【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践16
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
お釈迦さまの教えとサマタ・ヴィパッサナー冥想に関心のある人、実践している人、
体験や変化を 実際に経験している人、初心者、先達の方々、預流果の方々、
更なる成長を求めて語り合いましょう。
前スレ
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践15 [転載禁止]
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1544370283/
※ここはテーラワーダ仏教全般について語るスレであって、日本テーラワーダ仏教協会や
そこの所属比丘についてだらだら語る場ではありません。
日本には他にも上座部仏教修道会、日本上座部仏教協会、日本ヴィパッサナー協会など
多種多様な団体があります、
諸外国においてもタイ・ミャンマー・スリランカ・ラオス・カンボジアなど、国ごとの違い
もあります。
そこを踏まえてご参加ください。 クオリアの問題。
また、唯物論的思考にも強弱の段階がある。
それくらい基礎知識じゃね? >>ALL 特に、こういうスレだと、皆、「物しか存在しない唯物論」一種としか考えてないしね。
愛や友情や悲しみや喜びが無いとまで言い出す始末w
人殺しも問題ないんだろ?wとか悦に入る輩の何と多いことか・・。
そういう問題じゃねーだろ?と。
アートマンを認めるが如く、スピリチュアルな何がしか(エネルギーか霊体かアストラル体か知らんけど)
を認めるくらいなら・神智学のように真我を認めるくらいなら、
甘んじて唯物論の烙印を受容するさ。 ( >>宝珠 w )
>>951
sensation
感覚?知覚?
realization
実現?理解?実行?
感覚・知覚があって
そして
それから理解がある?
たとえば
戒から定(三昧)を生じ
定によって智慧を得
智慧によって解脱に到達し
解脱によって解脱智見を知る
解脱智見とかのことでつか?
日本語で
ご教示よろしくお願い致します m(_ _)m 目の前にリンゴがある
リンゴは実体と思う(当たり前)
しかし、そのリンゴは視覚に取らえられた情報でしかない
リンゴは実は頭の中にしかない 目の前にリンゴがある
手を伸ばしてリンゴにさわってみた
リンゴは確かにリンゴはある
しかし、そのリンゴは触覚に取らえられた情報でしかない
そのリンゴは実は頭の中にしかない 目の前にリンゴがある
リンゴに鼻を近づけて、匂いを嗅いでみた
たしかにリンゴの匂いだ
リンゴは確かにここにある。
しかし、そのリンゴは嗅覚に取らえられた情報でしかない
リンゴは実は頭の中にしかない 目の前にリンゴがある
そのリンゴをかじってみた
リンゴの味がした
たしかにリンゴ存在している
しかし、そのリンゴは味覚に取らえられた情報でしかない
リンゴは実は頭の中にしかない りんごを
目で見て嗅いでみて味わってみて触ってみて
確かにリンゴは実体としてここにある。
これほど確かな事はない
しかしリンゴは実は頭の中にしか無い
と言っても......ね 目の前にリンゴがある
そのリンゴをケツの穴に入れてみた
直腸にリンゴらしき感触がした
たしかにリンゴはある
しかし、そのリンゴは直腸で取らえられた情報でしかない
リンゴは実は頭の中にしかない
いやケツの中にもある
sensation と realization の意味がわからなかったので
とりあえず
パオ・セヤドー realization で検索すると
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2018/10/28/144251
…パオ・セヤドーは
パーリ三蔵全体とその義註及び複注における
相互の関連性を引用しつつ
《涅槃証悟の唯一の道》
(The Only Way for the → Realization ← of Nibbāna)という
当該の著書を完成させたのである
_ _ _
sensation ではなくて
パオ・セヤドー feeling で検索すると
ルアンポル・ティエン師の瞑想法(気づきによる瞑想)の特徴
You should understand that awareness means only → feeling ← or knowing,
not more than that, not anything additional to that.
気づきというのは、ただ感じがあるだけ、または、ただ知っているだけで
「もっと深い意味がある」と思ってはいけません
仮設としての
無明に依存して
渇愛に依存して
妄想に依存して
「もっと深い意味がある」と我執してはいけません
(自分の心身の中に、恒常不変の実体があると考えて執着する我執 >>953宝珠タソ?) 諸法が縁起する中、
≪縁起しない「わたくし」≫
なんぞ、どうして認めることができようか・・。 ビルの頂上から飛び降りてみた。
眼下にコンクリートの地面が見える。
しかし、その地面は視覚に取らえられた情報でしかない
地面は実は頭の中にしかない。
そして、それが最後に見た光景となる。...と言ってもね。(笑
映画マトリックスの見過ぎだよ。
映画の中じゃ、本当に死んじゃうんだけどね。 諸法実相だよ。唯識でも唯物でもない。
「諸法は縁より生ず」とあるように、霊魂とか個我などの実体を想定せず、一切の事象は互いに他との関係性によって生じている。
人間の認識についても、六つの感覚器官と六つの対象との対応関係から識別が生じ、
それによって、接触と感受と表象と意思と統一作用と生命力と注意などの諸法が生起する。
したがって、そこには、主観が先か、あるいは客観が先かといった論が起きるはずがなく、
また、認識の恒常的な主体を立てるという論もありません。
私たちは通常、まず自分(恒常的な主体)があり、その自分が対象を認識するというように考えがちですが、
仏教本来の立場からいえば、それは迷妄にすぎない。
本当はそうではなく、自分という考えが浮かぶのも、じつは六根と六境と触れあった後に起こっているのです。 それを智慧で体験的に知るのか、哲学的・論理的に概念として理解しているのか
そこの差はでかいと思う。
>>962
(たぶん宝珠タソには
仮設・空性・相互依存とかは無理だと思うけど)
了解で おじゃります m(_ _)m
_ _ _
>>951の
sensation と realization の説明が
>>966ということで良いのかしらん? 感覚という物理現象に実感を感じているのは、感覚とは別の精神現象だということです。
仏教用語で厳密に何というのかはよく知りません。
sensation と realization の違いとは、名と色が別物だということで、
知識と体験の違いとは、名と色が別物だということを知識として知っているのか
洞察(体験)によって知っているのかの違い、ということだと思います。
>>968
ご教示ありがとうございます m(_ _)m
https://pao.hamazo.tv/e5605641.html
…
無常・苦・無我を観る
…
生じては滅し、生じては滅しを繰り返しています
そういう「現れては滅して」を観て「無常」を知ります
…
縁によって変化だけを続けていることがわかり
…
「無我」であることを知ります
(「アートマンではない」ことを知ります)
https://docs.google.com/document/d/1k2r4v5JOLpytMl5WtlHTLmzSY8lwKoYisbbO0GE9P-I/edit#heading=h.9g6jsvnq38lw
マハシ・セヤドーは
ニッバーナというのは
認識できないという立場
それに対して
パオ・セヤドーは
認識できるという立場 色即是空だから仏教は物質を一元とする唯物論ではないよ。
色即是空は大乗仏教の言葉だが、中部か長文経典に仏弟子の阿羅漢と六師外道の唯物論者の問答もあったはず。
そこで仏弟子は唯物論を否定している。 >>970
その議論のソースを確かめてみないと判断できないけど、
両者が使っている「認識」という言葉の定義が違ってる可能性はないですか?
あるいは別の角度から言うと、お釈迦さまや阿羅漢の涅槃証悟は、果たして
「認識がない」という体験だったのかどうか。
お釈迦さまの感興の言葉なんかには、みたというニュアンスの表現で溢れて
いたような気がするのだけど。
認識というのは言葉としては、主体(主語)を想定する言葉だけど、悟りは無我
らしいから、言語として表現した時に、真逆の表現で同じことを言ってるという
事態はあり得るのかも知れない。 真逆の表現で同じことを言っている例としては、例えば
涅槃寂静と一切行苦なんかもそうじゃないかと思うんですね。
これ、コインの裏表で同じことのはずなので。 >>970
認識できる、認識できない、と言うときに
はたして「誰」にとってのことなのか、というところでつまずく
両者とも、「涅槃がある」ということについては異論はないとは思うが
心に起こる現象を言語で表現しようとするときに難しさが発生する
せっかく「わたし」を手放したのに、言葉にするときには「『わたし』を手放していない世界」に戻ってこなければならない難儀さ
おまけに話しても伝わらないし そこに、梵天勧請の裏の意味がある。 >>975
なぜ、お釈迦さんは菩提樹の下から立ち上がったのか?
(→立ち上がらざるを得なかったのか?立ち上がりたくなったのか?) 本来、原始仏教では、あくまで自己の体験的覚証を得ることが最第一の関心事ですから、
理論的に論証しようとしたり、誰かと論争したりすることは頭から否定したでしょう。
究極の生命を体得するという修行だけに心を集中することが第一義ですから、それから逸脱する行為は邪道としてしりぞけられたであろうと思う。
「...は、こうである」「〜のようなものだ」と言うこと自体が、聞き手に固定観念を植え付けるようなものであり、
初期の原始仏教では沈黙が最大の雄弁とされて、対話にすらならなかった。
ところが時代が変遷し、滅後約100年して前3世紀半ばアショーカ王の時代、
教団が多くの部派に別れ次第にアビダルマに傾斜して論争が頻繁に行われた。
仏法の理論化、テラワダもこの流れを踏襲しているように思われる。
逆に大乗仏教では天台の一念三千の法門にあるように仏教の完全なる理論と体系化が行われた。
仏は文字によって衆生を教導救済するゆえんである。
小乗仏教の理論化が誤りと言うわけではないが、体験的覚証を第一義とする原始仏教には一つだけ大きな落とし穴があるとされている。
それは、...【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践17で語るとする。※終了 >>975
話す必要がある人が居るからさ
悟りを求むる人が居るならば、可能な限り手助けしたい
全く心動かされないロボットではないので
心は動くんだよ
それに執着しないというだけで
慈悲の心には執着するのかといわれると、答えは難しいけど うん。
まぁ、お釈迦さまのご遺言は、「怠ることなく勤め励みなさい」なのだが。 >>979
ありがたい言葉だよね
ブッダはいまわの際まで弟子たちに対する慈悲に溢れていた
悟りはある、と信じて常に気づきを保ち、瞑想を毎日行う、これに尽きると思うよ 瞑想は大事だよな。
悟りを深めるには瞑想が必要不可欠といわれているわけだし。 修証一如
迷悟一如
煩悩即菩提
生死即涅槃
ですよ >>970
認識出来る
そう
認識しているものは、何か
重大問題 >>983
何が認識しているのか、これを言葉で説明したり、説明されて理解するのは難しいので
最終的には自分で確認するしかないし、それが一番
瞑想しながら、色々去来する思いについて、「これはわたしの本性か?」
「わたしは本当にこの思いを望んで思っているのか?」
「この思いは無常なのか?」
などなど、思いを手放したり、脱線しては元に戻りしながらやってみるとよいと思う
集中を保てるにせよ、脱線するにせよ、無駄な瞑想というものはないと思うので >>121
あんまり仏教知らないけど、一瞬で現象が生まれるの意味はね、悪魔に訊いたよ。
正確にはにはお稲荷さんね、人間が一瞬でも想像した事柄は地縛霊が実際に憑依
して地上で起こしてしまわないと気が済まなくなるんだとか・・。マタイの五章
の28節もそういう話になると思う。良かったら教養の無い俺のスレを見てけろ。
【666】こっくりさんについて【狐狗狸】
https://itest.5ch.net/test/read.cgi/spiritual/1526782495/ 牛の首の意味と件(くだん)の意味がわかった。
これは地上で起きた怪談ではない。
あの世の秘密を漏らすと処刑するぞ、というあの世からの伝言だ。
NAVERの文を読むとわかりやすいが、このタイプの文章は全体から何を云わん
としているか?をハッキリと口にしてない空気を読み取らないといけない。
見張りに目撃されたA村から出てきた男はスサノオだ。
そして、後から口を揃えるように「そんな男はいない」と言ったAの村人たちは
あの世の共犯か、口外すると自分の身も危なくなるあの世の住人。一番怖いのは
今の今までこの怪談話が、あの世からの警告だと指摘する人がいなかった点。
誰もが話の意味をわかっていたんでは無いと思う。ネットなら何人かは
そのように解釈して書き込む人もいるのが自然だから。だから怖くなる。
誰もが意味を把握しないまま、読んで過ぎてしまっているところが。
不安だ、、いつも何故か、私だけが謎を解いてしまう役回りだから。
件(くだん)の件は、あの世で犯された女性の死者が腹いせに秘密を漏らそうと
する前に牛の姿にされてスサノオと同じ権力を持たせる代わりにその後で抹殺
されてしまうというあの世で起きる証拠隠蔽エピソードだったんでは?と思う。
アセンション
http://itest.5ch.net/test/read.cgi/spiritual/1487923535/ つまり、お釈迦さまは確実に悪魔と対談しておきながら、人間には
その背景を説明せず終わった。だから俺が代わりに説明してやった。 悪魔ってのは時代のパラダイム、集団潜在意識みたいなものだと思うけどな 今だったら唯物論的な科学絶対みたいな潜在意識というのは強いから
これに気づいてない人に瞑想の話をすると人が変わったように軽蔑の態度を取ってきたりするでしょう
そういうのが悪魔の顕現だと思ってる お釈迦様の教えは口伝であるのに古い経典に「お経を読みなさい」とかいてあるのはどういうことですか?
経典なんかなかったはずですよ。 バーヒヤさん、それでは、ここに、このように、あなたは学ぶべきです。
『見られたものにおいては、見られたもののみが有るであろう。
聞かれたものにおいては、聞かれたもののみが有るであろう。
思われたものにおいては、思われたもののみが有るであろう。
識られたものにおいては、識られたもののみが有るであろう』と。
バーヒヤさん、まさに、このように、あなたは学ぶべきです。
バーヒヤさん、まさに、あなたにとって、
見られたものにおいては、見られたもののみが有るであろうことから、
聞かれたものにおいては、聞かれたもののみが有るであろうことから、
思われたものにおいては、思われたもののみが有るであろうことから、
識られたものにおいては、識られたもののみが有るであろうことから、
バーヒヤさん、それですから、あなたは、それとともにいないのです。
バーヒヤさん、あなたが、それとともにいないことから、バーヒヤさん、それですから、あなたは、そこにいないのです。
バーヒヤさん、あなたが、そこにいないことから、
バーヒヤさん、それですから、
あなたは、まさしく、この〔世〕になく、あの〔世〕になく、両者の中間において〔存在し〕ないのです。
これこそは、苦しみの終極“おわり”です ☆
>>970
>>972
>両者が使っている「認識」という言葉の定義が違ってる可能性はないですか?
ふ〜む =^・・^= わかりゃんけど.とりあえず
https://suttanipata.com/a/
スッタニパータ 1026
無明が頭であると知れ
明知が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて
(無明に依存している我執)頭を裂け落とさせるものである
↓明知からの解脱智見?↑解脱智見からの明知?
http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%92%E3%81%A0%E3%81%A4%E3%81%A1%E3%81%91%E3%82%93
解脱智見
戒から定(三昧)を生じ
定によって智慧を得
智慧によって解脱に到達し
解脱によって解脱智見を知る
((仮設としての)
我所もなく我もないけど
それでも.とりあえず
解脱の智慧をもって見る? → 知る?) スピ系の本などによく自分に起きている現象(身受)を映画のスクリーンを
通してみているような状態
というのは仏教的になにか名前があるのでしょうか? 大念住経にそのような記述がありますよ。
身をただ身とみる、受をただ受とみる、というのが。 その場合の「見る」は、
はたして、「スクリーンの映像」を見るような「見る」でよいのだろうか? >>994-995
たとえば、生まれつき視覚ゼロの者も、身を念じて観察することは可能だろうし、
意によって身体を化作することも、経典の記述に従うなら可能だろうし。
(視覚の無い者は見ることができない、という制限は無かったと思う)
特にスピ系とか心霊系に多いんだけど、
「見る」「見える」って、 ≪(健常者が視覚に頼るような)『映像としての』見る≫ なんだろうか?
(たとえば「幽体離脱」なんかも、手術中の自分を
【上空から】【見下ろして】【見ている】 なんて言い方が多いけど、
それって、もろに ≪健常者の、映画鑑賞のような(絵コンテのような)見え方≫
なんだよね・・。 映像メディアが浸透する以前の見え方とかも、ちゃんとあるのかしらん? (´・ω・`)) このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 97日 23時間 38分 53秒 レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。