないことはない(=かならず存在する)」と考えるなら、常住論が付随し、「それは過去に存在したが、今は存在しない」と考えるなら、断滅論が付随するからである。
>(中論頌15・10,11) 天台智顗 538年~598年(天台)
玄奘三蔵 602年~664年(法相)
慧能大鑑 638年~713年(禅)
恵果 746年~806年(密教)
百丈懐海 749年~814年(禅)
道昭 629年~700年(法相宗)
最澄 766年~822年(天台宗)
空海 774年~835年(真言宗) >一切諸法は因縁によって生ずるから自性はない。
>これを真実の空(実空)とする。
>真実の空であるから、特徴がない(無相)。
>特徴がないから行為することがない(無作)。
>行為することがないから、生ずること、あるいは、滅することに住する法を見ることがない。
>この智慧のうちに無生法忍の門に入る。
>(大智度論) 空性とは、一切の見解からの出離であると勝者たちによって説かれた。
一方、空性という見解をもつ人々については、成就不能の人々と呼んだのである。
(『中論頌』一三・八)
「空性という見解をもつ」とは、たとえば、「空であるものは、一切のものである」と主張するような場合である。
空性を見解としてもってしまうと、空性に到達することはできない。
もし空性を見解としてもつなら、最強の論理になってあらゆるものに適用できる。
そうなると、逆に、空性という見解それ自体は空性の論理が及ぶことができずに、一切世界からはじき出されることになるのである。
したがって、仏教においては、「空」を持ちだして、反対する人々と争うことはない。ここは重要である。
「空」は、空っぽという意味のとおり、人々を圧迫したり威圧したりすることはない。
空は、けっして人々に苦痛をもたらすことはないのである。 お前の正体は分かってるんだよ。
スレが汚れるからやめろ。 四記問或いは四記答(一向・分別・反問・捨置)
相手方の質問形式の違いにより
一向 ~ 適切であればそのままに肯定
分別 ~ 理に適うかをどうかを分別して諾否する
反問 ~ 即答を避け反問して問意を問い、或いは反語してその誤謬を悟らしむ
捨置 ~ 非理・無効化の場合に沈黙し放置する 真如諸縁
『起信論』には、真如に不変真如と随縁真如とを説く。「真如」を明瞭に説くことは、中観派にはまだなく、瑜伽行派になって明確に説き出された思想である。
しかし唯識派の真如は「真如凝然」であって、現象の諸行無常の世界に無関係な真如であった。真如は請法の内面的な実性であるが、しかし諸法の外面の差別相の、その差別の原理とはなりえないと考えられていた。
「真如」とは何かというに、真如は現象世界の本質である。一切のものが真如である。真如でないものはない。したがって真如を認識の対象として理解することは不可能である。真如を認識の対象とすると、自己は真如から漏れてしまい、真如でないものになってしまうからである。それでは「一切が真如である」ということはできない。そこに、真如が理論理性では捉えられないもの、禅定における般若の直観によってのみ把捉できるといわれる理由がある。換言すれば、真如を知るとは、自己が真如であることを自覚することである。それは、真如がみずから真如であることに目覚めることである。そこでは主客の区別は消失しており、一切が真如になった世界である。それ以外に真如を知る方法はない。換言すれば、悟りの智慧が真如である。唯識ではこれを、根本無分別智という。無分別とは直観をいう、洞察のことである。
(続く) 次に、この無分別智の洞察に立ちながら、相対的な差別の世界を認識するのが、後得智である。これは「仮智」である。現象の世界は刹那無常であるから、実体としては掴まれない。現象を実体として掴むと、真如は失われる。この根本無分別智と後得智という図式は、唯識でも『起信論』でも同じであるが(ただし『起信論』には、この語がそのまま使われていることはない)、その理解の仕方が異なるのである。
『起信論』では、不変真如は根本無分別智で知られ、随縁真如は後得智で知られると理解してよい。ただ『起信論』では、両者が共に真如であって、真如は一面では自性を守って「不変真如」であるが、他面では自性を守らないで、無明に色づけられて随縁真如となり、現象界の根拠となると考える。すなわち、真如は最高の普遍者であるから一性である。一性である点が不変真如である。そうでなければ、現象の雑多性の根拠とはなりえない。しかしここにとどまるならば、不変真如だけで、唯識の真如凝然と同じになる。『起信論』はここにとどまらないで、真如は現象界成立の根拠であるから、その無限の差別相を可能にする「性功徳」を具えていると見る。
すなわち、真如は最高の普遍者であるから二性であると見れば、唯識説の真如である。しかし真如は一であると共に、無限に豊富な力を持つ、そして現象界成立の原因になると見れば、『起信論』の真如の見方になる。これは真如をそのまま如来蔵と見て、迷いに在る佛身と見るからである。
(続く) 先に、真如を知るとは真如になることであり、真如と真如を知る智慧とは別のものではないといったが、ここに悟りの智慧が、すなわち真如であるという結論になる。『起信論』が、真如を如来蔵と見る理由はここにある。
しかも真如を智慧と見ると、智慧は豊富な力を具えているから、真如に無限の力を認めることになる。これは『起信論』の真如の見方である。すなわち真如を理のみと見れば、唯識の真如観となるが、真如は理であると共に智であると見れば、『起信論』の真如になる。
この見方では、真如は佛身であるから、無限の性功徳を具えるのである。それが凡夫においては如来蔵となり、無明煩悩と交錯して、心の世界としての現象界となっていると見るのである。すなわち真如を一性と見ながら、同時に、無限の性功徳を具えていると見るのが、終教の真如観である。
この無限の性功徳を具えている点で、随縁真如となる。真如が自性を守らず、無明の薫習に誘われて、みずから妄境界を現出すると見るのが『起信論』の見方である。「真如は自性を守らない」とする『起信論』の見方は、法相宗の絶対に認めないところである。真如を理のみと見れば、理は活動しないから、真如が現象界に活きかけることはありえないからである。
これは、真如を理のみと見るか、理智不二と見るかの違いである。そして『起信論』では、悟りの清浄な智も、時と場合には、無明煩悩に染められ、汚れると見るのである。理は迷に在っても汚れないが、智は迷に落ちこめば汚れるのである。唯識は真如を理と見るが、『起信論』は理智不二の如来蔵と見るのである。真如と現象界との関係は水と波の関係で説明されるが、水の外に波はなく、波の外に水はない。水波は不二である。現象(諸法)と真如は不二である。この点の理解は、唯識も『起信論』も同じであるが、唯識は、無限に変化する波の差別相は水から生ずるのではなく、波自身にあると見る。これに対して『起信論』は、波を作る力が水に具っていると見るのである。しかし水に波を作る力が具っていても、風が水を打だなければ波は生じない。この風にあたるものは「無明」であるという。無明の問題は、別の問題になるが、ともかく真如に不変と随縁を認めるのが『起信論』の立場であり、随縁を認めないのが唯識の立場である。 本覚の義というは、始覚の義に対して説く。始覚はすなわち本覚に同ずるを以てなり。
始覚の義というは、本覚に依るが故に而も不覚有り、不覚に依るが故に始覚有りと説く。
(大乗起信論 正宗分・解釈分) 大乗起信論に曰く
>本覚の義というは、始覚の義に対して説く。始覚はすなわち本覚に同ずるを以てなり。
>始覚の義というは、本覚に依るが故に而も不覚有り、不覚に依るが故に始覚有りと説く。
>(大乗起信論 正宗分・解釈分)
初めて覚ることに依って、本来覚ってる世界があることを否定しようがない、って事だと思うんです。
本来覚っているからこそ不覚があり不覚があるからこそ始覚が有るという理屈なんです。
だからこそ「悉有仏性」であり「奇なるかな、奇なるかな、一切衆生悉く皆な如来の智慧徳相を具有す。ただ妄想執着あるがゆえに証得せず」なんです。 何かしらの真如や法性が存在してると云うのは発出論であり、仏教の主張するところではないんです。
(大乗起信論を読む 竹村牧男 P73 ) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています