【仏教】 悟りを開いた人のスレ310【天空寺】
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
>>51
創価学会て、ちゃんと仏教してんですね。
この前、顕正会?か、エホバ?か分からないけど、玄関こじ開けて入ってきてビビったわ〜。よっぽど不況で信者が欲しいんだろうね。すぐに叩き出したわ。
創価ほどデカイと安泰やね。政界にもずっぷりだから。 >>57
どうぞ、ご自由に。
まさに、人空法有。
大乗は人空法空。 57.瞑想バカである。それで悟れることはない。残念である。結果が見えるからである。 無我の我とは分別したときに生じる我^^
それは虚妄である^^
ゆえに煩悩が生じる^^ うん?
もしかして・・・^^
う〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん^^
見性しておる^^
ビックリ^^ ちなみに足をぶつけた雲水が悟ったのは、
痛みだけがあるのであって、「私」はどこにもない。「私が痛い」と思っていたのは勘違いだった。
と気付いたからです。 >>56
諸の衆生のために分別し演説し開発(かいほつ)顕示するのみなり
戯論で非戯論を表す。
この言葉が妥当かは、わかりませんが。言葉に出せばやはり戯論になってしまいますから。
筏の例えがあるのでしょう。
>そもそも仕上りの有無云々自体が相対概念だろ、
自性清浄ですからね。
ブッタの何のために法を説いたのか。
苦を除くための教えだと思うのですが。 >>48
その通り
「我(アートマン)は無い」ではなく「我(アートマン)では無い」の無ということだね
>>50
>一句だけ聞いてわかった気になっても間違い、というのはよくあること。。
そうだね
前スレでもスッタニパータのマーガンディヤ経の
837 師は答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執着を執着であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤(かご)を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」
この言葉ばかり抽出して『釈迦はなにも説かないことを信条としてた』みたいなことを言いたい人がいたけど
マーガンディヤ経の最後が
847 想いを離れた人には、結ぶ縛(いまし)めが存在しない。智慧によって解脱(げだつ)した人には、迷いが存在しない。想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく。」
と想い(表象、イメージ、想蘊)を離れると束縛がない、慧解脱した者には迷いはない
と教えていることを忘れてるんだよね
http://suttanipata.com/afzafaafafaaf/
https://76263383.at.webry.info/201504/article_8.html >>64
道元禅師は、「無の眼耳鼻舌身意あり」との受け止めだったかと。 70.無我を理解していない。それでは見性にならないはずであるよ。 >>70
実際にあるのは因縁により刹那生滅する五蘊です。
我は本当にどこにも無いです。 >>68
あくまでもです。私の考えです。
道元は自性清浄から見ているものと思います。
ただ、これだとどのように修行すればいいのだという疑問が出ると思います。
だから、わたしは、仏が修行すると以前から言っています。 「無我」<仏法 西と東より>
有名なミリンダ王の問い
ナーガセーナ
「大王よ、わたくしはナーガセーナとして知られています。
この『ナーガセーナ』というのは、実は名称・呼称・仮名・通称・名前のみにすぎないのです。
そこに人格的個体は認められないのであります」と答えています。
※ここで、はっきりと仏法の"無我的立場"を打ちだしていますね。
ミリンダ王
「ちょっと!何言ってのか、分かんないですけど!」
※王には西洋哲学の枠を越えているのでサッパリ理解出来ません。
ミリンダ王
「たとえば、もし人格的個体が認められないならば、修行にはげむのは誰か、殺生をなすのは誰か、
酒を飲むのは誰かなどと、行為の主体およびその行為の責任をとる者について」等の鋭い質問をぶつけています。
さらに続けて王は問います。
「こんどは具体的に、ナーガセーナを構成している心身の各要素を一つ一つとらえて、それがナーガセーナなのか?と細かく問うていく。
髪、身毛、爪、歯、肉、骨、心臓などを初めとして、仏法の五蘊である色(物質的なかたち)、受(感受作用)、想(表象作用)、行(形成作用)、
識(識別作用)の一つ一つがナーガセーナなのか?と聞き、最後に五蘊の合したものがナーガセーナなのか?、
また五蘊以外のなにかがナーガセーナなのか?と問い詰めていくけれども、結局、すべてそうではないと否定される。」
ついにミリンダ王は業を煮やして、「あなたは虚言を語った」といって立腹してしまう。 ところがその後、ナーガセーナはただちにミリンダ王の用いた同じ論法でもって、ミリンダの車について反論していきます。
つまり、車を構成している各部分について、一つ一つ、それが車ですか?と問うていきます。
軸、輪、車体、車棒、などについて、それが車であるか?と問い、さらに、その全部を合したもの、
あるいはそれらの要素以外のなにかが車なのか?と問い、ミリンダをしてすべて「車ではない」と答えさせます。
その結果、ナーガセーナもミリンダ王と同じように、あなたは嘘言を語った、といって非難するのです。
ナーガセーナに問いつめられたミリンダ王は、車というのが、軸に縁って、輪に縁って、車体に縁って、車棒に縁って、
「車」という名称・仮名・通称が起こるのであることを理解します。
「大王よ、あなたは車を正しく理解されました。大王よ、それと同様に、わたくしにとっても、髪に縁って、身毛に縁って……乃至……脳に縁って、かたちに縁って、
感受作用に縁って、表象作用に縁って、形成作用に縁っで、識別作用に縁って、『ナーガセーナ』という名称・呼称・仮名・・通称・単なる名が起こるのであります。
しかしながら勝義においては、ここに人格的個体は存在しないのです」 57.無我というゴール、か。無我はゴールではない。通過点である。 こで注意しなければならないのは、一般的にも確認されているように、ナーガセーナの"無我"の説明法がアビダルマ的分析法に従っているということでしょう。
もっと正確にいえば、アビダルマのはしりが見られるということですね。
原始仏教における「諸法無我」の法印にしても、これを人間の個人存在にあてはめた「五蘊無我」にしても、釈尊自身の体験的直観から生みだされた思想といえます。
もっとも、釈尊は直観ばかりではなく、説法のために五蘊や十二因縁などの分析も行なっていますが、
その場合でも、直観と分析とは均衡と調和のとれたものであったように思う。
それが、アビダルマ時代になってからは、分析のほうに重心が傾いていく。
だから同じ「無我」でも、原始仏教のそれとアビダルマ的なそれとは、若干ニュアンスが異なっています。
仏教の初期においては、あくまで、究極の生命は釈尊の胸中に輝ける確固たる実在として体験されていたといえるでしょう。
そして、その体験をもとに、迷える衆生が「私」「自分」などの「小我」にとらわれて苦悩している姿を見て、それはすべて"無我"であると打ち破り、
一人一人の胸中深く実在している究極の生命(大我)をこそ覚知し、みずからのものとしなければならないことを教えたのです。
しかも、その究極の生命については一言も言葉としては表現しなかったように私には思える。
いわば、言語を絶した"沈黙"の部分であったのです。したがって、「無我」にしても「縁起」にしても、当の実在を指し示す助縁として語られたものといえます。
ところが、後世のアビダルマに入ると、もともと助縁の役割を担っていた「無我」なる言葉が重要視され、
ある意味では絶対視され、人間の個体を含むすべての存在について、客観的に「無我」であることを論証しようとしだしたといえるでしょう。
その結果、存在を構成要素に分析して、そこに常住不変の実体はない、だから「無我」であるというように証明しようとした。
その意味では少しばかり、わき道にそれてしまったといえるでしょう。
つまり、体験によって覚証される部分について、あくまで理論的に、分析的に証明しようとした点がアビダルマの特徴といえるわけですね。 釈尊も人間を五蘊でバラバラにして、色、受、想、行、識がそれぞれ無我だって、説法してたと思うけどなあ。
あれはアビダルマ時代の、後世の付け足しだったんだろうか。 >>68
ジャンキーさんのごめんなさい。
私じゃなかったね。 末那識……平等性智
自我に執着している自我意識、つまり我執を無くし、我見・我痴・我慢・我愛の
四つの根本煩悩を滅し、我空を理解して、主客の分裂が無くなり、自他分別も無くなって、
法空も理解し、この世のあらゆるものを自他平等・不二平等に識できるようになったこと。
これなんだよな^^ >>66
この内容もちょっと問題点があるな。
自分で書き込んでいるけど。
わからないと言われそうだw 84.知識の天才である。その知識に溺れることになる。 >仏教の初期においては、あくまで、究極の生命は釈尊の胸中に輝ける確固たる実>在として体験されていたといえるでしょう
>一人一人の胸中深く実在している究極の生命(大我)をこそ覚知し、・・・・
wwwwwwwwww
一体、誰の言説だい?w
全く、外しているけどw >>73
「ある」とか「あり」ってどうしても「有」を想起してしまいますよね。
もちろん、五蘊皆空との受け止めです。 如虚空淨心 常明無轉變 爲虚妄分別 客塵煩惱染
虚空のような浄心は 常に輝いて転変しないが 虚妄分別のために
たまたまの煩悩に汚されている >>90
しかも刹那生滅してますからね。
「これ」とも言えない。「こ」と言おうと思ったときにはもう無い。
黙っているしかない。 >>74
なるほどですね。
私は、体・用・相の概念を借りて理解が進みました。
婆さんに席を譲るのは分かっていても(衆生本来仏なり)、でも、実際に譲らないと(本証妙修)、ね。 三界流浪の凡夫のならいは、すべてこの苦楽の間をのがるることあたわず。 大いなるかな苦楽の二受。
三界一切の衆生、その中におぼれて、ついに出る事あたわず。 >>93
まぁ、禅宗だと「行亦禅坐亦禅 語黙動静体安然」ってなります。 このことわりをよくさとりて苦楽の二つをこえぬれば、第二の受蘊のまよいをはなれて、涅槃の大楽にいたるなり。 >>12
>>ま仕上げた人の言葉以外は自分の思考考えは魔物として見たほうがいいです。
もうひとつ。。
これはカルトの考えだな。。
最終解脱者以外の考えは全部悪だ、魔のものだ、衆生はみんな悪だから、サリンまいて全員殺しちまえ〜。。
と同じだわ。。
その逆が、学道用心集「他の証に従い去るべし」。
こんなこと、おれはできんけど、誰もが各自の法を説いているのだから、それに従いきりなさいと。。
これも、理としてはその通りなんだわ。 もうひとつ、言葉は全部妄想とか、言語化すると誤るというのは違う。。
言語は月を指す指だ。。
月のありかがわかれば語れる、月を見ても語れる。
これらの言葉なしに、月を見るということはできない。。
なんかもう言ってることがメチャクチャなんだよ。。 >>107
そうかそうか〜、と言ってればいいんじゃない?w われわれの常識的な感覚からいうと、事物たとえば机があるとすると、
その机を認識する私と認識される机とを区別して考える。
つまり主観である私(我)と客観である机が別々にあって、主観が客観を捉えると思う。
唯識思想は、それが間違いだという。そのような心の働きを分別といい、
主観と客観を別々に捉えることは「虚妄なる分別」だという。
それをもたらすのは、言葉が生み出す概念にすぎず、主観(我)も客観(机)も、
心=識の中では一体となっているのである。それが、アーラヤ識によって
自我意識や表象(形象)として顕在化したものにすぎず、実在するものではない。
すなわち、識=心は「虚妄なる分別」であって真実にあるのではない。
それは、アーラヤ識に支配された、自我と物に執着する煩悩の世界でしかない
のである。繰り返しになるが、そこには自我も物質も実在しないのである。 虚妄なる分別」だという。それをもたらすのは、言葉が生み出す概念・・
う〜〜ん^^
またおいらのまねしやがった^^ >>47意味不明
>>74意味不明。。
セッタン派は鏡と戦うってどういうこと? >>108
月という文字を見て月を思い浮かべることと、実際に月を見ることは違うのですか^^ 「虚妄なる分別」だという。それをもたらすのは、言葉が生み出す概念にすぎず、
言葉が世界をつくったとか・・
まずことばありき・・とか
あったな・・^^
だれだったっけ^^ >>114
すまん、変なこと聞いてしまった。
理解できなくてゴメンなさい^^ >>117
いや、わからんのはわからんでいいんだよ。。
夕みたいに勘違いしてるのが一番良くない。。w >>112
>セッタン派は鏡と戦うってどういうこと?
ろんさんどーもです。
確かにその言葉は意味不明ですw
だいたいせったん派とか、誰がそんなの作ったのか。 >>118
自分自身も言語に過ぎず実在しないという意味ですか^^ 言葉は現実を造り出す^^
いいこというね・・^^
突っ込むところがあるとすれば・・・^^
それは虚妄の世界であると^^ 「はじめに言葉(ロゴス)ありき。」
聖書のヨハネの福音書の冒頭の言葉か・・・^^ 「はじめに言葉(ロゴス)ありき。」
言葉は現実を造り出す^^
う〜〜ん^^
虚妄分別のはじまりか・・・^^
「はじめに言葉(ロゴス)ありき。」
「次に煩悩ありき。」
こうなるな^^ 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) >>120
ですね。。
>>121
世間的な肩書とかで自分を見ている、それが自分と思っているなら、それは言語、観念にすぎないかもしれない。。
でも、そういう言語観念忘れても、自分自身は残るでしょ。。
自分はこうだという、思い込みを全部忘れてしまっても、自己自身は残る。。 >>119
現実とは、「ことば」を使って頭の中で作られる社会のことか。
フムフムそうかも知れんなあ^^ うん〜^^
リンゴを食べたとかあったな・・^^
すると・・・
「はじめに言葉(ロゴス)ありき。」
「次に煩悩ありき。」
こうなるやないけ・・^^
みんなおいらのまねしておる^^
困った^^ >>127
>自己自身は残る。。
それが究極の生命というやつかも^^ 分別の何が悪い?
好き嫌いの何が悪い?
麦さんにしてもそうだが、無分別を履き違えてる。
『三祖大師信心銘』
大拙博士曰く、禅の要旨はこれに尽くされてるそうな。
至道無難、唯嫌揀択
道に至るに難しい事はない、ただ選り好みする事を嫌うのである。
選り好みしないって事に執して、どないすんねん。それが、選り好みだろうが。
妄想を除ず、真をも求めず。
好きなモンは、好きじゃ。
無我というゴール目指して頑張ってますぅ?阿羅漢になる?はぁ?
禅かテーラワーダかって?アホくさ。
眼開いとるか?
まぁ、どっちかに絞って師を探した方がいいと思われ。独学は拗らせたらヤバイよ。菩提心次第か。 >ブッタの何のために法を説いたのか。
>苦を除くための教えだと思うのですが。
俺の文章の内容はともかく、上記が主だろ。
俺は語録よまないからね。
金剛般若経ベース アダムとイブが善悪の実であるりんごを食べて楽園を追放されます・・・・^^
善悪つまり言葉による虚妄分別から煩悩が生じる^^
なかなか奥がふかい^^ 言葉は分別にすぎない。
なら無分別智って、アウアウアーのガイジになれってこと^^ アダムとイブが善悪の実であるりんごを食べて楽園を追放されます・・・・
楽園って涅槃のことやな・・^^ >>130
いや、究極の生命とかは忘れろって。。
また草加に入信したいの?w
>>132
至道無難、唯嫌揀択
道に至るに難しい事はない、ただ選り好みする事を嫌うのである。
この口語訳は間違いに近いね。。
外の事象について、検尺するなということじゃないよ。。
それだと、妄想を除くことになってしまう。。
じゃなくて、今の自分がどうであろうが、是非善悪、好悪するな、ということだ。。
そうすれば、真を求めず、妄を除かずとイコールになる。。 そもそも、因果、無常、無自性、空、無我が法であるなら、この法から外れるものがどこにあるのか?
