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坐禅と見性 第百十九章「胡乱より後三十年、塩?を少かず」

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0001神も仏も名無しさん
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2018/10/13(土) 19:03:04.43ID:0Z/sYvlz
このスレの1章は、南予さんが建てたスレッドである。

ただ須らく十二時中、無理会の処に向って、
究め来り究め去るべし。
0701去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/07(水) 00:31:51.39ID:wto3zF76
>>700
本則(ほんそく)

修行僧、趙州に問う、「いかなるかこれ趙州(地名、僧名)?」。
州云く、「東門、西門、南門、北門」。


趙州: 趙州従?(じょうしゅう・じゅうしん)禅師(778〜897)。唐代の大禅者。南泉普願(748〜834)の法嗣。趙州観音院に住んだので趙州和尚と呼ばれる。
法系:六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道一 →南泉普願→趙州従シン

本則

ある修行僧が趙州に聞いた、「趙州とは何でしょうか?」。
趙州は言った、「東門西門南門北門」。



句裏に機を呈して劈面に来る
シャカラ眼 繊挨を絶す
東西南北 門相対す
限りなく 鎚を輪(ふりまわ)すも撃ち開けられず



句裏に機を呈して:言句の中にズバリと真機を呈示して。
劈面(ひつめん)に:まっこうから。
シャカラ眼(げん):ブッダの八十種好の一つ。
白と黒の蓮華の花弁のようにはっきりと邪正・是非を見分ける眼。
繊挨(せんない)を絶す:塵一つなく清らかである。
鎚を輪(ふりまわ)すも:ハンマーを風車のように振り回しても。

頌(じゅ)

「いかなるかこれ趙州?」という僧の質問(言句)の中には 場所と人(趙州禅師)の二つを含み、趙州を困らせる意図がある。 僧はそのような難問を真っ向から趙州に突きつけて迫った。
普通の禅師ならそれに引っかかって戸惑うだろう。 しかし、趙州の心の目は曇りのないシャカラ眼(悟りの眼)である。
彼は明鏡のような心の目で僧の意図を見破り「東門西門南門北門」と答え、 僧が提示した難関を見事に通り抜けることができた。
趙州の言うように、禅の悟りへの門は東西南北と何処にもあり、開かれている。 
何処から入ろうと勝手だ。趙州には「東西南北に東門、西門、南門、北門があるよ」と言ったと解釈できる。
2.禅師としての趙州の禅に関する禅的な回答だとすると、
趙州の禅には「わしの禅には東門、西門、南門、
北門といろんな門が開いている。どこからでも入ることができるよ。
0702去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/07(水) 00:55:41.38ID:wto3zF76
>>701

趙州禅師は、河北省西部に位置する趙州の観音院に住んでいた。

趙州の観音院に住む趙州和尚に「趙州とは何でございますか4」と問う修行僧が居る。
勿論、
佛、真理(さとり) とは何でございますか、と突きつけたのである。
この問いに
極めて丁寧に、歯科も借りやすく答えた。
その観音院に東西南北の出入りする問が有ったのかどうかは知らないが、
大陸では城郭の中に生活の場があった。
戦争や盗賊や武装集団の略奪襲撃から守るためである。
その外の世界の出入り口が、四つの門である。
シャキャ族の聖者に四門出遊の生老病死の大発見があったが、王や市民は城郭の中で暮らしている。

真理(さとり)は東西南北の四つの門である、と答える。

わたしはほとけとは、麻三斤(ま さんぎん)の公案が有り、これによってこの四門が同じ枝の葉っぱである、と透る。
0703去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/07(水) 02:40:34.61ID:wto3zF76
足元の確認、椅子が床が土台石が地球が有り、
入退院の繰り返してるんだってな、どうだぁ調子はイヌヤマ
荒らしクチャイガチのキチガイw だっぺよ仏教棄民のイヌ山 ぁ〜♪ってさぁ
イヌヤマが相手にされない時、犬嫁麦になるの原則(笑い)

>公案が進んで無くよくわからないのです、法相宗ですから唯識ですby無脳イヌヤマ

5ちゃんねるの会話の形式は、バトルです、馴れ合いを禁じています。
彼はお前はえらい、と認めてほしい、のです、ほめて欲しいのです。
それは彼がリアル世界での無視されている現状があるのです。
一見、相手を罵倒しているように見える悪口雑言の数々は、彼の抱え込んでいるリアル社会での彼に対する社会の評価です。
眼は外を見るが、オマイの内側に在るそれは赤肉団上を真人が出入りす、会すや。
糞邪鬼は月一第三金曜日夜7時茶菓代ワンコイン坐禅会に出ると偽証
命取りの摂心に親子で家族で100回参加と虚飾。
もう40回も初関を透る俺様!と言い放つドマヌケ!40回も透ったら、初関を透る、じゃねーべ。
ググるシッタカ糞邪鬼は、褒めてクレヨの哀願奴隷。
相手を罵倒する悪口雑言の数々は、糞邪鬼へのリアル社会の絶対評価です。
糞邪鬼は「暴れさせゴミが溜まれば透明あぼ〜ん,NGID登録が適切で決してレスしない事。
病識が無いイヌヤマ カワイソス (-∧-)合掌ナムナムΩ\ζ°)チーン

 || ○荒らし粘着糞イヌヤマは無視放置スルーが一番ツライ、耐えられない。
 ||  荒らしイヌヤマは常に誰かの反応レスを待ち焦がれる。
 || ○荒らし糞イヌヤマは、自己の内側、佛心が観えず。
 ||  荒らし糞イヌヤマは常にシカトされ自己存在の確認要求します。
 || ○荒らし糞イヌヤマは問いに問いで返す無答、脊髄反射のパープリンです。
 ||  荒らし糞イヌヤマは悟前(ごぜん)、金魚ドジョウと救い難い。
 || ○荒らし粘着糞イヌヤマの重複スレには誘導リンクを貼って放置プレイ透明アボーンが一番。
 ||  ウザイと思ったら専ブラのNG機能や あぼ〜んを活用。
 || ○放置された荒らし糞イヌヤマは煽りや自作自演でアナタのレスを誘います。
 ||  荒らし糞イヌヤマにノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け、完敗です。
 || ○反撃は荒らし糞イヌヤマの滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。
 ||  荒らし糞イヌヤマにつけ入るエサを与えない
 || ○荒らし糞イヌヤマが枯死するまで孤独に暴れさせゴミが溜まったら削除です。
0704去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/07(水) 17:01:11.77ID:wto3zF76
碧巌録(へきがんろく) 第10則 睦州(ぼくしゅう)、掠虚頭(らっきょとう)の漢(かん)  

垂示
恁麼恁麼、不恁麼不恁麼、もし戦いを論ぜば箇々転処に立在す。
ゆえにいう、もし向上に転じ去らば、直に得たり、釈迦、弥勒、文殊、普賢、千聖万聖天下の宗師、普(あまね)く皆 気を飲み声を呑むことを。
もし向下に転じ去らば、醯鶏ベツモウ(けいけいべつもう)、蠢動含霊(しゅんどうがんれい)、一々大光明を放ち、一々壁立万仞(へきりゅうばんじん)ならん。
もし或いは不上不下ならば、又そもさんか商量せん。
条あれば条を攀じ、条なければ条を攀ず、試みに挙す看よ。 


恁麼(いんも) :さよう、「肯定」の意味。
不恁麼(ふいんも) :そのようでない。「否定」の意味。
箇々転処に立在す:向上か向下に転じる分岐点にある。
醯鶏(けいけい):酒の中に生じる小さな蛆虫、小さな虫の類。
ベツモウ(べつもう):雨の日に出てくるヌカ蚊。
蠢動含霊(しゅんどうがんれい):あらゆる生き物。
壁立万仞(へきりゅうばんじん):断崖の高くそそり立つさま。
不上不下。 (上がることもできず下がることもできない
商量(しょうりょう)師家と修行者との間で問答応酬して人生の一大事を明らめること。

垂示
我々が生きるこの現実世界は肯定(恁麼)と否定(不恁麼) の二つの立場で成り立っている。
もしこの間の戦いに勝つことを議論するならば肯定と否定の二つの立場に こだわらない自由さが必要である。
もし一切を否定する立場に立つならば、釈迦如来、弥勒菩薩、文殊菩薩、普賢菩薩、のような千聖万聖天下の宗師も皆、声を飲みウンともスンとも言えない。
これと反対にもし一切を肯定する肯定の立場に立つならば、 小さな虫類をはじめあらゆる生き物が一々大光明を放ち、 一々高くそそり立つ断崖のような境地に立つ。
しかし、実際には肯定と否定と簡単に割り切れないことが多い。
そのような場合には(不上不下ならば)、どのように対処すれば良いのか。
法律の条文のような定められた規定があればそれに従えば良いだろうし、 そのような定められた規定がなれば古来からの慣習や実例に従えば良いだろう。
試しに、次の公案を参究しなさい。
そのため睦州は僧を打って、「このたわけもの」と言ったのである。
0705去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/07(水) 17:08:13.05ID:wto3zF76
>>704
本則

睦州、僧に問う、 「近離(きんり)いずれのところぞ?」。
僧すなわち喝す。

州云く、 「老僧、汝に一喝せらる」。
僧又喝す。

州云く、 「三喝四喝の後そもさん」。
僧無語。

州すなわち打って云く、 「この掠虚頭(らっきょとう)の漢(かん、おとこ)」。



睦州(ぼくじゅう):黄檗希運禅師の法嗣睦州道明禅師(780?〜877?)。
若い時代の臨済を策励したり、雲門文偃の脚をヘシ折ってまでして接得した人である。
親孝行の人で、陳尊宿と呼ばれ、名利を嫌い生涯韜晦して世に出なかった。
法系:六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道一 → 百丈懐海 →黄檗希運→睦州道明
掠虚頭(らっきょとう)の漢:たわけもの。

本則

僧が睦州和尚の処にやって来た。睦州和尚はその僧に聞いた、 「お前さん何処から来たのか?」。
すると僧は 「カーッ」と喝した。

睦州は言った、 「わしはお前さんに一喝されビックリしたのー。一本参ったわい」。
と僧の足下に落とし穴を掘った。僧はそれに気付かずまた 「カーッ」と喝した。

睦州は言った、 「お前さん、三喝四喝と喝の一つ憶えのようだな。喝の後はどうするんだい?」。
僧は黙ってしまった。

睦州は僧を打って言った、 「このたわけもの!」。
0706去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/07(水) 17:52:37.22ID:wto3zF76
>>705
頌(じゅ)

両喝と三喝と
作者機変を知る
もし虎頭に騎るといわば
二人ともに瞎漢とならん
誰か瞎漢
拈じ来って天下 人に与えて看せしむ


作者:練達した禅匠を言う。「作家」に同じ。
もし虎頭に騎るといわば:
(僧が睦州和尚を二度も喝したことを)もし虎の頭を抑えたなどと考えるならば。
瞎漢:盲目の人


2度「カーッ」と喝した僧とこの僧に「三喝四喝の後そもさん」 と言った睦州和尚と2人とも臨機応変の禅僧(作者)と言えるだろう。
僧が睦州和尚を二度も喝したことを虎の頭を抑えたなどと考えるならば、 それを許した睦州和尚の二人とも盲目の人だ。
それでは誰が盲目の人だったのだろうか?
天下の皆さん一つよく点検して下さい。


禅の公案には、「解答集」がある。
或る王の時代、禅宗は禁止され、寺や仏教聖典は焼かれ、僧は首をはねられた。
僧達は中国各地の奥地へと隠棲した。
真理(さとり)を伝えるために、むらの童謡、里謡に託して第三者が聞きとがめたとしても、禅の真理(さとり)を透過してなければ、解からないようにした。
許されたのち、戻ってきた禅宗は爆発的大領好機を迎える。
Ann圧の時代、禅僧はいのちがけの修行僧たちで、少数であり、質が高かった。
だが、大興隆のなか、急に増えたそうは量的拡大は、必然的に質が落ちる。
そこに「公案解答集」が出回った。
形式化していった、のである、堕落したのである、安易に走ったのである。
そこで、アンチの新興宗としての曹洞宗が発生した。

この修行僧も、現在で言えば、ググる、コピペマン、だったのである。
睦州禅師は見破って、叱咤し、激励をした。
0707去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/08(木) 19:45:44.33ID:sotrzP8F
碧巌録(へきがんろく) 第11則  黄檗酒糟の漢(おうばく しゅそう の かん) 

垂示(すいじ)

仏祖の大機、全く掌握に帰し、人天の命脈悉く指呼を受く。
等閑の一句一言も、群を驚かし衆を動かし、一機一境、鎖を打し枷(かせ)を敲(たた)く。
向上の機を接し向上の事を提ぐ。しばらく道え、なん人か曽ていんもにし来る。
還って落処を知るありや。試みに挙す看よ。 


仏祖の大機:ブッダや達磨大師が持っている偉大な働き。
人天の命脈:人間界と天上界に生きる生き物。
指呼:さしず。
等閑の一句一言:さりげない一句一言
一機一境:あれこれの対応のしかた。
鎖を打し枷(かせ)を敲(たた)く:鎖や首枷(かせ)を叩いて束縛されていることに気付かせる。
向上の機を接し向上の事を提ぐ:一段上へ踏み越える機根ある者を受け入れ、
一段上へ突き抜けた消息を提示する。

垂示の現代語訳

ブッダや達磨大師が持っている偉大な働きを全て我が物にして身につけることができれば、全ての生きとし生きる者達の生命を自由自在に生かしたり殺したりすることができるだろう。
また、さりげない一句一言でも大勢の人々の心を動かすことができるだろう。
一挙手一投足のちょとした行為が、我々の自由を束縛している鎖を打ち砕き、手枷足枷を取り除くことも出来るだろう。
そのような人はこの上ない禅の第一義に接し真理を提示することができるだろう。
それではかって、どのような偉大な人物が歴史上にあり、それが誰か分かるだろうか。
次に実例を上げるので参究しなさい。
0708去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/08(木) 19:59:33.50ID:sotrzP8F
>>707
【本則】挙。黄檗示衆云、汝等諸人、尽是?酒糟漢。恁麼行脚、何処有今日。還知大唐国裏無禅師麼。
時有僧出云、只如諸方匡徒領衆、又作麼生。檗云、不道無禅、
【本則】挙す。黄檗、衆に示して云く、「汝等諸人、尽く是?酒糟の漢なり。恁麼に行脚せば、何処にか今日あらん。還た大唐国裏に禅師無きことを知るや」。
時に僧あり出でて云く、「只諸方の徒を匡し衆を領いるが如きは、又作麼生」。
檗云く、「禅無しとは道わず 、只是師無し」。
【本則】(黄檗禅師が聴衆に話し始めました。「看たところ、お前さん達は皆な酒粕の様な役立たずの人間に看える。何処を如何うろつきまわれば何処かに何か有ると思っているのか。この大唐国には禅師などいないのを知っているか」。
すると一人の僧が黄檗に質問した、「それなら黄檗さん、多くの大衆に説教をたれ、門人を沢山引き連れている、その有様を如何説明するのです?」と。
黄檗はそれに応える。「禅の道に在る人が居ないと云っているのではない、只、禅の道に、これこそ本家本道等との定義付けは為らないと云う事さ」。)
【本則】
黄檗、衆に示して云く、 「汝等諸人、尽くトウ酒糟の漢、いんもに行脚せば、いずれの処にか今日あらん。 還って知るや。大唐国裏に禅師なきことを」。
時に僧あり出でて云く、「只だ諸方の徒を匡し衆を領いる如きは、又そもさん」
檗云く、「禅なしとはいわず、ただこれ師なし」。
【本則】ある日黄檗希運禅師は、門下の修行僧達に示して言った、「お前達は誰も彼も酒粕をたらふく食べて酔い心地の男のようだ。 そんな体たらくで、うろうろだらりと修行していてはとても今日のわしみたいにはなれんぞ。大体この大唐国四百余州には本物の禅師らしい禅師はおらん」。
その時一人の僧が出で来て言った、
「和尚は大唐国裏に本物の禅師はいないとおっしゃいますが、あちこちの道場には大勢の修行者達を集めて指導している老師方がおられます。 あれは一体どう見たらよいのでしょうか?」
黄檗、「わしは禅がないとは言っていない。 ただこれ明眼の禅師がいないと言ったのじゃ」と言った。

黄檗(おうばく):臨済禅師の師である黄檗希運禅師
トウ酒糟の漢:酒粕をたらふく食べて酔い心地の男。
一知半解の仏法に自己満足している修行者のこと
0709去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/08(木) 20:12:13.65ID:sotrzP8F

凛々たる孤風 自ら誇らず
寰海に端居して龍蛇を定む
大中天子 曽て軽触す
三度親しく爪牙を弄するに遭う


孤風:対比を絶した孤高の姿。
寰海(かんかい):天子が統治する領域。ここでは唐国。
寰海に端居して:天下に坐して。
龍蛇を定む:優れた者(龍)か凡庸な者(蛇)かを見分ける。
大中天子:唐の第19代皇帝宣宗(在位:846〜859)。
爪牙を弄するに遭う:大中天子が塩官の会中で黄檗に打たれた話を指す。


凛々たる黄檗禅の孤風は大唐国に屹然と自ら誇らずそそり立っている黄檗は天下に坐して修行者の人物の優劣を見定める。
かって唐の宣宗(第19代皇帝)は黄檗が仏前で額を押し付けて礼拝しているのを見て、 「仏に着いて求めず、法に着いて求めず、僧に着いて求めずと言われる。
あなたは仏前で礼拝して何を求めるのか?」と冷やかして、聞いた。
黄檗は「仏に着いて求めず、法に着いて求めず、僧に着いて求めず、
常に礼拝することかくの如し」と答えた。
宣宗は「礼を用いて何かせん」と黄檗にに向って減らず口を叩いた。
黄檗は「禅に乱暴だの丁寧だのという差別はないわい」と大中天子を三度叩いた。
黄檗は法のためには天子といえども一歩も譲らず厳しく指導したものだ。

「お前達は誰も彼も酒粕をたらふく食べて酔い心地の男のようだ。 そんな体たらくで、うろうろだらりと修行していてはとても今日のわしみたいにはなれんぞ。 大体この大唐国四百余州には本物の禅師らしい禅師はおらん」。
黄檗は多くの修行者が禅を外に求め、師を他に求めて、 宿無し犬のようにただ乞食根性の持ち主であるのを見て、「脚下を見よ(本来の面目を見よ!)」 と警告したのである。
その時一人の僧が出で来て言った、「和尚は大唐国裏に本物の禅師はいないとおっしゃいますが、 あちこちの道場には大勢の修行者達を集めて、指導している老師方がおられます。 あれは一体どう見たらよいのでしょうか?」
この反問にはさすがの黄檗もタジタジとなったようで、黄檗は「わしは禅がないとは言っていない。 ただこれ明眼の禅師がいないと言ったのじゃ」と言った
0710去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/09(金) 01:10:15.96ID:/aC+E1/r
ミックスリスト - ゆったり癒しの夜ジャズピアノ
https://www.youtube.com/watch?v=SXBwRAQAFg4&;list=RDSXBwRAQAFg4&start_radio=1&t=21

ミックスリスト - ジャズ| 英語でロマンチックな音
https://www.youtube.com/watch?v=4L_yfVvynV0&;list=RD4L_yfVvynV0&start_radio=1&t=7

ミックスリスト - Ladies of Jazz
https://www.youtube.com/watch?v=cR5_Jxt1t-Q&;list=RDcR5_Jxt1t-Q&start_radio=1&t=16

Autumn Cafe JAZZ - Soothing and Smooth JAZZ Playlist
https://www.youtube.com/watch?v=q8MhUmoEqEo
0711去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/10(土) 01:55:13.04ID:OlX38zHe
碧巌録(へきがんろく) 第12則  洞山麻三斤(とうざん ま さんぎん)

垂示
殺人刀活人剣は、乃(すなわ)ち上古の風規にして、また今時の枢要なり。
もし殺を論ぜば一毫を傷つけず。 もし活を論ぜば、喪身失命せん。
ゆえにいう、「向上の一路、千聖も伝えず。
学者形を労すること、猿の影を捉えんとするが如し」と。
しばらくいえ、既に伝えずんば、なんとしてか却って多くの葛藤公案かある。
具眼の者は、試みに説き看よ。


殺人刀活人剣:師家が修行者を指導する時の活殺自在の手さばき。
殺人刀は否定の働き、活人剣は肯定の働きを意味している。
向上の一路:仏の上へ踏み出る道。
猿の影を捉えんとする:実体の無いものを追う喩。
「向上の一路、千聖も伝えず。学者形を労すること、猿の影を捉えんとするが如し」:
盤山宝積(ばんざんほうしゃく)(馬祖の法嗣)の上堂の言葉。

垂示の現代語訳

師家が修行者を指導する時の活殺自在の手さばきは、 禅者の古来からの慣わし(上古の風規)であり、 また現在の禅者にとっても大切な問題(枢要)である。
ところで、否定の働きである「殺人刀」の働きを論じるならば、 それは相手の妄想分別を根こそぎ掃蕩して少しも傷つけない。
 もし肯定の働きである「活人刀」の働きを論じるならば、 それは我執の思いを否定し、無心になって対象の中に完全に没入し、 死にきらなければならない。
そのような活殺自在の手さばきによって切り開かれた「向上の一路」は、たとえ、釈迦や達磨のような聖人賢者が大勢出て来ても表現し伝えることができない。
たとえ学者が苦労してもあたかも猿が水に写る月影を捉えよう としているようなもので徒労に終るだろう。
それではなぜ「千聖も伝えられないもの」を伝えようとして、 八万四千の法門や千七百余の公案があるのだろうか?
これは矛盾ではありませんか。
伝えられないからこそ、自分自身で肯くようになるためそのようなものがあるのだ。
眼の開いた者(具眼の者)ならば、それが分かるだろう。
一つ次の公案を参究して看なさい。
0712去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/10(土) 02:06:11.67ID:OlX38zHe
>>711
本則
修行僧、洞山に問う、 「 如何なるかこれ仏?」

山云く、 「 麻三斤」。
?
注:
洞山:雲門文偃の弟子洞山守初禅師(とうざんしゅそ、910〜990)。
法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→天皇道悟→龍潭崇信→徳山宣鑑 →雪峯義存→  雲門文偃→ 洞山守初

麻三斤:洞山守初が居た湖北省襄州は有名な麻の産地だったと言われる。
麻三斤は三斤の麻糸であり、ちょうど僧衣一着分の重さに当たる。
斤:昔の重さの単位。普通、160匁(約600グラム)。

本則

ある僧が洞山禅師に聞いた、 「 仏とは何ですか?」

洞山は言った、 「 麻が三斤だ」。
0713去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/10(土) 02:30:38.44ID:OlX38zHe
>>712

金烏急に 玉兎速かなり
善応何ぞ曽て軽触あらん
事を展べ機に投じて洞山を見る
跛鼈盲亀(はべつもうき) 空谷に入る 
花簇々(ぞくぞく) 錦簇々 
南地の竹 北地の木
因て思う長慶と陸大夫と
解(よ)くぞ道(い)えり「笑うべし、哭すべからず」と。


金烏:日、太陽。
玉兎:月。
善応何ぞ曽て軽触あらん:洞山の見事な応じ方は 問いの核心をいささかも傷つけず受け止めている。
事を展べ機に投じて洞山を見る:機微をついた開示の仕方に洞山の洞山たるところが見える。
跛鼈盲亀(はべつもうき) 空谷に入る: 足の悪いスッポンや目の見えぬ亀があてど無い谷間に迷いこんだようなものだ。
花簇々(ぞくぞく) 錦簇々:どこもみな絢爛たる花盛り、洞山の答えが創り出しためでたさ。 
南知の竹 北地の木:麻どころか、南には竹林が、北には樹林がびっしり。
長慶:長慶大安(793〜883)。
陸大夫:陸亘(764〜834)。
因て思う長慶と陸大夫と解(よ)くぞ道(い)えり「笑うべし、哭すべからず」と: 昔、陸大夫は師の南泉が亡くなった時、その棺の前で大声を上げて笑った。
それを見た院主は「 あなたは南泉の嗣法の弟子の一人だ。
師匠の南泉禅師が亡くなったら泣いて悲しむべきなのに笑うとは何事ですか」 と陸大夫をなじった。
陸大夫は「 あなたが悟りの核心を言うことができたら泣いてやろう」と言ったが、院主は何も言うことが出来なかった。
その情けなさに陸大夫は大いに泣いて言った、「 どいつもこいつもふがいない奴ばかりで悲しいなあ」。
後にこの話を聞いた長慶は「 大夫、笑うべし、哭すべからず」と批評した。
イ(い):人を叱ったり注意を促す時に発する言葉。



昔、陸大夫は無眼子な院主の情けなさに大いに泣いたと伝えられる。
洞山に質問した僧もこの院主と同じように無眼子で情けない。
このような無眼子僧に対しては陸大夫が泣いたように泣くべきかも知れない。
しかし、長慶が「大夫、笑うべし、哭すべからず」 と批評したように大いに笑ったら良いだろう。
長慶が陸大夫の昔話を聞いて「大夫、笑うべし、哭すべからず」 と言ったのはこの場に良く当てはまる批評だ。
雪竇は言う、「アカンベー(イ!(い))」
0714去れ!イヌヤマ! 外道よ!
垢版 |
2020/10/10(土) 02:47:59.66ID:OlX38zHe
>>713
この洞山は雲門文偃の弟子洞山守初(910〜990)である。
曹洞宗の開祖洞山良价(807〜869)と違う人であることに注意して欲しい。
洞山守初が居た湖北省襄州は有名な麻の産地だったとのことである。
この公案は次のように考えると分かり易くなる。
洞山が庫裡で麻の目方を量っていた時、 ある僧が「仏とは何か?」と質問した。
洞山は「おお、麻の目方が三斤」と答えた。
如来(仏)とは来る如く、ありのままを如来(仏)という。
洞山は僧が「仏とは何か?」という質問を 「如来とは何か?」という質問と受け取り
「おお、麻の目方が三斤」と答えたと考えられる。
この質問の時彼は庫裡で麻の目方を量っていた。
洞山は如来はありのままの真実であると僧に伝えようとして、 「おお、麻の目方が三斤」と答えたと考えられる。
これは自己本来の面目をそのまま肯定した言葉と言える。
洞山守初は「麻の目方が三斤」 だと判断認識している自己本来の面目である脳機能が「仏」だ
と素直に発した言葉と言えるだろう。
大森曽玄禅師はその著「碧巌録上」において次のように述べておられる。
臨済流に言えば、即今、面前聴法底と言ってもよい。
しかし、いくら即今、面前聴法底と言っても凡心分別のままではいけない。
「八識田中に一刀を下さなければ駄目です。殺人刀を必要とする所以です。」 と説いておられる。
黄檗や臨済は言語したり目前で聴法している主体(=本来の面目) が仏だと考えている。
勿論この主体は凡心分別の心ではなく坐禅修行によって浄化された「本源清浄心」である。
この観点から言えば洞山が「おお、麻の目方が三斤」 と有りのままの真実を素直に言ったその「純粋無心な心」 こそ仏に他ならないとも受け取ることが出来る。
洞山の「おお、麻の目方が三斤」の場合は麻の目方三斤という有りのままの真実を測定で確定し、 真実を知る大脳前頭葉(理知脳)の機能をそのまま肯定している とも考えることができるかも知れない。
「麻三斤」と答えた洞山は雲門文偃の答え「花薬欄」や「金毛の獅子」とは違う。
0715去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/10(土) 15:49:07.22ID:OlX38zHe
【初心者必見!太刀魚テンヤin東京湾 - 36.25
https://www.youtube.com/watch?v=6cTyVVsDfP0

【船太刀魚】16連続、竿頭のタチウオ名人に釣り方を教えてもらった - 18.59
https://www.youtube.com/watch?v=5QmEIVSWjhY

【タチウオ釣り】当たりはあるけど掛からない‥そんな時 - 11.19
https://www.youtube.com/watch?v=TyoRMvO9TiY

8月中旬 大阪湾【貝塚人工島】タチウオ調査 足元に湧いてます - 9.05
https://www.youtube.com/watch?v=9zue2eOuBGU
0716去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/10(土) 16:34:05.38ID:OlX38zHe
碧巌録(へきがんろく) 第13則? 巴陵8ぱりょう)銀椀裏(ぎんわんり)に雪を盛る  

垂示
雲、大野に凝って、偏界蔵さず。雪、蘆花(ろか)を覆うて、朕迹を分けがたし。
冷処は氷雪よりも冷ややかに、細処は米末よりも細やかなり。
深々たる処は仏眼も窺いがたく、密々たる処は魔外も測ること莫し。
挙一明三は即ちしばらくおく、天下人の舌頭を坐断して、そもさんか道(い)わん。
しばらくいえ、これなん人の分上の事ぞ。試みに挙す、看よ。

注:
偏界蔵さず:全世界に隠れるものがない。
蘆花:芦の花(白い花)。
朕迹:形跡、すがたかたち。
魔外:天魔や外道。

垂示の現代語訳

我々の本心本性はあたかも雲が密集して広い野原を覆っているようなもので、 広い野原はどこを見ても雲に覆い包まれて雲一杯で雲ならざるところはない。
雲の下には山が聳え、森が山を覆い、山河大地が展開している。
この森羅万象は我々の前に露わに現れて隠されたところはどこもない。
また、雪が芦の白い花を覆った時には、雪と芦の白い花を見分けることは難しい。
また、我々の本心本性も雪が芦の白い花を覆った時のようにはっきりと見分けにくい。
その冷たさは氷雪よりも冷たいと言えるし、大きさは米の粉末よりも微小で見難いところがある。
その深々としたところは偉大な仏眼をもってしても窺いがたいし、密々たるところは天魔外道も窺い知ることはできない。
一を挙げて三を明らかにする明敏さはさておき、 このような我々の本心本性を明らかにして、世界中の人々をアッと驚かせ、 息をのませることができるのは一体誰だろうか?
試みに、次の公案を挙げるから参究して看なさい。
0717去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/10(土) 16:48:41.05ID:OlX38zHe
>>716

修行僧、巴陵に問う、 「 如何(いか)なるかこれ提婆宗(だいばしゅう)?」

巴陵云く、 「 銀椀裏に雪を盛る」。



巴陵:巴陵鑑(こうかん)禅師。雲門文偃の法嗣。
法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→天皇道悟→龍潭崇信→徳山宣鑑 → 雪峯義存→ 雲門文偃→ 巴陵鑑

提婆(だいば)宗:迦那提婆(Kanadeva)の宗旨学説。
迦那提婆(Kanadeva)はもと96外道の一人であったが 龍樹尊者の指導で仏門に入り「百論」という著書を書いた。 彼は学者であるとともに雄弁家であったと伝えられる。
その弁才で外道や異端を破り縦横無尽に宗風学説を挙揚していたので、 時の人が提婆(だいば)宗と呼んでいたと伝えられる。ここでは提婆(だいば)宗とは仏法とか禅を意味している。

銀椀裏に雪を盛る:銀椀も雪も白く、見分けがつかぬが、全く違う。  禅の悟りの世界はそれと同じようだという比喩。

本則

ある僧が巴陵鑑(こうかん)禅師のところに来て聞いた、 「 禅宗の奥義はどのようなものでしょうか?」

巴陵は言った、 「 真っ白に輝く銀製の椀に白い雪を盛ったようなものだ」。


老新開 端的別なり
道うことを解す銀椀裏に雪を盛ると 九十六箇まさに自知すべし
知らざれば却って天辺の月に問え
提婆宗 だいばしゅう)
赤旙の下に清風を起こす


老新開:「老」は敬愛の意を示す。「新開」は巴陵の居所、「新開院」。巴陵のおやじ。
端的:まさしく。
九十六箇まさに自知すべし:九十六種の外道は思い知ったに違いない。
赤旙 :昔インドでは宗論に勝った時赤旗を立てて勝利を祝ったと伝えられる。
勝利の旗。


巴陵のおやじの見識の高いことは格別だ。    
「 銀椀裏に雪を盛る」という表現は実に見事だ。 
九十六派の外道も「 銀椀裏に雪を盛る」という言葉で表された心境不二、主客一体の境地を自知して貰いたいものだ。
もし脚下に照顧して自知することができないならば天空にかかる月にでも聞いてくれ (天空にかかる月に聞いても分からないなら、自己の内心に向って聞け)。
ああ「提婆宗」! 「提婆宗」! 巴陵の行くところ外道を降し(論破し)、赤旙の下に清風が吹いている。
0718去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/12(月) 16:57:48.95ID:jkhPzfch
碧巌録(へきがんろく) 第14則  雲門対一説(たい いっせつ)

舉。僧問雲門。如何是一代時ヘ。雲門云。對一説。

挙こす、僧そう、雲門うんもんに問とう、「如何いかなるか是これ一代いちだい時じ教きょう」。雲門うんもん云いわく、「対たい一説いっせつ」。
?
本則:
僧、雲門に問う、「如何なるか是れ一代時教?」  雲門云く、「対一説」。

本則:
ある僧が雲門に聞いた、 「ブッダ一代の教説はどのようなものですか?」
雲門は言った、 「相手の機根に応じて一つずつ説いただけだ」。
  ?
注:
雲門:雲門文偃(864〜949)。雲門宗の祖。
法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→天皇道悟→ 龍潭崇信→徳山宣鑑 →雪峯義存→ 雲門文偃
一代時教:ブッダの一生涯における教説。

対一説 :1つずつ答える。目前の機に応じ、方便に徹して1つずつ答える。
0719去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/12(月) 17:14:57.75ID:jkhPzfch
>>718 
僧、雲門に問う、如何なるか、是れ一代時教、雲門云く、對一説」。
雲門禅師に弟子が、一代時教(釈迦の教え)とは何かと尋ねる。雲門禅師は「對一説(応えて言葉にせよ)」と答えた

『新版 禅学大辞典』には、「雲門が僧の『如何なるか是れ一代時ヘ』の問に答えた語。対一説は一に対して説く、一説に対す、対して一説すなどと解釈される。
このように雲門の意は言詮を超えて心性を直指したもの」とある。【對一説】

入矢義高監修/古賀英彦編著『禅語辞典』には、「まともな対応の言い方。相手の条件に応じての、時には方便を用いての応接のしかた」とある。【対一説】

『禅語字彙』には、「此句は、雲門が僧の『如何是一代時ヘ』と問ふに答へたる語なるが、古來その字句に就て種々に解釋せり。
即ち一に對して説く、一説に對す、對して一説す等に訓じて、種々學解の見を呈すれども、皆これ文句を弄するものにして、祖意に通ぜず。
是れ機語にして、強いて解釋を加ふべからず」とある。【對一説】
0720去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/12(月) 17:23:31.51ID:jkhPzfch

対一説 太(はなは)だ孤絶 
無孔の鉄鎚 重楔(けつ)を下す
えんぶ樹下 笑い呵々
昨夜りりょう角を拗ぢ折らる
別々

韶陽老人 一ケツを得たり



孤絶:孤危嶮峻で寄り付き難い。
無孔の鉄鎚 重楔(けつ)を下す:無孔の鉄鎚に柄を打ち込もうとする。
えんぶ樹下 笑い呵々:閻浮提の木陰でカラカラと大笑いする者がいる。
閻浮提(えんぶだい):古代インドの須弥山説において須弥山の南にあるとされた大陸。人間界。
(アビダルマ仏教の世界観と三千大千世界を参照)。
別々 :格別だ。
リリョウ:あごの下に珠玉を持つ黒い龍。ここではブッダを暗喩する。
韶陽老人:韶陽は広東省北部の地名。韶陽老人は雲門文偃を指す。
一ケツ:一本の棒切れ。リリョウの角。
ここではブッダの1代時教を指している。



雲門の「対一説」と言う返答は孤危嶮峻で寄り付き難い。
雲門は「対一説」と言う返答によって無孔の鉄鎚に柄を打ち込んだ。
雲門は「対一説」と言う無孔の鉄鎚によって 五千四十八巻と言われる一切経を粉砕してしまった。
そのため経典から解放され肩の重荷がすっかり無くなった。
そのことを喜んで、閻浮提の木陰でカラカラと大笑いする者がいる。
雲門の「対一説」と言う返答によってブッダ一代の教説に譬えられる 黒龍の角(リリョウの角)は拗ぢ折られてしまったとは大変なことだ。
雲門和尚(韶陽老人)は黒龍の角(リリョウの角)の一本拗ぢ折って自分のものにしてしまった。
しかし、リリョウの角一本は未だ1本残っている。
その角を拗ぢ折って自分のものにするのは一体誰だ(他ならぬあなただぞ!)
0721去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/12(月) 17:33:48.68ID:jkhPzfch
>>720
「雲門の三句」について 

雲門の三句は雲門の法嗣で雲門四哲の一人である徳山縁密(生没年不明)が 雲門の教化の手段を三句にまとめたもので、 「函蓋乾坤、截断衆流、随波逐浪」の三句を言う。

1.?函蓋乾坤(かんがいけんこん):
「函と蓋がぴったり合うように、弟子の機根にぴったり合った指導をおこなうこと」。
あるいは「主観と客観の分離がなくなって一体になる(心境一如になる)こと。

2.?随波遂浪(ずいはちくろう):
「修行者の個性に随って相手に調子を合わせながら闊達無礙な指導をすること。

3.?截断衆流(せつだんしゅる):
衆流とはいろんな迷いやとらわれのこと。
截断衆流とはいろんな迷いやとらわれをズバリズバリと切断してしまうこと。 
?
本則での僧の質問「ブッダ一代の教説はどのようなものですか?」 は雲門に対し何か深く詳しい解説や返答を期待して聞いたものと思われる。
しかし、雲門の返答「相手の機根に応じて一つずつ説いただけだ」 と簡単で僧の期待に反するものだった。

雲門の返答「対一説」 (相手の機根に応じて一つずつ説いただけだ)。
0722去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/12(月) 21:40:30.38ID:jkhPzfch
病識が無いイヌヤマ カワイソス (-∧-)合掌

>公案が進んで無くよくわからないのです、法相宗ですから唯識ですby無脳イヌヤマ

入退院の繰り返すってどうだぁイヌヤマが相手にされない時、犬嫁麦になるの原則(笑い
逝けば解かるさ、イヌと酢昆布を蹴る功徳がぁ
ガチのキチガイw だっぺよ仏教棄民のイヌ山 ぁ〜♪ってさぁ
クチャイキチャナイ安藤犬山色情魔栄進鬼和尚くちからでまかせを蹴り[age]

5ちゃんねるの会話の形式は、バトルです、馴れ合いを禁じています。
彼はお前はえらい、と認めてほしい、ほめて欲しいのです。
それは彼がリアル世界での無視されている現状があるのです。
一見、相手を罵倒しているように見える悪口雑言の数々は、彼の抱え込んでいるリアル社会での彼に対する社会の評価です。

糞邪鬼は月一第三金曜日夜7時茶菓代ワンコイン法相宗唯識の会に出ると偽証
講習会レジュメ収集に親子で家族で100回参加と虚飾。
もう40回も初関を透る俺様!と言い放つドマヌケ!40回も透ったら、初関を透る、じゃねーべ。
相手を罵倒する悪口雑言の数々は、糞邪鬼へのリアル社会の絶対評価です。
ググるシッタカ糞邪鬼は、褒めてクレヨの存在確認、承認欲求、の哀願奴隷でつ。

 || ○荒らし粘着糞イヌヤマは無視放置スルーが一番ツライ、耐えられない。
 ||  荒らしイヌヤマは常に誰かの反応レスを待ち焦がれる。
 || ○荒らし糞イヌヤマは、自己の内側、佛心が観えず。
 ||  荒らし糞イヌヤマは常にシカトされ自己存在の確認要求、承認欲求します。
 || ○荒らし糞イヌヤマは問いに問いで返す無答、脊髄反射のパープリンです。
 ||  荒らし糞イヌヤマは悟前(ごぜん)、金魚ドジョウと救い難い。
 || ○荒らし粘着糞イヌヤマの重複スレには誘導リンクを貼って放置プレイ透明アボーンが一番。
 ||  ウザイと思ったら専ブラのNG機能や あぼ〜んを活用。
 || ○放置された荒らし糞イヌヤマは煽りや自作自演でアナタのレスを誘います。
 ||  荒らし糞イヌヤマにノセられてレスしたらその時点でアナタも同類、負け、完敗です。
 || ○反撃は荒らし糞イヌヤマの滋養にして栄養であり最も悦ぶ事です。
 ||  荒らし糞イヌヤマにつけ入るエサを与えない
 || ○荒らし糞イヌヤマが枯死するまで孤独に暴れさせゴミが溜まったら削除です。
 ||  糞邪鬼は暴れさせておいてゴミが溜まれば透明あぼ〜ん,NGID登録が適切で決してレスしない事。
0723去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/13(火) 03:52:09.89ID:x7RtfNVP
ミックスリスト - ホテルで流れる   ロビーが出迎える優雅
https://www.youtube.com/watch?v=qcX5QttuV3c&;list=RDqcX5QttuV3c&start_radio=1&t=267

ANA LOUNGE ANAラウンジ BGM集 - 1.28.50
https://www.youtube.com/watch?v=TA3UjDxa9Yk

航空会社のボーディングミュージックを集めてみた前編 - 1.34.27
https://www.youtube.com/watch?v=6eFnPxQgPC8

ミックスリスト - 【高音質】JAL 搭乗音楽
https://www.youtube.com/watch?v=XWGTUkBXsXE&;list=RDXWGTUkBXsXE&start_radio=1&t=3
0724去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/14(水) 00:49:17.35ID:zwMp1FzW
碧巌録(へきがんろく) 第15則  雲門倒一説(うんもん とう いっせつ)

垂示
殺人刀活人剣は、乃(すなわ)ち上古の風規にして、是れ今時の枢要なり。
しばらくいえ、如今那箇(なこ)かこれ殺人刀活人剣。
試みに挙す、看よ。


殺人刀:否定、破壊の面。
活人剣:肯定、建設の面。
上古の風規:古くからの禅者の手法。

垂示の現代語訳

師家が修行者を指導する時の活殺自在の手さばきである否定と肯定の働きは、 古くからの禅者の手法であり、また現在の禅者にとっても大切な手段である。
それでは殺人刀と活人剣とは具体的にどのようなものだろうか?
試みに、次の公案を看て参究しなさい。

本則
修行僧、雲門に問う、「これ目前の機にあらず、また目前の事にあらざるとき如何(いかん)?」
雲門云く、「倒一説」。

本則
ある僧が雲門に聞いた、 「目前に説法する相手がいないし、説法する課題もない場合にはどうしますか?」
雲門は言った、「引っくり返して説きなさい」。


注:
雲門:雲門文偃(864〜949)。雲門宗の祖。 法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→天皇道悟→龍潭崇信→ 徳山宣鑑 →雪峯義存→ 雲門文偃

これ目前の機にあらず、また目前の事にあらざるとき如何?: 目前に説法の相手もおらず、また説法する課題もない時どうしますか?
倒一説:一つずつ反転する。一切の定言を価値転換する。 。
0725去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/14(水) 01:10:11.19ID:zwMp1FzW
>>724

倒一説  倒一説 
分一節  分一節 
同死同生君がために訣す
八万四千鳳毛にあらず
三十三人虎穴に入る
別々

擾々惣々(じょうじょうそうそう)水裏の月


分一節 :ひとくぎりのものを分けた。 無限定のものを限定して見せた。
同死同生君がために訣す: 雲門は君のため一心同体になって言い切ってくれた。
八万四千鳳毛にあらず:多くの修行者(八万四千)は俊敏ではなく、凡庸だ。
三十三人:摩訶迦葉から六祖慧能に至る33人の禅の祖師。
西天28祖と中国での6人の祖師を加えると34人になるが達磨は両方に入っているため、それを引くと33人になる。
別々 :格別だ。

擾々惣々水裏の月:「擾々惣々」とは揺れ動くさまを言う。水面が動くと水面に映る月影も一緒に動く。
我々の意識は水面が動くのと同じように常に揺れ動いている。 我々の意識はそのような浮動する。
しかし、そのような意識を離れてその外に不動の本心や不生の仏心があるのではない。

頌:
雲門は 「目前に説法する相手がいないし、また説法する課題もない場合にはどうしますか?」 と聞かれて、
「引っくり返して説きなさい」と無限定のものを限定して見せた。

雲門は君のため一心同体となって言い切ってくれたのだ。
多くの修行者(八万四千)は俊敏ではなく、凡庸だ。
摩訶迦葉から六祖慧能に至る三十三人の禅の祖師達は いずれも「虎穴」に入って虎児を得た人達だ。
水面が動くと水面に映る月影も一緒に動く。
我々の意識はそのように常に揺れ動いている。
しかし、そのような意識を離れて不動の本心や不生の仏心があるのではない。


?
問う、「説法の相手もいないし、テーマもない場合どうしますか?」

答える、「一説など蹴っ飛ばせ! 」
0726去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/14(水) 18:43:12.36ID:zwMp1FzW
碧巌録(へきがんろく) 第16則?鏡清(きょうせいおしょう)裏裏(そうり)の漢(かん)

垂示
道に横径なければ、立者孤危なり。
法は見聞にあらず、言思はるかに絶す。
もしよく荊棘林を透過し、仏祖の縛を解開して、箇の隠密の田地を得ば、諸天花を捧ぐるに路なく、外道ひそかに窺うに門なけん。
終日行じて未だかって行ぜず。
終日説いて未だかって説かず。すなわち以って自由自在にして、ソッ啄(そったく)の機を展(の)べ、殺活の剣を用うべし。
たとえ、いんもなるも、更に須らく建化門中、一手は拾(もた)げ、一手は搦(おさゆ)ることあるを知るも、なお些子(すこし)く較(たが)えり。
もしこれ本分事上ならば、さても没交渉(まとはずれ)。
そもさんかこれ本分事。試みに挙す、看よ。

垂示の現代語訳 ?
迷いこむような横路(岐路)のない一本道を行く者は修行者としてはかえって危うい。
仏法は見聞や言思をはるかに超えたものである。
もしイバラのような妄念妄想を透過し、悟り臭さや仏病、祖病の束縛から解放されれば、凡人か聖人か分からないような隠密の安心境に到達することができるだろう。
そのような人の境地は、諸天が花を捧げようとして来ても路はなく、外道が密かに窺おうとしても入口がない。
そのような人の境涯は淡々として、水や空気のように跡方もない。
一日中しゃべりまくっても、舌頭に骨がなく、一字不説、半句もしゃべった形跡がない。
修行者の悟りの機が熟して、孵化する時には 雛(修行者)が殻の内からつつき、親鶏(師)が外から突く。
そのように、ソッ啄の機が熟し、自由自在に殺活の手段を用いることができるだろう。
たとえそのような手腕があったとしても、方便による教化において、一手は相手を肯定し、一手は相手を否定して許さないような
変幻自在の手段を知っていても、未だ十分だとは言えない。
もしこれが自己本来の面目の事についてならば、的外れと言えるだろう。
それでは自己本来の事(本分事)とは何だろうか? 
試みに、次の公案を看て参究しなさい。
0727去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/14(水) 18:56:58.19ID:zwMp1FzW
>>726
本則
僧、鏡清に問う、「学人ソッす。請う師、啄せよ」。
清云く、 「還って活を得るや、也た無なや。」
 
僧云く、「もし活せずんば人に怪笑せられん」。
清云く、「也たこれ草裏の漢」。

本則
挙す、僧鏡清に問う、學人?(そつ)す、請(こ)う師啄(したく)せよ。清いわく、還って活を得るやまた無しや。
僧いわく、若し活せずんば、人に怪笑(けしょう)せられん。清いわく、また是れ草裏の漢。

本則
一人の僧が鏡清禅師の処にやって来て聞いた、「私は禅の修行を積んできたため、今や開悟の機が熟しています。老師、どうか1つ悟りを覆う殻をつつき破って悟りを開かせて下さい」。
鏡清は言った、「そうか、つついてやってもいいが、お前さんの命は大丈夫かな。」
 
僧は言った、「もし私が悟りを開くことができなければ、老師がかえって世間の笑いものになりますよ」。
鏡清は言った、「このたわけ者め!」。


鏡清:鏡清道フ(きょうしょうどうふ、868〜937)。雪峰義存の弟子で浙江省紹興府の鏡清寺に居住した。
法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→天皇道悟→龍潭崇信→徳山宣鑑 →雪峯義存→ 鏡清道フ
草裏の漢:妄想の草の中に埋まっているたわけ者。落ちこぼれ野郎。たわけ者

【解釈】
ある僧が、鏡清和尚に【學人?す、請う師啄せよ】と問うた。
この鏡清和尚は日ごろから『行脚(あんぎょ)の人は、須らく?啄同時の眼を具し、?啄同時の用ありてまさに衲僧(のうそう)と称すべし』と弟子に教えていた。
だからその僧は「私は、内部からツツイテいます、どうぞ外からツツイテ下さい」と言ったのである。
鏡清和尚いわく【還って活を得るやまた無しや】ところで、その雛は生きているのか、死んでいるのか?と聞いたのである。
そこで僧は、生きておりますとも、死んだ雛が殻の中からものを言ったとしたら人から怪しまれ、物笑いの種になりましょうぞと答えたのである。
そこで鏡清和尚は、真に生きているのなら何のために外からツツイテ下さいなどと云う必要があるか『生きていると言っても、どうやら草葉の陰で生きているらしいぞ』と冷やかしたのである。これが【草裏の漢】である。
0728去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/14(水) 23:41:33.68ID:zwMp1FzW
パソコンが重い! ! 根こそぎゴミを削除して快適なPCへ!Windows10 効果のあるTOP5+1 - 14.07
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【Windows10 高速化 重い 遅い 改善術】 動作・起動が遅い原因と対策 をマイクロソフト認定エンジニアが教えます! - 22.32
https://www.youtube.com/watch?v=TXX0V2uQWJ0
0729去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/15(木) 21:47:24.68ID:s5a/vITy
碧巌録(へきがんろく) 第17則  香林坐久成労(こうりん ざきゅう じょうろう)

垂示
釘を斬り鉄を截(き)って、始めて本分の宗師たるべし。
箭を避け刀に隈(かく)れば、なんぞよく通方の作者たらん。
針剳不入(しんさつふにゅう)の処は即ちしばらくおく、白浪滔天の時いかん。
試みに挙す、看よ。

垂示の現代語訳
?
釘を斬り鉄を截(き)るように、知解妄情を斬る働きをして 始めて禅の宗師と言えるだろう。
事に当たってたじろぎ退けば、どうして通達徹底したやり手といえるだろうか。
価値判断を撥無した絶対の処はさて置き、全力量を活撥撥地に発揮する時はどうだろうか。
試みに、次の公案を看て参究しなさい。


箭を避け刀に隈(かく)れば:事に当たってたじろぎ退けば、 針剳(しんさつ)不入の処:針をさしこむ余地も無いところ。
作者:やり手。
白浪滔天の時:大きな浪が天をうつ時。 驚天動地の働きの時。全力量を活撥撥地に発揮する時。
0730去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/15(木) 22:39:07.60ID:s5a/vITy
>>729
本則
擧。僧問香林。如何是祖師西來意。林云。坐久成勞。
挙こす、僧そう、香林きょうりんに問とう、「如何いかなるか是これ祖師そし西来せいらい意い・」。林りん云いわく、「坐久ざきゅう成労じょうろう」。

本則:
僧、香林(きょうりん)に問う、 「如何なるかこれ祖師西来意?」。 林云く、 「坐久成労」。

本則:
香林のところにある僧がやって来て聞いた、 「禅の究極の本質とはどのようなものでしょうか?」。 香林は言った、 「長く坐っていてくたびれたなー」。


香林(きょうりん):香林(きょうりん)澄遠(ちょうおん)禅師(908〜987)。 雲門文偃の法嗣。四川省成都の香林寺の住職。 雲門四哲の1人。常日頃雲門の言葉を記録していて、 それが後に「雲門録」になったと伝えられる。
法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→天皇道悟→ 龍潭崇信→徳山宣鑑 →雪峯義存→ 雲門文偃→香林澄遠
雲門四哲:雲門門下の四人の優れた法嗣。洞山守初(910〜990)、智門師寛(生没年不明)、
徳山縁密(生没年不明)、香林澄遠。

祖師西来意(そしせいらいい):元々は達磨大師が中国にやって来た意味だが 禅宗では禅の究極の所や本質をさす。
坐久成労:長く坐っていてくたびれたな。
0731去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/15(木) 22:48:43.46ID:s5a/vITy
>>730

1箇万箇千万箇
籠頭を脱却して角駄を卸す
左転右転 後えに随い来る
紫胡 劉鉄磨(りゅうてつま)を打たんことを要す


香林禅師は「坐久成労」の修行によって禅の本質が分かり 心身ともに束縛から解放されて楽になった。
1〜2人ではなく多くの人々が香林禅師のように 心身ともに束縛から解放されて楽になったのである。
昔、紫胡禅師は「左転右転 」と言う言葉に引っかかった劉鉄磨を打った。
もし、「坐久成労」と言う言葉に引っかかったり捉われたら 劉鉄磨のように打たれることになるだろう。
?

角駄を卸す:荷物を下ろす。
紫胡:紫胡利じゅう禅師(800〜880)。南泉普願の法嗣。
劉鉄磨(りゅうてつま):イ山霊祐と仰山慧寂に師事し、鉄臼のようなしたたかな風格を持っていたた尼僧。
0732去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/15(木) 22:59:26.99ID:s5a/vITy
>>731

「達磨大師がインドからもたらした禅の本質とは何か?」 という問いに対し香林は 「長いこと坐っていてくたびれたなー(坐久成労)」と答えた。
香林は八十歳で遷化するに当たって 「我四十年にして始めて打成一片(だじょういっぺん)なり」と言ったと伝えられる。
香林は「私は長い間坐禅修行に専心したが四十年経って 始めて正念相続する集中状態(打(だ)成(じょう)一片(いっぺん))を達成できるようになった。」 という感慨をこめた言葉である。
そのように長年坐禅修行に打ち込んだ香林禅師らしい言葉と言えるだろう。
彼の言葉は 「坐久成労するくらい坐禅修行しないとその質問には答えることができないよ」とも 「 坐久成労して始めて分かる。
未だ坐久成労していないお前さんにはその答えは言っても分からんだろう」とも響く。
不思議な答えである。
大森曹玄老師はこの公案の解説で、 坐久成労について「ああ、くたびれたわい!」と言っておられる。
香林は鈍根の人であったが非常に篤実な人で 雲門の下で18年間侍者をしていた大根器の人と伝えられる。
雲門は香林に会うたびに「遠侍者」と呼んだ。香林は「はい」と答えた。
雲門は「是れ什麼(なん)ぞ」と質問した。
「はい」と答える者は何者かという意味である。
このようにして18年を過ごして香林は始めて悟った。
この時雲門は「我今より後 更に汝を呼ばじ」と言ったと伝えられる。
坐禅修行には時間がかかる。
山岡鉄舟 は「禅には根気が重要だ」と言っている。
長時間坐禅に専念すると足は痛くなるし、くたびれる。
「長いこと坐っていてくたびれたなー(坐久成労)」 と答えた
0733去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/15(木) 23:44:46.17ID:s5a/vITy
>>732
→ テレビで、もう10年以上も前になると思うが、現代の中国南方での禅宗寺院で、僧侶たちが銘々の城跡でもあるのだろうか、築山の岩の上や、庭の隅っこにある風通しの良い大きな木の下で、ゆったり座っている姿を見たことがある。
    南方地域なので、手に棕櫚の葉で作った団扇を持っていて、あおいでいる。
    日本の禅僧の腰を固めて背筋を伸ばして、眼は半眼で、手は親指を軽く触れた姿ではなかった。
    むしろ暑いので静かに坐って休んでいる、と言える。
    頭がばちん、と音をたてた。
    と言うのも、わたしは股関節を傷めて以来の椅子禅である、からである。
   いすに坐って頭のてっぺんを引っ張り上げられる、という思いで坐る。
   また、これは、黄檗宗の僧侶の話しだが、和尚は足が悪く、檀家まわりの時は、正座が出来る補助具を携帯して使っていた。
   死んだとき、坐禅の姿勢が出来るよう足の骨を折って坐棺に収まった。
   生涯の念願だった、坐禅の姿だった。
   こうあるべき、
   ほとけのおすがた、
   内外の統一、
   そんな事だったのではないか。
   わたしの椅子禅も2年以上が過ぎた。
   それは、木陰で棕櫚の葉の団扇をゆったり使う中国南部の禅僧のように坐る。
   疲れは無い、長く坐っての疲れない。
   18年の侍者としての修行、同行二人(どうあんふたり)のもう一人の真人、を看たか!?
   香林(きょうりん)澄遠(ちょうおん)禅師
   師家は遠侍者、と、と呼び、はい!と18年間、答え続けた、と言う。
   そして、大悟した。
   真理(さとり)とは!?と尋ねられて、必ず、あなたもさとるよ、わたしがさとったのだから、と優しい。
0734去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/17(土) 02:27:20.98ID:MOX1BjYJ
碧巌録(へきがんろく)  第18則  忠国師無縫塔 (むほうとうみることかえってかたし)

本則
粛宗皇帝、忠国師に問う、「百年の後所須何ものぞ」。
国師云く、「老僧のために箇の無縫塔を作れ」。

帝云く、「請う師、塔様」。
国師良久して云く、「会すや」。

帝云く、「不会」。
国師云く、「吾れに付法の弟子耽源というものあり、却ってこの事を諳(そら)んず。請う詔して之れに問え」。
 
国師遷化の後、帝耽源を詔してこの意如何と問う。
源云く、「湘の南、潭の北」。
 
雪竇著語して云く、「独掌みだりに鳴らず。中に黄金あり一国に充つ」。
雪竇著語して云く、「山形(さんぎょう)のシュ杖子(しゅじょうす)。無影(むよう)樹下の合同船」。

雪竇著語して云く、 「海晏河清。瑠璃殿上に知識無し」。
雪竇著語して云く、 「拈了也」。

本則
粛宗皇帝が慧忠国師に聞いた、「国師の死後、こうして欲しいというものが何かありますか?」。
国師は言った、「そうじゃな、老僧のためにひとつ縫い目に無い塔を作って下さい」。
 
帝は言った、「国師よ、その塔は五輪の塔ですか、それとも卵塔でしょうか?」 具体的に塔の様子を図面などで示して下さい」。
国師はしばらく沈黙した後言った、 「分かりましたか?」。
 
帝は言った、 「いえ、分かりません」。
国師は言った、 「私の嗣法の弟子に耽源(たんげん)という者がおります。彼はこの事を良く分かっています」。 彼を詔して聞いて下さい」。
 
国師が遷化した後、帝は耽源を詔して、この事について聞いた。
耽源は言った、 「湘の南、潭の北」。
 
雪竇は著語して言った、「片手だけでは音も出ない。中に黄金があって一国に充ちている」。
雪竇は著語して言った、「山形(さんぎょう)のシュ杖子(しゅじょうす)。無影樹下の合同船」。
 
雪竇は著語して言った、「海は安らかで河は清らかである(天下泰平)」。 この極楽世界の瑠璃殿上(悟りの世界)にはあなたの知り合いは誰もいない」。
雪竇は著語して言った、 「話はこれでおしまい」。
0735去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/17(土) 02:40:21.71ID:MOX1BjYJ
>>734

粛宗皇帝:唐の第七代皇帝(711〜762)、在位(756〜779)。
代宗皇帝:粛宗の長子、唐の第八代皇帝(726〜779)、在位(762〜779)。

忠国師:南陽慧忠禅師(645〜775)。河南省の白(はく)崖山(がいさん)の党子谷(とうすこく)に 庵を構え40年間山を下りずに修行したと伝えられる。
粛宗・代宗二代の皇帝を指導した国師で、130歳の高齢で遷化したと伝えられる。 法系:六祖慧能→南陽慧忠(645〜775)
百年の後:死後。
所須:求めるところのもの。必要なもの。

無縫塔:真の自己。これを継ぎ目の無い塔(無縫塔)。
良久:しばらく沈黙していること。
耽源(たんげん):南陽慧忠禅師の法嗣、耽源応真禅師

山形のシュ杖子(しゅじょうす):山から切って来たばかりの生地の杖。本来の面目          
無影樹(むようじゅ):影のない樹木。継ぎ目の無い塔(無縫塔)は 影のない樹のようなものだと考えている。

無縫塔(真の自己、は生命の根本となる影のない生命の樹である。 真の自己や仏性には影のようなものはない
海晏河清:海は安らかで河は清らかである。天下泰平のこと。
瑠璃殿上に知識無し:この極楽世界の瑠璃殿上(悟りの世界) にはあなたの知り合いは誰もいない。
拈了也(拈じ了れり):話はこれでおしまい。
0736去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/17(土) 02:46:28.31ID:MOX1BjYJ
>>735

無縫塔 見ること還って難し
澄潭許さず蒼竜の蟠ることを
層落々影団々
千古万古 人に与えて看せしむ


無縫塔:真の自己、本来の面目を継ぎ目の無い塔に譬えている。
見ること還って難し:圜悟は無縫塔(脳)は眼で見えるものではないと詠っている。
澄潭(とうたん):澄み切った水をたたえた池。
蒼竜: 本来の面目(脳)の本体を竜に譬えている。
本来の面目(下層脳、脳幹+大脳辺縁系)の中心は爬虫類脳であるので 竜に譬えているのは絶妙と言える。
層落々影団々:影は光彩。
団々は光彩が丸くかがやくさまを言う。
月が丸くかがやくさまをイメージした表現。 

頌:
「無縫塔」は眼で見ることはできない
慧忠国師は良久することによって澄み切った池(澄潭)にも比すべき無縫塔を示した。
しかし、生きた竜ならばそんな澄潭には居ない。
活撥撥地に、縦横無尽に動いているからだ。
空間的にはどこにも無縫塔はひかり輝いており、 千年万年の大昔からその姿を現している。
人の上にその全姿を現わして活動してしているのだが俗眼には見えないだけである。
と皇帝に言っていることが分かる。
0737去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/17(土) 02:55:50.28ID:MOX1BjYJ
>>736

本則の前半は粛宗皇帝と遷化(死)が間近に迫った南陽慧忠禅師との対話になっている。
南陽慧忠禅師は 「私の死後、ひとつ縫い目に無い塔(無縫塔)を作って貰いましょうか」 と粛宗皇帝に言っている。
南陽慧忠禅師は皇帝に 「見性して、真の自己に目覚めて下さい」 とお願いしているのである。
しかし、皇帝は国師は「「無縫塔」というお墓を作って下さい」 と「無縫塔」というお墓のお願いだと誤解してしまう。
そこで帝は、「国師よ、その塔は五輪の塔ですか、それとも卵塔でしょうか? 具体的に塔の様子を図面などで示して下さい」 などと塔様を尋ねてしまう。
国師は私のいう無縫塔とはそんなものではないと、しばらく沈黙して無縫塔とはこういうものだと黙って自分の姿を示す。
その後帝に、「分かりましたか?」と聞く。
しかし、帝は国師の真意が分からない。 そこで 「いいえ、分かりません」 と答えるしかなかった。
国師は粛宗皇帝にお墓を作ってくれとは決して言っていない。
禅の中心命題である「本来の面目」についていっているのだが 皇帝は鈍感でそのことが分からない。
彼は国師について何度か参禅したと思われるが 禅の中心命題については何も分かっていなかったようだ。
慧忠禅師は粛宗(本当は代宗)に 「私の死後、縫い目の無い塔(無縫塔)のような真の自己に目覚めて下さい」 と坐禅修行を続けて見性するようにとお願いしているのである。
無縫塔とはお墓の事ではなく「真の自己」のことだと気づくのがこの公案の眼目である。
それは耽源が述べた偈頌によって明らかになる。
本則の後半部では慧忠国師の弟子耽源が「無縫塔」について偈頌(詩)を説き、雪竇が著語している。
帝に詔された耽源は「無縫塔」について 「湘の南、潭の北」 と説く。
「無縫塔」について耽源が言った 「湘の南、潭の北」 と言う説明はあまりにも漠然とし謎めいている。
「私の死後、坐禅修行を続けて、そのような縫い目の無い塔(無縫塔)に目覚めて下さい。」
0738去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/17(土) 03:07:26.14ID:MOX1BjYJ
>>737

独掌みだりに鳴らず 中に黄金あり一国に充つ 山形のシュ杖子 無影樹下の合同船 瑠璃殿上に知識無し

「無縫塔」について耽源が言った「湘の南、潭の北」とは何かを考えよう 「湘の南、潭の北」とは「湘州の南、潭州の北」という意味である。
「湘州や潭州とは湖南省長沙を中心とする水郷地帯(地理上では、はっきりしない)を言う。 、
「湘州や潭州とは湖南省長沙を中心とする水郷地帯(地理上でははっきりしない) だと考えれば「湘の南」とは長沙市の南のことだと考えられる。
また「潭の北」は 潭州(長沙市を中心とする水郷地帯)の北となるので 洞庭湖を含む長沙市の北方と考えることができる。
湘州や潭州が長沙を中心とする地理のはっきりしない水郷地帯を ばくぜんと意味しているのではっきりしないが、「湘の南、潭の北」とは洞庭湖を含む長沙の南北を表わし、「どこでも」という意味だと解釈できるだろう。
このことを考慮に入れると、雪竇と耽源の偈頌(詩)は次ぎのようになる。
「この世界のいたるところに(湘の南、潭の北 )黄金にも比べられる価値をもつものが充ちている」。
これに対する雪竇の著語「独掌みだりに鳴らず」が分かり難い。
「独掌みだりに鳴らず」とは「片手だけでは音も出ない」という意味である。
音を出すには両手を打って音を出そうという意思があって、両手を打って初めて音が出る。

山から切り出したばかりの純真無垢の杖 (山形のシュ杖子=真の自己であることを示している。 。
この「山形のシュ杖子」が「無縫塔の正体」であることが分かる。
「山形(さんぎょう)のシュ杖子(しゅじょうす)」 に譬えられる真の自己の働きは広くどこにでも広がり、黄金にも比べられる価値をもつものが充ちていると言っているのである。

またこの無縫塔(=真の自己)は生命の樹、仏性であり影などはない。
そのような影のない満天満地の乗合船には、仏も凡夫も猫も犬もあらゆる生命が乗り合わせている生命の船とでも言えるものである。
航海する海は安らかで河は清らかである(海晏河清)。
そこは知解、妄想を絶した清浄無垢の水晶宮のような「悟りの世界」である。
雪竇の著語「瑠璃殿上に知識無し」とは 「この極楽世界の瑠璃殿上(悟りの世界)に到達する者は殆どいないので、 あなたの知り合いは誰もいない」
0739去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/17(土) 16:26:40.76ID:MOX1BjYJ
碧巌録(へきがんろく)  第19則  倶胝(ぐてい)只(た)だ一指(いっし)を(た)堅つ  

垂示
一塵挙って大地収まり、一花開いて世界起こる。
只だ塵未だ挙らず花未だ開かざるときの如きんば、如何んか眼を着けん。
所以に道(い)う。 一綟絲(れいし)を斬るが如し。
一斬一切斬、一綟絲を染むるが如し。
一染一切染。只だ如今すなわち葛藤を将て截断して 自己の家珍を運出(うんすい)せば、高低あまねく応じ、前後たごうこと無く、各々現成せん。
もし或いは未だ然らずんば下文を看取せよ。

垂示の現代語訳
?
塵一つにも宇宙(一である本体)が反映され、
含まれているように万物は一である本体(理)に帰着する。
また一である本体(体、理)は一花が開くように、世界の万象として展開する。
そのような事は一塵があり、一花が開くから分かるが、もし、「塵未だ挙らず花未だ開かず」と言った 父母未生以前の根源状態にある時には、どのように考えたら良いのだろうか。
このような状態では、一たばの糸を斬るようなもので何も一本一本斬らなくても良い。
束ねた1ヶ所をきれば、全部がズバリと斬れる。
また糸を染める場合、一本一本染めずに、一たばの糸を染料甕にずぶりと漬ければ、いっぺんに全部染めることができる。
この只今現在、このように煩悩妄想を一度に掃蕩してしまって 自己の根源たる「本来の面目」に参ずることができれば、どこでも過不足なく本来の面目の機能を発揮できるだろう。 
もし未だそうでなければ次の文を読んで看取しなさい。

注:
一塵挙って大地収まり、一花開いて世界起こる: 小さな一塵・一花の中に、無限の大地、世界が含まれ起こる。
脳内の小さな神経回路の中に無限の大地、世界が含まれ起こる(認識過程の文学的表現)。
一塵・一花を体と考え、無限の大地、世界を用と考えれば 体用思想で説明することもできる。
馬祖禅は体用思想と関係深いのでこの説明の方が良いかも知れない。
伝統的には華厳思想によって解釈・説明しているようである。
一綟絲(れいし):一よりの生糸。
自己の家珍:自己本来の面目。
自己の家珍を運出(うんすい)せば:自己本来の面目を発揮すれば。
0740去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/17(土) 16:33:46.55ID:MOX1BjYJ
>>739

本則
倶胝和尚、凡(およ)そ所問あれば、只だ一指を堅つ。


倶胝和尚:馬祖下の大梅法常(752〜839)の法嗣 天竜禅師(生没年不明)の法を嗣いだ人。馬祖の孫弟子に当たる。
はじめ浙江省の金華山にいたが後に福建省の倶胝寺に移ったと伝えられる。
いつも「七倶胝仏母所説准提陀羅尼経」を誦したので倶胝和尚と呼ばれた。
法系:六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道→大梅法常→天龍→倶抵

本則

倶胝和尚はいつも何を尋ねられても、一本の指をさっと立てて答えた。


対揚ふかく愛す老倶胝
宇宙空じ来る更に誰かある
曽て滄溟に向って浮木を下す
夜濤相共に盲亀を接す


対揚:応対。
滄溟 :海。
夜濤:夜の海の大波(濤)


私は倶胝老和尚の応対を深く愛している。
彼以外に宇宙を指一本で空じた者は誰かいるだろうか。
かって生死の海に漂っていたところを天竜和尚が投げてくれた浮木にとりすがって倶胝は悟ることができた。
今は天竜和尚と共に夜の海に「一指頭の禅」という浮木を投げ入れて夜の波濤に漂う迷える衆生を教え導いている。
0741去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/17(土) 19:37:03.41ID:MOX1BjYJ
>>740

倶胝和尚は臨終を迎えた時、門下の修行僧達を集めて「わしは天竜和尚の処で「一指頭の禅」を得たが、一生かかってもそれを使い切ることができなかった」 と言ってすぐに息を引き取ったと伝えられる。
この公案の主題は倶胝和尚が天竜和尚の処で得た 「一指頭の禅」とは何かということである。
倶胝和尚の「一指頭の禅」 はなかなか理解されなかったようであるが「心境一如」の状態をさすと考えれば良い。
禅者は真の自己を「仏性」、「如来蔵」、漆桶(しっつう)(5則)、 眉毛(8則)「無縫塔」(18則)、「シュ杖子(しゅじょうす)」(18則)、 「蓮花」(21則)、 「説似一物即不中(せつじいちもつそくふちゅう)
(説似すれども一物として中(あた)らず、何かと言えばもう的を外れているという意味)」(南嶽懐譲)、 「無一物」(六祖慧能)、無字(無門慧開、「無門関」第一則)、 「般若の体」(90則 )など種々に表現する。

→ この公案は、庭前柏樹子(ていぜんのはくじゅし)、と言う公案の後に続いて透った。
  もちろん言うまでもないが、わたしは師独悟(むしどくご) 独覚(どっかく)である。
  問う、如何なるか是れ祖師西来意!? 答える、庭前柏樹子(ていぜんのはくじゅし)
0742去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/19(月) 16:03:32.16ID:CyADJVqz
碧巌録(へきがんろく) 第20則?   龍牙西来意(りゅうげ せいらいい)

垂示
堆山積嶽(たいざんせきがく)、撞墻コウ壁(とうしょうこうへき)、佇思停機するは、一場の苦屈なり。
あるいは箇の漢あって出て来って大海をひるがえし、須弥を蹴倒し、白雲を喝散し、虚空を打破して直下に一機一境に向って、天下人の舌頭を坐断せば汝が近寄る処無からん。
しばらくいえ、これまで何人(なんびと)かかっていんもなる。
試みに挙す、看よ。


堆山積嶽(たいざんせきがく):山のような難問を抱え込む。
撞墻コウ壁(とうしょうこうへき):やみくもに問題にぶち当たる。
佇思停機(ちょしていき)する:心の働きが止まる。
一場の苦屈なり:なんともやりきれない。修行者として恥さらしである。

垂示の現代語訳

山のような難問を抱え込み、やみくもに問題にぶち当たって、どうすることもできずに心の働きが止まりぐずぐずしているのは、修行者として恥さらしである。
これと違って、もし大海をひッくり返し、須弥山を蹴倒し、大空に漂う白雲を一喝して吹き飛ばすような力量ある禅修行者が出て来た場合には、虚空を打ち破るように、後生大事に抱えている「悟り」さえも奪い去るだろう。
そのような人はどんな環境にあっても、その場その場で適切に対処して世界中の人をウンともスンとも言わせない。
そんな人には誰も近寄れないだろう。
それではどんな人がそのように素晴らしい大力量の禅者だっただろうか?
試みに、次の公案を看て参究しなさい。
0743神も仏も名無しさん
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2020/10/19(月) 16:08:23.51ID:BdiSoqHX
今日もシコシコスター健在だねえ笑。
0744去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/19(月) 16:39:23.54ID:CyADJVqz
本則

擧す、龍牙(りゅうげ)、翠微(すいび)に問う。如何なるか是れ祖師西来意。微いわく、我が為に禅板(ぜんばん)を過ごし来たれ。
牙(げ)、禅板を過して翠微に與(あた)う。微(び)、説得して)便(すなわ)ち打つ。牙いわく、打つことは即ち打つに任す。要は且(か)つ祖師西来意無し。

牙又臨済に問う。如何なるか是れ祖師西来意。済(ざい)いわく、我がために蒲団を過ごし来たれ。
牙蒲団を取って、臨済に過與(かよ)す。済説得して便ち打つ。牙いわく、打つことは即ち打つに任す。要は且つ祖師西来意無し。

龍牙、翠微に問う、「如何なるかこれ祖師西来意?」。 微云く、「我がために禅版を過(も)ち来たれ」。
牙、禅版を過(わた)して翠微に与う。微、接得してすなわち打つ。 牙云く「打つことは即ち打つに任す、要且つ祖師西来意なし」

牙また臨済に問う、「如何なるかこれ祖師西来意?」。済云く、 「我がために蒲団を過(も)ち来たれ」。
牙、蒲団を取って臨済に過(わた)与す。済、接得してすなわち打つ。 牙云く「打つことは即ち打つに任す、要且つ祖師西来意なし」。

龍牙が翠微に聞いた、 「禅の本質とはどのようなものでしょうか?」。 翠微は言った、「私にそこの禅版取ってくれんか」。
龍牙は禅版を取って渡した。 翠微は、禅版を受け取ったとたんに龍牙の横っつらをぶんなぐった。 龍牙は言った、「なぐるのはあなたの勝手です。しかし、そこには禅の本質はありませんね」。

その後龍牙は河北の臨済を訪ね臨済に同じことを聞いた、「禅の本質とはどのようなものでしょうか?」。 臨済は言った、「私にそこの坐蒲(蒲団)を取ってくれんか」。
龍牙は坐蒲を取って臨済に渡した。 臨済は坐蒲を受け取ったとたんに龍牙の横っつらをぶんなぐった。 龍牙は言った、「なぐるのはあなたの勝手です。 しかし、そこには禅の本質はありませんね」。

注 龍牙:龍牙居遁禅師(835〜923)。 曹洞宗の開祖である洞山良价の法嗣で龍牙山妙済寺に住した。
翠微:翠微無学禅師。丹霞天然(739〜824)の法嗣。

禅版:木板の一端があごを乗せて休むように丸くくりぬいてある。 長時間の坐禅で疲れて来た時坐睡するため使う木板。
蒲団:坐禅の時に尻に敷く坐蒲。 要且つ:結局。
0745去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/19(月) 17:07:37.70ID:CyADJVqz
頌(1)
龍牙山裏 龍に眼なし
死水なんぞ曽って古風を振わん
禅版蒲団 用いること能わず
只だまさに分与して廬公に与うべし
這の老漢をまた未だ勦絶(そうぜつ)し得ず、また一頌を成す

龍牙という立派な名だから、さぞかし龍のようなすざましい活作略があると 思っていたがこの龍君には眼はないわい。
「そこの禅版取ってくれんか」。 「ハイ」、「そこの坐蒲(蒲団)を取ってくれんか」。 「ハイ」と返事をするだけで禅僧らしい活き活きした応答は何も無い。
龍牙の悟りの境地は死水のように淀んでいて、そには龍が活躍するような祖師伝来の禅の活風が湧き起こるはずはない。
翠微に「禅版取ってくれんか」と言われたら、「ハイ、私も行脚して疲れましたので、チョット坐睡でもさせて頂きましょう」 となぜ言わんのだ。
臨済に「坐蒲(蒲団)を取ってくれんか」と言われたら、「ハイ、私も少し坐禅しましょう」となぜ言わんのだ。
翠微と臨済は 禅版蒲団を用いて活きた禅を示そうとしているのに「ハイ」、「ハイ」と 返事をするだけで禅僧らしい応答は何も無いではないか。
そんなことなら六祖慧能禅師にでも禅版蒲団を持って行って どうすれば良いか教えて貰ったらどうだ。
こんな偈頌ではまだ生ぬるい。
龍牙の死禅を否定し、まだ文句を言い足りないので以下の偈頌を付け加える

頌(2)
廬公に付し了(おわ)るもまた何ぞ憑(よ)らん
坐椅(ざい)してもって祖燈を継ぐことを休めよ
対するに堪(あたい)す暮雲の帰って未だ合せざるに遠山限り無き碧層々たり

廬公に禅版蒲団を渡しても「祖師西来意」がなんとかなるものでもあるまい。
龍牙のように、蒲団に坐り禅版に寄りかかって 祖師から伝燈の禅の印可を得ようなどとは思ってはならない。
達磨のまねをして面壁9年坐禅しても祖師禅の生きた悟りは伝わらないのだ。
坐禅も坐睡も止めて、まあ外に出て見なさい。
特に見事なのは、夕暮雲が西の山に戻って、まだ一かたまりになって完全に山を包み隠してしまわない時だ。
夕焼け雲の下に山また山が碧碧(あおあお)と果てしなく遠くまで連なっているように見える。
この景色が「祖師西来意」とでも言うものだろうか。
0746去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/19(月) 17:08:35.77ID:CyADJVqz
>>745


廬公:雪竇自身とも六祖慧能とも言われ定説はない。
死水なんぞ曽って古風を振わん:淀んだ水(龍牙の悟りの境地)には 龍が活躍するような祖師伝来の活風が湧き起こるはずはない。
勦絶(そうぜつ):滅ぼす。
廬公に付し了(おわ)るもまた何ぞ憑(よ)らん:廬公に禅版蒲団を渡しても「祖師西来意」がなんとかなるものでもあるまい。
坐椅(ざい)してもって祖燈を継ぐことを休めよ:蒲団に坐り禅版に寄りかかって祖師伝燈の禅の印可を得ようなどとは思ってはならない。
対するに堪(あたい)す、暮雲の帰って未だ合せざるに:見事なのは、夕べの雲が西の山に戻って、まだ一かたまりにならぬ時だ。
0747去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/19(月) 17:20:57.28ID:CyADJVqz
>>745

「碧巌録」では翠微や臨済は龍牙を打つことで禅の本質(祖師西来意)を示したが 龍牙はそれが分からなかったと解釈している。
頌(1)において雪竇は「龍牙の悟りの境地は死水のように淀んでいて、そには龍が活躍するような祖師伝来の禅の活風が湧き起こるはずはない(死水なんぞ曽って古風を振わん)」と言っていることから分かる。
これに対し、曹洞宗で重要視する「従容録」では翠微や臨済は龍牙を打つことには禅の本質(祖師西来意)はない。
龍牙が「そこには禅の本質(祖師西来意)はない」と言ったのは当然のことで、龍牙の方が翠微や臨済の悟りの境地より高いのだと解釈している。
次の図に20則に登場する3人の禅師(龍牙、翠微、臨済、)の法系図を示す。

曹洞系の禅を嗣ぐ龍牙と臨済、翠微とは“禅の本質(祖師西来意)”に対する解釈が違うことが分かる。
この“禅の本質(祖師西来意)”に対する解釈の違いは黙照禅(曹洞系の禅)と看話禅(臨済系の禅)の違いから来ていると考えられる。
看話禅(臨済系の禅)では、翠微や臨済は龍牙を打つことで禅の本質(祖師西来意)を示したとする。
これは馬祖道一の洪州宗の「言語動用」は 本来の面目(脳)の生きた働きだとする<作用即性>の考えに由来する。
それに対し、黙照禅(曹洞系の禅)では そのような荒々しい働き(棒や喝)は禅の本質(祖師西来意)ではないと考える。
黙照禅(曹洞系の禅)ではそのような荒々しい働き(棒や喝)は 禅の本質(祖師西来意)ではなく単なる暴力だと考えるのだろうか。
図4に看話禅(臨済系の禅)と黙照禅(曹洞系の禅)の特徴を示す。 黙照禅(曹洞系の禅)は静的な“寂智”(荷沢神会系の禅)を重視する これに対し、看話禅(臨済系の禅)では 洪州宗(馬祖禅)以来、「本来の自己(脳)」の「動用」(棒や喝)を重視する
この二つの違いから来ると考えれば分かり易いかも知れない。
中国伝統の儒教では静的な“智慧”を重視するので 黙照禅(曹洞系の禅)はその影響を受けているとも言えるだろう。
第20則には「頌」が二つ付いているのが注目される。
それだけ複雑な公案なのだろうか。
0748去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/21(水) 00:21:20.56ID:sCzD5iY5
碧巌録(へきがんろく)  第21則?  智門蓮花荷葉(ちもん れんげ かよう)

垂示
法幢(ほうどう)を建て宗旨を立つるは錦上に花を舗(し)く。
籠頭(おもがい)を脱し角駄(にもつ)を卸(おろ)す。
大平の時節、或いは若し格外の句を弁得せば、挙一明三。
それ或いは未だ然らずんば、旧に依って伏して処分を聴け。
試みに挙す、看よ。

注:
法幢(ほうどう)を建て宗旨を立てる:旗幟を鮮明にし、仏法を宣布する。
角駄を卸す:荷物を下ろす。

垂示の現代語訳

旗幟を鮮明にし、仏法を宣揚するのは
錦の上に花を敷くように禅をいよいよ美しく盛大に発展させるものである。
心の自由を束縛し、 負担になるものを下し自由になれば心は安らぎの境地に安住できるだろう。
けれども、それだけでは未だ格内のものであり、常識を超えた格外の句を会得したとは言えない。
もし、非凡な格外の句を会得したなら、一を聞いて三を知るなど何でもないことだろう。
禅を修行したと言うなら誰でもそうありたい ものだがなかなかそのような境地に至るのは大変だ。ではどうしたら良いだろうか?
古人の体験したことを以下に挙げるから良く見て学ぶが良い。
0749去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/21(水) 00:31:28.95ID:sCzD5iY5
>>748
本則

僧、智門に問う、「蓮華、未だ水を出でざる時如何ん?」。
智門云く、「蓮華」。

僧云く、「水を出でて後如何ん」。
門云く、「荷葉(かよう)」。


智門:智門光祚。雪竇重顕(980〜1052)の師。法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→天皇道悟→・・・雪峰義存→雲門文偃→香林澄遠→智門光祚→雪竇重顕

水を出でざる時:成仏前の俗人の時。
蓮華:仏の比喩表現。
荷葉(かよう):成仏前の俗人の比喩表現。
水を出でて後:見性成仏した後。

本則

智門光祚禅師に僧が聞いた、「蓮華が未だ水の上に出て咲いていない時は一体何と呼んだら良いのでしょうか?」。
智門は言った、「蓮の華だ」。

僧は聞いた、「では、水の上に出た後は一体何と呼んだら良いのでしょうか?」。
智門は言った、「蓮の葉だよ」。
?

蓮華、荷葉(かよう)と、君に報じて知らしむ
水を出ずるは未だ出でざる時に何如(いかん)
江北江南王老に問え
一狐疑い了って一狐疑う


水を出ずるは未だ出でざる時といずれぞ:水を出た時と未だ出ていない時と比べるとどうか(後の方が優れているという含意を帯びる)。
王老:広く師家を指す。南泉普願の元の俗姓(王氏)に始まる。
一狐疑う:狐は疑い深いとされる。疑い続け師に問う者が絶えない。


智門禅師は「「蓮華」か「荷葉」か(仏(蓮華)か凡夫(荷葉)か)」その辺の道理を我々にはっきりと示しているではないか。
「蓮華」が水を出て後「荷葉(かよう)」になるのでもなければ 凡夫(「荷葉(かよう)」)が悟って仏(「蓮華」)になるのでもない。
もともと「衆生本来仏なり」である。
悟ったからといって急に仏(「蓮華」)という別存在に変化するのではないのだ。
自ら信じることのできない「信不及」の徒は全国どこにでもかけずり回って師家に問うしかない。
狐のように疑い続け師家に問うても、自分自身で決着しない限り疑いには限りがないだろう。
0750去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/21(水) 00:56:40.85ID:sCzD5iY5
>>749
この禅問答において「蓮華」とは本来仏としての仏性や仏の状態を表わしている。
また「荷葉」とは本来仏としての仏性を自覚する以前の凡夫の状態を指している。
この禅問答は「蓮華」は仏性や仏の状態、「荷葉」は仏性を自覚する以前の凡夫の状態を意味する借事問であることを理解することが重要である。
そのように考えれば、「智門蓮花荷葉」の問答は次ぎのように分かり易くなる。
僧が智門に質問した、 「衆生が本来仏の自覚を得ない時(仏の悟りを得る以前)は何と呼べば良いのですか?」
智門は答えた、「蓮華(=仏)だ」。
僧は言った、「水を出て後は何になるのですか?」
智門は答えた、「凡夫(荷葉)だよ」。

この問答で智門は禅の悟りと仏の関係について述べている。
僧の第一の質問 「衆生が本来仏の自覚を得ない時(仏の悟りを得る以前)は何と呼ぶのか?」 に対し智門は「蓮華(仏)だ」答えている。
これは本来仏の自覚を得ない時(仏の悟りを得る以前)でも仏であると言っている。
悟ると悟らないとに関係なく「衆生本来仏なり」 という禅の基本主張を述べているのである。
悟ったからといって急に仏に変化するのではなく「衆生本来仏なり」という真実に気付くだけである。
僧の次の質問「水を出て後は何になるのですか?」 に対し智門は「凡夫(荷葉)だ」と答えている。
これは「悟ったからといって後は仏という特別の存在になるのでなく、悟った後も以前の凡夫(荷葉)と変わらない。」 と言っているのである。
これは悟りとは「衆生本来仏なり」という真実に気付くだけで、それによって以前の凡夫(荷葉)から急に特別な存在に変わることはないとを言っている。
自己を取り巻く世界も自己も悟ったからといって、急に変わることはないと言っている。
そのように考えればこの禅問答は分かり易い。
悟りとは「衆生本来仏なり」という真実に気付くだけである
悟ることによって、凡夫(荷葉)から急に特別な存在(仏)に変わることはない。
自己の本質が「蓮華(仏)だ」と気づいた後(見性後)の修行が大事だ と示唆していると考えることができる。
このように、この21則は蓮華や荷葉という言葉によって仏性や凡夫を表す借事問になっている。
0751去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/21(水) 16:27:51.93ID:sCzD5iY5
碧巌録(へきがんろく)  第22則  雪峰鼈鼻蛇(せっぽう べつびじゃ)

垂示
大方外なく、細かなること隣虚(りんこ)の若(ごと)し。
擒縦他にあらず、卷舒我れにあり。
必ず粘(ねん)を解き縛を去らんと欲せば、直に須らく迹(あと)を削り声を呑むべし。
人人要津を坐断し箇箇壁立千仞ならん。
しばらく道(い)え、これなん人の境界ぞ。
試みに挙す、看よ。
?
注:
大方外なく、細かなること隣虚(りんこ)の若(ごと)し:仏法は広大無辺であるとともに、微細でもある。
隣虚(りんこ):虚に隣りあうくらい小さい極微のもの。原子レベルの極微のもの(数Å)。
擒縦:捉えることと放つこと。
卷舒:巻いたり伸ばしたり(否定と肯定)
粘(ねん)を解き縛を去る:執着や束縛を離れる。
要津:要衝の渡し場。参禅学道の要訣。
迹(あと)を削り声を呑む:文字や言葉の痕跡を無くす。

垂示の現代語訳

真の自己は広大無辺で何ものをも包み込んでしまうと同時に、限りなく微細でもある。
そのような真の自己をハッキリと自覚し、手に入れた者は宇宙の主人公となって捉えたり放したり、否定したり肯定したりすることが思うままにできる。
そのような天地の主人公としての自覚が持てない者は あっちに引っ付き、こっちにくっ付き、見る物聞く物に捉われ自由が利かなくなる。
そのような執着や束縛を取り去って自由な解脱の境地を得たければ、直ちに分別意識や妄念の残り粕を削り落とさなければならない。
そうすれば肝心かなめの渡し場を占拠して壁立千仞の境地に到るだろう。
さて、それでは一体誰がそのような境涯を手に入れただろうか?
試みに、次の公案を看て参究しなさい。
0752去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/21(水) 16:42:43.77ID:sCzD5iY5
>>751

本則
雪峰、衆に示して云く、「南山に一条の鼈鼻蛇(べつびだ)あり。汝等諸人、切に須らくよく看るべし。」
長慶云く、「今日堂中、大(たしか)に人の喪身失命するあり」。
僧、玄沙に挙似す。
玄沙云く、「須らくこれ稜兄にして始めて得べし。然もかくの如くなりと雖も、我は即ち不恁麼」。
僧云く、「和尚そもさん」。
玄沙云く、「南山を用いて何かせん」。
雲門柱杖をもって雪峰の面前に付き付けて怕(おそ)るる勢いをなす。


雪峰:雪峰義存(822〜908)
法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→天皇道悟→龍潭崇信→徳山宣鑑→雪峰義存

南山:雪峰山
鼈鼻蛇(べつびだ):鼻のひしゃげた毒蛇(コブラか?)。
でここでは「真の自己」を毒蛇に譬えている。
長慶:長慶慧稜(854〜932)。
玄沙:玄沙師備(835〜908)。出家前は釣りを好んだことで知られる。
雲門:雲門文偃(864〜949)。
長慶慧稜、玄沙師備、雲門文偃は雪峰義存の法嗣である。
本則は雪峰義存と3名の弟子の問答になっている。

本則
雪峰義存禅師がある時、大衆に示して言った、「この雪峰山には一匹の毒蛇がおるぞ。お前さん達、その毒蛇に呑み込まれないよう気を付けるが良い。」
すると長慶が進み出て言った、「いや、たしかに堂中の雲水達はその毒に当てられて一人も生きていませんよ」。
ところがその時側にいた僧にはこの問答の意味が分からなかったらしく、玄沙師備禅師にその話をした。
玄沙はそれを聞くと言った、「なるほど、さすがに慧稜兄だ。彼だからそういう答えができた。しかし、わしだったらそうは言わんな」。
僧は言った、「和尚だったらどう言われるのですか?」。
玄沙は言った、「その蛇は何も南山(雪峰山)だけにいるわけじゃない」。
雪峰と長慶が交わしていた問答を聞いていた雲門はいきなり柱杖を雪峰の面前に投げ出し、「そりゃ、出たぞ!」 とぶるぶる震えていかにも恐ろしいといった様子をして見せた。
0753去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/21(水) 16:49:51.32ID:sCzD5iY5
>>752

象骨は巌高くして、人到らず
到る者は須らく弄(へび)蛇手(つかい)なるべし
稜師備師いかんともせず
喪身失命 多少かある
韶陽知って
重ねて草をはらう
南北東西 たずぬるに処なし
忽然として突出すシュ杖頭
雪峰に抛対(ほおりなげ)て大いに口をはる
大いに口をはる 閃電に同じ
眉毛を剔(てっ)起(き)すれもまた見えず
如今蔵(かく)れて乳峰の前にあり
来者 一一方便をみよ
師 高声(こわだか)に喝して云く、「脚下を看よ」


象骨:象骨山、雪峰山には象骨巌という象の頭の形をした岩山があったと言われる。
稜師備師:長慶慧稜禅師と玄沙師備禅師
喪身失命 多少かある:大勢の者が毒に当てられて死んだ(喪身失命)
韶陽:雲門文偃のこと。
眉毛を剔起(てっき)す:眼をカッと開く。


雪峰山の象骨巌は険しく高く聳えたち、登り難い。
そこに登ることができる者は蛇使いの名人だけである。
長慶慧稜禅師や玄沙師備禅師ほどの剛の者でもこの蛇には手を焼いた。
いわんやこの蛇に飲み込まれて大死一番、真の自己を見た者は数少ない。
雲門禅師(韶陽)は分別妄想の生い茂る草を掻き分けて この蛇を捕まえようと南北東西探したがなかなか見つからなかった。
この蛇は到る処にいるため外をうろつき探し回ってなかなか見つからない。
脚跟下にいることを知った雲門は、手にした杖を放り投げて 「そりゃ、出たぞ!」とぶるぶる震えて真の自己である蛇を出して見せた。
雲門の蛇は大きな口を開いて雪峰のみか宇宙を一呑みするような勢いを示した。
その働きは実に見事で電光石火の早さだ。
この蛇は何処にいるかと眼をカッと開いて外を見回したとしても見つかるものではない。
「その蛇はわし(雪竇)のいる乳峰山に今現在も蔵(かく)れているぞ。
何なに、その乳峰山に今蔵(かく)れている蛇を見たいと言うのか。
よし、それなら見に来い。
見に来る者はとくとわしの手段を見よ」。
雪竇はこう言って、大喝して言った、「キョロキョロしないで自分の足下を見よ(脚下を看よ)」。
0754去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/21(水) 16:52:52.13ID:sCzD5iY5
この公案には雪峰義存とその門下生である長慶慧稜、雲門文偃、玄沙師備という4人の有名な禅師が登場する。
彼等は全て雲門宗に深く関係している。
雲門宗中興の祖である雪竇重顕(碧巌録の著者)だから選んだ公案だと思われる。
この公案のテーマは鼈鼻蛇(べつびだ)である。
鼈鼻蛇とはコブラのような毒蛇であり真の自己を譬えている。
毒蛇に譬えたのは参禅修行者は真の自己を究明するため刻苦修行するが見性成仏する者は少ない。
修行の途中で精神的苦労(多くはストレス)、肉体的病に倒れる禅修行者も多かったからではないだろうか。
それを毒蛇に咬まれるに譬えたのかも知れない。
真の自己の中心である下層脳は蛇と同じ「爬虫類脳」である。
この観点に立つと、本来の自己(=真の自己)を蛇に喩えたのは絶妙な比喩である。
真の自己は分かれば自分の主人公である脳であるので、毒蛇でも何でもない。
真の自己は日頃から常になれ親しんでいるものである。
しかし、参禅修行において真の自己を求めて迷う人にとっては病気の原因となるストレスともなる。
そのように考えれば毒を持つやっかいな存在にも言える。
最後に、雪峰と長慶が交わしていた問答を聞いていた雲門がいきなり柱杖を雪峰の面前に投げ出し、「そりゃ、出たぞ!」といかにも恐ろしいといった様子をして見せたのは雲門なりの鼈鼻蛇(真の自己)を示したと言える。
この公案は禅の中心課題は「真の自己を明らかにすること(己事究明)」にあると言っている。
0755去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/22(木) 19:10:02.01ID:lUXx1oYM
?碧巌録(へきがんろく)  第23則  保福長慶遊山(ほふくちょうけい ゆさん)

垂示
玉は火を将(も)って試み、金は石を将って試み、剣は毛を将って試み、水は杖を将って試む。
衲僧(のっそう)門下に至っては、一言一句、一機一境、一出一入、一挨一拶、深浅を見んことを要し、向背(こうはい)を見んことを要す。
しばらく言え、なにを以ってか試みん。
請(こ)う挙(こ)す看(み)よ。


一言一句:ちょっとした話や言葉。
一機一境:一機とは心の働きが動作に現れたもの。一境とは心の働きを外境によって示すこと。
一出一入:一つの自由と否定のこと。
一挨一拶:軽く触れたり(一挨)、強く触れたりする(一拶)こと。
向背:悟っているか迷っているか

垂示の現代語訳

宝石の真偽は火の中に入れて試験し、色が変わらないのが本物である。
金は試金石で擦って真偽を見分ける。
刀の場合、吹毛剣と言われるように髪の毛を吹き付けて、切れるかどうかで見分ける。
川の深浅は杖を立てて測る。
そのように、物の真偽を判別する方法は物によって違う。
それでは禅僧の場合、彼が本物か偽者かはどうしたら判別できるだろうか?
禅僧の場合には、彼の発する「一言一句」、ちょっとした内心の働きと、その外境への現われ、肯定否定の表現、軽くや強く触れたりすることなどの言語動作に内心の動きが現れ出る。
それを見聞き判断することで、その僧の悟境や力量の「深浅」が分かる。
人物の「深浅」や彼が悟っているか迷っているかの「向背」もそのようにして一目瞭然と判別できるのである。
それでは、ここに一つの公案を示すので、それを看て登場人物の悟境や力量の深浅を判別して見なさい。
0756神も仏も名無しさん
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2020/10/22(木) 19:42:23.81ID:nO6YFp/R
シコシコサル外道げんきだな🙈
0757去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/22(木) 21:16:59.40ID:lUXx1oYM
>>755
本則

保福従展、長慶慧稜、遊山する次(つい)で、福、手をもって指して云く、「只這裏 すなわちこれ妙峰頂」。
慶云く、「是なることは即ち是なるも、可惜許」。

雪竇著語して云く、「今日この漢とともに遊山して、箇のなにをか図る」。
また云く、「百千年後無しとはいわず、ただこれ少なし」。後 鏡清道フに挙示(こじ)す。

清云く、「もしこれ孫公(長慶慧稜の俗姓)にあらずんば、すなわち髑髏、野にあまねきことを見ん」。


保福:保福従展(?〜928)。雪峰義存の法嗣。
南山:雪峰山
長慶:長慶慧稜(854〜932)。雪峰義存の法嗣。法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→天皇道悟→龍潭崇信→徳山宣鑑→雪峰義存→長慶慧稜
妙峰頂:華厳経入法界品で、善財童子が最初に訪ねる徳雲比丘が住む山。
是なることは即ち是なるも、可惜許:そうには違いないが、少し違うのが惜しい。
鏡清: 鏡清道フ(868?〜937)雪峰義存の法嗣。

本則
ある日の薬石(夕食)後のこと、保福と長慶の2人が、連れ立って近くの山に散歩に出かけた。
太陽が西の山々を照らしながら沈んで行く頃で夕日が暮なずむ山々の稜線を照らしこの世のものとは思えない絶景が展開していた。
保福はこれを見て指さしながら云った、「ああ、何と素晴らしい景色だ!まるで天上界のようだ。華厳経に説く徳雲比丘が住む妙峰頂とはこのような処だろうか」。
保福はこう言って「自分の悟りの境地」を匂わせた。
長慶は言った、「そりゃそうだな。しかし、悟りくさくて鼻もちならん。ちょっと違うのが惜しいな。」。
後に雪竇はこれに著語して言った、「今日この二人はせっかく遊山したというのに、悟り臭いこと言っていったい何をしにいったのか」。
雪竇はこれでは言い足りなかったのかこれに付け加えて言った、「しかし、そうは言うものの、「這裏これ妙峰頂」と言えるような者は百千年後といえども少ないだろうな」。
後にこの話を聞いた鏡清は言った、「もしこれが孫公(長慶)がいなかったならば、そのまま悟りの死人禅で、地球は埋まってしまっただろう」。
0758去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/22(木) 21:21:25.26ID:lUXx1oYM
>>757

妙峰孤頂 草離離(りり)
拈得分明なり誰にか附与せん
これ孫公の端的を弁ずるにあらずんば
髑髏地に着く 幾人か知る


離離(りり):草木が美しく繁るさま。
端的を弁ずる:ずばりとポイントを明示する。
髑髏地に着く 幾人か知る:自分のされこうべがごろりと地面に横たわるのをどれほどの人が予知できよう。
?
?

「妙峰頂」で象徴される一味平等の絶対無の世界(脳幹を主体とする無意識脳の世界)
は尊いと言えばこの上なく尊い。
しかし、それは無意識の世界であり、決して活き活きした生成創造の世界(場)ではない。
むしろ、煩悩や渇愛が次々に生じる草離離(りり)たる世界である。
そういう境地を保福はさも有り難そうに「妙峰頂」と持ち上げたが、
少しで気のきいた者ならとっくに承知している。
それを「あげよう」と言われても誰も欲しがらないだろう
もし、長慶が“可惜許”とハッキリ言ってくれなかったら誰が本物の活禅に気付いただろうか。
もし、長慶が“可惜許”とハッキリ言ってくれなかったら死人禅で、地球は埋まってしまっただろう。
0759去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/22(木) 21:56:25.22ID:lUXx1oYM
莫教(さもあらばあれ)


保福と長慶は共に中国唐代の雪峰義存禅師の法を嗣いだお歴々の名僧です。

このお二人がまだ雪峰の道場で修行時代のことでしょう。連れ立って山に登った際に、保福があたりを指さして「只だ這裏(しゃり)便(すなわ)ち是れ妙峰頂(みょうぶちょう)」といったのです。
妙峰頂とは華厳経入法界品にある言葉で、善財童子が発心して五十三人の善知識を歴訪したときに、妙峰山にいた徳雲比丘に相見しているのですが、妙峰頂は尽大地塵ひとつないという悟りの頂き、絶対無の本分のところを指しています。
それを道友の長慶が聞きとがめて、「是(ぜ)なることは是なり、可惜許(かしゃっこ)」(それは貴公のいうのはもっともなことだが、そんなところで有頂天になってはいかんではないか)と釘を指しました。
0760去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/22(木) 22:44:13.95ID:lUXx1oYM
雪峰義存(せっぽう ぎそん822〜908が70歳の)891年頃・・
その弟子達三名・・長慶慧稜(ちょうけい けいりょう38才頃)鏡清道?(きょうせい どうふ24才頃)保福従展(ほふく じゅうてん22才頃)の、雪峰山、禅院での遊山問答

 【本則】挙す。保福と長慶と遊山せし時、福、手をもって指さして云く     「ただ這裏(しゃり)すなわち これ妙峰頂(みょうほうちょう)」
     慶云く「是はすなわち是なり。可惜許(かしゃくこ)」
     (雪賓せっちょう 著語ちゃくご して云く      「今日この漢と共に遊山して この何をかはかる」また云く「千百年 後(ご)なしとはいわず、ただこれすくなからん」)
     後に鏡清(きょうせい)に挙示(こじ)す。
     清云く「もしこれ孫公(そんこう)にあらざりしならば、すなわち髑髏(どくろ)の野に あまねきを見しならん」
0761去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/25(日) 02:16:15.31ID:AK0thtDS
碧巌録(へきがんろく)  第24則  鉄磨到イ山
?
?
垂示:
高々たる峯頂に立てば、魔外(まげ)も能く知ることなし。
深々たる海底に行けば、仏眼も見れども見えず。
たとい、眼は流星の如く、機は掣電(せいでん)の如くなるも、未だ免れず霊亀尾を曳くことを。
這(しゃ)裏(り)に到ってまさにそもさん。
試みに挙す看よ。

注:
魔外(まげ):悪魔や外道。
霊亀尾を曳く:霊験をあらわす亀も、砂浜に残した尾の跡から卵を産んだ場所が見つかること。
達人の言行も、その痕跡が吹っ切れていないとヘマを犯すことになる。
また、敢えて方便として自ら痕跡を残すやり方をも言う。

垂示の現代語訳

高々たる向上の極としての悟りの世界に立てば、天魔外道といえどもその高さをはかることができないだろう。
それとは逆に向下の極に行ってそのものの根底を極め、衆生済度の働きをすれば、仏の眼でもってしても見ることができないだろう。
そのような力量を持つ人の前に出ると、たとえ、流れ星のような敏捷な眼を持ち、稲妻を捕まえることのできる素早い働きを持つ人であっても、「霊亀が尾を曳く」ような“へまな人”に見えるだろう。
そのような境涯に到った人とはどのような人物だろうか?
次に例を挙げるので試みに、参究せよ。
鉄磨は(安心して)、サッサと後も見ずに帰って行ったと考えることができる。
0762去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/25(日) 02:25:27.81ID:AK0thtDS
>>761
本則:

劉鉄磨、イ山(いさん)に到る。

山云く、 「老ジ牛、汝来たれり」。
磨云く、「来日、台山に大会斎あり、和尚還って去るや」。
イ山、身を放って臥す。
磨すなわち出で去る。
?
注:
劉鉄磨:イ山霊祐、仰山慧寂に参じた尼僧。
「鉄磨」は鉄の臼にも喩えられる風格に対するあざ名。
彼女はイ山の近くに庵を構えて住んでいたと伝えられる。
イ山:イ山霊祐(いさんれいゆう)禅師(771〜853)。 百丈懐海禅師(748〜814)の法嗣でイ仰宗の開祖。
法系:六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道→百丈懐海→イ山霊祐→仰山慧寂

老ジ牛(ろうじぎゅう):年をとった雌牛(めうし)。
台山:五台山。山西省の東北部にある。 文殊菩薩の霊地とされる中国仏教の三大霊山の一つ。
五台山の地形は「釈迦の掌」に比喩される。 5本の指に対応する五つの嶺(最高峰は標高3,000mもある) に囲まれた手の掌に当たる所に百カ寺と言われる多数の寺が点在する。
我が国の慈覚大師円仁(794〜864、第三代天台座主)が ここを訪れ「入唐求法巡礼行記」を著している。
大会斎:大勢の僧衆を集めて供養する法会。

本則

劉鉄磨がイ山(いさん)に来た。
イ山(いさん)は劉鉄磨がやって来るのを見て言った、「年老いた雌牛がやって来たな」。
鉄磨は言った、「明日五台山で大会斎があります。和尚さん、お出かけになりますか」。
これを聞いてイ山は大の字になってゴロリと横たわった。
これを見ると、鉄磨は、サッサと後も見ずに帰って行った。
老境に至ったイ山の「おおひまの開いた悟りの境地」を見ると、
0763去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/25(日) 02:31:25.28ID:AK0thtDS
>>762

?

曽て鉄馬にのって重城に入る
勅下って伝え聞く六国の清きことを
猶お金鞭を握って帰客に問う
夜深うして誰と共にか御街(ぎょがい)に行かん
?
注:
 鉄馬:
重城:堅固な城。ここでは?山の居る所。
勅下って伝え聞く六国の清きことを:
秦の始皇帝の勅令で韓・魏・趙・燕・斉・楚の六国が治まったことを聞くこと。
夜深うして誰と共にか御街に行かん:
御街は皇城の南正門に通じる道、天子の御成り道。
そこを、しかも夜禁令を犯して誰と連れ立って行くのか。 ?
?

劉鉄磨はイ山(いさん)に法戦をするために張り切ってやって来た。
しかし、イ山(いさん)に 「年老いた雌牛がやって来たな」 と親しみを込めていわれ戦意を失った。
イ山(いさん)の悟境が穏やかで平和に満ちたものであるとあると分かったからである。
それはあたかも戦国時代に秦の始皇帝によって 六国(韓・魏・趙・燕・斉・楚の六国)の間の紛争が治まり平和がもたらされたようなものだ。
しかし、それを知らず鉄馬に乗って、張り切ってイ山のところに来た将軍鉄磨は 帰路を急ぐ兵士に 「本当に戦争は終ったのか?」 と聞くようなことになってしまった。
イ山はごろりと、天下泰平に寝てしまうし、劉鉄磨はサッサと帰ってしまった。
2人は独立独歩の世界を自由に闊歩している。
劉鉄磨もイ山(いさん)も、誰にも依存することはない大力量の禅者である。
真っ暗な夜中、2人は夜暗い天子の御成り道を、禁令を犯して誰と連れ立って行くのだろうか。 
二人は独立独歩の無依の道人として、「悟りの道」を深化させながら進んでいるのだ。
0764去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/25(日) 02:35:21.90ID:AK0thtDS
>>763

劉鉄磨はイ山(いさん)に単に会うためだけでなく 法戦をするために張り切ってやって来たと思われる。
しかし、イ山(いさん)は劉鉄磨がやって来るのを見て 「年老いた雌牛がやって来たな」と親しみを込めて言った。
この老ジ牛の老という言葉は中国では尊敬の意味も込められている (例えば、老師、老子、釈迦老子などと老を用いているのを見れば分かる)。
この言葉には法戦のために張り切ってやって来た劉鉄磨の心がそがれたと思われる。
鉄磨が 「明日五台山で大会斎があります。和尚さん、お出かけになりますか」 と言うとイ山は大の字になってゴロリと横たわった(身を放って臥す)。
イ山が大の字になってゴロリと横たわったのは 自分は禅の悟りというご馳走を十分食べてお腹が一杯で満足しているので 五台山の大会斎なんかに出かける必要はないよ と“身を放って臥し”て示した。
0765去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/26(月) 21:04:51.08ID:pVOERm60
碧巌録(へきがんろく)  第25則? 蓮華峰(れんげほう」)拈シュ杖ねん しゅじょう)

垂示
機、位を離れざれば毒海に堕在す。
語、群を驚かさざれば流俗に陥る。
忽ちもし撃石火裏に緇素(しそ)を別ち、閃電光中に殺活を弁ぜば、 以って十方を坐断して、壁立千仞々なるべし。
還っていんもの時節あることを知るや。
試みに挙す看よ。


機 :心の働き。
位:心の境地、位置。この場合は「無相平等の悟りの境地」を指している。
毒海:「無相平等の悟り。 そこに至れば大安楽の境地を味わうことができるが、無意識で、はたらきがないためそこに居座るのは毒海のようでもある。
緇素(しそ):黒(緇)と白(素)。
緇素を別つ:黒白をはっきりさせる。

垂示の現代語訳

心の働きが無い「無相平等の悟りの境地」にどっぷり浸かって、そこを離れなければ、毒の海のような働きのない死に体になってしまうだろう。
そのような境地を早く抜け出て、自由自在の働きを示さなければ、彼の話す言葉は大勢の人々の心を打つこともなく、平々凡々の古臭いものになるだけだろう。
もし、これと反対に、毒海のような境地を早く抜け出て、自由自在の働きを得れば、電光石火に黒白、殺活をはっきりさせる力を示すことができる。
その時彼は世界の主人公となって、十方を坐断して、他人が寄り付くことができない独立独歩の孤高の境地に至るだろう。
皆さんこのような素晴らしい境地に至ることができることが分かるだろうか。
試みに例を挙げるので参究しなさい。
0766去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/26(月) 21:41:43.33ID:pVOERm60
>>765
本則
蓮華峰庵主8あんじゅ)、シュ杖(しゅじょう)を拈(ねん)じて衆(しゅ、修行僧たち)に示して云く、「古人這裏(しゃり)に到って、なんとしてか敢(あ)えて住(じゅう)せざる?」。
衆無語(むご)。

自(みずか)ら代わって云く、「他の途路に力を得ざりしがためなり」。
また云く、「畢竟如何?」。
また自ら代わって云く、「シツリツ、横に担うて人を顧みず、直に千峰万峯に入り去る」。


蓮華峰庵主:蓮華峰祥庵主。雲門文偃の法孫に当たり、浙江省天台山の別峰蓮華峰の庵主。蓮華峰に草庵を結んで住んでいた。雲門の法孫という以外よく分からない。

シュ杖(しゅじょう):シュは体を支えると言う意味。徒歩で旅行する時に使う杖のこと。禅ではシュ杖は「真の自己」の象徴として用いられることが多い
法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→天皇道悟→龍潭崇信→徳山宣鑑→雪峰義存→雲門文偃→道チン→蓮華峰庵主
這裏(しゃり):普通「ここ」と言う意味だが禅では「悟りの世界」を意味する。

他の途路に力を得ざるがためなり:古人は杖を使いこなせなかったからだ。
途路:現実の社会。
途路(読み)とろ。 行く道。途上。道。
シツリツ:天台山に生える杖を作るのに適した木の名前。杖のこと。

本則
ある日蓮華峰の祥庵主はシュ杖を拈じて修行僧達に言った、「昔の禅僧は「悟りの世界」に到っても、どうしてその真っ只中に住んでいなかったのだろうか?」。
修行僧達はこの問いかけに無語だった。

そこで蓮華峰祥庵主は自ら代わって言った、「彼は現実の社会で悟りを使いこなす力量がなかったからだ」。
また言った、「結局どうなのだ?」。
蓮華峰祥庵主はまた自ら代わって言った、「シツリツを横に担いで人が何と言おうと、あの山この峯と、どこまでも衆生済度に出かけるだけだ」。
0767去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/26(月) 21:44:32.80ID:pVOERm60
>>766


眼裏の塵沙 耳裏の土
千峰万峯肯えて住せず
落花流水はなはだ茫茫
眉毛を剔起(てっき)して何れの処にか去(い)く


眼裏の塵沙 耳裏の土:眼には埃、耳には泥が入っても、灰頭土面下化衆生の活動をする。
眉毛を剔起(てっき)する:眼をカッと開く。


眼には埃、耳には泥が入っても、灰頭土面、下化衆生の活動に没頭する。
千峰万峯にも比すべき高い悟りの境地に安住するようなことはない 有仏の処、無仏の処に住むことなく流れ過ぎ走り過ぎる。
世界は、「落花流水はなはだ茫茫」と変化し移り変わり留まることがない。
この坊主は眼をカッと開いて何処に行くのだろうか。
0768去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/26(月) 21:56:11.20ID:pVOERm60
ある日蓮華峰の庵主はシュ杖を拈じて修行僧達に言った、「昔の禅僧は「悟りの世界」に到っても、どうしてその真っ只中に住んでいなかったのだろうか?」。
「垂示」に
『心の働きが無い「無相平等の悟りの境地」 にどっぷり浸かって、そこを離れなければ、毒の海のような働きのない死に体になってしまうだろう (毒海に堕在す)』とある。
「頌」で
千峰万峯にも比すべき「無相平等の悟りの境地」に安住してはならない。
眼には埃、耳には泥が入っても動じることなく、「灰頭土面、下化衆生の活動に没頭する大乗の菩薩の大切さを詠っているといえる。
頌で詠うように、
眼には埃、耳には泥が入っても動じることなく、灰頭土面、下化衆生に没頭する大乗の菩薩道に生きるという「大乗菩薩禅」
の理想が本則の結論になっている。
これが伝統的な解釈と言えるだろう。
千峰万峯にも比すべき「無相平等の悟りの境地」に安住してはならない。
眼には埃、耳には泥が入っても動じることなく、
「灰頭土面、下化衆生の活動に没頭する大乗の菩薩禅」
に生きることの大切さを詠っているといえる。
頌で詠うように、
眼には埃、耳には泥が入っても動じることなく、
灰頭土面、下化衆生に没頭する大乗の菩薩道に生きるという「大乗菩薩禅」 を言う。
0769去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/28(水) 01:33:31.05ID:si5bU3Dr
碧巌録(へきがんろく)  第26則  百丈大雄峰(ひゃくじょう だいゆうほう)

本則
修行僧、百丈懐海禅師に問う、「如何(いか)なるかこれ奇特(きどく)の事?」。
丈云く、「独坐大雄峰」。

修行僧 礼拝(らいはい)す。
丈 便(すなわ)ち打(う)つ。


百丈:百丈懐海禅師(720〜814)。禅門の規則である「百丈清規(じんぎ)」を制定したことで有名。法系:六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道一 →百丈懐海

奇特 きどく:特別にすぐれていること
大雄峰 だいゆうほう:百丈が居住した百丈山のこと。

本則
ある僧が百丈に聞いた、「この上ないありがたい事とはどのようなことでしょうか?」。
百丈は言った、「この百丈山にこうして坐っていることだ」。

これを聞いた僧は礼拝した。
百丈は打った。
0770去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/28(水) 01:52:09.93ID:si5bU3Dr
>>769

頌(じゅ)
眼裏の塵沙 耳裏の土
千峰万峯肯えて住せず
落花流水はなはだ茫茫
眉毛を剔起(てっき)して何れの処にか去(い)く


独坐大雄峰:独り山のようにどっしり坐禅して無上道(仏道修行)に打ち込むこと。独り山のようにどっしり坐禅することを山(雄峰)の姿に喩えている。
祖域:宗祖の開いた境域、禅の世界。

天馬駒:一日に千里を行く名馬。
祖域の「祖」と天馬駒の「馬」に馬祖の名前を含ませている。
馬祖の法嗣である百丈懐海を天馬駒と言って、500年に1人しか出ないような駿傑だと讃えている。

化門:衆生済度の教化の門。
舒卷(じょけん) :のべたり、巻いたりする。
電光石火機変を存す:アッという間に、働きを変化させる。
?
?

馬祖道一禅師の法嗣である百丈懐海禅師は禅界では
五百年に一人出るか出ないかのような名馬だ。
衆生済度の教化の門において、活殺与奪の手段は独創的で古人の真似のできないものである。
その百丈和尚の機鋒は臨機応変・電光石火のすばやさである。
僧が古今に比類のないその百丈和尚の虎の鬚をなでたのは笑止に堪えない。
0771去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/28(水) 21:54:13.99ID:si5bU3Dr
碧巌録(へきがんろく)(碧あおい巌いわお の記録 第27則  雲門体露金風(たいろ きんぷう)

垂示
一を問えば十を答え、一を挙ぐれば三を明らめ、兎を見ては鷹を放ち、風に因って火を吹く。
眉毛を惜しまざることは則ち且らくおく。
ただ虎穴に入る時の如きは如何。
試みに挙す看よ。


一を問えば十を答える:心一を聞いて十を知るように、目から鼻に抜けるような賢さのこと。
ここでは明師のこと。
一を挙ぐれば三を明らめる:一を挙げれば他の三つを明らめるような俊発怜悧なこと。
風に因って火を吹く:風向きを考えて火を起こす。 弟子の得意とするところを伸ばしてやる。
眉毛を惜しまざること:昔からしゃべり過ぎると眉毛が落ちると言われる。 しゃべり過ぎて眉毛が落ちるのも厭わず説法をすること。 

垂示の現代語訳

一を問えば十を答え、一を挙げれば三を明らめるような明敏な人は兎を見ては鷹を放ち、風向きを見て、火を起こすように親切に指導する。
しゃべり過ぎて眉毛が落ちるのも厭わず親切に説法指導することは別に置こう。
ただ「虎穴に入る」ような必死の勇者が現れた時はどうしたら良いだろうか。
試みに例を挙げるので参究せよ。
0772去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/28(水) 22:21:16.37ID:si5bU3Dr
>>771

本則
修行僧、雲門文偃(うんもん ぶんえん)禅師(ぜんじ) に問う、 「樹(き)凋(しぼ)み葉落ちる時如何(いかん)?」。
雲門云く、 「体露金風」。


雲門:雲門文偃禅師(864〜949)。雲門宗の開祖。法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷→天皇道悟→龍潭崇信→徳山宣鑑 →雪峯義存→ 雲門文偃

樹凋み葉落ちる時:ブッダが沙羅双樹の下で涅槃に入った(入滅)時、沙羅双樹の1本が枯れ、樹皮も枝葉も抜け落ち、唯真実のみが残った、という「大乗涅槃経」に見える喩えを踏まえている。
ここで樹の葉は煩悩妄想を象徴している。
体露:真実ありのままに打ち出す。
金風:秋風。陰陽五行説より来ている。
木(春)火(夏)金(秋)水(冬)の対応関係で金は秋に対応している。

本則
秋が深まって冬に入ろうとするある日、一人の僧が雲門に聞いた、「樹木の葉が紅葉した後、凋み落ちつくした冬景色の時はどうですか?」。
雲門は云った、「体露金風」。
0773去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/28(水) 22:29:20.76ID:si5bU3Dr
>>772


問いすでに宗あり
答えもまた同じきところ
三句弁ずべし
一鏃 空に遼(はるか)なり
大野は涼ひょう颯颯(さつさつ)
長天は疎雨もうもうたり
君見ずや少林久坐未帰の客
静かに依る熊耳の一叢々


問いすでに宗あり答えもまた同じきところ:問い手も答え手も問答の急所を押さえている。
三句:雲門の三句のこと。
涼ひょう颯颯(さつさつ):さわやかな秋風がさっと吹きわたる。
疎雨もうもうたり:こぬか雨がもうもうと降りこめる。
少林久坐未帰の客:達磨のこと。「未帰」とは西天(インド)に帰らない。
熊耳(ゆうじ):達磨が葬られたとされる熊耳山(ゆうじさん)のこと。


質問した僧はすでに煩悩妄想(樹の葉)や悟りの粕も落ち尽くし払い果てた「絶対無」の境地を既に知っていて雲門に質問している。
その意味で問い手も答え手も問題の急所を知っている。
雲門が答えた「体露金風」には「函蓋乾坤、截断衆流、随波逐浪」の三句が備わっていることを学び取らなければならない。
雲門の答えには1本の矢が大空はるかに飛び去ったような味わいがある。
広い野原にはさわやかな秋風が吹き渡り、降り出した長雨はしとしと降っている。
達磨は熊耳山の草叢の中に静かに眠っているのが君には分かるだろうか。
0774去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/28(水) 22:48:51.72ID:si5bU3Dr
>>773

六祖(ろくそ)慧能(えのう)には「葉落帰根(ようらく きこん)」と言う言葉がある。

六祖慧能は晩年になって弟子達に別れを告げ、故郷(ふるさと)に帰ろうとした。
その時、弟子達が「何時戻って来られるのですか?」と聞いた。
これに対し慧能は「葉は落ち根に帰る(「葉落帰根」(ようらく きこん))。
何時戻るかは言えない」と言ったと伝えられる(六祖壇経)。
0775去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/29(木) 18:27:03.37ID:RiUiq8bP
碧巌録(へきがんろく)  第28則  南泉不説(なんぜん ふせつ) 百丈涅槃和尚は 百丈懐海禅師ではない。

〔本則〕
挙南泉參百丈涅槃和尚。丈問従上諸聖還有不為人説底法麼
泉云、有。
丈云、作麼生是不為入説底法、
泉云、不是心、不是佛、不是物。
丈云、説了也
泉云、某甲只恁麼言、和尚作麼生
丈云、我叉不是大善知識争知有説不説
泉云、某甲不會
丈云、我大タダナンジ為説了也。

挙す、南泉、百丈の涅槃和尚に參ず。丈問ふ、従上の諸聖、還って人の為に設かざる底の法あり麼や。
泉云く有り。
丈云く作麼生か是れ人の為に説かざる底の法。
泉云く不是心不是佛不是物。
丈云く説了也。
泉云く、某甲は只恁麼和尚作麼生。
丈云く、我又是れ大善知識にあらず、争か説不説あることを知らんや。
泉云く某甲不会。
丈云く我太だなんじが為に説き了れり。

本則
南泉、百丈の涅槃和尚に参ず。丈問う、「従上の諸聖、還って人のために説かざる底の法ありや?」。
泉云く、「あり」。
丈云く、「そもさんかこれ人のために説かざる底の法?」。
泉云く、「不是心、不是仏、不是物」。
丈云く、「説き了れり」。
泉云く、「某甲はただ恁麼、和尚作麼生?」
丈云く、「我れまたこれ大善知識にあらず。いかでか説不説あることを知らん」。
泉云く、「某甲不会」。
丈云く、「我はなはだ汝がために説き了れり」。


南泉:南泉普願(748〜834)。馬祖道一の法嗣。
百丈の涅槃和尚:百丈惟政(いせい)。常に「涅槃経」を講誦したことから涅槃和尚と呼ばれた。
有名な百丈懐海禅師ではない。
図5に28則に登場する南泉と百丈の涅槃和尚の法系図を示す。
0776去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/30(金) 22:41:11.39ID:pEaBk7sb
碧巌録(へきがんろく) 第29則  大隋劫火洞然 (だいずい  ごっか とうねん)

垂示
魚行けば水濁り、鳥飛べば毛落つ。
明らかに主賓を弁じ、洞(あき)らかに緇素を分かつ。
直に当台の明鏡、掌内の明珠に似たり。
漢現じ胡来たり、声彰われ色顕われん。
しばらく道(い)え、なんとしてか此の如くなる。
試みに挙す看よ。


明らかに主賓を弁じ、洞(あき)らかに緇素を分かつ:
(我々の心は)、前にいる人が、主人(主)であるか客(賓)であるか、
黒(緇)か白(素)かを分別判断する。
漢現じ胡来たり、声彰われ色顕われん:
その前に漢人が立てば、漢人を、胡人が立てば、胡人を、それぞれ明白に写し分ける。
また、(明珠が転がれば)、声として彰われ、色として顕われる。
 見たり、聞いたり、喋ったりする脳の機能を明鏡や明珠の働きに喩えている。
当台の明鏡、掌内の明珠:脳の認識作用や見聞言語の働きを明鏡や明珠に譬えている。

垂示の現代語訳

魚が水の中を泳げば、水は濁り、鳥が羽ばたいて空を飛べば毛が抜け落ちる。
そのように、我々の心の動きがどんな微妙なものであっても必ずどこかに現れ、
明らかに主客を弁じ、黒(緇)か白(素)かを分別判断することができる。
我々の心の明鏡や明珠(=脳)は、その前に漢人が立てば、漢人を、
胡人が立てば、胡人を、それぞれ明白に写し分ける。
また、 (心の明珠が転がれば)、声として彰われ、色として顕われるのである。
それではどうしてこのようになるのであろうか?
試みに例を挙げるから参究しなさい。
0777去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/30(金) 23:14:41.02ID:pEaBk7sb
本則
僧、大隋法真に問う、「劫火洞然として、大千ともに壊す。未審(いぶか)し、這箇(しゃこ)、壊するか、壊せざるか?」。
隋云く、「壊す」。

僧云く、「いんもならば他に随い去るや?」。
隋云く、「他に随い去る」。


大隋:大隋法真禅師(834〜915)。百丈懐海の法孫に当たる。法系:六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道一→百丈懐海 →長慶大安→大隋法真

劫火:古代インドの世界観では宇宙は成(生成)・住(保持)・壊(壊滅)・空(無)の四期間を
周期的に繰り返し変化すると考えた。
地球も壊(壊滅)の時期になると、大風が吹き、大洪水起こり、太陽が七つも現れ、終末火災である劫火によって壊滅すると考えた。
大千:三千大千世界。三千大千世界は須弥山説に基づいている。
須弥山説は古代インド人の考えに仏教的教理を加味して出来上がった世界観である。
洞然:世界の終末火災である劫火によって激しく燃えるさま。
這箇(しゃこ):これ。このもの。心の本体、仏性。

本則
大隋法真禅師にある僧が聞いた、「この世界が終りを迎える時、劫火が激しく燃えて破滅すると言われます。
その終末の時、我々の心の本体は一体破壊されてしまうのでしょうか、或いは、破壊されないでしょうか?」。
大隋は言った、「破壊されてしまうよ」。
僧は聞いた、「そうなら、世界が滅亡する時一緒に滅亡するのでしょうか?」。
大隋は言った、「そうだ、世界が滅亡する時一緒に滅亡してしまうよ」。
0778去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/30(金) 23:42:34.86ID:pEaBk7sb

劫火光中に 問端を立つ
衲僧 なお両重の関に滞る
憐れむべし一句 他に随うの語
万里区々として独り往還す
?

問端: 質問のテーマ。
衲僧 なお両重の関に滞る: 劫火光中に質問を立てた禅僧すら「壊」と「不壊」の二元的対立に引っかかっている区々として: きまじめに、せっせと。
万里区々として独り往還す: 質問僧は「他に随い去る」と言う大隋の一句が分からなかった。
そこで、彼はその一句を担って河南省の投子和尚(投子義青、1032〜1083)の処に行った。
投子和尚は「他に随い去る」と言った大隋の一句を大変褒めた。
そこで僧は再び四川省の大隋禅師の所に戻ったが大隋禅師は既に死亡していた。
僧が四川省の大隋禅師の所と河南省の投子和尚の処(遠距離)を区々として往復したことをさす。


この僧は世界が終末を迎える時、その劫火の中で心の本体である仏性は滅亡するかどうか という大問題を立てて質問した。
その問題意識と疑問は立派なものだ。
しかし、残念なことに、この僧は「壊」と「不壊」の二元的対立に引っかかっている。
大隋の「世界が滅亡する時一緒に滅亡してしまう」という言葉の真意が分からず、それに随い引きずり廻されたのは誠に憐れむべきである。
彼はその一句に引きずり廻され、四川省の大隋禅師の所と河南省の投子和尚の処遠距離、約1000km)を独りで、区々として往復した。その苦労は並大抵ではなかった。
0779去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/30(金) 23:46:36.30ID:pEaBk7sb
この公案は僧の質問、 「この世界が終末を迎える時、我々の心の本体は一体破壊されてしまうのか、 或いは、破壊されないのか?」
に対する大隋法真の答がテーマになっている。
大隋の涛嘯ヘ、「世界終末魔フ時、我々の瑞Sも破壊されてbオまう」である=B

荘mの第二の質問 「世界滅亡の時時一緒に滅亡するのでしょうか?」 に対する大隋の答は、
「世界が滅亡する時一緒に滅亡してしまうよ」 という簡単明瞭なものである。
0780去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/30(金) 23:56:16.41ID:pEaBk7sb
【垂示】垂示に云く 魚行けば水濁(にご)り、鳥飛べば毛落つ。
       明らかに主賓(しゅひん)を辨(べん)じ
       洞(ほがら)かに緇素(しそ)を分かたば、
       直に当台の明鏡、掌内(しょうない)の明珠(めいじゅ)に似て
       漢あらわれ胡(こ)きたり、聲(こえ)あらわれ色あらわれん。
       しばらく道(い)え、なんとしてか かくの如くなる。
       試みに挙す看よ。

【本則】経文戒律に凝り固まった義学の僧が、四川省の山奥に隠居する大隋法真(だいずい ほうしん878〜963)を訪ねて・・
「四十億年後、太陽が赤色矮星に膨張したら、地球も火星も劫火に包まれて滅亡するそうですが、この時、自我=私の意識はどうなりましょうか」・・と大上段に論戦を仕掛けた。
大隋はニベモなく「消滅するね」と答えた。
僧はナオも足掻く「それなら梵天、自我もろともに一切が滅亡するというのですか」
大隋「そうだ。スッカラカランだな」

    【本則】挙す。僧 大隋に問う。
     「劫火洞然(ごっかとうぜん)として大千(だいせん)ともに壊(え)する時 いぶかし、這箇(しゃこ)は壊するものなるや。壊せざるものなるや」
      隋云く「壊す」
      僧云く「恁麼(いんも)ならば則(すなわち)他にしたがい去るものなりや」
      隋云く「他にしたがい去るものなり」

【頌】この義学の僧、未熟。滅と不滅、モノとココロをきれいに2分割している。大隋が一切合切、燃え尽きると答えたのはウマい。
話を繋ぐ取柄(とりえ)がなく、突き放す最上の一語だね。
大隋は、深山の樹穴で寝起きした禅者だが、彼の(禅)境地は、誰も窺うことができない山奥パンダの生活だった。
どうも昼夜・明暗は、掌の皺(しわ)が見えるか、どうかで決めていたようだ。

  【頌】劫火光中(ごっかこうちゅう)に問端(もんたん)を立て、衲僧(のうそう)なお両重の關(かん)にとどこうれり。
     憐れむべし、一句、他にしたがうの語、萬里区々(ばんりくく)として独り往還(おうかん)す。
0781去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/31(土) 18:38:54.68ID:QixORuxc
碧巌録(へきがんろく)  第30則  趙州大蘿葡頭(じょうしゅう だいらふとう)  

本則
修行僧、趙州に問う、「承(うけたまわ)り聞く、和尚(した)親しく南泉(なんぜん)に見(まみ)ゆと。是(ぜ)なりや否(いな)や?」。
州云く、「鎮州(ちんしゅう)に大蘿葡頭(らふとう)を出(いだ)す」。
?
注:
蘿葡頭(らふとう):大根。
趙州:趙州従シン禅師(778〜897)。
趙州城内の観音院に住した。 南泉普願禅師に嗣法した。
趙州の禅は唇から後光がさすようだとされ、「趙州の口唇皮禅(くしんぴぜん)」と呼ばれる。
法系:六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道一 →南泉普願 →趙州従シン
?
本則:
ある久参の僧が、趙州に聞いた、
「和尚は南泉禅師に禅を学んだと承り聞きますが、本当でしょうか?」。
趙州は言った、
「鎮州には大きな大根がとれるわい」。

唐の末ごろのことですが、ある僧が趙州従?(ぢょうしゅう・じゅうしん)和尚に質問しました。
承聞、和尚親見南泉、是否。承り聞くに、和尚、南泉に親見す。是や否や。聞くところでは和尚さまは有名な南泉普願禅師にお会いになったことがあるそうですが、本当ですか、ウソですか。
南泉普願は趙州従?の師匠なので、会っているのは当たり前なんですが、ここで僧がわざわざそんなことを訊ねているのは、(その師匠から教わった悟りについて、何か言いなはれ)と言いたいわけです。
これに対して、趙州和尚は答えた。鎮州出大蘿葡頭。鎮州には大蘿葡頭(らふとう)を出だす。鎮州では、でっかいダイコンが出来るそうじゃ。
ちなみに鎮州は、今僧と趙州和尚が会話している趙州の地と同じ河北にある近接地です。
0782去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/31(土) 18:42:03.13ID:QixORuxc

鎮州に大蘿葡頭(らふとう)を出す
天下の衲僧 則を取る
只だ知る自古自今
争でか弁ぜん鵠(くぐい)の白く烏の黒きことを
賊、賊
衲僧の鼻孔 曽て拈得せらる


則を取る: 手本とする。
自古自今:古今を通じて変わらないもの。
鵠(くぐい) : 白鳥の雅称。


「鎮州に大蘿葡頭(らふとう)を出す」
と言う趙州の言葉を世の中の多くの禅僧は立派な手本のように考えて、あり難がるかも知れない。
しかし、白鳥が白く烏が黒いのを議論する必要がないのと同じような自明のことを言っているに過ぎない。
しかし、この言葉にはこだわりや情識のしがらみを除き取る賊機があるのは確かだ。
後生大事にしていた僧の悟りも情識も奪い取ってしまったに違いない。
この質問をした久参の僧はひとかどの見識を持った僧に違いないが老練な趙州によって鼻の頭を掴まれ、ねじ上げられてしまったわい。
と言っているように思われる。
0783去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/10/31(土) 18:46:54.62ID:QixORuxc
第30則の質問僧は久参の僧だと言われている。
彼は趙州が南泉の法嗣であることを良く知っていてこの質問をしたと思われる。
彼は趙州が「私は南泉和尚から禅を学んだ」と答えると思ってこの質問をしたと思われる。
そうしたら南泉から学んだ禅の第一義について質問してやろうと 身構えていたのではないだろうか?
そうしたら趙州は 「鎮州に大きな大根がとれるわい(「鎮州に大蘿葡頭(らふとう)を出す」)」 と言った。
この返答に僧はびっくりし、第二の質問をする心の余裕をなくしたのではないだろうか?
趙州の「鎮州に大蘿葡頭(らふとう)を出す」という返答は 僧の質問「和尚は南泉禅師に禅を学んだと承り聞きますが、本当でしょうか?」 にまともに答えていない。
「鎮州に大きな大根がとれるわい」 と言った趙州の言葉は 「鎮州は大きな大根の産地として良く知られている」 と言っていると考えることができる。
趙州のこの返答は一見すると、僧の質問には答えていないように見えるかも知れない。
この返答は次のように考えることができる。
「鎮州は大きな大根が取れるよい産地だ」。
そのことは多くの人々に良く知られた周知の事実だ。
それと同様に私が南泉の法嗣であることは良く知られた事実だ。
そんなつまらんことを改めて聞く必要もないじゃないかと言いたかったのではないだろうか?
そう考えると趙州の「鎮州に大蘿葡頭(らふとう)を出す」 という返答は僧の質問に対して間接的な返答になっている。
澄散聖と言う人はこれを「東問西答」と言ったと言う。 
これを聞いた時、質問した僧もドギマギしたのではないだろうか。
趙州の「鎮州に大きな大根がとれるわい」 と言う返答で趙州は、その大きな大根の真の味を 「この道場での禅修行を通して、しっかり味わい、禅の本質をつかみ取れ」
0784去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/11/03(火) 02:09:45.39ID:8wMLPN5Z
碧巌録(へきがんろく)  第31則  麻谷振錫(まよく しんしゃく)   

垂示
動ずる時は則ち影現じ、覚する時は則ち冰(こおり)生ず。
それ或は不動不覚なるも、野狐の窟(すみ)裏(すみか)に入ることを免れず。
透得徹し信得及して絲毫の障(か)翳(かげ)なくんば、龍の水を得るが如く、虎の山に靠(よ)るに似たり。
放行(ほうぎょう)するや瓦礫も光を生じ、把定するや真金も色を失う。
古人の公案、未だ周遮(しゅうしゃ)を免れず。
しばらくいえ、什麼(いか)なる辺(あたり)の事を評論する。
試みに挙す看よ。


動ずる時は則ち影現じ:心を水面に喩えている。心が動けば影が現れるという意味。
覚する時は則ち冰(こおり)生ず:悟りの意識を起こす時は心が氷結して動きがとれなくなる。
絲毫絲毫の障翳(かげ)なくんば:少しも影がなければ。
得及する:納得する。
周遮(しゅうしゃ):まわりくどいこと。

垂示の現代語訳

心が動揺すれば、次から次に妄念が影のように現われる。
これと逆に心の動揺が無くなれば、水が凍った時と同じで、動かなくなる心が不動であっても不覚であれば、滞った溜まり水のように腐ってしまう。
それでは野狐の窟(すみ)裏(か)になってしまうだろう。
もし、真の自己に透得徹し、「衆生本来仏なり」という本来性に納得することができるならば、その自由な活動を妨げるものは少しもなくなる。
その時には、龍が水を得たように、また虎が山に放たれたのと同じようになる。
そうなれば、しめたもので、本人がやりたいようにしても、瓦礫も光を生じるようになる。
無差別平等の状態では真金もその価値を失ってしまう。
そういう「真の自己」の境地から見れば、次に挙げる古人の公案も、まわりくどいものと言える。
それではどのようなことを言いたいのだろうか。
試みに例を挙げるので参究しなさい。
0785去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/11/03(火) 02:43:28.44ID:8wMLPN5Z
>>784
本則
麻谷、錫を持して章敬に到る。 禅床をめぐること三匝、錫を振るうこと一下して、卓然として立つ。
章敬云く、「是是」。
雪竇著語して云く、 「錯」。

麻谷また南泉に到り、禅床をめぐること三匝、錫を振るうこと一下して、卓然として立つ。
泉云く、「不是不是」。
雪竇著語して云く、 「錯」。

麻谷当時云く、 「章敬は是という。和尚何としてか不是という」。
泉云く、 「章敬は即ち是、これ汝は不是。此はこれ風力の所転、ついに敗壊を成す」。


麻谷:麻谷宝徹。山西省蒲州、麻谷山の宝徹禅師。馬祖道一の法嗣。
章敬:西安の章敬寺にいた章敬懐キ(えき)禅師(757〜818)。
南泉:南泉普願禅師(748〜834)。馬祖道一の法嗣。
法系:六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道一 →南泉普願 
「錯」:錯はあやまりと意味である。 ここでは 「だめだ!」、 とか「しまった!」  という反省の意味で使われている。

本則
ある時麻谷禅師は、錫杖を持って兄弟子の章敬禅師を訪ねた。
麻谷は章敬禅師が坐っている禅床を三回回って、錫杖をジャランと振って突き立て、意気衝天の勢いを示した。
それを見て章敬は 「よし、よし(是是)」 と肯定した。
雪竇はここに、「錯」と著語する。 自分なら許さないという意味である。

麻谷はまた南泉禅師の所を訪ねた。
麻谷は南泉禅師が坐っている禅床を三度回って、錫杖をジャランと振って突き立て、意気衝天の勢いを示した。
それを見て南泉は 「だめだ、あかん!(不是不是)」 と否定した。
雪竇はここにも 「しまった(錯)」 と著語する。

麻谷は南泉に 「章敬は是と言いました。南泉和尚はどうしてだめ(不是)と言うのですか?」 と質問した。
南泉は、「章敬には関係ないよ。章敬はそれでいいさ。お前さんがいかんのだ。
お前さんは風力に動かされている。それでは最後にはだめになるよ(ついに敗壊を成す)」 と言った。
0786去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/11/03(火) 02:50:43.43ID:8wMLPN5Z


此錯彼錯
切に忌む拈却することを
四海波平かに
百川潮落つ
古策風高し十二門
門々路あり空しく粛策たり
粛策にあらず
作者 好し無病の薬を求むるに


切に忌む拈却することを: 取り除いてしまってはいけない。
四海:一国を取り囲む四つの海
古策: 古策の策は錫杖をさしている。
古策(古い錫杖)は「父母未生以前の本来の面目を象徴している。
十二門:古策(古い錫杖)には十二個の環が付いていて十二因縁を表わしていると言われる。
粛策たり: がらんとして空である。
門々路あり空しく粛策たり:どの門も路は付いているが、がらんとしてその路を行く人がいない。
?

これも「錯」、あれも「錯」と徹底的に否定反省し、のり越えて行くのが禅の本道である。
この「錯」の一字を捨て去ったら禅の生命が失われるので決して捨て去ってはならない。
この「錯」の一字を捨てないで「錯」、「錯」と徹底的に否定反省し、のり越えて行くならば、四海の波は穏やかに、百川の潮は引いて平和を謳歌するだろう。
我々の錫杖にも喩えられる「本来の面目」には十二の門が付いている。
十二のどの門にも路は付いているが、その路がらんとして無形無相である。
それは無形無相で捉えることができないが単なる無形無相のものではない。
腕に覚えのある禅僧ならば「無形無相の悟りの境地」に安住することなく、無限否定・無限向上の「錯」の道を行って「無病の薬」を求めなければならない。
0787去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/11/03(火) 03:05:13.59ID:8wMLPN5Z
最初の「錯」は麻谷が章敬禅師が坐っている禅床を三度回って、錫杖をジャランと突き立て、意気衝天の勢いを示した。
それを見て章敬は「よし、よし(是是)」と肯定した場面である。
雪竇はここに、「錯」と著語している。自分なら許さないという意味である。
これは麻谷が章敬の禅床を回って意気衝天の勢いを示したのを見て 章敬が「よし、よし(是是)」と肯定したのは問題だと考え 「錯」と著語したと考えられる。
章敬の禅床を回って意気衝天の勢いを示すことで 麻谷は「天上天下唯我独尊」の悟りの境地を示した。
しかし、垂示でも言っているようにその不動の境地は 溜まり水のように不動で野狐の窟裏(すみか)になっていると考えたからである。

第二の「錯」は麻谷が南泉禅師を訪ねた時である。
麻谷は南泉禅師が坐っている禅床を回って、錫杖をジャランと突き立て、意気衝天の勢いを示した。
それを見て南泉は「だめだ、あかん!(不是不是)」と否定した。
雪竇はここにも「しまった(錯)」と著語している。
麻谷が章敬のところで「天上天下唯我独尊」の境地を示した時、章敬は「よし、よし(是是)」と褒めて肯定した。

麻谷はこれに気を良くして南泉の処に行った。
南泉も章敬と同じように自分の悟りの境地を「よし、よし(是是)」と 褒めて肯定してくれるものと予想したからだと思われる。
麻谷は南泉禅師が坐っている禅床を回って、錫杖をジャランと突き立て、意気衝天の自分の悟りの境地を勢い良く示した。
しかし、麻谷は南泉禅師の処では無心に振る舞うことができなかった。
南泉も自分の悟りの境地を「よし、よし(是是)」と 褒めて肯定してくれるものと予想したため無心になれず、
「どうです。私の悟りの境地は素晴らしいでしょう」 とでも言った奢りや自慢の心が現れていたのではないだろうか。
それを南泉は敏感に見て取った。
そこで、南泉は「だめだ、あかん!(不是不是)」 と否定したのだと考えられる。
雪竇はここにも「しまった(錯)」と著語している。
この「しまった(錯)」という著語は 麻谷に対する「しまった(錯)」である。
この著語で南泉の「だめだ、あかん!(不是不是)」 という意見に賛成していることが分かる。
0788去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/11/03(火) 03:06:16.01ID:8wMLPN5Z
この公案でもう一つ難しいのは 南泉の言葉「此はこれ風力の所転、ついに敗壊を成す」という言葉で 「風力」の意味であろう。
大森曹玄老師は「風力」とは 古代ギリシャ以来の四元素説である「地水火風」の中の風の作用を意味しているだろうと考えておられる。
筆者はこれを「八風」の「風力」だと考えている。
馬祖道一の法嗣である大珠慧海は著書「頓悟要門」において 「定とは対象に対して無心であり、八風にも動揺させられることがない。
八風とは利益、損失、かげでそしること、かげでほめること、面前でほめること(称)、面前でそしること(譏)、苦しみ、楽しみである。
この八つを八風と名付ける」としている。
大珠慧海は 「もし、八風にも動揺することがなければ、解脱し仏位に入ることができる」 と言っている。
本則に出てくる南泉の言葉「此はこれ風力の所転、ついに敗壊を成す」の 「風力」とは単なる風力ではなく、八風の力を意味していると思われる。
八風の中で「面前でほめること(称)や面前でそしること(譏)」に麻谷はこだわり、動揺した。
それ見た南泉は「不是、不是」と言ったと考えれば分かり易い。
要するに麻谷は他人の評価を気にし、動揺している。
その主体性がないところを南泉は「不是、不是」と言ったのではないだろうか。


?
放行と把定 
?
放行(ほうぎょう): 自らの工夫と自由に任せる。自由と差別の世界。規制緩和と言える。
把定(はじょう)、把住(はじゅう): 規範に従わせる。規制する。
否定や絶対平等の世界(下層無意識脳の無差別平等の世界)を表わす。
放行や把定(把住)という言葉は「碧巌録」の第4則,31則と第51則の垂示に出て来る
0789去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/11/04(水) 02:27:42.47ID:Z7kkygiA
碧巌録(へきがんろく)  第32則  定上座問臨済 (じょう じょうざ りんざいにとう)

垂示
 十方を坐断して、千眼頓に開け、一句に截流して、万機寝削(しんさく)す。
還って同死同生底ありや。見成(げんじょう)公案、打畳不下ならば、古人の葛藤。
試みに請う挙す看よ。


十方:東西南北の四方とその中間の4方向で八方。それに上下を加えた十方向のこと。
一句:一言一句の一句に限らず、眉一本動かしても、指一本立てても一句である。
一句に截流して、万機寝削(しんさく)す:一言の下にあらゆる意識の流れが断ち切られて、全ての作用が消えて停止してしまった。
万機:全ての思慮分別。
寝削(しんさく):休息、停止してしまうこと。
見成公案:見成は現成と同じ意味で、家の柱は縦に、敷居は横にと展開している現実のありのままの姿を言う。
見成公案とはそのようなありのままの現実の事象が そのまま禅の「公案」であり、究明すべき問題だと言うこと。
打畳:打成と同じで、打って一まとめにすること。
不下:手も下せないこと。
打畳不下:打って一まとめにして処理できないこと。処置なし。
同死同生底:生死を共にするようなこと。

垂示の現代語訳

十方のあらゆる煩悩・妄想を掃蕩することによってあらゆることが見える千眼が開き、 一句によって煩悩・生死の流れを截断・休止して無差別智が開くだろう。
古来禅者達はそのような素晴らしい力量を持ち発揮した。
そのような禅者と生死を共にするようなことができるだろうか。
現実の世界で直面する種々の公案をまとめて処理できないならば、古人のように葛藤に直面するだろう。
試みに例を挙げるので参究しなさい。
0790去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/11/04(水) 02:43:54.81ID:Z7kkygiA
>>789
本則
定上座、臨済に問う、「如何(いか)なるかこれ仏法の大意(たいい)?」
済、禅床を下って擒住し、一掌を与えて便ち托開す。
定、佇立(ちょりつ)す。

傍僧云く、「定上座何ぞ礼拝せざる?」
定、方に礼拝せんとして、忽然として大悟す。
?
注:
定上座:臨済門下の優れた禅者として知られるが伝記は良くわかっていない。法系:六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道一 →百丈懐海→黄檗希運→臨済義玄 →定上座
禅床・禅牀(読み)ぜんしょう (「ぜんじょう」とも) 。坐禅をする場所。坐禅をするこしかけ。僧堂の坐位。
擒住する:ひっ掴む。 胸倉を取るとは 人を倒そうとしたり、押えようとしたりして、その胸座を強くつかむ。
托開(たっかい)す:突き放す。
佇立す:棒立ちになった。

本則

定上座が臨済禅師に聞いた、「禅の本質は一体どのようなものですか?」
それを聞いて、臨済はいきなり禅床を下りて片手で定上座の胸倉を捉まえると同時に、ビシリと顔を打って突き放した。
定上座は茫然と立ちつくした。


その時傍にいた僧が言った、「定上座、どうして礼拝しないのか?」
定上座はまさに礼拝しようとして、忽然として大悟した。
0791去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/11/04(水) 02:48:03.98ID:Z7kkygiA
>>790



断際の全機 後しょう をつぐ
持ち来ること何ぞ必しも従容にあらん。
巨霊手を抬ぐるに多子なし
分破す華山の千万里


断際:断際は黄檗希運が唐の宣宗から賜った号。
持ち来ること何ぞ必しも従容にあらん。:臨済のやり方がゆったりとしたものであろうはずがない。
巨霊手を抬ぐるに多子なし:大昔黄河が龍門から東へ流れようとした時、華山と首陽山が立ち塞がって流れることができなかった。
そのため豪雨が降ると河水が氾濫し大被害が出た。
そこで巨霊神が立ち塞がる華山と首陽山を分破した。
その結果黄河が龍門から東へ流れ水害が無くなったという古代中国の神話に基づいている。



黄檗希運の大機大用を受け継いだ臨済の禅はいたずらに悠々としたものであろうはずはない。
大昔、巨霊神が立ち塞がる華山と首陽山を無造作に分破した結果、黄河が龍門から東へ流れ、水害を免れることができた。
それと同じように、臨済の大機大用は定上座の無明・煩悩の黒山を根こそぎ打ち砕いてしまった。
0792去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/11/04(水) 02:54:19.36ID:Z7kkygiA
>>791
臨済が黄檗の指導下で大悟した時の状況は次のようである。

臨済は黄檗の所に行って「仏教の根本義とは何ですか?」と聞いた。
その途端、黄檗は臨済を棒で打った。
臨済は何故打たれたのか分からなかった。

そこで再び黄檗の所に行って「仏教の根本義とは何ですか?」を聞いた。
しかし、またもや臨済は黄檗に棒で打たれた。

こうして三度同じ問いをして三度打たれた。

臨済は何故打たれたのか分からなかった。

臨済はここで修行しても駄目だと絶望し黄檗の下を去ろうと考えた。
臨済はここ駄目なので何処か別の所で修行したいと黄檗に相談した。
黄檗は大愚の所が良いと勧めたので大愚の所に行った。

大愚は臨済に「黄檗は何と教えたのか?」と聞いた。
私が「仏教の根本義は何ですか?」と尋ねますと入室の度にただこっぴどく打たれました。
「一体私のどこに落ち度があって打たれたのか分かりません。」と言う臨済の言葉を聞くなり、大愚は「黄檗はそんなにも親切にお前のことを心配して指導してくれたのに、こんなところまで来て、落ち度があるの無いのと何を言うか?」とどなった。
この大愚の言葉を聞いた途端、「ああ、黄檗の仏法はこんなことか。」と臨済は大悟した。
0793去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/11/05(木) 01:11:04.01ID:PJEZDoM8
碧巌録(へきがんろく)  第33則  陳操 看資福(ちんそう しふくに みゆ) 陳操 具隻眼 ぐせきげん
      
【垂示】垂示に云く。東西を辨(べん)せず、南北を分(わ)かたず、朝より暮れに至り、暮れより朝に至らんには、また、かれを?睡(かっすい、いねむり)とは道(い)わんや。
時には眼(まなこ)の流星に似たるには、かれを惺々(せいせい)と道わんや
時には南を呼んで北となすことあらんには、しばらく道え、これ有心(うしん)か、これ無心(むしん)か。
これ道人なるか、これ常人なるか。
もし、箇裏(こり)に向かって透得(とうとく)して、はじめて落處(らくしょ)を知らば、まさに古人の恁麼(いんも)なること、不恁麼(ふいんも)なることを知るならん。
しばらく道え、これ何の時節ぞ。試みに挙す看よ。

垂示の現代語訳

東西や南北などの方向も分らない。
朝から夜に至り、夜から朝に至るまで日が暮れたのか、夜が明けたのかも分からないようにボーッとして暮らしている。
一見愚人に見えるが、彼は眠っているのだろうか。
そうかと思うと、ある時は流星にも似た鋭い眼光で見ている。
彼は本当は何もかもハッキリと分かっているのだ。
では偉いのかと思うと南を北と呼ぶような常識外れのことをする。
彼は本当は有心なのか無心なのか。
常識を超えた道人なのだろうか、ありふれた平凡人なのだろうか。
もし、人が悟りの境地に到って、これが禅の本質の処なのかと納得できた時に、古人の出来・不出来をよく知ることができるだろう。
さて、そのようなとぼけた達人がいただろうか。
試みに例を挙げるので参究しなさい。
0794去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/11/05(木) 01:26:26.82ID:PJEZDoM8
>>793

本則
陳操尚書(ちんそうそうしょ)、資福如寶(しふくにゅほう)に見(まみ)ゆ。
福、来たるを見て、便(すなわ)ち一円相(いちえんそう)を畫(が)す。

操云く「弟子、恁麼(いんも)に来たる、はやく これ便(べん)をつけず。いかに況わんや さらに一円相を畫くするか」
福、すなわち方丈の門を掩却(えんきゃく)したり。

【雪賓重顯(せっちょうじゅうけん)云く「陳操只(た)だ一隻眼(いっせきがん)を具(ぐ)す」】


【本則】
政府(睦州)の長官であった陳操が、参禅の師、資福禅院の如寶を訪問した時の事である。
資福は陳操がやってきて、まだ、挨拶の「ア」の字もしない先に、指先で(空中の)大きな円相・・〇を描いて見せた。

この出し抜けの振る舞いをみた陳操「ご挨拶する前に、一円相を描いて見せるとは・・(どうゆう了見ですか?)私は、そんな空中絵を見に来た訳ではありませんよ」
すると資福、すかさず方丈の戸をピシャリと閉めてしまい、彼を門前払いにした。

(雪賓重顯・・この件に附言して云く・・さすがに陳操は活眼の禅者だ。彼は、したたかな資福の狂言を見抜いて、空に描いた円相をぶち壊した)
0795去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/11/05(木) 01:50:17.11ID:PJEZDoM8
>>794
【頌】
団々(だんだん)として珠(じゅ)はめぐり、玉は珊々(さんさん)たり。
馬を載(の)せ驢(ろ)を?(だ)し、(また)鉄船を上(のぼ)さん。
分付(ぶんぷ)せよ 海山無事の客(かく)に、鼇(ごう)を釣る時には、一圏攣(いちけんれん)を下(くだ)せよと。
【雪賓また云く、天下の衲僧(のうそう)も 跳不出(ちょうふしゅつ)】

【頌】
資福が空中に描いた円相は、玉の触れ合うような、美しい音を奏でる。
だが、結構な重さであるから馬や驢馬では載せきれまい。
大きな鉄の船なら、どうにか運べるかナ。
いや、太公望を気取るヒマ人に伝言して、大ウミガメを釣りに行く時に、この資福の円相(ワッパ)を、亀の首絞め釣り具に使ってくれと頼んでやろうか。
(雪賓・・さらに著語して・・そりゃあ面白い一案だ。この円相の首絞め縄は、どんな禅僧も外すことは不可能だろうテ・・)


?
団々として珠はめぐり玉はさんさんたり 
馬載(ばさい) 驢ダ(ろだ) 鉄船に上(のぼ)す
海山無事の人に分付す
鼈(ごう)を釣るに時に下す一圏攣(けんれん)
雪竇また云く「天下の衲僧、跳(ぬ)け出せず」
?
注:
さんさん:玉の鳴る音の形容。
団々として珠はめぐり玉はさんさんたり:一円相のまわりには真珠がとりかこみ、
玉はさんさんと音を出して鳴っている
鼈(ごう):想像上の大海亀。
圏攣(けんれん):大釣り針。
0796去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/11/05(木) 01:51:42.63ID:PJEZDoM8

陳操尚書:臨済の先輩であった睦州(780?〜877?)の法を嗣いだ大居士。
尚書は長官クラスの地位に対する役職名。
資福:資福:江西省吉州の資福寺に住した如宝禅師。イ仰宗の仰山慧寂の孫弟子。
法系:六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道一→百丈懐海→イ山霊祐→仰山慧寂→?→資福如宝一隻眼
(いっせきげん):坐禅修行によって得られる常人を超えた第三の眼。
一円相(いちえんそう):本来の面目、仏性、などを円形で象徴的に表現したもの。
南陽慧忠国師(645〜775)が元祖だとされる。

?山霊裕、その弟子、仰山慧寂を始祖とする?仰(いぎょう)宗に、禅境(地)を表す円相は付き物といっていい。
昔、国師慧忠の画いた大事な円相97枚を耽源應真から譲り受けた仰山が「アンナもの・・後生大事にするものではない」と燃やしてしまった資福の円相(挨拶)を陳操が特別視していないことに、雪賓は賛同している偈です。
当時、禅境を表現するのに、大変、円相がもてはやされたようです
0797去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/11/05(木) 22:00:36.38ID:PJEZDoM8
碧巌録(へきがんろく)  第34則  仰山不曽遊山(ぎょうざん かって ゆさんせず)

本則
仰山、修行僧に問う、「近離(きんり)いずれの処(ところ)ぞ?」。
僧云く、「廬山」。

山云く、「曽て五老峰に遊ぶや?」
僧云く、「曽て到らず」。

山云く、「闍梨曽て遊山せず」。

雲門云く、「この語 みな慈悲のための故に、落草の談あり」。
?
注:
仰山:仰山慧寂(807〜883)。
イ山(いさん)霊祐(れいゆう)禅師(771〜853)の法嗣。
イ山(いさん)霊祐(れいゆう)とともにイ仰宗の開祖とされる。
法系:六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道一→百丈懐海→イ山霊祐→仰山慧寂
廬山:江西省の北部に位置する名山で古くから山岳信仰の名山とされてきた。
五老峰:標高が1358mの廬山の名所の一つ。
廬山の中でも最もけわしい峰といわれ、五人の老人が肩をならべた形をしている。
落草の談:低い次元に下りた語り方。

廬山の五老峰:盛唐の詩人李白(701〜762)に 廬山の五老峰を読んだ次のような有名な詩がある。
廬山東南五老峰(ろざん とうなんの 五ろうほう)
青天削出金芙蓉(せいてん けずりだす きんふよう)
九江秀色可攬結(きゅうこうの しゅうしょく らんけつすべし)
吾将此地巣雲松(われまさに このちにて うんしょうに すくわんとす)


廬山の東南の五老峰は、青空の中から日に輝いて金色のはすの花を削りだしたようだ。
長江の九つの支流の美しい景色のすべてが、手にとるように見えるので、私はこの地において雲のたなびく松の下にねぐらをつくりたいと思う。

本則
仰山の処に一人の僧がやって来たので、仰山は僧に聞いた、「お前さんはどこから来たのか?」。
僧は言った、「廬山から来ました」。
仰山は聞いた、「では五老峰には登っただろうな?」。
僧は言った、「いいえ、未だ登ったことはありません」。
仰山は言った、「ああ、おしいことをしたな。それじゃあ、お前さん、折角廬山に言った甲斐がないな」。

後にこの話を聞いた雲門は言った、「仰山和尚はこの僧に禅の本質を悟って貰いたいという深い慈悲心から分かり易く語りかけているのだが、残念ながらそれがこの僧には伝わっていないようだな」。
0798去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/11/05(木) 22:06:57.12ID:PJEZDoM8
>>797


出草入草
誰か解(よ)く尋討する
白雲重々
紅日杲々
左顧きずなく
右ケイ(うけい)すれば已でに老いたり
君見ずや寒山子
行くことはなはだ早し
十年帰ることを得ざれば
来時の道を忘却す。


出草入草:雲門の言った「落草」を「入草」に置き換えている。
誰か尋討することを解せん:仰山の対応が「落草」であるかどうか誰が決められよう。
紅日杲々:白雲の間から太陽があかあかと輝き出している。
右ケイ(うけい):右を向く。
寒山子:唐代の伝説的隠者。
確実な伝記は不明。三百余首の詩を残し、九世紀末から禅僧の間で愛好された。
来時の道を忘却す:来た時の道を忘れている。



「仰山の対話は一体俗世間の常識的な対話なのか、あるいは出世間の向上の第一義に関する話だろうか?」。
その真相を尋討して良く分かるのは容易ではない。
我々皆が具有する「真の自己」はあたかも重々と垂れた白雲の間から太陽があかあかと輝き出しているようなものだ。
左を見れば何の差し障りも無く遥か彼方まで良く見えるし、右を見れば「自分がすでに老いた」ことが分かる。
「真の自己」である五老峰に登った人はこのようである。
寒山詩の一節には「寒山拾得は逃げ足早くさっと隠れてしまったこと」や「十年も山の中にいると来た道も忘れてしまうこと」と詠っている。
その詩を君は知っているだろうか?
0799去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/11/05(木) 23:17:40.91ID:PJEZDoM8
仰山は僧に「お前さんはどこから来たのか?」と聞いている。
場所を聞いているのではなく「本来の面目(真の自己)は何か?」という質問である。
しかし、質問された僧はそれが分からず場所を聞かれたと思って正直に「廬山から来ました」と答えている。

この「五老峰」も 廬山の一つの名所ではなく「本来の面目(真の自己)」を表わし 「お前さんは本来の面目(真の自己)を見て見性したか?」と聞いているのである。
これに対し、僧は、正直に 「いいえ、未だ登ったことはありません」と答えている。
仰山は「本来の面目(真の自己)を見て見性する」 という禅の目的を僧に聞いて議論しているのに、 そのことが僧(質問者)に伝わらずすれ違ったままに終ってしまう。
この僧は何を求め何のために出家し修行しているのか反省が全くない。
禅の基本が分かっていない全くの凡僧である。

この対話を聞いた雲門は 「仰山和尚はこの僧に禅の本質を悟って貰いたいという 深い慈悲心から分かり易く語りかけているのだが、
残念ながらそれがこの僧には伝わっていない」 と言って歯噛みして悔しがったのが良く分かる。
0800去れ!イヌヤマ! 外道よ!
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2020/11/07(土) 01:42:36.98ID:B8UJeZwN
碧巌録(へきがんろく)  第35則  文殊前三三(もんじゅ まえさんさん)

垂示
龍蛇を定め、玉石を分かつ。緇素を別ち、猶予を決す。
もし是れ頂門上に眼あり、肘臂(ちゅうひ)下に符あるにあらずんば、往々に当頭に蹉過せん。
ただ如今見聞不昧、声色純真ならば、しばらくいえ、これ皀(そう)かこれ白か。
これ曲かこれ直か、這裡に至ってそもさんか弁ぜん。


猶予を決す:疑惑、疑情を解決する。
頂門上に眼あり、肘臂(ちゅうひ)下に符ある:常人を越えた眼力を具え、魔除けの護符を身につける。
ただ如今見聞不昧、声色純真ならば:知覚が明澄で、一切の事象がありのままに見て取れるならば。
当頭に蹉過せん。:面と向き合っていながらすれ違ってしまう。
皀(そう) :黒。黒い。
這裡(しゃり):本来の面目。
這裡に至って:本来の面目(這裡)至って見性体験した時、

垂示の現代語訳

いやしくも禅の修行者であるならば、目前の相手が龍のような大物か、蛇のような小物か、あるいは価値ある宝石のようなものか単なる石ころのようなものかを見分けることができる。
さらに白黒も弁別し、疑惑、疑情なども解決できるだろう。
もし、常人を越えた悟りの眼を具え、魔除けの護符を身につけたような力量がないならば、事に直面した途端に失敗するだろう。
意識と知覚が明澄で、一切がありのままに見て取れるならば、まあ言ってみなさい、一体これ(本来の面目)は黒いのか白いのか、曲がっているのか真っ直ぐなのか。
本来の面目に至ってこれを体験した時、これをどう表現し議論したら良いのだろうか。
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