阿含宗という宗教295
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このスレッドは阿含宗批判が目的です。 霊感商法、霊視商法をするカルト宗教・阿含宗の宗教詐欺を世に知らしめるためのスレッドです。 ■阿含宗関連サイト■ 考察資料の総合案内「agama考察室」 http://agama.zouri.jp/ 議論スレ:「阿含宗と桐山氏について」(したらば) http://jbbs.shitaraba.net/internet/3419/ 過去のザビビ復活!ザBBS(過去のザビビよるデータをFC2に譲渡) http://thebbs.fc2.com/ (阿含スレは”桐山氏と阿含宗について”) テーマ別の阿含宗批判「agama galage」 http://agon.konjiki.jp/ 過去ログ倉庫:「阿含宗という宗教」 http://agama.zouri.jp/kakoindex.html (1〜100まで) http://agama.zouri.jp/kakoindex2.html (101〜200まで) http://agama.zashiki.com/kakoindexmenu.html (201〜239まで) ※ 以降は5ch(旧称 2ch)が転載防止策を講じたのもあり、転載できなくなっているのもあり、 ※ 239で処理を中断しています。 ※ なので、まとめサイトとしての agama考察室での過去ログ閲覧は239までとし、 ※ 以降はネットで見たい掲示板のタイトルを検索して探して見ることをお奨めします。 過去ログ倉庫:ザビビ「阿含宗と桐山氏について」 http://agama.zouri.jp/kakoindexthebbs.html 阿含経の分析や研究に 「agama 研究室」(アーガマ 研究室) http://agon.genin.jp/ 退会について考えたり相談できるサイト 「agon secession club」 略称ASC http://agama.jounin.jp/ ※前スレ 阿含宗という宗教294 https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1531868994/ >>105-107 この野郎、くだらねえ短文でスレ消費の荒らしを やり続けやがってよお。 テメエの脳みそじゃ修行のスタート地点なんか夢のまた夢よ。 早く病院に行け! この基地外! 氏示www >>105-107 万年コメントについて The Sangha of the Tathagata's disciples (Ariya Sangha) can be described as including four or eight kinds of individuals. There are four [groups of noble disciples] when path and fruit are taken as pairs, and eight groups of individuals, when each path and fruit are taken separately: .............. The first moment of the attainment is termed the path of stream-entry (sot??patti-magga), which cuts through the first three fetters. The person who experiences it is called a stream-winner (sot??panna) (略) 上記から…sot??patti-magga預流向の[向]は[道]という意味の意訳かと??道を行くから果がある(fruit are taken:を使っているから果を得るだけのためのgetではなく自然と得るtake) 普通の人ついての記述もあったけど、文字数エラーと更にスレ違いなので割愛。 >>109 続き 「向が未達」とかの概念を越えているってこと。 1静黙、2調息、3調心、4調身、5瞑想,6入定と止観在るべし、 7停心、この過程は、五下五上分結、心解脱過程で必須の要領。 弘法大師さま御推示の、如実知自心に適う清浄の法座なり。 世に参考文献多し、熱心なる修行者は必ず法に適うもの也。 但し雑言を為し、悪口を日々云い立てる者は、法の徳薄き故。 卒寿に到りても、成就し難きもの、先ず懺悔し罪障消滅を祈れ。 他人の悪口を言って見ても、自分が優れている事にならない。 頭脳明晰な人はどうするのだろう。 向を道と捉えても同じことです。 預流に至る道を歩む者が、預流向だとね。 そして、道を歩む者と、目的地に到達した者とを混同してはいけないよ。仏道を歩んでいるからといって佛に到達したと同じ意味ではない。 到達した者が果なのです。 預流に至る道を歩んでいる者が預流向です。 預流に至る道を歩んでいるからといって、到達したという意味ではない。預流に到達する前に辞めてしまう者もいるからね。預流に到達した者が歩む道は一来に至る道、すなわち一来向となるわけです。 釈迦仏教での聖者とは、定義が明確です。仏陀に成ることが約束された存在であり、最低限でも三結を断じており、悪趣の因縁をも断じており、不退転法を得ている存在です。それが釈迦仏教での聖者です。預流向はこの条件の一つもクリアしていない。聖者であるわけがない。 この聖者なる条件の一つも理解出来ていないのが深山ユビなのです。 だから修行の出だしから間違えているのです。 >>113-116 さんにコメントした訳ではないのですが(笑っ)あなた以外の人にコメント(>>109-110 )しましたので悪しからずです。 京都比叡山で千日回峰行の有様をYOUTUBEで観る事が可能。 白衣の行者は、先ず、不動明王の真言10万遍を唱え修行を行い、 次に、その数10万本の護摩木を投じる護摩行を行う。 八日間不眠、不食、一口の水も呑まない苦行である。 護摩供養法を頭から否定し讒謗を投げかける諸氏は、この映像を腰を据え、 よくよく見てから、ご意見を述べるのが人として有るべき様と思う。 >>110 う2018/08/21(火) 21:57:02.31ID:xSRmn1rh >「向が未達」とかの概念を越えているってこと。 「果」「向」も難しいことは何もありません。 これについての説明は 「果とは、到達した境地のことであり、 向は特定の果に向かう段階のことである。」 というウィキペディアの説明が全てであり、誰でも簡単に理解できる内容です。 こういう説明に私など批判側は反対していないし、異論などありません。 ところが、1.5来補大先生様は、私やユビキタスさんが「果」「向」のこの 定義に異論を唱えていると思い込んでいるのです。 そして、鬼の首でも取ったように、何年にもわたり、「果」「向」の わかりきった説明を繰り返し、これを理解しない深山はアホだと罵り続けている。 何度も、「果」「向」についての説明に反対などしたことがない、と 反論しても、彼の耳には届かない。 1.5来補さんや宝生創価さん以外の信者さんたちに聞いてほしい。 私が指摘しているのは、 指摘1 「預流向=聖者」である、 指摘2 四つと八つの分類を混ぜると、矛盾を生じるから混ぜるべきではない、 指摘3 四向四果はアビダルマの分類であり、厳密さを求めると矛盾する、 というものです。 最初の指摘1については、もはや議論の余地はありません。 「四向四果・・・聖者の四つの位」(『佛教語大辞典』中村元、512頁) 「四向四果・・・四沙門果から発展したもので、原始仏教やアビダルマ仏教において 最高の悟りの境地とされる阿羅漢果に至る聖者の階位。」(『佛教大辞典』小学館、379頁) 明瞭に「四向四果=聖者」と書いてあります。 また釈尊も四向四果のすべてを「神聖なる弟子」と述べており、 預流向だけ別扱いなんて阿含経はありません。 一方、桐山さんも1.5来補さんも「預流向≠聖者」と述べているが、 そんな阿含経も学説も存在しません。 桐山さんは、阿含宗が他教団とは別なのだという意味で信者を 預流向にしたかったが、それを聖者としてしまうと聖者の位階の高値販売が できなくなるから、「預流向≠聖者」としただけです。 桐山さん自身が四向四果を理解していなかった証拠みたいなものです。 __,,,,、 .,、 /'゙´,_/'″ . `\ : ./ i./ ,,..、 ヽ . / /. l, ,! `, .| .,..‐.、│ .| (´゛ ,/ llヽ | ヽ -./ ., lliヽ .| /'",i" ゙;、 l'ii,''く .ヽ / ...│ ゙l, l゙゙t, ''ii_ :.! : /.._ / ヽ \\.`゙~''''''"./ .|-゙ノ/ : ゝ .、 ` .`''←┬゛ l゙ /.r ゛ .゙ヒ, .ヽ,  ゙̄| . | ./ l ”'、 .゙ゝ........ん l / ヽ .`' `、、 .,i゛ .l| ! 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" .| :! ! │ │ :!:| ,! i ,! :! , .l, / .l゙ ! :! | , l. | .| :, : v'" .! |'i .ヽ, ./ :! .ヽ _, _/ / .l ゛ ._/ :l゙ 「指摘2四つと八つの分類を混ぜると、矛盾を生じるから混ぜるべきではない、」 ここでいう、四つと八つとは次のことです。 四つ「預流、一来、不還、阿羅漢」 八つ「預流向・預流果、一来向・一来果、不還向・不還果、阿羅漢向・阿羅漢果」 四つは四沙門果、八つは四向四果や四双八輩と言われています。 この二つの分類を桐山さんも1.5来補さんもグチャ混ぜにして議論している。 だが、それをすると矛盾が生じます。 そこで私は両者を混ぜた場合、どんな矛盾が生じるか、次の例を出した。 預流=預流向+預流果 一来=一来向+一来果 不還=不還向+不還果 阿羅漢=阿羅漢向+阿羅漢果 これは私が作ったものではなく、ウィキペディアの四向四果に 大筋で、このように分類してあるからです。 このように私が主張しているのではありません。 私は混ぜてはいけないと主張し、混ぜると矛盾が生じる例として出したのです。 混ぜた事例として出したのに、1.5来補さんの頭では深山説だと決めつけて、 嘲笑っている。 何度、これは私の説ではなく、混ぜると矛盾する例だと説明しても彼には理解できない。 「指摘2 四つと八つの分類を混ぜると、矛盾を生じるから混ぜるべきではない、」 混ぜると矛盾が明瞭なのは、 「阿羅漢=阿羅漢向+阿羅漢果」 です。 煩悩が残った者でも阿羅漢ということになってしまう。 なぜそんな矛盾が生じたかは、言うまでもなく、四つと 八つの分類を混ぜたからです。 1.5来補さんは鬼の首でも取ったかのようにこの矛盾を指摘して、 深山説が間違っていると嘲笑っているが、これは私の説ではない。 混ぜるとどうなるかという一例です、と何度説明しても 彼の頭にはいっさい入らない。 桐山説や1.5来補説は四つと八つの分類を混ぜています。 1.5来補説によれば、 「預流=預流果」 だという(桐山説とは違う)。 だが、これをすれば矛盾を生じます。 それが、では預流果という比丘は存在するのか、という疑問です。 預流果は三結を断じた状態ですから、そこでほんの少しでも欲貪と瞋恚を 減らしたら、預流果ではなく一来向になってしまう。 減らさないでいる比丘なんていませんから、預流果、一来果、 不還果などという階位の比丘は存在しないことになる。 存在しないなら、何のための分類したのか? このような矛盾を1.5来補さんに指摘しても、矛盾を理解できない。 「指摘2 四つと八つの分類を混ぜると、矛盾を生じるから混ぜるべきではない、」 三結を断じて、欲貪と瞋恚を減らさないようにするなんて比丘が いるはずがないから、預流果の比丘など存在しないことになる。 1.5来補説では「預流=預流果」で、預流果が存在しないのだから、 預流は存在しないことになる。 同様に、一来も不還も存在しないことになる。 この指摘に対して、1.5来補さんは 「預流果=一来向」 という更なる詭弁を並べた。 こんな屁理屈を並べたらどうなるかというと、 「預流=預流果=一来向」 となってしまう。 これらが同じ階位なら、なんのために預流、預流果、一来向などと 細かく分類する必要があるのか、変です。 しかも、そんな分類が正しいなら、四向四果とは、 「預流向、預流果、一来果、不還果、阿羅漢果」 となり、これは四向四果でなく、一向四果の5種類になってしまう。 つまり、1.5来補説の「預流=預流果=一来向」は間違いであり、成り立たない。 これをいくら1.5来補さんに説明しても、彼には理解できない。 矛盾を指摘されたことも彼の頭では3秒で消去される。 「指摘2 四つと八つの分類を混ぜると、矛盾を生じるから混ぜるべきではない、」 このように、四つと八つの分類を混ぜて使おうとすると どのように混ぜようが、矛盾してしまいます。 だから結論は、「混ぜてはいけない」。 四つと八つの分類のそれぞれに対比や対応をつけてはいけない。 両者は同じ内容の分類で、言葉も似ているから、 一見、対応するかのように見えるが、別物です。 では、これらはどのように考えればよいでしょうか。 そのヒントが次の言葉です。 「四向四果・・・聖者の四つの位」(『佛教語大辞典』中村元、512頁) 八つの階位ではなく、四つだという点です。 私はこれを小学校から大学までに例えた。 四つの分類とは、小学校、中学校、高校、大学で、 八つの分類では、「向」は生徒を、「果」は資格を表す。 例えば、預流向とは小学生であり、預流果とは小卒資格です。 小学生は人間だが、小卒資格は人間ではありません。 同じ内容だが、両者を混ぜないほうがわかりやすい。 1.5来補さんがこれを真似て、受験生なんて意味不明の例えを持ちだした。 普通、例えとは、わかりにくい物をわかりやすい物に置き換えるのだが、 彼が例えるとますます何だかさっぱりわからなくなる。 指摘3 四向四果はアビダルマの分類であり、厳密さを求めると矛盾する、 気を付けるべきは四向四果は後世のアビダルマによる分類だという点です。 四沙門果という四つの分類よりも、四向四果という八つの 分類は後に作られたというのが多くの学者の説です。 釈尊は四向四果に相当することは大まかにはおっしゃっているが、 それを整理して体系づけたのはアビダルマ仏教です。 釈尊時代には大まかな四つの階位があっただけで、 「向」「果」は後に体系化された。 だから、「聖者の四つの階位」なのです。 アビダルマは体系づけられているから、いかにも理知的です。 桐山さんなどシチカ三十七道品などと引用して、 さも何かわかったかのような顔をした。 しかし、三十七道品の分類が「適当に」数字を付けて並べたように、 四向四果も四沙門果と整合性をきちんととることなく、 「適当に」並べたにすぎません。 それなのに両者の分類を混ぜて使えば矛盾するのは当たり前です。 指摘1「預流向=聖者」である、 信者さんたちにとって重要なのは上記です。 もう一度学者の解説を引用します。 「四向四果・・・聖者の四つの位」(『佛教語大辞典』中村元、512頁) 「四向四果・・・四沙門果から発展したもので、原始仏教やアビダルマ仏教において 最高の悟りの境地とされる阿羅漢果に至る聖者の階位。」(『佛教大辞典』小学館、379頁) 子供が読んでも、四向四果のすべてが聖者であると述べているのがわかります。 「預流向=聖者」であることは小学生でもわかります。 1.5来補さんや宝生創価さん以外の信者さんたちは理解できたでしょう。 1.5来補さんは今後も同じことを書き続けるし、宝生創価さんは 何を説明されているのかさえも理解できない。 桐山さんは「預流向≠聖者」ととれる文章を残してしまった。 なぜなら、彼は四向四果の中身を理解していなかったからです。 『人間改造の原理と方法』にある四向四果の記述もメチャクチャです。 「預流、預流果、一来、一来果、不還、不還果、阿羅漢道、阿羅漢果」 (『人間改造の原理と方法』183頁) 桐山さんの上記の四向四果の分類と、一般に言われている下記の分類と 比べてください。 下記の分類は私の分類ではなく、どの解説書を読んでもこのように書いてある分類です。 四つ「預流、一来、不還、阿羅漢」 八つ「預流向・預流果、一来向・一来果、不還向・不還果、阿羅漢向・阿羅漢果」 桐山さんは四沙門果(四つ)と四向四果(八つ)をゴチャ混ぜにしているだけでなく、 四向四果の八つの分類にさえもなっていない。 桐山さんは四向四果の意味もわからずに羅列したのです。 桐山さんの仏教理解はこんな程度なのですよ。 桐山さんの分類は1.5来補さんの分類とも違います。 桐山説こそがここでのテーマだから、1.5来補説は引っ込めてほしいが、 彼はこれからも毎日針の飛んだレコードのように叫び続けるでしょう。 本を書いた当時、桐山さんは阿含経を元にした阿含宗の立宗を宣言していた。 それであわてて、付け焼刃的に阿含経を勉強したから、一知半解なのです。 いかにも阿含経を学び、体得して、それで阿含宗を立てたかのような 言い方をしているが、嘘なのが、こういう所でばれる。 桐山さんを信じるのは信者さんたちの自由だが、 こんな基本も理解できず、稚拙な間違いをして 「預流向≠聖者」と書いた。 これは教義の間違いという簡単な事ではない。 これも如来への誹謗中傷の一つです。 預流向は聖者なのに、その聖者に向かって聖者ではないと 桐山さんと1.5来補さんは罵っている。 釈尊時代の信者にも預流向はたくさんいたはずです。 その彼らを聖者ではないと罵倒している。 1.5来補さんなど十数年に渡り、この十カ月ほどはほぼ毎日のように 聖者である預流向に向かって、聖者ではないと罵声を浴びせている。 1.5来補さんは私のこの書き込みの後も、むきになって 向と果のお説教をして、預流向を聖者ではないと罵り続けるでしょう。 この悪業の報いは彼自身に返っていく。 私が信者さんたちにお勧めするのは、こんなことで悪業を作り、 三悪道に堕ちるのは1.5来補さんにお任せして、 聖者である預流向を聖者であると認めることです。 預流向は、至心発願せし時の人、これ初発心の聖なる行者です。 菩提発心より修行し遂に成道せる人は仏陀です。 預流向は一端(一番端っこの仏弟子)にして彼の先達であります処の。 四果の聖者は救済力を発し、自他ともに救いの祈りを実現します。 是有るが故に,尊信の活仏と認められ供養をされるのです。 なあんだ、説明すると簡単じゃないですか、深山さんよ。 >>118 >護摩供養法を頭から否定し 何方が護摩供養法を頭から否定しているのでしょうか? 阿含宗は『釈尊直説の阿含経を依経としている』と言うから護摩を炊くのは可笑しいではないか?と言っている訳ですよ。 ここは阿含宗の批判スレです。天台宗を出してもスレ違いです。 良く考えて意見するべきかと。 >>132 桐山師は阿含仏教を再生させる密教と言う構図を 示して、立宗した。 阿含の護摩供養法とはその精化ともいうべき位置にある。 そして他の仏教宗派へも阿含仏教の根本である釈迦の成仏法を 採用せよと勧める。 \/ ヽヽ レ | ──, ‐┼‐ / ‐┼‐ / / | /-、, | / | / \__ / ○' `つ //\ノ `つ //\ノ .,i「 .》;ト-v,|l′ _,ノ゙|.ミ,.゙'=,/┴y/ 、──┬---、_ .ノ .il|′アll! .>‐〕 \ _>< \ l| l|  ̄^irー.,_i″ ||}ーvrリ、 ¨'‐.` { \l| ll l| l|~'ー.,,_ .》′ ゙゙ミ| ,r′ } \ l| ll l| l|゙`ー-┬ト .ミノ′ 〕 \l| l| ll ll / / :、_ リ .} \ l| ll ll / / 、 ゙ミ} :ト ゙ ヾー、_l| l| / / :!., リ ノ 〔 ` ~'‐亠ノノ i゙「 } .,l゙ l! .´゙フ'ーv .,y ] '゙ミ | ,/゙ .ミ;.´.‐ .] ミ, | ノ′ ヽ 〔 ミ } } ′ } { .| .ミ .< 〔 〕 .{ \,_ _》、 .{ .} { ¨^^¨′¨'ー-v-r《 〔 >>133 >阿含仏教の根本である釈迦の成仏法を採用せよと勧める。 阿含宗こそ阿含仏教の根本である釈迦の成仏法を採用したら如何か? 釈迦が禁止した護摩や占いを止めハ正道を実践すること。 あくまでも釈尊に逆らって護摩を炊きながら骨を拝む?何スカそれ! 136 作すべき事柄と、教学の乖離を指摘したいのだろう。ほ 参考迄に先ずは、ゴマ作法次第を入手して考慮すべし。 先人の論を丸呑みするのは、怠惰かも? >>137 さん横槍失礼 >> 136 作すべき事柄と、教学の乖離を指摘したいのだろう。ほ 作すべき事柄はアゴンは集金に走るということで、「教学」と言い放つこと自体も釈尊の教えからの乖離かと。ほ←は何かわかりませんがw > 参考迄に先ずは、ゴマ作法次第を入手して考慮すべし。 現役時代に桐山さんからアゴンのゴマ免状いただいていますw > 先人の論を丸呑みするのは、怠惰かも? 己の事と知れ >>121 >>134の様な投稿は… よく小学生の書きそうなイタズラ書きで…というのは、どういう意味かわかります? 次元が低いとかではなくて「投稿者はソレにコンプレックスを持っていらっしゃる」そう読み取ってしまうのですw >>138 > >>137 さん横槍失礼 > > >> 136 作すべき事柄と、教学の乖離を指摘したいのだろう。ほ > > 作すべき事柄はアゴンは集金に走るということで、「教学」と言い放つこと自体も釈尊の教えからの乖離かと。ほ←は何かわかりませんがw > 「あ」!宝生の「ほ」。 >>137 桐山さんから護摩の許状いただいているけど(笑) スレ違いのじいさん何が言いたいのかな、スレの趣旨に沿って書けよ。 >>136 を良く読んで理解して書くこと。 お仏:夢としては、 般若はらみたにする、概念形象言語 は一定に則ち、形ならず有象無象での 断面乃び接続線にと倣い況して、28若しくは27の現象な印象的事実に、平和と祈りにある曼陀羅における対話葛藤を分つ。 実存的メタルフォモ―ゼ並びに経験的に 構造と脱構築とな・るかもしれなしい >>131 神も仏も名無しさん2018/08/23(木) 00:37:50.88ID:ZoaRPern >なあんだ、説明すると簡単じゃないですか、深山さんよ。 何がどう簡単なのですか? それで宝生創価さんの結論は何なのだ? 預流向は聖者なのか、聖者ではないのか? >>129 に示した桐山さんの四向四果の分類を あなたは正しいと主張するのか、それともデタラメだと言うのか? 六行にわたり書きながら、あなたは何一つこれらのことについて書いていない。 預流向の話なんてあなたは意味がわからないのでしょう? 宝生創価さんは議論のテーマに脳を集中できず、 預流向の何を議論しているのか理解できない。 1.5来補さんが何を主張し、また>>119 以降に私が書いた内容を理解できない。 話題に付いていくだけの知識も理解力も忍耐力もない。 何よりないのが謙虚さです。 自分の知性や知識の不足の自覚がなく、それを補うために 脳の隙間に入れたのが慢心です。 慢心を満たすために、あなたの常で、自分の頭で理解できないと、 話題を自分の頭の中にあるわずかばかりの話に置き換えてしまう。 私が宝生創価さんの持病、慢性病と呼んでいるのがそれです。 だから、四向四果の議論をしている時に、関係のない祈りの話を持ちだした。 慢心ばかり強烈だから、これほどピント外れな発言をしても、 自分ではものすごく気の利いた主張をしていると思い込んで、 「簡単じゃないですか」などと一人で浮かれている。 「宝生創価先生御病気. 釈尊は祈りを説いた」 >39 神も仏も名無しさん 2017/10/07(土) 16:42:32.84 ID:aWB7202y >お釈迦様の持たれた欲は人を助ける意向。 >助けられる人が自分は死んでもそこから大丈夫と言う次元まで救済する。 >お釈迦様は日々祈り、説法を行い、乞食行をし。 >46神も仏も名無しさん2017/10/08(日) 02:13:14.51ID:h0YJ/utH >お釈迦様が、信徒、修行者の幸が多かれと一心に祈らないなら「彼は佛様ではない」 >388 :神も仏も名無しさん:2016/05/25(水) 23:00:59.55 ID:FHYq9Z3m > 御釈迦様が祈ったとは、地域の神や仏によろしくこの件の > 解決を頼みます。という事だよ。 >329 :神も仏も名無しさん:2016/05/24(火) 15:32:32.18 ID:jDYt3hoX >御釈迦様は祈りましたよ、土地の神、祖霊、龍神、古から続行している >仏界の諸仏の方々です。 >>131 神も仏も名無しさん2018/08/23(木) 00:37:50.88ID:ZoaRPern >四果の聖者は救済力を発し、自他ともに救いの祈りを実現します。 また宝生創価さんの持病「釈尊は祈りを説いた」が発症した。 釈迦仏教には祈りや祈願などないと何度説明されても理解できない。 あなたの頭の中にあるのは、私が慢性病と揶揄した十項目くらいしか 入っていないから、繰り返しそれが出て来るだけです。 学習機能が付いていないから、修正が効かない。 売れないお笑い芸人のワンパターンのネタです。 聞いているほうはもうウンザリしているのに、宝生創価さんは 記憶にないから、常に新しいネタと思い込んで、得意気に語る。 上記のあなたが吐いたゲロの一覧表を見なさい。 1.5来補さんと同じで、脳に学習機能が付いていないから、 他人の指摘が理解できず、独り言をくり返すだけです。 >>131 神も仏も名無しさん2018/08/23(木) 00:37:50.88ID:ZoaRPern >四果の聖者は救済力を発し、自他ともに救いの祈りを実現します。 釈迦仏教には「救いの祈り」などありません。 主張するなら、宝生創価さんの無知を書くのではなく、 根拠を示しなさい、と何度言われもそれさえ記憶できない。 釈迦仏教には「救いの祈り」などありません。 宝生創価さんのいう救いとは、良縁成就、資金順調、病気平癒などの 阿含宗でやっている四文字祈願のことです。 釈尊はそんなことは説いてもいないし、実際にしてもいない。 普通の人は、阿含経にない、と言われたら、自分で調べる。 1.5来補さんでさえもそれをした。 だが、宝生創価さんのオツムはそうではなく、三分できれいに忘れて、 また、自説の「救いの祈り」が出てくる。 宝生創価さんはこんな程度の理解力や記憶力なのに、強烈な慢心があるから、 自分では知性に優れ、仏教を理解していると思い込んで、 何をどう指摘されようが、蛙の面に水で、恥を恥とも思わない。 宝生創価さんのその救いようのない理解力と慢心をあなたの神仏に祈って 救ってもらってください。 自分のピンボケぶりがどれほどひどいか自覚がないのは幸せなことです。 次の護摩についての書き込みも同様でピントの大ボケです。 >>118 神も仏も名無しさん2018/08/22(水) 21:24:16.37ID:6BrT/bAp >護摩供養法を頭から否定し讒謗を投げかける諸氏は、この映像を腰を据え、 >よくよく見てから、ご意見を述べるのが人として有るべき様と思う 宝生創価さんは何を言いたくて千日回峰行を出したのだ? 預流向の件と同じで、何を言いたいのかさっぱりわからない。 阿含宗の護摩を擁護したいなら、阿含宗の護摩を出しなさい。 桐山さんがいつ千日回峰行をしたのだ? 阿含宗がいつ真言十万遍を取り入れたのだ? 比叡山の護摩なんて阿含宗とはまったく関係ない。 それどころか、桐山さんは他の教団の護摩を批判し、否定した。 彼らの護摩には釈迦の成仏ホウがないというのです。 阿含宗の護摩だけがシャカの成仏ホウがある本物で、 密教の護摩はただの焚火だというのです。 宝生創価さんはいかにも密教に詳しいかのような書き方をするが、 あなたが実は桐山密教さえもろくに理解していないことが こういう時にわかるのです。 桐山さんは比叡山など伝統密教を様式化され、法力のない密教だと批判した。 そして、自分こそがインドの古代密教や日本の古代の秘法を学んで、 様式化していた求聞持聡明法や大随求法などを体得したと宣言し、 その証拠の一つとして念力の護摩を焚いた。 この桐山阿含宗の護摩を擁護するのに、桐山さんが否定した比叡山の 護摩を出して、何の役に立つのだ? 阿含宗を擁護するのに創価を持ちだしたようなものです。 >>133 神も仏も名無しさん2018/08/23(木) 20:10:23.25ID:ZoaRPern >桐山師は阿含仏教を再生させる密教と言う構図を >示して、立宗した。 間違いです。 「密教という構図」など示していません。 阿含経にあるオシャカの成仏ホウを示して、立宗したのです。 密教は単に様式を採用したにすぎない。 なぜなら、桐山説では、密教は成仏ホーが脱落して、 力が何もないと、と桐山さんは繰り返し批判してきたからです。 桐山ゲイカは、 空海は法力を体現していたが、その法は失われ、様式化している、 伝統密教は手踊りをしているただの観念宗であり、なんら それを現実世界に影響する力がない、 作法はあるが、「法」も「法力」もない、 と厳しく批判した。 失われた法力を体得したのが桐山ゲイカであり、本当の密教を 再興させるために「密教界の鬼」としてデビューした! 全密教を敵に回してでも、本物の密教を世に出し、 新しい時代に対応できる求聞持脳を持った人類を創生せねばならぬ! そうでなければ人類は滅亡する! 法力のある本物の密教の阿闍梨が今こそ誕生したのだ!! と言うのが、桐山さんが『変身の原理』などを書いて世に出た頃の姿です。 四十年後の今から見れば、もちろん、完全なインチキ、デタラメ、嘘、 虚言、絵空ごと、妄想、詐欺なのだが、当時は多くの人が騙された。 密教関係者だけでなく、宗教一般の人たちからも着目され、 最初の頃はたくさんの学者や僧侶の支援者が集まった。 しかし、何年かたつと、桐山さんの前科や学歴詐称や阿闍梨詐称など 虚言癖と詐欺師ぶりが暴露され、これらの支援者は潮が引くように去った。 もちろん、桐山さんは宝生創価さんと同じで、反省心は皆無で、 逆恨みの復讐心に燃え、阿含経を使って次の宗教詐欺をした。 >>118 神も仏も名無しさん2018/08/22(水) 21:24:16.37ID:6BrT/bAp >護摩供養法を頭から否定し讒謗を投げかける諸氏は、この映像を腰を据え、 >よくよく見てから、ご意見を述べるのが人として有るべき様と思う 桐山さんは他の密教を法も法力もないと否定したのだから、 比叡山の護摩も桐山さんは否定した。 否定した護摩を引き合いにして、宝生創価さんは何を言いたいのだ? 阿含宗の擁護にもなっていないのがわからないのでしょう? 預流向の話と同じで、テーマに頭を集中することができず、 「脳がすべってしまい」、阿含宗の話ではなく、護摩一般に話がずれる。 理解できないなら口を出さなければいいのに、無知の自覚なく、 慢心ばかり強いから、自分のエラサを示したくて、無知が口から漏れ出る。 宝生創価さんは現役時代も職場の人から「今、そんな話をしているんじゃない!」 と怒鳴りつけられたことが何度もあったでしょう? だが、あなたは強烈な慢心しかないから、自分を反省するのではなく、 怒鳴りつけた奴が馬鹿で、ヲレ様の御高説が理解できないのだと内心 相手を小馬鹿にさえもしていた。 今も、私の指摘を読みながら、同じ反応ですよね。 だから、何十年たっても何の進歩もない。 >>137 神も仏も名無しさん2018/08/24(金) 01:37:19.54ID:4PIc2DZm>>141 >136 作すべき事柄と、教学の乖離を指摘したいのだろう。 宝生創価さんの知性では、何を指摘されたかさえも理解できない、 ということがこういう時にわかる。 136さんは、釈迦仏教と密教の護摩は矛盾すると指摘しているのです。 釈尊が禁止した護摩を焚くのは、どんな屁理屈をつけようがおかしい。 だが、宝生創価さんは何を指摘されたのかわからないから、 護摩の作法の問題なんだと解釈して、お次第の話に「脳味噌がすべった」。 あなたの頭の中にない事を書かれても理解できないから、 頭の中にある話題に置き換える。 理解力の低さを隠すために、漢文調の文体や、小難しい単語を用いて、 自分が深い知性があるかのように粉飾する。 宝生創価さんは1.5来補さんと同じで、まともに議論どころか、 会話すら成り立たない。 阿含宗の擁護さえも興味がなく、宝生創価先生様がいかにエライかを 示したくて、預流向の話など意味がわからなくても、偉そうに口を出す。 youtubeをちょっと見ると、どれほどピント外れでも、ここに自慢気に 出さないではいられない。 まるで小さい子供が「お母さん、ボク、ウンチでたよ」と 食事中に自慢しているような光景です。 冗談ではなく、宝生創価さんや1.5来補さんは親からこういう時に 誉めてもらえず、むしろけなされ続けた。 あなた方の親は、桐山さんの親と同じで愛情が少なかった。 その結果、今のあなた方のような歪んだ性格と知性を作り上げたのです。 宝生さんは比叡山の千日回峰阿闍梨のことを、あんな程度の者はいくらでもいると例祭法話で発言していたことを知らないのですか? 人間改造の原理と方法の本は1977年発行だから、四向四果の調査が不十分であったと言える。が、その5年後に発刊された輪廻する葦の本の258ページの四果の説明は経典と照らし合わせて正確である。これはやむを得ない。最初に世に出す場合、完全無欠は困難であろう。 深山くんは人間改造の原理と方法の本をあげつらうよりも、その後に発刊された輪廻する葦本の258ページで学びたまえ。なぜ不備な方に拘るの?佛教語大辞典の四向四果の説明だけでなしに、岩波仏教辞典の四向四果の説明からも学ぶことだね、説明が改良されているからね。 仏道を歩む者だからといって、その者が仏というわけではないよね。勿論、仏の場合もあろうがね。預流道を歩む者だからといって、その者が預流なのではない。この場合は、預流道を歩む者が預流の場合がないのだね。 理解し難いだろうがね。 例えば、深山ユビが阿含仏教に入門して預流になる修行を始めた場合、それを預流道を歩む者という。しかし、聖者の預流に到達したわけではない。預流道を歩んで三結を断じて悪趣の因を断じたら預流に到達したというわけです。 >>131 神も仏も名無しさん 2018/08/23(木) 00:37:50.88 ID:ZoaRPern >預流向は、至心発願せし時の人、これ初発心の聖なる行者です。 >菩提発心より修行し遂に成道せる人は仏陀です。 >預流向は一端(一番端っこの仏弟子)にして彼の先達であります処の。 >なあんだ、説明すると簡単じゃないですか、深山さんよ。 間の救済を除いてしまえば、あなたがどういう意図でこれを書いたかは別として、全くその通りで、 今日も吠えてる妖怪ヨル公さんに教えてやれよと言いたくなる。 つまり預流向は初発心の聖なる行者、預流向=聖者です。 もちろん同じ聖者でも成道せる仏陀と同格であるはずがなく、大きな差があるのは当たり前です。 しかし聖なる行者、聖者なんです。 だからあなたが言う通り簡単な話なんだから、これを妖怪ヨル公さんに説明してやりなさい。 聖者を言葉の響きだけで完成者とみなすから、ヨル公さんのような間違いをする。 完成者が聖者ならば預流向ではない預流果もまだ欲貪も瞋恚も断てておらず残しているのだから聖者であるはずがない。 聖者は阿羅漢果だけになります。 しかし聖なる業に励む人たちという意味ならば、向も果も皆聖なる集いになります。 非常に簡単です。 【四向四果】 〔阿羅漢〕は今生の終りに悟り(涅槃)に至り再び三界には 生まれない位をいう、この位に到達した者を(無学)といい これ以前の聖者(七輩)を(有学)という←岩波仏教辞典 仏教学者が仏教辞典に預流向は聖者だと書いてある。 簡単じゃん。 >>151-154 情報が古くさいな〜〜。 妖怪ヨル公さん、あなたねえもう時代は進んで 桐山先生もお陀仏で、二代目阿含傀儡宗になってるんだよ。 ヨル果 ヨル向なんかどうでもいいの。 いまの阿含傀儡宗では、目指せ本山護魔同士なんだよ。 護魔木たくさん買うて、人をジャカスカ入会させて、 護摩札も大量に売りさばいて、お盆の万燈勧進もバカバカやって それでレンタル本山護魔同士になって これが聖者なんよ。 ヨル向 ヨル果はいまの阿含傀儡宗では古いねん。 道場に行かな過ぎて 最新情報知らないんだな。 ま妖怪ヨル公さんは、まだ千座行をやってたりして。 三世因縁解脱 大白身法 準提尊千座行和讃 読誦〜〜♪ とか やってんじゃねえの www 氏示! 以前「精神科行った」と言ったとか?そう深山さんたちにほのめかせたのは何故ですかね…。此処が引っ掛かっていたのです。>>156 さん投稿でキチンと彼崇拝の辞書にも載っているのに変ですよ。 パーソナリティー症候群装って、深山さんたちを卑しめているとしか思えない。違うなら今すぐ病院へ行って欲しいですね。 宝生さんにしても変過ぎます。 お二人の関係が、アゴンの雇い人(宝生)と雇い主(ヨルコウ)に見えてしまいます。 >>158 修正 >パーソナリティー症候群 ↓ パーソナリティー障害症候群 >>158 続き さりげなく「輪廻する葦」の宣伝(>>152 )を入れ始めたヨルコウコメントも奇妙。その出版すら何故いま? 明らかに此処を意識されているように感じます。 ユビキタスさんは擁護派時HNを使われて批判をされているとのこと、これは凄い決心と勇気がいることです。 逆に以前の擁護派論客(>>67 さんコメント)も現在批判に転じるもののコメント出来ないでいるかもしれません。 その方たちが「輪廻する葦」本切っ掛けで今度は批判派としてコメントされるかもしれない。輪廻する葦に浮かれていないで心されたほうが良いと思います。アゴンの行動は「輪廻する浮草」なのですから。 …あくまでも所感ですw これ以前の聖者(七輩)を有学という、なんて書いたホラ吹き野郎w、岩波仏教辞典にはそのような説明はない。ホラ吹き野郎の批判派め、そのようにしてますます批判派は世間の信用を落とすわけですな。 「阿羅漢果を無学位という(それ以下の不還・一来・預流果を有学という」←岩波仏教辞典の阿羅漢の項。これが岩波仏教辞典の説明だ。どこに預流向が聖者だなんて書いてあるか?ホラ吹きめが。深山ユビでさえ書いていないデタラメ書いて、ますます批判派の足を引っ張るアホ 「〈向〉は修行の目標,〈果〉は到達した境地を示す、預流とは聖者の流れに入ることで最大7回人と天の間を生まれかわれば悟りを開く位」←岩波仏教辞典。説明を読んでも意味を読み取る知恵がないと、話にならない。 「〈向〉は修行の目標,〈果〉は到達した境地を示す、預流とは聖者の流れに入ること」←岩波仏教辞典。この説明で、預流向も預流果も聖者の流れに入っていると解釈されたのでは話にならない。仏教学者もお手上げだよ。 >>161 〜>>162 岩波仏教辞典第二版 422ページ上から22行目 四向四果の項の下から5行目 良く読んでから言いなさいね。 >>156 神も仏も名無しさん2018/08/24(金) 20:58:07.48ID:JdZ3xyFX >仏教学者が仏教辞典に預流向は聖者だと書いてある。 「四向四果 <阿羅漢>は今生の終りに悟り(涅槃(ねはん))に至り再び三界には生れない位をいう. この位に到達した者を<無学>といい,これ以前の聖者(七輩)を<有学(うがく)>という」 (岩波仏教辞典422ページ 第二版 2002年) たしかに>>165 でも示されたように、上記のように書いてあります。 「聖者(七輩)」とあり、七輩とは預流向から阿羅漢向までを 指し、それが聖者だというのだから、「預流向=聖者」だと小学生でもわかります。 私も何度も十年近くもこれを引用して、「預流向=聖者」だと指摘したが、 結果は、>>161-164 のように、「ホラ吹き野郎」「ホラ吹き」「デタラメ」 とあるように1.5来補さんにはまったく効果がありません。 彼は「深山ユビさえも書いていない」とあるが、私は上記の説明を 過去に何度も何度も引用して示しましたから、書いています。 岩波仏教辞典の他にもいくつかの仏教辞典の学者の解説を引用して「預流向=聖者」だと 指摘しても、彼の脳味噌には何の効果もありません。 実は岩波仏教辞典の第一版には書いてありません。 二版は大幅に改定されているので、1.5来補さんには何度も二版を買うように勧め、 最近やっと買うと、自慢気に逆に私に二版を見るようにお説教を垂れる有様です。 脳が無知と無恥と慢心で満たされているので、手が付けられない。 【四向四果】 〔阿羅漢〕は今生の終りに悟り(涅槃)に至り再び三界には 生まれない位をいう、この位に到達した者を(無学)といい これ以前の聖者(七輩)を(有学)という←岩波仏教辞典 無学以前の聖者(七輩)とは、阿羅漢向、不還果・不還向、一来果・一来向、預流果・預流向ですよ。 うさん、おはようございます。5chデビューしました。ヨル公さん焦りまくり(笑) >>151 神も仏も名無しさん2018/08/24(金) 16:00:43.82ID:sJDcIfdI >人間改造の原理と方法の本は1977年発行だから、四向四果の調査が不十分であったと言える。 これは笑える。 桐山説は間違いだと認めるのですね? 桐山ゲイカを否定するのだ! 1.5来補さんの尊敬する桐山仏陀様がこんな初歩的な知識を間違ったまま 阿含宗を立宗したと認めるのだ! 四向四果なんて1.5来補さんでも理解できる内容なのに(理解したつもりなんでしょう?)、 仏陀の智慧をお持ちの桐山ゲイカは理解できなかったと批判するのだ!? 阿含宗を立宗するにあたり、阿含経を徹夜で読みふけり、 そこからシャカの成仏ホウを体得した桐山さんが、四向四果など 初歩的な基本概念の調査が不十分? 解脱の過程の根幹でもあり、この三年後には四向四果の阿那含を自称する 桐山さんが調査不足で間違ったというのですか? 師に向かって、どこまで無礼なことを言うのだ。 >>167 さんw(*´∀`)ノ > 深山ユビでさえ書いていないデタラメ書いて、ますます批判派の足を引っ張るアホ(>>162 ) …ですってw パーソナリティー障害症候群なら「批判派のアホの証明」とひとくくりにコメントするでしょうに。ねーwどなたなんでしょうかヨルコウサンって。 なかなか拝読できずだったり突然長期消えたりいきなりの連投wだったりしますが、よろしくお願いします。 >>151 神も仏も名無しさん2018/08/24(金) 16:00:43.82ID:sJDcIfdI >人間改造の原理と方法の本は1977年発行だから、四向四果の調査が不十分であったと言える。 1.5来補さんは相変わらず四向四果(八つ)と四沙門果(四つ)の区別がつかないから 師を貶めるようなことを言えるのです。 あなたは『輪廻する葦』の事例を出しているが、 あれは四向四果ではなく、四沙門果です。 桐山さんの四向四果の分類は阿含宗の内部においては何の問題もない。 なぜなら、桐山さんが四向四果を出したのはたった二度しかない。 一度目が『人間改造の原理と方法』で、もう一つがあなたも 前に引用した下記の預流向です。 「わたしたちは外道凡夫ではありません。もうすでに聖者に向かって、一生懸命 に修行しています。完全に須陀オンになっていないまでも、須陀オンに近くなって いる人たちもいます。須陀オンにどんどん向かっているのですからーーこれを 須陀オン向といいますーーみなさんは外道凡夫ではありません。」 (『仏陀の真実の教えを説く阿含経講義 上』373頁) ここに須陀オン向、つまり預流向が出てくる。 私の知る限り、桐山さんの本で預流向が出てくるのはこれが唯一です。 しかも、この本の元となった『ダルマチャクラ』に掲載された文章には、 「これを須陀洹向といいます」という文章はありません。 つまり、本として出す時に編集者が勝手に付け加えた。 ただ、編集者が付け加えても、生前桐山さんの名前で出たのですから、 彼が付け加えたことになる。 くり返すが、桐山さんの本で預流向が出てくるのはこれがたった一度です。 しかも、これは『人間改造の原理と方法』の桐山説四向四果と矛盾などしません。 >>161-164 提案します! ヨル公さんは、一宗を立てるべきですね〜w 阿含宗では岩波仏教辞典を拠所にはしておりません。 ヨル公の主張の根拠は岩波仏教辞典だけです。 ゆえに妖怪ヨル公は、次の名前の宗旨を立てて それに伴ってスレッドも建立。そこに移転するのが道理です。 『岩波仏教辞典阿含ヨル公宗』 ちと長ったらしいが、誰も入信しないからいいでしょう。 それから妖怪ヨル公、 おまえな「岩波仏教辞典阿含ヨル公宗を語ろう」スレを立てて そこに移転して二度とここに来るな! いいなボケ爺www 氏示! 桐山説四向四果「預流、預流果、一来、一来果、不還、不還果、阿羅漢道、阿羅漢果」 (『人間改造の原理と方法』181頁) 桐山さんは『仏陀の真実の教えを説く阿含経講義 上』で 「須陀オンにどんどん向かっている」のが預流向だと述べているのだから、 この桐山説四向四果と預流向との関係は次のようになります。 「預流向、「預流、預流果、一来、一来果、不還、不還果、阿羅漢道、阿羅漢果」」 桐山説の預流に向かっているのが桐山説の預流向だというのだから、 上記のような順序になります。 桐山さんは四向四果の手前に預流向を置き、預流向は聖者でなく、 預流から後を聖者だとみなしていることになる。 1.5来補説と同じですから、うれしいでしょう? ごらんのように桐山説四向四果は、阿含宗的には何の矛盾もありません。 1.5来補さん如きが「調査が不十分」などと桐山ゲイカを罵る必要はない。 ただし、桐山説四向四果も1.5来補説も、世間の仏教の常識からは かけ離れているだけです。 桐山説四向四果「預流、預流果、一来、一来果、不還、不還果、阿羅漢道、阿羅漢果」 (『人間改造の原理と方法』181頁) 桐山さんはこの説明を修正も取り消しもしたこともない。 しかも、たった一度の四向四果の説明であり、『仏陀の真実の教えを説く阿含経講義 上』に 一度だけ出た預流向とも矛盾しない。 だから、今でもこれは阿含宗の教義です。 それなのに、一介の信者ごとき1.5来補さんが、桐山ゲイカに向かって 調査が不十分とは何様のつもりだ? 桐山説四向四果は世間で知られている四向四果とまるっきり完全に違うだけです。 >>167 さんが示したように、「預流向=聖者」が仏教の常識なのに、 桐山さんと信者たちは「預流向≠聖者」だと主張している。 つまり、阿含宗が常識外れのオカルト教団だというだけのことです。 1.5来補さんは調査不足と書いているところを見ると、前に桐山説四向四果が どうやって作られたか説明してあげたのに、覚えていないようですね。 桐山さんは一流の仏教学者の専門書を読んで、つまり調査して、 あれを書いたことを1.5来補さんは知らないのでしょう? 桐山さんは1.5来補さんと同じで貪りの強い人だが、あなたほどドケチではないから、 専門書を買って読んだ、つまり調査した。 だが、あなたと同じで理解力が低くて、理解できなかったから、 あなたと同じように、適当に作り変えたのがこれです。 桐山さんの頭が1.5来補さんと同じ程度だということを示す事例なのです。 誉められて、うれしいですか。 「須陀オン(預流)道、預流果、斯陀含(一来)道、斯陀含果、阿那含(不還)道、阿那含果、阿羅漢道、阿羅漢果」 (『原始仏教』水野弘元、212〜213ページ) これが桐山説四向四果の元となった内容と文献です。 桐山さんは引用文献元としてこの本を示している。 上記は実際には表になって縦に並べてあり、「見道」などの説明からあるが、 議論と直接関係ないので、省略して記述しました。 以下の桐山さんの説明も表になって縦に並べてあり、 「見道」などの説明があるが、同様に省略してあります。 「預流(須陀オンとも呼ぶ)、預流果、一来(斯陀含とも呼ぶ)、一来果、不還(阿那含とも呼ぶ)、不還果、阿羅漢道、阿羅漢果」 (『人間改造の原理と方法』181頁) 読者の皆さん、よおく二つを比較してみてください。 桐山さんは水野氏の本から引用したと本にも書いており、 また書式や内容から間違いなく水野氏の説明を引用してはずです。 ところが、両者は明瞭に違う。 桐山さんが何をどうしたのか、私から説明される前に、考えてみてください。 桐山さんが水野氏の説明をどの程度理解したかが、 つまり彼の頭の程度が良くわかります。 桐山さんは子供でも気が付くような簡単な規則性に気が付かなかった。 「須陀オン(預流)道、預流果、斯陀含(一来)道、斯陀含果、阿那含(不還)道、阿那含果、阿羅漢道、阿羅漢果」 (『原始仏教』水野弘元、212〜213ページ) 「預流(須陀オンとも呼ぶ)、預流果、一来(斯陀含とも呼ぶ)、一来果、不還(阿那含とも呼ぶ)、不還果、阿羅漢道、阿羅漢果」 (『人間改造の原理と方法』181頁) 水野氏は預流向のことを預流道と表現しています。 これは阿含経の中にそういう表現もあるからです。 水野氏の分類は四向四果の普通の分類と表記で、特に問題はありません。 両者の違いは明瞭で、桐山さんは次のように書き換えています。 「預流(預流)道」→「預流」 「斯陀含(一来)道」→「一来」 「阿那含(不還)道」→「不還」 簡単に言えば、カッコのついている最初の三つの「道」を省略してしまった。 その結果、カッコのついていない阿羅漢の項目だけが 阿羅漢道と「道」が付くという奇妙な分類になってしまったのです。 では、なぜ桐山さんは水野氏の表をそのまま引用せず、 こんな奇妙な名称に変えてしまったのか? 答えは簡単です。 表にある「道」と「果」の規則性が桐山さんはわからなかったからです。 桐山さんはこんな簡単な規則性を理解するだけの知性がなかった。 「須陀オン(預流)道、預流果、斯陀含(一来)道、斯陀含果、阿那含(不還)道、阿那含果、阿羅漢道、阿羅漢果」 (『原始仏教』水野弘元、212〜213ページ) 「預流(須陀オンとも呼ぶ)、預流果、一来(斯陀含とも呼ぶ)、一来果、不還(阿那含とも呼ぶ)、不還果、阿羅漢道、阿羅漢果」 (『人間改造の原理と方法』181頁) これは、並べられた言葉から、規則性を読み取るというある種の知能検査みたいなものです。 「・・・阿羅漢*、阿羅漢果」と伏字にして、*に何が入るかと問うようなものです。 一対の四組で、前が「道」で後が「果」であるという規則性を 読み取れば、「阿羅漢*」の答は「阿羅漢道」であることは明らかです。 だが、桐山さんはその規則性を読み取ることができなかった。 小学生も高学年なら、この質問に大半の生徒が正解するでしょう。 ところが、仏陀の智慧を持ち、オシャカの成仏ホウを体得したはずの 桐山ゲイカは小学生でもわかるように規則性に気が付かなった。 信者さんたちは、この桐山さんが頭が良いと思いますか? 小学生でもわかるような規則性がわからない桐山さんが 仏陀の智慧などという高い知性を持っていると思いますか? 1.5来補さんでさえも「向」「果」のお説教を毎日繰り返しているように理解できた。 こんな簡単なこともわからないのは、どちらかというと 知的に劣っているとみなされます。 それが実際の桐山さんです。 「預流(須陀オンとも呼ぶ)、預流果、一来(斯陀含とも呼ぶ)、一来果、不還(阿那含とも呼ぶ)、不還果、阿羅漢道、阿羅漢果」 (『人間改造の原理と方法』181頁) 桐山四向四果では全体を見れば、規則性がなく、 唐突に阿羅漢だけが阿羅漢道があるなどおかしいのだが、 桐山さんは気がついていない。 私たちがおかしいと感じるのは、四向四果の八つの分類を知っているからです。 つまり、桐山さんは水野氏の本を読むまでは四向四果について 何にも知らなかったのです。 桐山さんの常で、学者の本でにわか勉強をして、さも昔から知っているかのような ふりをしながら、本で解説してみせるのが得意技です。 信者の1.5来補さんがそっくり同じ事をして、何か調べると、 一知半解のまま、「お前ら知らないだろう」と得意気に書き込む。 桐山さんは四向四果をこの1977年段階では知らなかった。 だが、水野本を読むまで四向四果を知らなかったのは桐山さんの修行歴からするとおかしい。 なぜなら、阿含経には四向四果がしばしば出てくるからです。 桐山さんは阿含経を 「徹夜につぐ徹夜で、阿含を読みふけったんです。」(『霊障を解く』211頁) と書いている。 しかも、求聞持脳を持ち、抜群の記憶力を持っているという桐山さんが 阿含経にしばしば出てくる四向四果を知らないなんてありえない。 だが、水野本での解釈を見ればわかるように、桐山さんは何も知らなかった。 つまり、桐山さんが阿含経を読みふけったなんて嘘だとわかります。 「預流、預流果、一来、一来果、不還、不還果、阿羅漢道、阿羅漢果」 (『人間改造の原理と方法』181頁) 1.5来補さんも引用しているように、『輪廻する葦』の阿含経講義の 出家経に四沙門果が出てきます。 発行は1982年ですから、立宗の五年ほど後です。 出家経の四沙門果を理解した上で立宗(1978年)したはずなのに、 1977年には上記のような意味不明の分類をしている。 1.5来補さんや宝生さん以外の信者さんたちは矛盾を感じませんか? 桐山さんが阿含経を読破して体得してから立宗したなんて話は嘘だ という証拠のようなものです。 桐山さんは1977年頃、密教界から追い出されて、復讐心に燃えて、 阿含宗を立宗しようとしてあわてて阿含経の勉強を始めた。 本を書くために水野氏の本などを初めて読んで四向四果を知った。 しかし、桐山さんは理解力が低いから、水野氏の説明が理解できなかったから、 いつもの思い込みで適当に省略して引用した。 立宗してから、阿含経講義の必要性に迫られて、これまた付け焼刃で阿含経を探した。 それが『輪廻する葦』(1982年)に出てくる出家経の四沙門果です。 その場しのぎのことだから、二つの本での説明には何の一貫性もない。 \/ ヽヽ レ | ──, ‐┼‐ / ‐┼‐ / / | /-、, | / | / \__ / ○' `つ //\ノ `つ //\ノ .,i「 .》;ト-v,|l′ _,ノ゙|.ミ,.゙'=,/┴y/ 、──┬---、_ .ノ .il|′アll! .>‐〕 \ _>< \ l| l|  ̄^irー.,_i″ ||}ーvrリ、 ¨'‐.` { \l| ll l| l|~'ー.,,_ .》′ ゙゙ミ| ,r′ } \ l| ll l| l|゙`ー-┬ト .ミノ′ 〕 \l| l| ll ll / / :、_ リ .} \ l| ll ll / / 、 ゙ミ} :ト ゙ ヾー、_l| l| / / :!., リ ノ 〔 ` ~'‐亠ノノ i゙「 } .,l゙ l! .´゙フ'ーv .,y ] '゙ミ | ,/゙ .ミ;.´.‐ .] ミ, | ノ′ ヽ 〔 ミ } } ′ } { .| .ミ .< 〔 〕 .{ \,_ _》、 .{ .} { ¨^^¨′¨'ー-v-r《 〔 預流→「無漏の聖者の流れに入った者,四向四果の最初の段階,原始仏教では三結を断じた者が得る位であったが・」←岩波仏教辞典。と、いうように、預流には三結断などの条件や定義がある。預流向は預流の定義を満たしていない 四向四果は釈迦仏教の基本である。四向四果を理解せねば、修行のスタート地点が分からないのである。預流向を聖者だと思うようではスタート地点が分からないのだ。深山ユビがそれだ。どのようにして預流向になるつもりかね? >>180 のいう「預流」って「預流(果)」ですよね? ならば、預流向を四向四果の最初の聖者だとしよう。その場合いかにしたら預流向の聖者に成れるのかね?それは阿含経に説かれているね?煩悩を無くす必要があるのかね?預流向が聖者だなど、阿含経のどこにも説かれていないよ。 預流に到達した者が預流果ですから、 預流=預流果、なのです。 預流向とは、預流に到達しようと修行している者の呼び名です。 だから、預流向≠預流=預流果、なのです。 これは釈迦仏教の基本です。 >>184 で 「預流向=聖者」と言うことですね ↓ >>167 > 【四向四果】 > 〔阿羅漢〕は今生の終りに悟り(涅槃)に至り再び三界には > 生まれない位をいう、この位に到達した者を(無学)といい > これ以前の聖者(七輩)を(有学)という←岩波仏教辞典 > > 無学以前の聖者(七輩)とは、阿羅漢向、不還果・不還向、一来果・一来向、預流果・預流向ですよ。 >>184 神も仏も名無しさん2018/08/26(日) 08:47:55.12ID:tsr+bJyc >だから、預流向≠預流=預流果、なのです。 >>156 さんの「預流向=聖者」の指摘に上記が1.5来補さんの反応です。 予想どおりで、認めるはずがない。 他の信者さんたちも>>180-184 の1.5来補さんをご覧ください。 >>156 さんが岩波仏教辞典から下記の文章を引用して示した。 <阿羅漢>は今生の終りに悟り(涅槃(ねはん))に至り再び三界には生れない位をいう. この位に到達した者を<無学>といい,これ以前の聖者(七輩)を<有学(うがく)>という」 (岩波仏教辞典422ページ 第二版 2002年) 「聖者(七輩)」とあり、七輩とは預流向から阿羅漢向までを言うのですから、 小学生が読んでも「預流向=聖者」だとわかる。 だが、1.5来補さんにはわからない。 岩波仏教辞典だけではありません。 「四向四果・・・四沙門果から発展したもので、原始仏教やアビダルマ仏教において 最高の悟りの境地とされる阿羅漢果に至る聖者の階位。」 (『佛教大辞典』小学館、379頁) 「四向四果・・・聖者の四つの位」 (『佛教語大辞典』中村元、512頁) 四向四果をこのようにすべて「聖者」であると述べているのだから、 四向四果の一つである預流向が聖者であることは子供でもわかる。 だが、1.5来補さんにはわからない。 >>184 神も仏も名無しさん2018/08/26(日) 08:47:55.12ID:tsr+bJyc >だから、預流向≠預流=預流果、なのです。 私は、1.5来補説のように「預流=預流果=一来向」などとしたら、 一向四果になってしまい、大きな矛盾が生じることを何度も示した(>>125 )。 だが、指摘された時は沈黙してしまうが、数日たつときれいに忘れて、 また「預流=預流果」を唱え始める。 他の信者さんたちはどう思いますか? 「預流向=聖者」ですか、それとも「預流向≠聖者」ですか? 批判側の主張など受け入れたくなくても、岩波仏教辞典はじめ、 学者たちのまとめた内容はどれもこれも「預流向=聖者」です。 普通の知性があるなら、これを受け入れるしかない。 こういう明らかで、明瞭で、議論の余地のない内容を1.5来補さんのように 理解せず、受け入れず、自説に固執する人のことを阿含宗では「畜生クラス」といいます。 他の信者さんたちだけでも、「預流向=聖者」であると、 これだけ明瞭な内容はそのまま受け入れてはどうか。 >>184 神も仏も名無しさん2018/08/26(日) 08:47:55.12ID:tsr+bJyc >だから、預流向≠預流=預流果、なのです。 たぶん大多数の信者さんたちは「預流向=聖者」を受け入れたと思います。 私は罠にかけるのは好きではないから、信者さんたちに申し上げるが、 桐山説は「預流向≠聖者」です。 1.5来補さんが頑迷に「預流向≠聖者」と主張するのも、桐山さんがこの主張だからです。 1.5来補さんは、自説に都合のよく解釈できる部分だけを見て、 それに反する資料を示されても、すべて無視する。 これは他の信者さんたちにも反面教師として参考にしてほしい。 桐山さんは阿含宗の教義のように解釈できる部分だけの阿含経を引用し、 時には捏造までした。 そして、護摩や占いの禁止、死者成仏の否定など 桐山さんにとって都合の悪い部分はいっさい無視した。 これでは1.5来補さんと同じです。 こんなことを現実世界ですれば嫌われ、排除されるから、 1.5来補さんは嫌われ排除された。 桐山さんは宗教という嘘や妄想が通用する世界にいたから、 死ぬまでサル山のボスでいられた。 だが、信者さんたちの大多数は世俗で生きているはずです。 立場は1.5来補さんと同じですから、彼と同じように都合の悪い現実や 事実を無視したら、新興宗教の狂信信者としかみられません。 だから、まず「預流向=聖者」くらい受け入れることです。 「預流、預流果、一来、一来果、不還、不還果、阿羅漢道、阿羅漢果」 (『人間改造の原理と方法』181頁) これが桐山説の四向四果で、1.5来補説とは明瞭に違います。 預流向がないのは、聖者とはみなしていないという桐山説とも矛盾しません。 1.5来補説では「預流=預流果」ですから、以下、一来や阿那含にも適用して、 これを桐山説に当てはめると、 「預流、預流、一来、一来、不還、不還、阿羅漢道、阿羅漢果」 となり、意味不明です。 つまり、1.5来補説はかえって桐山説をメチャクチャにしてしまう。 ここでは桐山説こそが議論の対象であり、1.5来補説はいりません。 1.5来補説はヒイキの引き倒しです。 桐山説では「預流=預流果」とは断定していません。 私の知る限り、桐山さんは預流果という言葉を出したこともない。 預流に向かっているのが預流向だと述べているだけで(>>170 )、 預流を預流果だと述べていないし、上記の分類でもそのよう説ではありません。 「預流=預流果」は1.5来補説で、桐山説とも違うからここでは用無しであり、 桐山説をかえって混乱させるだけだから、誰にとってもゴキのように迷惑な存在です。 1.5来補さんは現実世界でも、阿含宗でも、このスレでも迷惑な嫌われ者です。 「預流、預流果、一来、一来果、不還、不還果、阿羅漢道、阿羅漢果」 (『人間改造の原理と方法』181頁) 1.5来補さんが桐山さんを擁護しているうちに、岩波仏教辞典とも違うことを書き、 さらには桐山説とも違う「自分教」を書いてしまっている。 こういうのを自己矛盾、自家中毒といいます。 桐山阿含宗を擁護しているとたいてい陥る矛盾です。 過去にも何人かが、阿含宗を擁護しようとして、阿含宗の教義とは 違うことを書いてしまい、「自分教は出すな」と批判された。 多くは知性があるから、出さないが、1.5来補さんのように 理解力と記憶力が低いと十数年にわたり出し続けている。 信者さんたちは、なぜ阿含宗を擁護していると学者の説と違ったり、 最後は自分教を出すしかなくなるか、わかりますか? 阿含宗の教義が上記の四向四果でもわかるように、嘘デタラメだからです。 1.5来補さんのように自己矛盾さえも理解できない人や、 宝生創価さんのように何を議論しているのかさえもわからない人は 同じ事を何年でも繰り返せるが、普通の知性がある人はできない。 だから、ペテン大作さんは阿含宗の教義については正面から議論しない。 1.5来補さんや宝生創価さんと違い、ペテン大作さんは阿含宗の 教法は矛盾だらけで、議論しても負けるとわかる知性が残っているからです。 「預流、預流果、一来、一来果、不還、不還果、阿羅漢道、阿羅漢果」 (『人間改造の原理と方法』181頁) 普通の知性があるなら、上記の桐山さんの四向四果の 分類を見て、絶句し、これを擁護するなど論外だとわかる。 それすらも理解できない1.5来補さんは、反論を無視して自説を唱え、 何を議論しているのか理解できない宝生創価さんは意味不明の書き込みをする。 二人とも、相手があきれて黙るまで同じ主張繰り返す。 >>180-184 を1.5来補さんは十数年にわたり書き続け、 この十カ月ほどほぼ毎日のように、時には一日に何度も書き込んでいます。 二人のあまりの執念深さに、知性のある人はあきれて黙ってしまうと、 彼らは自分の論理性に相手が屈服したのだと勘違いする。 信者さんたちもこの二人にあきれるでしょう。 だが、信者さんたちも似たようなことをしているのですよ。 ミャンマーで完全仏教の成仏ホーの護摩で戦死者を日本に連れ帰る?? 釈尊は護摩は禁止し、死者の供養は説いていないし、 何よりも死者の成仏はできないと述べている。 カルマ解脱や霊障解脱など阿含経には言葉も概念もありません。 これを示されても何の矛盾も感じないで、また護摩木祈願をするなら、 事実や現実を無視して、自分が信じたいように信じて、 それを何年、何十年も続けるというのだから、 1.5来補さんや宝生創価さんとそっくり、同類です。 こんな二人と同類と言われて不快を感じるなら、 少し自分の信仰について冷静に考えてみてください。 吹きゃ真三男、おっとマツガエた。(誤変換で考えたことも無い文字が羅列) 彼氏、深山さんの志(こころざし)ってのは何なのだろう? 阿含宗を倒したいらしいが、その次が判らない。 深山氏は、当然偽名だから偽って論を建てて、差支えは無いにしても、 彼の作文は将来の日本にもこの世界も、のーぷろぶれん なーだいなーだ である。 目標が無い作文は、意味を持たない徒労。 或る有名な人物、彼は世界中の有名人と対話し、世界平和を語り会い、座談を出版、 世界平和実現の一環と盛んにお語り為されたものだがこれも、世界にとって まったく 無問題 で御座いましたネ。この御仁も何が目的なのか全く判らない。 暇がある方は、読まれたい。 釈尊在世の頃に護摩による火による祭祀を禁じられた定説は認証、後世の西暦三世紀頃に到り密教全般を仏教が採用する、よって護摩法が当然導入されたことは諸氏の知るところである。 その護摩法の解説冒頭に、この儀軌次第は外道の護摩と外形は似るも 意義と法要の内容は全く異なると詳細に説く。 その細かい記述部分は、多くの解説書が有るので引用はしない。 此処から先は私見、護摩法の導師、彼は火への恐怖心を克服して修法する。 火への恐怖とは何か、死と大怪我、大やけどを忌避する人の本能に近い意識である。 観法の対象を水に選ぶ方も多かろうが、案外容易にその映像は脳の視野に映ずる。 火は如何か?その映像が脳裏に写ったその途端、身体は危険への忌避反応をする。密教観法は所定の本尊を想定し、本尊の誓願を我が身に成就するように作成される。不動明王の根本誓願は死苦の解決、依って不動を本尊と定め修行する仁は儀軌経の 深甚なる意義を知る。この行人は不動法を修し自身が不動明王に変ず。 此処まで解説し、肝心の阿含と接着しないと思うなら、お釈迦様の説かれた死苦解決の克服方法の一つが、火への恐怖心を乗り越える観法に有りと観る。 阿含経に詳細なる成仏方法指導の記述はない、にも関わらず根本仏教と定められる。その 阿含経の大欠陥を密教を導入し克服、釈迦を再生させる大願を桐山師は抱いたのだ。 >>192-193 宝生創価の言い分は、大間違いですね〜。 桐山靖雄さんは手品のトリック並みのやり方で、 『トリック念力護ま」をやって密教超能力者でデビューした それだけのこと。 麻原某が 空中浮揚のインチキ写真でデビューしたのと まったく同じですね。 真言宗や天台宗なんかの護魔焚き火とは 意味が違う。 外道とか似非仏教とかいう宗教の次元の話ではない。 桐山阿含宗やW田阿含宗、オウム真理教は宗教の問題ではなく 詐欺性犯罪性があるというような次元の違う問題が 横たわっている。 桐山靖雄さんはインチキ密教のインチキ達人を装うために 空海を活用し、自分だけが釈迦の後継者だと僭称して 成仏法霊障商法で銭集めをする為に、釈迦を利用した。 これが真相である。 宝生創価の言い分はまったく見当違いの時代遅れである。 ざまをみやがれw ゲラゲラwww 氏示! >>193 神も仏も名無しさん 2018/08/26(日) 14:38:32.23 ID:6ilTzbC3 > 此処から先は私見、護摩法の導師、彼は火への恐怖心を克服して修法する。 >火への恐怖とは何か、死と大怪我、大やけどを忌避する人の本能に近い意識である。 宝生教と違って桐山さんの護摩の炎の解釈はあなたと全く逆ですよ。 桐山さんはヒトが火の使用により動物界の王に君臨できたと説く。 たしかに他の動物は火を恐れるだけですからね。 ところがヒトは火を使って他の動物も排擊できた。 また煮炊きをすることもできた。寒い時に暖を取ることができた。 だから火は恐怖の対象どころか火こそが頼みの綱だったとその原始記憶が人に内在する。 護摩とはその原始記憶を呼び起こし、深層意識を開発するにあたり、その引き金となるとした。 暗い堂で護摩を焚く時、人は原始時代の記憶を呼び起こし、獣の咆哮を聞くなどと下手な文芸作品を作文した。 私はこの作文を読んだ時、なんか荒いな、こんなんでシステマティックな技法、瞑想に成り得るの?と チラと感じもしたものだが。 また炎はユラユラと定まらないから、水に比べても人の心に同調しやすいと作文した。 この作文も荒いと感じた。 星まつりの柴燈護摩などで大きな炎を見ていると、たしかに飽きないし、面白いし、どんどこ太鼓のリズムに相俟って、 原始記憶みたいなものが呼び覚まされるような気もしないでない。 しかしそれって単なる精神の高揚、昴揚に過ぎないとわかる。 まあ興奮してカタルシスの解消となる効果くらいです。 そんな程度の話が深層意識の開発?やはり荒いなあと思いもしたものです。 とにかくあなたの火に対する恐怖の克服なんて桐山さんは説いておらず、その逆なんです。 だから宝生教はこのスレに要らない。 1970年代後半、ニホンメディテーションセンターが各地にできた時、ちなみに私はその頃名古屋に居たが、 大高の東海本部がニホンメディテーションセンターとなっていた。 東海の例祭に一般参拝で一度だけ参拝したことがある。 護摩や法話の前、桐山さんの声の音声放送が流れた。 インド楽器きよるインド舞踊のインド音楽が流れる。 桐山さんは語った。 「音楽に合わせて、リズムに身をゆだねてみましょう」 私は音楽は嫌いでなく好きだ。 しかしこのインド音楽には馴染みもなく同調もできなかったが。 それよりずっと後の80年代の電通広告によるラジオCMの桐山ナレーションといい、 なんか安っぽい話だなあと感じる自分もいたこともたしか。 桐山精神科学ってこの程度の安物か?という。 ちなみに釈尊の本当の仏教では、歌舞音楽に耽ることは出家は禁止です。 つまり、いかにも高度と思わせる桐山精神科学の謳い文句と 、その現実実践とのギャップですよ。 もちろん現実実践知らないのですが。 現実実践の一端であるかのように示したこんなエピソードがそのギャップを物語っている。 四向四果は釈迦仏教の基本だということ。 預流向を聖者だと思っているようでは、釈迦仏教の修行には入れないということ。 だから、深山ユビは阿含宗信者時代があったとしても、修行の第一歩も歩めていないのだね。 スゲえなこれ。バスケットでいうシード取るよりいい。 預流向を聖者だと思うか、凡夫だと思うかは、釈迦仏教のスタート地点に立てるか否かの、重大な問題なのである。深山ユビはそこで間違えている。阿含宗信者時代も、修行などしたことがないのだ。したことはご利益目的の、ゴマキ勧進やら金出すことだけであったろう。 >>197 懐かしいですね、ニホン・メディテーションセンター。 東京は青山にありました。表参道で下車して阿含宗会員は 通ってました。そこは平河町の東京総本部道場が新築成る前に 例祭などやっていた場所でもあります。 ニホン・メディテーションセンターに入会するとグル桐山が AとかBとか言って、入門者に瞑想マンダラと座布マンダラを 手渡して、MMPIとか言って心理テストみたいなことをやらせて 全部そのまま。 阿含宗に入行すると指導原簿とかいうヤツを出しましたよね。 あれ登録料1000円徴収してましたが、これも全然使わない。 瞑想だって奥なんかにいったためしがない。 DVD出して「輪廻転生瞑想法」とか出してもダメ。 付け焼き刃の空想の妄想を販売しても何の効果も無し。 W田さんが「霊性開発の瞑想法」伝授するとかほざいていた みたいだが、元ネタが貧弱で大ウソばかりですから まったく中身がないことは明らかでしょう。そういう大嘘を 阿含宗はつけ続けてきた。 阿含宗の護魔たき火だって同じことです。 初めから念力トリック護魔のインチキなのですから 正しいものになりようがない。 霊障商法を基礎にした詐欺行為、銭集めの方法、 それが阿含宗の護魔たき火の活動の本質です。 私が深山ユビくんに、預流向は聖者ではない、と教えることに拘っているのは、ここが阿含宗で失敗した原因だと分かっているからだよ。預流向を聖者だと思っているようでは、釈迦仏教の修行に入れないのです。釈迦仏教の第一歩は、預流を目標にすることですからね。 仏教音楽などどうでもいいことだ。そんなもの毒にも薬にもならない。阿含経には音楽神が仏陀を音楽で供養して、仏陀が大変喜んだ、という話もある。音楽が悪いと思うのは馬鹿野郎のことだ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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