マインドフルネスPart.26
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マインドフルネス瞑想は、宗教色を抑えて広く活用されやすくしたものですが、その元には宗教があります。
そこで当スレでは、マインドフルネス瞑想を主として、派生的に、あるいは根元的に宗教的な話をしましょう。
当スレで採用するマインドフルネス瞑想の定義については、Wikipediaをご参照ください。
マインドフルネス - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/マインドフルネス
『マインドフルネス(英: mindfulness)は、今現在において起こっている経験に注意を向ける心理的な過程であり、瞑想およびその他の訓練を通じて発達させることができる。
マインドフルネスの語義として、「今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること」といった説明がなされることもある。』
マインドフルネス瞑想は、その源流となった仏教瞑想を越えて、広い範囲でマインドフルネスの名称が冠される状況であり、宗教、健康法、心理学の各分野に今や広い裾野を持っています。
当スレが話題の対象とする「マインドフルネス瞑想」は上記定義のものですが、それ以外のマインドフルネスを冠する技法や、
瞑想一般の話題、呼吸法、マインドフルネス状態を喚起する瞑想以外の方法についても、禁止ではありません。
単発IDであっても過剰な発言量にならないよう程々に情報交換しましょう。
また、感情的なレスのやり取りは周りにも迷惑ですので控えてください。
前スレ
マインドフルネス Part.25
http://itest.5ch.net/rio2016/test/read.cgi/psy/1578830093 スマさんもスマさんの理解も空だから何も言うことないでしょ >>879
涅槃は言語概念を超えているので、
言語説明上の相違は、おそらく到達する境地の相違を意味していない。
大乗仏教の祖である大迦葉は阿羅漢だし、唯識の祖である無著も世親も阿羅漢。
釈尊のもとで悟って後、世界中に散っていった阿羅漢たちが大乗仏教を広めて
いった経緯を考えても、阿羅漢を卑下するのは間違い。 初期仏教の三宝印における一切行苦が、諸法が苦であることを示していることと、
大乗仏教の四宝印において涅槃寂静と言われることは、コインの表裏であって同じ。
一切は縁起に依っているため無常であり dukkha 。
一切に含まれないのは涅槃だけで、その涅槃は不生不滅にして寂静。
同じことの二つの側面。 ところで、空即是色の場合、三界の無色界はどういう扱いになるの? >>916
>空に四諦も縁起もないよw
空は縁起の言い換え表現。
龍樹もそう言ってる。 >>953
卑下と読めるあなたの読解力を疑う
小乗の考え方では我々在家のマインドフルネス実践者には
手が届かないところに苦の滅があるということです
出家者として阿羅漢となることへの評価など何もしていない
信仰の篤い衆生にとって阿羅漢が居るということは大変価値のあることでしょう アスペはスレ汚しまくって躾がなってない犬みたいな奴だな
このスレの大半はお前のウンコみたいな主張で埋め尽くされてるのだからちゃんと次スレ立てろよ
それが他の人に対するせめてもの礼儀だよ 卑下というか、涅槃に違いがあると思っています、ということですよね。
現法涅槃の大乗は
滅尽定や入滅時のはつ涅槃とは違うんだぞ、という主旨だと思いますが、
阿羅漢や如来が日常生活で現法涅槃に達していたとすれば、大乗の大悟
していた人と同じ境地にいたっていうことになります。
そして、如来がそうでなかったとは全く思えないし、阿羅漢は覚りにおいて
ブッダと同じとも言われています。 龍樹のような高度な論理哲学を駆使しなくても、空性の悟りは体感として分かる
と思いますし、出家するような人々や、出家修行の意義や価値を理解する在家
にとっては、言葉による論証よりも、行による証悟の方がずっと価値があるんですよ。 >>959
全然そんな話ではないですね
マインドフルネスの話をしていますよ?
マインドフルネスを広めたのは大乗の人達です
ティク・ナット・ハンの本なども不断煩悩得涅槃の立場から書かれている
彼のベトナム戦争時のエピソードなどからしても世俗に生きる菩薩としての説得力があります
カバットジンの『マインドフルネスストレス低減法』の原題は
『Full catastrophe living: using the wisdom of your body and mind to face stress, pain, and illness』
ですね
出家して阿羅漢に悟るという極稀な卓越した修行者でなければ得られない苦の滅
それを目指すことがマインドフルネスではないでしょう?違いますよね?
と言っているんですよアンカー先のレスでは 出家でも在家でも、対峙するのは自分の五蘊ですから、
世俗に身を置いているから偉いというわけでもなければ、劣っているわけでもないし、
出家しているから偉いというわけでもなければ、劣っているわけでもないと思いますよ。
方便でしょう。
人それぞれ理解できる方便が違うだけで。 優劣を見ようとしてるのはあなたでしょうね
再三言うようにこちらはそこに優劣は付けてませんから
目的が違うと言ってるのですよ
モノサシがあるとすればそれが違うということです 阿羅漢とか解脱とかそんなことはマインドフルネスには関係ないでしょうw
苦が滅すればいいのだから
不断煩悩得涅槃の大乗とは価値観が合う
テーラワーダは阿羅漢を目指すものです
生まれ変わりたくない、解脱したい人がやるものでしょう
マインドフルネスとは目的が違う
だからそこでは評価などしようもないんですよ
自分はなんべんでも日本人に生まれ変わりたいですねw
論点はそこじゃない
目的の違うものを「俺たちが本物だ」と言って押し付けに来るのがおかしいでしょ
と言っていますよ?
テーラワーダスレに「アナタは神を信じますか?信じなさい、地獄にオチますヨ!」
とか怒鳴り込まれたらどう思いますか?ということです
いつかテーラワーダスレを見に言ったら桃太郎さんという創価の方が暴れていましたね
だから僕は法華経では独覚乗、声聞乗、菩薩乗は等しく悟りに至るものだと書いてある
とレスしました
桃太郎さんは日蓮宗、創価の分別を振り回してテーラワーダを貶していましたが
まあ僕は全く興味ないので、スレ閉じましたが
ここでテーラワーダの価値観を押し付けるのは桃太郎さんと似たようなものだと思いますがね? >>952
一〇 世俗の表現に依存しないでは、究極の真理を説くことはできない。究極の真理に到達しないならば、ニルヴァーナを体得することはできない。
一一 不完全に見られた空は智慧の鈍いものを害する。あたかも不完全に捕らえられた蛇あるいは未完成の呪術のごとくである。
スマナサーラ氏のは世俗の表現、そして世俗諦において正しいのかどうかが問われています。
またその空は不完全に見られているのではないか否かというところも。
>>954
テーラワーダでは涅槃は無為法という法分類で一切の内。色、心、心所と並んで自性を有する法であり、勝義諦の一つです。
>>955
受想行識亦復如是
無色界は識無辺や非想非非想の言葉で分かるように亦復如是の受想行識側。
般若心経の元になっている大般若経では亦復如是で略さずに「受想行識不異空。空不異受想行識。受想行識即是空。空即是受想行識。」と説かれています。
>>960
龍樹は高度なアビダルマ哲学への反駁として中論を書いただけで、空自体はそんなにややこしいものではないのですよ。
但し本当に理解するためには知的理解ではなく実践して体感するものであることが中論25章で説かれていますけどね。 やっぱり・・w
>>961 >>964
『仏教とは別の〈「苦の滅」へ向かう道〉』 という種類のマインドフルネス、
ということで、
やっぱり新興宗教。
なぜ、仏教ママでいけないのか?
もともと、行法の一部を通出濾過したものだった筈なのに。
勿論、抽出なので、その背景としてしっかり、仏教的世界観、教義、価値観をベースとしている筈だけれど。
上のにレスを見る限り、
(まさに、大乗ムーブメントが拡がった時のように!)
現在地球上に存在する度の仏教と袂を分かって、悟りを目指そうとする
新たな宗教の誕生と言わざるを得ない。
勿論、日蓮系親鸞系含め、従前のものに満足できず、或いはそれらへの嫌悪・否定から
派生してくることがあっても、それはそれで流れというものかもしれんけど。
で、上の2レス他は、現行上座部への嫌悪から、
現行上座部とマインドフルネスを徹底切り離したいベクトルから出てきている、
と分析してみた。 誰だったか有名人僧侶が解説してたが
日本でいわれてるような一切皆苦は誤訳してるらしいぞ
常時、全てが苦というわけではなく
苦の存在を自覚しようみたいな教えらしいぞ
たとえば生まれたての赤ちゃんが、老いや金銭面や病気の苦しみをつねに感じてるのか 人間版の諸行無常というか、陰陽、始まりと終わり、生と死みたいなことで
苦以外の両方あるが、とくに苦に焦点を当てたやつ 諸行無常と諸法無我はほぼ一緒でどっちか削ってもいいかと
そこに一切皆苦もふくまれると考えると
2つ、諸行無常(諸法無我)・涅槃静寂で十分かと >>967
正確には「一切行苦」だということでしょ。
けれども、それでも意味としては変わらない。
sabbe saGkhArA dukkhA 一切の行は(すべて作られたものは)苦なるものである
というのが原文だから。
この世に、「saGkhAra」(行、有為、作られたもの)以外のものが存在しない以上、一切「皆」苦という意味になる。
(現行パーリでは、この一切以外のものが一つあって、それが涅槃であるとするけれど。)
※(苦(dukkha)の語義に関してはhttp://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1570680353/455-462
という疑義も、近現代仏教学の中では度度指摘されてきてることだけど。
つまり、〔世界は、「苦なるもの」ではなく、「自在にならないもの」である〕、と。) 世界各地どこでもそうだけど、特にインドは
三つにまとめる収まりの良さを好むからw >>969
日本だって三大何々とか、三本の指に入るだとか、相撲で言えば
横綱大関関脇を上位三役と言ったり、色々出てくる。
勿論、「八」や「七」、「五」「十」なども、キリのいい数字として好まれるけど。 >>966
ああそういう認識になるんだww全く考えたこともなかったww
教えに執着している人はその様に考えて居るんだと気づかせていただきました
仏教だってキリスト教だって、どの宗教だって衆生が求めるものは生老病死の苦からの脱却ですよ
そのために用いられる物語が違うだけ
テーラワーダのグナラタナさんの本も他教徒の人たちが祈りを深めるために参考になれば
と書かれていますよ
マインドフルネスということで出されている本は宗教的にはそのスタンスで書かれているのが
普通ですね
つまりマインドフルネスは宗教未満のものですよ
鈴木大拙の言葉を借りるなら「光あれと言う前の神の地平に立つ」のが禅でありマインドフルネスでしょう
テーラワーダだって十分にコッテコテの信仰ですよ
その自覚がないから桃太郎さんと同じだと言っているんです 一切皆苦は諸行無常の補足みたいなもので
盛者必衰に近いかと
盛者必衰
おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。 やっぱり「仏教」という伝統の中には仏陀の悟りは伝わっていないということ
少なくともこのスレの仏教的な教理による話の大半にはそれを強く感じますね
そうして過去2000年以上、膨大な数の人たちが誤解を元に「教え」を振り回してきた
経典にははっきり書かれているのに読めてない連中ですよ
もちろん瞑想もできちゃいない連中ということです
禅だって仏教の「教え」からは離れようとしてきたけれど
仏陀の悟りそのものからは全く離れてません
マインドフルネスというのは禅に仏陀のメソッドが入ったものであり
禅の最新バージョンと言えますな
より宗教色は廃され、仏陀の悟りそのものへのダイレクトなアプローチです 無明 - Wikipedia
無明とは、仏教用語で、無知のこと。また真理に暗いこと、智慧の光に照らされていない状態をいう。
無明は苦の根源であり、最初の因縁の輪に結びつき、繰り返す転生の始まりとなる。
十二因縁では、すべての苦は、無明を原因とする煩悩から発生し、智慧によって無明を破ることにより消滅すると説く。
我というものが存在するという我見が無明である。
無常であるものを常住と見るが、それが失われると苦しみを生じる。
すべての苦しみはこの無明を原因として発生すると説く。 >>975
マハシは無明だと言うんですか?
確かに刹那滅では仏陀の悟られた真理には到達しませんが…
そこまで言うこと無いじゃないですか、酷い><
冗談はさておき、マハシだって新興宗教でしょうよw 一切皆苦の内容としてはこういったほうが近いのかとおもうが
本人に自覚の無いストレスや体調不良により、
突然死、過労死する人に対して
死ぬ前にストレスに気づいて対処しろよという 釈尊の話直接聞いてみたら
もっとアホみたいにシンプルな話しだったりしそうだよね >>979
君は教義のないマインドフルネスは新興宗教だと揶揄するのに
教義を押し付けて人を殺すマハシは新興宗教だとは言わないんだよな
ダブスタと言うか、かなりの欺瞞だよね >>974が新興宗教だと言うなら
ティク・ナット・ハンもカバットジンも、それどころか禅も新興宗教だということだぜ?
>>979は自分が何言ってるかわかってる?それともわざと釣りやってんの? 仏教は、古代インドの新興仏教。
現代日本仏教の殆どは鎌倉時代の新興仏教。 達磨以降、特に馬祖六祖以降が、
いかに驚愕的な新興仏教だったか・・・w >>982
> 仏教は、古代インドの新興仏教。
意味がわかりません ああ、書き違い(というかコピペミス)
訂 >仏教は、古代インドの新興宗教。 禅は全くもって仏陀の真理そのものを反映したものですがね
「教え」にしがみついている人からすると「驚愕的な新興仏教」ということになるのは
わかりますよw
自分も一時期騙されかけましたから、このスレで そう言う人が多いのも知ってるw >>986
自分もそう思う部分あるし。
禅は、最も異端だけどその分直系足り得てる、と。 (ゝ_ )b >>987
> そう言う人が多いのも知ってるw >>986
その人達が正しい
思う部分があるという程度では仏陀の悟った真理を信じていないということなんだ >>990
パーリ経典を正しく読んでから言って下さいね >>987
マハシは異端だけれどその分直系たり得ていないからね 禅的な修証一等の態度でマインドフルネスをやるというなら
それは結構なことだ
しかしマインドフルネスを得るには魔境を乗り越える必要がある
これには機根が必要だが、乗り越えられないなら修証一等になっていない
修証一等というのは、思いを超えたところで坐るということだ
修証一等でなければ魔境を超えるのにそこに「教え」という信仰が必要になるのも尤もなことであって
テーラワーダスレに行って「やいお前らのは信仰じゃねえか」なんて言ったりしないw
テーラワーダはコッテコテの信仰だが
メソッドは仏陀のものだ(少なくとも外形上は)
何故外形上は、なんていうのか?
慈悲の瞑想とは「修証一等」ということそのものだからだが
テーラワーダからはそんな話は聞いたことがない
しつこく慈悲の瞑想を推すのも実はそこなんだw
修証一等ならば慈悲の瞑想を拒否するはずがないのだから
自分には藤田一照さんが慈悲の瞑想を自分の坐禅に取り入れられないと
していることは実に残念なことだと思う
駒沢大学で博士号を取ったスマナサーラ長老はトボけているのか
それとも本気で気づいていないのか…w > ID:zz/Vehw5
まずお前は>>980 >>981で言われたことをよく考えてからレスしてこいよな
(ゝ_ )b >>993のつづき
しかし、では「慈悲の瞑想やってる俺が慈悲の主体だから慈悲を施してやんよ」
なんていうことが出来るかと言ったら出来ない
慈悲は無為の働きだからだ >>997
わろたw
自分の理解では仏陀は生老病死の苦から逃れようと出家なされた
解脱というのはその過程の一つの説明の仕方でしかない >>998
そこで生病老死から逃れる道を悟って正覚を得てブッダとなり、「甘露(不死の門)は開かれた」と言われたわけですね。 埋めるか
寺和田くんは遠く遠くにいるとされる仏陀を探してうろつき歩いている
あれは東京タワーだ遠いなあ、でも見えたぞあの向こうが虎ノ門だ、よし確かめた!
いいぞいいぞ
あれがスカイツリーか遠いなあ、でも確かめた!
この調子だ!いいぞ!
俺は東京から解脱しなきゃいけない
こんな俗な都会から解脱する男なんだぜ!
きっと、きっと、絶対、あの向こうに仏陀がいるはずだ
だって地図にそう書いてあるんだからな!
お前らもついてこい!仏陀に会わせてやる!
という具合にw
寺和田くん…確かにそっちに牛久大仏あるけどさ…
その地図には「仏陀」って書いてあるかい?┐(´д`)┌
だから「教え」なんていう概念や物語が仏陀の説いたことだと思っているし
仏教理解がそんなもんだから禅が異端に見える
仏陀の悟られた真理が目の前のパーリ経典に書かれていてもその意味が取れない このスレッドは1000を超えました。
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