すべてが法である。
すべてが法であるなら、除くべき、取るべきがあろうはずはない。。
だから、取捨するな、取捨は誤りであると言われる。。
もちろん、これで終わりではないけど、この理(平等)は理解する必要がある。。
これは別に難しいことじゃないから。。
これがわからんのなら、止めた方がいいね、特に禅は。。
テーラワーダとかに行った方がいいわ。。
スマ長老に教わるべきかもだ。。w 輪廻の主体をめぐって
ナーガセーナにとっては、仏教の輪廻を理解させるうえで、ミリンダ王に対して二重の壁を前にしたようなものであったといえる。
一つの壁は、インドに伝統的な輪廻の思想をまず理解させること、もう一つの壁は、輪廻の思想を認めつつも、
その主体や霊魂の存在を否定し、無我を主張する仏教の輪廻観を理解させること、その二点です。
一つの壁は簡単。
二つめの壁にに関して
※中村元博士によると、この問題は二つに分かれ、
<第一の論点>は、人の死後や生前に関係なく、ただ現世の現象だけにかぎって、はたして人格的個体が同一のものとして存続しているかどうか、ということです。
<第二の論点>は、人格的個体、あるいは霊魂が死後においても同一性を保ちつつ存在するか否か、またこの世に生まれでる前にも現在の人格的存在と同じ実体として存在していたか否かということです。
※輪廻を認めるかぎり、第一、第二の二つの論点は同じことの二つの側面です。
第二の論点が過去、現在、未来の三世を一貫する問題であるのに対し、第一の論点は、それを現世に集約して論ずる視点です。
しかし、双方とも切り離すことのできない密接な関係にあります。
第一が成り立って、第二が成り立たなければ、その論は論理的矛盾に陥るし、その逆の場合も同じです。
仏教の無我説による輪廻論がいかにして、この二つの論点を矛盾なく通過できたかを検討するのは、じつに興味ある問題だと思う。 >>141
あらら、あなたは珍しく、物分かりが早い。。w −−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ナーガセーナ:「子どものときのあなたと、いまの成人されたあなたとは、同一人ですか?」
ミリンダ:「尊者よ、そうではありません。かつて幼く若く愛らしく仰臥していたときのそのわたくしと、いまの成人したわたくしとは異なったものです」
ナーガセーナ:「大王よ、もしもそのとおりであるならば、〈成人したあなたには〉母というものも無いことになるでしょう、
父というものも無いことになるでしょう、(中略) また悪い行為をなす者と〈その悪い行為に対する罰として刑を受けて〉手足を断たれる者とは別のものなのでしょうか?」
ミリンダ:「尊者よ、そうではありません。しかし、あなたはこういうようなことを言って、いったい何を説こうとなさるのですか?」
ナーガセーナ:「大王よ、わたし自身かつて幼く若く愛らしく仰臥していましたが、そのわたしがいまは成人しています。
実にこの身体に依存してこれらのすべてのく状態>が一つに摂せられているのです」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
※最初に、幼い時の状態と成人した時の状態が同一人かと聞き、異なったものであるとの答えを引き出しておいて、こんどはその答えでいくと矛盾することを、
いくつかの例によって明らかにしていく。ミリンダ王の頭が、混乱してくるようすが手にとるようにわかるね。
結局、ナーガセーナの答えは、同一でもなければ異なったものでもない、という仏教の「不一不異」の教義にあたるわけです。
これはまさに仏教独自の論理といってよく、西洋的思惟方法から生まれた形式論理学では収まらないものです。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) そこをナーガセーナは、たしか「焔の譬え」を用いて納得させていきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「大王よ、たとえば或る人が灯火を点じた場合に、それは夜どおし燃えるでしょうか?」
「尊者よ、そうです。夜どおし燃えるでしょう」
「大王よ、初更の焔と中更の焔とは同一なのでしょうか?」
「尊者よ、そうではありません」
「中更の焔と後更の焔とは同一なのでしょうか?」
「尊者よ、そうではありません」
「大王よ、それでは初更の焔と中更の焔と後更の焔とはそれぞれ別のものなのでしょうか?」
「尊者よ、そうではありません。同一〈の灯火〉に依存して焔は夜どおし燃えつづけるのです」
「大王よ、事象の連続("個体)はそれと同様に継続するのです。生ずるものと滅びるものとは別のものではあるが、〈一方が他方よりも〉前のものではないかのごとく、また後のものでも
ないかのごとくにくいわば同時のものとして〉継続しているのです。こういうわけで、それは同ならず異ならざるものとして、最後の意識に摂せられるに至るのです」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
仏教が「無我」という表現によって示そうとした当の実在を、私たちは究極の生命として捉えるわけですが、生命の問題として、この部分を考えれば、より明確に理解できるように思う。
仏教は人間ならびに自然の事物現象を、「なる」ものとして、現われるままに如実に知見する思惟方法をとった。
つまり、一種の現象学的な方法であったといえる。
したがって、人間存在についても、人間をさまざまな現象、事象の現われと捉え、それらの絶え間なき連続が、人びとに一定の人格のイメージを与えるにすぎないとしたのです。 −−−−−−−−−−−−−−−
「尊者ナーガセーナよ、次の世に生まれかわるものは何ものなのですか?」
「大王よ、実に名称・形態が次の世に生まれかわるのです」
「この〈現在の〉名称・形態が次の世に生まれかわるのですか?」
「大王よ、この〈現在の〉名称・形態が次の世に生まれかわるのではありません。大王よ、この〈現在の〉名称・形態によって、
あるいは善あるいは悪の行為(業)をなし、その行為によって他の〈新しい〉名称・形態が次の世に生まれかわるのです」
「尊者よ、もしもこの〈現在の〉名称・形態が次の世に生まれかわるのでないならば、人は悪業から免れることになるのではありませんか?」
「大王よ、もしも、次の世にまた生まれることがないならば、人は悪業から免れるでありましょう。大王よ、しかしながら〈実際には〉次の世にまた生まれるが故に、悪業から免れないのです」
−−−−−−−−−−−−−−−−
※ここにいう名称・形態とは周知のように、名称が精神、形態が身体にあたる言葉です。
ここで、業の問題が出てきましたね。ナーガセーナはあくまで無我説のうえに立って、名称・形態が次の世に生を結ぶことを主張している。
そして、次の世に生を結ばせる原動力が、前世における名称・形態による業であると述べています。
つまり、仏教では、人間は現象してくる五蘊の法が輪廻することを認めるのであって、恒常的な実体や霊魂を否定しているのです。
五蘊の法は、まさに、変化しつつ連続しているのですが、その間になす業(行為)によって、次の世の五蘊を結ばせる、といっているわけです。
仏教の無我による輪廻説を理解するには、不一不異、つまり、一ならず異ならず、という考え方を基調にしないと、わからないということです。
それと同時に、生死、生死と繰り返していく、その根本の原動力としての業の考え方です。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) >>143
究極の生命であれば論理的矛盾に陥りません^^ >>132
捉われるということも捉われないということも捉われない。
ブッタの何のために法を説いたのか。
苦を除くための教えだと思うのですが。
険しい道のりだね。 仏法の理解は、ゴチャゴチャした専門用語の羅列ではなく、こうした対話形式の方が断然、分かりやすいね。 >>142
独学でなんか体験して、勝手に判断下して一喜一憂、いま自分は預流果でっせw
当然スマナサーラ長老は阿羅漢‼
これってさ〜、某真理教にそっくりだよなw >>147
業が止まれば輪廻も止まるんですか。
どうやって止めるんですか。
南無妙法蓮華経?^^ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています