【仏教】 悟りを開いた人のスレ310【天空寺】
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欲望、煩悩、執着から離れるには坐るよりもパキシルの方が確実! 前スレ>>998
一応、私も白隠禅師の末流(滴水下)ですけどねw ちなみに、白隠禅師は見性して増長慢になり、道鏡慧端禅師に「無字」を商量して鼻を捻られてます。
でも、生涯その見性は正しかったと言ってますけどね。 >>5
そもそも見性した人は無我を見た人。
無我を見た人が増上慢を起こす訳が無いでしょう。
我が無我を見たぞって言ったらジョークでしょ。
無我が分かってない証拠。
あなたも見性したんだから分かるでしょ? 前スレ>>998
>白隠禅師の夜船閑話を読んでください。
あれは半分創作でしょ?
また、白隠禅師は、実はその生涯で謎が多いんです。
方便を多用されていた方ではありませんかね。 >>7
頓悟って習気が残るでしょ?
無我を見ても、その「見た者」が残ってるでしょ?
だから、悟後の修行ってあるんです。
見性を払っていくんです。 >>10
確かに悟後の修行は、無我になるための修行ですが、
見性した人は、我こそ悟れり、と増上慢を起こして、まわりに言いふらし、修行をやめるような事はありませんよ。
無我のはずなのにおかしい、まだ修行が残っていることを自覚して、誰にいわれるまでもなく、さらに精進します。 支店長に相変わらずだなと言われてしまったw
私ものその一人です。
私理屈こねるのやめます。何て言っておきながらw
童天さんの言葉
夕さんは仏教の話をしない方がいいです。
>ま仕上げた人の言葉以外は自分の思考考えは魔物として見たほうがいいです。
でおーにも言われたけど、自分でも思考を妖と表現をしているんだなぁ。 無我になる?どういう事?
元より無我なる事を自覚すんでしょ。
ケンショウちゃうやろ、それ。 悟るのに30発、悟っても30発って云われるところやね〜 >>12
思考は悪でもなんでもないでしょ。魔物って、、、>_<
夕さんは、摂心会に参加した方がいいよ。 >>13
見性はテーラワーダでは預流果といいます。
自我は無いことを知った人ですが、少し煩悩が残っています。
そこからさらに、煩悩を無くし、渇愛を無くし、完全に何も無くなったのが阿羅漢です。
完全に無我になった人です。涅槃です。 >>11
それはある程度時間を経てからの話です。
省悟とも云いましょうか、鼻を捻られた後と云いましょうか。
見性して舞い上がらなければ見性してないとまでは言いませんが、白隠禅師でさえ「数百年来云々」と見性後に仰ってましたし、ある禅師は一晩中踊っていたとかねw ダンマパダ
72、愚かな者に念慮(おもい)が生じても、ついにかれには不利なことになってしまう。その念慮は彼の好運(しあわせ)を滅ぼし、かれの頭を打ち砕く。 >>19
>童天さん、自分でも思っていることを昨日言われたからねw >>18
白隠禅師の場合はおそらく、正受老人のもとで、箒でたたかれた時が本当の見性だったんでしょう。
その前鐘の声を聞いて増上慢を起こしたのは、ただの禅定体験だったんじゃないかと思います。
自分も似たような経験があるので分かります。 >>24
すいません、作文下手なもんで。
>>26
独学も何もしていないよw >>26
>ま仕上げた人の言葉以外は自分の思考考えは魔物として見たほうがいいです。
デオーさんに言ってね。
俺は感心したけどね。 >>25
いいえ。
白隠禅師自身が仰ってますし、自分の体験からも白隠禅師の述懐は正しいです。
鐘の音で見性し(理)、箒で叩かれて事を覚知したんです。
そこから、理と事のギャップを埋める修行、即ち、悟後の修行が始まるのです。 >>29
何が理でしょうか。
何が事でしょうか。
それらのギャップを埋めるとはどういうことですか? 白隠禅師も正受さんの元で鼻を捻られ、箒で叩かれて事(差別)を覚知しなければ、理(平等)のままで、増長慢・野狐のままだったでしょうね。 >>31
もうすこし詳しく説明してもらえますか?
