破草鞋(はそうあい)
禅の修行は一切の妄想執着を断ち切って、真の「無一物」の境涯になりますが、その妙境涯にもとどまる事なくそれを捨て去って、
学んだ法や修した道を少しもちらつかせることなく、悟りだの、仏だの、禅だの、その影さえ窺い見る事が出来ない、馬鹿なのか利巧なのか、偉いのか凡夫なのかさっぱりわからない、
長屋に住む八つぁん、熊さんの手合と同じく、人知れず平々凡々、一個の破れわらじのように、その存在すら知られずに生きていく消息こそが、本当の禅僧の境涯だというのです。他人から有り難がられるようでは未だというわけです。