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--佛教論議の伽藍スレ-- 第二巻
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0001神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/08/01(水) 05:54:24.84ID:rYZcsElT
仏教に関するKeyword
「無我」と「アートマン(我)」、「輪廻」や「涅槃(ニルヴァーナ)」などについて、
原始経典(「パーリ五部聖典」や「漢訳四阿含経典」)に説かれているブッダからの教説を中心にして、
激しく議論したり、または有益な情報を互いに交換するためのスレです。
尚、自説の主張に際しては、最低限の論拠や根拠を併せて提示されますよう宜しくお願いします。
基本的に仏典(原始経典)の記述を根拠にしていることが大前提ですが、
もし、そうでない場合には明確な理由を必ずしっかりと説明して下さい。

-------------------当スレの戒律(マナーとルール) -------------------
条項 1.コピペ・アスキーアートは原則禁止(議論に使用する為の真面目な図解については可)
   2.文章、三行以下の投稿は連投を禁止します---落書き帳やメモ帳ではない
    (チャットような使い方はすぐ1000レス使い切るので辞めて下さい。もっと内容を一つに纏めてから投稿しましょう)
   3.一行明け投稿や無駄な空間を使用した投稿は遠慮願います。
   4.意味の無い無駄な投稿は完全な犯罪級の荒らしです。スレ主である私(宝珠真範)の判断で即刻、退場してもらいます。
   5.南伝仏教(または上座部仏教/南方仏教..)を「小乗仏教」と呼称することは差別用語なので使用禁止です。
    (1950年の世界仏教会議にて決議した)
   6.議論でヒートアップしても相手を不当に侮辱した言葉を使わないこと(節度ある態度で接しよう)
   7.仏教徒として当り前の話ですが、ブッダを侮辱する意味の言葉は厳禁です。即刻、退場してもらいます。
   8.次スレを立てる際は、勝手に「スレタイ」や「テンプレ」(レス番2の戒律と資料リンク含む)を変えないこと。厳守!!
 以上ですが、基本的には参加者皆さんの良識に期待します。
0362神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/10/15(月) 22:41:56.45ID:byHRJhh4
>>361
要らない。(つーかそんなスレ知らんし)どうせたぶん、永遠に納得しないからwww
AIの魂なんてどうでもいいw
『知る』(「学習する、身に付く」)までに、どういうプロセスが必要か、ということ。
(赤子が世間を学習するのと一緒。もし、感覚器官が不要なら、赤ん坊をガラスケースで育てたらいい。
或いは、外国語及び外国の文化・物品、慣習等を知るのに、言葉だけでどこまで正確性―というか、
”そのもの”に迫れるか―を保持できるか。 禅の言う冷暖自知も愚かな四字熟語だw
或いは、運転上手ければ、初めてでも(―同乗したことがあったら×w―)大型バスやトレーラーを
自在に運転できるかどうか、とか。まさに身体感覚の延長の車体(サイズ)感覚・操作感覚なわけで・・。)


ああ、そうか・・。 仏教にアスリート的要素があるかないか、という見解の相違か・・・。
だったら、余計に平行線だな・・。

あれ? (禅は別としても)
密教こそ、身体を使って上のステージへと上げていく行法に特化した宗派だと思ってたが違ったか・・。
0363神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/10/15(月) 23:04:22.54ID:SbM48jjJ
階級制度でも人生規範でもなく 慣習でも法でもない
集中 瞑想 ヨガ その他の修行のどれも必要ない
「私が」「私の」という観念は自己でないものから生じる
その誤りは捨て去るべきである
私は唯一なるもの 自由にして幸いなるもの
ただそれだけが 存在する


母でも父でもなく 神々でも世界でもない
ヴェーダ聖典でも供儀でもなく 聖地でもない
自己は熟睡状態でも存在し 無ではない
私は唯一なるもの 自由にして幸いなるもの
ただそれだけが 存在する


教師も聖典も存在しない 生徒も教えも存在しない
あなたも私も存在しない この経験世界は存在しない
真の自己の悟りに差別性はない
私は唯一なるもの 自由にして幸いなるもの
ただそれだけが 存在する
0364おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/10/15(月) 23:59:21.72ID:hlOvjCLB
 
>密教こそ、身体を使って上のステージへと上げていく行法に特化した宗派だと思ってたが違ったか

おじゃるも、そう思っちょります
(実践したことないけど)

http://www.tenkouji.jp/about/te-mixtukyou/
臼杵山 真言宗 天光寺

大日如来は
成道以前の釈尊すなわち全ての目的を達成する菩薩となってこの世に現れました
この菩薩は
苦行の果てに「一切に如来」から、悟りに至る真実の修行方法です
  _  _  _

  _  _  _

ところで何で↓動画を見ないのだろうか?ということで、もう一度

人間ってナンだ超AI入門 第2回 感じる
https://www.youtube.com/watch?v=annGFV6yMkI

↑動画を見ないと、セブン僧侶が何を主張しているのか?意味がわからないと思う

(↑仏教的というよりも世俗的なことで おじゃります)
0365おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/10/16(火) 00:33:48.22ID:KEwOv5bh
 
釈迦
出家
バッカバ仙人を訪れ、その苦行を観察する
アーラーラ・カーラーマ(無所有処定)
ウッダカラーマ・プッタ(非想非非想処定)

この体験・経験を
「無駄なものである」とするのか?
或いは
「この体験・経験があったからこそ」とするのか?

仮設としての
色受想行識の仮和合である五蘊

http://junsoyo.on.coocan.jp/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
曹洞宗 内山興正 思い手放し

坐禅中の心構えを一口にいうならば
坐禅の姿を
骨組と筋肉でねらい

>身体を使って

そうして「思いを手放しにしている」という言葉が一番あたるかもしれません

http://pao.hamazo.tv/c601110.html
パオ森林僧院における修行の進め方

>身体を使って

呼吸に30分〜1時間、集中する(気づく)ことを継続します
0366ポッタン師
垢版 |
2018/10/16(火) 01:01:23.46ID:O/GMuTjs
365.バカ丸出し、である。大爆笑である。
0368神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/10/16(火) 21:59:50.95ID:dq5IFT71
宝珠も真面目でイイ奴なんだが、カラスを称賛してる時点で、
(少なくとも『仏法』として)何も見えてないと言わざるを得んわけでね・・・。
0369
垢版 |
2018/10/16(火) 22:25:17.09ID:dq5IFT71
余談:
彼らのは、『仏法』ではなくて『神法』。

仮に、百歩譲って、(大いなる意志としての)『この世の理としての法』があったとしても、
≪【その「軛」から】【離れ得た】のがお釈迦さんである≫、と私は信じるものである。
0370おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/10/17(水) 02:29:26.38ID:dHEHAeNN
 
カラスっていうコテの人と対話したことないので詳しいことは、わからないけど
仏教が云うところの「仮設としての」という意味を理解してないので

現れ変化して滅している。ということも

地水火風の微細な粒子に分解していく
上座部系の四界分別観。ということも、そして

上座部系よりも、更に理解するのが難しい
中観帰謬としての大乗も理解してない。という感じもする
(おじゃるも理解してないけど…)

たとえば中観帰謬の場合なら
>ただそれだけが 存在する
と掴もうとしている『想い』も手放していく

何故か?

青目(ピンガラ)の中論 觀如來品 第二十二
(仮設としての
  無明に依存しているのなら)
人は戯論を生じる
戯論して慧眼を破れば
是の人達は
皆、仏を見ることはない

汝の言う『ただそれだけが 存在する』も、(無明に依存して)分別されている
(↑中観帰謬の場合)
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B
0371神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/10/17(水) 02:39:16.95ID:Z6KoqnLF
肉体やマインドは仮設ではない幻影(マーヤ)である
0372おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/10/17(水) 04:27:02.68ID:dHEHAeNN
マーヤー

仮設としての
縁起している

空性に依存している

たとえば
地水火風の微細な粒子とかに依存している
(色受想行識の五蘊の仮和合に依存している)
(遍計所執性に依存している)

マーヤー(幻影)

それゆえに実有ではない

縁起に依存して
現れ変化して滅している ← 仮有

変化しないものではない
(空性に依存している、世俗の世界も?)
「…である」と定義することはできない
「…である」ものではない
それゆえに

チベットに伝わる心の訓練法
坐(瞑想のセッション)の間は
(縁起している世界は)幻術師が創り出した、マーヤー(幻影)である。として観照せよ

スッタニパータ 1119
(縁起している)世界を空(マーヤー(幻影))なりと観ぜよ
0373おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/10/17(水) 04:55:33.71ID:dHEHAeNN
 
たとえば唯識とかの場合は

仮設としての
縁起している世界の中において
縁起に依存して

種子は
阿頼耶識を飛び出して
末那識に作用して

(他に依存することのない自性は)存在しないにも関わらず
(他に依存することのない自性が)有ると思う虚妄の執著である
遍計所執性に依存して

((仮設としての)有ると思う虚妄の執著をもって)
マーヤー(幻影)が、現れ変化して滅している

それゆえに
縁起している世界の中において
縁起に依存して
無明薫習に依存している

マーヤー(幻影)が、現れ変化して滅している

という頼耶縁起としての対機説法で おじゃります

(そして、円成実性を見ずして依他起性を見ることはできない)
0374ポッタン師
垢版 |
2018/10/17(水) 07:15:22.92ID:6Dz5Klp8
バカおじゃるはバカのひとつ覚え、を繰り返しているバカである。大爆笑である。
なおしようがないバカである。大爆笑である。
0375宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/10/18(木) 15:01:13.58ID:WFFdY5gZ
>>358
私も承狂さんと同一見解かなぁ。>>357
脳ミソだけで生体活動をしている状態がそこにあったとしても、それはコンピュータでいうハード部分に過ぎない。
そのような状態では、ソフト(ウェア)である魂がそこへは降下できないでしようね。
もしも、覚者?のような偉大な人間の脳内情報をコピーして引き出し、
それを別の(遥かに劣る)人間の脳内へと上書きすると想定してみる...。
その脳内情報とやらには残念ながら覚者としての満足な情報はないだろうと思う。
そこには肉体的な血縁祖先に連なる進化情報、及び今生での生存情報はあるけれども、所詮はそこまでかな...。
そして、また言えることというのは、ただ動力能力の優れたスーパーカーだけが与えられたとして、
それを乗り熟すことのできるドライバーがいないならば、まともに動くことがない。
たぶん、大衆車にも劣る走りしかできないでしょう。

>>368
>カラスを称賛してる時点で、

カラスさんの見解にすべて同意してるというわけじゃないけれども、
しかし、あの方は物事に対する視点が非常に鋭いと思う。
『ウダーナ』の始め、私があの方から教えられたことはかなり多い。
悟りの関係において“明けの明星”のこと(仏伝にある)を採り上げてみたりと、
他の人にはないものがある。

だから、
感情任せの暴言含みさえ辞めれば、
もっと素晴らしいものが書ける人。
0376宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/10/18(木) 15:02:20.89ID:WFFdY5gZ
>>315
>>318追記:

その特番の中でも、
もっとも顕著な能力を冷静な態度で示したのが青森の神様/木村藤子。
確か私の記憶では、逃げ出して行方不明となっていて警察捜査でもまったく見つけることができなかった大蛇ニシキヘビを
この女性は自分の霊視一つで、蛇の居場所とその状態をピシャリと言い当てた。
発見者は、本当に霊視そのままの状態だったとして驚愕したという。
この出来事が新聞報道などで大きく取り上げられて全国区の有名人となった。

イギリスなどでは、
犯人捜査や見つからない遺体の発見など検察捜査に協力している常駐能力者の存在が広く認知されている。
あっ、その木村藤子さんですが、久しぶりにちょうど16日のTV番組で特集が組まれましたね。
https://www.fujitv.co.jp/b_hp/181016kisekisoudan/index.html
0377神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/10/18(木) 16:24:36.64ID:WD/f2pSE
>>375
あのなw 最初から「魂」云々の話なんかしてないの。(勿論、後でそこへもっていくという展開はあっても)

魂云々以前の段階として、ヒトが(生物が)学習・経験してゆく過程において、
身体からの入力は不要なのか?という話。 
で、さらにその先として、魂があれば身体は要らないのか?というステップ位踏んどけ。
(つーか、じゃあそもそも魂への情報はどこから入るんだ、とw)


ああ。。。そうかw、 (生まれ変わりの話同様w)
「魂」が「ソフト」で(フロッピーやら何やらというモノに、今は便宜上仮託するが)
ソフトを入れたら、どんな本体でも(スマホでもデスクトップでもロボットでも)
皆、同じスペック同じ様子で動く、ってことか。
便利だなぁ・・。
でも、生まれ変わり事例のように最初から魂に記録されてるなら、新たに学習しなくていいいじゃんw
親がわざわざ苦労して育てる必要も(―御飯の食べ方やうんちの仕方、何が危ないもので何が自分に扱える物か、
何をどうすればどう扱えばそれが機能するのか役に立つのか、などなど―)何も経験しなくてもいいじゃない。
強いて言えば「睡眠学習」でいいじゃん、という話。
もっと言えば、ハード無しにソフトは動くのか、という話。
ここで初めて魂云々がメインとして絡んでくる話。

貴方は、基本の問い「身体からの入力(情報)の要不要」に全く触れていない。
魂が有ろうが無かろうが、ソフトとして身体を動かそうがどうしようが、
身体が存在する以上同じように存在する身体による入力(―それはつまり五根による五境の(からの)感受―)
は要らんのか?という話。
0378宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/10/18(木) 16:39:54.18ID:WFFdY5gZ
>>377
>身体が存在する以上同じように存在する身体による入力(―それはつまり五根による五境の(からの)感受―)
>は要らんのか?という話。

必要不可欠でしょ!
経験学修のための魂の受肉なのだから、
情報データだけを入力できれば同じとはならないでしょう。
自分自身の身体を動作して伴う経験が不可欠では?
0379神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/10/18(木) 16:40:33.73ID:dL5z9Q1n
【世界教師マ@トレーヤ】 ニート親子共倒れ、トレーダーはビルから投身自殺、貧富ダブルノックアウト
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1539828384/l50

株式をギャンブルにして企業経営を不安定にして失業者を増やした投機家は、その報いを間もなくうける!
0380承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2018/10/18(木) 17:34:53.15ID:0qd1unw/
>>362
俺は元密教ってだけで別にスポークスマンでもないからスルーしようかと思ってたんだが、(笑)
なんか宝珠さんが俺と同じとか書いてるんで、「知る」という事について、ちょっと書いとく事にします。
亀ですんまそん。

さて、禅では聞恵、思恵、修恵と段階を経て智恵に至るとしてる、と何かで読んだが、
ある程度の人生経験や修練を積んでいれば、「一を聞いて十を知る」という事もあります。
また、物理法則に従って、初期条件から運動の結果を算出も出来ます。
過去の科学的知見の無い社会では圧倒的カリスマで王になったり、優れた知性と人徳で賢者とされた人々がいましたが、
現代近代の社会構造では、高度化複雑化して一個人の能力とは別に様々な学習や経験を学ぶ必要があり、また現代人は学んでいます。
よって、免許を持っていれば、その車種であれば乗った「経験」がなくても別の「経験」で操作、運転出来ます。
同様に免許が無い車種でもある程度類推ができます。
先の段階を経るとは、ある程度フィードバックして出入力の最適化を計ることですが、そのマトリクスがある程度蓄積していたなら必要無い訳ですよね。
そして世の中には私の数倍のIQ や優れた運動神経の人もいるので、
「知るには必ず体験などが必要」とは言えないかと。
また、生物としての多様性がある一方で文化的断絶による「教えても理解出来ない」事があるのも事実です。
極端な例だと……
まぁ、ともかく、なんやかんやで一概には言えないが、全てが縁起しているんだから純然たる唯識の智恵等はありえないし、従って検証すら出来ない話だ。(笑)
但し、オカルティストは意識界独自の某かを各々想定するから、極論として其がある、という事になるんだな。(笑)

(^。^)そして、俺と宝珠さんとはこの想定内容が全く異なるって点を敢えて書いておく。(笑)
0381神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/10/18(木) 17:57:10.23ID:zGNNoXxf
>>380

承狂氏、おひさ、
西国三十三か所をめぐり、御祈祷戦闘力を上げる修行をしている、イタリア人真言僧に遭遇したぞ、
世間話をしたぞ。
0382神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/10/18(木) 17:59:54.92ID:zGNNoXxf
>「知るには必ず体験などが必要」とは言えないかと。

イタリア人真言僧、結構体験積んでいるらしい、祈祷系かもしれないけど・・・・。

高野山金剛峰寺発行の年一雑誌、「kukai」を買って読んだぞ。
0385承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2018/10/18(木) 19:27:51.33ID:0qd1unw/
>>384
(^。^)プロじゃないから。(笑)

好きなら好き、嫌いなら嫌いでいいだろ。(笑)
他人の批評なんて気にすんな。(笑)
0386おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/10/18(木) 20:13:35.80ID:MKweNmBv
 
>冷静な態度で示したのが…木村藤子

了解で おじゃります

福来友吉(1869年12月5日 - 1952年3月13日)
超心理学者。東京帝国大学助教授、高野山大学教授
鈴木光司の小説『リング』に登場する、伊熊平八郎のモデル

御船千鶴子(1886年7月17日 - 1911年1月19日)
山村貞子の母親(山村志津子)のモデル

たとえば、架空の作り話であったとしても
部分的には本当の話を題材としている場合もあるかもしれない

ヒンドゥー(バラモン)
人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって
次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる
人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き
無限に続く輪廻の運命…

果報(報い、果熟)を生じる因となる - 業(karman)

魂魄(こんぱく)
魂は陽に属して天に帰し、魄は陰に属して地に帰す

https://www.youtube.com/watch?v=JgBxWod3-no
【青山繁晴】硫黄島の写真(幽霊の話し)
0387神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/10/18(木) 22:20:10.77ID:WD/f2pSE
>>378
だったら、>>352を取消しとけwww

ずっと、必要不可欠だという話しかしてないのに、
なぜ、しょきょの口車に乗っかって、魂中心で文章を作るか・・・w ┐(´ー‘)┌

>これは肉体が在ってのことだけれども、
>肉体には拠らない経験学修をしてくる

肉体による学習(→身体からの入力)を、
整理し、蓄積し、統合し、或る経験・知識・スキル・習慣(≒戒sIla)として
≪「身につけておく」必要≫があるのかないのか? と尋問してんだよ、こっちは。

一在家並みの馬鹿に戻っちまったか?  >>宝珠
0388神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/10/18(木) 22:27:04.19ID:WD/f2pSE
ああ、
でも、カラスやサロメや在家やらに対して、どういう反応をするか?
は、仏法理解度、及び対仏教の立ち位置、のバロメーターかもしれんwww
0390承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2018/10/18(木) 22:49:53.36ID:0qd1unw/
「尋問してる」とか。(笑)
日本語を知らんのかな?(笑)

要は「本当の私」は身体感覚器からの情報、或いは何らかの物理的情報入力無しに活動しうるのか、認識しうるのか、だろ?
そりぁ、宝珠さんとかは「本当の私」を仮定してるんだから、そうなれるしそれが目標でしょうよ。(笑)
仏教ではそれはないから如法であり如来如去なんだが、この辺の呼吸を間違えると他力思想になる。
これは招入門が目的地になっただけだが、ある意味ソチラも同じで、
三界万霊への普供養を単に現世に向けた慰めとするのも一端でしょうよ。

(^。^)いいか、お前ら!一切を供養するっていってんだから一切を供養するんだよ!ドン!(笑)
0391神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/10/18(木) 22:57:49.07ID:WD/f2pSE
>>380
>よって、免許を持っていれば、その車種であれば乗った「経験」がなくても別の「経験」で操作、運転出来ます。

>その車種であれば


>>362では、 『全く異なる形状・種類の車でも』 という条件になる筈だが?
敢えて無視か?w

>ある程度類推が
類推で済んだら、世の中の事故はもっと減ってるわw
ま、それはともかく

家族が増えて、スポーツカーからワゴン車に替えた時、結構擦ってる人多いと思うんだよねぇ・・。

車(自転車やバイクもそうだけど)の運転って、身体感覚の延長に他ならないからね・・。
車庫入れや縦列駐車になると、そこに空間認識力(≒距離感)も絡んでくる。
だから、(―こういう発言すると、フェミや人権連中がうるさくなるけどw―)
「女子は車庫入れ・縦列が苦手」という言説が広まっちゃうんじゃねーの?
或いは逆に、男子は台所仕事が苦手、女子は得意(でなければならない!)ってのも、
その分野での身体的経験の量の差異を、世間が男女(の能力)差に変換してるんじゃねーの?
それは、ひとえに、
身体的経験は、積まれれば積まれるほど、重ねられれば重ねられるほど、
反復されれば反復されるほど、その存在(人)にとっての能力・可能性、或いは特質、いい所・長所
になっていくんじゃねーのkし? >>378
0392神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/10/18(木) 23:06:08.07ID:WD/f2pSE
なんか余計な文字が入ったが、

>>390
だからw、その前段回の話だよ。
生まれた直後の子でも、優れた阿闍梨やブッダ同様、動き、喋り、人々に法を説き、
居住まいが崇高で、四禅も自在で、一切の煩悩を制御し、静まった心で居るんだ。
或いは、生まれた後そのまま何も干渉せずにチューブで栄養を与え続け、
数か月・数年放っておいても、その子は着実に仏法を身に着けていくわけだ。

便利なぶっきょうだなーーーーー。
0393神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/10/18(木) 23:16:01.92ID:WD/f2pSE
宝珠もしょきょも、
A、『一通り、人としての、社会人としての、知力体力感性を身に着け』
B、『仏法に於ける、近づくべきことと厭離すべきこととの分別をつけ、何がほうであるかを見、知り』
『その上でのその先は』
C、,『肉体的情報は不要だ』
という流れの中の C しか口にしていない。
勿論、感官の制御(或いは遮断)は口酸っぱく言われることなので当然だけれども、
そもそも、涅槃へ向かう為の準備段階に、身体的経験(と制御)が不要だとか、
あり得ないと思うんだが、違うのかなぁ・・・。 (―_―)
0394承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2018/10/19(金) 00:26:45.28ID:K+zeZqJo
>>393
どうも縁覚という存在をディスってるようにしか読めないんだが。(笑)

390に「仏教ではそれはない」と書いてるように、全てが縁起してるんだから、そちらの感覚に関するご意見には全面的に賛同してんだがね。(笑)
但し、俺はオカルティストだから違う考えってだけ。(笑)

(^。^)それと俺は「その上で肉体的情報は不要」だなんて話はしてない。(笑)
論理的には、極端な例だと、完全に断絶した存在を想定せざるを得ない、ってな話を書いただけ。(笑)
0395おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/10/19(金) 05:11:17.37ID:qPRar7cV
 
↓本当なのか?嘘なのか?

【新事実】
「女性は地図が読めない」はウソだった!?
男女不平等が女性の空間認知能力を低下させていたことが判明!(最新研究)

「女性は男性に比べ、地図を読めない人が多い」これは単なる女性への偏見ではなく
学術的な調査でも明らかになっている傾向である
だが、その原因は、もしかすると属する文化の女性に対する偏見にあるのかもしれない

アメリカやイギリスなど
男女の格差が少ない国ほど「地図を読む力」の
男女差も少なく
ナビゲート能力の高い女性も多いことが明らかになったという
  _  _  _

おじゃるの知り合いに限定すれば
空間を把握・認識する能力?も
相手との会話を(正しく・正確に)成立させる能力?も
両方とも『とんちんかんぷん』な女性が多いという感じもする

(おじゃるも『とんちんかんぷん』であると自覚?しちょります m(_ _)m )
0396おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/10/19(金) 05:33:23.01ID:qPRar7cV
 
>縁覚
って何ぬねの?ということで↓とりあえず

スッタニパータ 36
交わりをしたならば愛情が生ずる
愛情にしたがってこの苦しみが起る
愛情から禍いの生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め

寂静な孤独を好む - 縁覚

↑こんな感じ? おじゃる?
0397神も仏も名無しさん
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2018/10/19(金) 09:35:18.50ID:7UImnGK8
師について四諦を実践して悟りを目指すのが声聞
独りで十二因縁などを観じて悟るのが縁覚
自分独りの悟りに止まらず一切衆生をも救済して共に悟りを目指すのが菩薩

声聞と縁覚は小乗の悟りで菩薩は大乗の悟りだという

しかしそれら三つの道は仏が衆生の機根に合わせて説いた方便であり仏の真なる教えはそれら三乗を乗り越えて
火宅に喩えられる娑婆の現象世界を超えたところに真実の悟りがあるとする
これを三乗方便一乗真実という

人はガンジス河の砂の数ほどの劫数分の過去世のどこかで仏と出会って法華経を説かれて仏の種(仏種)をその身に植えられている
だから人は誰でも仏種を発芽させて仏となることが可能である(人は誰でも成仏できる)とされる
0398ポッタン師
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2018/10/19(金) 11:36:45.17ID:rxzQGYOU
397.迷信である。バカ丸出し、である。大爆笑である。
0399おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
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2018/10/19(金) 11:58:01.78ID:qPRar7cV
 
大乗の世界観としては

>仏の種(仏種)をその身に植えられている

ということで おじゃりますな?

ちなみに↓おじゃるの場合は

仮設としての
無明に依存しているのなら
誰もが成仏するわけではない(五性各別)

という感じで おじゃります

自性清浄
心は光り輝いている。ただ、外来のもろもろの煩悩によって汚れている
0400ポッタン師
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2018/10/19(金) 12:03:53.92ID:rxzQGYOU
399.バカ丸出し、である。大爆笑である。
0401神も仏も名無しさん
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2018/10/19(金) 15:19:14.40ID:igCOz8DH
行基が仏(菩薩)になれたのは法相宗だからではなくて過去世において法華経を説法されて具わった仏種が芽生えて以降、
法相宗で理想とする無住処涅槃に入ることができたから。
おそらく行基は前世も前前前世も仏であったし今もその行基以降何度目かの転生が仏として世界のどこかで衆生を救済しているのであろう。
0402ポッタン師
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2018/10/19(金) 16:18:16.67ID:eE6s5ebn
401.迷信である。バカ丸出し、である。大爆笑である。
0403承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
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2018/10/19(金) 16:41:53.86ID:K+zeZqJo
老化すると、色んな言葉が浮かばなくなって、似たような話を繰り返すようになる。
これは人の世の習いで、脳機能の衰退から万人に起きる現象だ。
だから、お前らも「またクソ爺がー」なんて思わずに、尊敬と労り、仏教的には慈悲で接しなきゃダメだぞ?(笑)

(^。^)俺もこうなるんだと最近は身に詰まされてなぁ。(笑)

きっと当人の脳内では、もっと高尚な意義深い話が……どうなんだろ?(笑)
意識活動も停滞して簡単な反射が起きてるだけなのかな?(笑)
科学的にはニューロンの電位とか化学物質を観測して明らかに減退しているらしいが、
意識活動は本当に脳機能だけで成り立つものなのか?
脳死とか、心臓移植による人格的変化とか、生まれ変わりの話とか踏まえてこのクソ爺のレスを見ると、
やはりどうしようもないクソ爺だと思えてくるだろう?(笑)
0404おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
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2018/10/19(金) 17:18:06.20ID:qPRar7cV
 
>似たような話を繰り返す
  ↓
おじゃる「唯識とは…(なんちゃらかんちゃら)」

ポッタン師匠「大爆笑である!」

隠居師匠「生命とは…(なんちゃらかんちゃら)」

机師匠「すべて無である!」

その他諸々の師匠の方々

仏教だけに限定すると
同じような内容の話題になる可能性もあるかもしれない

↓それゆえに
https://www.youtube.com/watch?v=8WGhdZ7_jgs
京都怪談
三木大雲 - (座敷童のような)幽霊の話し
0405承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
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2018/10/21(日) 09:56:13.41ID:L4Ibi9lz
>>403捕捉。
更に脳機能が悪化して植物状態、と言われる重篤な患者さんの場合、
脳死ではないから勿論法的にも生きてるんだが、ここから回復した、
つまり、長期に渡って外界から一切情報を受け付けられなかった状態から回復した人の場合、
以前ネットで読んだが、やはり意識は無かったということだった。
これと健常者のノンレム睡眠時はちがうのだろうか。
意識活動が無いという事は、何も体験してないということか?
マーティン・ピストリウス氏のような入力情報のみだと悪夢だが、
そうではない、完全な無意識状態だと一人の人格、人としての存在として扱うべきでは無いのか。
勿論、臨床的には人として扱うのが建前だが、マーティン氏はその著作で性的虐待まで受けていたと述べている。
また、本邦の介護施設でも様々な虐待が時折ニュースに出てくる。

綺麗事かも知れないがやはり、第三者としては、体験出来る、認識出来ると想定して接するべきだろう。

(^。^)まぁ、俺みたいな奴が言う事じゃあ無いんだが、お前らも他人事と考えずに、頭の片隅に入れとけよ。(笑)
人生は一寸先は闇だからな。(笑)

七氏さんは勿論、これを踏まえて飽くまで自分自心の一つの思考実験として書いてるんだが、バカが誤解すると本意では無いだろうから念のため。(笑)
0406神も仏も名無しさん
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2018/10/21(日) 10:11:12.07ID:HLYeJgJw
冥想で目指すものは、考えるという行為を超越することです。

何かを考えている限り普通の意識レベルに留まります。

夢を見るときはあなたは潜在意識下に入ります。
つまりそれはアストラル体がより意識されている状態です。

意識がさらにもっと深く超意識へと入っていけば、あなたは脊椎を柱として、
無上の喜びの中心にいるのに気付きます。

その至福の中で、あなたはコーザル体、即ち自分の魂の中にいることに気付くのです。
0407おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
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2018/10/21(日) 11:55:31.17ID:OmcsfPI9
 
医師とか看護師とかの方々は
「通常の生きている人」とは
別の感覚で

>(脳死ではなく)脳機能が悪化して植物状態、と言われる重篤な患者さん

を(植物状態のものとして)取り扱っているかもしれない

これは良い悪いということではなくて

善悪の判断を交えることのない平等性智?として

これは説明するのは難しいかもしれない

(「通常の生きている人」とは別の感覚で取り扱っているのなら
  「悪いやつだ!」という批判の対象になる場合もあるかもしれない)
0408おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
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2018/10/22(月) 05:44:56.15ID:vjGGpItp
 
仏教のことだけに限定すると
同じような内容の話題になるけど、とりあえず

おじゃるは
通常のときでも
妄想の渦の中に巻き込まれているけど

いま風邪を引いて

寝ている時に
熱に浮かされて重度の妄想障害で おじゃります

 − これを対処するために −

(薬を飲むと更に悪化する場合もあるので薬は飲まずに)

(妄想の渦の中に巻き込まれるのではなくて)
少し離れたところから「妄想を見る」

という感じになるようにしちょります

おじゃる記憶によると
確か、宝珠殿から
「少し離れたところから見る」ということを

(妄想の渦の中に巻き込まれているよりも
  「少し離れたところから」の方が楽なような気がします。それゆえに)

ご教示して頂き、ありがとうございます m(_ _)m
0409承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
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2018/10/22(月) 06:09:19.40ID:6HAtjPUX
>>407
(^。^)ねーよ。(笑)

>>408
風邪の時は葛根湯と滋養強壮ドリンク飲んで暖かくしてネットなんぞせんで寝てろ。
0410おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
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2018/10/22(月) 07:12:41.20ID:vjGGpItp
 
「悪いやつだ!」という批判の対象に
> (^。^)ねーよ。(笑)
  _  _  _

>ネットなんぞせんで寝てろ

ご教示ありがとうございます m(_ _)m

(通常のときでも、妄想の渦の中に巻き込まれているけど)
寝ていると
熱に浮かされて妄想障害が現れて

「寝たり - 起きたり」を繰り返しているので おじゃります

↓更に

フォーカシング(焦点合わせ、Focusing)
まだ言葉にならない意味のある感覚(フェルト・センス)に注意を向け、その感覚と共に過ごす
胸の奥や腹の底など身体の中心部分にぼんやりと注意を向けながら
何かの気がかりにまつわる感じ(フェルト・センス)が感じられるのを、受容的な態度で待つ

これも↑やっちょります

アージュニャー第6のチャクラ
眉間のところが、むずむずする・くすぐったい

少し離れたところから見る
0411承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
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2018/10/22(月) 07:21:39.69ID:6HAtjPUX
あのなぁ。

困った人だな。

えー、昔の中国の医療では、風邪は文字通り風の邪気に中ったと考えられてました。
また、道教では、周天の時に邪気を巡らせたり妄想したりすると、病になると伝えられてます。

(^。^#)わかったら、ちゃんと寝てろ!いいな!
0412ポッタン師
垢版 |
2018/10/22(月) 07:44:38.21ID:gWZZVA8N
410.バカおじゃる、は心理学をやっているバカである。大爆笑である。
0414おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
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2018/10/22(月) 10:54:41.27ID:vjGGpItp
 
承狂元密教僧へ
ご教示ありがとうございます m(_ _)m

>釈迦仏教の矛盾について

これを読むと
↓隠居師匠か?紐師匠か?という感じがする

釈尊の仏法は暗い印象を受ける
とてもついていけない感じを受ける
それは人生は苦であるという設定である
苦の原因は欲望(煩悩)であるから…
  _

おじゃる妄想としては
無明している世界から離れるための対機説法として

たとえば、上座部系の場合は
われわれが身心のいっさいについて無常の事実を知り、自分の心身を厭う思を起こし
心身のうえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥けることが「正見」である
このように現実を厭うことは、人間の普通の世俗的感覚を否定するものに見えるが
その世俗性の否定によって、結果として
真実の認識(如実知見)に至るための必要条件が達せられるのである

(愛別離苦とか・求不得苦などの、もととなる)
無明の意味を理解して、これを前提とすることが出来るのか?出来ないのか?

↓無明を前提とすることを出来ないのが

隠居師匠か?紐師匠か?という感じで おじゃります

(風邪で、また熱が出てきたので おじゃります)
0415ポッタン師
垢版 |
2018/10/22(月) 12:34:33.29ID:UkelWWPm
414.無明を前提とする、のがバカおじゃる、である。大爆笑である。
0416神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/10/24(水) 17:23:14.19ID:ODeDcU1M
            彡⌒ ミ  
          ⊂(´・ω・`)つ
        ///   /::/
        |::|/ ⊂ヽノ|::|」
     /  ̄ ̄□o ̄ ̄/|
    /______/ | |
    |------ー----ー|/
0417宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/10/27(土) 05:22:56.86ID:xgi/OkUs
>>414
「無明などはない」などと抜かすアホは勝義馬鹿!!
それはあくまでも勝義の視点であって、
我々、凡夫はそうじゃないから。

もしも、無明がなければ、
こうして我々は生れて来ないから。
無明のない人間は転生してこない(母胎に宿らない)。
要するに、こうして両親を持って生れてきたということは、
無明に陥っているということに他ならない。
だから、そこから抜け出すことが仏道修行です。
0418ポッタン師
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2018/10/27(土) 08:50:55.73ID:/6erTkif
417.それをバカ修行と言う。修行バカと言う。大爆笑である。
0419神も仏も名無しさん
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2018/10/27(土) 11:11:18.37ID:5Jil8gKk
仏教で否定されてるのはキリスト教の天主のような絶対神です。
神自体は否定されていませんが神の過去世は人間だったりしたものが善業を積んで天部に生まれ変わって神となったりします。
つまり神といえど輪廻する存在でありその意味では人間や餓鬼や畜生や地獄の亡者と同列ではあります。

しかし元々の起源でいえば、釈迦牟尼仏が言うには世界はまず光音天界がつくられそこには光音天という神様が出現したとのことです。
光音天として寿命が尽きたものがその後誕生した梵天界の梵天として生まれ、梵天の中で堕落してものが人類の起源になったと説いています。

詳しくは長部起源経に説かれています。


起源経
パーリ仏典経蔵長部の第27経
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%B7%E6%BA%90%E7%B5%8C
0420神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/10/27(土) 11:18:30.33ID:5Jil8gKk
「無我」と「縁起」を理解すれば仏教思想は腑に落ちる
https://mananavi.com/%E3%80%8C%E7%84%A1%E6%88%91%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%80%8C%E7%B8%81%E8%B5%B7%E3%80%8D%E3%82%92%E7%90%86%E8%A7%A3%E3%81%99%E3%82%8C%E3%81%B0%E4%BB%8F%E6%95%99%E6%80%9D%E6%83%B3%E3%81%AF%E8%85%91%E3%81%AB/amp/

【仏教は絶対者を持たない】

「この因・縁・果の関係性のなかで、個々の実態は“空(くう)”です。そこに常住の本体はありません。
これは、現象のようなものから、絶対者のようなものまで、同じです。

仏教のひとつの特徴は、宗教的な絶対者みたいなものを実体化しない、ということです。
“絶対”とか“神様”みたいなものをデーンと置いて、そのもとに人間が生きていくのではなく、現象の本質本性を「空」でとらえる。
「有」ではないが、「無」でもない。「空」なのです。
常住の本体とか実在とか、そういうものを徹底的に否定したところに成り立っている見方・考え方です。

このように、人間の主体性を縛るものを、仏教は何も持っていない。
掟もなく、支配もされていない。そうしたものを一切超えて成立しているのが仏教なのです」

このような仏教の“神”観は、キリスト教の“神”観にも影響を与えているという。
なかには仏教の空性(くうしょう)で“神”を考えたほうが、イエスが説いた本来の“神”に近いのではないかという意見もあるという。
0421ポッタン師
垢版 |
2018/10/27(土) 11:19:39.34ID:L1D5J/GP
419.それは迷信である。バカ丸出し、である。大爆笑である。
0422ポッタン師
垢版 |
2018/10/27(土) 11:27:24.54ID:L1D5J/GP
420.それは迷信である。バカ丸出し、である。大爆笑である。
0423神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/10/27(土) 20:09:53.14ID:3LvBtUXN
>>417
サードゥ、サードゥ、サードゥ
0424おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
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2018/10/28(日) 04:53:28.96ID:liG+zDtX
 
> (縁起しているもの)一切を超えているのが仏教(の涅槃)なのです

ウィキペディア参照

宗教(religion)
人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする

それゆえに

> サドゥー(サードゥ)
あらゆる物質的・世俗的所有を放棄して
瞑想などにより解脱を得ることを目標としている

戒・定・慧・解脱・解脱智見
般若の智慧と慈悲によって解脱を観照する
0425ポッタン師
垢版 |
2018/10/28(日) 13:17:54.46ID:BNwYXEDa
424.バカ丸出し、である。大爆笑である。
0426神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/10/28(日) 20:30:07.00ID:uNhqwKgu
466 :神も仏も名無しさん[]:2018/10/28(日) 19:08:42.48 ID:zCoMQJAc
>>460
いやいや!癒されないか?
あの情深いところとか。

そも、でおはカムイ君から真心の慈悲を受けている。ならばその恩を返さねばw
まああるところではじま


513 :神も仏も名無しさん[]:2018/10/28(日) 19:44:31.90 ID:zCoMQJAc
>>509
シャロンさんがでおを肯定するセンスを持っているように、俺もカムイ君を肯定するセンスを持っている。
それらのセンスに助けられた君じゃないかw


518 :神も仏も名無しさん[]:2018/10/28(日) 19:48:10.47 ID:zCoMQJAc
>>515
シャロンさんはでおーに優しいカムイ君を見てくれているはずさ...w
な、でお。(圧力)
0427おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/10/29(月) 02:31:11.82ID:xDpHp/2N
 
http://www.onedhamma.com/?p=6788
18/10/28 …野狐の声が、自分の中で聞こえてくる

今回の podcast法話は
いまだ証していないのに既に証覚を得たという、独り善がりの
(増上慢)野狐禅について

http://www.asahi-net.or.jp/~cn6k-inb/02/nukigaki.html#3
曹洞宗 内山興正
…もし亡霊など全くないことが科学的であり
仏法の「諸法無我」は現代の科学と一致するなどといえばとんだことになります
「諸法無我」はまったく人間的倫理道徳の破壊につながってしまいます
…業感縁起…
  _  _  _

(勝義諦としては↓これで良いのかもしれないけど、とりあえず)
たとえば
仮設としての
縁起している世界も認めることもなく
業感縁起も認めることもなく

『すべて無なのであるから
  それゆえに、只管打坐も必要がない!』

とか逝っちゃてる師匠とかが野狐禅である。と云うことであるらしい
0428ポッタン師
垢版 |
2018/10/29(月) 07:01:49.11ID:R4Zb/EKN
427.バカ丸出し、である。大爆笑である。
0429神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/10/29(月) 10:48:11.54ID:RN+6S69g
宮崎哲弥は自分は仏教者だから霊魂の存在も輪廻転生も認めないと言っていますが
0430ポッタン師
垢版 |
2018/10/29(月) 11:12:53.75ID:EEAzm6ZX
429.それは宗教の問題ではない。
なんでか。それは科学の問題である、からである。バカには理解できない。
0431宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/10/31(水) 10:45:17.82ID:rPkMoSNR
>>419-420
あなたはいつものスマ長老信者ですか?
僧侶の引用だけでは無理だと見ると、今度は学者さんの言説を引用ですか?
懲りませんね...。

ゴータマが否定したのは神そのものの存在ではなくて、
通常、この現象界において知覚できないものは説かないということに過ぎない。
それがアートマン(真我)であり、そして、ブラフマン(神)だということになる。
輪廻している存在である天部(神々)と絶対者であるブラフマン(神)とを混同してはならない。
にも関わらず、後世の仏教徒らはバラモン/ヒンドゥー教を仏教の下位へと位置付けるために、
意図的にブラフマンを天部の一つに過ぎない梵天として描いた。
これが仏伝における最も古くて典型的な神格化だった。
以降〜、梵天の関する記述のすべては後世の創作に過ぎない。

竹村牧男氏。なんと東洋大学学長という肩書ですら、
こんな時代遅れの化石のような教義をまだ鵜呑みにしてるとは驚きましたね...。
それらの説明のすべては、現象界(有為)の性質について教えたものであって、
現象界の本質が空性なんだということに過ぎないから。
元々、現象界の存在ではない(無為)アートマンとブラフマンがそれらの法に抵触するわけがない。
だから、最初から無問題です。

《「無我」は「我がない」という意味ではありません。「我ではない」という意味 です。
 ブッダの教説の中では、attanが主語におかれて「我がない」とか「我がある」とかいう文は作ることはできないのです。
『ブッダ論理学』の【難問5】にあります。彼の教説は、生じ滅するものだけを扱うからです。しかし、生じ滅する「色」
が、我ならざるものであることは、述べることができます。述語には、規定はありません。だから、「無我(我ならざるもの)」
という言葉も出てきます。
 ただ、いつの頃からか「無我(anattan)」に「我がない」という意味が混入してきますね。(部派時代頃かな)》
http://houjugusya.web.fc2.com/anatman.htm

あの石飛道子女史も同じだ。
せっかく頭ではこれほどの理解に達しているのにも関わらず、
洗脳が強くて条件付けから脱することかできないでいるのです。
最近、少しだけ対話してみましたが、とても残念なことでしたね...。
0432宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/10/31(水) 10:46:02.37ID:rPkMoSNR
では、その「縁起」という法はいつどのようにして生じたのか?
それは何故あるのか? を、あなたのすべての知識と理解で以て答えてみなさい!
絶対にできっこないから。

ゴータマすらも説くことをしなかった、
“法(ダルーマ/ダンマ) ”を生じさせ規定している存在、
その力こそが絶対神なのだということ。
つまり、法そのものが神だといってもいい。

仏教界において一方的に悪者扱いにされている『説一切有部』だが、
否しかし、彼らが採った見解“三世実有・法体恒有”は素晴らしい着眼点だったということ。
その持っている視点がとても鋭い...。
彼らの法こそが恒常永遠の存在だと説いたことが批判の対象となったようですが、
法こそが神に拠って規定されているものであるから、それは神の意志の如何によっては永遠であり、
また、或いは瞬時によって断滅されるもの。神無くば、縁起の法すら生じ得ず、
神の意志一つで如来すらも一瞬にして掻き消えてしまう。
それが神というものだ。

聖書には、実は二つの神が説かれる。
つまり、ヤハウェ(主)とエロヒーム(父なる神)だ。
万物の絶対神としてのヤハウェと、我々の魂を肉体に吹き込まれた我らが父なる神(神々/複数形)だ。
この金星から飛来された神々、エロヒームの御一方が永遠の青年と呼ばれるこの惑星の天帝サナット・クマラだ。
京都、鞍馬山寺弘教(天台宗から単立)では本尊、大天狗魔王尊として祀られている...。
0433宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/10/31(水) 10:47:09.89ID:rPkMoSNR
>>429
自称仏教徒ほど怪しいものはない。
仏教徒として自ら自称するということは、つまり、典型的な間違いだらけの常識仏教の篤い信奉者ということだ。
真実に気付くようになった者というのは、決して自ら仏教徒などとは自称しない。
現存する仏教信仰で正しいところなどは皆無なのだから。

ゴータマは無霊魂の教えなどは説かない。
原始経典を真面目にしっかりと読めば、無霊魂などという理解が間違いであることはすぐに気付ける筈だ。
だいたいにして、“霊魂”と一緒クタにして語る者というのは「霊」とは何?であり、
「魂」とは何?のことかも分からずに語っていて、
しかも、その「霊」と「魂」の違いすらも分からないという馬鹿タレばかりだからだ!!

「霊」というのは、それが異常状態にある時には世間では幽霊などと呼ばれる。
これを仏教では餓鬼として説き、雑阿含『好戦経』にはモッガラーナの目撃談とこれを是認するゴータマの教えが説かれている。
『餓鬼事経』(ペータヴァットゥ)では施餓鬼による救済の必要が説かれる。
また、良い霊存在の典型としては中部経典第十八経『闍尼沙経』で死後のビンビサーラ王だった神霊とゴータマとの対話がある。
「魂」というのは、五蘊中の「識」のことであるということが『ディーガ・ニカーヤ15経』で説かれ、
「識神」が母胎に宿ることが増一阿含経『三宝品三』に説かれている。
尚、アートマンについては仏教では無記とされて説かれていない。
だから、アートマンを「霊」や「魂」などと混同する愚を犯すではない!
0434宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/10/31(水) 11:11:20.34ID:rPkMoSNR
>あの石飛道子女史も同じだ。
>せっかく頭ではこれほどの理解に達しているのにも関わらず、
>洗脳が強くて条件付けから脱することかできないでいるのです。
>最近、少しだけ対話してみましたが、とても残念なことでしたね...。>>431

その対話時に、
石飛氏bbsへ投稿したものをこちらにもアップしておきます(一部省略)。

---------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
[10831] Re:[10828] 無我とアートマン

---略---
>わたし自身は、もともと、この「非我・無我論争」そのもの自体、どこかにゆがみのある考え方だと思っています。
>「〜でない」「〜がない」という、この違いが、このアナートマン(アナッタン)というブッダの教えの核心だとは思いません。

その核心とは何でしょうか? 
それは、つまり「無記」のことですか? 
それとも、アートマン(の有無)そのものに対する無執着こそが無我の教えの核心部分だ、
ということを言っているのでしょうか?

>うーむ、ご質問が、ご質問が、うまくつかめません。「増支部」1.6について、考えればよいのですか。
>それとも、“自性清浄心”について、メインに考えるのでしょうか。

はい。そのどちらについてもです。

>「増支部」ですと、チッタ(心)は、アートマンではないです。
>さらに、“自性清浄心”が、「無為法」であるというのは、どこに書いてありますでしょうか。
>この発想そのものが、何かブッダの教えとは違うことを考えていらっしゃるような感じですね。
>逆に、、お尋ねしたいのですが、「心」とあるのに、どうして、あえて「アートマン(自己)」だと思うのですか?
0435宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/10/31(水) 11:14:09.32ID:rPkMoSNR
もしも、この問題がただ単に、これは“「心(citta)」なのだからアートマンではない”というだけで済む話であれば、
仏教界において、最初からこのことがこれほど論議の対象になる筈はないのです。
だから、これはそうではなくて、この文意が示すものが一切法(有為)を超越した概念を意味しているから問題になっているのです。

まず、その単語一つを見て判断するやり方というのは如何なものかと私は思います。
あまり旨い譬えではないかもしれませんが、もしもここに「地球という星には全体表面積の70.8%を占めて、
全体がひとつづきになって陸地以外の凹所にたたえている塩水というものがある。」という文章があったとします。
そして、それを持ってくるよう指示がなされたとした場合には、この私は文意から判断してこれは海洋の海水のことだと理解するので、
私はどこか近くの海岸へ行って海水をコップに汲んで持ってきます。
けれども先生のやり方というのは、まるでこの単語は「塩水」だからといって、
ただ台所から水道水に食塩を混ぜた食塩水を持ってくるようなものだと思います。
果たして、それは著者の意味したもの(塩水)に対して、本当に正解のものとなるのですか? 
それとも、あくまでも文中に「海水」とは書かれてはいなかったからといって、別にこれで正解なんだと主張されますか?

『比丘らよ、この心は浄潔である。
  そして、そ〔の心〕は外来の諸随煩悩によって染汚されている。』(水野 弘元訳)
0436宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/10/31(水) 11:16:03.97ID:rPkMoSNR
この「自性清浄心」(心性本浄説)が仏教論議の対象になっているのは、何故なのか? というと、
これが、“心は自性として(本来、生まれつき)清浄である” という意味の文意であるから、
それが一切法の“縁起の理法”に抵触するものと見なされるからです。
縁起的観点から普通に述べる場合には、“修行における完成形としての心は煩悩から解放された清浄心だ”という言い方は在りますが、
けれどもそうではなくて、これは外来の煩悩に塗れる以前の心は本来的には清浄そのものである、といっているわけです。
しかし、仏教的には通常は、煩悩に塗れていない衆生というのは一人もいないのであって(つまり、煩悩がないならば母胎には生れて来ないから)、
人間というのはすべて、オギャ〜と生まれた瞬間にはすでに「無明」(煩悩の根源的性質)に被われているものとされるからです。
けれどもここでは、本来の人間の心というのは清浄なものなのだといっているわけです。
この無自性の世界において、心は自性として清浄なものだと述べているところが、実にアートマンと重なる部分だと言えるわけです。
要するに、これがアートマンの持つ三大属性(“不生不滅にして永劫恒常”、“完全なる清浄性”、“非物質性”)の一つだと言えるものだからです。

『〔それは〕全体であり、一切に遍満し、寂静であり、汚れなく、虚空のように安定し、
部分をもたず、行為をもたず、一切であり、常住であり、二元対立を越えている、〔と知るべきである〕。』
(『ウパデーシャ・サーハスリー』T,15.37)

では、どうして最初から、
ここには「心」ではなくて「アートマン」と書かれていないのか? 
何故ならば、アートマンは決して煩悩に塗れることがなく無始の初めから永久に清浄なものだからです。
この経文が意味するものは、すなわち私たちの心というものは深層域においては阿頼耶識、
更には、集合的無意識〜アートマンへと繋がっているのだ、という可能性を示すものなのです。
そして、この自性清浄心を説く聖句の文意からは、そのままこれが「無為法」と理解されるのも頷けるものであって、
実際、大乗の「如来蔵思想」というのは、この自性清浄心を発展したものだからです。
そのことは、水野弘元著『心性本浄の意味』を読めば分かります。
0437宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/10/31(水) 11:16:57.79ID:rPkMoSNR
『如来蔵や仏性は無為法としての真如法性と関連して説かれるからである』
(同著『心性本浄の意味』p13-15、注釈15)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/20/2/20_2_503/_pdf

では逆に、この私からいわせて頂けば、
何故? ブッダからの言葉の文意を素直に読まないで、
故意的に無視した読み方(ウパニシャッドのアートマン意を意識的に避けるかのような)をするのですか?
と、いいたいところです。

>>『真実であるか虚偽であるかを、汝の自己が知っているのだ。証人よ(sakkhi)。実に尊い自己を汝は軽視している。』(AN.T,p.149 G.)
>この訳は、誰の訳でしょう。わたしの読みでは、ちょっと違います。

これは中村先生です。
(中村 元著『自己の探究』p105青土社1980年発刊)より。

>嘘をついても、真実を語っても、自分自身はそのことを知っている、というところだろうと思います。--中略--
>あなたの「自己」は、本当に何をなしたのかを知っている、というのは、まさしく「自分自身」の行いであるからで、
>善いことと悪いことを行いうる「自己」と見なければなりませんから、「自己」を「本来清らか」とか見るような見方には立てないです。

これは“自分自身の行いなのだから、自分が分かっていても当然だ”ということではなくて
(また、“自己を本来清らか”だという意味合いとも、また少し異なったものです)、
何故、人間の心には善悪を判断する「良心」というものが備わっているのだろうか? ということをいっているのです。
人間、誰しもが生れつき持っていて、自分の心の中に内在していると見なされるこの良心についても、
原始仏教においては、あくまでもアートマン(自己)の問題として語られるのだということ。
私がこれを採り上げたのは何故か? というと、人間が生れつき持っている良心(善を成さんとする意志)という性質こそが、
実に、重要なアートマン属性の一つに他ならないからなのです。

『変化せず、清浄であり、悪を離れたブラフマンである私に、
精神統一していない状態や他の浄化されるべきものがあるのを、決して、私は見ることがない。』
(シャンカラ著/前田専学訳『ウパデーシャ・サーハスリー』T,14.35)
0439dp9 ◆1KaWk8ZRnVxd
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2018/10/31(水) 14:27:49.85ID:vKe6c9bk
久遠の仏も否定されてる
0440神も仏も名無しさん
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2018/10/31(水) 14:39:01.29ID:hl7qebxF
>>439
>>221-222
0441ポッタン師
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2018/10/31(水) 14:42:52.06ID:UFXrWZax
439.バカ丸出し、である。大爆笑である。
0443神も仏も名無しさん
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2018/10/31(水) 15:36:20.02ID:/akVyud1
無明を除いた本来の心は空であり、アートマンではない。
本来無一物とも言う。涅槃とも言う。
涅槃には、良心もなく、汚れもなく、無明もない。
あらゆる概念を持ってきても捉えられず、言語で述べることもできない。
0444宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/10/31(水) 16:10:59.21ID:rPkMoSNR
>>437のつづき.
Re:[10833]「Re:[10831] 無我とアートマン」

>しかし、その時、ジーヴァ・アートマン(個我)とパラマ・アートマン(最高我)の区別が生まれます。

何故ならば、ジーヴァ・アートマン(個我)はアートマンそのものではないからです。
彼ら(ヒンドゥー)は輪廻の主体を「ジーヴァ」(ジーヴァ・アートマン/個我)と呼び、これも無明から生じた幻(マーヤー)に過ぎぬものと説きます。
これは魂であり、仏教の説く輪廻主体「識」(後の「阿頼耶識」)に相当するものです。もちろん、これは「アートマン」ではない。
このことについては、ラマナ・マハルシもこう述べています。

 『知覚認識できる対象には[現象としての]終わりがあり、知覚認識する主体をジーヴァ(個的生命)であるとするなら、ジーヴァ(個的生命)
とて現象としての終末がある。現われ出るものは何かを見い出し、その現象の破壊(最後)を見極めれば、不滅の真実在 sat (Self) を覚智現成し、
アートマン Atman とは何かを覚了する。新たに現われ出るようなものはいずれ消え去ることになり、それはジーヴァ(個的生命)あるいはその知
覚認識対象であって、アートマン Atman ではない。』
(Talks 1_0704)

>区別があるということは、ブラフマンはブラフマンと考えているからです。
>ブラフマンがアートマンになったら、もはや、ブラフマンの名前はなくなり、アートマンだけが残る、ということではありませんね。

いえ、これはそういうことではなくて、
例えていうならば、“大海の海水がブラフマンであり、これをコップで汲み取ったものがアートマン”だということになります。
区別とはいってもこういうことなのであって、けれども中身はもちろん同質のままです。
これは単に、個的な意味合いを持つかどうかの差異なのです。
0445宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/10/31(水) 16:14:27.17ID:rPkMoSNR
>涅槃に入ったならば、自己はありません。

すみません。
ここへ少し長めに引用させてもらいますが、
これらの先生の主張は一体、いつ撤回されたのでしょうか?

 【つまり、自己はあるまたは自己はないと書くことができるか、ということが問題となる。もしこのように述べられるのであれば、「自己」は、
おそらく「法」と呼びうる存在であり、そして、当然「生じ滅する存在」とブッダが承認したことになるのである。
 しかし、このようなことは阿含経典の中には見当たらない。これにかんしては、中村元博士の『原始仏教の思想』(上巻一六五頁)にも、初期仏
教では「アートマン(アッタン)は存在しない」とは説かれていない、と明言されている。
 したがって、ブッダにとって「自己」は生じ滅する法ということはありえない。もし、ブッダが「自己はない」と語ったとすれば、当然生じ滅
する法として「自己はある」も語っていなければならないからである。ブッダの公式に載せられる語でなければならないからである。--中略--
 それだから、ブッダは「自己はない」とは語らなかった、そして、もちろん「自己はある」とも語らなかった。いや、語りえなかったと述べた
方がいっそう正しい。(p161-162) --中略--
 実際には、阿含経典では「無我」は「自己でない」の意で用いられていることがわかるだろう。ブッダが「自己はない」は説きえないことがはっ
きりしている今となっては、これは当然のことだが。】(p166)
(石飛道子著『ブッダ論理学五つの難問』講談社2005年刊)
0446宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/10/31(水) 16:15:42.78ID:rPkMoSNR
 『anattan(無我、我ならざるもの)の語は、ブッダも使います。ブッダの教えの中で重要な用語です。これは、「主語+述語」の文の、述語に
置かれます。「苦であるものは、我ならざるものである(=我ではない)」ということで、「無我」は「我がない」という意味ではありません。「我
ではない」という意味 です。
 ブッダの教説の中では、attanが主語におかれて「我がない」とか「我がある」とかいう文は作ることはできないのです。『ブッダ論理学』の
【難問5】にあります。彼の教説は、生じ滅するものだけを扱うからです。しかし、生じ滅する「色」が、我ならざるものであることは、述べる
ことができます。述語には、規定はありません。だから、「無我(我ならざるもの)」という言葉も出てきます。ただ、いつの頃からか「無我
(anattan)」に「我がない」という意味が混入してきますね。(部派時代頃かな)
 これは、経典を作りかえたとかそういうことではなくて、解釈として、このような解釈が入ってくるということです。』
(管理人エム著/マニカナ掲示板過去ログ2739.)

先生もここで「部派」について言及されていますが、
パーリ聖典といえども、その成立過程というのは部派仏教の時代と重なって書かれたのであって、
そして、それがそのままこれらの部派教団によって今日まで所持されてきた。
そして、その教義の拠り処はアビダンマなのであって、仏典とは必ずしもイコールでありません(一切法についての判断が異なっている)。
つまり、仏教史的には「原始仏教→根本二大分裂→部派仏教時代→現在における南方北伝の各諸派」ということなので、
現存する仏教教団で部派仏教の影響を受けていない諸派というのは一つも存在していません。
この仏教者たちにとって現在でも一般的な認識となっている、“アートマンは無い”ということを勝手に言い出したのは部派仏教であることについては、
すでに多くの研究者たちによっても明らかになっているものと思われますが? 如何でしょう?
0447宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/10/31(水) 16:17:16.72ID:rPkMoSNR
「涅槃においては自己はない」が、自我意識の喪失とするならばヒンドゥーでも同じだと思います。
アートマンを自覚するということは、つまり、 それまでの自我意識(個我/分離的な「個」としての意識)は消散するということだからです。
分離意識は自己からは無くなり、分別の消滅した全体的な融合意識へと変性する。
つまり、あなたとわたし、それとわたしという分離ではなくなり、すべてが一つの融合された自己意識として自覚します。
そういう意味においては、ヒンドゥーにおいても“自己(個我)はない”として説かれます。

 【〔アートマンは〕行為主体でもなく、対象でもなく、結果でもないから、また内も外も含み、不生である(『ムンダカ・ウパニシャッド』
二・一・二参照)から、どうして、誰が、それに対して「〔これは〕私のものである」「〔これは〕私である」という観念をもつことが出来るで
あろうか。(18)
 「自分自身は」とか、「自分自身の」という観念は、じつに、無明によって、〔アートマンに〕誤って想定されたものである。アートマンが
唯一である、という〔知識〕がある場合には、この観念は存在しない。種子が存在しない場合は、どこから結果が生まれようか。(19)
 アートマンを、未だ果たし終わっていない義務をもたず、行為そのものをもたず、行為の結果をもたず、「私のもの」とか「私は」という
観念をもたない、と見るその人は〔真理を〕見る。(22)
 もし「私のもの」とか「私は」という観念や努力や欲求は、本性上、アートマンにはない、ということを知ったならば、自己自身に安住し
続けよ。努力は一体何の役に立つであろうか。(23)
 アーマンを、「私」という観念の主体であり、かつ認識主体である、と知るものは、まさしく〔真実に〕アートマンを知っている者ではない。
それとは別様に知っている者が、〔真実に〕アートマンを知っている者である。(24)
 「私」、すなわち「自分自身」という観念も、「私の」、すなわち「自分自身の」という観念も、無意味となるとき、その人はアートマンを
知っている者となる。29】
(同『ウパデーシャ・サーハスリー』T,14.)
0448宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/10/31(水) 16:18:09.69ID:rPkMoSNR
或いは、まさか先生...は、涅槃とは何もない「無」の意味として“自己はない”と述べていますか?
それとも、涅槃は「空」であるからという意味で“自己はない”と述べたのですか?
しかし、「空」というのは縁起の性質を示したものであって、ただ同じことを別の言葉で表現しただけのことです。
これは一切法(有為)のことであって、涅槃(無為)には該当しません。
『ウダーナ』において説かれた通り、涅槃(無為)とは縁起には拠らない一切外のことなのですから。
そして、元々から無為的性質であるところのアートマンが一切法(有為法)に抵触する筈がないのです。
従って、つまり一切法(有為)においてアートマンを認識することがないからといって、それを以て「アートマンが無い」ことの証明にはなりません
(一切法の中に無為を含め、涅槃を空/無我としたのは部派の間違いです)。

 【比丘たちよ、しかしながら、まさに、『生じたもの』でなく『成ったもの』でなく『作り為されたもの』でなく『形成されたもの』
でないもの(涅槃)が存在することから、それゆえに、『生じたもの』『成ったもの』『作り為されたもの』『形成されたもの』からの
出離が覚知されると。】
(『ウダーナ』8.3正田大観訳)

さて? この『ウダーナ』に示されたように涅槃を涅槃であるとして、
有為からの出離をそれとして覚知しているものは一体、何(誰)なのでしょうか?
要するに、この有為からの出離を覚知し、縁起に拠らない無為を自覚しているものこそがアートマンなのではないか、
とするのが、この私の見解なのです。
だから、涅槃に到達したものは、「わたし(アートマン)が語る」と言ってもよいということになる、と。

すべて、辻褄が合っていると思います。


〜これを以ちまして、先生からのレスに対する私からの返信としたいと思います。
元々、先生とは議論する目的ではなくて、アンケート調査の一環として先生のご見解を確認するためのものなのでした。
この後はまた続けて、その他の研究者の先生方にも同じ質問をぶつけてみたいと思っている所存です。
この度は、ご多忙のところを大変、ありがとうございました。
感謝!!


合掌
0449宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/10/31(水) 16:21:24.43ID:rPkMoSNR
>また、その説は釈尊はアートマン説だったが部派以降、ほとんど無我説になったというような論理だと思われます。
>(如来蔵説もチョナン派など一部を除いて無我説です)

正確には、
ブッダがウパニシャッドと同じアートマンを説いたと主張しているのではなくて、
「アートマンは無い」などとブッダが説いたということは部派仏教の勝手な論理であって、到底、本来のブッダの言説とは見なされない。
それにも変わらず、アートマンを説くヒンドゥーは有我論(妄想)であるとして馬鹿にしている
平均的な仏教徒らの愚かな姿勢のことを私は指摘していっているのです。
ブッダが、「アートマンは無い」などと説くことがないのは、自らがその理由について述べた無記の姿勢からみても明らかなことです
(もちろん、その逆の「アートマンが在る」とも説きませんが...)。

【ヴァッチャ姓の遊行者は世尊に尋ねた。
「アートマンはありますか(kiM nu khobho Gotama atthattA)」と。世尊は黙っていられた。また尋ねた。「アートマンはない
のですか(natthAttA)」と。世尊は黙っていられた。ヴァッチャ姓の遊行者は去っていった。
 その様子を見ていた阿難が「どうして黙っておられたのですか」と尋ねた。世尊は「アートマンはある(atthattA)」と答え
たら、常住論者(sassatavAda)に同じることになる。ないと答えれば断滅論者(ucchedavAda)に同じることになる」と答えら
れ、そして阿難に反問された。「もしアートマンがあるかと問われて『ある』と答えたら、諸法無我(sabbe dhammA anattA)と
いう智が生じるのに順じるだろうか。もし『ない』と答えたら、愚昧なヴァッチャ姓の遊行者は前にはアートマンがあったのに、
今はない(ahu vA me nUna pubbe attA, attAso etarahi natthi)と混乱(sammoha)がますます増大するだろう」と。】
(『サンユッタ・ニカーヤ』44 第10経/森 章司訳)

>本質的にはパーリ『梵網経』などに明らかなようにアートマンに執着していては解脱、
>涅槃、戯論寂滅に至らないというのが仏教に一貫してあると思います。
0450宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/10/31(水) 16:23:12.82ID:rPkMoSNR
「アートマンは無い」という見解に固執することもまったく同質の執着なのですから、こちらも同様にして涅槃には至らないでしょう。
パーリ『梵網経』の主旨とは、“アートマンではないもの”をアートマンと誤認している
当時のバラモン行者たちの間違いを指摘したものだと私は解しています。
彼らが誤認したものが「魂」(ジーヴァ)、輪廻主体の「識」です。意識の焦点をここに定めることに成功した行者は、
驚異的な神秘体験(能力)を得ることができるからです。

すみませんが、
私には議論する意図はないのでこれにて失礼します。
互いの更なる進歩向上を心より平安を祈念します。
ご意見をありがとうございました。
(以降、特にどうしても必要と思われない限りは投稿を控えたいと思います)


Re:[10902]-2
あっ、すみません。
もう一言だけ付け足しておきたいと思います(汗)。

>(如来蔵説もチョナン派など一部を除いて無我説です)

基本的には、すべての仏教諸派が無我説に立っていることは存じています。
だから、現存するすべての仏教諸派というのは、アビダンマに立脚するために根本的に間違っているのだとこの私は主張します。
涅槃(無為)は、無我/空ではありませんから(アートマンが実在かどうかは別に置いておくとしても...)。
「空」というのは縁起する現象界の性質についての別表現です。なので、涅槃は縁起に拠らない境地(『ウダーナ』8:1)なのですから、
これを「空」とする理解は間違いです。

『比丘たちよ、このような境地(Ayatana)があります(atthi)。--中略--
依り所のないもの(appaThitta)、生起のないもの(appavatta)、 所縁のないもの(anArammaNam)が、すなわちこれ(etamM)です。
これがすなわち苦の終わり(anto dukkhassa)です』
(『ウダーナ』8:1片山一良訳)
0451神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/10/31(水) 17:46:20.11ID:xENY7tl9
ふむ。

石飛センセの方が、 「筋が」通って いるなw


最後のも、
訳した片山さんに、 「そこにアートマンがある・いる」 という意図は
微塵も欠片も河沙の砂粒ほども無かろうてw

まあ、それでも、 「仏典を読んでください」 としか、先生は言わないだろうけどw
0452宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/10/31(水) 18:07:57.87ID:rPkMoSNR
同じく、「無我」(「アートマンではない」の意)についていうと、
ブッダは『苦なるものは無我である』(SN.111)といっているのですから、苦を滅した安楽の境地である涅槃が無我である筈がないのです。
これはもう、殆どトンチンカンのレベルです。この馬鹿げた矛盾というのは、すべての伝統仏教が仏典の記述を無視して、
ただ伝統と称して与えられたもの(部派のアンビダンマ教学や部派口伝)を有難く盲信してきた結果です。

 『比正たちよ,色は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。無我なるものは我所ではなく,わたくしの我
ではない。如実に正しい智慧を以て是の如くに観るべきである。受は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。... 』
(SN.111,雑阿含経1-91)

無我についても同様で、
これは現象界(有為)の性質についての実態を示したものであるので、有為を解脱した無為である涅槃が無我である筈がないのです。
ブッダは「苦なるものはわたしの我ではない」といっているのですから、これを仮にそのまま言い換えるとしたならば、
苦を滅した涅槃の境地は“わたしの我である”ということにも言葉上としては成り得ることになります。
これは、例えばですけれど...。
0453宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/10/31(水) 18:09:42.70ID:rPkMoSNR
ゴータマが自らが説いて直接指導し、その教えも経典としても残されたというのに、
では何故? ゴータマ以降の第八番目の仏陀は輩出しないのでしょうか?
もしかしたら、随所において仏典を無視して部派のアビダンマ教学を盲信
(例えば、無我説の「アートマンはない」という見解に執着)してしまっている間違いが影響しているのかなぁ...
などともすら、この私は勘ぐってしまいます。
弟子たちは私(ゴータマ)には従わないとも、予言(SN.20.7.4-5)によって見通されてしまっていますし...。

 『彼らはよく聞こうとしないし、耳を傾けようとしないし、了解しようという心を起こさないであろう。それらの教えを受持すべくよく
熟達すべきものであるとは考えないであろう。--中略-- 弟子たちの説いたものであるが、それらが説かれる時には、彼らはよく聞こうとし、
耳を傾けようとし、了解しようとする心を起こすであろう。それらの教えを、受持すべくよく熟達すべきものであると考えるであろう。』
(『サンユッタ・ニカーヤ』20.7.4-5中村 元訳)


以上です。
では、失礼しました。
---------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
0454宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/10/31(水) 18:11:13.00ID:rPkMoSNR
>>438>>442
自分の言葉はないのか?
あなたにはそんな些細な常識すらもない?

>>451
はぁ?
0455神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/10/31(水) 18:13:15.50ID:hl7qebxF
https://i.imgur.com/lW69YYY.jpg
https://i.imgur.com/wwLkKxr.jpg
https://i.imgur.com/tNvxMft.jpg
https://i.imgur.com/c1vPUeY.jpg
https://i.imgur.com/bY3TiPM.jpg
https://i.imgur.com/jSGzrlH.jpg
https://i.imgur.com/aASq3Xu.jpg
https://i.imgur.com/TQE071D.jpg
https://i.imgur.com/sNn38gc.jpg
https://i.imgur.com/naN7Lnp.jpg
https://i.imgur.com/Fptjp7v.jpg
https://i.imgur.com/WVk6Wkp.jpg
https://i.imgur.com/vMITCti.jpg
0456神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/10/31(水) 19:18:14.59ID:/akVyud1
「法」には真理という意味、存在という意味の二つある。
「無我」には私、私のものでないという意味と、実在、実体は無いという意味がある。

諸法無我には、存在には実在は無い、実体は無いという意味もある。
全ての存在は頭の中にあると言ってもいいかもしれない。
そういう意味では、私もアートマンも、猫も杓子も、釈迦も達磨も、どこにも実体は無いと言える。
どこにも、何も無くなった状態が涅槃であり、不戯論。
そこから見ればもう何も議論することは無くなる。
あれこれ考える必要が無くなる。頭の中が空になる。
0457
垢版 |
2018/10/31(水) 20:50:11.66ID:xENY7tl9
>>454
だからw

片山先生にも直談判しに行けよ、ってこと。
0458湖北鈴屋外道「野狐」 屁ッコキマンペ 統失ヒッキー糞雀鬼ィ自我肥大痔がヒデェー
垢版 |
2018/10/31(水) 21:08:56.02ID:CgQX8rBP
1 SEARCHING FOR THE BULL - 34:00
https://www.youtube.com/watch?v=3BAzuuWdQ9g


うまいぞ。吉野家風?牛丼 - 10:33
https://www.youtube.com/watch?v=eiHkX237Fxk

台湾の吉野家【豪華朝定食】牛丼yosinoya - 4:44
https://www.youtube.com/watch?v=_j2MiTRDkuY

【中国】大連の吉野家で牛丼を喰う。 - 4:59
https://www.youtube.com/watch?v=qTUdEZ5W8H4

上海の吉野家で牛丼 - 2:17
https://www.youtube.com/watch?v=qlO2iDeDCE4

バンコク吉野家 - 2:07
https://www.youtube.com/watch?v=EH43l0VWAyI

これだけは教えたくない!吉野家牛丼持ち帰りを美味しく温める裏技! - 2:24
https://www.youtube.com/watch?v=GoyFa_5yqzc

吉野家で使える裏技・裏メニュー マニアックすぎる注文方法 - 6:36
https://www.youtube.com/watch?v=2A-aECTRYCQ

YOSHINOYA Beef bowl ?吉野家 牛丼アタマの大盛り - 4:08
https://www.youtube.com/watch?v=gcxclyfwXWs

吉野家の牛丼に卵かけの真髄 - 1:38
https://www.youtube.com/watch?v=sAsTX_SgvpY

吉野家 長堀店「牛丼 特盛」「お新香・味噌汁・生卵」 - 2:13
https://www.youtube.com/watch?v=vY--Rz_QT0M

吉野家の牛丼 訳して 吉牛 に偵察 大阪西区九条 - 1:30
https://www.youtube.com/watch?v=Ip5JyNGaqFY

汁の限界リベンジ!吉野家の牛丼 Beef Bowl - 1:18
https://www.youtube.com/watch?v=-9ml5z7r2a0

吉野家の牛丼大盛り+卵 - 8:55
https://www.youtube.com/watch?v=Q9z2_eamdMk

吉野家で大人買い!特盛牛皿×2・牛丼大盛り×2・カレー大盛り×1・御新香×1 - 7:27
https://www.youtube.com/watch?v=_fOwjRhDsDY

【吉野家】1240円の超高級牛丼を食べてみた!【牛重】 - 3:31
https://www.youtube.com/watch?v=ldJZRrqw7LM

早朝から吉野家の牛丼を食う - 2:49
https://www.youtube.com/watch?v=l7ze8JEEfpI

吉野家で牛丼食ってきた - 3:52
https://www.youtube.com/watch?v=a74kN4PZleo
0459おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/11/01(木) 08:14:10.94ID:JwWbpypa
 
>自分の言葉はないのか?

ID:hl7qebxF師匠が中観帰謬を理解してるのか?わからないけど
とりあえず中観帰謬の場合なら

仮設としての
無明に依存している
汝の言う「誰も気づいていない山火事(という見解)」も
(無明に依存して)いま我らによって分別されている

中観帰謬を理解した上で、中観帰謬を前提とするのなら
仮設としての
無明に依存している
自分の見解は

>自分の言葉は↓

青目(ピンガラ)の中論 觀如來品 第二十二
…人は戯論を生じる
戯論して慧眼を破れば
(無明に依存しているのなら)
是の人達は皆、仏を見ることはない

ちなみに
おじゃるは、中観自立で おじゃります m(_ _)m
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B
0460おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/11/01(木) 08:40:04.50ID:JwWbpypa
 
>>459の補足

いま我らの見解(分別)に依存して
汝の言う「誰も気づいていない山火事(という見解)」が
現れ変化して滅しているので

それゆえに
汝の言う「誰も気づいていない山火事(という見解)」も
自相(自性)ではない

それゆえに
中観帰謬の場合は
そのような自相(自性)を、世俗の次元でも否定します

「…である」と定義することはできない
「…である」ものではない
アートマンである。と掴もうとしている想いも手放して逝く

↑中観帰謬の場合

http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B
チベット ゲルク派

基本的には、無明に依存している

>自分の言葉

という中観帰謬としての対機説法で おじゃります
0461宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/11/01(木) 10:38:20.25ID:HnW00csk
>>447
訂正:
(29)節
 ×『アーマンを、「私」という観念の主体であり、』
 ○『アートマンを、「私」という観念の主体であり、』

>>448
>だから、涅槃に到達したものは、「わたし(アートマン)が語る」と言ってもよいということになる、と。

補足:
 これが核心に迫る決定的な根拠部分でしょう!

【〔尊師いわく、---〕
 [なすべきことをなし了え、煩悩の汚れを滅ぼし、今や最後の身体をたもっている真人となった修行僧は、『わたしが語る』と
言ってもよいでしょう。<わがもの>である、と語っている』と言ってもよいでしょう。]
 [心を捨て去った人には、もはや結ぶ束縛は存在しない。かれには慢心の束縛がすべて払いのけられてしまったので、『わたし
が語る』といってもよいであろう。また人々が〔これこれは〕<わがもの>である、と語っている』と言ってもよいであろう。] 】
(サンユッタニカーヤ.T,3:5)

【註: 『わたしが語る』と言ってもよい---これは我(アートマン)が存在すると主張する議論である。『雑阿含経』には「何言説有我」。
   わがもの---mamam = mama patto,mama civaran ti a^di katha^voha^ram su^tva^(Comm.p.51). 「我所」(『雑阿含経』)。】
(中村 元訳『プッダ 神々との対話』岩波文庫p248)
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