差別とは何ですか?平等とは何ですか?
ギャップを埋めるとはどういうことですか? >>26
よく読んでないんじゃないですか。
見た方がいいと書いてありますよ。
>独学は毒学だな。ジャンキーさんの仰る通りだ。
独学は毒学だな。ジャンキーさんの仰る通りだ。 「無我(理)」といっても「現象しているわたし(事)」はあるわけでして。
色即是空、空即是色。
理、平等、無我、空、陰・・・
事、差別、我、色、陽・・・ >>35
色は空ですが、空は色ではないと思います。
スマナサーラ師も「般若心経は間違い」という本でおっしゃられてました。
それはそれとして、ギャップを埋めるとはどういう意味ですか? 禅でいう見性とテーラワーダのよるか(変換面倒)四向四果をごっちゃにして、教える人がいるんですか?師で?
夕さんに言ってないのに勘違いするし。
まず意思疎通出来てるかが怪しいよね。
でおーさんと縁切った方がいいよ。
僕の場合は、勝手に破門(爆笑)されましたが。 >>37
>色は空ですが、空は色ではないと思います。
そこら辺は石飛先生等が明確に反証されていたかと。
>それはそれとして、ギャップを埋めるとはどういう意味ですか?
悟後の修行です。
理において「無我」を覚知しても、実際には現象する「我」がありますよね?
足をぶつけた雲水が「お経には無眼耳鼻舌身意とあるのに、この痛みは何故なのか?」と疑団し、やがて悟られたとか。 >>39
実際に「我」が無いから無我でしょう。
それを見るのが見性だと思いますが。
あなたには実際に現象する「我」があるんですか。
それは有身見という煩悩ですよ。 >>37
まぁ、漸悟系の仏教に、頓悟系の仏教でいう悟後の修行という概念はないのかもしれません。 ジャンキーさん、頑張って👍
因縁仮和合ってなんやろなぁ〜 >>38
私は師匠についていませんが、実際に体験してみると、一致することが分かります。
禅でもテーラワーダでも、真理は同じですから、悟りも同じになります。 >>40
有見身と現象を混同されてませんか?
もちろん、我は有るを常見、我は無いを断見を言いますが、その現象とは無(非)我を指しています。 >足をぶつけた雲水が「お経には無眼耳鼻舌身意とあるのに、この痛みは何故なのか?
だよね。
人の物盗んでおいて、「私ではない、私では無い「手」が盗んだのです」と言い訳できる。
んじゃ、その手を切り落としてもよいか?と言われると「痛いからヤメテ!」となるでしょ。 >>44
現象は現象です。我ではないです。
我という概念自体が錯覚です。
常見、断見は因果を否定する見解です。我のあるなしではないです。
我は無いです。見れば分かります。 >>38
えっ、いつ破門されたの。
最初から、破門も何もしてないでしょう。
(変換面倒)四向四果
そうなんですか、
魔物と鏡は別の話ですよ。
私はこのように見ているとということです。
デオーの言葉は内容として見ている。
金剛般若経にもありますからね。
セッタン一門は鏡と戦う。
これはまた別の話です。
私はセッタン派でもなんでもないですけど。ただの曹洞宗の檀家です。 よもやとは思いますが、無我の無は有無の無ではありません。
有無の無として捉えるは断見ですからね。
このスレでも、無我を有無の無で捉えたり、不二一元論で捉えておられる方がおり、妄想だと指摘してますけどねw >>12
>>ま仕上げた人の言葉以外は自分の思考考えは魔物として見たほうがいいです。
賢者は誰の言葉からでも学べるが、愚者はどんな言葉を聞いても学ぶことができない。。
と、言うと言いすぎかもだが、他人の言に右往左往してどうするんだろうと思う。。
正師に就かないのがまず、ダメ。。
あとは、本読まないとだめだね。。
文章というのは、経典、祖録でもそうだけど、基本は全体理解しないと意味ない。。
一句だけ聞いてわかった気になっても間違い、というのはよくあること。。
ネット掲示板何は学んだことをそれぞれが言い合う、というか、議論の場だろうから。。
こういうの、あたりまえにわかってほしいんだが。。w どんなに、「無我、無我」言ったところで、現実はイタイ!
それで、痛くないとか言ってたら、ただの「自己催眠」じゃん。
現実は、「心頭を滅却すれば火もまた涼し」訳がない。 ジャンキーは、
「山は山でない」⇒理
「やはり、山は山であった」⇒ここまで来て事
って言いたいんじゃないの?w そもそもケンショウしたら、大拙博士の名前が出せなくなるって何? >>48
無我の無は、我という概念は錯覚で、実体は無いという意味ですが、
断見の場合の私はいないというのは、因果を無視して、私の業はないとするものです。
で、あなたにとって「我」という現象があるんですか?
>>39で書かれています。 > ま仕上げた人の言葉以外は自分の思考考えは
> 魔物として見たほうがいいです。
仕上げた人という例外を設けて自己言及のパラドックスは避けてるけど、そもそも仕上りの有無云々自体が相対概念だろ、タさん。 >>54
見性し、無我を見れば、余計なものに興味が無くなります。
無我というゴールが見えているので、ゴールに向かって突きすすむだけです。
学者先生の本を読んでいる場合では無いです。
経典すら読まなくなります。とにかく瞑想します。 >>51
創価学会て、ちゃんと仏教してんですね。
この前、顕正会?か、エホバ?か分からないけど、玄関こじ開けて入ってきてビビったわ〜。よっぽど不況で信者が欲しいんだろうね。すぐに叩き出したわ。
創価ほどデカイと安泰やね。政界にもずっぷりだから。 >>57
どうぞ、ご自由に。
まさに、人空法有。
大乗は人空法空。 57.瞑想バカである。それで悟れることはない。残念である。結果が見えるからである。 無我の我とは分別したときに生じる我^^
それは虚妄である^^
ゆえに煩悩が生じる^^ うん?
もしかして・・・^^
う〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん^^
見性しておる^^
ビックリ^^ ちなみに足をぶつけた雲水が悟ったのは、
痛みだけがあるのであって、「私」はどこにもない。「私が痛い」と思っていたのは勘違いだった。
と気付いたからです。 >>56
諸の衆生のために分別し演説し開発(かいほつ)顕示するのみなり
戯論で非戯論を表す。
この言葉が妥当かは、わかりませんが。言葉に出せばやはり戯論になってしまいますから。
筏の例えがあるのでしょう。
>そもそも仕上りの有無云々自体が相対概念だろ、
自性清浄ですからね。
ブッタの何のために法を説いたのか。
苦を除くための教えだと思うのですが。 >>48
その通り
「我(アートマン)は無い」ではなく「我(アートマン)では無い」の無ということだね
>>50
>一句だけ聞いてわかった気になっても間違い、というのはよくあること。。
そうだね
前スレでもスッタニパータのマーガンディヤ経の
837 師は答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執着を執着であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤(かご)を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」
この言葉ばかり抽出して『釈迦はなにも説かないことを信条としてた』みたいなことを言いたい人がいたけど
マーガンディヤ経の最後が
847 想いを離れた人には、結ぶ縛(いまし)めが存在しない。智慧によって解脱(げだつ)した人には、迷いが存在しない。想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく。」
と想い(表象、イメージ、想蘊)を離れると束縛がない、慧解脱した者には迷いはない
と教えていることを忘れてるんだよね
http://suttanipata.com/afzafaafafaaf/
https://76263383.at.webry.info/201504/article_8.html >>64
道元禅師は、「無の眼耳鼻舌身意あり」との受け止めだったかと。 70.無我を理解していない。それでは見性にならないはずであるよ。 >>70
実際にあるのは因縁により刹那生滅する五蘊です。
我は本当にどこにも無いです。 >>68
あくまでもです。私の考えです。
道元は自性清浄から見ているものと思います。
ただ、これだとどのように修行すればいいのだという疑問が出ると思います。
だから、わたしは、仏が修行すると以前から言っています。 「無我」<仏法 西と東より>
有名なミリンダ王の問い
ナーガセーナ
「大王よ、わたくしはナーガセーナとして知られています。
この『ナーガセーナ』というのは、実は名称・呼称・仮名・通称・名前のみにすぎないのです。
そこに人格的個体は認められないのであります」と答えています。
※ここで、はっきりと仏法の"無我的立場"を打ちだしていますね。
ミリンダ王
「ちょっと!何言ってのか、分かんないですけど!」
※王には西洋哲学の枠を越えているのでサッパリ理解出来ません。
ミリンダ王
「たとえば、もし人格的個体が認められないならば、修行にはげむのは誰か、殺生をなすのは誰か、
酒を飲むのは誰かなどと、行為の主体およびその行為の責任をとる者について」等の鋭い質問をぶつけています。
さらに続けて王は問います。
「こんどは具体的に、ナーガセーナを構成している心身の各要素を一つ一つとらえて、それがナーガセーナなのか?と細かく問うていく。
髪、身毛、爪、歯、肉、骨、心臓などを初めとして、仏法の五蘊である色(物質的なかたち)、受(感受作用)、想(表象作用)、行(形成作用)、
識(識別作用)の一つ一つがナーガセーナなのか?と聞き、最後に五蘊の合したものがナーガセーナなのか?、
また五蘊以外のなにかがナーガセーナなのか?と問い詰めていくけれども、結局、すべてそうではないと否定される。」
ついにミリンダ王は業を煮やして、「あなたは虚言を語った」といって立腹してしまう。 ところがその後、ナーガセーナはただちにミリンダ王の用いた同じ論法でもって、ミリンダの車について反論していきます。
つまり、車を構成している各部分について、一つ一つ、それが車ですか?と問うていきます。
軸、輪、車体、車棒、などについて、それが車であるか?と問い、さらに、その全部を合したもの、
あるいはそれらの要素以外のなにかが車なのか?と問い、ミリンダをしてすべて「車ではない」と答えさせます。
その結果、ナーガセーナもミリンダ王と同じように、あなたは嘘言を語った、といって非難するのです。
ナーガセーナに問いつめられたミリンダ王は、車というのが、軸に縁って、輪に縁って、車体に縁って、車棒に縁って、
「車」という名称・仮名・通称が起こるのであることを理解します。
「大王よ、あなたは車を正しく理解されました。大王よ、それと同様に、わたくしにとっても、髪に縁って、身毛に縁って……乃至……脳に縁って、かたちに縁って、
感受作用に縁って、表象作用に縁って、形成作用に縁っで、識別作用に縁って、『ナーガセーナ』という名称・呼称・仮名・・通称・単なる名が起こるのであります。
しかしながら勝義においては、ここに人格的個体は存在しないのです」 57.無我というゴール、か。無我はゴールではない。通過点である。 こで注意しなければならないのは、一般的にも確認されているように、ナーガセーナの"無我"の説明法がアビダルマ的分析法に従っているということでしょう。
もっと正確にいえば、アビダルマのはしりが見られるということですね。
原始仏教における「諸法無我」の法印にしても、これを人間の個人存在にあてはめた「五蘊無我」にしても、釈尊自身の体験的直観から生みだされた思想といえます。
もっとも、釈尊は直観ばかりではなく、説法のために五蘊や十二因縁などの分析も行なっていますが、
その場合でも、直観と分析とは均衡と調和のとれたものであったように思う。
それが、アビダルマ時代になってからは、分析のほうに重心が傾いていく。
だから同じ「無我」でも、原始仏教のそれとアビダルマ的なそれとは、若干ニュアンスが異なっています。
仏教の初期においては、あくまで、究極の生命は釈尊の胸中に輝ける確固たる実在として体験されていたといえるでしょう。
そして、その体験をもとに、迷える衆生が「私」「自分」などの「小我」にとらわれて苦悩している姿を見て、それはすべて"無我"であると打ち破り、
一人一人の胸中深く実在している究極の生命(大我)をこそ覚知し、みずからのものとしなければならないことを教えたのです。
しかも、その究極の生命については一言も言葉としては表現しなかったように私には思える。
いわば、言語を絶した"沈黙"の部分であったのです。したがって、「無我」にしても「縁起」にしても、当の実在を指し示す助縁として語られたものといえます。
ところが、後世のアビダルマに入ると、もともと助縁の役割を担っていた「無我」なる言葉が重要視され、
ある意味では絶対視され、人間の個体を含むすべての存在について、客観的に「無我」であることを論証しようとしだしたといえるでしょう。
その結果、存在を構成要素に分析して、そこに常住不変の実体はない、だから「無我」であるというように証明しようとした。
その意味では少しばかり、わき道にそれてしまったといえるでしょう。
つまり、体験によって覚証される部分について、あくまで理論的に、分析的に証明しようとした点がアビダルマの特徴といえるわけですね。 釈尊も人間を五蘊でバラバラにして、色、受、想、行、識がそれぞれ無我だって、説法してたと思うけどなあ。
あれはアビダルマ時代の、後世の付け足しだったんだろうか。 >>68
ジャンキーさんのごめんなさい。
私じゃなかったね。 末那識……平等性智
自我に執着している自我意識、つまり我執を無くし、我見・我痴・我慢・我愛の
四つの根本煩悩を滅し、我空を理解して、主客の分裂が無くなり、自他分別も無くなって、
法空も理解し、この世のあらゆるものを自他平等・不二平等に識できるようになったこと。
これなんだよな^^ >>66
この内容もちょっと問題点があるな。
自分で書き込んでいるけど。
わからないと言われそうだw 84.知識の天才である。その知識に溺れることになる。 >仏教の初期においては、あくまで、究極の生命は釈尊の胸中に輝ける確固たる実>在として体験されていたといえるでしょう
>一人一人の胸中深く実在している究極の生命(大我)をこそ覚知し、・・・・
wwwwwwwwww
一体、誰の言説だい?w
全く、外しているけどw >>73
「ある」とか「あり」ってどうしても「有」を想起してしまいますよね。
もちろん、五蘊皆空との受け止めです。 如虚空淨心 常明無轉變 爲虚妄分別 客塵煩惱染
虚空のような浄心は 常に輝いて転変しないが 虚妄分別のために
たまたまの煩悩に汚されている >>90
しかも刹那生滅してますからね。
「これ」とも言えない。「こ」と言おうと思ったときにはもう無い。
黙っているしかない。 >>74
なるほどですね。
私は、体・用・相の概念を借りて理解が進みました。
婆さんに席を譲るのは分かっていても(衆生本来仏なり)、でも、実際に譲らないと(本証妙修)、ね。 三界流浪の凡夫のならいは、すべてこの苦楽の間をのがるることあたわず。 大いなるかな苦楽の二受。
三界一切の衆生、その中におぼれて、ついに出る事あたわず。 >>93
まぁ、禅宗だと「行亦禅坐亦禅 語黙動静体安然」ってなります。 このことわりをよくさとりて苦楽の二つをこえぬれば、第二の受蘊のまよいをはなれて、涅槃の大楽にいたるなり。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています