【イエス】 これはわたしの愛する子 Part61 【キリスト】
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イエスは彼らに近づいてきて言われた、「
わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。
それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、
父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、
あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。
見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。
(マタイによる福音書 28:18-20 )
わたしは、新しいいましめをあながたに与える、互に愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
(ヨハネによる福音書 13:34)
前スレ
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1541434930/
※前スレ
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1541708835/
※前スレ
https://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1541918379/ >>940
>私と愛の天使さんが分けているのではなくて、事実として教父たちが神性と人性とを
>区別しているのだが、これらの教父たちも君は
>⓪御子から神性を抜き出して@別の人格として分けて、 A一つの位格が人性しか持たない
>ものとしていると考えるわけ?
だーかーらー、禿げとなるみさんは本性=位格と捉えてると指摘しとるだろーがー棒
おまいらにどんなに説明してもおまいはが理解できないことは理解してるんだよー棒
ちなみに、教父がそんなトンデモ勘違いしてるとはもちろん考えるわけがない爆
>十字架に架かって受苦して死んだのは
>霊ではなくて肉だと説明しているだけだ。
当たり前だハゲ
そもそも死ぬとは身体が有機的な活動をやめて解体に向かうことで宗教的には霊魂が肉体から離れることだ
そして、受苦を受け死なれたのは御子だ
そして御子とは神性と人性を合わせ持つ子なる神だ
神はしなない、人は死ぬ
完全なる神であり、同時に人である、子なる神にそれが可能なのは、人性を持っているからである
だから子なる神が人を救うために死ぬ、という神秘が可能なんだよ
>君は御子に二性あるということが理解できてないのではないか。カルケドンは
>「神性においては、この世の前に父から生まれたが、この同じかたが、
>人間性においては終わりの時代に、われわれのため、われわれの救いのために、
>神の母、処女マリアから生まれた。」と御子を両性で説明し
>「二つの本性において混ぜ合わされることなく、変化することなく、
>分割されることなく、引き離されることなく」と説明されている。
>カルケドンもまた両性を分けて説明しているが、二人格なのかね?
二人格を説いてるのはモナルキア異端の爺と婆だけだハゲ >>943
>いいえ、人はゾーマとプシュケーを持ち、まずゾーマが受苦して腐敗し死ぬんです
禿げがなにを言おうが、キリスト教では人は霊魂を神に与えられていることは変わらん
33 人間――真理と美に向かって開かれた心、倫理的感覚、自由、良心の声、限りないものと幸福へのあこがれを持っている人間、この人間は神の存在について自問します。
これらのすべてのものを通して、霊である自分の魂のしるしを認めます。「人間の中にある永遠なるものの種は、物質だけに還元することはできないので」、このような霊魂の起源はただ神のうちにしかありえません。
359 「聖パウロの教えによれば、人類の起源には二人の人がいます。アダムとキリストです……。聖パウロによれば、最初のアダムはいのちを受けた人間として造られましたが、最後のアダムはいのちを与える霊的存在です。
最初のアダムは最後のアダムによって造=られ、そのかたから霊魂を受け、それによって生きていす……。
>身体ゾーマを殺されると、人の霊魂プシュケーが身体ゾーマから離脱するだけ
>ですね。ましてや霊プネウマである神性を人が殺せるはずもないのです。
はい、ここでもまた禿げは勘違いをディスクローズしてます
禿げは神性を殺せるわけない、とか訳のわからないことを言ってます
おまいは「性質」を殺せる、という命題がナンセンスでしかないことをそろそろ悟れ
禿げの「人性という性質は性質でしかないんだよ」、殺されるのは禿げ自身だ
従って、「人性において禿げが死ぬ」とは言い得るが
「禿げの人生が死ぬ」はナンセンスでしかないんだよ
禿げの主張の誤謬の全ては、本性への無知から生じている
また、そもそも本性への無知で、正統教義では異端!とかカルケドン信条をディスるところから始まってる
まったくハゲ散らかしているのである
大爆笑である 禿げの誤謬の始まりとサティさんのワンパンで秒で瞬殺の瞬間↓↓↓
427 名前:菜園人 :2018/11/07(水) 18:27:36.54 ID:yNpg7nYl
>そして子なる神の神性と人性は一つの位格だが、二つの本性なんだ
出路樽脳だから、神学用語がわからんのだろうが
神性と人性とが二つの本性なのであれば
イエスの中に神様と人がふたりおられることになるぞwww
二性で一つの位格なんだよw
んで神性が本性なの。
父子聖霊の三位格で、一神性(=一本性=一神)なの。
だから死んだのも受苦したのもイエスの人性、まったき人が受苦されて死んだの
そして三日後に復活されて、その後、高挙されて神の右に座されているの
479 名前:神も仏も名無しさん :2018/11/07(水) 20:14:26.17 ID:oYvvER9z
>>427
おっす、モナルキア禿げさん
え!?二つの本性があると二つの人格があることになるって???
でました、ノンクリしったかブーメランw
モナルキア禿げさんは三位一体学んでくだされ
そしたら、二つの本性をもってたら二つの「人格」を持ってるとかトンデモ発言はそもそも「位格」についてなにも分かってないことを知るでしょう
モナルキア禿げよ、カルケドン信条を嫁
489 名前:神も仏も名無しさん :2018/11/07(水) 20:32:20.32 ID:oYvvER9z
禿げは最近は自爆ばかりだな
せっかく穏便になかったことにしてあげようと思ってたのにさらに自分から下痢に向かって突き進むとかどうかしとるわ
モナルキア異端の次は二つの本性だと二つの位格になるとか、さらに三位一体ディスを始めるとか、下痢まみれじゃまいか
真っ白になるまで下痢にまみれるがよい 禿げと婆の問題は位格的結合を理解していない点、以下wikiから編集して引用
◾概要
位格的結合は、主流派のキリスト論において、一つのヒュポスタシス(あるいは実体、位格)に即してキリストの神性と人性が合一されることを指すのに使われる、キリスト教神学の術語
◾正統教義における位置付け
エフェソス公会議でこの教義が認められるとともにその重要性が確認され、キリストの人性と神性はロゴスにおいて本性とヒュポスタシス(実体、位格)に即して合一すると述べられた
◾ヒュポスタシスの用法
実際的・具体的な自立存在を指し、プラトンのイデアのような抽象的なカテゴリと対比される
◾歴史的背景
ラオディケイアのアポリナリオスが初めてヒュポスタシスの語を使って受肉を理解しようとした。
アポリナリオスはキリストの神性と人性の結合を一つの本性に一つの実体―一つのヒュポスタシス―を持つものとして表した。
ネストリオス派の モプスエスティアのテオドロスは別方向に進み、キリストにおいては二つの本性(神性と人性)、二つのヒュポスタシス(「実体」つまり「位格」の意味で)が共存すると主張した
カルケドン信条ではテオドロスに同意して受肉における二つの本性の存在が認められた。
しかし、カルケドン公会議では三位一体の定義に用いられるときと同様の用法でヒュポスタシスの語が用いることが主張された。つまり、ヒュポスタシスを位格の意味で使い、アポリナリオスの使ったような本性という意味では使わないことが主張された。
そのため、カルケドン公会議では、キリストにおいて二つの本性が存すること、二つの本性がそれぞれの特性を保持していること、唯一の位格、唯一の自立存在において合一すること、が宣言された。
この合一の精確な本性は人間の限定的な理解を受け付けず、位格的結合は「神秘的な合一」と呼ばれることもある。アレクサンドリアのキュリロスは「名状し難く、理解を超えたかたちで合一した」と表現している。
以上
禿げは位格が自立存在であることを知らず、本性を自立存在と混同している
なので、こんな不毛が生まれているのである
禿げなだけに
大爆笑である >>952
◆問1 >>939
教父が「人間として受苦されたのであり、 神としては不受苦のままであられたのである」
「肉において受苦したのであって、神の本性においてではない」と言ってますよ
これらの教父の発言は「本性=位格」とするトンデモ勘違いではないのですか?
◆問2
カルケドンも両性を説いてるのに、二人格ではなのであれば
私と愛の天使さんも一位格を説いていると結論されますが
カルケドンとの差異を論理的に説明ください
◆問3 >>954 人は霊魂プシュケーと身体ゾーマがなる
神は霊プネウマであるということが理解できないようですね
https://www.tomoshibi.or.jp/catechism/
人は霊魂とからだをあわせたものです。霊魂はからだのいのちの源であるばかり
ではなく、体によらない力、知恵と意志があります。
https://www.tomoshibi.or.jp/catechism/
神はご自分と同じような霊的生命を与え
この霊的生命がプネウマです。人に入るとプネウマはプシュケーとなります。 長文書いて大爆笑するサティ
完全に多動性障害の症状だな >>958
対話のキャッチボールになってなくて壊れたラジオになってるから、該当箇所を引用してそれに答える形式にして
対話じゃなくて、禿げの誤謬で「上書き」したいだけなら、あたまっからもう決着ついてるから興味ない
そう、あたまっから決着がついているのである
禿げなだけに
大爆笑である ボーナスが出ない時点で、自営のインチキコンサル確定だな。
情弱の経営者だまして、むしり取ってるんだろ。 ◆問4 「性質」を殺せる、という命題がナンセンスとのことですが、
神性と人性との両性とは、人であり神であることです。
そして実際にイエスの人性である肉体を殺せたですね。
なので>>939で紹介しているように>>957であなたが引用した
カルケドンで採用されたテオドロスの両性論によると
「人間として受苦されたのであり、 神としては不受苦のままであられたのである」
となるのです。
あなたはカルケドンの両性説の理解に反していますが、理解できますか? >>960
降参なんだwwww
おまえは理性的な霊魂がないんだよ >>957
>カルケドン信条ではテオドロスに同意して受肉における二つの本性の存在が認められた。
>カルケドン公会議では、キリストにおいて二つの本性が…合一すること、が宣言された。
>この合一の精確な本性は人間の限定的な理解を受け付けず、位格的結合は「神秘的な合
>一」と呼ばれることもある。アレクサンドリアのキュリロスは「名状し難く、理解を
>超えたかたちで合一した」と表現している。
このカルケドンで活躍した二大学派の巨頭がそれぞれ>>939
テオドレトス 曰く
「聖書が教えてくれる通り、祝された教父たちが常に説いてこられたように
キリストは神であり人間であるとすれば、人間として受苦されたのであり、
神としては不受苦のままであられたのである」(Ettlinger,p264,15-17)
キュリロス曰く
「自分に固有の肉において受苦したのであって、神の本性においてではない。」 >>963
いや、どうでもいい何度も語ってることを繰り返してるだけで、それに対して答えているところをスルーするから不毛やん
それに該当箇所を引用しないのは、その形式だとハゲが困ってしまうからなのも知ってるわけよ
ようするに、禿げはハゲ散らかしているのである
大爆笑である 河童は、愛の天使さんと私を非難しているつもりなのであろうが
実はカルケンドン信条の立役者である二大教父に唾を吐いている河童なのである
あほうとはう 実に実にかわいそうなものだ 同情をする
主よ、河童を許したまえ >>964
あんな、禿げは
おれはおまいの本性についての無知について語っとるわけで、おまいが勘違い解釈をしている対象が誰か、なんてどうでもいいわけよ
ようするに、おまいの勘違い解釈が論点です、それが本性を位格と勘違いしてる点にある、となんども主張してるだろ? >>966
おまい>>955みたいなレスしといてよくそんなことが言えるなw >>967
落ち着け。河童よ
君は位格たるイエスが受苦した。人性だけを位格から切り離して人性だけが
受苦するのは、人性を位格と誤解しているためだと説明しているわけだが
俺は君の理解が間違っている。人性とは何か 本性とは何かを解説したうえで
事実を提示している。教父の理解をだ。
君と誤解とは違い、教父は、一つの位格中で人性が受苦し神性は不受苦だと
言明している。
君の理解が正統教父と教会の理解からずれていることに何故気づけないのだね
現実を無視するからだ。河童だから現実をみたくないのかもだが
君は間違っているのだ 致命的に つらい
虐待はされても 誰もどうしていけばいいか教えてくれるわけじゃない >>970
御託並べてないで該当箇所引用してレスしろよ
出来ないなら土いじりしとけ、ハゲ 俺には なにもない 父はいなかった 母もいなかった 青春もなかった 恋愛も女もなかった 金も地位も名誉もない すべてがなかった
いつも誰かが 俺をつまずかせるだけ 427 名前:菜園人 :2018/11/07(水) 18:27:36.54 ID:yNpg7nYl
>そして子なる神の神性と人性は一つの位格だが、二つの本性なんだ
出路樽脳だから、神学用語がわからんのだろうが
神性と人性とが二つの本性なのであれば
イエスの中に神様と人がふたりおられることになるぞwww
↑
河童と違って、俺は人であって理性的霊魂理が私の主体なので
この発言の間違いに気づいた瞬間、訂正したぞ。
俺は老いているしあほうだが、河童ではなくて人だ
間違えたら訂正する 詫びもする
お前は河童だから間違いにさえ気づけない 非理性的霊魂がおまえの主体だからだ >>973
反論もできないくせに偉そうに
三位一体の第二格の両性を理解できない哀れな河童
主日のミサで司祭に確認しな お前には脳みそがないから教えてもらって来い
正統教義…「神性は不受苦 人性が受苦」
河童教義…「神格が死んだのだから、人性の死を神性も味わった」
■アンティオケ学派最後の大神学者キュロス司教のテオドレトス
『キリスト論 論争史』p197より引用
447年に書かれた『物乞い』の第三の対話
「聖書が教えてくれる通り、祝された教父たちが常に説いてこられたように
キリストは神であり人間であるとすれば、人間として受苦されたのであり、
神としては不受苦のままであられたのである」(Ettlinger,p264,15-17)
■アレクサンドリア総主教のキュリロス
『キリスト教の伝統 教理発展の歴史 第一巻 公同的伝統の出現(100-600年)』
ペリカン著 6500円(税別) 教文館 p311
「キュリロスはそれはすべての理性とすべての言葉を超越した仕方で
「その神の本性においてではなく、彼ご自身の肉において苦しむことによって」である、
と答えた。キリストの苦難の現実性を強調し、キリストの位格における神性と人間性の
統一を強調したアレクサンドリア学派の強調も、神の本性の本質的な不受苦性に限定を
置いたり、それを危険に晒すことは許されなかったのである。」
『中世思想原典集成3 後期ギリシア教父・ビザンティン思想』
上智大学中世思想研究所監修 春秋社 10,000円(税別)
p222 『キリストはひとりであること』より
「A自分に固有の肉において受苦したのであって、神の本性においてではない。」 河童「位格たるイエスが受苦した。人性だけを位格から切り離して人性だけが
受苦するのは、人性を位格と誤解しているためだ」
カルケドンで活躍した二大学派の巨頭がそれぞれ>>939
テオドレトス 曰く
「聖書が教えてくれる通り、祝された教父たちが常に説いてこられたように
キリストは神であり人間であるとすれば、人間として受苦されたのであり、
神としては不受苦のままであられたのである」(Ettlinger,p264,15-17)
キュリロス曰く
「自分に固有の肉において受苦したのであって、神の本性においてではない。」 はいはい、レス返せなくなった禿げは哀れ
そりゃそうだよな
禿げは自分の間違い自覚しちゃったからレス返せるわけがない
そして後に残るのはくやしいのう、くやしいのう、だけであった
まったく不毛である
禿げなだけに
大爆笑である
fin〜 >>6
ざっとだけど読んでみた
これは素晴らしいね
全体的な印象としては、Christocentricな視点から、そしてキリストと父の一致という視点から
贖罪と義を定義し直そうとする試みだね、すごく説得力がある
刑罰代償説は、応報的贖罪(retributive atonement)であって、一致するはずの子と父が対立軸に置かれる
Christus Victor説では、回復的贖罪(restorative atonement)であって、子と父が完全に一致する
前者はpunishmentによって、後者はhealingによって義が回復されることになる
つまり前者はあくまでも法的枠組みで考えられた義であり、後者は存在論的に捉えられた義ってことだね
俺はChristus Victor説を単なるransom theory(身代金説・賠償説)と誤解していて
しかも悪魔に支払われたという論でしか考えていなかったけど
この人ははっきりと悪魔にも神にも支払われたものではない、ってナジアンゾスのグレゴリオスを例に
説明してるね(父が要求したのではないが受け取りはした、とは書いてあるけどこれは対価の意味じゃない)
リテラルな法的な対価ではなく、それをメタファーとした存在論的な対価、
つまり罪のもたらす結果からの回復ってことになる
俺自身がキリスト教を刑罰代償説の枠組みで捉えつつ、それが一因でキリスト教に強い拒否反応を
もっていたので、その意味では記事にも書いてあるように刑罰代償説は無神論者を作り出すのかも知れないw
贖罪と義というヘブライ語聖書を含めた聖書の根幹に関わってくる概念に大きな変更を促す考え方なので
慎重に吟味し、再度聖書を読み直してみないと、簡単に諸手を挙げて賛成とはいかないけど
それだけの価値がある論説だ
なるみが今まで断片的に語ってきたことが一本の糸で結ばれるような理論的土台となる可能性もあるね
異端非難を恐れずChristocentricに探求してきたなるみだからこそ探し当てた記事なのかもしれない
ここからは俺の憶測だけど、この筆者は、かなりリベラルなクリスチャンで
その書き方からしてransom theoryに付きまとう神対悪魔、善対悪といった二元論的な捉え方をしてない
もちろんdevilということばは出てくるけど、ぶっちゃけdevilなしで成立する論建てをしてる
だから善悪二元論に否定的な無神論者の俺でも素直に読めてしまう 三位一体はキリスト教にある唯一の神秘的思想であって、神秘思想が一つもなくなると宗教で無くなるのかもしれない。
キリスト教はユダヤ教由来であるから ユダヤの神秘について何かひとつぐらい加えておけばよかったのだろう。
その証拠に 三位一体を論理的に解釈できたとしても 何の役にも立たない。
ただ論争の材料にしかならないことを 悪魔たちはよく知っている。 質問にレスを返せないのは河童ではないか
もともと河童のたわけたレスをスルーしていると
増長してレスを返せないというから丁寧懇切に回答してやると
同じ繰り返しだからレスしないというのでレスをやめると
またこちら側がレスをしないと拗ねる ほんとに河童だな
蒙古斑ですら、こちらが論点整理すると応答してきたのに
河童はそれすらできない 河童は非理性的霊魂だから仕方あるまい まぁ、どう頑張っても出来損ないのラノベ(聖書)の裏設定を妄想しているだけなんだがな。(笑)
××が考えた裏設定が好きか、○○の考えた裏設定が好きかって水掛け論の繰り返し。(笑)
(^。^)そもそもの全知全能な神が破綻してる設定なんだから。(笑) だから議論好きな悪魔たちが三位一体の様々な解釈をしてみせたとしても
では いったいなぜそのようになるのかについての理由は 説明がなされていない。 >>981
952以降の該当箇所引用してそれにレスすればいーだけじゃん
言い訳はいいんだよ、ハゲ >>979
むしろ古典説ですよ>>53
1.古典説(Classic Theory) 劇的説(Dramatic Theory)
神はキリストの十字架の死と復活を通し、悪の諸勢力のすべてに対し
偉大な決定的な勝利を得たのである。人間はキリストへの信仰を通して
勝利に満ちた神との交わりに入る。
つまり始めから終りまですべてが神の継続的業である 三位一体というのは 戦士が戦う手段としてキリスト教を選んだ時に自動的にセットでついてくるもので、
信じる信じないは別として 条件として所有しなければならない。
ただし キリスト教がただの一度も闘う手段として役に立たなかったのと同じように
三位一体は いままで少しの役にも立ったことが無い。 >>984 逃げずに
>>958 >>962
設問に答えなさい。でないと終わりだよ
あとはこちらは河童が非を認めない限り
論点を貼って晒し続けるだけ 目に見えぬものとの遭遇においては 邪魔にしかならない。 三位一体は宗教というものをくだらない形而上学や概念論に引きずり落とすのには
極めて有効であると言える。
おち >>985
古典説ってことはこの前のなるみの紹介でも、この記事でも書いてあったことだから
分かってはいるけど、俺は単なる身代金説と置き換えて、さしてその意義を考えてなかったので
この記事でChristus Victor説という観点から古典説が内包する意義を教えられたってことね
特に悪魔に対する身代金という固定観念があったので、そうではない解釈もある、さらに
贖罪・義を法的・存在論的な区別で説明することで、これらの概念の射程が広がったという意味で
筆者の捉え方に感銘を受けたってことね
身代金説でもChristus Victor説でも論者によって違いがあるみたいだし エイシストさんの仰せの通り
受難の主語が肝要ですね
────────
ウ信仰告白(1647)
主イエスは〔…〕
いとも悲しき苦悩を忍び、
彼の体にいとも痛ましき苦難を受け十字架につけられ、
死して葬られ、死の力の下におかれ
アイルランド聖公会大綱(1615)
キリストは〔…〕
霊魂において直接に最も苦しい堪え難い苦痛を、
またその肉体において最も痛ましい苦難を忍び給うた スコットランド信条 (1560)
主イエスは〔…〕
罪人の苦悩を苦しみ、われらの罪のために傷つき、苦しみ、
神の潔き罪なき小羊として、地上の審判によりて断罪せられ、
それゆえにわれらは、われらの神の法廷において罪が赦されるのである。
彼は単に神の御旨によりて呪われ、
十字架の残忍なる死を苦しみ給うたのみではなく、
彼は罪人が当然等べき、御父の怒りを、一時苦しみ給うたのである
ベルギー信条 (1561)
イエス・キリストは〔…〕
恐ろしい罰を経験し、かくてかれの汗は血のかたまりのごとくに地に流れた。
かれは、わが神、わが神、なんぞわれを棄て給うたかと叫び、
われらの罪の赦しのためにすべてこのことに堪えた キリスト教のこのような果てしなく不毛の議論は、キリスト教を離れて竜樹の
「中論」と中村元博士の「竜樹」(講談社学術文庫)を苦労して読み、理解すれば、一瞬にして消滅するよ。
如何なる事物も「相互依存性」によって成立しているのだから、いかなる単独の事物も、中味スカスカの存在であり、執着すべき自性は在り得ないということ。
私は、中論とは、宗教破壊の宗教であり、むしろ現代の自然科学の基盤であると
主張してきたが、竜樹の伝記を読むと、彼は錬金術者であり、薬学者でもあった。彼のこのような現実そのものに対する直接の対峙と類まれな頭脳が、彼の
「古今東西比肩する者のない天才的思想」を生み出したのである。 ⠀⠀⠀⠀⠀⠀⠀⠀⠀⠀⠀⠀⠀⠀⠀⠀◝◜ ユダの福音書
⠀
⠀⠀◝◜⠀⠀⠀⠀⠀⠀⠀⠀◝◜ そして彼らは、私の名によって、恥ずべきやり方で、
⠀◝◜⠀◝◜ 実のならない木を植えた
⠀
⠀⠀⠀⠀⠀⠀⠀◝◜⠀
_◢╲___◢╲◢╲_◢╲_◢╲_ カルケドン信条に批准してるカルヴァン派は
受難の主語を 主 ないし イエス と“人性(中保者)“に寄せてるのに対し
カルケドン非批准のルター派は 受難の主語を“神性“に寄せてます
シュマルカルト信条 (1537)
神にして主なるイエス·キリストはわれらの罪のために死にわたされ 和協信条(1567)では カルケドン派およびカルヴァン派を“典礼主義者“として
かれらの両性説のあり方をディスる形で
次のようにまとめてます
和協信条 八章
キリストにおける神性と人性とは、ペルソナ的に結合せられ、
また、それが、完全であるので、一つは、神の子、
他は、人の子という二つのキリストが存在するのではなく、
神の子と人の子とは同一である(ルカ伝一・三五、ロマ書九・五)ということ。
〔…〕
苦しみは〔…〕神性の属性でもなく、また決して神性の属性ともならない
(しかし)神性と人性とが、ペルソナ的に、すなわち、
一の実体(υφιστάμενων)を構成するように結合せられている
〔…〕
神は、人であり、そして人は神である、
もし神性と人性とが、実にまことに、相互の交わりをもたないとすれば、
決して真理ではないであろう 三位一体論の本質
情緒に支配される者にとって あらゆる事象はまず自分の情緒で好きか嫌いかの結論があって、
その前提となる理由は あとからそれを正統化させるために付け足される。
これの典型が ザラスシュトラ・スピターマの善悪二元論である。
彼は単に自分の好き嫌いで あらゆる事象を善と悪の二つにふりわけた。
これがキリスト教の原型だ。 結論
サティさんは、ノンカルケドンの合性説的な両性説だと思います 人間の現象界だけでこの惑星を乗っ取るなど できないんだよ。 このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
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