マインドフルネス Part13
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悟らなくたって、いいじゃないか
普通の人のための仏教・瞑想 欲望を乗り越える目的のために瞑想するのも
セックスの悩みを解消する目的で瞑想するのも同じだね >>100
こういう話は多層的 段階的なところが多くあるので迷ってしまうかもしれませんがポイントは 今の自分にいつでも帰ってくることです
苦しみから逃げたい 良くなりたい 大いに結構じゃないですか それらの気持ちがあるから目覚めることができるんだと思いますよ
一つ うーん と思うのはこの方法をスポーツの練習のように捉えてらっしゃるところがあるのではというところです この方法は自分を観察することだけです 観察した結果 自分でどうこうしようということは無くても良いんです 自分を観察するだけ、いつでも今の自分に帰ってくること
なるほどシンプルですね
そして深いと思います
どれだけそれを忘れている時間があるか
ありがとうございます マインドフルネスを始めて一週間
なんですが終わった後に
脳が疲れた感じになってしまいます
脳が疲れてしまうのって
始めたばかりでは普通なんでしょうか?
対策とかあるのかな? 疲れているというただの思い込み
か
根本的に方法が間違ってる >>105
脳に疲れる機能は無いです
腹式呼吸をすると副交感神経が優位になって眠くなります
それを疲れたと錯覚しているのでは >>105
脳なのかどうかわかりませんが 非常に疲れますよ しっかり出来ているほど疲れます
集中力を使うせいでぐったりするほか 今の状態から多少なりとも変化しようとする反対に 今のままを維持しようという力も働くため熱心にやりすぎると体調を崩したりします
どんな方法で実践されてますか? 通常の意識で行うと脳が疲れる。
そのまま長時間続けると大変なことに。
しかしこれが一般的に行われているマインドフルネス。
本当は間違ったやり方。
本当のマインドフルネスは非思量であり、
つまるところ禅と同じ。
誰がマインドフルネスをしているのかといった問題。
意識の状態が要。 >>105
https://ja.scribd.com/doc/25777519/Right-Attitude-Japanese
>5.もし心と身体とが(瞑想したことによって)疲れてくるようであれば、あなたの瞑想のやり方はどこか間違っています。あなたの瞑想の仕方をチェックしてみましょう。 >>108
時間は20分間
マントラを頭の中で唱えながら
雑念が浮かんできたら
マントラでかき消しています
過去の嫌な事が浮かんで来ると
どうしても反応して瞑想が途切れてしまいます
やり方は合ってるかな? >>111
横ですが二つ問題点が…
まず、第一にマインドフルネス瞑想ではマントラは使いません。少なくともwikipediaに載ってたり欧米でマインドフルネスとして学問的に効果が測定されてたりするメソッドじゃないです。
それから第二に、マントラ瞑想としてもマントラの使い方が間違ってます。どこかで教わったのか本で読んだのかは知りませんが、雑念をマントラでかき消すとかあり得ないです。実はそんな事教わって無いor書いて無くて、勝手な思い込みでやり方変えてないですか? >>111
おーなるほど 色々ご自身で工夫されてるわけですね 自分自身を観察する瞑想としては機能していないように思います どの部分が機能していないかというと 雑念をかき消すところです
どちらかというと故意に嫌な記憶 妄想をあぶり出して 心身の拒否反応をまざまざと観察しても良いくらいです
マントラも今の自分をはっきり意識するような内容であれば最初は役に立つかもしれません 例えば この瞬間 この瞬間 とか 私 私 など
過去の嫌なこと まさにこれが観察すべきご馳走なんです
瞑想というと目を瞑って無になるというイメージが強いかもしれませんが この方法は手を観察して指を観察して指紋を観察して指がどんな物質でできているか観察して....という方法で徹底的に頭がハッキリシラフの状態で行います 加えて瞑想の目的が何なのか どこまでなのかも大きな問題です 悟り 覚醒でしたら意識がある間 起きている間ずーっと観察しなければいけませんし
具体的な昔の嫌な事件 対人関係の解決なんかでしたら嫌なイメージを故意に思い出してピンポイントで解決できるかもしれません まあ発狂しない程度にゆっくり進めないといけませんが
私が疲れるといったのは前者の場合でダラダラやると全く意味がないので何かの公式戦で戦う前のような緊張感 集中力をずーっとできるだけ維持しないといけないからです
とりあえずは呼吸を観察したり 手を観察する方法から初めてみてはいかがですか? 検索すれば丁寧なサイトはたくさんあると思います 自分なりに工夫を加えるのはそれからでも遅くないですよ マインドフルネスって宗教なんか?
自己啓発板に立てた方がいいんじゃね 現世利益を求めるマインドフルネスには
自己啓発板がお似合いかもな
論文ベースの() 生きている間のことはどうでもいいみたいになると
こんな性格が悪いみたいな雰囲気になってしまうのかな🤔 どこをどう読んだら
生きている間のことはどうでもいいなんて解釈ができるんだろう
よほど読解力がないんだろうな あなたにとって現世での利益を求めるのは嘲笑の対象なわけでしょ
死んだあとのために自分は瞑想してるんだと言いたいと 現世利益のための瞑想を批判することが
生きている間をどうでもいいと考えていると捉えるのは
いくらなんでも穿ちすぎ
ただ攻撃したいだけなんだろう >>120
あなたは何故マインドフルネス瞑想をしているんですか 現世利益を求めない=生きながらに涅槃に到達することは求めないですよね >>121
それを知ってどうなるのか
なぜ難癖つけてくる人間にそれを教えなくてはいけないのか
あなたが現世利益を求める瞑想がお望みなら
あなたはそれをやればいいでしょう >>123
難癖をつけてきたのは118ではないですかね >>123
とりあえず何のためにマインドフルネス瞑想をしてるのか教えてくださいよ
どういう立場から批判してるのかハッキリしない 現世利益を批判したことを
生きている間のことはどうでもいいと曲解して
難癖つけてきたのは119でしょう >>126
生きている間のことはどうでもいいんじゃないですか? 生きている間のことはどうでもいいわけないでしょう
現世利益を求めない=生きている間のことはどうでもいい
という解釈がなぜできるのかわからない
ただ難癖をつけてるだけでしょう
イチャモンつけてるだけでしょう >>128
どうでもよくはないけど生きている間には利益は求めないんですよね
あと116の物言いを見る限り慈悲を大切にしている立場ではない
では、生きている間には何をもってどうでもいいわけではないと言っているわけですか あなたは現世利益を求める欲にまみれた瞑想をすればいいじゃない?
私はそんな瞑想はしたくないからしない
難癖つけて攻撃してくる人間と議論する気もない >>130
欲望のために瞑想しても何もならんとは言いますね
で、あなたは何を求めてマインドフルネス瞑想をしているんですか
話に絡みながら議論したくないもないでしょう
答えてください 何かを求めてするのも瞑想
何かを捨てるのも瞑想
人が何のために瞑想してるのかなんて気にする時間があるくらい暇なのか
ただ相手をやりこめたいだけなのか >>132
どういう立場から批判してるのかが知りたいんですよ
やりこめたいとかそういう思いにとらわれている自分こそが
好戦的な思いに頭がいっぱいになっているんだという気づきは無理ですかね 人が何のために瞑想してるのか聞いてまた難癖つけたいと
またイチャモンつけたいと 難癖とかイチャモンとかあなたの世界のストーリーですよね 現世利益を求めない瞑想=生きている間のことはどうでもいい
という妄想
難癖以外の何者でもない >>136
だから、そこは違うならどういうことなのかと聞いてるんじゃないですか 人が勝手に妄想したことまではわからない
ただイチャモンつけたいから妄想したことまでは イチャモンつけたがってるキャラクターはあなたの頭の中にいるんですよね イチャモンつけてくるややこしい性格のキャラクターはここにいますよ
絵文字キャラ付きで >>117
これは誰が書き込んだんですか?
誰がこの絵文字をチョイスしたんですか? 何かあると攻撃されたとかイチャモンつけられたとか被害妄想的になって
そういった苦しみから逃れるために瞑想を始めた、なんてのは勿論俺がいま作り上げた物語でしかないわけです >>143
俺ですよ
だから生きている間がどうでもいいわけではないという言葉をもらって
それならそれはどういうことかと尋ねているわけです また妄想ですか...
妄想癖がすごいようで
お大事に >>146
妄想の外側から語っていることに気づくことは出来ませんか? 私もどっちかって言うとご利益は考えてない方向性だけど
ご利益追求するのも別に悪くないと思うけどね
現世利益を求めるのも涅槃を目指すのも欲として全然変わらんでしょ 現世利益とは煩悩を満たすことではなく、苦を滅して平穏に現世を生きていくこと
マインドフルネスが目指してるのはこれだと思っます 涅槃を目指すのは本来の状態に戻ろうととすることだから何かを望むような欲とはまたちょっと違うと思うけどな
何かを望むように涅槃を目指す凡夫は多いから欲に見えるかもしれんけど 最初の動機としては、欲に近い形で始めるのは仕方ないのでは まず世界はどこにあるのかを突き止めなければならないよ
世界はどこにあるのだろう
分かりきったことだ
頭の中にあるのだよ
お前のぼんくら頭の中に世界はあるのだよ
そこで独り相撲やってるのがお前ら、傑作、笑わせるw
いや、客観的物理世界があるとお前らはのたまうがそんなものを認識できるほど優れた頭を持っていないんだよ
物事の一面を観てとりあえず生きているだけなんで自分が無知でバカでゴミのような存在であることを自覚するべきだ つまりその お前ら という存在も
あなたの頭の中にあるだけですよね >>155
そのとおり
お前も俺の頭の中のゴミでしか無いんで速攻でゴミ箱行き 世界に実在しているのはあなた一人だけということですか >>157
俺自身も実在してない
幻想空間を漂うだけ
それが悲しいのか?虚しいのか?
そうじゃないだろ
面白いんだよ
結構奇跡的なことなんだよ
面白いんだよ
バカには分からんだろうがね 悲しいとも虚しいとも言ってないんですが
独り相撲をとっていませんか? 俺自身のことを言ってるんだから
人が悲しいとか虚しいと言ってないのは当たり前のことだな
勝手に自分のことに置き換えてるだけで
俺自身のことを言ってるんだから独り相撲でも問題ないな あなたは実在していないそうですが、では何が幻想空間を漂っているんですか?
あと、頭の中にしか存在しないという他者に対してバカだと発言することに何か意味はあるのでしょうか バカにはわからないと言ってることから、如実知見できる世界ではなく、頭で作り出した世界に強引に自分を当て嵌めようとしてるようにみえるが如何 まあホントいうと、このスレでのこうした議論も、職場のパワーゲームや
サークルの主導権争いとまったく質的には同じなんだよな.
題材が悟りになってるだけで。
実際の悟りにとって、絶対きわめて有害なことやってるんだけど、そこは絶対認めないんだろうけど。
これは法論だみたいなエクスキューズ使って、自分の心にきわめて有害なことをやってる G由来のマインドフルネスは悟りを目指してないのでは?
いかに自分が成果をあげて
得をすることを志向しているんじゃないの?
我が我がの貪りの世界
貪欲マインドフルネス 心の中にエミュレータを飼うことになるからな。
議論の相手の反応を予想し、気持ちや行動原理といった内面を推測し、どう発言すればどう思うか、心の中でエミュレーションを繰り返して発言を決めることになる。
そのうち、エミュレータ用の仮想人格を本物と思い込んで、「お前らは…だろう」みたいに言うようになって…
事実のみを議論のもとにすること、議論の俎上に載せられるか載せられないかを峻別すること、それさえ出来てれば問題無いんですけどね。 >議論の相手の反応を予想し、気持ちや行動原理といった内面を推測し、どう発言すればどう思うか、心の中でエミュレーションを繰り返して発言を決めることになる。
つまりは議論の相手に「勝ちたい」ということかな?
議論の相手に勝ちたいから心の中でエミュレーションを繰り返して悪業を重ねる 実際には知らないのに思い込みだけで批判するタイプか 己の勝手な思い込みでこうだと決めつけて批判するタイプ ありのままにみるのが仏の道だとしたら
その逆が自分の想像に現実を寄せたがるということかな マインドフルネスはテーラワーダ仏教などが由来と言っているが、
仏教本来のやり方と全然違っているよ。
仏教本来のやり方では、自発的なアクションは取らない。
「気づく」といっても、能動的に気づくことはしない。
ところがマインドフルネスでは能動的に気づくことをしている。
これはおかしい。
マインドフルネスは、瞑想の正念ではなく、
戒律にある感覚器官を護る正覚でしょう。
はっきりといえばマインドフルネスは顕在意識を使った自覚の連続。
仏教のサティ(正念)ではありませんね。 山下良道さんがそういうことを言ってニー仏さんから突っ込まれてなかったか はじめはそれで良いのだけど、どこかでひっくり返るというかジャンプする
ところがありますよ >>170
「仏教本来のやり方」とは誰がどこで説いたやり方?
>戒律にある感覚器官を護る正覚でしょう。
八正道のことかな? >>170
そうです あなたのいう通りですよ 徹底的にハッキリ スポーツのように今の自分を自覚的に見ていく方法です 仏教じゃないから別に違っても良いのでは?
どこまでやるのかだけが問題で 最後までやれば悟りに至ります そこまでやらなくても苦しい思考 思い込みの軽減 除去 冷静さの獲得程度は簡単に(数年で)獲得できるでしょう
というか自覚的 能動的にやらない修行ってどんな方法?
思いつくのは禅で全てを手放した状態 ヴィパサナやマインドフルネスで自動的に観察が起こって観ているだけの状態ぐらいしか思いつかない 後学のために良かったら教えて下さい ゲームに周りが見えなくなるくらい集中するのもマインドフルネス? 六根の活動に任せきるって事でしょうね
自分から意図的には何もしないのですよ
相手にせず邪魔にせず放っておく >>176
ということは私が今 お茶を飲んでテレビを見てぼーっとしている(30年以上同じ)この状態が 既に理想的な修行状態ということなんですか?
放っておくというのは既に 放っておくという意思が 意図が働いているのでは? 本当に放っておくというのは時に相手にしたりしなかったりという 自然な状態を言うのでは? >>176
六根開放は禅のメソッドであって、マインドフルネスのメソッドとは違うよ >>174
テーラワーダも禅も要領は同じです。
マインドフルネスは、テーラワーダや禅における技法の上辺だけを真似て、
意志を使って行じてしまうところに問題があります。
けれどもこの方法であっても、異常な状態になっている人には効果があります。
意志を使うことで行動に自覚的になり、悩みの連鎖に入り込むことが減り、
この連続の末に悩み繰り返す習慣を減らして健常者に立ち戻ることができます。
これが世間で言われているところのマインドフルネス効果でしょう。
しかしこのことは普通の人なら誰でも行っています。
嫌なことに会ったり聞いたりすれば、無意識のうちに心を別のものに向けて切り替えます。
切り替える対象が、今行っている仕事や作業そのもの、同僚との会話、楽しい思い出等々。
能動的に自覚したり心を切り替えることで嫌な感情の連続性から回避しています。
今流行っているマインドフルネスは誰もが当たり前に行っていることです。
というか、意識をますます使ってギクシャクしてしまうことすら促しています。
マインドフルネスに頑張れば頑張るほど、意識を使えば使うほどギクシャクもしてきます。
これは仏教本来の瞑想でも無ければ、テーラワーダや禅に由来も無い、
ほとんどの人が無意識に行っている心の切り替えを、
あえて意識化し自覚化して、意識の過剰を高めてしまう技法です。
マインドフルネスに効果を感じている人は、
心の悩みが重たく、うつ病を発症している人などに効果があっても、
普通の人には意味不明な行為として感じられます。
なぜなら、常に当たり前に行っていることだからです。
仏教本来の瞑想もあえて瞑想といわなくてもよく、当たり前の延長にあることで、
言葉で言えば「なにもしない」となります。
しかし、これを言語や観念で理解すると失敗します。 >>178
禅とマインドフルネスはまったく違うということですね
認識を滅するには六根に手を付けない訓練が最良というのが禅なんですよ 1110「どのようによく気をつけて行っている人の識別作用が、止滅するのですか?それを先生におたずねするためにわたくしはやってきたのです。あなたのそのおことばをお聞きしたいのです。」
1111「内面的にも外面的にも感覚的感受を喜ばない人、このようによく気をつけて行っている人、の識別作用が死滅するのである。」
(スッタニパータより) マインドフルネスって分かりやすく説明したらダメって空気なんですか? >>180
と言うことはテレビを見てるような見てないような 意識せずたまーに飲み物を手に取ったりしているその状態が既に最良の方法ということで良いんですね?
ということは仏教には修行(本来修行は必要ない 必要無かったと気づかせるための修行も含めて)は存在しないと このシンプルな問いにどう答えるか
禅の基本が分かってるかどうかが問われてますよ >>181
そうなんですよね 私も最初はヴィパサナなど自覚的になる方法は自己を強く意識して強化するために遠回りじゃないか?と思ってサマタやただ座っている という方法でやっていました
当時は花を見れば花だけになる経験をしたりしましたが
それ以上修行が進まなくなり ヴィパサに移行して3年ほどで悟りを得ました(自己は存在せず現象に過ぎないというレベルの悟り)
ヴィパサナを実践中に誤解していたことがたくさんありましたよ やればやるほど自己がなくなっていく 得たと思った理解もどんどん過ぎ去って忘れていく 禅はダイレクトなのはわかるんですが 簡単過ぎて難しい どういう技法が合うかはその人によるだろうね
俺は禅の公案解けたし神秘的な体験もいろいろしたけど自分から禅定はうまく入れないしヴィパッサナーも苦手だった
結局アドヴァイタで私が在るということがどういうことかと自他は気づきそのものであることがわかってから
禅のただ座る座禅もヴィパッサナーもわかるようになった
どのような技法もたしかに根っこは同じだけど入り方や心身の用い方がそれなりに違うから当然合う合わないがある
禅やヴィパッサナーをどのようにするかは分かった人からはこれこれこうだと言えるけどいくら言ってもわかってない人はわからないし、
分かった時に初めてできるからあまり言ってもしょうがないという部分はある
わからないうちは合いそうな本をいくつか読んで調べて自分で工夫したり試したりしながらいろいろやるしかないだろうね マインドフルネス瞑想とヴィパッサナーてやってることほぼ一緒じゃないの
アメリカでは出家しろとか結婚するなとか輪廻を信じろとかが文化的に合わないから
そういう宗教性を省いたのがマインドフルネスだと説明されてるの見たことある そうだ、マインドフルネスとひとことで言っても多少の毛色の違いみたいのは色々あるよね
MBSRのカバットジン
ベトナム禅のティクナットハン
タイ森林寺院のプラユキナラテボー
仏教3.0とか言ってる山下良道 etc…
仏教本来の…とか言えるもんなんだろか マインドフルネスの由来がヴィパッサナーだから同じとも言えるし、名称が違うから少し語られる範囲が違うとも言える
寿司とアメリカに輸出されたsusiが同じかどうかみたいなもんでしょ
どっちも同じなんだけどアボカド巻きは寿司かどうかで議論が出たりもする あと、意識の問題についてだけど、道元の
ただわが身をも心をも放ち忘れて仏の家に投げ入れて
と、マインドフルネスでいう「自分で評価をくださない」は同じことを言っているのでは >>184
テレビをみてるときにそんな事意識する必要はないです
そのような事を意識しているということは一瞬でも思い起こしてるんです
任せてることにはならない
修行は必要です
坐禅すればわかります 自転車乗れるようになるのに筋トレ(修行)は必要ないけど
なんの運動もしてこなかった人間はそうそう自転車乗れないから修行はしたほうがいい
まあ自分に疑問を持ったり考えたりするのも修行のひとつだし修行してないひとなんていないんだけどね 陸上してた人間は陸上してたおかげ、水泳してた人間は水泳してたおかげと自分の経験からそれによって自転車乗れたと言うけど
それは自転車に乗れた直接的な原因ではないんだよね
でも自転車乗れるようになるには水泳も陸上もやってみてたほうが近道 陸上してなくても水泳してなくても
幼稚園児でも自転車に乗れる ほとけに任せるというのは他力のことだよね
で、それはどういうことかというと、自分の欲望や感情にコントロールされることではない
つまり無意識のうちに茶を飲んでいるというようなこととは違う それと、例えが間違っているのでは
自転車に乗れるようになるためには、自転車に乗る練習を意識的に行う いや、自転車乗れる練習したって実際に乗れることとは直接的には関係ないって言いたかったんだよね
機が熟していれば教えを聞いただけやちょっとしたきっかけでも心身は脱落するし、
どんな関係しそうな練習したところで直接は関係ないと
意識的であろうとすることは努力だし、努力したからどうにかなるようなもんじゃないし
もちろん間接的には関係するし努力も意識的であることもしたほうがいいと思うよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています