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--佛教論議の伽藍スレ-- 第五巻
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
0001神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/06/13(木) 09:52:06.35ID:omIq6Dlw
仏教に関するKeyword
「無我」と「アートマン(我)」、「輪廻」や「涅槃(ニルヴァーナ)」などについて、
原始経典(「パーリ五部聖典」や「漢訳四阿含経典」)に説かれているブッダからの教説を中心にして、
激しく議論したり、または有益な情報を互いに交換するためのスレです。
尚、自説の主張に際しては、最低限の論拠や根拠を併せて提示されますよう宜しくお願いします。
基本的に仏典(原始経典)の記述を根拠にしていることが大前提ですが、
もし、そうでない場合には明確な理由を必ずしっかりと説明して下さい。

-------------------当スレの戒律(マナーとルール) -------------------
条項 1.アスキーアートは原則禁止(議論に使用する為の真面目な図解については可)
   2.文章、三行以下の投稿は連投を禁止します---落書き帳やメモ帳ではない
    (チャットような使い方はすぐ1000レス使い切るので辞めて下さい。内容を一つに纏めてから投稿しよう)
   3.コピー転載やリンク貼りのみの投稿は慎んでください。
   4.一行明け投稿や無駄な空間を使用した投稿は遠慮願います。
   5.意味の無い無駄な投稿は完全な犯罪級の荒らしです。スレ主の判断で即刻、退場してもらいます。
   6.南伝仏教(または上座部仏教/南方仏教..)を「小乗仏教」と呼称することは差別用語なので使用禁止です。
    (1950年の世界仏教会議にて決議した)
   7.議論でヒートアップしても相手を不当に侮辱した言葉を使わないこと(節度ある態度で接しよう)
   8.仏教徒として当り前の話ですが、ブッダを侮辱する意味の言葉は厳禁です。即刻、退場してもらいます。
   9.次スレを立てる際は、勝手に「スレタイ」や「テンプレ」(及びレス番2/資料リンク)を変えないこと。厳守!!
  10.円滑な議論のために、当スレでは「コテハン」(固定ハンドルネーム)の使用を推奨します(ただし、強制ではありません)。
 以上ですが、基本的には参加者皆さんの良識に期待します。
0901神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/28(水) 16:21:00.25ID:ACSAhhU1
>まずは、事実を事実として謙虚に受け止めて認めなければならないということ。

>そうでないならば、ただの詐欺集団ですよ。

ここね
0903神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/28(水) 16:23:46.33ID:ACSAhhU1
>>896
>例えば、石飛道子氏との昨年のあのときの議論

何? 何? そんなイベントがあったの?

誰がリンクよろしく
0904ポッタン師
垢版 |
2019/08/28(水) 17:41:40.71ID:UM4ZfqJO
896.無我論が理解できないバカである。大爆笑である。
0905神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/28(水) 18:48:47.31ID:KYgvE3IC
>「ある筈もないアートマンについて(アートマンはあると)誤解を生じかねないそのような正しくない発言は止めなさい」というのが、
>いつもブッダの説かれる“正しい態度と言葉遣い”というもの
0906神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/28(水) 20:34:44.69ID:KrM4D/T7
>>895
>>835のリンク先の相応部阿羅漢経に原文が在りますが、ブッダが認めた「私」とは自我、エゴ、マインドなどと言われるAhaṃ(英語のI)とその目的格であるMamaṃ(英語のme)までで、
私の本体であるatta(英語のmyself サンスクリット語のātman)まで使用を認めてはいません。

この経典からブッダはアートマンを認めたとするのは無理があると思います。

なお、何度も繰り返しますが、

善巧なる者は世間の呼称を知りて、ただ慣用語として、彼は言説することができるのである。

の但し書きをわざわざブッダが述べていることも重要かと。
私という名詞、概念は単に世間の呼称であり、慣用語であり、それ以上のものではない、ということです。

なお、経典の「漏尽者にして最後身」というのは五蘊が滅してアートマンだけの体になっているという意味ではなくで、
生存の素因(煩悩、渇愛)が尽きて輪廻における最後の身体になった、という意味ですので注意が必要です。念の為。
0907神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/28(水) 20:44:07.25ID:KrM4D/T7
>>894
>そうなると、輪廻も涅槃も同じものになるのです。であるならば、修行しなくても、努力しなくても良いことになるのです。

輪廻と涅槃は同じだが修行することで違うものになるということをあなたがよく引用される中村元先生はその著書「龍樹」の解説で書いています。
龍樹はそう考えていたという中村の解説ですが、

「われわれの現実生活を離れた彼岸にニルヴァーナという境地あるいは実体が存在するのではない。
相依って起こっている諸事象を、無明に束縛されたわれわれ凡夫の立場から眺めた場合に輪廻とよばれる。これに反してその同じ事象の縁起している如実相を徹見するならば、それがそのままニルヴァーナといわれる。
輪廻とニルヴァーナとは全くわれわれの立場の如何に期するものであって、それ自体はなんら差別のあるものではない。 」

無明の束縛を解くのが修行ということになるでしよわう。
なお、龍樹は六波羅蜜の修行において最後の般若波羅蜜では説明三十七道品の修養が必要と説いています。
0908神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/28(水) 20:52:08.36ID:KrM4D/T7
>>894
もう一つ、涅槃は無為で縁起しないのではなく、無為なので縁起によって形成されたものではない、というのが正しいと思います。
ただ、涅槃には縁起の対象となる何かが存在するわけではないようなので、縁起しないという言い方もできないでもないと思いますが。


「中論」第二五章 ニルヴァーナの考察

九 もしも【五蘊、個人存在を構成する五種の要素を】取って、あるいは【因縁に】縁って生死往来する状態が、縁らず取らざるときは、これがニルヴァーナであると説かれる。

一〇 師(ブッダ)は生存(J註:原語で有の意もあるとの事)と非生存(J註:原語で無の意も)とを捨て去ることを説いた。それ故に「ニルヴァーナは有に非ず、無に非ず」というのが正しい。

一一 もしもニルヴァーナが有と無との両者(有にしてかつ無)であるならば、それでは解脱は無でもあり、また有である【ということになるであろう】。しかしそれは正しくない。

一二 もしもニルヴァーナが有と無との両者(有にしてかつ無)であるならば、それではニルヴァーナは【他のものに】依存しないで成立しているのではない【ということになるであろう】。何となれば【有と無との】両者は【他のものに】依存して成立しているからである。

一三 ニルヴァーナがどうして有と無の両者でありえようか。
ニルヴァーナはつくられたのではないもの(無為)であるが、有と無はつくられたもの(有為)であるからである。

一四 ニルヴァーナのうちに、どうして有と無の両者がありえようか。この両者は同一のところには存在しえない。それは光明と暗黒とが同一のところに存在しえないようなものである。

一五 <ニルヴァーナは無でもなく、有でもない>という想定は、無と有が成立してこそ成立しうるのである。


これらの龍樹の説は、無為を存在するものとして法に加えた小乗仏教(部派仏教)への批判ではないかと思います。
0909神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/28(水) 21:01:44.00ID:KrM4D/T7
(参考)

貪瞋痴の三毒の壊滅を涅槃というとここ(相応部無為相応)では説かれています。
https://i.imgur.com/E04Y462.jpg
https://i.imgur.com/CUMoJcp.jpg
https://i.imgur.com/jXwf2Zc.jpg

その貪瞋痴も生存の素因と言えるのでしょうが、この根本となっているのは五蘊でしょうね。
ちなみに五蘊は修行の結果空となるのではなくて、最初から空であり、それを正見できるように修行するのだと思います。
0910神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/28(水) 22:40:59.72ID:xsotv8un
>>898
俺は日蓮はナショナリズム(反出世間)だから(仏教的に)アウトという考え

誰も聞いてないって?
09111/5
垢版 |
2019/08/28(水) 23:27:30.45ID:NTZ0HIE9
SN.1.3.5 arahantasuttaM
yo/hoti/bhikkhu/arahaM/katAvI,/khINAsavo/antimadehadhArI
所のものは/である・ある(いる)・なる/比丘は/阿羅漢は/作し終り/煩悩尽き/最後の身を持つ
 『比丘にして、阿羅漢となり、煩悩を尽くして最後の身を持つ者は、』
  片山> 阿羅漢となり、なし終え、漏が尽き、最後の身を保つ比丘は・・・
  中村> なすべきことをなし了え、煩悩の汚れを滅ぼし、今や最後の身体をたもっている真人となった修行僧は・・・
― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―
pahInamAnassa[為格]/na/santi/ganthA
慢心の捨てられた(人)に/ない/あることが/繋縛が
 『(私という)慢心が捨てられた人には、(それに)縛られるということがなく、
  片山> 慢の捨断者に縛りはなく、
  中村> 慢心を捨て去った人には、もはや結ぶ束縛は存在しない。

 vidhUpitA[pp.pl.N.]/mAnaganthassa/sabbe[pl.N.]
 滅びた(ものは)/(彼の)慢心の繋縛の/一切は
  (私という想いを始め)全ての慢心による捕らわれは滅した。
   片山> 慢の縛りは、みな〔破られて〕いる、
   中村> かれには慢心の束縛がすべて払いのけられてしまった。

  sa/vItivatto/【maJJataM】BD/sumedho
  彼は/超えたものは/妄執を/優れた智慧のある者は
   (愛・慢・見三つの)妄執を超えた、智慧ある者は、』
    片山> その妄執を超えた賢者は・・・
    中村> 聡明な叡智ある人は、【死の領域】Dを超えてしまったので、
09122/5
垢版 |
2019/08/28(水) 23:30:19.33ID:NTZ0HIE9
ahaM/  vadAmItipi  /so/vadeyya
     vadAmi-iti-【pi】C
私は/話す-〜と-【でさえ・としても】/彼は/話す事ができる・話してもよい
 『「《私が》、喋る」と、口にしても(表現しても)よいだろう。
  片山> 言えるだろう、「私が語る」と。
  中村> 『私が語る』と言ってもよいであろう。

【mamaM】[為格]A/ vadantItipi /so/vadeyya
            Vada【nti】@ -iti- pi
(彼らは)【私に対して】/話す-〜と-でさえ/彼は/話す事ができる・話してもよい
 (また、)「(世の人は)《私に》、話しかける」と、口にしても(表現しても)よいだろう。』
  片山> また「かれらが私に語る」と。
  中村>また『【人々が】【〔これこれは〕〈わがもの〉である】と語っている』と言ってもよいであろう。
― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―
loke/samaJJaM/kusalo/viditvA
世に於いて/名称を/善きもの、よくできた者が/と知って
 『世間の名称(の使われ方(仕組・在り様))を、賢者はよく知って、
  片山> 巧みな者は世の名称を知り、
  中村> 真に力量ある人は、世間における名称を知って、
 vohAra-mattena/so/vohareyyA
 (世の)慣例-のみによって/彼は/説明する・示す
  世の習いに従って、話す(会話する)のである。』
   片山> 慣用語でのみ表すであろう。
   中村> 言語表現だけのものとして、〔仮に〕そのような表現をしてもよいのである。
― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―
@、人称別のきっちりした言語ではよく見られることだが、
  たとえ主語として「誰それが」と明示されていなくても
  動詞の語尾の形で「時制も含め、それら」が特定できる。
  動詞vadが3人称複数であるので、想定される主語は当然「彼ら」であり、
  中村さんも「人々が―語る」とすることになる。
09133/5
垢版 |
2019/08/28(水) 23:32:57.02ID:NTZ0HIE9
AmamaMは、A、G、Dどの格でも読める語形。おそらく、中村訳漢訳も
  どちらかと言えばAc.目的格・対格ととっているのだろう。(835リンク先も。)
  Ac.も、時間的・地理的、或いは抽象的なものまで様々な対象を含みながら
  「〜へ向かって」という意味が出るので「誰それに向かって話す」
  と読むことができる。
  Dat.為格・与格で読んでも、「〜の為に、に対して」という構図が取れるので
  「誰それに向かって」「〜へ、〜に」という読みができる。
  水野文法書の文例も、Ac.の例にはない「話しかける・働きかける」際の語形が多い。
  そのため、ここは文脈(下記貼付註釈参照)から、
  また、「『漏尽者による自称』の是非」というテーマの上でも、
  きちんと「対(≒対句)」としたいので、寧ろDで読んだ方が良いようにも思われる。
  そして語義は、「私のもの」(というGen.属格の派生的、或いは
  一語内だが依主釈的読みとして)ではなく、「私」という語義のまま読みたい。
     ahaM vadAmi       mamaM   vadantI
    『「私が」「語る」』←→『(彼らが)「私に」 「語る」』
  中村訳も、文庫註にあるように、下記貼付註を承けて「私のもの」
  という語義で読んでいるのだろう。
  しかしそれでは、漏尽者の主体及び自称の問題から離れてしまう。
  ≪「人々が話しかけてくる対象(主体)として『この私』が実にある」という想い≫
  を、漏尽者は持っているのか?という問いだから。(漢訳もおそらくこちらではないか?)
  勿論、「私のもの」という想いも、斥けられるべき、慢・見としての
  基本概念なので、ここのmamaMも、前句ahaMの意味上の併列・対として
  また、下記註中の、神が挙げている例からも、「私のもの」と読みたくはなる。
  或いは、≪漏尽者(so)は
  「(彼ら漏尽者達は)[私のもの]と言っている(vadanti)」と言ってよい≫
  と読むべきか・・・。結構ややこしいが・・w。
  ポイントは、「誰が」「[私のもの]と言っている」のか見えない点。
  (私が岩波版で感じていたモヤモヤ&違和感はココ。)
09144/5
垢版 |
2019/08/28(水) 23:35:13.91ID:NTZ0HIE9
  また、mamaMは単数形なので、「人々の[私のもの]」ではない。
  もし、下記註を承けて、「[私のもの]と言ってよい」、ならば、
  二句目も【vadAmi】或いは【vadAma】でよい。こちらの対句でも、
  それなりにスッキリはするけれど、【vadanti】である限り、それはない。
  せめて【mamaM】ではなく、-ntiと合わせて【amhaM】他の複数形であるべきだろう。
  (いや、「みんなの」でなく一人一人の個別の発言だから良いのか、単数で・・。)
   *漢訳は、我、我所としているので、或いは「我」と「身体的存在(五蘊)」と
    見たものかもしれないが、漢訳はまた別に考察が必要だろう。(望月辞典を参照した。)
    偈が繰り返されて4種になってるし。

B、ほか異版「yamataM(PTS版)、mAnanaM(Ce.版)、maJJitaM(?)」。
  (もし「水野辞書maJJanA」のAc.ならば「思惟・思弁を超えた、それらに依らない」人、
  とも読める。意は835リンク先と同じい。註では、maJJanA、のこと、
  「taNhA、diTThi、mAna」の三つの妄執、とする。
  (PTS辞書には、maJJanA(f.):『conceit』(taNhA-, diTThi-, mAna-, kilesa-, etc.
  (conceit:自負心、うぬぼれ、独断、私見。他。))
  我見・我慢の文脈で見るならばこちら。片山訳はこれに拠る。

 ※この問いを発した神は、(原文は下記貼付註)、
  ≪比丘たちは 【漏尽者の筈なのに】、
   なぜ【「私」「私」、「私が」、「私の」、「私に」と言う】 のだろう?
   「私」という【妄執(→「慢」(我・我所による我見))が残っているから】
   そのように言うのではないか?
   【それ(慢)によって「私」という語が生じ(発言され)ている】
   のではないか?≫
  という疑問を持ったので、このように質問をした。
  『まさに>>855そのもの』であるが、それは、人として(→凡夫として)
  当然の思考、感覚、発想であることも留意されねばならない。
  凡夫の顛倒(世間の常識)とは、そのようなものだから。
09155/5
垢版 |
2019/08/28(水) 23:37:43.48ID:NTZ0HIE9
C、漏尽者にとって一見相応しくないように見える言葉であっても、
 そうだとしても、そのような語であったとしても、の意。

D、中村訳は、PTS版yamataMに従い、且つW.L.Geigerの読解に拠ったもの。

 ※ahaMの初出箇所(から)にある註。
  〈この神は密林に住む者である。かれは、森林住の比丘たちが
   「私は食べる」「私は坐る」「私の鉢は」「私の衣は」
   などと語る言葉を聞いて、考えた。
   「私はこの比丘たちを漏尽者であると思うが、はたして漏尽者たちには
   このような自己の妄説(attupaladdhi)生じるのか、
   それとも生じないのか」と。
   このことを知るために、このように問うている。〉

  *(片山版の体裁(記載箇所)を信じれば、「mamaMの註」というより、
   この神の発言全体の総括的註か。(そこは原本見ないとわからない。)
   中村訳は、文庫註の書き方から、この内容「私の鉢は」「私の衣は」から、
   「私のもの」という読みをしたものと思われる。)
  *mAnaganthassaは、mAnaganthA+tassa(assa)の短縮形
   とも言われるが、いずれにしろD.G.で読むことになるので
   それほど重要ではないだろう。もし、短縮形であるなら、
   ここは詩句なので、韻律上、音韻の数の調整からのことかもしれない。

― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―

以上、どう読んでも解釈しても、
「アートマン」(及び「真我」)が出てくる理由が見当たりません。
m(_ _)m

が、mamaM vadanti については、まだまだ要検証といったところ。
0916神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/28(水) 23:47:20.15ID:NTZ0HIE9
で、本筋とはまったく別の所で、
疑問や解決の必要のある案件が生じたりもするし、
自身従前の誤解・勘違いが発覚したりと、結局2倍3倍の調べ量になるので、
真面目な「お勉強」になってたりもするのw  >>862
― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―

>>915 一ヶ所訂正。
>このような自己の妄説(attupaladdhi)生じるのか、
 ↓
>このような自己の妄説(attupaladdhi)による語が生じるのか、
0917神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/28(水) 23:50:20.56ID:NTZ0HIE9
ということで、偈文調の一節を改訂再掲

SN.1.3.5 arahantasuttaM(世尊の偈の部分)

比丘にして羅漢たり、煩悩尽きて後有無き者は、
吾今語ると言い得べし、吾に語ると言い得べし。
(吾今語ると言い得べし、吾がものなりと言い得べし。)
世の名称を正しく知って、習いに倣い、法を説く。

我慢を捨てて縛られず、あらゆる慢心滅びし者は、
我我所を超えた智慧ある者は、
吾今語ると言い得べし、吾に語ると言い得べし。
(吾今語ると言い得べし、吾がものなりと言い得べし。)
世の名称を正しく知って、習いに倣い、法を説く。
0918神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/29(木) 00:07:53.26ID:zU1iZDLD
>>907
>なお、龍樹は六波羅蜜の修行において最後の般若波羅蜜では説明三十七道品の修養が必要と説いています。

説明三十七道品→菩提三十七道品

でした、失礼しました。
0920神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/29(木) 16:00:02.15ID:2CiuaGsK
>>907
輪廻とニルヴァーナはそれ自体はなんら差別のあるものではない、というのは生死即涅槃と言って大乗仏教の基本的なスタンスです。

維摩経の仏国品にて分かりやすく説明されています。
http://bunchin.com/choyaku/yuima/yuima065.html
シャーリプトラを凡夫扱いしてしまうというのはどうかとは思いますが(^-^;
まあ初期大乗仏教では声聞、どころか声聞の中で修行を完成させた阿羅漢でさえdisられていたのですが…。
0921参(暫定)
垢版 |
2019/08/30(金) 11:20:02.01ID:6B4ASOLq
漢訳雑阿含巻二十二
(581偈)
〔世〕若羅漢比丘 自所作已作
    もし、羅漢なりし比丘の、自ら作すべき所を作し已り、
  一切諸漏盡 持此後邊身
    一切諸の漏盡き、此の後邊身を持すときんば、
  正復説有我 我所亦無咎
    正に復た「我れ有り」と説き、「我所」(ありと説く)もまた咎無し。

〔世〕已離於我慢 無復我慢心
    已に我慢を離れ、復た我慢心無く、
  超越我我所 我説爲漏盡
    我と我所を超越し、「我れ漏盡を爲せり」と説く。
  於彼我我所 心已永不著
    彼、我と我所について、心 已に永く著せず。
  善解世名字 平等假名説
    (ただ)善く世の名字を解し、平等にして仮に名づけて説く。

(582偈)
〔世〕若羅漢比丘
    もし羅漢なりし比丘の、
           漏盡持後身
          漏盡きて後身を持すときんば、
  亦説言有我 及説有我所
    また「我れ有りと言う」と説き、また「我所有り」と説く。
〔世〕若羅漢比丘 自所作已作
     もし、羅漢比丘の、自ら作すべき所を作し已り、
   一切諸漏盡 唯持最後身
     一切諸の漏盡き、唯だ最後身を持すときんば、
          説我漏已盡
             「我が漏 已に盡く」と説き、
   亦不著我所
     また我所に著せず、
   善解世名字 平等假名説
     (ただ)善く世の名字を解し、平等にして仮に名づけて説く。
0923参2
垢版 |
2019/08/30(金) 15:24:56.74ID:6B4ASOLq
望月仏教大辞典
我所:
我の所有、我の所属、若しくは
我と離れざる物の意。
即ち、我所見の所執たる五取蘊の法を云う。
大乗阿毘達磨雑集論第一に、相応我所、隨転我所、不離我所の三種ありとし、
之を執するを我所見となすと云へり。
百法問答鈔第一に、
「所とは所属なり。余法を我に属するが故に我所と名づく」と云へるは
即ち従属の義によりて述べたるなり。〔我所見参照〕

我所見:
我所を執する謬見の意。
即ち、我が五蘊の法を執して、
我れ五蘊を有す、五蘊の法は是れ我が所属なり、我は五蘊の法の中に在りと計度するを云ふ。
 〜中略〜〜
大乗阿毘達磨雑集論第一に、我所見に、相応我所、隨転我所、不離我所の三種ありとし
「相応我所とは、我は色を有す乃至我は識を有す、
我と彼(五蘊の法)と相応するによりて彼を有すと説くが故なり。
隨転我所とは、色は我に属す乃至識は我に属す。
若し彼れ、此の自在力に由りて転じ、或いは滅し或いは没するを、
世間に彼れは是れ我所と説くが故なり。
不離我所とは、我は色の中に在り乃至我は識の中に在り。所以は何ん、
彼れ実に我は蘊中に處在し偏體隨行すと計するが故なり」と云へり。
〜後略〜



※いずれも、「我と五蘊の関係について」言われている。
少なくともアビダルマ(及び漢訳)では、
一般的日常の「私のもの」ではない。
パーリ等インド語からの現代語訳に見られる「我所」は、
漢訳と切り離し、一般的日常語として見る必要があるもしれない。
0924神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/30(金) 15:33:12.48ID:6B4ASOLq
まあ、阿含の漢訳が、
どこまで素朴な「我所」と読めるか、なんだろうけど。
上記相応部該当詩句が約された時、訳者のなかに、
上掲の専門的限定的意味が意識されていたかどうか。
「我」についても、
アートマンが意識されていたか、それとも自称としての己か・・。
0925神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/08/31(土) 00:35:28.93ID:qeKeLBja
https://i.imgur.com/AIL820l.jpg
大乗仏教般若経典の中でも最初期の金剛般若経の中村元訳の注釈より。

記述の通り説一切有部などの小乗仏教(部派仏教)では無為も実有であると考えられたので無為法となり、法処などと分類され、
一切法の中では「比丘たちよ、なにをか一切となすのであろうか。(略)意と法(観念)とである。比丘たちよ、これを名づけて一切というのである。」
とあるように意の対象の法に無為も含まれることにねりました。

これに対して、法空を提唱する大乗仏教では金剛般若経もそうですが、龍樹の中論で理論武装が強化され、涅槃は実有なる法ではない、
というよりも実有なる法などというものは概念であって本来は有ではなく空であるという主張をしました。

なお、縁起の理法は部派仏教によって分類された五位などの法には含まれていませんので、大乗仏教で縁起の理法まで空としたと言うのは間違いだと思います。

五位
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E4%BD%8D

中論
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&;id=11202115
この中では
第7章 つくられたもの(有為)の考察
が法有を否定したものとして解りやすいかと思います。
0926
垢版 |
2019/08/31(土) 20:53:56.06ID:uc3Q2mQm
自己防衛や自己保存(あるいは拡大〜)というのは人間というより生物一般に
備わった仕組みであり、この事に個々人が執着するのは本能的なことであり、
仕方がない事である〜では済まされないのが仏陀の教えだろうよww
この「自己」に対する「執着」の放棄をどれだけやれるのかがポイントだろうなあ。
だから、我が物というものはなく〜から進んで「無我」の教えに繋がるんだろうよ。
無我の教えはその核心は執着を無くせ〜という事だ。他の事に対する執着などは簡単に
無くせるだろうが「我」に対する執着は最後までしぶとく残るのが当たり前だからなあ。
だが、その我すら残さず無くせ〜だ。
さて、大乗仏教の「プロ」でここまで実践できている人間なんて皆無だろう。
だから、そんな糞僧侶の言う事自体が何の役にも立たん無駄話に過ぎないという事だ。
無駄な行為に馬鹿げた金額(日本での葬儀費用、戒名代〜)など払う必要なし。
0927ポッタン師
垢版 |
2019/09/01(日) 07:51:19.39ID:DVjqSymG
826.無我を理解できないバカである。
大菩薩である。
0929宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/09/02(月) 08:05:40.55ID:L1I9PDqN
>>928
そうそう...。
そういう議論がズ〜と続いてるのが仏教界の実態です!
その原因は単に無知と誤解であり、それがすべて。

テーラワーダの教義ドップリの佐藤哲郎氏と、
ブッダはアートマンは無いという意味での無我は説かなかったが、
けれども、アートマンがなければ輪廻が成立しないと見ているこの相手方、共に理解が間違っています。

『実際は初期経典を読んでも仏教は無我論であり、かつ輪廻を認めています。伝統説が正しいのです。
無我と輪廻を矛盾と捉える発想自体が仏教からズレてます。---中略---
無我と輪廻説は矛盾しないと経典に基づいて論証できれば、ブッダは輪廻を説かなかったとか、
無我は仏弟子の捏造だとか、無理な仮定をする必要は無くなるのです。』(佐藤哲郎)

詳しく取り上げる価値すらないので、この部分だけをピックアップ!
0930宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/09/02(月) 08:12:40.61ID:L1I9PDqN
いやいや.
そうではなくて初期経典を読むならば非我以外にはない。そして、尚かつ輪廻を認めている。
そして、伝統説というのは実は仏典に忠実ではなくて部派教義の信奉者に過ぎない(捏造ではなく仏教学上の事実)。
そもそも五蘊は非我であり、そこにアートマンがないから輪廻するのです。
元々、最初からアートマンというのは輪廻しないからね。その辺をアホは誰も分かってない。あなた方の理解はすべてレベルが低過ぎるから。
ブッダの教えというのは、「アートマンでないから苦があり、アートマンでないから輪廻している」というものです(無我の経文を百遍嫁!!!)。
では、どーやって輪廻してるのか? それは五蘊の「識」だと仏典では説かれている。
ただし、「これをアートマンと見なすなかれ」ということだ(これが重要!!)。
アートマンでなければ三世の時空を超えられないという理解がすべて浅はかだということだ。
そもそも五蘊(識)とは何か? これが唯物論的理解と同じものでいいのかどうかを比較することだ。
とにかく---もっと勉強しろってことです。

「アートマンは無い」という意味での無我説というのは完全に誤解であり、
本来、元々ブッダの説かれたものではなかったが後の部派仏教によって教義として確立されたものだ。
〜この仏教学上において確認された事実というのは、もうほぼ統一的な見解であって殆ど定説とみてもいいものです。
部派仏教〜以来の約二千年来も続いてきたこの伝統仏教の伝承(口伝及びアビダンマ)が間違いだったと確認されたというものなのであって、
これが再びまた、「いや、やっぱり伝統教義はそのままで正しく合っていました」などということにはまずならないでしょう。
それはまるで、地球は太陽を回る惑星の一つに過ぎないと判明したにも関わらず、
再びまた、いやいやこの地(地球)を中心として宇宙のすべてが回っているという理解に戻ることはあり得ないでしょうから!
しかし、その昔は地動説を主張し続けたら投獄され教会に処刑されたのです。

宗教上の迷信を打破するのが学問と研究の成果です。
しかし、宗教で説かれる真理の実体験は宗教上の実践による以外にはない。
この二つは共に正しく必要なことだ。
0931ポッタン師
垢版 |
2019/09/02(月) 08:20:24.31ID:xCt2EkzG
930.929.輪廻は科学の問題である。
それは宗教問題ではない。
バカ宝珠には理解できない。
大爆笑である。
0932宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/09/02(月) 08:37:15.98ID:L1I9PDqN
>>931
だから、すでに科学的に研究されており、
そして“事実として認められている”といったろ!! >>676

何を読んでる(怒)
リンクのページもすべて嫁!!!
0933ポッタン師
垢版 |
2019/09/02(月) 08:46:21.86ID:xCt2EkzG
932.それならば仏教をやめて科学者になれ。
大爆笑である。
それは宗教問題ではない。
バカ宝珠には理解できない。
大爆笑である。
宗教問題をやれ。
0934宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/09/02(月) 09:45:54.05ID:L1I9PDqN
>>933
>しかし、宗教で説かれる真理の実体験は宗教上の実践による以外にはない。>>930

相手してられんから消えてくれ!!
0936神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/09/02(月) 13:32:33.78ID:zuYzx0FB
比丘よ、またここに、一人のひとがあるとするがよい。彼は、すでに覚者を見、覚者の法を知り、覚者の法に順い、あるいはまた、すでに善知識を見、善知識の法を知り、善知識の法に順い、
したがって、彼は、色(肉身)は我(アートマン)であるとも、我は色を有すとも、我が中に色有りとも、色の中に我有りとも、見ることはない…。
一切は因縁の結ぶがままに有り、一切は因縁の結ぶがままに壊するものであることを、ありのままに知ることができるのである。
かくのごとくにして、彼においては、色・受・想・行・識、すべて壊するものであるがゆえに、彼は、われ(アートマン)というものはない。
また、わがものというものもない。
すでにわれなしと知らば、何によってか、わがものがあろうか。
と知ることができるのである。 (相応部経典22.55 増谷文雄訳)
0937ハジ
垢版 |
2019/09/02(月) 13:37:46.20ID:Uc+k084y
自分が沈黙した時に現れる状況は、この実際ある世界に対しての認識の変化と、それに、あらゆることの輪廻だとして
その寂静によってもたらされたもの
それは、認識にないものであるから、それが我であるとかないとか言うこと自体に意味が無い
それでわかることは、その、寂静から空輪廻を正しく見ている状況が維持されるなら苦の滅するだろうということ
実際は世の動きに執着や恐怖怒り、欲望などがあるから難しいが、それらを戒律や止観によってできるようになる方法を説いてるのだろう
その寂静から導かれた涅槃が、我であるとか無いとか、真我であるとかないとか言っている頭脳こそは
空輪廻の世界の頭脳の働きであって、その活動的であるものたちが、縁起して輪廻している実体のない流れてゆくものなので
縁起しているから自性空であるというのを、その、空であると見ている我がいるとするが、それもまた空であるから残るものがない
それ以外の涅槃というものが、ないと言えばおかしくなるし
あると言えば、それもまたおかしくなる
それによって安楽になっているのであるが、それは、智慧の、つまり正しく縁起、無我、空をみているからであるが
それは、そのような個人の側の変化が必要である
0938ハジ
垢版 |
2019/09/02(月) 13:59:43.74ID:Uc+k084y
あらゆることが縁起していると見るには
仏教的な視点からの瞑想、つまり、その智慧の目で見ているという状況が必要である
その時に、この個人は、寂静安楽の涅槃に誘われるわけである
あらゆる物が縁起していることを知る事で苦の消えないのは誰もがそうなのではないか
縁起していることを事実体感的理解にするために、瞑想的な視野から見ていることが、苦の立ち消える効果を及ぼす
この視野が滅尽した涅槃なるものを登場させるとして

その、そこが真の私だと言うことを言う

が、その寂静の導いた先というのは、何とも言えないものであると言う方が正しいのだ

なんかうまく書けんが
0939承狂 ◆r8ruhNH5tmq7
垢版 |
2019/09/02(月) 18:45:33.31ID:GKXJEU8E
こうしたすれ違いを見ると、本当に智度という門は単体では役に立たないなぁと思う。(笑)
当たり前というものは、本当に当たり前すぎて、掴み所がないし、(笑)
また、言葉なんてものには、誠意の欠片も乗ら無いもんだなぁと。(笑)


(^。^)まぁ、キリスト教徒に忠孝を説明しても悪と断じられるしな。(笑)
0940神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/09/02(月) 19:12:27.36ID:wyZxF6i7
>>936
私が持ってる増谷文雄先生訳の相応部経典22.55とは違います。
その経典は相応部にしては長いですし、多分要約しているうちに要約者のドグマを少し入れてしまったのではないかな、と。
大意としては合ってるとも思いますが、原文よりも無我は確定的であるという方向に近づけてまとめている印象ですね。
特にウダーナ(感興偈)の訳の改変に意図的なものを感じます。

https://i.imgur.com/M8H2MyY.jpg
https://i.imgur.com/a8sKdN6.jpg
https://i.imgur.com/ceJmOYK.jpg
https://i.imgur.com/QU5oJdp.jpg
https://i.imgur.com/w0t3XSt.jpg
https://i.imgur.com/RbsNkTd.jpg
https://i.imgur.com/3aebwzL.jpg
https://i.imgur.com/GS0ycvT.jpg
https://i.imgur.com/HPHHgfA.jpg
https://i.imgur.com/nwvLJDv.jpg
https://i.imgur.com/Qm69OhL.jpg
https://i.imgur.com/BAubQ38.jpg
https://i.imgur.com/3QlcThD.jpg
0941神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/09/02(月) 19:16:42.29ID:wyZxF6i7
まあ
https://i.imgur.com/GchPVY8.jpg
この辺りを読むと我(アートマン)がなくても恐れることはないよ、と比丘に諭しているようには読めますが。
0944神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/09/03(火) 06:49:25.05ID:ihsCIlDy
あんまり無我、無我いうと今度はじゃあ輪廻はないんだなとか言い出す奴が出るから
アートマンとかプドガラもそれはそういう解釈として認めた方がいいような気がしてきた
0945神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/09/03(火) 07:45:01.49ID:kahSjZKV
(奈良さんじゃないけど)、
別に「非我」でもいいんだけど、 ≪「有我」とは言っていない≫ わけで。

けれども、「非我」と聞くと、人はすぐに「我はある」と考えてしまうから、
あちこちに、「これはこれこれこういう意味で、このように受け止めなさい」と、
様々な言説(言い回し、喩え)で示されるわけで。(・・・そのものズバリを言うことができないから)

その意味で、
「無我」という言い方にも、それなりの理・利、効能はあるわけで。
0946神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/09/03(火) 10:00:34.48ID:H3pPHR2u
有我、無我は言葉による概念であってそれらは悟りの世界に入れば関係なくなります。
0947神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/09/03(火) 10:11:41.49ID:kahSjZKV
「入れば」でしょ。

目的地に着くまでは道路標識や矢印が要る。
もし、誰かが矢印の向きを逆にしたら、明後日の方向へ行ってしまう。
そうならない為の、八万四千の仏の言葉ではなかろうか、と。
0949神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/09/03(火) 12:25:48.25ID:7zUb1beb
龍樹の、ってことは仏説じゃなくて非仏(の仏弟子)説ではあるんだけど
0950神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/09/03(火) 12:52:16.16ID:kahSjZKV
大正蔵経
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中国人のせいなんですぅ!   o(>_<)o
0951神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/09/03(火) 13:25:13.13ID:EFVv6/RB
常住論者(のみ)に対する答は無我が正解
断滅論者(のみ)に対する答は非我が正解

以上でFA
0952神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/09/03(火) 14:23:35.45ID:8LFVJS+Y
有我←( )→無我・非我

( )=ニルヴァーナ

だと思う
0954神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/09/03(火) 15:57:25.19ID:8xZPnyFn
>>951追補
常住論者が自ら非我を主張することは愚人故
断滅論者が自ら無我を主張することは愚人故
0956神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/09/03(火) 17:19:55.39ID:jLBxr9RW
>>951
私もそれが一番ブッダの考えに近いと思います。
当時は有我説が多かってので無我を説く機会の方が圧倒的に多かったブッダですが、断滅論も邪見として退けているのはあちこちの経典に見られます。

例えば相応部経典蘊相応 22.81 波陀聚落 より
https://i.imgur.com/WldObxR.jpg
https://i.imgur.com/utPaOPx.jpg
https://i.imgur.com/NQPwCNI.jpg
https://i.imgur.com/SVzvhfp.jpg
https://i.imgur.com/mSTym0B.jpg
https://i.imgur.com/LoURV1B.jpg
https://i.imgur.com/hFgdHgT.jpg
https://i.imgur.com/i3fCnrs.jpg
https://i.imgur.com/M0kbnbE.jpg
https://i.imgur.com/auiKIcG.jpg

またここではブッダの見解から解き放たれた姿勢としうか立ち位置というか、そういうのが読み取れますね。
09571/5
垢版 |
2019/09/06(金) 12:37:20.01ID:duxSY4j/
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/20/2/20_2_503/_pdf/-char/en
付記
以上の所論は錯雑で不明瞭な点があったので、それらを表示して明確にしたい。
この表のAは正邪善悪が混在した諸法で【黒白未分の】本浄(無自性)を示し、
Bは未分が分かれて凡夫の染汚不浄の輪廻の状態を指し示し、
Cは未分から分かれて聖者の清浄解脱に向かう還滅の状態を示す。
  (別表 https://i.imgur.com/om5kpz4.png )
 この本覚はバラモン教の自我(Atman)と同じものと考えられるかもしれないが、
これを【実体我】と見れば邪説である。
  〔なおここに仏性や如来蔵を本覚とともに無自性のAに入れているが、
  仏性、真如、法界、如来蔵などは、それらの完全態としての
  常住不変の規範(norm、Sollen)は【具体的な現象ではなく】
  【形式的な理法】であって、今のA、B、Cの問題ではない。〕
AやCにこれらの規範が関連しているが、
Aに含まれている仏性(buddha-gotra)は
仏の姓(家柄)であって【仏となる可能性】を意味し、
如来蔵(tathAgata-garbha)も如来そのものではなく
「如来の胎児」であって、いずれは出産して如来となるべき可能性のあるもの
である。これは心性本浄の場合に心は本来清浄無垢の仏陀となる可能性もあるが、
有垢雑染の極悪者ともなる可能性のある【無自性のもの】である。
【本覚もここでは可能態として見た】のである。
 無自性のものであるから、善浄の完全者となる可能性があり、
それに向かって理想意識をもち、常に理想に向かって精進努力することが
仏教の根本趣旨であり、右に掲げた無常偈や三法印などはその最も一般的なものである。
釈尊が入滅近くに、自洲・法洲(自灯明・法灯明)の教えを説かれ、
【無自性の自己】を 理想規範によって、常に理想に向かって進む〔進ましむ(引用者注)〕
べきであるとされ、
また入滅直前にもvaya-dhammAsaNkhArA,appamAdena-sanpAdetha
(諸行―すべての現象―は衰滅無常のものであるから、
お前たちは放逸ならず―我儘勝手な振舞いをせず、―
法に従って理想を現成せしむべきである)と最後の遺誡をされたと伝えられている。
09582/5
垢版 |
2019/09/06(金) 12:39:03.79ID:duxSY4j/
 このように自己と法の関係が極めて大切であって、
親鸞聖人が機(自己)と法との一体化を説き、己れを捨てて阿弥陀仏に任せきるという
機の深信と法の深信を浄土信仰の最要であるとされたのも、
心性本浄の教説と深く関係している ことが知られる。
 なお『中論』の三諦偈も立場が違うけれども、心性のA・B・Cに関連するとも見られる。
すなわち、
 因縁所生法、 我説即是空(A)、 亦為是仮名(B)、 亦是中道義(C)
            (無自性)      (流転)       (還滅)
となって、
無自性空の因縁所生法が、凡夫流転界の仮名となり、
それが非有非空の聖なる第一義ともなるのである。
 さらに仏性等の問題で注意すべきことは、
仏性などの可能態が完全態に向かうために必要な正しい努力についてである。
その努力は各人が生得的にもっている生命力に由来する。
生命力一般は根(indriya)とされ、これは前章で述べたように二十二根である。
根はすべての生物がもっているが、単純な動植物では生命力と雌雄の性力かおり、
それが進んで外界と接触対応する五官等の感覚力を生じ、
これを認識判断する知覚力を生ずるようになる。
 人類ではさらに正邪善悪を判断し、理想目的を立て、それに向かって努力するようになる。
信・精進・念・定・慧の五根がそれである。
さらに人生の究極目的としての完全態を求める三無漏根という力が生じ、
その最後の具知根によって完全の証悟に至るとされる。
「自然法爾」とか「無義を義とする」とか言われるのはそれである。
心の作用が無我無執で自由自在の完全態となったものである。
09593/5
垢版 |
2019/09/06(金) 12:39:37.53ID:duxSY4j/
 ところで道元禅師は仏性を可能態とせず、
右の完全態を仏性と呼んでいる。例えば、『正法眼蔵』の「仏性」巻で、
「仏性は成仏よりさきに具足せるにあらず、成道よりのちに具足するなり」
とされるのはそれである(『曹洞宗全書』宗源上、一八〇頁以下)。
その他にも随所にこの意味で説かれているが、例えば「行仏威儀」巻には、
日常生活が「仏の威儀」を行なうことであるとされ、
本覚の意味について「凡夫の本覚と活計すると、
諸仏の本覚と証知するとは天地懸隔なり」(同、一九七頁上)とし、
未悟の凡夫が説く本覚や仏性は
仏の立場からの完全態としての本覚や仏性とは全く異なる
ことを指摘されている。この点は仏教一般についても言えることである。

“【”“〔”記号、及び一部は引用者が付した。

 ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―
水野選集の心性本浄には付記が追加されてたようで、
参考までに。
09604/5
垢版 |
2019/09/06(金) 12:40:41.20ID:duxSY4j/
ということで、以下、増支部(AN.1.5(49-50)、1.6(51-52))
の心性本浄箇所の解析。
 ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―

5 paNihita/accha/vaggo(41-50)『清志品』(浄信品)( 志向と浄信の章(片山)/向と陰覆との章(荻原) 
志向、意図、意識、(信心)/透明な・透き通った/章)
49、pabhassaram/idaM/ bhikkhave/ cittaM.
輝ける/これが(ある)/比丘たちよ/心が
*「比丘たちよ、この、清らかに輝く「心」というものがあり」
taM/ca/kho/Agantukehi/upakkilesehi/upakkiliTThaM/ti.
それは/また/実に/外来の「によって」(から)/煩悩「によって」(から)/汚れた・染められた(ものである)/と
*「それはまさに、些末な煩悩によって染められている、と。」 
(navamaM/第九偈(がこれである))・・・(*「これが、心清浄を求めるに際して知らるべき九つ目である。」)
50、pabhassaram/idaM,/bhikkhave,/cittaM.
*「比丘たちよ、この、清らかに輝く「心」というものがあり」
taJca/kho/Agantukehi/upakkilesehi/vippamutta''n/ti.
それは/実に/外来の「から」/煩悩「から」/脱する(脱し得る)もの
*「それはまさに、些末な煩悩から脱し得るものである、と。」
(dasamaM.(第十偈(がこれである))

6. AccharA/saNghAta/vaggo(51-60)『弾指品』( 弾指の章(片山)(荻原) )
弾指/ぶつかり合う、指を当て合う/章
51、pabhassaram/idaM/, bhikkhave,/cittaM.
*「比丘たちよ、この、清らかに輝く「心」というものがあり」
taJca/kho/Agantukehi/upakkilesehi/upakkiliTThaM.
*「それはまさに、些末な煩悩によって染まったものである。」
09615/5
垢版 |
2019/09/06(金) 12:41:19.70ID:duxSY4j/
Acc、?
taM/assutavA/puthujjano/yathAbhUtaM/na/ppajAnAti.
このことを(の)/聞かれたことのない/凡夫(普通の人)は/そのようなものとして/ない/知ることが
             →教えに与っていない(知らない)
*「教えに与っていない人(凡夫)は、このことを、そのように、知らずにいるので」(ある。)
tasmA/assutavato/puthujjanassa/cittabhAvanA/natthI/ti/vadAmI/ti.
それ故/知らない/.凡夫「には」/心の修習が/ない(…されていない)/と言われる/と
*「だから)、「凡夫には、心が制御されるということがない」、と、言われるのである。」
■教えを知らない者(凡夫)は、このことを、そのようなものと知らないので
「凡夫には心が制御されるということがない」と、言われるのである。(PaThamaM. 第一偈(がこれである))
52、
pabhassaram/idaM/, bhikkhave,/cittaM.
*「比丘たちよ、この、清らかに輝く「心」というものがあり」
taJca/kho/Agantukehi/upakkilesehi/vippamuttaM.
*「それはまさに、些末な煩悩から脱し得るものである。」
taM/sutavA/ariyasAvako/yathAbhUtaM/pajAnAti.
このことを/聞かれた/聖聞の弟子は/そのようなものとして/知る
*「教えに与る人(聖聞の弟子)は、このことを、そのように、知っているので」(ある。)
tasmA/sutavato/ariyasAvakassa/cittabhAvanA/atthi/ti/vadAmi /ti.
*「だから)、「聖なる弟子には、心の制御がある」と、言われるのである。」
■教えに与る者(聖聞の弟子)は、このことを、そのようなものと知っているので、
「聖なる弟子には、心の制御がある」と、言われるのである。(DutiyaM. 第二偈(がこれである))

補:舎利弗阿毘曇論巻27
心性本浄為客塵染、
凡夫未聞故不能如実知見、亦無修心。
聖人 聞故  如実知見、亦有修心。
心性清浄離客塵垢、
凡夫未聞故不能如実知見、亦無修心。
聖人 聞故 能如実知見、亦有修心。
0962神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/09/06(金) 14:03:14.96ID:duxSY4j/
5になってからは、容量関係なく1000逝くまで良いのかね?
0965宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2019/09/07(土) 15:04:46.74ID:VOWGjOTm
>>962
たぶん1000レスまで大丈夫みたいです。
0966神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/09/08(日) 05:46:13.30ID:NBZv5qdC
>>961
>補:舎利弗阿毘曇論巻27

『舎利弗阿毘曇論』はプドガラを認める法蔵部の所属やね


cf. 天野, 信 - 『四分律』「受戒ノ度」における仏伝の編纂 : 法蔵部の仏伝と菩薩蔵との関連性(p.91)
http://hdl.handle.net/10519/1786
0967ポッタン師
垢版 |
2019/09/08(日) 06:40:44.27ID:FIAMep3e
バカ宝珠は、宗教問題とは何か、を理解していない。
大爆笑である。
経典バカも同じである。
大爆笑である。
0968神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/09/08(日) 16:32:28.03ID:NBZv5qdC
>>961
>vadAmi /ti.
>と、言われるのである。」

よく見たらわざわざ原文も出してるのに人称も理解してなかったり
どこから持ってきたのこの翻訳?
0969神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/09/08(日) 20:57:01.62ID:Z7/PYVq2
>>968
ですね。適当なことしてすいませんでした。 m(_ _)m
当時、ふと頭に浮かんだ言い回しを、
人称照合をさぼってそのまま捨ておいたのだと思われますw

宝珠が最初に出した言い回しが正しい。
http://gimpo.5ch.net/test/read.cgi/psy/1247932847/578
> ・・・・・・それゆえ、凡夫は心を実修していない > 【と私は説く】。
> ・・・・・・心を実修した【と私は説く】。』(『増支部経』I)

比丘たちよ・・・と始まってる一人称だから、
第三者的描写でなく、
「と、私(お釈迦さん)が語る」ですよね。
また、
お釈迦さん自身の教えであり台詞なのだから
「だから、そういうのを○○だと云うんだよ!(怒」
「と、言われるのです」みたいな
他人事(伝聞)のような謂い方はおかしいですね。
(文法無視になるし)。

ありがとうございました。

他の方からも、
こういう指摘・チェックをお願いしたい所です。 七 拝
0970神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/09/08(日) 21:27:18.64ID:Z7/PYVq2
かなり詳しそうだから、文法無視ついでに、
ここ↓まで無視した場合の可否について、御意見いただけると幸いw
                                >>968  m(_ _)m

49.この清らかな心あり、些末な塵に染まりたり。
50.この輝ける心あり、些末な塵を離れ得ん。
51.この清らかな心あり、些末な塵に染まりたり。
  未だ教えに触れざるものは、それと知ることなき故に、
  心調うこと無からん。
52.この輝ける心あり、些末な塵を離れ得ん。
  教えに与る聖なる弟子は、それをそれと知る故に、
  彼の心は制せらる。


※(別に反抗反発じゃなくて、真面目な、極々個人的興味の範疇の依頼(´・ω・`) )
0971神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/09/08(日) 21:36:54.53ID:Z7/PYVq2
あ、出典無しの自作・・。   >>970
(片山訳もまだだし。
 図書館に他各種翻訳を見に行けばいいと言われたら、返す言葉もないが・・・)
0972神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/09/11(水) 09:29:31.28ID:q1gxkv4z
>>970
とりあえず2点だけ

・Agantukaを「些末な」と訳す根拠は何かな?(これは外部からの、客来のが通常の解釈)
・意訳しすぎ

あと基本的なことだけど、誰かの訳を合成して新しい日本語訳を作るのはダメでしょ
パーリ原典に当たろうよ
0973神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/09/11(水) 20:50:11.59ID:ErcsTkte
>>972
> ・Agantukaを「些末な」と訳す根拠は
入滅前、波羅夷以外は廃してよいと言われた時の如く、
三毒のような根源根本的煩悩でない、
「多くの、細々した」「個別に細分化された」煩悩
という意味合を取ったからだと思う(多分)。(upakkilesのPTSがminor stainだったりとか)
(又、PTSに、incidental、adventitionの語があって、
その中の付帯的付随的なんてニュアンスを見てもいいかな、と。(多分w))
自分の最初のメモは、ちゃんとその意味(外来の)で分解してたみたいだし。
 https://i.imgur.com/mSHvPWT.png
 >Tanca kho ?gantukehi upakkilesehi upakkili??ha’’nti.   Navama?.
 >それは、  実に  外来の(…客塵の)、 inst. によって  汚れた・染められた
 >それはまさに、些末な煩悩によって染められている、と。 

で、結局「些末な」で書込んだ↓、と。
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1474820531/295
最初のメモを作った時から、
意図的に「細々した小さな煩悩」と読み替えてたんだな。
>>960でも、自分でちゃんと「外来の」が残ってるのに・・w
怖い怖い・・。

けど、ここでは、(宝珠や在家の)「汚されちまった真我」
という大意を巡っての話なので、御指摘の通り
「外部から付帯した、感化影響している」煩悩
という意味を、しっかり出すべきですね。
0974神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/09/11(水) 20:51:43.45ID:ErcsTkte
>>972
> ・意訳しすぎ
ですよねぇ・・(汗
これに関しては、端折った情報の多さの自覚はありました。
ただ、(これ(ANのココ)を何かに使おうとかいう具体的話ではないけれど)
和讃とか“そういうもの系”の中へ落とし込もうとすると、
勢い大胆に端折った形になっちゃうのよね・・。
でなきゃ、漢訳の専門用語をそのまま使って、音数字数を節約するとか 。
そうすると今度は、硬くて小難しい文になるし。

昔、片山さんが(Snに関しては)色んな人のが幾つもでているけれど、古いけど、
水野訳を絶賛してたから。 確かに、水野さんのは、
ちゃんと意を取りつつ、且つ、詩文の形になってるし。
いや、偉大ですわ・・・。
*(中村さんも、岩波文庫化に際し、本来は詩文調にすべきだが、
  内容の解り易さ(意の直訳)の面で、散文にしたけれど、
  「聞いてわかる」「話し言葉」になるようには気を配った、と言ってる。)

> パーリ原典に当たろうよ
一応、当ってはいるんですけどね・・。
毎回必ず「全単語辞書引き直す」わけではないけれど。
(雑かもしれないけどw)

いずれにせよ、
(得意げに)調子に乗って、裏取りを疎かにしたのも事実なので、
少し反省自重しますw(自嘲)。 そして御意見に感謝。
0975別件
垢版 |
2019/09/11(水) 20:53:05.36ID:ErcsTkte
その岩波の末尾解説見てたら、
他のどの訳よりも、(簡潔で解り易い)原文に近い『直訳』を目指した、とも。
宝珠は、中村さんこそ見事な「意訳」で、
片山さん他その他大勢は「伝統に固執した(原理主義的)直訳」だ
”というような”言い方をしていたけど、
こうなると、何が意訳で何が直訳かわからんくなるね・・w

さて、誰が直訳で誰が意訳となるだろうか。
0976追伸
垢版 |
2019/09/11(水) 22:41:31.83ID:ErcsTkte
>>972
今、上を書き込んだあと、あれこれ再考しててふと思い出したのが、
(忘れちゃってるだけかもしれないけど)
経の終わりの語をどう読むか、がこんがらがっててw

たとえば、経名があるものは、
niTThita、samatta、aTThamaとかと(主格での?)セットで、「○番目の※※※経を終わる/の終わり」
の意味だったと思うけど、
上のANやSNなら、数詞(序数)の曲用になることが多いけど、
やっぱり、他の経と同じく「○版目が終わる/の終わり」の意味で、
niTThita等が略された曲用主格かな?
(目的格だったような気もしないでもないでもなかったり)

*(岩波中村は(たとえばSNなら章(vagga))に関しては、
品名に序数しか付いてないけど、第○章終わる、とかにしてある。 (´・ω・`) )
0977神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/09/11(水) 22:51:06.52ID:ErcsTkte
あ、aTThamaはコピペの消し忘れ。8番目ってだけだ。 >>976


こういうとこですわなw 急いて勢い・流れに乗っかって、念が確立できてない見事な証。

何言われても仕方ないね・・。
0979神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/09/12(木) 16:32:16.88ID:RvBFtg0h
>>973
>入滅前、波羅夷以外は廃してよいと言われた時の如く
そんな記述はないよ

思い込みが激しい人みたいだから
もうちょっと基礎的なことから勉強しなおした方がいい

水野弘元の入門書でも読んで
0980神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/09/12(木) 21:05:44.23ID:RJ1V8F+j
>>979
>そんな記述はないよ

だとしたら、たぶん、貴方と私は違う大般涅槃経を読んでいるのでしょうね。
「言い回しが違う」でなく「記述がない」ということならば。

*(それとも、「波羅夷以外」という言い方が不正確だ(―原文の言い方を誇張している―)
 ということかしらん?)
0981パーピマン
垢版 |
2019/09/12(木) 22:20:05.50ID:OarGqFDl
「アーナンダよ。修行僧の集いは、わたしが亡くなったのちには、もしも欲するならば、
『些細な』『小さな』戒律箇条は、これを排ししてもよい。」 大般涅槃経W.3

(奈良康明)

・・・・・これかな?w
0982パーピマン
垢版 |
2019/09/12(木) 22:26:42.83ID:OarGqFDl
間違ったw Y.3だったw
0984神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/09/13(金) 08:53:22.02ID:2wIH8EZf
>>981
これを「波羅夷以外は廃してよい」と解釈するのは致命的に文献が読めてないから
会話が成り立ちませんな
0985パーピマン
垢版 |
2019/09/13(金) 10:16:24.30ID:oDkJ7qVa
上記Y.3の奈良氏の解説・・・・・

「それほど重要でない戒律を『小戒』、それよりさらに必要性の少ない戒律を『小小戒』と
言います。この小小戒は⇒『都合によって廃止してもよい』と釈尊はアーナンダに告げています。」

オレは奈良氏の見解を了解するだけのことw

それから、何を勘違いしてるのか知らんが、オレはお前と会話する気など初めからないからww
セブンが大般涅槃経に言及してたので、確認にちょっとあげただけww
0987パーピマン
垢版 |
2019/09/13(金) 10:38:28.91ID:oDkJ7qVa
ちなみに、セブンが、
>入滅前、波羅夷以外は廃してよいと言われた時の如く ・・・・

という表現をしたが、これは⇒「仏教の根幹ともいえる重要部分以外は、時代、
社会の必要性、その他の諸事項を鑑み、変更、廃止も可である」と釈尊は言われた

・・・・の意味で発言したと思われる。

大般涅槃経のY.3をどう読むか? については、オレは個人的に
⇒「釈迦はガチガチの原理主義者なのではなく、本質を失わないのであれば細部には
拘らないという柔軟性をもった人物」という解釈でいいと思うがね。

それは「毒矢の喩え」にも表れているし、戒律に関しては提婆達多の「五事の戒律」の
却下にも表れていると思う。
0989神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/09/13(金) 11:14:44.38ID:2wIH8EZf
波羅夷が「重要な戒律」であることはこの場では異論はないと思われる。

>それほど重要でない戒律を『小戒』、それよりさらに必要性の少ない戒律を『小小戒』と
言います。

そして奈良氏の解説に沿うならば、(1)波羅夷、以外に(2)小戒、(3)小小戒があることになる。

>この小小戒は⇒『都合によって廃止してもよい』と釈尊はアーナンダに告げています。

廃止してもよいとされたと奈良氏が解説するのは(3)の小小戒であり、
(3)小小戒を都合により廃止してもよいことは、(2)小戒までも廃止してよいことにはならない。

>という表現をしたが、
>・・・・の意味で発言したと思われる。

こうやって「Aの表現は字義通りではなく実はBの意味である」とするならば、なんとでも言えましょう。

>戒律に関しては提婆達多の「五事の戒律」の却下

デーヴァダッタの五事は(1)(2)(3)へのさらなる(4)付加なのだから、ここで五事を持ち出すことは『大般涅槃経』の

>「アーナンダよ。修行僧の集いは、わたしが亡くなったのちには、もしも欲するならば、
>『些細な』『小さな』戒律箇条は、これを排ししてもよい。」

の解釈の根拠にならないことは明らかでしょう。
0990神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/09/13(金) 11:20:02.24ID:xp/EkBWH
増谷氏訳阿含経の↓を一読すれば小々戒はパーラージカなのか他の何なのかで大論争が起きて、
そのために小々戒とは何かを具体的にブッダに問わなかったアーナンダが長老方に責めらるのが分かるんですけどね。

https://i.imgur.com/pYRN7lI.jpg
https://i.imgur.com/62LrNWo.jpg
https://i.imgur.com/zmLfRp7.jpg
https://i.imgur.com/8NIzMZj.jpg
https://i.imgur.com/2WLqXOJ.jpg
https://i.imgur.com/9REtZC8.jpg
0991パーピマン
垢版 |
2019/09/13(金) 11:43:21.58ID:oDkJ7qVa
なんかアホが、論点ずらして絡んできてるのでww

まず、「波羅夷以外・・・」という表現は、俺が上記したように「仏教として妥協できない根幹を
破るもの以外」という意味合いねw

それ以外をさらに細分して「小戒」「小小戒」として、「小戒」はダメだが「小小戒」は廃止Ok
などとすることは、ここでは意味がないわw
要は「仏教として廃止不可」以外の重要事項以外は、場合によっては変更廃止可という趣旨が
読み取れればいいだけだよw

では、「小戒」と「小小戒」の差異は? 小戒は廃止は不可でも変更は可か?
実際、何をもって廃止可能な決まりなのか?を長老たちに突っ込まれている、アーナンダはw
(結局は、それに答えられず、「仏教として重要事項」以外は、廃止も可  とする理解しかない。)

それから、提婆達多のエピは、あくまでも、釈迦がガチガチの原理主義者ではないことの証左の
一例としてあげたのw

このバカ、まさに「些末な」語句の解釈にこだわって、本質が見えてねえ典型じゃんwww
0992神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/09/13(金) 11:51:29.60ID:2wIH8EZf
要するにオレオレ仏教に適合するように学者の意見だろうと仏典のエピソードだろうと持ち出すのであって
オレの考える仏教の本質にケチをつけるのは些末な議論なのね

すっごいレベルの低いスレだな
0993パーピマン
垢版 |
2019/09/13(金) 12:08:17.21ID:oDkJ7qVa
まとめ

まず、釈迦はアーナンダに「仏教における重要事項以外は」廃止可能 と言った。
@あまり重要でない事項を「小戒」という
Aさらに重要でない事項を「小小戒」という

「小小戒」は廃止可である。 では、「小戒」は廃止可であるのか? それについては
言及がない。 それでは、「小戒」は廃止は不可でも変更は可なのか?
それについても言及なし。 それ以前に、何が「小戒」で何が「小小戒」なのか?さえも
わからない。 (アーナンダがそこを釈迦に聞いてないw)

結局、「仏教として重要でないこと」以外は、場合によっては、変更、廃止も可であると
理解するしかない。

「波羅夷」という語彙の射程をどこまでにするか? という問題はある。
これが、仏教として許容できない事項 という意味であることは異論ないであろうが、
これが「小戒」の一部をも含めるのか?は、わからん。w
なにせ、「小戒」の定義自体がわからんのだからw

以上より、「波羅夷以外は廃止可」と釈迦が言った・・・・・・は、
その意図を慮れば十分、あり得る言い回しだと思えるねw
0994神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/09/13(金) 12:44:20.17ID:2wIH8EZf
>では、「小戒」は廃止可であるのか? それについては言及がない。

言及がないゆえに廃止してもよい、と書いたら勇み足

>結局、「仏教として重要でないこと」以外は、場合によっては、変更、廃止も可であると理解するしかない。

結論ありきやね

>これが「小戒」の一部をも含めるのか?は、わからん。w

”@あまり重要でない事項を「小戒」という”のだから
「仏教として許容できない事項」=「波羅夷」に小戒は含まれないのは明らかだけどね

>「波羅夷」という語彙の射程をどこまでにするか? という問題はある。
>これが、仏教として許容できない事項 という意味であることは異論ないであろうが、



>以上より、「波羅夷以外は廃止可」と釈迦が言った・・・・・・は、
>その意図を慮れば十分、あり得る言い回しだと思えるねw

何だ「その意図」って
0995神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/09/13(金) 12:45:03.52ID:xp/EkBWH
>>993
>以上より、「波羅夷以外は廃止可」と釈迦が言った・・・・・・は、
>その意図を慮れば十分、あり得る言い回しだと思えるねw

それは
https://i.imgur.com/62LrNWo.jpg
この一部の比丘の意見でしかありませんよ。
0996パーピマン
垢版 |
2019/09/13(金) 15:01:41.70ID:oDkJ7qVa
>”@あまり重要でない事項を「小戒」という”のだから
>「仏教として許容できない事項」=「波羅夷」に小戒は含まれないのは明らかだけどね

wwwwwwwwwwwwwwwww

だったら、「波羅夷」 以外 は、変更、廃止可でいいじゃん?www
今、問題となってんのは「廃止可」なのは何か? ということw
@波羅夷・・・・・仏教上重要なので廃止不可
A小小戒・・・・・重要度が大変低いので場合によっては廃止可
Bそこで、問題なのは小戒・・・・・これは、「あまり重要でない」ので、波羅夷ではないが
 小小戒に比しては重要度が高い。 では、廃止可なのか? それとも不可なのか?
 言及がないのでそれを判別することができない。よって、もしかしたら、その中には重要度が
 ある程度あるので波羅夷と同様、廃止不可。または、小小戒と同様廃止しても構わないほど
 重要度が低いものもあるかもしれない。・・・・・そこは不明なのw

そして、今、問題となっているのは「廃止可」「廃止不可」という観点における分類なのだから、
波羅夷と小戒の間に厳格な壁を作って、小戒は波羅夷にあらず とやってしまうと、グレーゾーン
を消し去って、小戒を小小戒と同様に「廃止可」と分類することになるw

オレとしては、そのような乱暴な断定を避けるために、「波羅夷という語彙の射程」と言う表現で
小戒の中にも重要度において、波羅夷に匹敵するほどの戒の存在する可能性を残したわけだがww

wwww お前、おれの書き込みを否定したいだけのバカだろ?

>何だ「その意図」って

釈迦はアーナンダに何故、そのようなこと(場合によっては、戒律の廃止も可)ということを
言ったのか?

釈迦にとって最重要なのは、「仏弟子たちが解脱できること」・・・・・これなわけw
将来的に(今はよくても)仏弟子たちが修行するのに妨げになる戒律が出てくるかもしれない。
そのようなときは、そんな戒律は廃止しちゃいなさい。ただし。仏道に外れるようなことをしちゃ
だめだよ ってことw

ならば、「波羅夷(仏教上、絶対ダメなやつw)以外は、廃止も可」という表現も許容範囲と
いうことww
0997神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/09/13(金) 20:22:14.21ID:2wIH8EZf
>小戒は波羅夷にあらず とやってしまうと、グレーゾーンを消し去って、小戒を小小戒と同様に「廃止可」と分類することになるw

そう考えるってことは「波羅夷以外は廃止してもよい」という結論をすでに出してますってことになるのに
自分で気付いてないのがアレだな
0998パーピマン
垢版 |
2019/09/14(土) 01:24:16.42ID:Fi4Blym3
>>997
wwwwwwwwwwwwww

お前は真正のバカか?w
論点が全く理解できてねえじゃんw

996を百回読み直せ、バカたれがw
1000神も仏も名無しさん
垢版 |
2019/09/14(土) 03:17:04.39ID:EXPIrG7k
パーピマンの言ってることは可能性の話だし
実際に当時の長老で「4波羅夷以外が小小戒である」という見解を示した長老もいたという裏付けもある
パーピマンの言ってることはもう一度、可能性の話なのでおかしくはない


しかし7の
>>973
>入滅前、波羅夷以外は廃してよいと言われた時の如く、

このように可能性の話ではなく小小戒とは波羅夷のことであると断定したかのように書いた文章は誤解を招く元になるのでまずかった
普通に「入滅前、小小戒以外は廃してよいと言われた時の如く」と書いてれば何の問題もなかった
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。

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