マインドフルネス瞑想 Part10
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マインドフルネス瞑想は、宗教色を抑えて広く活用されやすくしたものですが、その元には宗教があります。
そこで当スレでは、マインドフルネス瞑想を主として、派生的に、あるいは根元的に宗教的な話をしましょう。
前スレ
マインドフルネス瞑想 Part9
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1523286538/ 文盲という差別用語を平気で使う荒んだ心
仏陀がどーのとか言う必要ねぇのに
仏陀がなければ存在しなかったスレにレスしてるアホか >>100
科学で解明された?から信じてよいというのも宗教では むしろ釈迦は自分を信じろなんて言ってないから
科学的に解明されたという謳い文句で自ら実証することなく信じてしまう態度こそカルトに転がされやすい 現代科学は、ほぼ唯物論に立脚しているから
悟りの智慧、勝義からみるとひどい迷信。
簡単にいうと、現代人(というか智慧に達していない人間のほとんど)は、
精神現象も物理現象だと思っている。
そんなことない、精神と物質の区別ぐらいできている、と思うかも知れないが、
現代人は心を脳みそや脳内物質、電気信号という物理現象というモノで説明し
理解しようとする。
これは言い換えると、心がモノだと思っている。
というか、心が見えていないで、単に巻き込まれているので、名色の区別ができていない。 現代科学は、実は迷信なのだが
現代人は、それをえらく理性的で知的だと思っていて
その視点、その見方からすべてをみて、すべてを判断してしまっている。
仏教理解も、唯物論の色眼鏡を通しての理解にしかならない。
瞑想の段階を、慧の段階に達するまで進めることによって、この状態を
突破することができる。
その突破した視座から語られた言葉、話を聞いた、現代的知識人を自認
する、迷信の人々は、智慧の話をカルトや迷信だと思ってしまう。 そういったわけで、禅の修行をやる人々は
一般人に向けて智慧から出た話を語る際には
相手に伝わるような方便を用いるか、
あるいは黙ってしまうことになる。
一般人の理性とは、言葉や思考による分別智であるのに対して、
瞑想の智慧は無分別智だからである。 一般人の理性とは、概念智であるのに対して
瞑想の智慧は、体験智だからである。 本当に仏陀が教えていたことが、単なる知識や概念的理解に留まることなく
体験智として感得されたならば、その感得の度合いに応じて、欲や怒り、無智
がなくなっているはずであるから、もし自分の心のなかに、まだ欲や怒り、無智
があるのであれば、仏陀の教えが分かったと考えるのは、まだ時期尚早という
ことでしょう。 魔境落ちしてるの?皆さん。マインドフルネス怖いねぇw 俺のやってるブログあるから読んでね、おまえたちの1000倍くらい深い洞察してるからよ、勉強せぇよ、ドアホ土低脳ども
https://zensha.exblog.jp いんや、思った事を言っただけ。別に見性するのに聖人である必要ないし、見性したから聖人になるわけでもなし。
ただ世の中のバカがもっとバカに見えるようになるだけ。 マインドフルネスが清らかなものであるとかそーいう思い込みのがヤバいし、カルト的w 自分はバカではないと思いたいバカですか?
自分だけは特別な存在ですか? その、2元的な思考法はマインドフルネス瞑想じゃとけないの?じゃあやる意味ねーわ。カルトの間違い瞑想だよそれ やる意味ないのなら立ち去れば?
結局淋しいから明日も明後日も粘着して荒し続けるんだろうけどね >>86
そうなんですか それでは呼吸の動きを今までより少し集中力を持って観ることを続けられれば良いのではと思います
心 思考を観ると書きましたが今現在 それが生きる邪魔 目の上のたんこぶになっていなければ特別視することもないと思います 本当に個人差が大きいと思いますので
呼吸を観ることに飽きて続けにくいなら 日常で音を聞いている自分 景色を見ている自分 味を感じている自分 匂いを感じている自分 体を感じている自分 思考している自分を観る
そういうことに挑戦するのも良いかもしれませんよ >>118
カルトだなんだ攻撃してくる奴に言葉の強い弱いを考えなくちゃいけないのかね
「ドアホ土低能ども」という言葉でこのスレを否定してくる輩に強弱考える必要あるのかね? >>120
あれ、思わぬところから反応がw
まあいいじゃないすか
別に誰かが害を受けたわけでもなし
彼、カルトって言葉をはっきり定義する気もなくて、ただ使いたいだけみたいだし
どのレスにもアンカーできないとこを見ると、心の中の妄想像をターゲットにシャドーボクシングしてるのは明らかなんで
あんまり頑張ってもねえ >>86
横からですが、一日あたりの瞑想時間が短いのでは?
個人的には1時間未満の実践では変化も芳しくないと思います。
日常が忙しければ、休みの日なんかにまとまった時間(できれば3時間以上)することができれば、目覚ましい進歩があるかと思います。
一度「観ている意識」を感覚的に体得できれば、日常の30分未満の実践でも得られるものも多くなるかと。 仏性という言葉を使うのはカルトとか言ってたけど、むしろ仏性という言葉は禅の人が多く使ってないかい >>97
> どっちかっていうとこれ↓の方が定義として客観性があるのではなかろうか
横だけど、ないね。
> https://ja.m.wikipedia.org/wiki/カルト
> 『カルト(仏: culte、英: cult)は、悪しき集団であることを明確にするために用いられる通俗用語である[1]。
> 良い意味ではなく[2]、
良い意味はないだろう。
だからといって、悪しき集団であることを明確にするために用いているとは限らない。
>反社会的な団体を指す世俗的な異常めいたイメージがほぼ定着し[3]、
意味のよくわからない表現だ。
編集者の程度が知れるというもの。
神道系の団体はカルトとはいわないのかえ?
まず暴力団は反社会的といって差し支えないだろう
極左政治結社は確実。
あるいは特定の右翼団体も見方によっては反社会的と言えるだろうね。
左巻きスピ系団体はどうだろう。
犯罪行為を犯すような反社会的な集団を指して使用される[4][5]。
犯罪行為を犯すような
とはどういう意味だろう?
「例えば共謀して犯罪行為を犯すような、反社会的な集団」
なのか
「犯罪行為を計画している反社会的な集団」
なのか
「犯罪行為を犯した反社会的集団」
なのかはっきりしないな。
著者がアホなのだろう
> 元来は、「儀礼・祭祀」の意味を表す、否定的・批判的なニュアンスを持たない宗教用語であった。』
いつの話ですかね。
日本での話? 島田啓介のVoice in Voice第3章
2018年06月08日
講座で何をするの? マインドフルネスの基礎 連載1〜3
http://kskdah.seesaa.net/article/459874543.html
2018年06月08日
講座で何をするの? マインドフルネスの基礎 連載4〜6
http://kskdah.seesaa.net/article/459874674.html >>124
うんまあここでオレ相手に言ってても遠吠えなんでw
wikipediaは誰でも編集可能だから、やる気があったら頑張って編集して
あのページには『この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。』って付記されてるから、意見がある人は期待されてると思うよ 瞑想に方法はない。
ただ、そこに留まる事だ。
形に囚われてはならない。
例えばあなたがネジを回す仕事をしていたとしよう。
ネジを回しているのはあなたではなく、
ネジが回されているというわけでもない。
あなた以前の回転そのものの、
「そこ」に留まる事だ。 >>130
間違えて反時計回りに回しちゃったんじゃない? >>129
あなたがドライバーのような道具を使ってネジを回した
と考えるのが普通ですが 対象に集中するとき「私」はいない
と言ってるんだよ >>134
対象に集中云々以前にもともと仮説された自己を除いては私はいないのです 瞑想はするものではない。
その状態に自然に入って行くものだ。
例えば机の上の消しゴムに目をやったとする。
あなたはいつの間にかあなたが消しゴムを見ているのかあなたが消しゴムに見られているのか分からなくなる。
そして遂にはそのどちらでもなくなるのだ。
そういった集中が日常的に起こり出す。
それが瞑想だ。 >>136
それが実感できないから悩み苦しんでるわけでしょ
まず「私」がいない状態を体験して自我から連鎖する苦しみから開放されてみないと「私」という観念を手放すことができない
そのための瞑想でしょ >>134
なるほど
例文を出してかっこよく言おうとしてわかりにくくなってたんだね >>138
あなたが悩み苦しんでいるのはあなたの前世に原因がありそのカルマがあなたの霊魂(ジーヴァ )に付着して霊魂を不自由にしてあなたを苦しめているのです
カルマを潰すには断食などの苦行と徹底した不殺生(アンヒサー)や施しなどの善行、瞑想などで霊魂を清めていくとカルマは全て消えて新しいカルマも生まれません
そうなれば苦しみは終極します
http://samten.seesaa.net/article/449284270.html 掲示板に宣伝を貼り付けて誘導する、というカルマも
終極しますか? 苦行をするひとって理解できないな…
現代にもいるのか… >>141
それが自我から連鎖する妄想世界です
観念を観念で打ち消そうという試みで失敗します
苦しむ「私」がいなければ前世もカルマもないのです
自我の解体に努めましょう >>144
その書き込みをしようとおもい
アンカーを付け、文章を書き、推敲し、書き込みボタンを押したのは何者ですか? >>145
何者もいません
風が吹いても風はいません
雨が降っても雨はいません
川が流れても河はいません >>146
その書き込みをした
ブラウザの書き込みボタンを押したのは誰ですか? >>146
いるというのは有情の生き物に対して使う言葉なので風や雨や川がいないのは当たり前です >>148
自我が世界を切り分けてそう思い込んでいるに過ぎません
風がいないように生き物もいないしあなたもいないのです 「私」っていうのは、「〇〇をした主体は誰?」って形に世界を切り取ったときにだけ現れるんだよ
問いを発すればいるのは当たり前
ヨーロッパの中にフランスって国があるようなもんで、国境線は「どこがフランス」という問いがあってから人が決める
誰も問わなければ地続きの地面が広がってるだけだ >>149
貴方織田信長を目の前にしてそんなこと言ってたら
「本当にいないのか確かめてやろう」と言われて焼きごて当てられますからね >>149
その書き込みをした
あなたのブラウザの書き込みボタンを押したのは誰ですか? >>150
フランス国境の土地とそれに隣接する国のフランス国境付近の土地に何か差異があるわけではありません
しかし個人と外界には明らかに差異があります
差異があるからお腹の膨らみを観察するマインドフルネスなどの瞑想ができるのです >>153
本来、差異がないのに明らかな差異があると思いこんでいるのが自我です
よく観察すると雨が降る現象と感情の現象に明らかな差異などないのです
それに気づくための瞑想です
差を取って悟りです >>154
>>150のフランスと地面の話は何のためにわざわざ持ち出したのですか? 差異などないのです
差を取って悟りです
どっちやねんw >>155
そうですか、あなたの文章に書いてある単語一つ一つ文字一つ一つにも差異がないのでしょう
文字に差異がないということは全部「あ」だけで書いてあるのと変わらないということです。
そのような文字に差異が文章などが読んでも無駄ですから今後は貴方のレスはスルーしますね
読むことすらスルーしますね >雨が降る現象と感情の現象に明らかな差異などない
いやあるでしょ
感情でいくら作物が育てと念を送っても
雨が振らなきゃ育たないでしょ
不二元にかぶれてる人かな? >>156
世界を区切って名前を付ければ、それはそういう名前になりますよってこと
でもその名前は事実そのものではない
焼きごて当てられたら「熱い!」という事実だけがある
「私」は、「その熱さを感じているのは誰だろう?」という問いや、この熱さを「私」はどうしようという心の動きがあった時にだけ存在します
ちょっと前に〇〇をしているのは誰?って問い続けてるレスがあったでしょ
あの問いで世界を穴埋め問題のかたちに切り取れば空欄に「私」という解が入るのは当たり前
でもそれは事実ではなく、名付けです >>162
おお、自分が瞑想して得たことを語っただけだったんだが
唯名論なんて名前が付いてたんだ
知らなかったw
勉強になりました、ありがとう 熱いという事実だけを感じるなら、それは感受と一体化してしまってるだけでは。
感受する主体は熱いという感覚とは別に存在してる。 >>164
???
どこに?
身体や感覚器官のことじゃのいよね? 場所を聞かれても答えようがないけど、例えば熱さを感じたときに、それによって動かされることのない、主体とでも呼ぶしかないようなものを瞑想中に発見したことがないですか
もしくは感情が揺れている時に、それを観察しているもの いやー、事象の主体を見るということは、事実ではなく解釈だと思ってますよ
何かを感じる、何かを考える、そのときはそれしか無い
えっと…と振り返ると事実を解釈する動きが起きる
「痛いっ!!」のときは「私」はいないですね
後から解釈すると、事実が思考によって理解に落とされて、「痛いっ!!」から主体客体現象etcに分解される
この動きに、事実を解釈して「私」という認識を作り出す仕組みがある
だから「私」や認識の主体はありますよ
そういう風に世界を切り取るなら
でも、事実にくっついてくる尻尾みたいなもんです
まあ少なくとも私の体験というか理解からはそうでした(これを体験とけ理解と呼んでいいのかは甚だ疑問ですが… 痛い時に痛いしかないのは瞑想してない普通の人そのままの状態でしょ 例えば瞑想中に身体が呼吸しているのを、きれいにはっきりと感じれている状態に入れてる時には、実体験としてそれがあるのであって、それは解釈でもなんでもない
申し訳ないけど、そこまでの体験がまだなしに頭で考えたことだけをただ書いているように見えてしまう まあそう思うでしょうねw
すっごく良くわかります、ってか多分理解されないと思ってました
何かを感じた時に、これを感じているのは…って観たときかならず主体がいたら、それはずっと有るものと思うのが普通の解釈ですからね
まあひとそれぞれってことで マインドフルネスストレス低減法が病人や怪我人に有効なのは、
痛みを感じた時に、それがすべてではなく
全体性の中の一部であるということを、
瞑想を通じて実際に体験できるようになるから。
痛いときに痛みしかないのなら、怒りを感じた時に怒りしかないのなら、
それは瞑想したことのない人間と同じです。 「私」は風のように一瞬の現象として顕れて過ぎ去るのです
それを永続の存在のように思い込むから前世だのカルマだの妄想世界にひきづりこまれるのです
風が吹き去るように私は吹き去るのです うーん
もしかして、ずーっと「私は観ている」って感じの瞑想やってる人が多かったりするのかね…
まあいっか >>174
私が2千万年ぐらい同じレスをしてたら「ずっと」と言ってくれ
一日という一瞬のなかでレスしてるんでそこんとこヨロシク >>177
> ずーっとあなたはこのスレ観てますね
そのレスって、これ↓
>うーん
>もしかして、ずーっと「私は観ている」って感じの瞑想やってる人が多かったりするのかね…
>まあいっか
に対する反応だとしたらポイント外しすぎじゃないすか?
私が言ったのは瞑想のやり方の話ですよ?話通じてます? >>152
映画のアバターとかマトリックス、みたことある?
あるいは、オンラインゲームや仮想世界にアバターを作って遊んでみたことはありますか?
仮想現実のなかのアバターに向かって、あなたは誰ですかと真面目に質問する人がいたら
どう思いますか。 >>180
たとえが下手くそすぎる
問題のすり替えすぎる はぁ。うんざり。
瞑想による洞察を言葉で適切に表現する ←とても難しい
表現された言葉を相手が適切に解釈し、受け取る ←とても難しい
すごく難しい。
経典ではそれが見事に成し遂げられている。
仏陀の天才っぷりがすごい。 もう経典だけ読んでいればいいよ。
話すと必ずこういう流れになる。 アホが仏陀のマネしてたとえてもスベるだけという好例 非有非無の中道ではなく完全にないと言い切ってるのは流石にどうかと思うわ
だったら書き込んでるのは誰と突っ込まれるのは当たり前だわ まあそうやねw
私ももう今後は黙ることにしましょ
語れないことは気になっても語ろうとしない、頑張らないw >>186
頑張るという行為の対象の貴方はいないんでしょ >>187
頑張る、頑張らない、という行為の主体の貴方はいないんでしょ
に訂正 >>188
いやいや
頑張ってるのは誰かって問われたら、それは頑張ってる私がいるよw
当たり前じゃんwww あ…ちょっと前にもう語らんって言ったばかりだった…
ニワトリかよ… >>189
貴方の私は都合よく現れたり消えたりするのですね >>190
あ、では私も>>191のレスは取り消します
>>191へのレスは不要です >>191
> 貴方の私は都合よく現れたり消えたりするのですね
世界をその形に切り取るから現れるって最初から言ってるじゃんw 生成消滅する思いを自我だと勘違いしてはいけないレベルの話しを聞きかじって悟ったかのように語ってるだけだと思う
わかったふりしてるだけだから、横山良道いうところの青空・ガバットジン言うところの大いなる存在・ニー仏言うところのモードチェンジなんて感知したことがない いや悟ってなんていないし、そう見せようともしてないんだけど…
どうしてそんな話になったし そうね、話続いてるみたいだし、巡回でレスがあるとスマホがぴって鳴るからね
でも、これでも買い物行ったり晩御飯つくったり掃除してたり、普通に家事はしてるんですよ >>197
ごめん、俺のすぐそばに横山さんがいたからごっちゃになってしまった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています