【仏教】 悟りを開いた人のスレ302【天空寺】
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>>677
麦ちゃん^^
いい波のってんね〜〜♪
Skype仲間に紹介するのお^^
>>682
ラジャーじゃよ^^ >>681
統合失調症が治るわけねーだろ!
・・・・・・鬼和尚さま、蛇足で質問です。
以前、鬼和尚さまは意識を不本意ながらブラフマンと形容すると言ってましたが。
それも所詮は言葉にすぎないという括弧つきで。
ブラフマンとアートマンが同一ならば、鬼和尚の言う意識もアートマンと言っていいのでしょうか?
アートマンは非ずとしてしか示せないのは重々承知しての上での話です。
なぜこうまでしつこくアートマンに拘るのかと言えば、宝珠さんが興味深い指摘をされてたのです。
『有為から出離していることを自覚している自己意識こそがアートマンだと。』
アートマンをブラフマンに置き換えれば鬼和尚の言ってたことに通じるかなと^^
所詮は言葉にすぎず、あーだこーだと定義するのは愚かなことですが、よろしくです^^ >>684
お前、当然と言うか何で栄進を騙るんじゃwww
スレを盛り上げたいのはわかるが、鬼はいつもながらバカじゃのうwww
ズバリ、栄進はそんな言葉使いはしない、パラレルワールドだからなwww
南無ビッグアミターバのみが偉大なリwww
笑っちゃ魚www 鬼は偽栄進が分からないか、偽栄進を許容したか、誰でも良いと言うか、
騙りを許すなら人間と言う物ではないなwww
南無ビッグアミターバのみが偉大なリwww
笑っちゃ魚www 麦ちゃんも、なめ爺様も動画が古い・・
なめ爺様に軽くスルーされたなwww
https://www.youtube.com/watch?v=pIW_yDNi5m0
【サーフィン】最恐の波 30m超ビッグウェーブ集【神業】
これできたら脱帽いたします・・
>>582
いま、スッタニバッタの打ち込みをしながら、キーボードタッチの練習をしている。
同時にダーリン・イン・ザ・フランキス24話を見て感じた。
破壊された世界に取り残された子供たちは何を望むか、大人にはわからない。
大人は思念体に吸収されてもあきらめもつくが。
子供たちは果たしてその判断に乗るか。 >>687
>ダーリン・イン・ザ・フランキス24話
間違い、ダーリン・イン・ザ・フランキス23話です。 >>687
我輩は、昔のお、台風の時にじゃよ
潮岬へサーフインに行こうと
友人から誘われてのお、
行かなかったのじゃよ^^
>なめ爺様に軽くスルーされたなwww
我輩はおぬしの居ない世界へ移動しちょったのじゃよ^-^ Try Not To Laugh - ほか - 50件の動画
https://www.youtube.com/watch?v=HmSKF3KuLxM&list=RDHmSKF3KuLxM&t=6 >>673
>何とブッタは優しい、九九しかできない私としては、乗法を抜いてくれることはありがたい。
>乗法が入っていると不完全な理論になぜなるのだ?
これはこのスレのレベルが高いように見せかけるためのはったりの類いのものであるから細かいことにツッコンダラ負けだ、俺が負ける。
@の言語において完全でわかりやすい理論が存在しない理由はいわゆる自己言及のパラドックス(真偽が定まらない命題)が演繹できてしまうから。
参考までに。
http://d.hatena.ne.jp/martbm/touch/20180215/1518692374
>なるほど、プレスバーガー算術でゲーデルの不完全性定理が成り立たないのは、ゲーデル数が定義できないからだな、と思った人は鋭いが
こちらの書いた乗法のないAがプレスバーガー算術のことね。
詳しいことが知りたいなら数学板の賢者を頼るしかない。
この辺りは自分も今後きちんと理解してライトノベルに入れていく予定だが。
これは1つの考え方であるが。
仏教の根本的な思想に『縁起の法』というものがある。
考え方によっては縁起の法は縁起の法自身の常住性を否定してしまうものになる可能性があるんだ。
>わが作るところにも非ず、また余人の作るところにも非ず。
>如来の世に出ずるも出てざるも法界常住なり。
釈迦はそれに制限を加え自己言及を禁止したんだよ。
これは対機説法と考えてよいと思われる、最初から中論みたいなことを言っても誰も理解できないからね。
龍樹は時代(仏教や学問の進展)をみてその制限を取り除いたというわけ。
ただこれにより仏教は大きく変質した。
初期仏教:法(縁起)の理解→実践。
大乗仏教:実践→法(空)の理解。
仏教から完全な理論が消えてしまったことでフローや理解すべき法も変わってしまった。
大乗仏教からは本当の真理である『空』と正面から対峙するものになったわけね。
ちなみにだ。
こちらは仏教の本は一冊ももってないし中論も10行くらいしか読んでない。
なのにここまで言い切るとか素敵な性格してるだろう。
夕、上手いことフォローしてくれ。 >>690 nam さん
居乳 - ほか - 37件の動画
https://www.youtube.com/watch?v=b7PpgNmYEY8&list=PLIXGM-7jEAM70CeuhVN8m0yOdo9lTptCE
巨乳 - ほか - 122件の動画
https://www.youtube.com/watch?v=ou6c6lsRbLU&index=2&list=PLCJljHjBAaQ5CQkUbpJcpz-ercbb9mQKR 龍樹のそれは「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」(ウィトゲンシュタイン)と同じく、語る得ぬ事でも示し得る事を示唆していると思われます。 私も仏教書は持ってませんし、龍樹とかもウィキで概要を知った程度です。 >>648 もはや混乱状態じゃな。
おぬしの主張は自ら書いたとおり、全て証明できていないのじゃ。
その状態では今のおぬしの主張は全て単なる個人の感想、妄想に過ぎないのじゃ。
証明できないことは何も指摘したことにならず、反証もしていないのじゃ。
何も証明できないと書いておきながら、反証したとはおかしなことじゃ。
それは反証ではなくおぬしの妄想なのじゃ。
おぬしは身体が概念ではないことすらわからないのではもはや日本語も理解していないことになるのう。
身体と概念を検索して調べるとよいのじゃ。
お釈迦様は確かにウダーナヴァルガの観察で観察というものを教えておる。
それを受け入れ、今はわからなくとも信仰によって実践するのが仏教徒なのじゃ。
観察を確かに教えているのにそれが定の一部とか妄想して、受け容れず実践しないのは仏教徒ではないのじゃ。
お釈迦様は確かにうそをつかず、悪口もしないことを教えておる。
それを受け入れて実践する者が仏教徒なのじゃ。
受け容れず実践しない者は仏教徒ではないのじゃ。
おぬしに正しい教えを授けるわしは真の和尚なのじゃ。
伝統を継ぐとかいいながら、ウソや悪口をしないように教えないのは和尚ではないのじゃ。
>>672 ジャンキーと同類じゃな。
哀れなことじゃ。
わしは常にヴェーダによってアートマンを知らなければアートマンについて語るべきではないと書いているのじゃ。
ヴェーダこそアートマンについての一次資料であり、論拠となるものじゃ。
ヴェーダを読めば明白なことも、自らの怠慢に拠って確かめられない者は真実を求める者ではなく、仏教徒でもないのじゃ。
自ら真実を求めることを怠り、他人の悪口によって自ら昂ぶっているのであるからのう。
それほどまでに論争に勝ちたいならばおぬしが勝った事にするとよいのじゃ。
仏教徒であることも捨てて欲しかった論争の勝利を得て良かったのう。 >>694
>私も仏教は高校の歴史で学んだ程度ですがw
仲間がいると嬉しいw
正直、中論とかラノベにしてほしいよね。
てか今チラッと検索してみたらすごくわかりやすく書かれてるのあった。
中論24章
http://nagarjuna.jugem.jp/?eid=41
>つまり君は、世俗の人々向けの真理とは区別された、最高の真理があることに気がついていない。
龍樹も傲慢で笑える。
実はわりと最近まで『ナーガールジュナ』が『龍樹』のことって知らなかったんだよ。
チンポチンポうるさいトラック運転手だったと思うがナーガールジュナは天才みたいなこと口走ってて、誰だよそいつって検索して学んだんだ。
龍樹よりナーガールジュナのほうが可憐で響きがいいと思う。
でもナーガールジュナって蛇の樹ってことだよね。
エデンの園の蛇と似てるところがある。
大乗仏教は真理という善悪を知る木の実に導くものであるしね。 >>675 1 支持するような説は無いのじゃ。
それもまた悟りに導く法の一つに過ぎないのじゃ。
悟りへの法として納得できる者が行うべきなのじゃ。
2 同一とわしは言えるのじゃ。
しかし、それを感得していない者はいうべではないのじゃ。
3 無いのじゃ。
それも法なのじゃ。
4 実体は非ずなのじゃ。
>>676 1 実在とも言えないものなのじゃ。
2 把握できないものは破壊できないのじゃ。
ただひたすらに追い求めることができるだけなのじゃ。
>>678 同義ではないのじゃ。
涅槃は欲が静まった境地なのじゃ。
アートマンはそこに行くための法なのじゃ。
>>679 同義ではないのじゃ。
無為法は無為なのじゃ。
何も為す事のない境地なのじゃ。
アートマンはそこに至る法なのじゃ。
>>692
>初期仏教:法(縁起)の理解→実践。
>大乗仏教:実践→法(空)の理解。
自は他があって始めて自がわかるもんじゃないかなぁ。
他が無くなれば、当然自もなくなる。
自他があり、そのまま自他をなくすにはどうすればいいのか。
また逆もしかり。
適当・・
>こちらは仏教の本は一冊ももってないし中論も10行くらいしか読んでない。
>なのにここまで言い切るとか素敵な性格してるだろう。
本当かwww
別人格はよく知っているんじゃないか?
>夕、上手いことフォローしてくれ。
俺がわかるはずないじゃないか。パーピマンにでも聞いてくれ。
数学は、○○○ンでも聞いてくれ。 >>680 含まれるのじゃ。
それもまた無為法の観念を破壊するのであるからのう。
>>684 それはアートマンに非ずなのじゃ。
アートマンを知らない者が語るアートマンは虚妄なのじゃ。
アートマンとはそれ自身は認識できない認識主体なのじゃ。
そのような自己意識が認識できるならばそれはアートマンではないのじゃ。
>>686 おぬしも栄進なのじゃ。
全てはひとつなのじゃ。
阿弥陀もわしも一つなのじゃ。
わしに毎日帰依しているのじゃな。 >>687
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ凄いねぇ〜♪
学生の時だけど下田の吉佐美に泳ぎに行ったんだお
友達の親戚の家が吉佐美にあって誘われた
イイ天気だったんだけど台風の後で波が高くて赤旗が立ってたんだお
麦っち4人でどうする?って話してせっかく来たんだから泳ごう♪って事になって泳いでいたんだけど
他にも泳いでいる人居たおw
沖に出て大きい波に逆らわずにいると波が盛り上がるダケで
大きい波を超えられるんだけど
泳ぎ終わって岸に帰る時引く波の力が強くて全力で泳いでも引き戻されちゃつて
波に飲まれるわ引き戻されるわでヘトヘトになって死ぬかと思ったおぉ〜www
危ないと思ったら無理をしない麦の教訓ね♪www >>701
鬼和尚さま、ご回答ありがとうございます。
スッキリいたしました。
これで安眠できます^^ ∞ノノハ∞
川^〇^ハレ夕たんに質問だお
皆も参加してね♪
貴方は海でサーフィンをやっています
岸で待っているのは誰?
サーフボードの色は?
波にのまれた時一言? >>690
台風の時に行かないまでも誘われるとは結構若いころはやんちゃだったんですね。
台風の時、サーフィンをやっていればわたしは脱帽していたことでしょう。
平行世界で、別ルートなら、波に飲み込まれているか、帰還してちょっとした無謀さに騒がれるかもしれません。
それがなめ爺様の裏として同時進行していることでしょう。
向こうのなめ爺様は今は何をしているのでしょうか。
世界線なら、どこかで辻褄があっているんでしょうね。
>>702
>泳ぎ終わって岸に帰る時引く波の力が強くて全力で泳いでも引き戻されちゃつて
>波に飲まれるわ引き戻されるわでヘトヘトになって死ぬかと思ったおぉ〜www
やはり無謀は禁物です。でもそれが無謀かどうかわからなければ、やはり泳いじゃいますよね。
サーフィンはやったことありませんが、ウィンドサーフィンならやったことがあります。
いや、立つのが難しい、さらに風を感じるのがさらに難しい。
わたしの仕事の師匠たちは、ヨットをやっていたんで、おぼえるのが早い。
1日だぜ。くっそ!って思ったことを思い出したw ∞ノノハ∞
川^〇^ハレ>>704は深層心理ゲームだからね
勇気ないと参加出来ないかももwww >>697(その1)
> おぬしの主張は自ら書いたとおり、全て証明できていないのじゃ。
> その状態では今のおぬしの主張は全て単なる個人の感想、妄想に過ぎないのじゃ。
> 証明できないことは何も指摘したことにならず、反証もしていないのじゃ。
> 何も証明できないと書いておきながら、反証したとはおかしなことじゃ。
> それは反証ではなくおぬしの妄想なのじゃ。
↓(中村先生の説の要旨)
@仏教が成立した最初の時期には、禅定の修行は行つていたが、それを意味する術語としては、
ウパニシャッドやジャイナ教におけるのと同じ語を用いていた。すなわちshyana,yoga, samadhi などである。
最初の時期には「止観」(samatha, vipassana )という語は用いられなかつた。
A「止観」という語は、原始仏教においては、やや遅れて成立した語であつて、仏教以前にはもちろん用いられていない。
「止」の原語はサンスクリット語でsamatha、パーリ語でsamatha であるが、ウパニシャッドのなかには出て来ない。
Bところでsamathaという語はインドの一般文献の申には用いられることなく、専ら仏典にのみ出て来る語であり、
パーリ語のsamathaは「平静」の意味で、『スッタニパータ』の新しいガーターやパーリ文の『ダンマパダ』や『テーラガーター』のうちに出て来る。
しかしサンスクリットの『ウダーナ・ヴァルガ』の中には出て来ない。
パーり文の中で「止観」に言及している詩句の相当文を『ウダーナ・ヴァルガ』のうちに検討してみると、全然出て来ないか、あるいは。samathaがsamataとなつている。
恐らくパーリ文『ダンマパダ』にあとで挿入された語であろう。
だからsamatha というのは、仏教が成立してしばらくたつて一部の修行僧のあいだで用いられるに至つた特殊な術語であつたと考えられる。 >>697(その2)
Cvipasyana という語は『ウダーナ・ヴァルガ』梵文では唯だ一度だけ用いられているが、その場合にはsamadhi と対立しているようである。
このことは、『ウダーナ・ヴァルガ』においてはまだ「止観」という語が確立していなかつたこと示すわけである。
Dともかく「止」と、「観」とは遅れて別々に説かれるようになつたのであるが、そのわけは心を静めること(止) が、結果的には真理を明らかにすることになるので、
やがて心を静めること(止) と真理を観ずること(観)とが併称されるようになつた。
※まとめ
1.元々「定」しかなかった。
2.その「定」から止観という仏教独自の術語が出来た。 >>697(その3)
↓(箕輪先生の説の要旨)
@瞑想の基本は心を何かに結びつけるところから始まります。
結びつける対象は業処kammatthAna と呼ばれます。
また、瞑想はその機能から大きく二つの範疇に分けられました。
Aまず最初に心の働きを静めることを目的とした瞑想が存在しました。
それが、止samatha です。
止は三昧と禅那の二つに区分されます。
Bもう一つの範疇は観vipassanA です。
観は文字通り、観察することが中心となりますが、身体が感じ取っていることをすべて気づき続ける観察です。
Cこのように仏教の中の瞑想は大きく二つの範疇に分かれるのですが、その基本的な性格は、
「心の働きを一つの対象に結びつけること」と、そしてそれに「気づく」ことでした。
止も観も一つ一つ気づくことを行っていますので、それは変わってはいません。
Dなお、注意が必要なのですが、東アジア世界では、観の用語の使用法が少し曖昧です。
たとえば空観という言葉がありますが、それは「一切が空である」と認識し続けることであります。
これは、一つの概念に心の働きを結びつけていますので、観と言われても、実は機能的には「止」の範疇に入ります。
それは原始仏教で範疇分けされた部類に従えば、「随念による修習」の一つに入ります。
それは、あくまでも「止」の働きを持ったものであり、「観」ではないことに注意が必要です。
※まとめ
1.元々「定」しかなかった。
〜瞑想の基本は心を何かに結びつけるところから始まります。
2.その「定」から止観という仏教独自の術語が出来た。
〜瞑想はその機能から大きく二つの範疇に分けられました。 >>697(その4)
> おぬしは身体が概念ではないことすらわからないのではもはや日本語も理解していないことになるのう。
> 身体と概念を検索して調べるとよいのじゃ。
↓
瞑想するときに、その対象としての身体を身体という概念で表現しているのではないのですか?
> お釈迦様は確かにウダーナヴァルガの観察で観察というものを教えておる。
↓
やはり、ダンマパダ云々は貴方の勘違いって事ですね。
で、>>108への反証をはどうなんですか?
@最古層の仏典に「止観」の記述があり、
A(お釈迦様)が別ものと仰ってる事。
で、何で僧侶でないのに和尚と騙るのですか? >>697(その5)
とどのつまり貴方は根拠のない見解を言ってるだけじゃないですか?
w 鬼和尚さん?
あなたは素人相手に鬼和尚とか偉ぶっているけど、専門家がゴロゴロいる宗教板では統失扱いされていませんか?
それと、何で僧侶でないのに和尚と騙るのですか? 鬼和尚さん?
あなたの言う観察って、伝統的な仏教の方法とは全然違うようですが?
止は、観察の対象(業処kammatthAna)が一つに限定され、他のも のに心の働きが移った時に、最初のものに戻るという特徴が見出されます。
目指されているものは心の働きを減少させて静かにすることです。
ここでも心の働きの一つ一つに「気づく」ことがポイントになります。
一方の観は、観察の対象が一つに限定されず複数のものになり、恒に身体が感じ取っているものを気づき続けるところに特徴があります。
目指されているものは、受→想→行→識の一連の心の反応を途中で気づいて、心が一気呵成に反応して、さまざまな働きを生じさ せることから脱却させることです。
ここでも「気づく」ことはポイン トになります。
「仏教瞑想論 ──アジア諸地域の特徴について── (箕輪顕量)」 >>697(その6)
先ず訂正、>>521並びに>>710観察の出典は、ダンマパダではなくてウダーナでした。
錯誤をお詫びします。
> 観察を確かに教えているのにそれが定の一部とか妄想して、受け容れず実践しないのは仏教徒ではないのじゃ。
↓
ウダーナ27章の観察の「常にこの身体を見よ」(中村元訳)は、その対象を【一つの】概念(→身体)に心の働きを結びつけています。
ところで、「観は文字通り、観察することが中心となりますが、身体が感じ取っていることを【すべて】気づき続ける観察です」とあります。
それ故、観(察)と表記されていても、一つの概念に心の働きを結びつけていますので、これは「観」ではなく「止」の範疇に入るんじゃないのですか?
また、「〜のごとしと見よ。」(15.16)「〜のように」(17.18.19)のように、観ではなく 「随念による修習(=止)」ではありませんか? 観察とか定とか止観という概念をしっかり追いかけてみれば?
そのうち、何が何だか分からなくなる。
そこまで行かないのは、
追求の仕方が、中途半端ということに尽きる。
今のままでは死ぬまでむにゃむにゃが続くぞ。 >>693
ぽったんちゃん、
我輩はおっぱいより、
太ももがええのじゃよ^^w
>>705
サーフインやったことないのに
いきなり台風の時に誘われてものお^^
行かないのじゃよ^^
あの時あーしてたら、こーなったかも
知れんは、無限にあるかものう^^w >>715
以下の論文を参照にされるといいと思います。
仏教瞑想論 ──アジア諸地域の特徴について──
http://zenken.agu.ac.jp/research/42/14.pdf
要は以下のように思います。
1.止について
> 止は、観察の対象(業処kammatthAna)が一つに限定され、他のものに心の働きが移った時に、最初のものに戻るという特徴が見出されます。
> 目指されているものは心の働きを減少させて静かにすることです。
> ここでも心の働きの一つ一つに「気づく」ことがポイントになります。」
2.観について
> 一方の観は、観察の対象が一つに限定されず複数のものになり、恒に身体が感じ取っているものを気づき続けるところに特徴があります。
> 目指されているものは、受→想→行→識の一連の心の反応を途中で気づいて、心が一気呵成に反応して、さまざまな働きを生じさせることから脱却させることです。
> ここでも「気づく」ことはポイントになります。
3.観の実践例
> ところで、おもしろい例があります。道を歩いていて、誰かと肩がぶつかったとします。あなたならどうしますか。
> 「気をつけろ」と怒鳴りますか、それとも、ぶつかったときに感じるのは「痛み」でしょうから、「痛み」「痛み」と気づきますか。
> 「痛み」「痛み」と気づいて、それから優しく「気をつけて下さいね」と言うのが、修行経験の有る方の取る態度となりましょう。
4.観の効能
> 観の練習をすることによって、心の一連の働きは途中で止められるようになるはずです。
> 外界からの刺激、そして受容、そして認識、新たな感情の成立、と連続して心の反応が続いていくのでしょうが、それをどこかの段階で気づくということは、そこで心の反応が止まるということを意味します。
> こうなれば、感情に支配されることは少なくなるでしょう。
> また、それらの煩悩・害心は生じる機会を失います。
> それらは、心の一連の反応の結果、生じてくる心の働きに他ならないからです。 >>717(続き)
坐禅でも作務でも、その集中から外れた時は戻るのが基本なわけで、その意味において止も観も同じだと思うんです。
止の実践においては、数息観中にカウントが途切れたら一から数えなおしますし、髄息観も息が乱れたら腹式呼吸に戻りますし。
観に重点を置くと気付きが早くなり、識が生じて妄想する前にその本来の集中への戻れますし。
ただ、識が生じてから観察するのは妄想に妄想を重なるに外ならないって事だと思うんです。
それゆえ「気付きでいい」って云ってるんですけどね。 僧「人にも仏性は有りますか。」蛸州「有り」僧「既に有りなら何故身体に突入したのですか」?私「仏の世界だけでは欲分らん
事がこの様に色々あるから仏さんも私と友に修行中です。」? ぽつ師匠「色即是空は空即是色と返す」返す返すも良くわからな
い。返すは蛙と解釈すれば井戸の中の蛙は大海を知らずで生み出された者なのか?兎に角私は書く気がこの頃不足して仕事前の
時間に書き込みは次継ぎと時間が過ぎるし早く書けとせかされるノルマはのろ間ではまずい。継ぎはコンピューターマージャンか?
囲碁将棋は勝つのは厳しいからか?運そうだね内容は無いねまあ良いか兎に角書けばよいのだろう早く書いてホカホカ以降。時間
とは損な事考えている時間が内。今ここは今ここ兎に角時間は何の意味無くてもノルマは果たすし太陽もマンネリと言われても
朝になつたら昇ってくる。いや太陽がのぼらなかつたら朝は来ない。でも時計の時間は刻々とそれでも進むのか?それでは毎日も
泣く一日も長くなるしそれでもいまここは去ることは内のか。早くほか以降 心観の止める「止」について、多様的高次的階梯の観法があるように思います。
多様的には、不快な思念を断ち切る場合、前の観方に戻る方法がると思います。
それと、煩悩から自由になり、「無心」の観法の状態になり、白紙のように何も感じ
ない無私の心の状態となります。
無心は菩薩の登竜門の一歩手前になると思います。
高次的階梯の観法については、人・時・所の状況を観て記載したいと思います。 630神も仏も名無しさん2018/07/01(日) 23:01:56.37ID:9D5d8yiP>>631>>633
ジャンキーの支障の顔を見てみたくなったぞ(笑)
どんな悪党かこの目で確かめたい。
その寺教えろや。長距離で近くを通ったら見に行くから(笑) 657Junkie-Ooyama..2018/07/02(月) 17:29:49.32ID:R2fPykie
こら、ポタ公や?
「関」はまだかいな?
あ?
カァァァァァァァァァアアアアンンンンン!!!!!!
時間切れだなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 観は、凡人もするが、志向から本当に逃れられるものだろうか、
八正道において、正見があるが、
念、定の高まりに準じて正見も準じるようなことも書かれているし。
正定(しょうじょう, 巴: samm?-sam?dhi, 梵: samyak-sam?dhi) 正しい集中力(サマーディ)を完成することである。
この「正定」と「正念」によってはじめて、「正見」が得られるのである。
観と正見
「観」も「見」もともに“みる”と読みます。一般に、「見」とは、ちょっと目に入る、なんとなく見えるの意味であり、
表面的で常識的な見方をいいます。それに対して、「観」は念を入れてよく見る、明らかに見るという意味であり、
仏教では、ものごとの表面的な有様を突き抜けて、その本質を見透(みとお)す智慧のはたらきを「観」といいます。
正見とは、仏道修行によって得られる仏の智慧であり、様々な正見があるが、
根本となるのは四諦の真理などを正しく知ることである。
と見ると、観と正見は同じに見えるが。 |lililililililililili/ .ヽlili| /:::::::,ヽ#"ヽ` "゛/ :::::|
ililililil ilili〆 /⌒ lili/ /::::::/ .,,=≡, ,,≡=, l::::::|
(ili -・=V =・- V) i::::::l゛ .,-・= ,!. =・- l::τ
゚li " (・_・)ヽ l* |:::::| :⌒ /.. iヽ ⌒u|::i
)人 > ⇒( 人( (i::i″ ,ィ__) i/
_ __:ヽ、__ __,イ_ ヽ U / ::::/:::〈 i
/;:;:/゚。 ⌒。゚\;ヽ ヽ_ ノ::``ーー''ヽ _/
|:;:;:;:;Y * /;く;:\ __人 ` ̄´ 人_
|;:ヽ:;:;: \ ̄/;:;/;:;:\ /: : : : : ` " λ : :ヽ: :\
|:;:ヽ:;:;:;:;ヽ/, / ⌒つニ/⌒ ヽ: : : :\ /▼ヽ/: :く: : : \
|;:;:\;:;:;:// /< 二二)(二二): : : : : :\▲/:_・:/: :_: : : :ヽ__
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;:;:;:;:;\:;| | <___ノ (___): \: : : : : :// / < __)(____)
ヾヽニニ/ヽ--'/: : : : : :\: : : :| | | < ___) (__)
ジャンキー夫人、 こじ総理
反 知 性 主 義 者 >>724
夕、久しぶりやなあ。
観か・・・・・・・キリスト教ヒントプレゼントという意味不明な展開に驚いたな。
感情の?観みたいな笑。
ま、ある種の日常回帰なんだろうけどな。 観は意識が散漫だと無理だよ。
だから観以前に止で意識を散漫にならない練習をする必要がある。 八、慈しみ
143.
利益をよくわきまえた人が、なすべきことそれは、静寂の境地に到達して
能力あり、まっすぐで、とてもまっすぐで言葉優しく、柔和で、謙虚であり
144.
満足し、養いやすくしなければならいことが僅かで、質素な生活をし
諸感官が静まり、賢明で高ぶることなく、家々で貪らない
145.
たとい僅かであっても、いかなることも行わない、それによって、識者の非難をうけるような(いかなることも)
安楽であれ、安穏であれ一切の生きとし生きるものは、幸せであれ
146.
どんな生き物であろうとも怖れているものも、強いもの、残りなく
長いものも、大きなものも中位のものも、短いものも、極微のものも、粗大なものも
147.
見えるものも、見えないものも遠くに住んでいるものも、近くに住んでいるものも
生まれたものも、これから生まれようとしているものも一切の生きとし生きるものは、幸せであれ
148.
人が人をだましてはならない軽蔑してはならない、どこにおいても、誰であっても
悩まそうとして、怒りの想いからお互いの苦しみを願ってはならない
149.
母親が自分の子供を命を賭けて、わがひとり子を守るように
このように、すべての生きとし生けるものにおいて無量の心を起こすべし
150.
全世界において、慈しみを無量の心をおこすべし上に、下に、また横に妨げられつことなく、平和で、敵意のない
151.
立ちながら、歩きながら、坐りながら横になりながらも、眠ってしまわない限りこの念を起こすべし
――´これは梵天の生き方である´と、この世で言われている
152.
見解に近づかず戒を保ち、悟りの直感を具え欲において貪りを制すれば人は決して、再び子宮に赴くことはない
念を捉われずと言いながら、全世界において、慈しみを無量の心をおこすべし
転識とはこのようなものではないかと思っていた。
見解に近づかず戒を保ち、悟りの直感を具え欲において貪りを制すれば人は決して、再び子宮に赴くことはない
これなんか、単純にセックスしなければ、子宮に赴く事がないと読めてしまうのだが
釈迦の言葉は優しいが、行いが難しい。 >>726
>ま、ある種の日常回帰なんだろうけどな。
釈迦の言葉に日常の回帰があるのだろかと思ってしまう。
思量底から翻って、無量の慈悲の念。
凡人は凡人のまま救われていると言うが。 >>729
これも行き着く先は臨済禅で、世話になっている坊主のセリフの世界の完結だからなあ・・・・・。
道元禅サイドだと・・・・・。
只管打座で、一切外部世界とつながる、という感じかもな、こういう観かもな。 セックスしたくなくなるように、女は不浄で、欲深く、浮気で、お喋りで
嫉妬深く、怒りっぽいと経典でも書かれている。
それとか死体を観察し腐って骨になる過程を観察したり。 中観派のある経典では
女はドブ川の源流で汚物を垂れ流す不快なものに
汝はなぜ愛着するのか?
という内容まで書かれている。 つまり観は人間目線だとあまりにひどい書き方なんだが
事実は事実なんだよ。
反対にナメナメみたいに「太ももはいいのう」というのは観ではない。
観は太ももは皮膚で覆われ、その下には脂肪があり血液が流れ、筋肉や筋があり
それが骨に付着しているというのが観だよ。
ナメナメ爺さんみたいに色欲に囚われていては観は不可能。 >>733
犬のジャンキーを追及してあげてください・・・・・。
というか、元オウム氏かな? 凡人は凡人のまま救われているなら、仏教は不要。
このようなインチキを平然と騙るのが体育会系脳筋肉禅宗老師どもだ(笑) 医療費10割負担でBIを導入し、社会のお荷物を切り捨てろ!
会社に在籍本願の労働依存者
先天性の障害がある生まれ損ない
運に見放された万病患者
生恥晒しの後期高齢者
こいつらを日本社会から一掃しろ! 会社に在籍本願じゃなくて
仕事しないと食っていけないから働く
会社が潰れたら他探すだけだ(笑) >凡人は凡人のまま救われているなら、仏教は不要。
haha,
ぼったん、ジャンキーみたいのがいるからなあ笑。
彼らの世話をよろしゅう笑、 ごめん、ジャンキー、ポッタンは無理。
リアルでも仕事以外では関わりたくない。 俺もやっと三十万近く稼ぐようになって
やっぱりケチケチしないで金払いが良くなるんじゃないかなと思う。
数万円ならポンと出せるちゅうね。
金銭的なゆとりにより太っ腹なケチケチしない状況が欲しかった。 >>733
元オウムちゃんか、ばかもん!
おぬしは何時も品性下劣な思考ばかりで
人を観ているのじゃよ。
その観じゃのお^^
実はのお、他人を観て己の
心の深層が露呈されているのじゃよ
そこんとこを早く気づくことじゃのお^^
我輩はおねーちゃんの太ももを観ても
「春は花夏ホトトギス秋は月冬雪さえてすずしかりけり」の歌の如しじゃよ^^ ベーシックインカムを導入すれば、働かなきゃ食えないという状況は無くなる その後は、本当に必要な労働者しか働けなくなる
役立たずが社会人を気取れなくなる。それで良いんだよ
企業も福利厚生に金をかけたり労働者の生活を保障する必要は無くなるし
解雇も自由になる。労働者も企業から足元を見られずに気軽に働けて辞めれる 不浄観のような随念による修習は、観ではなくって止だそうだね。 > 730 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2018/07/03(火) 11:59:16.81 ID:kwdlIbH7 [6/8]
> >>729
>
> これも行き着く先は臨済禅で、世話になっている坊主のセリフの世界の完結だからなあ・・・・・。
>
> 道元禅サイドだと・・・・・。
> 只管打座で、一切外部世界とつながる、という感じかもな、こういう観かもな。
,, -──- 、._
.-"´ \.
:/ _ノ ヽ、_ ヽ.: おいおいwwwwww
:/ o゚((●)) ((●))゚oヽ:
:| (__人__) |: 天然宗教音痴のでおー君wwwwww
:l ) ( l:
:` 、 `ー' /: また今日もお笑いネタのご披露ですか?
:, -‐ (_). /
:l_j_j_j と)丶─‐┬.''´ wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
:ヽ :i |:
:/ :⊂ノ|: 先天性ガイジ殺は、この宇宙の真理なのぢゃ。抗えば地獄逝きなのぢゃ (-人-) >>746
こじおwww
お前、苦労は買ってでもしようと思わないのかwww
他人のあがりで食って何がおもしろいのじゃwww
がいじとかを殺すのは簡単じゃwww
お前ら公務員とか公務員に世話になってる奴らを死刑にすれば良いのじゃwww
そうすると、自動的にこじの希望が叶うのじゃwww
まずは、公務員とかの無能ものを撃退することからじゃwww
南無ビッグアミターバのみが偉大なリwww
笑っちゃ魚www ∞ノノハ∞
川^〇^ハレ悟りを開かれたお釈迦様が何故女性を汚物のように言われたのか?不思議でしたが
パーピマンさんのスレに居らしたおじゃるさんが
外部リンク:blog.goo.ne.jp
大念住経(大念処経)
教えてくださって納得しました♪
不浄観察 の末尾でお釈迦様は如実知見を説かれていますね
>要するに、比丘は、自分でもない、自我でもない、魂でもない「身」のみが存在するということに確実に気づいている。この気づいている事こそが正にヴィパッサナーを得るためであり、その進歩を得るためである。
愛着と誤った考えから離れ、世間の何ものにも執着しない。このように、比丘たちよ、比丘は「身」を(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、ただ現象に過ぎない)身であると絶え間なく知覚して住むのである。
なめなめたんの言われた
>我輩はおねーちゃんの太ももを観ても
「春は花夏ホトトギス秋は月冬雪さえてすずしかりけり」の歌の如しじゃよ^^ >我輩はおねーちゃんの太ももを観ても
「春は花夏ホトトギス秋は月冬雪さえてすずしかりけり」の歌の如しじゃよ^^
ただ年食っただけよ・・
20代でこれを言ったら、多分女性陣から心配されるんじゃないか。
と書いてみた。
天曰く、仏、増上慢の人の為に、婬怒癡を離るることを解脱を為すと説きたもうのみ。
もし増上慢無ければ、仏も増上慢無ければ、仏も、婬怒癡の性は、すなわちこれ解脱の相なりと説きたもう。
ぞうじょうまん
【増上慢】
仏教で、まだ悟らないのに、悟ったと思って、おごり高ぶること。転じて一般に、十分な力が無いのに、自信の強いこと。
仏も増上慢無ければ、仏も、婬怒癡の性は、すなわちこれ解脱の相なりと説きたもう。 >>749
>仏も増上慢無ければ、仏も、婬怒癡の性は、すなわちこれ解脱の相なりと説きたもう。
これ間違い
仏も、婬怒癡の性は、すなわちこれ解脱の相なりと説きたもう。 ∞ノノハ∞
川^〇^ハレなめなめたんパラレルワールドは悟りですか?
「春は花夏ホトトギス秋は月冬雪さえてすずしかりけり」ですか? >>750
>仏も、婬怒癡の性は、すなわちこれ解脱の相なりと説きたもう。
これだと勘違いされるなw
もし増上慢無ければ、仏も、婬怒癡(いんぬち)の性は、すなわちこれ解脱の相なりと説きたもう。 >>752
ポッタンさん?
そうした動画をあげるあなたを家族はどう見ていますか?
w やば、
もし増上慢無ければ、、仏も、婬怒癡の性は、すなわちこれ解脱の相なりと説きたもう。
春は花夏ホトトギス秋は月冬雪さえてすずしかりけり
もしかしたら、同じかもしれないなぁw >>749
我輩は、朝立ちもするし、まだまだ
元気じゃよ^^
おねーちゃんの太ももも、桃の花も
どちらも、かわゆくて、頬ずりしたくなるのお^^
自然な事じゃのお、太ももに頬ずりすれば
ぽこちんが大きくなるかも知れんが、
それも自然な欲求じゃよ^^
あるがままなのじゃよ。
綺麗な夕陽を見て、ぽこちんが大きくなる人もいるかも知れん^^
何も分別することもないのお^^
全ては一つであるのじゃよ。 >>751
パラレルワールドは悟りかどうかわからないのお^^
じゃがロマンじゃのお^^ 「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すず しかりけり」
「見る者」がいない、そのままなんだね >>692
>自は他があって始めて自がわかるもんじゃないかなぁ。
縁起の相依性のことかな。
>本当かwww
>別人格はよく知っているんじゃないか?
こちらの別人格は『幼女』と『ナーゼンシュライム』だがあの二人が仏教をよく知ってそうにみえるかw
前から書いているがこちらは仏教の空と数学の0は同じもの(同じ性質を持っている)という持論を持っている。
そしてその数学の0を追い続けているのだ。
そういう意味ではとても熱心な仏教徒なのである。
それに三人寄れば文殊の知恵という言葉がある。
一人くらい変わった道を歩いていたほうがそれをよりよく活用できるだろう。 「見る者」って錯覚がなければ、全ては解脱の相なんかね
「解脱の相」も余計なほど、そのまま >>752
悟った人にも趣味はあるじゃろうしのお^^
人から見たら、好き嫌いに見えるかもしれんしじゃよ^^
好き嫌いがないのじゃって言う
拘りにもなりかねんのお^^w 「冷暖自知」
冷暖を「自分が」知るんではなく
冷暖そのものが冷暖を知る そうじゃのお、みる者がいなければ
みられるモノもない、そのまんま
ただあるだけかものお^^
ストリッパーは困っちゃう
じゃろおのお^^w. >>752
ぽったんちゃん、出し過ぎはのお、
過ぎたるは及ばざるが如しじゃよ^^ 今から、マグロを醤油と砂糖と混ぜたものに漬け
酢飯の上に適宜に切ってのせるのじゃよ^^
その横に納豆をよく混ぜてのせてのお^^
中央に生卵をかけて出来上がり。
ワサビもの添えてじゃよ^^
これは美味いし、栄養満点じゃよ。
夕ちゃんも念願の朝立ちがあるかものお^ー^ >>765 name さん
> >>752
> ぽったんちゃん、出し過ぎはのお、 過ぎたるは及ばざるが如しじゃよ^^
守備範囲が狭いね、意外と、 では1個だけで
太もも50選
https://www.youtube.com/watch?v=Yi4XzaowByk >>763
そういうのを野狐禅っていうんだけどね。 >>767
ぽったんちゃん、かわゆい太ももは
ありがたいのじゃが^^
我輩は太ももの単なるフェチではないのじゃよ^^
物語があればいいのじゃよ。
例えば、小鳥と戯れる太ももとか
渚に佇む太ももとかのお^^W >>703 よかつたのじゃ。
またおいでなさい。
>>704 わしじゃよ。
瑠璃の色じゃな。
後は頼むのじゃ。
>>707>>708 おぬしの元々の主張は止観が定の一部ということじゃ。
論理的に書けばABはCの一部と主張しているのじゃ。
中村元はAB併称はなかったと主張しているだけなのじゃ。
ウダーナヴァルガにおいて既にAとBは対立して説かれているとも書いておる。
初期にはCしかなかったというおぬしの主張を完全に否定しておる。
AとBは初期からあったが、対立するものとして説かれ、AB併称はなかったというのじゃ。
その理由はAを行うことでBも行うことになるからではないかと推測しておる。
CからABなる術語が出たとも書いていないのじゃ。
これはおぬしが自ら要約して明らかにしたことじゃ。
これで理解できなかったならば自分の要約さえ理解してないことになるのう。
>>709 箕輪は
AとBは違うものであると説いておる。
基本的な性格は変らないと書いておる。
Bと呼ばれるものの中には本当はBではなくAに属するものもあるから注意が必要と書いておる。
Cしかなかったとも、CからABという術語が出来たとも書いておらんのじゃ。
全然関係ないどころかおぬしの主張を否定する論を何度も書いて何がしたいのかのう。
>>710 それが間違いであることは直ぐにわかるのじゃ。
実際に在る身体を観察しなくては観察にならないのじゃ。
おぬしの間違いを訂正したのであるがもはや錯乱しているようじゃのう。
@ おぬしの止観が定の一部との主張に反するのであるから止観の記述は関係ないのじゃ。
初期に在るとか無いとかも関係ないのじゃ。
2 おぬしが止観が定の一部であることを証明できなければわしの主張が正しいことになるのじゃ。
おぬしに常に真実をおしえるわしこそ真の和尚なのじゃ。
>>712 専門家はどこに居るのじゃ?
まさかおぬしではないじゃろう。
小僧の戒ですら守れない者が専門家と主張できるはずも無いからのう。
おぬしに戒を教えるわしこそ真の和尚なのじゃ。
おぬしはここで戒を破りながら、師の前では良い子の振りをしているのかのう。
それは仏教ではないのじゃ。
狐と狸の化かしあいじゃな。
>>713 ウダーナヴァルガに載せられているものこそ真のお釈迦様の観察なのじゃ。
それを信仰し、実践する者が仏教徒なのじゃ。
それを知らない無知な者の論を何度も書くのは自分が無知であることを何度も証明していることになるのじゃ。
>>714 わしは既にそれを指摘していたがもはや錯乱して気づかなかったようじゃのう。
箕輪の論が間違っているだけなのじゃ。
お釈迦様が観察として教えられたことを観察として受け入れ、実践するのが仏教徒なのじゃ。
観察を無知な者の論によって止と偽り、戒を破り、実践しない者は仏教徒ではないのじゃ。 >>770
> >>707>>708 おぬしの元々の主張は止観が定の一部ということじゃ。
> 論理的に書けばABはCの一部と主張しているのじゃ。
> 中村元はAB併称はなかったと主張しているだけなのじゃ。
>
> ウダーナヴァルガにおいて既にAとBは対立して説かれているとも書いておる。
> 初期にはCしかなかったというおぬしの主張を完全に否定しておる。
>
> AとBは初期からあったが、対立するものとして説かれ、AB併称はなかったというのじゃ。
> その理由はAを行うことでBも行うことになるからではないかと推測しておる。
> CからABなる術語が出たとも書いていないのじゃ。
>
> これはおぬしが自ら要約して明らかにしたことじゃ。
> これで理解できなかったならば自分の要約さえ理解してないことになるのう。
→A(止)とB(観)はC(定)から分けられたんですが?
> 仏教が成立した最初の時期には、禅定の修行は行つていたが、それを意味する術語としては、ウパニシャッドやジャイナ教におけるのと同じ語を用いていた。
> すなわちshyanayoga, samadhi などである。
> 最初の時期には「止観」(samatha, vipassana )という語は用いられなかつた。
> (原始仏教における止観 中村元)
> 瞑想の基本は心を何かに結びつけるところから始まります。
> 結びつける対象は業処kammatthAna と呼ばれます。
> また、瞑想はその機能から大きく二つの範疇に分けられました。
> まず最初に心の働きを静めることを目的とした瞑想が存在しました。
> それが、止samatha です。
> (中略)
> もう一つの範疇は観vipassanA です。
> (仏教瞑想論 ―アジア諸地域の特徴について─ 蓑輪顕量) >>770
> >>709 箕輪はAとBは違うものであると説いておる。
> 基本的な性格は変らないと書いておる。
> Bと呼ばれるものの中には本当はBではなくAに属するものもあるから注意が必要と書いておる。
↓
ウダーナの観察が、隨念観ゆえに「観」ではなく「止」という事でしょ? >>770
> Cしかなかったとも、CからABという術語が出来たとも書いておらんのじゃ。
> 全然関係ないどころかおぬしの主張を否定する論を何度も書いて何がしたいのかのう。
↓
書いてありますよ?
> 仏教が成立した最初の時期には、禅定の修行は行つていたが、それを意味する術語としては、ウパニシャッドやジャイナ教におけるのと同じ語を用いていた。
> すなわちshyanayoga, samadhi などである。
> 最初の時期には「止観」(samatha, vipassana )という語は用いられなかつた。
> (原始仏教における止観 中村元)
> 瞑想の基本は心を何かに結びつけるところから始まります。
> 結びつける対象は業処kammatthAna と呼ばれます。
> また、瞑想はその機能から大きく二つの範疇に分けられました。
> まず最初に心の働きを静めることを目的とした瞑想が存在しました。
> それが、止samatha です。
> (中略)
> もう一つの範疇は観vipassanA です。
> (仏教瞑想論 ―アジア諸地域の特徴について─ 蓑輪顕量) >>771
> >>714 わしは既にそれを指摘していたがもはや錯乱して気づかなかったようじゃのう。
> 箕輪の論が間違っているだけなのじゃ
↓
瞑想史研究の泰斗の研究成果を否定するなら根拠をお願いします。 >>771
1.
そろそろ>>108の根拠をお願いします。
@最古層の仏典に「止観」の記述があり、
A(お釈迦様)が別ものと仰ってる事。
2.
で、なんで僧侶でないのに和尚と騙るのですか? >>771
中村元や瞑想史研究の泰斗の研究成果を「わしは悟ってるから根拠が無くても儂の方が正しいのぢゃ〜」と嘯くキチガイがもしいたら、貴方はどう思いますか?
ウダーナの観察は随念観による観察ですから、止観のうちの「止」です。
もう一度、貴方の様なカルトでは無く、仏教のスタンダードな瞑想法を乗せておきますね。
止は、観察の対象(業処kammatthAna)が一つに限定され、他のも のに心の働きが移った時に、最初のものに戻るという特徴が見出されます。
ここでも心の働きの一つ一つに「気づく」ことがポイントになります。
一方の観は、観察の対象が一つに限定されず複数のものになり、恒に身体が感じ取っているものを気づき続けるところに特徴があります。
目指されているものは、受→想→行→識の一連の心の反応を途中で気づいて、心が一気呵成に反応して、さまざまな働きを生じさ せることから脱却させることです。
ここでも「気づく」ことはポイン トになります。
「仏教瞑想論 ──アジア諸地域の特徴について── (箕輪顕量)」 >>771
1.止について
> 止は、観察の対象(業処kammatthAna)が一つに限定され、他のものに心の働きが移った時に、最初のものに戻るという特徴が見出されます。
> 目指されているものは心の働きを減少させて静かにすることです。
> ここでも心の働きの一つ一つに「気づく」ことがポイントになります。」
2.観について
> 一方の観は、観察の対象が一つに限定されず複数のものになり、恒に身体が感じ取っているものを気づき続けるところに特徴があります。
> 目指されているものは、受→想→行→識の一連の心の反応を途中で気づいて、心が一気呵成に反応して、さまざまな働きを生じさせることから脱却させることです。
> ここでも「気づく」ことはポイントになります。
3.観の実践例
> ところで、おもしろい例があります。道を歩いていて、誰かと肩がぶつかったとします。あなたならどうしますか。
> 「気をつけろ」と怒鳴りますか、それとも、ぶつかったときに感じるのは「痛み」でしょうから、「痛み」「痛み」と気づきますか。
> 「痛み」「痛み」と気づいて、それから優しく「気をつけて下さいね」と言うのが、修行経験の有る方の取る態度となりましょう。
4.観の効能
> 観の練習をすることによって、心の一連の働きは途中で止められるようになるはずです。
> 外界からの刺激、そして受容、そして認識、新たな感情の成立、と連続して心の反応が続いていくのでしょうが、それをどこかの段階で気づくということは、そこで心の反応が止まるということを意味します。
> こうなれば、感情に支配されることは少なくなるでしょう。
> また、それらの煩悩・害心は生じる機会を失います。
> それらは、心の一連の反応の結果、生じてくる心の働きに他ならないからです。
止の実践においては、数息観中にカウントが途切れたら一から数えなおしますし、髄息観も息が乱れたら腹式呼吸に戻ります。
観に重点を置くと気付きが早くなり、識が生じて妄想する前にその本来の集中への戻れます。
ただ、識が生じてから観察するのは妄想に妄想を重なるに外ならないって事だと思われます。
それゆえ「気付きでいい」って云ってるんですけどね。 「仏教が成立した最初の時期には、禅定の修行は行っていたが、それを意味する術語としては、ウパニシャッドやジャイナ教におけるのと同じ語を用いていた。」
「すなわちdhyana、yoga、 samadhi などである。最初の時期には「止観」(samatha, vipassana )という語は用いられなかった。」(原始仏教における止観 中村元)
また、お釈迦様が空無辺処(三昧=samadhi)と非想非非想処(禅那=dhyana)を実践されていたのは経典からも伺えます。 おまけ
(1) 以上成立史的に考察してみたが、禅定を「止観」というかたちで実践することは、けつきよく仏教特有であつてインドの他宗教には見られないところである。
(2) いままでは差別相から無差別の境地に入ることが仏教の本質であると考えられていた。
しかしそれはまさにシャンカラの強調したところである。
禅もそのようなものとして説かれていた。
しかし無差別に滞つていたのでは、実践を成立させ得ない。
そこで止にもとついて観、すなわち差別を立てて観ずる(visesena passati) ということが意義をもつて来る。
「観」という字ははなはだ漠然としていて意義内容がはつきりしないが、「止観」の「観」は仏教の実践のために非常に重要な意味をもつて来る。 >>769 name さん
> 物語があればいいのじゃよ。 例えば、小鳥と戯れる太ももとか 渚に佇む太ももとかのお^^W
MMD 小鳥抜き
https://www.youtube.com/watch?v=FbhQUvWPQvE&list=PL-4ikrAqxtpcLo56KncbtMgiD8MulECDK
https://www.youtube.com/watch?v=gu1lL-2u2eI&index=2&list=RDFbhQUvWPQvE ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています