【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践15
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お釈迦さまの教えとサマタ・ヴィパッサナー冥想に関心のある人、実践している人、
体験や変化を 実際に経験している人、初心者、先達の方々、預流果の方々、
更なる成長を求めて語り合いましょう。
前スレ
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践14 [転載禁止]©2ch.net
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1533980076/
※ここはテーラワーダ仏教全般について語るスレであって、日本テーラワーダ仏教協会や
そこの所属比丘についてだらだら語る場ではありません。
日本には他にも上座部仏教修道会、日本上座部仏教協会、日本ヴィパッサナー協会など
多種多様な団体があります、
諸外国においてもタイ・ミャンマー・スリランカ・ラオス・カンボジアなど、国ごとの違い
もあります。
そこを踏まえてご参加ください。 戒律は生活の問題である。
それは悟り、とは関係がない。
バカには理解できない。大爆笑である。 悟り(による心の変性)が生活へフィードバックすんだよ。
パーピスレでもそうだが、お前、ほんと浅いな・・。 >>822 >>822
お懐かしい。大王さんですね。
今ここで語られてるのはテーラワーダのドグマの話です。
戒律と悟りを結びつけるスマナサーラ師が戒律を一切、守っていないというネタですね。 宗教系の板で私が知ってる大王は精霊大王と閻魔大王の二人しかいないが、
それとは違う味わい。
何大王? (´・ω・`) 仏教には本来戒律は無かったが、出家比丘が多くなると真面目に修行しないものがでてきたので、戒律を定める必要があった。
これを随犯随制というらしい。
しかも最終的には戒律を捨て、善悪を捨て、浄不浄も捨てなければいけないらしい。
●本来、仏教には厳しい戒律などなかった
https://ameblo.jp/oomuraoo/entry-12312077417.html でも、「戒」の無い仏教もあり得ないでしょ?
仏の十号、僧伽の九コ、法の六コ、
いずれも、「戒」に直結してると思うけど? 827.戒がない、が仏教である。なんでか。
戒は生活の問題である。
仏教は生活の問題ではない、からである。 w
ほんと浅いなw >>828 そんなに悔しかったか?
生活の問題でないなら、 仏道修行者は、
どこで暮らしてるんだ?何を身に著けてるんだ?
何を食べてるんだ?
誰と会話してるんだ? 法を説くことはないのか?(説くならば誰に対して話しかけてるんだ?)
パラレルワールドのように別世界で生きてるならまだしも、
同じ大地を踏みしめて、同じ空気を吸って、
その上、食事まで施してもらって、
(一般人は勿論)出家修行者自身の生活と乖離した仏教なんぞ、図書館の蔵書以下だろw ┐(´ー‘)┌ 829.バカ丸出し、である。
それならば、金儲け、をやっていろ。大爆笑である。 >>830
仏陀の49年を、おさらいしとけ ( ´,_ゝ`) つか、スーパーマンみたいな仏陀を描かない限り、
必ず
食事をして、排泄をして、休んで(軽く睡眠とって)、
会う人・関係のできた人と会話して、何がしかを語って、
貶されたり批判されたり感謝されたり、
そういう「在り方」(→生活→生き方)無しに仏教は無い、
ってのは、(桃源郷の仙人じゃないんだからw)
シッダッタ以来変わらない筈なんだがね・・・。
神智学の方でどうなのかは知らんけどw ちょっとお聞きしたいんですが、
執着が苦しみになるというのは、それが心の浮き沈みになるから、と説明している経典ありますかね?
掉挙でしょうか?無常なものに執着するから苦しみになる、と書かれているのは知っているのですが。 何かに強く執着したり、貪ったりするほど、心がざわつくと感じているので、浮かんだ疑問です。
経典では何か言われてるんでしょうか。 >>833
ゴータマ王子は“アヴァター”でした。
ヒンドゥーにおける「アヴァターラ」というのは、
“神の化身”という程度の意味合いでしかありませんが、
しかし、神智学の説く「アヴァター」には、更にもっと多くの具体的な説明があります。
アヴァターというのは、この惑星ハイアラキー
(覚者方によって構成されたグループ集団『白色聖同胞団』における地球組織)が
他の天体から招集した覚者存在であり、その主な役割は大きく二つあります。
その一つは、人間のあるべき本来の正しい姿や生き方とか、または弟子としての正しい修行の在り方、等々について、
自らが実演して、実際にその模範を持って示して見せることです。
ある意味では、人間としてのごく当たり前の生涯を送って、最後には他の人間と同様にして病気などによって普通に肉体死に至ります。
ただし、その最後の病気というのも不慮の事故や病気ではないのであって、実際には自らがその死に方を意識的に選択して、
その病気なりを引き起こしているのです。彼らには悪業カルマはないので、いわゆる“不慮の死”というものはないのです。
そして、もう一つはこの惑星ロゴス(主神)の反映として、宇宙的なレベルでのエネルギーの伝導(エネルギーの流出入)を担当し、
この惑星の進化の促進に貢献することです。これは常時、複数人のアヴァターたちの協力関係でなされています
(彼らは主にインドのヒンドゥー圏において出現しており、『南インドロッジ』に所属します)。
対して、
惑星ハイアラキーのメンバーというのは基本的には肉体を持たないか、
或いは、肉体を所持する場合には自らの意志力によって物質創造した(母胎には宿らない)
不老不死の完全なる肉体を使用します。彼らは、数百年〜数千年間その肉体を使用して、
そして、また再び新しい肉体を創ります。
また、
アヴァターたちは歴史上の知られる存在(知られていない者も含め)ですが、
しかし、ハイアラキーの覚者方については、歴史的にその存在が認知されてはいません。
この謎の覚者方の存在について、世界に初めて紹介したのがブラヴァツキーでした。
以上、ご参考まで >>834
なぜ執着すると苦しいのか。
それを探求、確認するのが瞑想でしょうに。
経典を読んでも分からない。
なぜ殴られると痛いのか。
他人に聞くもんじゃないでしょう。
実際に殴られれば分かる。 戒は、三学(戒定慧)の土台だから不可欠だと思いますが
律は本来、僧伽の運営規則ですから、サンガと分けて考える
ことはできないのではないでしょうかね。
律そのものが、三学を護り助ける働きがあるとも思いますけど、
社会文化との整合性も必要なせいか、インド文化圏以外には
根付かなかったようですね。 >>826
仏陀 「善と不善とを捨て去りなさい」
麻原 「戒律など捨てなさい」
まぁ、実際のところ、大分ニュアンスが違うと思いますだけどねぇ・・・。 麻原は解脱者なんかではないし今生でやったことはメチャクチャだけど、もしかしたら
輪廻していくうちに過酷な経験を経て、やがて本物の宗教家(というか解脱者)になる
可能性もあると思う。 そもそもこれは仮想現実で、本当は個人は行為者ではないのだから。
ハーレム状態作ったりおかしな教義で殺人を正当化したり、
世俗の最も醜い部分を体現したような部分がほとんどだけど、
世俗のものさしでは測れないような部分が、たしかに麻原の中にはあった。
そもそも何のメリットがあって、あんなことをやるのか?
国家転覆とかハルマゲドンとか、頭おかしいといえばそのとおりだけど… オウム麻原のタントラヴァジラヤーナ思想のルーツは、
おそらくマルキシズム、共産主義。
本来、相容れないはずの唯物論の共産主義に乗っ取ら
れてる時点で、麻原の宗教家としての側面における底の
浅さは露呈してると思うけどね。 いや、オウムの教義も麻原自身も、底は浅いと思うよ。
古来からのいろんな宗教の断片の寄せ集めだし。
麻原自身、修行なんかマトモにやってないみたいだし。
ただ自分の経験から、個人が行為者であることは認めがたいので、
麻原はその運命で生まれてきた、と考えると、
その方向で輪廻していっていつかは大成するのかな、と。根拠はないけど。 https://www.youtube.com/watch?v=bfHs_pmJjt0&t=682s
4:30〜 「資本主義と社会主義をつぶして宗教的な国を作る」
って言ってるけど、共産主義の思想がルーツなんだ・・
そのへん詳しくないので、初めて知った。 >>802
覚者とかいうのは全員漏れなくペテン師
預言者だの悟っただの霊能者だの霊媒師だの宗教関連じゃ全員そう
だから宗教によって宗派によって時代によって人によってそれぞれ言ってる内容が全く違う
死後、悟り、神、霊魂、この手の話は真偽の確認のしようがないから好き放題言えて昔からこの界隈は嘘つきにとっての天国になってる
言いっ放しで証拠を提示しないやつは片っ端から嘘つきとみなすべき
すると本物なんてどこにも存在しないということがわかる >>847
麻原自身のルーツではないと思う。
麻原と接触していた外国の諜報機関の思想。
麻原のタントラヴァジラヤーナ思想における、目的のためには
殺人を含めたあらゆる手段が正当化されるという思想(?)は
おそらくスピノザやマルクスから来ている。 >>848
物証がないから、ペテン師の温床になってる。
そういう側面も確かにある。
しかし、三学の修習を通して体験智としての智慧に達すると、釈尊の言っている
ことが観測事実として確認できる。
科学的根拠は観測による確認に基づくのであるから、観測によって確かめるのが
本当に理性的であるということ。 観測によって確かめるのであれば、名と色は異なることがわかる。
名は、色ではないので色として提示することはできない。
(精神現象は物理現象ではないので、物質として提出することはできない。)
このことは、詐欺師が悪用するところでもあるし、
精神についての真実を示してもいる。 >>848 の理解に基づけば、本物なんてどこにもないのだから
世界中にある伝統宗教の寺院も、神社も、すべて麻原や幸福
のなんとかと同じものでしかないという話になる。
良くても無害なピカチュウ信仰ということ。
玄奘三蔵の命がけの旅も、愚かのひと言で終わり。
そんなにバカだと思ってるのだとしたら、それはその人の内面
の投影に過ぎない。
高校生以下。 釈迦が五蘊無我の他に真我(アートマン)という言葉を使わないのは、
修行者がそれをイメージして求めてしまうのを嫌がったからかと。
〜ウダーナヴァルガ(感興のことば)より〜
比丘たちよ、生じたのではないもの、現れたのではないもの、作られたのではないもの、
形成されたのではないもの、生起したのではないものがある。
〔さらに一方〕 生じたもの、現れたもの、作られたもの、形成されたもの、起こったもの、
縁起したものがある。 比丘たちよ、もし生じたのではないもの、現れたのではないもの、
作られたのではないもの、形成されたのではないもの、生起したのではないものがないならば、
『生じたもの、現れたもの、作られたもの、形成されたもの、起こったもの、
縁起したものを離れることがある』と私は説かないであろう。
ところが比丘たちよ、生じたのではないもの、現れたのではないもの、作られたのではないもの、
形成されたのではないもの、生起したのではないものがあるから、
だから『生じたもの、現れたもの、作られたもの、形成されたもの、起こったもの、
縁起したものを離れることがある』と私は説く。 問題はペテン師の方にある訳ではなくて、我々に、本物とペテン師を見抜く目が無いことが問題。
ペテン師はいつの時代でも、どの社会にでもいるし、いなくなることは無い。
じゃあ本物は誰か?覚者は誰か?を見抜くためには自分自身が本物、覚者にならなければいけない。
そこに修行の必要性が生まれる。 >瑞巌和尚、毎日自ら主人公と喚び、復自ら応諾す。及ち云く「惺惺着や、喏。他時異日、人の瞞まんを受くること莫れ、喏喏」(『無門関』第十二則)
>
>瑞巌和尚という方は、毎日自分自身に向かって「主人公」と呼びかけ、また自分で「ハイ」と返事をしていました。
>「はっきりと目を醒ましているか」「ハイ」「これから先も人に騙されなさんなや」「ハイ、ハイ」といって、毎日ひとり言をいっておられたというのです。
http://www.rinnou.net/cont_04/zengo/051001.html 一二 火は薪に依存してあるのではない。火は薪に依存しないであるのではない。薪は火に依存しないであるのではない。
一三 火は他のものからくるのではない。火は薪の中には存在しない。この薪に関して、その他のことは【第二章において】
いま現に去りつつあるもの・すでに去ったもの・未だ去りらないもの【についての考察】によって説明されおわった。
一四 さらに火は薪ではない。また火は薪以外の他のもののうちにあるのではない。火は薪を有するものではない。また火のうちに薪があるのでもない。また薪のうちにも火があるのでもない。
一五 アートマンと執着(すなわち5取蘊)とのすべての関係が、火と薪とによって、残りなく説明された。瓶と衣などとともに【すべてについて】説明されたのである。
一六 アートマンは実体を有するものであると考え、もろもろの事物はそれぞれ別異のものであると説く人々は、教えの異議に熟達している人々である、とわたくしは考えない。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9507522 名色分離智について書いたものです。本日、手がかりを得ました。
世滅智を得れば、天界でも修行ができるということなので、ここを目標に頑張りたいと思います。 カルマを増やす行動をすることの方をこそ恐れるべきでしょうね。
親切心で言っていますよ。 智慧は人智を超えているので、人間が先入観に基づいて頭で考えても
絶対に分かりはしない。
舐めすぎ。 考えても分からないし、修行して智慧に達することができる人も稀。
だからこそ信が強調される。
修行できないほとんどの人にとって、信だけが命綱。
瞑想できる人は稀。
慧に達する人は更に稀。
四諦を悟る人は更に稀。 信が強調されると断言する根拠は何
そもそも 信 をどんな意味で使っているのだろうか テーラワーダ仏教国の在家信者は、修行して悟ることよりお布施をしたりして功徳を積むことを重視してるらしいね
そういう人達はブッダを信仰してると言えるだろうね 麻原の宗教的モチベーションは怒りだ
しかし彼はそれを内に見て取ることも出来なかったし、滅することもなかった
怒りに任せた人生だったし、どこにも悟りの欠片もないよ
では何故あれだけ人を集めたか?彼は本質的に詐欺師だからだ
詐欺師の話術を身に着け、宗教をビジネスとして始め、超越者願望のある人間を吸い寄せた
ソ連の工作員に懐柔されたかどうかはわからないが
キリスト教系の救済思想を取り入れた
彼らはバジラヤーナ、ポアと言ってるがキリスト教だ
善悪とかではなく、それが実相
共産主義に利用された可能性は否定できないが、麻原自身の思想は共産主義とは関係ない
無神論で超越者を否定する思想だし、共産主義は民主主義の一形態だ
陰謀論に陥ってる人が居るのはがっかりだ もう一言
麻原は捨てられた可哀相な子でもある
親にしてみれば金がかからずに済むには盲学校に入れるのが良いと思っただけ
兄貴も同じ学校に居たし大丈夫と思ったんだな
片目は1.0見えたから、同級生の中では超越者だったんだよ
カツアゲしたり虐めたりやりたい放題に捨てられた悲しみを発散した
それが彼の人格を作り上げてしまった
彼は中学の作文で将来の夢としてロボット帝国を作って王に君臨することを書いたという
それは彼の中では半分現実だったということだ
オウムでも同じ事をやったんだよ 自らを超越者の座におきながら、ろくに親の愛情にも恵まれず育ち
盲目であるということが既成事実(本当は半盲)としてあり
最終解脱者を名乗り、オウム以前から日本の王になる野望を隠し持った詐欺師だったw
最終解脱はともかく、それ以外のことはほとんど誰も疑わなかっただろう
あまりに規格外だった
なかなか頭の良い生命力のある男だった、ということも忘れちゃいけない
そして、ダライ・ラマの推薦もあり宗教法人の認可が降りた
最終解脱宣言をし、信者の全財産を寄贈させ、ボロ儲けした
そして国家転覆を図った
ソ連と接触しなくとも、その意志は彼にはあった
おりしも超能力ブームのあった時代
特に親に不満がある人が吸い寄せられたと、上祐は分析していた >>864
戒と定がなければ、慧はないから。
戒と定がなければ、慧はないので、瞑想できない、戒律も守れない
という人が慧の恩恵に浴するには慧を持つ人か、慧から出た言葉を
信頼する以外に方法がない。
特に大乗仏教の在家信者向け方便はそうだと思うが、それらが主眼
をおいているのは、
信を持たせることの一点に尽きると思う。
瞑想できる人は、信仰ではなくて、観測によって観測事実として智慧
そのものを確かめるので、信仰ではなく、確信になる。
地球が丸いことを観測した人は、地球が丸いことを知っているので、
もはや地球が丸いと信じたりはしない。
知らない人は、コペルニクスやガリレオその他の天文学者の言うことを
信じるしかない。 「無我」ひとつとっても、概念的に知っているのではなく、実感として知っている人は
あまり居ないはず。 【創価学会は朝鮮族支配のカルトです】
オウムに人材と資金提供していたようです。
犯罪教団のお手本であり創価学会は、現世利益を看板にしてし、おびただしい数の出版物を半強制的に買わせる異常に気持ち悪い卑劣鬼畜外道ドブネズミです。
創価学会は、批判者や脱会者に対し、脅迫、尾行、見張り、嫌がらせ、怪電話、怪文書、暴行、傷害、盗聴等々、あらゆる犯罪的手段を用いて攻撃します。
創価学会を私物化した池田大作の野望は、日本の国家機構を乗っ取り、絶対支配者となる ということです。
同時に、創価学会は、司法界、官僚、警察、マスコミ界等へ、池田大作私兵を送り込む作業を長年にわたり組織的に続けています。
創価学会の会員は何かにつけ込まれ、無理矢理入信されられた方がほとんどです。
つまり、被害者なわけで救い出すチャンスはあると思います。
皆様とともに、どうしたら彼らを救い出すことができるかどうかを話し合ってみたいと思います。
池田大作を信じ、崇拝したところで、幸せが訪れるでしょうか?
創価学会は撲滅するべきです _
その他の入ってはいけない宗教
アレフ、統一教会、顕正会、エボバの証人、法の華
創価学会被害者の会 浪速建設 岸本晃(キシモトアキラ) >>869
オウムの宗教法人認可は石原慎太郎の圧力が決め手だと思う
石原の四男の画家、石原延啓はオウム幹部 死んでから仏になるはいらぬもの 生きたるうちに善き人となれ
死んでから仏と言うは何故ぞ 小言も言わず邪魔にならねば 真のリアリティ、至高の神、=仏
偽りのリアリティ、ジョークの神、=現象世界(宇宙)
真に実在するのは仏のみだが、そこからジョークの神が出てきてふざけてるだけ
この宇宙全体が一つのオバケのようなもん
人間の体や心や意識もそのオバケの一部で
すべてはこのオバケが1_の狂いもなく、運命に定められたとおりに動かしてる
ただ自我の催眠作用があるがぎり、自分が人間で自分の意思で動かしてると感じる 破戒僧スマナサーラ師と共に地獄へ
日本テーラワーダ仏教協会会員
あと1095日 パーリ梵網経には、有情が持ちうる宗教的な見解が網羅的に示されている。
語られた言葉は、それを語った人の精神の足跡とも考えられるが、梵網経
ひとつをとってみても、そこには釈尊の非凡な足跡がありありと見て取れる。
人ならざる者(佛)の足跡が、確かにそこにある。 仏教を勉強して今日で1年になりますが、仏教の核心部分は、
人生は苦しみであり、渇愛が苦しみの原因にあり、
それを克服する道は八正道である、ということが分かりました。
多分、日本の仏教を勉強していたら、この理解にはつながらなかったと思います。 まあ、果物の種みたいなもんか。>>四諦
世代継承・種の継続収穫継続の爲に最も必要なのが種としても、
その周りの果肉にフォーカスし、味わい、評価するのが(特に後期)大乗、と。
(園芸家庭菜園趣味は別としても)
種だけだと、八百屋じゃなかなか売れないでしょw
で、種を取った果肉だけが販売されるようにもなる、と。 瞑想が進んでくると、段々と心が清浄で無垢になってくる
すると、世間の人の世俗的な心、攻撃心とか嫉妬心とか騙す心とかから
うまく身を守らないとならないとかなり切実に感じる
サンガの修行者も悟ってない間は、お互い世俗の心が残ってるわけで
これを守ってるからいいんだ、とするガイドラインが必要だってことね
けどそれは建前ではなく、本当に正しい道でなきゃならない
それが八正道としてまとめられている様に感じるんだけどな
守るべきと言うよりも、守るようにしていると自分が守られるよ
という教えだと理解してる 清浄で無垢になってくるというより、
すっきりする。 元気になる。 軽くなる。凪のように静かになってくる。しなやかになる。
そんな感じだなあ、自分の場合 守らなきゃいけない自分があるうちはまだまだだね
殴られようが、蹴られようが、全財産盗まれようが、馬鹿にされようが、けなされようが、平気でいなきゃいけない 気分の変化だけではなく、瞑想による落ち着きさえも憑依の場合がある。
これから広めなければならない話題は、悪魔は神仏の振りをするという事。
切なくなる音楽、悲しくなる音楽教えて下さい http://itest.5ch.net/test/read.cgi/healmusic/1251060458/ >>886
全財産盗まれるのはきついな
まあ一か月もあれば忘れるだろうけど
それ以外は平気 会社の社長、
或は、親の介護をしてる人等が、
自分はどうでもいいと思ったとしても、
自分の立ち位置(…収入、世間からの評価・対応・処遇)が仏道を選ぶことによって変わるとしたら、
自分が出家した後、両親は、社員は、配偶者は、仲間は、恋人は、どうなるのか?
という危惧が生じない筈はなかろうに・・・。
また、「兄弟が居れば」という発言があるならば、
一人っ子は仏道を歩めない、ということになるわなw 黄檗禅師は老いた母を捨てて修行したけどね
ブッダは子供、跡継ぎができてから出家したね
まぁ人それぞれだろうね 他人様に、その人の人生をどうしろ、こうしろと指図できるだけの了見があるなら言えばいいんじゃない。
どうせ責任とれないでしょ。 出家だったら、毎日が人生最後の日みないな気分がデフォだから
全財産盗まれてもへっちゃらだろうけどね。
まだ悟りにまで至ってなくとも。 みんなそんなに財産持ってんの?
俺なんか葬式代も無いし、物はゴミみたいなギターしか無い。
お気に入りの包丁とか鍋はあるけど、それもクソ安いし実用品だしなぁ。
特にこれと言って惜しい財産は無いな。 >>894には、ちゃんと
『出家だったら』
という但書があるよ (´∀`)b 出家でちゃんと屋根の下に
住まないで歩いて外で生きていたら
なにかを盗まれると言う感覚が
人間社会に普通に暮らしてる人とは
全く違うものになっているだろうね その代わり、日本では、出家するまでが高難度。
つか、不可能かw ある時、良寛が住んでいた五合庵に泥棒が入った。
泥棒は粗末な庵の中を見渡してみたものの、盗むものが何もないので、良寛の寝ている布団を盗ろうとした。
良寛は知らないふりをして寝返りをうち、泥棒が取りやすいようにしてやった。
その晩は十五夜でお月様がきれい。
盗人に取り残されし 窓の月
(気の毒な泥棒もこの月の美しさは盗めなかったなあ) 道元「学道の人は先ず須く貧なるべし。財おほければ必ず其の志を失ふ。」
中国の唐時代に、龐居士という在家の仏教信者がいました。仏道の修行をしようと志し、家の財産を全部持ち出して海に投げ捨てようとしました。
それを見ていた人が言いました。
「海に捨てるくらいなら、人に与えればいいだろう。あるいは、仏道の役に立つように使えばいいだろう。」
龐居士は答えました。
「財産は、自分に邪魔なものだと思って捨てるのだ。邪魔になると分かっているものを、どうして人に与えられようか。」
と言って、ついに海に全部投げ込んでしまいました。そうして仏道修行をしながら竹細工をし、それを売って生活しました。
後世に名が残るような人は、財宝を捨ててまでして志をたもつのです。 瞑想が進歩すると嬉しいものですね。
これでいいんだという喜びがあります。 ありがとうございます。
ちなみに昨日は調子よかったんですが今日は全然ダメです(笑)
こんなのを繰り返してますね。 よちよち歩きでも毎日成長していきたいですね。
ありがたいことに仏法に出会ってからそういう毎日を送っています。
仏法僧に感謝です。 皆様仕事はどれくらいなさってますか?
私は9時間労働でちょっと自分の時間が少なく感じます。 かなりしている仕事を選ぶのかもね
創作要素の強い仕事をしている若くしてそれなりに成功した知人が、仕事を失うまでの流れを見ていてそう思った まさに適材って感じだったのだが、仕事を失うというか、興味がなくなってしまったらしい そのことをきっかけに初期仏教(仏教)についてざっくりと調べてみたのだけど、真面目に取り組めば取り組むほど、ホームレス、もしくはホームレスの一歩手前に陥る危険性を孕んでいるのではないかなぁと。
で、その真面目な人達を救う仕組みみたいなものが出家制度なのかなと思った。 だから、もし今している仕事が初期仏教(仏教)的に適しない要素のあるものであったなら、後にその仕事を失う可能性があることは覚悟しておいたほうがよいのではないかと思った。
そういうのって取り組む前の段階では教えてもらえないものなんでしょうか。前段階で本人は気づきようがないものなんでしょうか。 まあ本人が不幸だと感じていないのであればそれでいいのだけど、周りからすればなんだかもやもやとしたものが残ったまま 仕事と悟りの話は実際のところ本音を凄く言いにくいんです 今まで何とか自分を誤魔化して励まして人工的にやり甲斐を見出して頑張ってきた人を致命的に変化させてしまいます
段階の差はあれどもう渡ってしまった人は続けられなくなるのは自然なこと 一瞬不安がよぎってもすぐに消えていってしまって悩むことができない
でもまだ渡ってない人にはこの事実は相当の恐怖を与えてしまう 修行の妨げになりかねない でも渡ってしまった人は渡る方が良いと思っているんで恐怖を与えたくない
仕事は工場などの単純作業や上に上がっている警備員 介護関係に転職された人もいらっしゃいますね 私は無職になってしまって今は投資でずっと家にいます ご意見ありがとうございます。
仕事をしていてネットやTVにずっと時間を費やさなくなった部分は良かったと思いますが
連日の疲れによって瞑想できない。
かと言って仕事を辞めれば無駄に過ごす時間も増えそう
4〜5時間労働ぐらいで試してみたいですね。
それも他人の芝なのかもしれませんが、 幸か不幸か天災多過ぎで嫌でも刹那に気づかせてくれる国だね そうだろうか?
むしろ、震災以降、
「絆」という言葉を幟として、涅槃へ向かう際に最も障害となるであろう
「愛着、血のつながり、仲間意識、思い出、世代継承、世継ぎ、等々といった方面へのこだわり」
が、株価を上げてる気がするけど。 すぐ上でも何人かが述懐してるが、
そりゃ、自分自身は、無職でもホームレスでも構わんだろうけど、
嫁さんや子供は、どうやって食べてくんだ?
一緒に物乞いさせるのか?
まあ、インド辺りでは、子供の腕切り落として街角に立たせるくらいだから、
それもアリだろうけどさ。 311以降少なくとも物質的なものに対しての執着は激減したな
どうせ死んだら全部ごみだし、あの世には何一つ持って行けんわって意識が強くなった
無駄なものをなるたけ持ちたくない
ただ私の場合は独り身だしね、家族がある人からすれば綺麗事なのかもしれない そう。
妻や子供(―これは持たなければすむことだが―)、
父や母は?兄弟姉妹親戚は?
実は、「涅槃」に視線を投げた時、
(いみじくもSn.ダニヤの章・Dhp.愛品等で指摘されるが如く)肉親や愛する者は、
すべて>>917でも言われる『無駄』な存在になってしまうのよね。
「ラーフラ」という名に、二通りの解釈が生じるのも、そこに由来するであろう、と。
障碍でもあり、また逆に、彼が生を受けたからこそ、
シッダッタはアノーマー河を越え得たわけで・・・。 メッタ(慈悲)持ってる在家の人なら、子供とかの面倒は見るんじゃないかね つまり、
子供のいる者は、来世の悟りを目指して、今生の悟りはあきらめろ(ギブアップ)ってことね。 あんまり深刻に考えないで欲しいんですが捨てるからといって嫌いになるわけでは無いんです それに捨てるといっても精神的に強い拘りが無くなるだけのことです
私なんかは親族が亡くなっても涙や悲しい気持ちは一滴も一瞬も もうよぎらないかもしれませんが親が介護が必要になったら同居して面倒見ようとも考えてます
一番身近な存在なので亡くなるまでに少しでも苦しい思い込み 思い出を解決してあげられたらと思って今でも色々話もします そう簡単ではないですけどねw 勿論、『出家』という状態の定義によって変わるのだけど、
妻をめとり子をもうけ、親の世話をし、世俗的つき合いも「世俗的なレベルに合わせて」こなしつつ
精神的には孤高に生きる(―「心理的出家」という造語が適切かはともかく―)
という在り方(生活の仕方)で良いならば、現代日本仏教は種々批判されるけれども、
もし、そのような形でよいならば、(→「出家」である必要がないならば)、
日本仏教は、最も進んだ、最も理想的な、21世紀に合った仏教だと言い得るか・・。
だとしたら、上座部が入ってくる余地は無いなw インドでもいつの時代でも
まともな宗教だろうと
異常な宗教であろうと
家族を捨てて
修行者になった人にとって
後の家族問題は綺麗事ではすまない
出家した人が悟ろうが悟るまいが
残された家族は苦労続きのうちに
先に死んでたりもする
どうにもなりはしないし
言い訳することもできない
そんな風に理解するけどな インドの聖者と言われているラマナ・マハルシの母は弟子になりましたね
ラマナと母親とのエピソードが好きです。 >>921
一休さんは飼っていた雀が死んだとき周りが引くぐらい声を上げて泣いた。
感情が無くなるのが悟りでは無いぞ、という弟子へのアピールだろう。
婆子焼庵という公案もありますね。 独り言ですが、仏教としての答えはお釈迦さまやその弟子たちが示してくれていますが、
それを自分で、確かめるということは並大抵のことではないんだなと思いました。
ちょっとした簡単なことでさえ、難しく、自分で確かめられたら大きな発見となりますしね。 >>925
http://j-theravada.net/dhamma/oriori/仏教から見る死(下)
ジャータカ物語になるけど、↑の一番下にある蛇前生物語の「ある農夫(ボーディサッタの前生)の例」とか見ると
テーラワーダの見方だと、悲しみを克服しているのは理想っぽいのかなとは思ったよ ブッダも、コンダンニャが悟った時にちょっと、はしゃいじゃったし、サーリプッタ、モッガラーナ両尊者が亡くなられた時は少し落ち込んだ。
完全に人間離れするのが阿羅漢じゃないみたい。
某スマナサーラ長老も人間臭いところがあるしね。人間なんだからあたりまえなんだけども。 まあ1つ言えることは 渡ってしまえば今の心配は消えてしまうか 残っていてもかなり小さくなります そして内心的出家によっての凄惨なニュースはあまり聞いたことがないということw
それこそ離婚や離散や孤独死なんかは宗教なんて関係なくてもゴロゴロあります どんな状況であろうと誰であろうと未来のことは誰もわかり得ない
問題は精神的にガッツリ両手で握っているその拘りを精神的に離せるか 実際は大金持ちでもステキな奥さん 旦那さんが居ても 会社の社長でも良いわけです 精神的に手放すだけで良いんですから テーラワーダでは全ての執着を手放した人、阿羅漢はもう在家生活は出来ないと言われてますけどね。 ☆
>精神的に手放すだけで良いんですから
↓なぜ?手放しが難しいのか?その理由は?
渇愛(タンハー)
欲愛 =感官によって得られる刺激・快楽(カーマ)への渇愛
有愛 =存在することへの渇愛
無有愛=存在しなくなることへの渇愛
欲愛を手放しするのも難しいと思うけど
無有愛を手放しするのも難しいかもしれない
それゆえに
仮設としての
無明に依存しているのなら
誰もが成仏するわけではない(五性各別)
それでも、とりあえず
http://junsoyo.on.coocan.jp/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
曹洞宗。内山興正
…
坐禅中の心構えを一口にいうならば
坐禅の姿を骨組と筋肉でねらい
そうして
「(無有愛も含めた)思いを手放しにしている」
という言葉が一番あたるかもしれません 澤木興道老師が言われていた。
私は精神的に頭を剃っていますから、といって髪をボーボー伸ばしている人がいる、
出家の気持ちは髪を剃ってみなけりゃわからん、精神的にというのはインチキをしたがる。
と。 自分は渇愛から自由な時というのは瞑想中だけですね。
どういう変化が起こって、普段の生活中でも渇愛から自由になるのか興味があります。
どういう精神状態なんでしょうか。 ☆
>>931の続き
スッタニパータ 874
ありのままに想う(と執着している)者でもなく
想いなき(と執着している)者でもなく
想いを消滅した(と執着している)者でもない
…
けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起るからである
たとえば
仮設としての
無明に依存しているのなら
想いを消滅したい。という想い = 執着
_ _ _
↓(仮設としての)無明を離れてから
智慧をもって
非想非非想も手放し離れて
そして、それから、想受滅へ。みたいな? ☆
>自由な時というのは瞑想中だけです
ここのスレではなく
他のスレで
『刹那消滅は納得できない!』といってた人もいたけど
それでも、とりあえず
↓
http://myanmarbuddhism.info/wp-content/uploads/sites/2/2013/09/amapofthejourney.pdf
自由への旅。ウィパッサナー瞑想、悟りへの地図。ウ・ジョーティカ
智慧をもって
生成消滅(刹那生滅)している。と観察すること
みたいな? ☆
>>936の訂正・お詫び
×刹那消滅
〇刹那生滅
失礼いたしました スマソ m(_ _)m
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/10/11/215935
上座部。パオ・セヤドー
…
有分心 = 生命相続流
夢を見ることもなく
熟睡してるときでも
有分心は
(仮設としてのものであるからこそ、それゆえに)
刹那滅して変化して
そして
生起しているのです
_ _ _
ということであるらしい まあ、
「私は欲望に捉われていない、従っているわけではない。
ただ、形式的に(世俗の慣習に沿って)行為をしているだけ」、
というのが、日本大乗仏教徒の妻帯肯定理論だしね。 また、四住期というものがあるが、
それでよいなら、「ehi bhikkhu」の意味も薄れるし、
何より、後継ぎを育て上げた後の年寄りにしか安穏は無い、ってことだしね。
日本のお寺さんで言うなら、住職を引退して初めて本格的に修行ができる、と。
まあ、それまでは会社経営者と同じだから。
仏教って何だろね・・・w ☆
https://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/5dfd915e6ed70b389d597c53a110d757
大念住経(大念処経)
実有で在る。という『想い』から離れて
すべて一切の諸々の法(ダンマ)も
仮設としての
相互に依存している
働き
現象で
それは
我所ではない
我でもない
法であると絶え間なく
智慧をもって知覚して
安心立命して住むことである
_ _ _
上座部に
大乗の安心立命とかを混ぜるな!
と怒られちゃうかしらん? 自分の全力使って
猿真似してみるのは
とてもいいと思うけどね
本物との違いも自分なりに
感じることできるし
自分がなにも通さずに
感じられることが
とても大事だと思うよ
経験したものを言葉にする
ための理由も起きないほど
自分だけの経験になったりする ☆
>自分の全力使って
たとえば
大乗とかの場合は
https://true-buddhism.com/shuha/jodo/
浄土宗西山派の信じ方
証空の開いた西山派では
自力の諸行では往生できず
自力を手放して
いわゆる
コップの中をからにして
それから
仏が大悲・大智によって → 衆生に応じる
衆生が ← 仏の大悲・大智を受け入れる
我所でもなく我でもない
仏からの
真如縁起として
因と縁の双方の縁起が相応一致して
成仏をはじめとする各種の効果を成就させる
という感じであるらしい >>939
お寺が大量の財産を持ってしまった
財産を相続させるのはやっぱり子供にという気持ちになるんだろうね
やはり富は人間を狂わせるね そもそもお金に執着が無い人はお金儲けはできない
あっても無くてもいいけど、なんて中途半端な気持ちではお金は入ってこない
仏道修行に励めば自然と貧乏になってくる
最終的に阿羅漢になれば出家して財産はゼロ https://images-na.ssl-images-ama zon.com/images/I/51GVUyD2bzL._AC_SY400_.jpg >>944
貧乏になるのは本当にそうですね。
というより、お金に執着しなくなるから、稼ごうとする意欲がなくなるんでしょうね。
お金がなくても幸せに生きていけるということが分かるから。 それは分別の間違い
生に執着がなかったら死ぬのか?
違うよね 生に執着が無くなれば解脱する
最後の肉体が無くなるのを待つ
金に執着が無くなれば、最後の財産が尽きるのを待つ、というより善行為、人助けに使うだろうね 生に執着がなくなると本当に解脱するのでしょうか?餓死ではなくて? 出家って俗世間でいうところの生活保護みたいなものか?
だとしたら、もしベーシックインカムが導入されたらどうなるのか 私が思う理想の出家は
屋根の下に住まず
持ち物は最小限で
お金も持たず
食べ物はもらったもので
そんな感じかなあ
絶対にそうやって生きて死ぬ人が
居ると思っている こんな所でマウント取ってなんぼのカス共が仏教とかぬかすな
ウゼーんだよ、社会のゴミ屑共が >>952
上野は知らんが新宿はもうホームレスはほとんどいないだろ?
昔は地下通路に沿ってダンボールハウスがあったが 家がなくても生活がしたくて
一ヶ所に留まって集まって暮らしてる
ホームレスではなくてね
行脚して瞑想や座禅して
生きてる人ね >>949
正確には五感に対する欲、生に対する欲、非生存に対する欲
それらが無くなれば解脱する
解脱した人は餓死したりしなかったり
まぁ別にどちらでも、という感じでしょう 「自分はもう一生、ものを欲しがらぬ。頭を下げて人にものをくれとは言わぬ。あるいはまた人の欲しがるものは惜しがらぬ。
食わしてくれれば食う、食えねば食わぬ。生きられるだけ生きる、死なんならんときは死ぬと、心がハッキリ決まった。
このとき広々とした天空を仰いだような、何の引っかかりもない人生がそこに展開した。これほどの喜びはなかった。」
澤木興道 ☆
>このとき広々とした天空を仰いだような、何の引っかかりもない人生がそこに展開した。これほどの喜びはなかった
岩の上で思う
天地は何者にもとらわれず、何んと余裕があることか
今は昔の時代とは、何んと遠くはるかに離れていることか
五尺(1メートル50センチほど)の小さな体でその大きさを測ろうとする
ホレーショの哲学はなんら専門的でも権威のあるものでもない
宇宙の真相はただ一言で言うことが出来る、「不可解である」と
私はこの恨みを胸に持って思い煩い、ついに死ぬ事を決断した
すでにこうして岩の上に立つことになって
私の胸の中には何の不安があるだろうか、なにもないのだ
(たとえば、仮に
好き嫌いすることなく平等性智をもって観ることができるのなら?)
非常に大きな悲観は、非常に大きい楽観とおなじであることを、始めて知った
藤村操の巌頭之感より
_ _ _
これからも
強く、たくましく生きていく。という『想い』でもなく
これから死ぬのだ。という『想い』でもなく
それでも
藤村操の場合は
『死ぬ事を決断した!』ということであるらしい? >>958
すんごいなあ
ほんとにそう思えたんでしょうね >>933
何となくわかる表現かどうかはわかりませんが 例えば好きなテレビや遊び趣味が過去にあった 誰かのことが好きでそのことで胸が頭がいっぱいになったことがあったとして
現在では全く同じ番組や遊びや趣味や昔好きだった人のことで昔ほど心が喜ばないことが多いと思います それはそれらのことから自由になったと言って差し支えありません
それが何かを心配する気持ち 怒り 生きている実感を求めて何かを探し回る衝動 そういうものにまで広がった時 もう砂場で遊んでも楽しめないのと同じようにそれらから離れてしまいます
や自分というものが自分が感じているような形では実際には存在してはいなかったという衝撃が やはりきっかけになると思います >>959
宇宙の真相はただ一言で言うことが出来る、「無常、苦、無我である」と
私と呼べる存在、自我があるだろうか、どこにも無いのだ
そして大きな悲観と大きな楽観から離れ、心は解脱した
>実際には存在してはいなかったという衝撃が やはりきっかけになると思います
たとえば
地水火風の微細な粒子に分解していく
四界差別の観察も
実際、難しいような感じもするけど
それでも、とりあえず
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/06/28/163259
上座部。パオ・セヤドー
…
たとえば
霊魂も
我所も
我も
地水火風の微細な粒子に分解して
手放して
滅し尽くして
(地水火風の微細な粒子の)密集を看破したときに
無我への領悟、了解が生まれる(らしい?) 瞑想していると、幸福な状態というのは執着から離れた心でないと達せられないんですね。
モノや感受は瞑想の邪魔になる。で、ちゃんと瞑想できている時が一番幸せなんですね。
つまり、モノを手に入れたり五欲を満足させることは、一番幸せになるために必要ではないということです。
これってすごい幸せなことではないでしょうか?
ぜいたく品などは必要ないということですからね。
世間の人はそれらを追い求めますが。 ということが、今日瞑想していてわかりました。
年収がどうだ、成功がどうだ、とか言いますが、心から幸せになるためには必要ないわけです。
自分は悟ってはいませんが、心がすごく楽になった気がします。 天涯孤独な人間ならいいが、
そうでない場合、
(まさに、世間的価値観で)心配する者・助言する者・悲嘆する者・怒る者等を、
どうやって説得するか、だなw
で、まさにそここそが、(後代で言う布教に繋がる)
「法を」「どう説くか」という所に直結してて、釈尊の45年は、
まさに、その言説を練り続けた年月なんだろうな・・・。 >>963
それは色蘊の無我だけ
受、想、行、識に関しても無我を観て初めて諸法無我を悟る ☆
>>966の続きとして
>布教に繋がる
239 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2019/02/12(火) 20:11:18.26
補:
仏陀に、もし、苦悩があったとすれば、
それは、
自分はすげぇ納得してるし、ベストだと思うんだけど、
みんな、なかなか同意してくれないなぁ・・(苦笑
ってトコだと思うんだよね・・・w
_ _ _
_ _ _
ここのスレではなく
他のスレの
『アートマンである〜♪』に対しての
対機説法は難しいかもしれない(おじゃる?) >>966補
その意味で、
釈尊在世時の、仏教教団の隆盛
―それはつまり、前途有望な良家の子が次々と出家し、親族との縁を切る、ということだったわけだが―
が、オウムが権勢を伸ばした時と、
社会的事象としては似てたのかもなぁ・・と思わないでもない。
現に、「世俗を捨てて(関わりを断って)の出家主義」という側面を、
初期仏教に擬える論調は実際にあったわけで・・。 いや、縁を切るという言い方は適切ではないか・・。
やはり、
「家業を継がない・家族を養わない・血筋の継承に携わらないという選択」
という言い方にすべきか・・。 ☆
https://www.shinchosha.co.jp/book/610696/
発売日:2016/12/16
お寺さん崩壊。水月昭道/著
http://agora-web.jp/archives/1589719.html
2014年04月08日
…
「無宗教」のカテゴリーでは
チェコ76・4%、北朝鮮71・3%、エストニア59・6%に次いで
日本が57%
そして、更に
https://dot.asahi.com/wa/2019020800014.html
2019.2.11
葬式はなくなる? 通夜なし、式なしの「直葬」選ぶ時代に
_ _ _
たとえば仮に
(今、現状の日本の)大乗の寺でも
ヨーガ系とか
上座部系とか(マインドフルネスとか、その他諸々)
チベットとかも取り入れて導いていった方が良いとか?
(財施(喜捨を行なう)・無畏施・法施(仏法について教える)などの布施として…) >>973
相変わらずテーラワーダの教義からはズレてますね
四諦との関係も滅諦は勝義諦が滅諦ではなく勝義諦の中の涅槃が滅諦です >>961
身近な例でありがとうございます。
色々と感じてみたんですが、やはり智慧のあるかないかですかね。
自分もたまにそういう状態になることがあるんですが、時間がたてば欲に負けてます。
24時間そういう状態になるというのは、ちょっと想像がつかない世界です。 瞑想していてなんとなく思うこと
輪廻転生はごく当たり前なことであり、始まりと終わりという概念こそが疑わしくないか? >>976
智慧は気づきから生まれるんですから、物事を、これは何だろう?と一瞬の変化も逃さないように観てみれば、
そこに欲は生まれないでしょう。
女性を見て、キレイな女性だと思ってしまうと欲が生まれますが、女性だと判断せずに、この物体、現象はどういうものだろうか?
どのように変化しているだろうかと真剣に、集中して、気づきで観れば欲は出ません。
それが24時間できれば智慧は完成するでしょうし、智慧が完成すれば24時間できると思います。
我々はこれを少しずつ地道にやっていくしかないみたいですね。 まずヴィパッサナー瞑想実践法の三原則を覚えておきましょう。
一つ目は、スローモーション。からだをふつうのスピードで動かすのではなく、できるだけゆっくりスローな動きで行うこと。
二つ目は実況生中継。今行っていることを、頭の中で簡単な言葉で確認すること。それを隙間なく、切れ目なくするのです。
これを実行すると、雑念が消え、瞬時に集中力が生まれます。
三つ目は、感覚の変化を感じ取ること。手を上げたり、歩いたり、座ったりするたびに、からだの感覚が変わります。
考えるときも激しく感情が変わっていくのです。これらの変化を何も解釈せず、感じることです。
https://j-theravada.net/world/vipassana/ そこで、眼耳鼻舌身意に色声香味触法が触れた瞬間、たとえば眼に色形が入った瞬間、妄想を展開させずに、「見えた」と、そこでストップしたらどうなるでしょうか?
何の妄想も、何の主観も、何の煩悩も生まれてこないのです。それで心がすごく穏やかになるのです。悟った人は、ここでストップします。妄想には行きません。
悟った人に煩悩が無いというのは、眼が見えないとか耳が聞こえないとか、何も感じないということとはまったく違います。
悟った人は常に目覚めて、ものごとを鋭く観察していますから、誰よりも鋭く聞こえていますし、鋭く見えています。ただ妄想には行かないのです。
https://j-theravada.net/dhamma/kougi/kougi-132/ >>951
正統な出家には戒律がある。
ホームレスには戒がない。正精進もなければ正念もない。
>>966
>心配する者・助言する者・悲嘆する者・怒る者等を、
>どうやって説得するか、だなw
世俗の価値観に従う他人様に理解や賛同を求めるというのは、
無理な期待ではなかろうか。
>>969
厳しいことを言うようだが、もし、あの醜く太った汚い教祖の姿をみて、
この人のもとに出家しようと思う人がいたとしたら、その人はまず自分
自身のものの見方のズレを自覚した方が良いと思う。
少なくともオウムについて判断する前に、初期仏教についての信頼の
おけるテキストを読んでおくぐらいのことはしていないと勉強不足過ぎる。
渡辺照宏の定番テキストが、岩波新書で読めるんだから、それぐらい
読んでから判断する程度の冷静さは欲しい。
当時、年端のいかない若者が多かったが、日本は宗教に関して教育を
しなさ過ぎる。
従って偽者への免疫をもたない人が多い。
おそらく多くの人は、正統を見分ける目も持ってはいない。 ある僧団、あるいは個人が正当かどうか、一般人にも見分けられる判断基準がある。
それが戒律。
戒律を破っている僧団に正法の護持はない。
あり得ない。 >>982
>日本は宗教に関して教育をしなさ過ぎる。
というより、伝統諸宗派の怠慢だから。
貴方の言う通り、学部一年程度の知識があれば、
オウムの言ってることが支離滅裂なのもすぐわかるが、
逆に言えば、学部一年程度の知識は欲しい、ということでもある。
日本で宗教教育は、たぶんこらからも難しいだろう。
その現実の上で、
「あれは違う」
と幡を掲げられなかった日本仏教の罪かな、と。 色んな人が「あれはおかしい」と言っていたはず。
聞く耳を持っていなかったのでは。 そうか。
けど、一部には評価の声もあったしね・・。
住む世界(生活領域)が違ってて、届かなかった、って方かと。
或いは、彼らのツボに嵌ったというか、かゆいところに手が届いたというか・・。
そういう面で、当人の無知
―それは、確かに982にあるような宗教教育の欠如から来るものかもしれないけれど―
に帰するのは、ちょっとかわいそうかな、と。 >>聞く耳
その方向で考えれば、カフェやイベント、よろず相談、バンドやゆるキャラ、萌衣キャラ、等等も、
聞く耳をそばだててくれる一助にはなるのかもしれないか。
距離さえ近かったら、届いた声だった、と。
お墓と位牌だけでない何かの提供。
上座部は、それが「ブッダの教え」になるんだろうけど(あと瞑想の方法論か)。
別に何かアイテムや種々の手管はなくとも、もともと距離が近い分、
中身がちゃんと浸透してるからよいのか・・・。
やっぱ、維新と戦後教育&高度成長かなぁ・・。 >>976
私はかなりいい加減な修行者で自分の欲望や考え方を抑えたり変えたりは全くしてきませんでした ただただフラフラになりながら観察という瞑想を毎日目が覚めている間中繰り返しただけでした
自分の意思で何かを手放すことは非常に難しいと思います それができれば良いんですが 出来ないので瞑想が存在していると思って頂ければと思います
集中して深く速く途切れなく 自分を誤魔化さずにどの反応も例外なく喜びも怒りも悲しみも分け隔てなく勇気を持ってって感じです ブッダの教えに忠実にいけば、宗教に詳しい人でも無宗教の人でも、
オウムのように他人に迷惑をかける人達でも、他人に奉仕する善人でも、
悟りを開いてない限りは邪見を持った人ということになる。
オウムの人達を非難してる場合じゃないね、早く悟らないと。 >>990
はあ?
君の言う >>オウムの人達 って誰?
彼らは―俯瞰視線での―被害者じゃないのか?
勿論、法的に、道徳的に、『刑事的に』、裁かれねばならないだろう。
けれども、人間性そのものの非難をするのは御法度でしょうが。
いったい、誰が、彼らを日している非難しているの? (´・ω・`) ああ、打ち込みが乱れたw
かの、アングリマーラでさえ、
≪「リンチ(私刑)」は受けた≫が、≪「法的には」裁かれていない(刑事罰は受けていない)≫。 「他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ。」
麻原みたいな人間も、麻原に騙されるような人間も山ほどいる。
いつの時代でもどの国でもそう。いちいち気にする事じゃない。
基本的に人間は愚か。まず自分の愚かさを何とかしないと。 弱い人は自分の言ってほしい言葉を言ってくれる人についてっちゃうからね
自分は当時ネット環境無かったけど、もしオウムの変な曲を騒動になる前に聞いてたら
おそらく興味持っちゃってヤバかった
味のある変な曲が多すぎた >>989
ありがとうございます。
自分の意思で何かを手放すことは非常に難しい、というのは本当にそうですね。
仏教では答えが出ていますが、それを自分のものにするのはとても難しいと思います。
答えは提示されているのに、それをものにできない、というのは非常にもどかしい思いがあります。
大事なことは、どこまで自分で確信できるかだと感じています。 >>995
なるほど もどかしさがあるわけですね 結論を言ってしまうと心配ありません ヴィパッサナーには確信を増大させ 迷い 疑いを排する仕組みが内包されています
続けていく間に突如雷に打たれたように 理屈無く自分への理解がやってきます その一回の経験が確信を生み嬉しさを生み瞑想の道へ拍車をかけます
私のように目を血走らせ体から湯気が出てるのでは?というぐらい集中力頼りで続ける人もいれば 静かに水が流れるように淡々と実行される方もおられます 注ぎ込む集中度と時間の和又は積又は比例すると考えても良いかと思います
正しく続ける限り確実にコップの水は溜まっていきます 後は勝手に溢れるのを待つだけです 仏教用語を用いてプロセスを書くならば、まず、身体(色)と心(名)の働きを明確に区別して体験します。
次に名色が、生滅変化して流れるものであることが見えてきます。 観察能力の鋭い人には、名色の流れの因果関係も理解できます。
それが見えてくると「疑いが晴れる」ということが起こります。その意味は、人間は知識中心に生きている。自分に対し、存在に対し、
また解脱に対しても様々な概念が頭に詰まっています。名色の流れを見た人は、それらが単なる妄想であって解脱の道ではないとしっかりと体験するのです。
さらに修行を続けると、一切の存在は名色の流れのみであってその名色が、無常、苦、無我であることを(理解するのでなく)体験します。
しかし、無常、苦、無我のどれかひとつしか体験しません。言葉は3つですが意味は一つです。次に存在(生きること)に対して嫌悪感のような感じが強烈に生まれます。
それは高い知識の体験であり、普通の意味での嫌悪感だと理解してはいけません。これを仏教では「厭離(おんり)」といいます。
初めて解脱したい、他の道はないという気持ちが生まれるのはそのときです。そのときはヴィパッサナー実践さえもいやになるような気がします。
その気持ちにもめげず修行を進めれば、間もないうちに名色の寂滅という体験に出会います。それが最初の悟りです。
https://j-theravada.net/dhamma/q&a/gimon11/ >>996
ありがとうございます。参考にさせていただきます。
これからも少しづつですが、毎日実践を続けていきたいと思います。 このスレッドは1000を超えました。
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