碧巌録(へきがんろく) 第9則  趙州四門(じょうしゅう しもん)  

垂示(すいじ)

明鏡、台に当たって妍醜おのずから弁ず。
バクヤ(ばくや)、手に在り殺活時に臨む。漢去り胡来り、胡来り漢去る。
死中に活を得、活中に死を得る。しばらく道え、這裏に到って又そもさん。
若し透関底の眼、転身の処なくんば、這裏に到って灼然としていかんともせず。
しばらく道え、いかなるかこれ透関底の眼、転身の処、試みに挙す看よ。 
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注:
バクヤ(ばくや):伝説上の名剣の名。
殺活時に臨む:殺すも活かすも思うまま。
転身の処:迷いから悟りへ活路を切り開いて転ずる処。
自分をとりまく周りの変化に対応する自由さ。
透関底の眼:禅の関門を通り抜ける眼力。難関に当たっても通り抜ける眼
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垂示の現代語訳
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台の上の塵一つ付いていない明鏡は美醜(妍醜)をはっきり写し出す。
我々の心の目である正法眼もそのような明鏡と同じ働きをする。
名剣バクヤを手にすれば、相手を活かすも殺すも思いのままである。
眼前に現れる人が漢人のような都会人であれ、胡人のような田舎者であれ、ありのままに映し出す。
また危機に陥っても生き返り、湧き出る分別・妄想の心を掃蕩するのも自由である。
真の禅者はこのような明鏡と名剣バクヤを手にしたような力を発揮できるものである。
それではこのような境地に到ったらどうであろうか?
もし禅の関門を通り抜ける眼(透関底の眼)と周りの変化に対応する自由さ(転身の処)がなければどうしようもない。
では「難関に当たっても通り抜ける眼」と 「環境の変化に対応する自由さ」とは一体どのようなものだろうか?
試みに、次の公案を参究せよ。