マインドフルネス Part13
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最近慈悲の瞑想の大切さを強く感じる
マインドフルネス瞑想でせっかく思考や感覚との同一視を離れても、
慈悲の瞑想しないと定着しづらい
他人も自分も同じなんだ・・・という慈悲の感覚は理にかなってる
そりゃ深い瞑想体験も必要だけど、それはオウムだってエキスパートだったのでは?
あそこは慈悲といいながらヒエラルキーと、解脱か地獄かの二元論をつかって
恐怖で縛っていた。
そりゃどんな深い体験をしたって、それはただのサイトシーイングで終わってしまう あらゆる瞑想方やってて感じるのは、観察瞑想は自我が剥がしていくイメージ。
集中系の瞑想で深い瞑想体験をしても、観察がなければその体験すら自我を肥大する糧になるだろう。 内観によって見る者と見られるものの統合が起こる。
気づきの目をあなどってはならない。
それは開かれ、拡大し
全てを見通す目となるのだ。
あなたは気づきに場を譲るだろう。 慈悲は枯渇する事のない泉だ。
溢れ出すその泉にひとたび触れたなら
あなたは慈悲そのものとなる。 >>3
深い瞑想ったって、あそこは長時間監禁まがいのことして刷り込みしたり
LSDだの使ってたわけで
そんなん「エキスパート」呼ばわりして差し上げてはいかんと思うよ 上祐が「あなたは悟っているのか」という問いに「悟っているかどうかはわかりません」(大意)
と答えたり、
自分の目の前で起こった信者殺害について「怖くて言えなかった」って発言してるのは
いろいろ興味深い >>4
集中と観察を別のものと考えている時点で未熟
集中と観察は切り離せないもの
止観双運
集中に入るための呼吸法を「それは呼吸法でマインドフルネスではない」、と切り捨てる愚か者はそれがわかっていない
集中から入るマインドフルネスもあるということを 未熟だとか愚か者だとか、なんで人をこき下ろしてマウンティングしたがるのかな 瞑想する動機が、偉くなりたいとか尊敬を集める人間になりたいとかなのでは >>17
ナチュラルに人を悪く言う時点で実現は無理だろうにね というかマインドフルネスは基本的に集中から入るもののような印象なんだが
無念無想系マインドフルネスとか
脱力系マインドフルネスとかあるのん? とかいうとなんとく返ってきそうなレスも予想できるんで
予め断っておこう
単にカバとかティクとかチャドとかの
メソドロジーの話ね >>19
止観瞑想
止が先で観が後
人間が容易にコントロールできるのは呼吸だから
集中から入るほうが簡単だろうね
観はその後自ずから止が深まるごとに立ち上がる 呼吸は自然に任せてそれを観察するのか
それとも意識的にコントロールするのか 何かを越えたい時、自分から働きかけるのか
ただ観てるだけなのか ここではない何処かへ行きたがるのか
ここにいるのか >>25
人生を越える
生に終わりを告げるために瞑想してるのではないのかね?
もう二度と生を受けないために 生まれ変わりのことを言ってるなら
そんなの信じてないし
もう生まれたくないというほどには苦しくないし
大前提から自分に嘘を強制するような瞑想なんてやってもロクなものにはならないでしょ
生まれ変わりを信じていて、もう生きるのが嫌だという人なら
そういうのは切実なんだろうけと 生まれ変わりを信じないw
このアホは経典を読んだことないんだろうね
スッタニパータすら読んだことないんだろうねw
最近のマインドフルネス本だけ読んでわかったつもりのアホw 読んだから全部信じるというのは
まことに頭のよろしいことで。 全部信じてるかどうか決めつけるのは
まことに頭のよろしいことで。 他人をアホ呼ばわりする人間性…
経典読んでもまったく生かせない人間もいるってことが分かるね アホと呼ばれたくなかったら
最低限経典くらい読んでから書き込めよ
どアホw マインドフルネス実践してます
釈尊の教え信じます
生まれ変わり信じません?w
輪廻転生信じません?w マインドフルネスブームに乗っかって
経典すら読んだことないのも多いんだろうな
そんな軽い奴らが瞑想を語るw それじゃ聞くけどさ、生まれ変わるって一体何が生まれ変わると釈尊は言ってるの カーラーマ経の一節
「経典にあるからといって信じるな」 釈尊じゃないからわからない
釈尊自体何が生まれ変わると名言してないだろ
ただ輪廻転生を示唆する記述はある あと、経典すら読んだことがないとか軽くいうけど、仏教の経典全部でどれくらいあるか知ってますか >>19
プラユキ・ナラテボー師の指導する手動瞑想や歩行瞑想では特に集中は必要ないと言ってる いくら経典読んでても八正道すら実践できないなら自我を肥やすための知識にしかならないのね ネチネチ嫌味を言ってる奴も実践できてるとはおもえないけどな >>1
宗教というのは一点の疑問にいかに答えるかで全く姿勢や教義が変わる
科学的自然説を用いるなら未来が無限というのは理解できるだろうが、過去の時間軸も無限ということになってしまう
時間軸が無限ということは、今存在している空間の前には無限数の高度な文明が存在したことになる
(神がいないのであれば)空間(宇宙とは別)にも(有か無かは別として)無限の過去があったと推定できるが、これも科学では説明しえない領域ではあるし
無限の過去があるなら(人類以前に)知的有機生命体ないしは機械が何らかの知的・技術的臨界点に達するための時間が無限にあったということであり、
それだけの時間があれば例えば宇宙を作ることさえも不可能ではないだろう
そう考えると自然として考えてきたものが機械的にエンジニアリングされた環境であったと考えることもできる
この疑問に対する宗教の答えを単純化すると3つに分けることができる
空間に無限の過去が無いという説においては永遠の全体を持つ神(時空間創造説)
存在と意識を小宇宙として限りなく細分化し死によって滅ばない主観と因果律(諸行無常、輪廻思想)
創造−存続−終末的破滅−創造を永遠に繰り返す(円環的時間)
始まりの存在を考えるのは科学の領域でもあるが、人類や(宗教も含む)文明の価値にも影響してくる ん〜
スクリプト組んでみたとかかな…
謎はつきない >>42
般若経だけで600巻以上にもなり半世紀かかっても読破して理解するのは無理だろうって中村元先生が言ってました。 経典でも輪廻はあるように書いてあるが自分が生まれ変わるというようには書いていない
なぜなら自分と呼べるものは無く(無我であり
生まれ変わりという言葉を使うなら業が次の生へと生まれ変わっているように見える 何が生まれ変わるか分からないのに
生まれ変わりを信じてるというのも
不思議な話だ 解脱って何?
解脱の意味もわからないのに
生まれ変わりを論じるというのも
不思議な話だ 生まれ変わりを信じていている人というのは、何が生まれ変わるか分からないけど、とにかく信じるんだ!みたいな感じなのかな
まあ宗教ってのは、そういうものなのかもしれないが 生まれ変わりを信じていていない人というのは、釈尊の教えを信じていない人なのかな
まあマインドフルネスは元々宗教から派生したものということも理解せず宗教色を排除したがってる人なのかもしれないが 信じる信じないじゃなく
ひとの思いを理解し許容する姿勢があるのかって問題じゃない? マインドフルネスは信じます
でも生まれ変わりは信じません
釈尊の言うことは信じません
ということかな? 魂は巨大妄想の産物である
ttp://www.j-theravada.net/howa/howa163.html
byスマナサーラ長老 釈迦が言うことをそのまま信じるのが仏教ではないだろう ID:ZK6cXrz0さんは、釈迦が生まれ変わりがあると言っているという
思いから、生まれ変わりはあると信じているという立場でいいのかな
文章改変繰り返されるのめんどくさいから先に言っておくけど、俺は生まれ変わりは信じられない
ただ、ID:ZK6cXrz0さんが生まれ変わりを信じていているからといって、信じるのをやめろなんてことは言わないよ 確かにマインドフルネスも、色んな年中行事も宗教起源の物が多いけれども、そんな事言ったら相撲とかは元々神事だし音楽とかもそういうの多いしキリがなくなる。
宗教的意図は無いよ!ってんなら「ああ、そうですか」としか思えない。
よりもおっぱい揉みたい。若い女の子の、たわわに実った張りのあるおっぱいにむしゃぶりつきたい。 自分の信じたい事だけ信じて
信じたくない事は信じない
信じたい事を言ってる人が信じたくないことを言っててもそれは受け入れない
自己都合で 我で
時には一週間以上経ってるのに再びその話題を持ち出してまで自分を正当化したい我 信じるってのは積極的行為だから一種類しかないけど
信じないってのは否定(あり得ない)と保留(信じるに足る根拠が不足)の二種類はあるから
相手がどっちを言ってるのか読み取らないとね マインドフルネスやってる人も別に最初から信じてやってるわけではないでしょ
信用できるかどうかとりあえずやってみてるだけなのでは
そもそも仏教の内容を本当に信じられるようになるのは預流果になって仏法への疑念がなくなったときだろうし
そうでもないのに信じてるとしたらそれは信じたいっていう自分の願望だよね マインドフルネスに関してはその効果が科学的に実証されてるからオカルトとは一線を画する気がする
グーグルがやってるサーチインサイドユアセルフみたいな……詳しいソースとかは最高の休息法って言う2500円位の本に載ってる?
まあ、瞑想に関しては5種類しか載ってないし本当にこれからマインドフルネス始める人向けな感じだけど、まあまあ良い本だった気もする(内容がストーリー仕立てでマインドフルネスを実践しながら店を立て直すって感じで自己啓発本的な構成だったけども)
私は瞑想でアルティメットテケテケ様と自由自在に会話できるようになりたいしその他にも夢があってまあどっちもやってる系ですね >>69
仏教の瞑想は生まれ変わらないための実践
病気の治癒とか現世利益を求めるマインドフルネスとは目的が異なる 輪廻とは、精神的と物質的のプロセスのことです。
それが輪廻と呼ばれるのです。
ある人が、一つの生から別の生へと移るという、物語のことではありません。
ウ・ジョーティカ
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仏教の瞑想指導者であるウ・ジョーティカは、輪廻とは生まれ変わりのことではないと言っているね 解脱するまでは肉体は死んでも死ななくても心相続はあるというのが仏教の立場でしょ
ウ・ジョーティカ師の言うことは間違ってないし、さりとて死後の生まれ変わりを否定する立場でもない
チベット仏教でもテーラワーダでも死後の心相続や死後の生まれ変わりを固く信じているんだから、
躍起になって否定することはない
生まれ変わりの原動力となるのは執着
マインドフルネスも、執着を手放すという目的自体は同じ
別にお互い否定しあうことはないんじゃないの? 宗教の立場からは、深い瞑想の実践や体験、長く続いたサンガでの実例、理論と経験の積み重ねから、瞑想の延長に転生の概念は事実であるとして支持してきた
マインドフルネスは、そうした仏教の瞑想をかりてきて、合理的に役立つものとして
拝借した
しかし転生まで考えなくても、役立つんだから信じろ信じるなは必要ないよ 「解脱」そのものが生まれ変わり前提の話だよな?
輪廻転生を否定する人は
釈尊が何から「解脱」したとおもっているのかな? 76.自分から解脱した、に決まっている。バカには理解できない。 何が生まれ変わるか理解してないのに解脱とか語るの? 何が生まれ変わるか理解してないと解脱を語っちゃいけないの?
釈尊は何が生まれ変わるか明言してるの? 毒矢が刺さってるのに
これは何の毒か理解してないから引き抜かないの? まず輪廻転生を否定した発言があったかどうか確認してから話を進めたらどうかと思われ 釈迦が生まれ変わりがあると言ったというより
釈迦が生まれた2500年前のインドが
生まれ変わりを常識とするバラモン教の影響下にあって
そういう環境の中で釈迦は生きて発言していたというのが本当のところではないだろか
そういう中で瞑想によって今ここを如実に知ることにより
輪廻から脱しようという あと、解脱って生まれ変わりを前提とした話しなんだろうか?
ニルヴァーナは現世において到達するものとして語られていたのでは そう言えば『解脱』と『解説』って同じ字だけど全然意味ちがくない?いや、同じなのかな……。と思ったけど違う字だった……。これが中卒の限界かぁぁ!黙って瞑想しときます。
おっぱい。おっぱいおっぱいボインイーン。踊るおっぱい見るおっぱい。ここはおっぱいパラダイス! 現世は思うようにおっぱいと触れ合えないからおっぱいを求めるけど
おっぱいだらけの世界に行ったらおっぱいもどうでもよくなるだろうなあとマジレス 業の行為者は存在しない。ただ、行為だけがある。結果を受ける者も存在しない。ただ、結果だけがある。単に諸法のみが生起する。これが真理であり、正見である
(清浄道論Visuddhi Magga) お釈迦様の言う輪廻とはね
生きているという観念と死んでしまうという観念のこと
それが年がら年中グルグルと激しく揺れ動いているのが凡夫の心
お釈迦様はその観念を捨てちゃったんだよねー
つまり生きてもいないし死にもしないってこと ブッダは世界は幻想と見破り
生きながらにして死ぬ事によって
決して生まれて来なかったと悟ったのだ。
その境地こそニルヴァーナだが
言葉にするとたちまち観念となる。
真理は言葉では言い表せない。
だからこそ多種多様な仏典や経典が存在する。 <葉隠聞書>
端的只今の一念より外はこれなく候。
「一念一念と重ねて一生なり。」
ここに覚え付き候へば、外に忙しき事もなく、求むこともなし。
この一念を守つて暮すまでなり。
皆人、ここを取り失ひ、別にある様にばかり存じて探促いたし、
ここを見付け候人なきものなり。
さてこの一念を守り詰めて抜けぬ様になることは、
功を積まねばなるまじく候。
されども、一度辿り着き候へば、常住に無くても、
もはや別の物にてはなし。
この一念に極り候事を、よくよく合点候へば、事少なくなる事なり。
この一念に忠節備はり候なりと。 日が昇ったら日が産まれたと思うだろうか
日が沈んだら日が死んだと思うだろうか
んなこたーない
ただ位置関係が変わっただけ
お前が死と思いこんでることもその程度のこと >>15
>集中と観察は切り離せないもの
混同してるから集中無心と観察集中って分けた方がいいでしょ。
某長老が大先生と呼び、阿羅漢解脱している師とされる
アーチャン・チャー 「手放す生き方−気づきの瞑想実践」より抜粋
・「サマタによる心の平安は、私たちの最終目標ではない。なぜなら、
サマタによって心の平安を得ても、渇愛(タンハー)や苦は依然として
存在しているからだ。それゆえ、ブッダは心の平安を得た後も瞑想を続けた。
ブッダは、自身がサマタによる心の平安に執着しなくなるまで、
存在の真実を探求し続けた。サマタは修行の途上の一段階にすぎない。」
・「ブッダは、智慧を通じた解脱とサマタ(止)を通じた解脱の2つの修行を説いた。
智慧を通じた解脱を目指す人は、ダルマについて聞くと、すぐにそれを理解し始める。
教えはシンプルで、ただ物事を手放すこと、物事をあるがままにしておくことだから、
多くの努力やサマーディ(定)を必要とすることなく、彼らはとても自然な形で
手放すことの実践を始めることになる。このシンプルな実践は、最終的に彼らを
我(アッタ―)を超えた、もはや手放すものも、つかむものもない場所へと
導くことができる。一方、サマタを通じた解脱を目指す人は、その経歴次第でより
多くのサマーディを必要とすることになる。彼らはとても厳格な方法で、
長い期間坐る瞑想をしなければならない。」 集中瞑想を否定する風潮があるけれども
サマディの中で覚醒している人もいるからね。
アチャンチャーの解説は、説明の一つかな。 まあ、宗教5ちゃんねるも、57歳ニートのクソジジイ
しかいないんだけどね(笑) 欲望を乗り越えるためのメソッドが
欲望を満たす
皮肉 あきらかに本末転倒って気がしますね
でも、俺も「少しでもましな人間になれるように」って効果を狙ってる時点で
ある意味で同じかもしれない
多少なりと怒りっぽくはなくなった
少しは慈悲深くもなったような気がする
これがマインドフルネスの効果なら、周りの人の役にもたつことだし続けて生きたいと思う
皆さんがどう生活に取り入れてるか、どう習慣づけてるか教えてください ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています