マインドフルネス瞑想 Part10
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マインドフルネス瞑想は、宗教色を抑えて広く活用されやすくしたものですが、その元には宗教があります。
そこで当スレでは、マインドフルネス瞑想を主として、派生的に、あるいは根元的に宗教的な話をしましょう。
前スレ
マインドフルネス瞑想 Part9
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1523286538/ >>44
鬱を治すための色々な行動をするための恐れを軽減したり、変わる痛みを受け入れる事がやりやすくなる感じかな
直接治るというよりは 瞑想も1年以上やって来ましたが、キーである気づきと観察の意味がわかりません。
気づくことと、観察することはどのように違うのでしょうか? また、物質的プロセスのルーパと精神的プロセスのナーマしか存在しないと説かれてますが、邪魔してくる思考の位置付けはどんなプロセスと理解すればよろしいのでしょうか? >>55
長い間続けてこられたんですね 言葉の定義の問題なのでそんなに気にする必要はないと思いますが
〜を認識している自分に気づいている(を認識している自分を観察している)と言い換えても問題ないかと思います
ただ経験的に瞑想が進んだ段階あたりで まるで雷に打たれたように 突然自分自身のことについてわかる瞬間があり 気づきが起こったとか 気づきがやってきた的に表現される場合もあるかと 優しさってなんですか
優しさを勘違いしている気がする >>58
そうならないように禅では作務、ヨガではハタヨガ(今だとホットヨガ)、本来仏教なら托鉢行で歩いたりして運動するようにするらしい。 >>57
そんな衝撃的な体験があるんですね。
気づきとはもっと微妙なものかと思ってました。 シンプルなマントラを唱え続けてたら落ち着くことに気づいた
お坊さんたちやってるもんね
なるほどね マントラで落ち着くならそれはそれでいいんだが。
仏教のお経とかって、インド語や中国語に翻訳された過程で意味不明になっただけで。
多分、現代の小説でも、歌謡曲でも、
日本人にとって意味不明なお経のような言語に翻訳すればマントラ同等の効果あるとおもうぞ。 好きな人にひどいことを言われて拒絶された記憶がどうしてもフラッシュバックしてつらいです
許したい自分と責めたい自分がいる
会社でたまに会うんですが、次あったときに責めそうで怖い
許すとか執着心をなくす本を読んで実践してるけど、気を抜くとダメです
なにかアドバイスあればお願いします 今は非常につらいのが当たり前だと思う
1年くらいは続くけど、
そのうち生々しさはなくなる
2年後には別の自分になってる
苦痛も無常、出来事も無常、感情も無常
今はそのつらさをどうにかしようと思わず、自分の気晴らしでもしたらいいと思う >>65
許すとか責めるとか自分はひとカケラも悪くないって前提の認識じゃん
だからダメなんだよ
相手が悪いって認識を消さずに、耐えて大人として振る舞う自分かっこいいって路線希望なんでしょ
それは無理だわ
アクセル踏むのを止めないでハンドブレーキだけで停めようとするようなもん
相手が酷いことを言わざるを得ないような状況を自分がつくった、そんな自分を許して欲しい、今後責められないよう行いを改めよう
そういう認識に立てれば辛くはなくなるよ >>61
あくまでも自分の体験ですが 自分を観察する瞑想については非常に体育会系 根性論的なところがあるなと思います
一度コツがわかれば実践自体は簡単ですが いくらでも微細にそして集中力も際限なく時間も無制限にできてしまうんです
まあ体調とか抱えている問題を解決したいというパワーにもよるところが多いでしょうが
極端な例では10日間 寝る時間 食事の時間を取らずにひたすら観察に集中して...何て例もあります
私の場合はこれの半分ぐらいの取り組み方でしたがそれでもたくさん気づきはやってきました 一つのポイントは集中力 かなと思います >>69
大人としてふるまってる自分に酔ってるわけではないんですよね
自分がひとかけらでも悪ければ、自分が悪いということにして反省しろってことですか?
どんなに酷いことをされてもですかね
自分はただ相手ときちんと話がしたいだけなんです >>71
> 自分がひとかけらでも悪ければ、自分が悪いということにして反省しろってことですか?
そうだよ当たり前
自分が何とかできるのは自分自身の認識だけだからね
自分が全面的に悪いってことにしろって言ってるんじゃないよ
相手の悪いところは制御することは出来ないし、直させる権利もないってことを言っている
アクセルを踏みっぱなしで、動く車の方を裁こうとしてるんだから上手くいかないのは当たり前
> どんなに酷いことをされてもですかね
その内容を明かせば、ああそれは酷いねって同意してくれる人はいるかもしれないね
でも自分が見直せるのは自分自身の認識だけということは変わらない
> 自分はただ相手ときちんと話がしたいだけなんです
きちんと話って何かな?
解決できてない事があるの?
もし相手に伝えてない情報とかがあってそれを伝えることで状況が変化するならする価値あるけど
解決できてないのが自分の心の中だけの問題なら、相手は関係無いでしょ 世俗の問題には、7つの習慣とかも役に立つと思うよ。
主体性を発揮して(第1の習慣)、価値観に基づいて(第2の習慣)、
最も大切なことを行う(第3の習慣)というのは、実はかなり瞑想的な生き方だと思う。
瞑想を実生活に応用すると、こうなる、っていう良いお手本じゃないかと。
主体性を発揮して(第1の習慣) ←正念
価値観に基づいて(第2の習慣) ←正見、正思惟
最も大切なことを行う(第3の習慣) ←正語、正業、正命
Win-Winを考える(第4の習慣) ←慈悲喜捨
まず理解に徹し、それから理解されるように努める(第5の習慣) ←慈悲喜捨
相乗効果を発揮する(第6の習慣) ←慈悲喜捨
刃を研ぐ ←正精進 パラダイムの転換(ものの見方の転換)というのも、
相手や悪いとか、環境が悪いとか(受け身の生き方)ではなくて、
自分がどうするかを選択する(主体性を発揮する)。
反応を選択する自由は常にあるから、正見から正定に至る八聖道
(あるいは世俗的には7つの習慣のようなこと)が身口意に根付けば
自由と幸福になる力を持つことになるだろう。 >>71
>自分がひとかけらでも悪ければ、自分が悪いということにして反省しろってことですか?
>どんなに酷いことをされてもですかね
3、「彼はわれを罵った。彼はわれを害した。彼はわれにうち勝った。彼はわれから強奪した。」
という思いを抱く人には、怨みはついに息むことがない。
4、「彼はわれを罵った。彼はわれを害した。彼はわれにうち勝った。彼はわれから強奪した。」
という思いを抱かない人には、ついに怨みが息む。
5、実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。
怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である。
http://seijyaku.fc2web.com/hou.htm あなたには苦しむ自由もあるし、苦しまない自由もある。
誰もあなたの代わりに、その選択を引き受けることはできない。
それは、あなたの選択次第。 誰にも生きる自由はない
その選択は誰にもできず突然に終わる
自由など佩かないものだ >>70
素晴らしいですね。一度で良いから体験したいみたいです。
ポイントは集中力ということですが、呼吸を意識してても、呼吸が乱れてきて
逆に集中力がなくなってしまいます。
何かとっかかりがあれば良いのですが。 クルマのドアを開けっ放しにしても気付かないレベルの集中力 >>80
個人差があるので決めつけることはできませんが そういうやり方もあるのかな と考えて挑戦してみても良いかもしれませんね
私の場合は家に帰って落ち着くと本当にフニャフニャになってしまって集中できないので 通勤で乗り物に乗っている時とか見慣れない場所にいる時によくやってましたよ
何故か落ち着かないところの方がイベントが多いので集中できました その他は嫌なことがあった時は非常に集中力が高まりましたね
後は諸刃の剣ですが 聖者の格言的なものに触れて意識が変性している時に集中してみるとか 突風が吹いて大きな看板が飛んできて私の頭にぶつかって大怪我した
責めるべきはなにか?
突風か?看板か?看板を作ったやつか?看板を設置したやつか?そんなところにいた私か? >>80
少々強引に集中力を極大化させる方法もいくつかあるんですが高確率で心身のバランスが崩れてしまいます 1年も続けておられるということは自分の心 思考も観れるのではないでしょうか?
自分が気にしている 人に知られたくない弱点 思考が浮かびきる前に あー 今のは無し! 考えるのも嫌! のような心の動きはないでしょうか?
それを観察してみるのも良いのではと思います 私はこの段階辺りが一番面白かったですよ 嫌いだと思っていた人のことを実は好きだったり もう水に流した 解決したと思っていたことが 実は未だに気にしていたり とか 自分のことなのに本当にビックリの連続でした >>85
長くやっている割にはダメなんですよね。
恥ずかしながら、”自分の心、思考が観れる”っていう感覚がわからないんです。 >>83
> 責めるべきはなにか?
何を解決したい状況かによるが
解決したいのが自分の気持ちであった場合に限れば
この問いを立てること自体が間違ってる >>83
あなたが看板が飛んでくるのを予見できた状況か否かによっても過失割合が変わって来ますが、
普通は取付看板なら突風で飛ぶような固定不十分な看板を設置している、
または置き看板なら突風が吹くような天候の時にも看板を外に出したままにしているお店側の過失割合が高いと思います。 マインドフルネスってただの休息法の一つでしょ、仏性がどうの言い出したらカルトだよ、最早。 それは仏性という言葉を超常現象みたいな捉え方してるからそう感じるのでは カルトって言葉の定義をきちんとしないと
それは単なる思考停止じゃね カルト→ 特定の対象を熱狂的に崇拝したり礼賛したりすること。また、その集団。異端的宗教。
うん?おまえらw 仏教はメジャーでしょ。マインドフルネスは脳科学に基づいた方法論。 どっちかっていうとこれ↓の方が定義として客観性があるのではなかろうか
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/カルト
『カルト(仏: culte、英: cult)は、悪しき集団であることを明確にするために用いられる通俗用語である[1]。
良い意味ではなく[2]、反社会的な団体を指す世俗的な異常めいたイメージがほぼ定着し[3]、犯罪行為を犯すような反社会的な集団を指して使用される[4][5]。
元来は、「儀礼・祭祀」の意味を表す、否定的・批判的なニュアンスを持たない宗教用語であった。』
ただ、別の定義↓と意味的に混同される傾向があるのよね
『「少数の熱烈な信奉者を指す用法」(カルト・ムービーなどの肯定的な意味)は#サブカルチャーでの用例の節を参照。』
つまり、後者の定義を満たしただけで、反社会性が証明されていなくても前者のカテゴリーに入れてしまうという誤謬 >>96
>>94で異端的と書いて
>>96でメジャーと書く
どっちなの? >>96
その方法論を発見?したのが釈迦なんだけど、どうする >>98
上の行な、そこ嫁。文盲
>>99
釈迦は方法を発見しただけで、科学で解明出来ていない。
あえてこの時代に仏陀がどーのとか言う必要ねぇのよw
個人的に禅定の進化を飛躍的にしたのは十牛図書いた中国の禅師かと思うけど 文盲という差別用語を平気で使う荒んだ心
仏陀がどーのとか言う必要ねぇのに
仏陀がなければ存在しなかったスレにレスしてるアホか >>100
科学で解明された?から信じてよいというのも宗教では むしろ釈迦は自分を信じろなんて言ってないから
科学的に解明されたという謳い文句で自ら実証することなく信じてしまう態度こそカルトに転がされやすい 現代科学は、ほぼ唯物論に立脚しているから
悟りの智慧、勝義からみるとひどい迷信。
簡単にいうと、現代人(というか智慧に達していない人間のほとんど)は、
精神現象も物理現象だと思っている。
そんなことない、精神と物質の区別ぐらいできている、と思うかも知れないが、
現代人は心を脳みそや脳内物質、電気信号という物理現象というモノで説明し
理解しようとする。
これは言い換えると、心がモノだと思っている。
というか、心が見えていないで、単に巻き込まれているので、名色の区別ができていない。 現代科学は、実は迷信なのだが
現代人は、それをえらく理性的で知的だと思っていて
その視点、その見方からすべてをみて、すべてを判断してしまっている。
仏教理解も、唯物論の色眼鏡を通しての理解にしかならない。
瞑想の段階を、慧の段階に達するまで進めることによって、この状態を
突破することができる。
その突破した視座から語られた言葉、話を聞いた、現代的知識人を自認
する、迷信の人々は、智慧の話をカルトや迷信だと思ってしまう。 そういったわけで、禅の修行をやる人々は
一般人に向けて智慧から出た話を語る際には
相手に伝わるような方便を用いるか、
あるいは黙ってしまうことになる。
一般人の理性とは、言葉や思考による分別智であるのに対して、
瞑想の智慧は無分別智だからである。 一般人の理性とは、概念智であるのに対して
瞑想の智慧は、体験智だからである。 本当に仏陀が教えていたことが、単なる知識や概念的理解に留まることなく
体験智として感得されたならば、その感得の度合いに応じて、欲や怒り、無智
がなくなっているはずであるから、もし自分の心のなかに、まだ欲や怒り、無智
があるのであれば、仏陀の教えが分かったと考えるのは、まだ時期尚早という
ことでしょう。 魔境落ちしてるの?皆さん。マインドフルネス怖いねぇw 俺のやってるブログあるから読んでね、おまえたちの1000倍くらい深い洞察してるからよ、勉強せぇよ、ドアホ土低脳ども
https://zensha.exblog.jp いんや、思った事を言っただけ。別に見性するのに聖人である必要ないし、見性したから聖人になるわけでもなし。
ただ世の中のバカがもっとバカに見えるようになるだけ。 マインドフルネスが清らかなものであるとかそーいう思い込みのがヤバいし、カルト的w 自分はバカではないと思いたいバカですか?
自分だけは特別な存在ですか? その、2元的な思考法はマインドフルネス瞑想じゃとけないの?じゃあやる意味ねーわ。カルトの間違い瞑想だよそれ やる意味ないのなら立ち去れば?
結局淋しいから明日も明後日も粘着して荒し続けるんだろうけどね >>86
そうなんですか それでは呼吸の動きを今までより少し集中力を持って観ることを続けられれば良いのではと思います
心 思考を観ると書きましたが今現在 それが生きる邪魔 目の上のたんこぶになっていなければ特別視することもないと思います 本当に個人差が大きいと思いますので
呼吸を観ることに飽きて続けにくいなら 日常で音を聞いている自分 景色を見ている自分 味を感じている自分 匂いを感じている自分 体を感じている自分 思考している自分を観る
そういうことに挑戦するのも良いかもしれませんよ >>118
カルトだなんだ攻撃してくる奴に言葉の強い弱いを考えなくちゃいけないのかね
「ドアホ土低能ども」という言葉でこのスレを否定してくる輩に強弱考える必要あるのかね? >>120
あれ、思わぬところから反応がw
まあいいじゃないすか
別に誰かが害を受けたわけでもなし
彼、カルトって言葉をはっきり定義する気もなくて、ただ使いたいだけみたいだし
どのレスにもアンカーできないとこを見ると、心の中の妄想像をターゲットにシャドーボクシングしてるのは明らかなんで
あんまり頑張ってもねえ >>86
横からですが、一日あたりの瞑想時間が短いのでは?
個人的には1時間未満の実践では変化も芳しくないと思います。
日常が忙しければ、休みの日なんかにまとまった時間(できれば3時間以上)することができれば、目覚ましい進歩があるかと思います。
一度「観ている意識」を感覚的に体得できれば、日常の30分未満の実践でも得られるものも多くなるかと。 仏性という言葉を使うのはカルトとか言ってたけど、むしろ仏性という言葉は禅の人が多く使ってないかい >>97
> どっちかっていうとこれ↓の方が定義として客観性があるのではなかろうか
横だけど、ないね。
> https://ja.m.wikipedia.org/wiki/カルト
> 『カルト(仏: culte、英: cult)は、悪しき集団であることを明確にするために用いられる通俗用語である[1]。
> 良い意味ではなく[2]、
良い意味はないだろう。
だからといって、悪しき集団であることを明確にするために用いているとは限らない。
>反社会的な団体を指す世俗的な異常めいたイメージがほぼ定着し[3]、
意味のよくわからない表現だ。
編集者の程度が知れるというもの。
神道系の団体はカルトとはいわないのかえ?
まず暴力団は反社会的といって差し支えないだろう
極左政治結社は確実。
あるいは特定の右翼団体も見方によっては反社会的と言えるだろうね。
左巻きスピ系団体はどうだろう。
犯罪行為を犯すような反社会的な集団を指して使用される[4][5]。
犯罪行為を犯すような
とはどういう意味だろう?
「例えば共謀して犯罪行為を犯すような、反社会的な集団」
なのか
「犯罪行為を計画している反社会的な集団」
なのか
「犯罪行為を犯した反社会的集団」
なのかはっきりしないな。
著者がアホなのだろう
> 元来は、「儀礼・祭祀」の意味を表す、否定的・批判的なニュアンスを持たない宗教用語であった。』
いつの話ですかね。
日本での話? 島田啓介のVoice in Voice第3章
2018年06月08日
講座で何をするの? マインドフルネスの基礎 連載1〜3
http://kskdah.seesaa.net/article/459874543.html
2018年06月08日
講座で何をするの? マインドフルネスの基礎 連載4〜6
http://kskdah.seesaa.net/article/459874674.html >>124
うんまあここでオレ相手に言ってても遠吠えなんでw
wikipediaは誰でも編集可能だから、やる気があったら頑張って編集して
あのページには『この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。』って付記されてるから、意見がある人は期待されてると思うよ 瞑想に方法はない。
ただ、そこに留まる事だ。
形に囚われてはならない。
例えばあなたがネジを回す仕事をしていたとしよう。
ネジを回しているのはあなたではなく、
ネジが回されているというわけでもない。
あなた以前の回転そのものの、
「そこ」に留まる事だ。 >>130
間違えて反時計回りに回しちゃったんじゃない? >>129
あなたがドライバーのような道具を使ってネジを回した
と考えるのが普通ですが 対象に集中するとき「私」はいない
と言ってるんだよ >>134
対象に集中云々以前にもともと仮説された自己を除いては私はいないのです 瞑想はするものではない。
その状態に自然に入って行くものだ。
例えば机の上の消しゴムに目をやったとする。
あなたはいつの間にかあなたが消しゴムを見ているのかあなたが消しゴムに見られているのか分からなくなる。
そして遂にはそのどちらでもなくなるのだ。
そういった集中が日常的に起こり出す。
それが瞑想だ。 >>136
それが実感できないから悩み苦しんでるわけでしょ
まず「私」がいない状態を体験して自我から連鎖する苦しみから開放されてみないと「私」という観念を手放すことができない
そのための瞑想でしょ >>134
なるほど
例文を出してかっこよく言おうとしてわかりにくくなってたんだね >>138
あなたが悩み苦しんでいるのはあなたの前世に原因がありそのカルマがあなたの霊魂(ジーヴァ )に付着して霊魂を不自由にしてあなたを苦しめているのです
カルマを潰すには断食などの苦行と徹底した不殺生(アンヒサー)や施しなどの善行、瞑想などで霊魂を清めていくとカルマは全て消えて新しいカルマも生まれません
そうなれば苦しみは終極します
http://samten.seesaa.net/article/449284270.html 掲示板に宣伝を貼り付けて誘導する、というカルマも
終極しますか? 苦行をするひとって理解できないな…
現代にもいるのか… >>141
それが自我から連鎖する妄想世界です
観念を観念で打ち消そうという試みで失敗します
苦しむ「私」がいなければ前世もカルマもないのです
自我の解体に努めましょう >>144
その書き込みをしようとおもい
アンカーを付け、文章を書き、推敲し、書き込みボタンを押したのは何者ですか? >>145
何者もいません
風が吹いても風はいません
雨が降っても雨はいません
川が流れても河はいません >>146
その書き込みをした
ブラウザの書き込みボタンを押したのは誰ですか? >>146
いるというのは有情の生き物に対して使う言葉なので風や雨や川がいないのは当たり前です >>148
自我が世界を切り分けてそう思い込んでいるに過ぎません
風がいないように生き物もいないしあなたもいないのです 「私」っていうのは、「〇〇をした主体は誰?」って形に世界を切り取ったときにだけ現れるんだよ
問いを発すればいるのは当たり前
ヨーロッパの中にフランスって国があるようなもんで、国境線は「どこがフランス」という問いがあってから人が決める
誰も問わなければ地続きの地面が広がってるだけだ >>149
貴方織田信長を目の前にしてそんなこと言ってたら
「本当にいないのか確かめてやろう」と言われて焼きごて当てられますからね >>149
その書き込みをした
あなたのブラウザの書き込みボタンを押したのは誰ですか? >>150
フランス国境の土地とそれに隣接する国のフランス国境付近の土地に何か差異があるわけではありません
しかし個人と外界には明らかに差異があります
差異があるからお腹の膨らみを観察するマインドフルネスなどの瞑想ができるのです ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています