マインドフルネス瞑想 Part10
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マインドフルネス瞑想は、宗教色を抑えて広く活用されやすくしたものですが、その元には宗教があります。
そこで当スレでは、マインドフルネス瞑想を主として、派生的に、あるいは根元的に宗教的な話をしましょう。
前スレ
マインドフルネス瞑想 Part9
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1523286538/ マインドフルネスは学んだことはないが、ウィキペディアの記事から推測すると、自分が、やってきたことに似ている
この注意を当てていく瞑想は、それを五蘊、に気づいていくようにすることで、わたしではないところに焦点があうと消失が起こる
消失が起こるというか、識別と感受が、ストレートに体験されるような新鮮なものになる
それが精神の健康上、良いものであるということだろうか 輪廻は生きている最中の心(魂)の状態じゃないの?
前世とか来世は関係ないんじゃ マインドフルネスちゃんは「今ここ」に気付いていればいいの
前世とか来世とかややこしいこと考えなくていいの
「今ここ」やな・・・でいいの いまここ ん?
いまんここ
い まんこ こ
まんこ いこ ! 日本ヴィパッサナー協会の瞑想会とかどうでしょうか?
お布施は自由らしいけど、皆どれくらい出すのでしょうか?
日本テーラワーダ協会もいいけど、どちらが良いかな。Daigoの顔がちらつくのがな。 自分で自分の心を観るのに瞑想会とかいる?
お布施いる?
自分の心を観るのは自分
他人が観るんじゃない まあ自分で自分の心を観る…観ているつもりで全然違うことやってる場合もあるからな
確認と方向修正をしてくれる場になっているならば、参加してみるのも悪くないかもね 自己流でとんでもないことやってそうな人たちもいるしね
「自分の心観るのに瞑想会いる?」
なんていうならあちらこちらの瞑想会・リトリートなんてなんのためにあるの?
ティク・ナット・ハンはリトリートに限らずインタービーイングにも重きを置いている 肥りすぎたり甘やかされすぎて
自分の背中を洗えない人間やケツを拭けない人間もいるからな
犀の角のようにただ独り歩め、ない依存心の強い人間には必要かもな でもまあすぐ依存しちゃうタイプは下手に近付かない方が無難なのは確かだがw
カルトだったら洒落にならんしな
ヴィパッサナー協会やテーラワーダ協会なら大丈夫だと思うけど 人に頼らないと瞑想もできない人間のほうが
陳腐だとおもうけどねぇ 自分で自分の心を観るのに教わる必要があるのか?って点では、
水泳やランニングをするのに、自分で自分の身体を動かすだけなのに教わる必要あるのか?って問いと同じ…って自分は思いますねえ 自分はよくプラユキ師やニャーナラトー師の瞑想会に参加するけど、瞑想が正しく進んでるか以外にも、日常の問題についてダンマから見た解決法なども教えて頂けるよ。
ただ瞑想が上達したいだけなら、本やネットでも十分自己解決できるとは思うけどね。 犀の角の例えで言われてるのって出家した中でも上級者に向けてじゃなかったっけ
少なくとも在家に向けてではない 独りで山に行って川沿い散歩したりした。好きな人にボロクソ言われ避けられたのか初めてでなかなか心の傷が癒えない
優しい面にひかれて近づいたら残酷な人だった >>24
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息む(やむ)ことがない。
怨みをすててこそ息む。
これは永遠の真理である。 難しい話していいか分からんけれど
抜苦与楽
芸能人のベッキーの例
・本能(愛欲という苦しみ)で悪をなす
川谷と付き合う
苦しみを妻に与える
・悪は悪に帰る
文春(悪)に報道される
世間が苦しみ(怒り)を負う
・本能(怒り)でベッキーが再び悪をなす
再度報道され、ry
・川谷とベッキーが活動自粛・謝罪(愛欲という苦しみへの依存を手放し善の布施を行う)
世間に対し抜苦与楽を行い、全員の苦しみが消える
こういうシステムが分かっていれば、相手によって苦しみを与えられたなら、相手も同時に何かに苦しんでいるし、抜苦与楽で苦しみを抜いてあげれば相手も自分も楽になるはず >>27
自分に酷いことをした人は彼氏もちで婚約するらしい。人気もありあいかわらずまわりにちやほやされながら楽しそうにしている
ベッキーの例とは違うんだなあ >>22
犬さんへ 投稿者:you
投稿日:2018年 6月 2日(土)07時50分46秒
仏教はただ意味もなく「真理」を追究したものではありませんよ。
「苦をなくす」ことが仏教のすべてであって、「苦」と関係のない真理などは仏教にとっては
何の意味もありません。
それはお釈迦様の原始仏教から始まって大乗仏教のすべての宗派に至るまで一貫していることです。
「苦をなくす為に仏教を学ぶ」のは極めて自然なことで、それ以外に仏教を学ぶ意味は何もありま
せん。神経症は「苦」の一つですから、仏教がわかるようになれば自然に神経症も消えて行くという
ことを言っているのですから、それを現世利益だと言うのはあまりに馬鹿げているでしょう。
犬さんは大乗仏教というものを、もっと勉強される方がいいと思いますよ。
大乗仏教と小乗仏教とでは、「悟り」の内容がかなり違っています。「大は小を兼ねる」では
ありませんが、大乗の悟りの中には小乗の悟りが含まれていますが、逆は、成り立ちません。
「悟り」の深さもスケールもまったく違います。
小乗仏教(原始仏教)というのは個人個人が自分を浄化して行って悟りに至ると考えますから
「汚れる」ことを嫌いますが、大乗仏教では「そのような個人があるという思いは幻である」
ことを最初に体験させる教えですから、「個人が汚れる」という概念がないのです。
世間とか世俗を低く見るような価値観も大乗仏教には基本的にはないと言ってよいでしょう。
お釈迦様が亡き後、原始仏教の教えでは悟りを開く者がほとんど出なくなったのに、大乗仏教
になってからは悟る弟子達がどんどん現われるようになったのも当然で、その深さもスケールも
全然違います。
http://www.omijo.com/syuuhen/tenjin.html
このyouというコテハンは1号こと無我だが相変わらずこんなことやってんのか
自分の意見が通らないと人を神経症やほかの心の病にする癖も変わってない
こやつは無我などど名乗りながらもその実かまってちゃんでネット依存症
無視するのが一番だな >>29
どんな酷いことをされたの?
その酷さ加減によってゆるす手段も変わってくるのでは? >>22
みんな治す気ないね
みんなエゴに囚われてる >>31
>個人があるという思いは幻である
三宝印
・無常
・苦
・無我 ←
パーリ仏教でも、三学が進んで慧が出てくると、自我が無我だということは分かります。
逆に、大乗仏教をやっていても、慧がない、従って本当には無我が分かっていない人は沢山います。
禅の修行を通して、実感として、無我が分かっているパーリ仏教の修行者と
禅の修行を積まず、知識や概念として無我を理解しているだけで、実感として無我を分かっていない大乗の仏教徒。
後者の人が、前者を見下すのは、勘違い、傲慢というものだと思います。 >>38
あまり彼の論に反論すると神経症扱いされるので注意が必要です 他者の幸せと安楽を願う気持ちはいいと思う
でもそれに執着しちゃ苦しい
だけど、それが執着なしで出来る人間なんて、よほど修行積まないと駄目だろう 瞑想をして鬱が良くなった
または治った方は居ますか?
https://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q14180515004
ここでの回答者はみないないと言ってるが、
瞑想合宿などに行って鬱が治ったまたは改善して仕事がバリバリできるようになった、
少なくとも普通に社会生活が送れるようになったという人は合宿参加者の中でどのくらいの割合でいるのだろうか?
ただ合宿って通常は鬱病などの精神病を患ってる方は病院に行って治してから来てくださいと事前に言われるとも思ったが。 瞑想ってのは問題が起きたあとに、それをなおす為にやるものではないんだよ カラオケ行って鬱が治るひとってのは、それはそれで少ない感w >>44
瞑想でうつ病も改善するよ。
運動すると体力がついて、その結果、健康的になって病気も改善する。
これと同様の意味において、瞑想による健全化の延長線上に、精神病の治癒もあり得る。
わたしは治った。
ただ、社会復帰はせずに仏門に入ることになった。
健康効果以上のもの=慧を垣間見てしまったので、もう後戻りはできない。 >>44
結果的に瞑想でうつ病も不安障害も治りましたし、病気になる以前より精神的に良くなりましたよ。
逆に抗うつ剤や抗不安薬などは一切効きませんでした。
知恵袋の回答者は、誰も真剣に瞑想してないのでしょう。
私は苦しみを終わらせるのに必死でしたら、休養中は合宿以外でも毎日最低5、6時間はやりましたね。
病歴や服薬歴は正直に言うと弾かれますよ。
伏せれば問題なく参加できますが、何が起きても自己責任で。
まあ後から話聞くと、精神病んでる人もかなり合宿には参加されてますけど。 >>44
自分は相変わらず哀しみ、苦しみなどがやってきますが、それが自分ではないと
感じられるようになり、じっとやり過ごすことが出来るようになりました。
結果、やってくる感情に振舞わされなくなりました。それが進むと、そんな感情自体も減っていくのでしょうが
>>50
>>51
どんなマインドフルネス瞑想をしました? >>52
>>51ですが基本的にアーナパーナとボディスキャンのみです。
ゴエンカ式の合宿に行く前はジョンカバットジンの本に沿って呼吸瞑想とボディスキャンをしていました。
瞑想が進むと悲しみなどのネガティブな感情が無くなるというより、それらを観察することでまるでパズルのピースが繋がったように、様々な思いや心の奥底に隠された感情のつながりが見えてくるようになります。
ここまで観察できると、ネガティブな感情は苦しみではなく心身の大事なメッセージだと冷静に受け止められるようになります。
そんなの無理だと思われるかもしれませんが、瞑想を続ければ自然にできるようになります。
心身の観察も、観察しようと意気込む必要はなくて、瞑想を続けるうちに自然に見えてきます。
頑張ってください。 >>44
鬱を治すための色々な行動をするための恐れを軽減したり、変わる痛みを受け入れる事がやりやすくなる感じかな
直接治るというよりは 瞑想も1年以上やって来ましたが、キーである気づきと観察の意味がわかりません。
気づくことと、観察することはどのように違うのでしょうか? また、物質的プロセスのルーパと精神的プロセスのナーマしか存在しないと説かれてますが、邪魔してくる思考の位置付けはどんなプロセスと理解すればよろしいのでしょうか? >>55
長い間続けてこられたんですね 言葉の定義の問題なのでそんなに気にする必要はないと思いますが
〜を認識している自分に気づいている(を認識している自分を観察している)と言い換えても問題ないかと思います
ただ経験的に瞑想が進んだ段階あたりで まるで雷に打たれたように 突然自分自身のことについてわかる瞬間があり 気づきが起こったとか 気づきがやってきた的に表現される場合もあるかと ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています