外道の独り言 9
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「ここは誰もが好き勝手に書き込んで良い」というスレではありません このスレの趣旨は、仏教に関する様々な論点に関して パーピマン殿が私見、疑問点等を提示いたします 「外道がぶつぶつと独り言を書き散らしているスレ」です 極めて恣意性の強いスレであることを了解願います 上げておりますのは、別段大勢の人たちに来てほしいからではなく (むしろその逆で過疎って欲しいくらいです) 「真摯なる碩学」が パーピマン殿の書き込みを目に留め、その瑕疵を指摘してくれることを望むが故です 自由に好きな相手と対論したいと思う人は、このスレを覗かずに他スレに移動してください 昨今、スレ立てが大変困難であり、好き勝手にスレを消費されことは大変迷惑なのです 自由に書き込みしたい方は↓こちらへ ひだ =^・ ・^= まり ttp://super2ch.net/test/read.cgi/mattari/1505400181/?s2 ttps://rosie.5ch.net/test/read.cgi/siberia/1500265524 前スレ ttps://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1512891346/ ログ保管庫 ttp://houjugusya.web.fc2.com/link.html さて、 「言った言わない」(≒忖度)問題は、加計学園の獣医学部問題でも、 実は同様の構図が見て取れる。(森友の方は、ちょっと違うw) もしかしたら、確かに、安倍ちゃんは、何とかするようにとは言ってないのかもしれない。 (お釈迦さんが、「無我」と断定し切っていないようにwwwww) が、周りの人間が忖度してしまう「文脈」が、そこにあったのではないか? ということが、今、問われている。 具体的に口にしてはいなくとも、それを感じさせる文脈が、(周辺スタッフが抗いようのない文脈が)、 必然的に、生じていたのではないか?と。 だから、安倍ちゃんは、文脈においても、忖度させるような要素はなかった、 と、発言・證明しなければならない。 が、【状況証拠】は99%黒w 本人がどれほど、そんな意図ではなかったと言い張っても、 周囲には、「そんな意図」でしか受けとられていなかったということ。 さて・・・ お釈迦さんの意図を、正確に継承し得ているのは、どちらだろうか・・・。 さあてw 一週間ほど経つぞ?w >>宝珠 >>458 自画自賛はワシの本性だからな。何言われても反論弁明の仕様がないwww で、大慈悲心溢れる、その後の批評はしてくれないのか? >>613 >>751 何故そう考えたか良く解らんが、(笑) 「あちら側」の操り人形になったらそういう風に見えるよな。(笑) あちら側が神なのか誰かの妄執なのか怨霊の類なのか悪鬼羅刹の類なのかの別はあるが。(笑) (^。^)そういう人も見た。(笑) え?そういう話じゃない?そりゃまた失礼。(笑) 所で有無の話だが、 俺が言って良いのか悩ましい所なんだが、なんか俺のゴーストが囁くんで、(笑) 例えば、川はあるか? 川は流れてるもので、あんまりあるとは言わんわな。 「行く川の流れは絶えずしてしかも元の水着非ず」 と言う通り、川は有るとも無いとも言えない。 同様に、我、魂、霊、等もあるとも無いとも言えない。 (^。^)お分かりだろうか?(笑) 川のように雨や雪解け水いうもので様相が変わる、日照りになると水量が細くなったり涸れ川になったり、逆に大雨になると洪水を起こしたりと、縁起に拠る存在は我とは言わない。 我とは縁起に拠らない、永久不変の常一主宰(アートマン)のこと。 縁起に拠る仮和合、空としての我は仮我という。 仮我なら川の流れに例えるとことはできる。 ははあ こりゃ、複雑怪奇な話ですな 色受想行識は無常であるから、我とは言えず、我は、どこを探してもないから、本性とは、この五蘊が、そのまま、ありのまま、変転する様なことであり、それが、すなわち無我である いやいや! そうではないよ 色受想行識は、無常であり苦であるから、我ではないが、実は、それらの実体がない変遷を可能ならしめている空なる、本性、不生不滅の、悟りの世界がある この苦しみの世を抜けて、その、本性へと至ることが無我である ?? >>757 > この苦しみの世を抜けて、その、本性へと至ることが無我である 文章がおかしい。 > 「この苦しみの世を抜けて、その、本性へと至ること」【が】「無我」である AがBである、と。 本来は、 BなるがゆえにAである、という文であるべきかと・・。 川の本質は流れ去ることである そこでは、実際に、固定的なるものが、残っていることはないが、それゆえに川である しかし、川を川たらしめているものが、ないところが、つまり、その流れ去る水の働きとは別のところに、空なる川があるのである?? そんなわけあるかいww >>758 その涅槃なる存在に至るならば、つまりは、存在しない存在であり、この、存在しない存在は、存在しないが存在しているので、無我である しかし、その、存在しないものが、存在しているのである それを一切外という ってことなんじゃ? これに対して、存在しないものはない 一切は五蘊の働きであり、それのみである しかし、その五蘊の働きは、無常であり、苦であるから、我でない 我はどこにもいない あるのは、この、あるものだけである 我と現象と二つない これが正当じゃないのww 《「無我」は「絶無」「虚無」ではない》 心のシステムを理解すれば、出世間次元の智慧が生まれてくるのです。 ヴィパッサナー瞑想は、その、心のシステムを理解する方法なのです。 この方法でなければ、無常は体験できないのです。 呪文を唱えても、何か同じ言葉を頭の中で繰り返すだけ。 チャクラを開発しようとがんばっても、チャクラという概念があって、それを開発しようということですから、感覚·フィーリング·受で、「今、お臍まで上がってきたんだ。今、胸まで上がってきたんだ」などと言うだけのことです。 その人が何かを感じていることは確かですが、それも仏教から見れば「受」ということで、それ以外の何 もないのです。 眼耳鼻舌身意の意の感じか身の感じかどちらかですが、どちらにしても無常です。 そういう受の体験も、すぐ消えてしまいます。 ヴィパッサナー瞑想も「体験する」のですが、それは「無常を体験する」のであって、自我を体験するのではありません。 無常を体験したら、「自我がない」と、そこで初めて分かるのです。 「自我がない」と言えば否定的な言葉ですが、まったく何もないという虚無的な意味ではなくて、「すべてのものごとは一瞬も留まることなく、絶え間なく流れていくのだ」ということです。 だから、「無我」と言っても、正確には「ある」とも「ない」ともどちらでもないのです。 「ものごとは因果法則によって流れていくのだ。瞬間の存在ですよ」ということです。一瞬の存在が消えたら、新しい存在がすぐに現れるのです。 だから本当のところは、仏教の心理学は、皆があると信じている自我論について、極端に反対して「自我がない」というのではありません。 自我意識はどのように現れるものかと、そのプロセスを教える世界なのです。 >>762 続き だから釈尊も直接「魂はない」とは言わなかったのです。 正確に、「あなた方が魂だと見ているものは、魂ではないのです。 認識はこの六つのチャンネルからしか入りません」と言えば、正しく中道を守って、「我」を否定しているのです。 我を否定すると同時に、まったく何もないという虚無主義も否定しているのです。 「何もない。ただの無だ」という虚無主義も、「魂はある」という実体論も否定して、因果法則で、ものごとは因縁によって生まれるという、中道を教えているのです。 仏教における仏教の立場からは「我はない」と言わ なくてはいけないのですが、そういう否定的な言葉を使うと、何かを否定することですから、またそれも、ある極端論に陥ってしまうのです。 だから、「ある」でも「ない」でもなく、正確に、「因果法則によって流れていくのだ」と分かる のが、悟りの世界です。 みんながショックを受けるのは、自分がずーっといると思っていたのに、それがないと体験したからです。でもショックと言うよりも、これでスッと楽になる のです。 今まで無駄な苦しみを味わっていた、余計な束縛、余計な苦しみを味わっていた、と分かる。 瞬時に楽を感じる。 それを預流果と言うのです。 (アルボムッレ スマナサーラ 他2名 ブッダの実践心理学 (アビダンマ講義シリーズ―物質の分析) (アビダンマ講義シリーズ (第1巻 心の分析)) >>763 あちらを立てればこちらが立たず ほんにお前は屁の様な仏教にゃん? 南無南無 (-∧-)合掌・・・ ごめんなさい! 投稿が滞っています。 また、明日以降〜気長にお待ち願いします。 取りあえず、今、一つだけ言えることは、 私の主張は仏典の記述に合致しており、そして矛盾がない。 そしてまた、一流の研究者たちの見解とも一致している。 しかし、あなた方伝統信奉者たちというのは、 実際には仏典の記述とは矛盾しており、専門の研究者たちとも見解を異にする。 あなた方が保持してきた伝統教義というのは約2千年間を誇る部派の教義(アビダンマ)です。 しかし残念ながら、それはゴータマの教えということではなく、 実際に仏典の記述とも異なる内容です。 さて、賢明なる良い子はどちらを選択するでしょうか? 取り敢えず 一切法無我(諸法無我) と 一切行皆苦(一切皆苦) と 涅槃寂静 は言葉の上では矛盾はしない 涅槃は一切行外ではあるが一切法内ではあるから 無為 (仏教) https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E7%82%BA_ (%E4%BB%8F%E6%95%99) このWikipediaの無為の解説は分かりやすい 説一切有部と唯識は一切法としての無為を認め中観は一切法皆空の論から有為も無為も実体としては成立しない、と ところで有為と無為に一切法を分別して無為に涅槃を当てはめたのも部派仏教からじゃないの? 釈迦生存時に有為とか無為って「言葉」はあったんだっけ? 無為相応( A s a n k h a t a s a y u t t a ) まず 、「涅槃 」( n i b b ā n a )という名辞がいろいろといいかえられた 。 あるいは 「無為 」( a s a k h a t a )といいかえ 、あるいは 「終極 」( a n t a )といいかえ 、あるいは 「無漏 」( a n ā s a v a )といいかえ 、あるいはまた 「到彼岸 」( p a r ā y a a )といいかえるなど 、この相応において見られる「涅槃 」の異名は 、じつに四十四種に達する。 だそうな。 >>768 それって四法印だよね? 矛盾してたら仏教崩壊だけどw ■■■■■■■■■■■■■■■ ■■ ■■ 頭悪いんだから素直に注卒でええやろ!滑稽な偽学位で騙さんても! iiiiiii iiiiiii iiii __ __ iii 数々の不祥事、 パワハラや強姦紛いの宗教を騙った暴力! ii / \ ii | | 金銭トラブルに嘘の総会、反抗する者には83で恫喝! | | 虚偽宣伝、自意識過剰な虚栄心! | \ / | やり直し出来るなんて真っ赤な嘘、何人の人を神から遠ざけましたか? / _ _ _ _ \ | | 神学的知識も自慢するが間違いだらけとある牧師が笑ってました! | | | | | | 教会員を追い出し自殺に追いやって惚けてる! \ / | __/ ● ● \__ | | ______ | | \ / | | \ / | 周囲の牧師と異常な競争心を燃やす♪ | \/ | 下らない自己顕示欲が幼稚♪ \_______________/ それも年下の牧師に嫉妬ばかり♪ 若い牧師から嫌われている♪ 牧師金ちゃん、まだしゃぶって末世!目的は自分の名を挙げ上座に座ることや♪ 今も元◎X△を強調しそれをひけらかせては周囲を恫喝! 教会を離れた信徒の悪口に陰口、自己正当化を謀る様々な愚行! 日本の教会の未来はまるで自分の肩にかかってるかのようにかっこ良く語るが、とても尊敬できるような人ではない! 「私が、加計学園の獣医学部開設に便宜を図れと言ったことはない。 各役職の者達が、【勝手に】【誤解して】便宜を図っただけ。 私は、便宜を図ってほしいとすら思っていない!」 by宝珠 このスレの住人は、勿論、今日のヒストリア見たよな?w つか、個人的に、 秘仏の曼荼羅の裏に「鑑」が付いてるのを見た時は息が止まったね・・・(^^; ああ、明治維新で廃仏が無く、神仏混淆のままだった方が、 日本の文化、精神性にとっては、良かったのかもなぁ・・・ と。。。 アーナンダよ。修行僧たちはわたくしに何を期待するのであるか? わたくしは内外の隔てなしに(ことごとく)理法を説いた。 完き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような教師の握り野は、存在しない。 (パーリの大般涅槃経) ブッダの教えとはこのように明らかに顕教でありそこから仏教はスタートしたのです。 ブッダではなく大日如来を立て紙から弟子にのみ教えを伝える密教は仏教文化の一つとは言えますが元々の仏教ではありません。 ttp://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/345.html 歴史秘話ヒストリア 本地垂迹によって [ 神は仏が変身した姿 ] ウィキペディア参照 本地垂迹 仏教の天部の神々も元来はヒンドゥー教の神であった インドに起こった仏教は他国への伝播の過程において 日本だけでなく中国においても その地域社会の土着の神々や歴史上の重要人物を 仏菩薩の化身として包摂することで根付いていった歴史がある 仏教にはそのような性質が本来あった … 神仏習合の考え自体は明治時代の神仏分離まで衰えることなく続いている 近現代においても日本人の精神構造に影響を及ぼしている 神本仏迹 神こそが本地であり仏は仮の姿であるとする 相応部が全て金口の説法だったとして、一時結集というより自分は部派仏教になってからだと思うが、それらを分別して整理して◯◯相応とした時点で編纂されてる可能性大ではないかな 雑阿含はその相応が崩れたから雑阿含と呼ばれているという説が一般的だけど、もともと説一切有部で保持していた時から部門別の整理(相応)はされてなかったということはないだろうか? でも説一切有部も整理するのは好きそうではあるが 有部やテーラワーダ以外での相応部・雑阿含に相当するアーガマは発見されてはいないんだっけ? >>754 >「あちら側」の操り人形になったらそういう風に見えるよな。(笑) 承狂殿レス、サンクス。 ま、そっちでいう完成の教義無しの愚者向けの「シッチ」みたいなもんだな。 あの領域は・・・・・・。 なかなかの快楽だぞ、あれはあれで・・・・・笑。 高野山もなかなかの快楽誘惑度高いけどな笑。学侶、行人聖、両方誘惑あるぞ笑。 ジャンキーの詐欺レス、犬のしょんべんレスが・・・・・・・・笑。 / ̄ ̄^ヽ l l ____ _ ,--、l ノ . /_ノ ヽ、_\ ,--、_ノ:: `ー':: 、ミー---‐,,l o゚((●)) ((●))゚o 宗教音痴、でおー、プギャアアアアアア ,/ ::: i ̄ ̄ | . /::::::⌒(__人__)⌒::::: \ / l::: l::: ll | |r┬-| | (⌒) l l . l !:: |::: l | | | | | ノ ~.レ-r┐、 | l l |:: l: l . | | | | | ノ__ | .| | | | l . } l:::::,r----- l. \ `ー'´ ./ 〈 ̄ `-Lλ_レレ ヽ :l:::: ト:;;;;;;;;;/-/__........... /  ̄`ー‐---‐‐´ >>781 >相応部が全て金口の説法だったとして、一時結集というより自分は部派仏教になってからだと思うが、それらを分別して整理して◯◯相応とした時点で編纂されてる可能性大ではないかな これ文の最初と最後で矛盾があった 言い直すと 端的に言えば相応部は金口ではなく編纂されたお経であると思っていること 編纂は特に◯◯相応と整理された時点でなされてるのではないかということ プラユキ ・ナラテボー 「自我を捨てて無我になれっ!」という言説は厳密には誤り。なぜなら最初から「無我」だから。 大事なのは、そもそも無我なることを理解し、生命のサバイバル戦略としてヒューリスティックに仮構築された「自我」なるものを尊重。 その上で、とらわれることなく活用。尚、とらわれた時の副作用はこちら↓ https://mobile.twitter.com/phrayuki/status/858139405638279168 無我についての論戦の方については、 準備と記述の都合などもあってここらでちょっと一息入れます。 ----------------------------------------------------------------------- >>776 >このスレの住人は、勿論、今日のヒストリア見たよな?w 録画をやっとすべて見終えました。 番組はなかなか素晴らしい造りで見ていても為に成って、そして、とても楽しいものでした。 幾つか感じたことなどを述べたいと思います。 個人的には、神道そのものの信仰(教義的な内容)には自分はまったく興味はないですね。 ていうより、この私が一番、訝しく思ってしまうのは、祀られている神には武将などのただ死んだだけの人間(俗人)が多いことです。人間、ただ 死んだたけでは神にも仏にも成れる筈がない。これはただ死霊の祟りを恐れるがためのものであり、神扱いのビッグ待遇で祀り上げてしまうこと で死霊の祟りを鎮めてしまおうというのがその目的です。中には、神からのパワーに満ちたような本物の聖地もあるとは思うけれども、それはほ んのごく僅かだと思う。たぶん殆どの神社には何の力もなさそうに私には思える...。 ということで、自分個人としては地元の土地の神さまに対するご挨拶としての元旦/元日の初詣(年に一度)だけの神社参拝であり、そして、あと は慣習的に門松・鏡餅・注連縄を飾って歳神さまを祀るだけです。 尚、私が唯一、今後の成り行きについて注目しているのは天皇家の行く末についてです。というのはある情報によれば、実に面白いことに、Y染 色体のYAP遺伝子を持っている民族は、東アジアでは日本人にしか見られないものであり、近隣の同じモンゴロイドの韓国や中国人にはないという。 世界で他に見られるのはイスラエルのユダヤ人と一部のアラブ人、そしてチベット人、ベンガル湾のアンダマン諸島の人々だけなのだという。 実は、現在イスラエルでは歴史上、失われたユダヤ10支族の末裔の所在を確認しているところであり(彼ら末裔のすべてはイスラエルのカナンの 地に帰らなければならないという神との契約があるとされ、この集結はすでに始まっている)、この日本こそが10支族ガド族の末裔の混血民族で あって、そのガド族の渡来民族の中心にいたのが天皇家だったとみられるのです。神道とユダヤ教には奇妙な類似が幾つも確認されているけれども、 中でも特に顕著なのは御祭りに使われるあの神輿であって、あれは契約の聖櫃アーク(契約の十戒石板を入れておく聖なる箱)のレプリカそのものだ ということ。本物のアークは今も失われた状態ですが、実は、それが日本の天皇家の隠し持つ宝であるという可能性が指摘されているのです(そし て、天皇はイスラエルへ帰還するという先祖代々からの使命を自認している筈なのです)。 番組の本筋の話題に戻ると、私も仏教と神道は異なる宗教として明確に分けるべきと考えていますけれど、たとえ神仏分離令に理解を示すこと はできても「廃仏毀釈」という破壊行為は絶対に認められるようなことじゃない。罰当たりにも程がある。たとえ自分たちが信仰しない異宗教で あっても、人様が大切にして拝している宗教施設や礼拝対象などを破壊するなどは以ての外であって、これは絶対にしてはならない行為です。 とはいえ、私の処ではお祀りしている不動尊には注連縄と鏡を飾り付けしています。不動尊には神仏習合の祀りがとてもよく似合うのです。実際、 今でも不動尊の祀り方としては各寺院においても神道的な様相をしていることは非常に多いです。 番組では初詣参拝数ベスト5の紹介をしたけれども、この前も話した2位・3位の成田山新勝寺と川崎大師(共に300万人超えも珍しくない。尚、 ここ近年はもう人数確認は止めたのだという)で思い出したのですが、密教寺院で、もしかすると特にこの成田山が、ということなのかもしれませ んが、ここの参拝者たちは、まるで神社のように柏手を打ってお参りする人の割合が驚くほど高いのです。というのは、護摩法要の儀式の途中の その始まり頃と終り頃のそれぞれの箇所で導師が柏手を打つ所作がある(私が寺院へ確認したところ、これは神社の柏手とはまったく異なるものだ という。尚、密教の事相のことなのでその意味については教えられないとのこと)。様子を見ていると、なんとこの時に参拝者たちが導師に合わせ て皆で同じく柏手を打っている。たぶん導師と気持ちを一つにして、柏手も一緒に合わせることが良かれと思ってのことだと思われますが、これに ついても寺院側に確認したところ、この所作は導師だけが行うものであって参拝者はその必要はないということでした(いや寧ろ、すべきではない ものと思われる)。ということなので、私は周りが皆でパンパンやっていてもしない。ここは護摩の影響でそれが正しい参拝方法だと勘違いしてる 者が多いので、普段もお賽銭の後にパンパン柏手を打つのが見られるから違和感がハンパないです(おーい皆、ここは神社じゃないんだぞっ!!)。 それから御朱印について。今回、新勝寺内の各伽藍を巡ってきたけれども、行列に並んで時間が掛かるものがこの御朱印を頂くことだった(とにか く凄い行列だ...)。これ自体がとても美しいものなので集めるのにも価値があるし、旅と参拝の良い思い出にもなる。そして、もしも御朱印収集が キッカケで仏縁に繋がるのならば尚、良いことだと思う。 ただ少し気になるのは、寺も神社もごちゃ混ぜで集めてる人たちのことです。これでは要するに、ただのスタンプラリー帳と化してしまっている ので、まったく御朱印本来の主旨からは逸脱してしまうし、神社によっては寺院の御朱印混じりの御朱印帳では断られることすらあるという(その逆 は断りはしないかも...)。ただ如何にも御朱印入手だけが目的にしか見えないような行為はとても失礼になるので、最低限の礼儀として、仏閣寺院 と神社の御朱印を分けることだけは守った方がいいです。 御朱印というのは、寺院においては本来は、写経を納めるか読経を捧げなければ御朱印を頂くことができないものです。私の場合は一応、本堂で の読経と納札を使用してきているのでお許し下さい。 >>787 これについてはこれまでも何度か言及したけれども、確かに、これはゴータマの偉大さを強調したいがための神格化の意図があるかもしれないし、 まるで恨めしいかのように何度もしつこいくらいにアーナンダのミスを責めているのが、そのアピールでもある。 ただし、無知な者たちというのは(このサイト内の人たちの意見感想など)、人間の寿命が自分の意志で延ばせられる筈はなく、現に如何なるどん な聖者であっても皆、最後は普通に病気なりで死んでおり、ごく普通を超えた人間などは一人もいないと思っている。 しかしながら、この私から言わせて頂くならば、通常アヴァターという存在の場合は人間としての模範を示すことを使命としているので延命せず 普通に死んでいきますが、自分で意志してその気であれば寿命を延ばすことはできるのです。 常人の寿命を遥かに超えた聖者、不老不死の肉体を保持する聖者というのは、この下界(一般の人間社会内)にいないだけのことです。だから、彼ら の存在を知ることができないのです。彼らは皆、人混みと汚れた空気(そして、乱れた波動)を嫌がり、その殆どがヒマラヤ山脈などの山奥高所の秘境 に住んでいます(中国道教では仙人といっている)。ヨガナンダにクリヤヨガ伝法の使命を与えたマハーアヴァター・ババジはヒマラヤで数千年の青年 の肉体を今も保持します。また、ブラヴァツキーに神智学を授けた覚者方の場合は、悟りを開いたときの肉体を維持することなく放棄し、その後に自 分の意志力で創造した完全無欠の肉体を数百年以上も着用しているという方ばかりです。そのサイト感想者の中にはサイババだって普通の死んでいる といっているけれども、サイババの場合は不老不死を示すのではなくて、自身の連続三度の降臨転生を約束しているのです。それが前世のシルディの サイババ → そして、今回亡くなったサティヤ・サイババ → 次の転生であるプレマ・サイババなのです。 そして、ゴータマの延命を嘆願しなかったアーナンダには罪があるのか? についてですが、ゴータマ自らの言葉で過失だ罪だと宣告しているのだか ら、なかなか言い難いのだけれども、私の理解としては、延命など出来よう筈がないのだから師は何のことを言われているのかピンとこなかったと見 られるアーナンダなので、確かに未熟からくる「過失」ではあっても、「罪」を背負うことにはならないのではないかと私は思っています。 また、アーナンダの過失は悪魔が原因したものだともされるのですが、仏典における「悪魔」なるものの殆どというのは“己自身の中の良くない心” のことを指しています。 >>780 >スッタニパータには釈尊の根本の教えとされて上座部仏教で強調されている四諦,十二因縁,八正道という言葉や, >後のアビダルマ仏教においてキーワードになる五蘊,十二処,十八界や三界といった法数の記述がほとんどないということです。 「法数」というのは、 つまり、ゴータマの教えの内容が後代になってから整理されて、 種類別に分別されていった結果として、四つのものに纏められたり、 十二のものに纏められたなどとなっているわけです。 ゴータマが当時において、何でも「これより十八のものについて話そう」などと説法していたというわけではないということ。 部派がこの作業を推し進めてアビダルマ教学なるものを成立したのです。 確かに、それは素晴らしい評価に値するけれども、 しかし、若干部分においては、本来のゴータマの教えとは異なるものになってしまった (僅かな部分ですが、しかし、決定的な差異となってしまった)。 テーラワーダというのは、これに依存しています。 >「理想の修行者は,欲望を離れているのみならず,〈欲望を離れている〉ということをも離れているのである。 >こういう表現は,後代の空観,または禅僧のさとりを思わせるものがある。」(ブッダのことば382頁) > しかしこれは禅宗の文献にある教えではなく,最古の仏典,私見では釈尊在世に成立していた経典にある教えなのです。 >これはつまり,歴史上の釈尊が大乗仏教と共通する教えを説いていたことの紛れもない証拠なのです。 これを何も別に“大乗の”などとする必要性などはないでしょう。 元々、ゴータマは修行過程において、アーラーラ・カーラーマから無所有処定を、 ウッダカ・ラーマブッタからは悲想非非想処定を修得しているのですから、そんなことは当然のことですよ。 >まず,歴史上の釈尊は,当時のインドの人々がバラモン教の伝統に沿って実践していた諸天善神に対する祭祀を決して否定しておらず, >それどころかその意義を十分に認めていたという点を確認したいと思います。この点は,とりわけ上座部系の仏教者が,歴史上の釈尊 >はバラモン教の供儀を否定していたと繰り返し喧伝してはいますが,スッタニパータ,すなわち私の理解では第一結集による改変がな >されていない歴史上の釈尊そのもの肉声を伝える教えを見る限り,事実は全く異なっているのです。 > > 「この世の中では,仙人や王族やバラモンというような人々は,何のために神々にいろいろと供物を献じたのですか?」 > (師が答えた),「究極に達したヴェーダの達人が祭祀のときに或る(世俗の人の)献供を受けるならば,その(世俗の)人の(祭祀の >行為は)効果をもたらす,とわたくしは説く。」(「ブッダのことば」94頁) > > このようにスッタニパータに従う限り,歴史上の釈尊は,偉大なバラモンが行うバラモン教の神々への祭祀に際して王族などが供物 >を献げれば,その王族などの者には利益があるということを認めていたのであり,このことは疑う余地がありません。 >そしてさらに重要なこととして,歴史上の釈尊は在家の者に祭祀を行うように命じたことがあったという驚くべき事実を紹介したいと >思います。 > マーガ青年がいった,「この世で施しの求めに応ずる在家の施主,福徳をもとめ福徳をめざして供物をささげる人が,他人に飲食物を >与えるに当たって,どうしたならば祀りが成功成就するかということをわたしに説いてください。先生!」 > 尊き師(ブッダ)は答えた「マーガよ。祀りを行え。祀り実行者はあらゆる場合に心を清からしめよ。祀り実行者の専心することは祀 >りである。かれはここに安立して邪悪を捨てる。かれは貪欲を離れ,憎悪を制し,無量の慈しみの心を起して,日夜つねに怠らず,無 >量の心をあらゆる方角にみなぎらせる。」(「ブッダのことば」104頁) > >このスッタニパータの記述は密教の起源を考える上で極めて重要です。まず,引用から明らかなように,歴史上の釈尊は,在家者に対し >ては,バラモン教の祭祀を行うことをやめさせるどころか逆に実践するよう命じたことがあったのです。しかも,祭祀を行う際には大い >なる慈しみの心をもってなすようにという実践上のアドバイスまでしています。こうして,歴史上の釈尊による「祀りを行え」という直 >接の指示に従って,仏教的に換骨奪胎したバラモン教起源の祭祀の実践に専心していた在家者がいたのです。したがって,その後歴史上 >の表舞台に出現した密教儀式の多くがバラモン教やその後継であるヒンドゥー教の祭祀を根底としているからといって,それらが釈尊に >由来していないと断定することはできないのです。 > > しかも,このマーガ青年は出家することはなく,出家者集団には属さないままであったということもスッタニパータは伝えています。 >この点も注目すべきでしょう。 以上の点については、 私が頻繁に引用提示しているスッタニパータの句とその意義とに関する部分です。 いつもの長老の信奉者らは勘違いが多いので、これらの意味についてはしっかりと噛締めるべきだろうと思う。 その為にここに、わざわざ長く引用紹介します。 ゴータマからのバラモン祭祀の否定というのは、 単純そのまままの全面否定などではないということ。 対機説法を理解できない者は短絡的にそのように受け止めてしまうが、 本当のところは、その効果を認め正しい祭祀については推奨されているのです。 >>615 :追記 >>697 >>707>>620 確かに、 >>697 にある遺体の処理法の指示というのは、 あまりにも過剰なので神格化の印象は拭えないものがあります (自身の遺体処理について、ゴータマの性格からは考え難いこと...)。 しかし、帝王(転輪聖王)と修行完成者の遺体処理は丁寧にすべきとの指示があったのだと私は思う。 ゴータマが出家僧たちに対して葬儀に関わることを禁止したことに関する話については、 もっと正確にいうと、ここでは葬儀ということではなくて 「遺体処理」(シャリーラプージャー/パーリ語では、サリーラプージャー)に関わるなというものです。 その遺体処理とは、『(1)遺体の装飾と納棺、(2)火葬、(3)遺骨塔(塔婆塔)の建立、という三要素よりなる、 一連の遺体処置手続きのこと』(鈴木 隆泰著『仏典で検証する-葬式仏教正当論』興山舎) その理由というのは、何度もいうように修行に専念すべきであるからというものであって、それ以外のものではない。 尚且つ、ここではあくまでも“アーナンダに対して関わるな”といっているのだということはとても重要なことです。 何故なら、すでに阿羅漢を多く輩出してるにも関わらず、アーナンダはまだその悟りに達していなかったからです。 『しかも最近の研究は、釈尊が禁じたのはアーナンダがシャリーラプージャーを行うことだけであり、 出家者全員がシャリーラプージャーを行うこと自体を禁じたのではない、ということも明かしています。』(同著) ということで、単純に僧侶が葬儀の導師を務めていることがゴータマの教えに違反することにはならないということ。 『浄飯王涅槃経』は原始経典ではありませんが、 『増ー阿含経 一五』(正蔵二・八二三中)には、養母でもあった叔母の大愛道比丘尼の死に当たって ゴータマ自らが引導(葬儀において導師が新亡に対し法語を与え、行くべき世界を教示すること)して棺を担いで、 火葬において偈を唱えたことが記されているというから、 当然、実の父である国王の葬儀についても当然のことといっていいと思います。 釈迦が葬儀の場で坊主の真似事を したと言うのはメルヘンと捉える べきにゃん♪ 釈迦の説く仏教は葬儀とは無縁な 事柄にゃん♪ 南無南無 (-∧-)合掌・・・ >>799 フム。現在のスリランカ仏教、 このテーラワーダの理解(長老とサイト管理人の説明)はとても良いものですね。 >>800 ホーーーなるほど...。 まっ、勝手にするがいいが、君の理解は仏典の記述と明らかに矛盾する。 では聞くが、たとえば君の理解では、 一番弟子として、または後継者として大いに期待していたサーリ―プッタと モッガラーナの二大弟子が望まれない死に至ったことに対し、 師であるゴータマが非常に落胆して悲しんだ様を見てどのように感じますか? 人間の持つ四苦八苦として予め分かっていて、 尚且つ、すべての苦悩から解放されている筈のブッダが、何を今更..などと見なしますか? 或いは、“日頃からすべてのものは無常であるから執着してはならない”と説いていたにも関わらず、 自分自身がなんだこの有様は...などとあなたは見なすのですか? 『「比丘たちよ、サーリプッタとモッガラーナが逝いてから、 わたしにとってこの集会は、空虚になってしまったように思われる。 比丘たちよ、サーリプッタとモッガラーナが生きていた頃の思い出がなければ、 わたしには、この集会はなんの期待もない」』 (『相応部』47,14、『雑阿含』24,40/「チューラ(支羅)」) ゴータマは、 人間の持つ当然の悲しみについては当然のごとくとして受け止め、 また、亡くなった人に対しては敬意を以て接し、決して失礼な扱いはしないし、 生前の感謝と死後の安楽とを願って弔いの儀式(祈り)を捧げます。 それが美しい心の持ち主ということ。 >>801 追記: 原始経典を学び始めた者に結構いそうなのが、 こういった冷徹的な志向へと傾いてしまった人たちです。 実はこの私自身もそうだった。 若い頃は原始経典の走りをかじって堅物だった...。 修行に関すること以外は無関心になり、職場の活動にはまったくの非参加で、 いつも変わり者のレッテルが貼られていた。 本来の仏教では葬儀も死者供養(先祖供養)もしないとかいって、 母親の仏壇に座る姿をいつも馬鹿にしたものでした。 今では、 当時の若き自分の無知と未熟過ぎた精神を恥じてとても後悔しています。 母親にも申し訳なかった気持ちで一杯です。 あなた>>800 もそうならないことを願う。 長時間のサーバーエラーでしたね...。 --------------------------- >>800 私の若い頃は、 仏壇は仏教ではない。 位牌は仏教ではない。 人間、生前の行いで死後の行き先は確定しているから、 先祖供養などは無意味だ。 葬儀など仏教ではない。これは坊主の商売なんだ。 〜といった具合だった。 母親にはいつも、手を合わせない子だと悲しい想いをさせてきた...。 確かに、 これらは仏教が目指している本道ではないけれども、 しかし、決してどうでもいい無意味なものということではない。 本当に修行の進んだ清らかな聖者は人の心を尊び大切にするものだ。 人として失礼なことはしない。 仏典を正しく読み込めば、 そのことが理解される。 >>801 今に残る仏典を頼りに生きるのも 貴方の自由では有るが、たまには 疑ってみても罰は当たらないにゃん♪ 南無南無 (-∧-)合掌・・・ >>803 仏教と道徳を混同しては本質は 遠ざかるばかりでござるにゃん♪ 釈迦もまた六道の生き地獄に生ま れ落ちた人間に過ぎない事を理解 する事こそが真理に至る道ではな いかと思う所存にゃん♪ 南無南無 (-∧-)合掌・・・ >>802 興味深い話です ぼくも、勘違いしてると、思ってきましたね 大乗仏教が気持ち悪い、許せない、と思っても、大乗仏教が世の中に迷惑をかけているわけではない。 彼らは彼らの伝統を大切に守ってやっているだけで、もっと現代的に分かりやすく仏教を教えようと思っても、本山に怒られて手足を縛られているだけで。 世界のどこを見ても、大乗仏教が社会に迷惑をかけているということはない。 社会に迷惑をかけているなら、対処しないといけない。 カルト宗教や新興宗教を作って若者を誘っているなら、親たちが立ち上がらないといけない。 大乗仏教も、教えはおかしいところたくさんあるが、社会には迷惑かけない。 真言密教から出てくる怪しい坊さんはいるが、個人的にやっている。 真言密教の本山(高野山)が認めているわけではない。個人が悪いだけ。 高野山ではふつうに自分たちの修行して、伝統守って頑張っているだけ。 基本的には社会に迷惑かけてないんだから、その辺は評価すべきです。 イスラム教キリスト教がどれだけ社会に迷惑をかけてきたかと。 それと比較すると、大乗仏教はずいぶん人間には優しいんです。 時々、葬儀で高額のお布施を取る坊主もいる。その個人の坊主を批判すればいいだけ。 本山で高額の布施を取れと言っているわけではないんです。「布施は気持ちです。気持ちは500万円です」とかねw それは大乗仏教でもテーラワーダ仏教でも、教えに反している。 自発的に差し上げるものでなければ、布施にならない。商売になってしまう。 出家の僧侶は人々の役に立つために無償ではたらく存在であって、在家の人々も自由な気持ちで、布施をする。 自分でこれだけ差し上げます、と決めなければ布施ではない。 相場を気にしたら、それは商売です。 どこかの宗派の本山が布施の額はこれだけ、とか決めたら、それは布施ではなくなってしまう。でもそんなことはしていないんです。 http://naagita.hatenablog.com/entry/2015/09/24/144233 >>809 のスマ氏の最後のまとめ・・・・・ >•護摩供養は迷信です wwwwwwwwwwwwwww 二空〜小乗仏教は我執(煩悩障)のみを断ち、法執(所知障)を断たない。即ち、小乗仏教に仏の智慧は発現しない。 ヒンドゥー(バラモン) 人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって 次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる 人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き 無限に続く輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める ttp://www.j-theravada.net/howa/howa245.html … 師匠は幸福を与える 無明に覆われている人々は 輪廻転生という限りない苦しみを回転しています 生きることは苦であると分かっても その脱出する仕方を知らないのです 輪廻転生の限りない苦しみから脱出する方法は お釈迦さまが発見し、皆に語った ttp://microsamgha.com/2017/05/30/%E3%82%B9%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%BF%EF%BC%95%EF%BC%96%EF%BC%98/ スッタニパータ 568 … 師は次の詩を以て、喜びの意を表した 568 火への供養くようは祭祀さいしのうちで最上のものである ttp://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-walk/cat29/post-99.html … 護摩の思想は、インドから中国を経て空海に及ぶ頃には この火の行事が高度に思想化され 火を真理とし、薪を煩悩とし、真理をもって煩悩を焼く >>811 >小乗仏教に仏の智慧は発現しない スッタニパータ 1026 無明が頭であると知れ 明知が 信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭(無明)を裂け落とさせるものである 空海「三十七菩提分法是れ法宝なり」 四神足 仏そのもの 智慧と慈悲をもって 縁起している世界を見る スッタニパータ 1119 つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って 仏そのもの 智慧と慈悲をもって 仮設としての 縁起している すべて一切の諸法を「空性である」と観よ スッタニパータ 21 わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが 激流を克服して、すでに渡りおわり、彼岸に到着している (縁起している世界を手放しているのなら) もはや筏の必要はない 神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ >>810 (^。^)「真言亡国」くらい言えって教えてやれよ。(笑) >>805 >仏教と道徳を混同しては本質は >遠ざかるばかりでござるにゃん♪ 仏教は道徳ではないとは、この私がいつも述べてきたことです。 しかしながら、多くの部分においても現代道徳とも殆ど矛盾しない。 だから、大乗僧の中にはホトケとは人格完成者のことである見なす者もいる。 >釈迦もまた六道の生き地獄に生ま >れ落ちた人間に過ぎない事を理解 >する事こそが真理に至る道ではな >いかと思う所存にゃん♪ 我々と同じ普通の人間でありながら、 解脱を果たしてブッダになったからこそ偉大であり、人々に尊敬される。 君はブッダは尊敬したいのか? それとも馬鹿にしたいのか? どっちなんだい!! >>807 確かに、 大乗はゴータマの教えとはかなり異なる派なので、 長老からみれば、社会的に迷惑かけない範囲であれば〜 という評価に留まるのは仕方ないかな...。 ご指摘の通りで、 殆どの問題は個人の僧侶が勝手にしてるという部分が大きい。 >>811 もしも、 長老や現在のテーラワーダのことをいっているのであれば、 それは言ってはいけないことです。 小乗なる伝統仏教集団は現存しません。 それは仏教界の差別用語なので使用は辞めるべきです。 >>808-810 護摩供養は確かに、 ゴータマ・ブッダの説いたものではありませんが、 しかし、謳い文句の神秘力の発現などまったく無いただの迷信だ、 というのであれば、それは長老が護摩について本当のことを知らないだけです。 バラモン祭祀の効力についてはゴータマは認められており、正しい祀りの実践については薦められています。 護摩供はその祭祀の中の最高度のものです。 『究極に達したヴェーダの達人が祭祀のときに或る(世俗の人の)献供を受けるならば、 その(世俗の)人の(祭祀の行為は)効果をもたらす、とわたくしは説く。』(Sn.458) 『マーガよ。三種の条件を具えた完全な祀りを実行するそのような人は、施与を受けるにふさわしい人々を喜ばせる。 施しの求めに応ずる人が、このように正しく祀りを行うならば、梵天界に生まれる、と、わたくしは説く。』(Sn.509) 『火への供養は祭祀のうちで最上のものである。サーヴィトリー[讃歌]はヴェーダの詩句のうちで最上のものである。 王は人間のうちでは最上の者である。大洋は、諸河川のうちで最上のものである。』(Sn.568) 密教僧個人においては神通を発揮できるレベルになくとも、 定められた一定の法に従て修法された護摩供には一定の神秘力が発動します(そのことを可能にするのが密教の素晴らしさです)。 ということは、護摩供養の儀式には現実に神々(ホトケとは云わないまでも...)を動かす作用があるということになる。 密教は、この加持祈祷(の方便)によって悩める衆生を神秘力で救済して、 その結果として祈願者自らの自発的な仏道への帰依へと導くのです。 これは顕教諸派にはできないこと。 https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1512891346/639-642 >>816 ご親切にどうも。 当然にWFB宣言は存じておりますし、しばらくは「小乗仏教」というのは避けてましたけどね。 この頃はあえて差別ではなく区別の趣旨で「小乗仏教」の語を用いてます。 余談ですが「上座仏教」という呼称はどんなもんですかねぇ? 大(乗)小(乗)が差別になるなら上下、まぁ、下とは言わず大乗と言ってはいますがw 僕は「分別説部」とか「ヴィバッジャワーダ仏教」とか称した方がいいと思いますが。 >>819 >「上座仏教」という呼称はどんなもんですかねぇ? ウィキペディア参照 上座部 テーラワーダ 南伝 パーリ仏教 小乗仏教と呼ばれることもあるが、そのように呼称するのは不適切とされる junkie- ooyama.師匠は (その当時の説一切有部のことだけではなくて) 今この現代のテーラワーダに対しても 批判的・否定的なんでつか? その理由は? ちなみに、おじゃるが 根本仏典も肯定の理由は 説明が、わかりやすいから 苦集滅道 ttps://www28.atwiki.jp/buddha/pages/17.html 漢訳 第一義空経 … 無明滅するが故に行滅し、行滅するが故に識滅す ttp://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BR/0095/BR00950L017.pdf ウダーナヴァルガのギルギット写本 … 迷妄を性質として壊滅するもの そのようなものを離れることは、思弁の領域を離れた寂静なる境地であり 苦しみを性質とするものの滅尽であり、形成作用の寂滅であり 縁起したものを離れ ブッダは そこに来ることも説かず、行くことも、留まることも 死ぬことも、生まれることも説かない それこそが苦しみの終わりである (苦しい。と掴もうとしている『想い』の終わりである) _ _ _ 実際に実践するのは難しいかもしれないけど 初心者向けに、わかりやすく説明すれば わかりやすい対機説法という感じがする >>817 458と509は要するに私のような修行完成者に布施(献供、施与)してこそ功徳が生まれるのだと在家信者に説き 568はまず外教のバラモン、セーラに 「そこで師は、セーラ・バラモンが師の体の膜の中におさめられた隠所を見得るような神通を示現した。 次に師は舌を出し、舌で両耳孔を上下になめまわし、両耳孔を上下になめまわし、前の額を一面に舌で撫でた。」 と三十二相を示してセーラを感嘆させた上で、セーラの仲間のバラモン300人を弟子にし、 さらに結髪の行者ケーニヤからの盛大なおもてなしを受けた後に口にした詩であるが、この詩は当時のバラモンやジャイナ教徒も唱えていた流行歌のようなまのだったという。 という尊大なあるいは舞い上がった場面で出た言葉という側面があるのを忘れてはならない。 これら3つに共通しているのはブッタ本人への布施のことが説かれていること。 つまり「祭祀は私のような修行完成者に布施、供物を捧げることで正しく遂行され功徳をもたらすのである」ということを暗にほめのかしている。 このバイセクシャルのホモ豚は、オレ様の悟り話を否定するが ただのあら探しで、悟りには関係ないものであった 仏教を語る割には気が短くて 狭量なのは興味深い所にゃん♪(笑) 古の僧兵もこの様な輩であったのかな? 南無南無 (-∧-)合掌・・・ >>821 > 今この現代のテーラワーダに対しても > 批判的・否定的なんでつか? > その理由は? 上座仏教徒と称する方の一部でしょうが、あまりにも大乗仏教に対する理解が乏しいと思われるので、呆れております。 ちなみに、結婚式は仏式、新婚旅行はスリランカの仏教遺跡等の見学が中心でした。 また、結婚記念にタイの仏教遺跡巡りもしてます。 で、大乗仏教は仏教じゃないとか、日本の仏教は堕落してる・葬式仏教とか、一部の上座仏教徒と称される方が吹聴しているようですが、どこの国も似たり寄ったりじゃないんですかね。 現地のガイドさん(スリランカ、タイ)は散々彼らをこき下ろしていましたし、お守り・お札・悪霊払い・葬式・更には人種差別等、日本よりもひどいところもありましたし。 かぶりますけど、今年は釈宗演老大師の100年遠忌ですね。 西洋(キリスト教)社会に仏教、(釈迦の原点に還った)近代仏教を紹介された偉大な方だと思います。 今日から慶応大学で特別展が開催されているようです。 http://www.art-c.keio.ac.jp/news-events/event-archive/shaku2018/ >>811 所知障って大乗仏教というよりも大乗仏教の中の唯識の教え 中観とか所知障の観念がない派閥はどうなるの? >>828 ご周知のとおり大乗仏教は二空を説くわけで、その意味において小乗仏教との区別がされているので問題はないと思います。 テーラワーダとかも我空法空なんじゃないかな? 長老が我空法有の説一切有部を常住の存在を認めるというのは仏教では絶対にやってはいけないこととして批判していたのを見た記憶があります でもテーラワーダでは今の瞬間のみ刹那滅として現れた法は認めるんだったかな 瞬間的には我空法有 ではその刹那の法はどこから出てきたのかという疑問はありますね 縁起によってその法が出現したとするのだったら空観と変わらないようにも思いますね 密教や葬式に対する批判は、法執そのものじゃないのかねぇ。 >>830 勉強不足で詳しい事は存じませんが、分別説部が「摂阿毘達磨義論」を基本書とされているのなら、 我空・法有じゃないのかなと思ってます(間違っていたらごめんなさい、その程度の知識なもので)。 >>831 法執 @全ての存在に、そのものの本質として固定した実体的なものがあると考えること。これは、人間の本質に固定的実体を見る「我執」と共に、否定されるべきものである。 A教えに拘泥し、執着すること。世間的なこだわり(世執)とともに、否定されるべきものである。 http://seesaawiki.jp/w/turatura/d/%cb%a1%bc%b9/ Aの意味で言われているのだったらそうかもしれないね @は説一切有部の考えだが、古くはヤージュニャヴァルキヤのアートマン論(この世界は決して捕らえることの出来ないアートマンによって一切が構成されている)もそうかも 違う教義なのもあり仏教側からは(少なくとも釈迦は)このアートマン論について否定も肯定もしてないが あと道元の正法眼蔵の「仏性」の巻 「仏性は妄想の結果現れるものではない。それが、普く世界に隠れないからである。 しかし、普く世界に隠れないということは、世界が一つの自我によって成り立っているということではない。 世界が一つの自我によって成り立っているというのは、バラモンの誤った考えである。」(現代語訳) ここで道元が説いてるのも@の意味での法執かも 無住処涅槃について、 > 菩薩は生死と涅槃が異なっていると観ない。 > 智慧によっているので生死に定住せず、慈悲によっているので涅槃に定住しない。 > もし、生死に対して分別すれば、もう生死に定住することになってしまうし、 > もし、涅槃を分別すればすなわち涅槃に定住することになってしまう。 > だが、菩薩は無分別智を得ており、分別することが無いので、定住する処がないのである。 (摂大乗論釈) 彼岸にも此岸にも留まりませんよ、ってね。 唯識論では、人間の死は「阿頼耶識が身体の認識から離れた時」とされているとかだそうで。 その「離れる時期」が何時かは私には分かりません(中有、四十九日?)けど、そう考えると「結生の識」として生命誕生までに行われる枕経とか葬式、追善供養って実は意味深長な気もする。 まぁもっとも、その枕経や葬式・追善供養をその阿頼耶識がどう認識しているか不可知故に知りようもないんだけどねw Junkie-Ooyama..師匠 ご教示ありがとうございます m(_ _)m ↓これですね? ttp://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/30228/jbk069-07.pdf 小乗では所知障を取り除くことはできず 大乗では所知障をも除去することが可能であり… 所知障の所知とは、獲得すべき理想的な認識対象である真実や真如である 所知障の所知を「一切法」とする見解もある 所知と言うは即ち 仮設としての 縁起している世界の中の すべて一切の法なり ttp://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%84%A1%E4%BD%8F%E5%87%A6%E6%B6%85%E6%A7%83 無住処涅槃(むじゅうしょねはん) 智慧によって煩悩障と所知障とを離れているから生死(迷いの世界)にも停滞せず しかも大悲をもって衆生を救済するために迷いの世界の中で活動するから涅槃の境地にもとどまらない ttp://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html さらに無の世界も超えて 移り行く世界の様を 無住処の大智・大悲をもって ありのまま見つめている 一切の如来の御足を礼拝し奉る オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m >人間の死は「阿頼耶識が身体の認識から離れた時」 ↓これですね? ttp://www.kisc.meiji.ac.jp/~hirukawa/anthropology/theme/otherworld/samsara.htm シパ・バルドゥ 再生へ向かう迷いの中有 ttp://reigaku.jugem.jp/?eid=424 瑜伽師地論(ゆがしじろん) (『想い』を手放しすることが出来ないのなら) 人が死ぬときに 仮設としての 我愛・戯論・善悪業により 中有を形成する この中有が母胎の中に宿る 輪廻を繰り返す 836.一切の如来の御足を礼拝し奉る、バカである。 説一切有部の五位七十五法は唯識で発展して五位百法になるよ https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/86/0fba4fcc2f41b09842820463c6bf115e.png これが唯識の教理による一切だけどもちろん無為法も一切に入る(法数が倍の6つになっている) また末那識とか阿頼耶識は8つの心王(心法)のところに分類されるがこれは有部にはなかった法となるね 有部ではこれら一切法は三世に渡って実在するとしたが 唯識では一切法は阿頼耶識によって映し出された幻影であり空性であり最終的には阿頼耶識も空性であるとする ということは中観の「空も亦た空」と同じで唯識も何一つ実在はないということになる 阿頼耶識をブラフマンにして実在にすると唯識の思想はシャンカラの不二一元論に近くなるらしい 仏教はいかなる部派、宗派でも根元というものを立てないのでゼロ元論となる またテーラワーダ仏教では徹底した無我説に立ち無為法も涅槃しか認めず涅槃も無我であるとする ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E4%BA%8C%E4%B8%80%E5%85%83%E8%AB%96 不二一元論(ふにいちげんろん) 人の個我は、その本体においてブラフマンと同一であるが (「仮設としての」という意味で) 人が経験する現実では多数の個我があるように見える これは無明によって人は迷い 『自分という中心主体がある!』と 掴もうとしている『想い』が現れ(そして滅し)ている _ _ _ >阿頼耶識をブラフマンにして実在にすると唯識の思想はシャンカラの不二一元論に近くなる 無為法の世界から → 有為法している世界を見る 涅槃の境地にもとどまらないで 無住処の大智・大悲をもって 法界体性智 大円鏡智の世界から → 阿頼耶識を見る 仏が大悲・大智によって → 衆生に応じる 衆生が ← 仏の大悲・大智を受け入れる 慈悲の冥想 生きとし生けるものに悟りの光が現れますように こんな感じでつね? 昔むかし阿頼耶識を自由に操る 事が出来たらこの世で望む事は 全て叶うと書かれた本を読んだ 事が有るけど皆の衆はどう思う にゃん? 南無南無 (-∧-)合掌・・・ >>840 学派にもよるのだろうけど、一般的なヴェーダーンタ学派では個我というのは「厳密には」ブラフマンとは同一ではないので、 修行で個我を高めていってブラフマンと全く同一のアートマンに昇華?してブラフマンとアートマンを合一させると不死となる、と説いているのだと思いました。 >人の個我は、その本体においてブラフマンと同一であるが その本体において、という記述が「厳密には」と同じニュアンスで使われてるのかもしれませんが >>841 宿業とかの清算も出来るし 宿業、今世の業、行動の癖に振り回されなくなるし、 六根で感じたものをそのままフィルターをかけることなく受け取ることができる(諸法の実相を如実に知見できる)ようになるのでバーヒヤのように苦しみを終わらせることが出来る ようにはなると思う >>843 その本によると繰返し繰返しイメ ージを脳に焼き付けてやれば阿頼 耶識をコントロール出来るような 事が書かれていたけど残されてい るお経に記されているのかしら? 南無南無 (-∧-)合掌・・・ >修行で個我を高めていってブラフマンと全く同一のアートマンに昇華?して たとえば 第一禅定から第二禅定へ というような (部分的に、ヒンドゥー(バラモン)とかから) 根本仏典の系統に受け継がれている という感じでつね? 第一禅定〜第四禅定 空無辺処〜非想非非想処 非想非非想も超えて 因縁生滅智 因縁を手放して(そして滅して)いく智慧 青目(ピンガラ)の中論 觀法品 第十八 八正道を修習しながら 我と我所との因縁(生処)を滅すれば 無我や無我所という決定した智慧を得るだろう 諸の禅定の中で滅尽定が第一 最終的には 無我所・無我で涅槃そのもの? >阿頼耶識をコントロール出来る 実践したことがないので 本当なのか?わからないけど、とりあえず ttp://jairo.nii.ac.jp/0180/00000655 チベットに伝わる心の訓練法 ゲシェ・チェカワ『七事の心の訓練法』 道の本体は阿頼耶の自性に置く (大円鏡智の世界から → 阿頼耶識を見る) 仮設としての 縁起している すべて一切の諸法は夢・幻の如し たとえば 幻術師が作り出している、夢・幻のようなもの 息を吐く時に自分の幸せを白い光の形で衆生に与え 息を吸う時には衆生の苦しみを黒い煙の形で受け取る _ _ _ フォーカシング(焦点合わせ、Focusing) 心理療法 まだ言葉にならない意味のある感覚(フェルト・センス)に注意を向け、その感覚と共に過ごす 胸の奥や腹の底など身体の中心部分にぼんやりと注意を向けながら 何かの気がかりにまつわる感じ(フェルト・センス)が感じられるのを、受容的な態度で待つ 「業の行為者は存在しない。行為だけがある。結果を受ける者も存在しない。結果だけがある。 構成要素のみが生起し続ける。これが真理であり、正見である」 (清浄道論 Visuddhi Magga) 初阿頼耶識 異熟一切種 初めのは阿頼耶識なり 異熟なり一切種なり 不可知執受 處了常與觸 不可知の執受と 処と了となり常に触と 作意受想思 相應唯捨受 作意と受と想と思と 相応す唯し捨受のみなり 是無覆無記 觸等亦如是 是れ無覆無記なり 触等も亦是の如し 恒轉如暴流 阿羅漢位捨 恒に転ずること暴流の如し 阿羅漢の位に捨す (唯識三十頌) 「現行薫種子、種子生現行、三法展転、因果同時」って事でしょうかねぇ。 「コントロールするものがコントロールされるもの」ってところでしょうか。 ttps://www.yuishiki.org/tag/%E5%94%AF%E8%AD%98/ <修習位>の代表的な修行は、<十波羅蜜〔じっぱらみつ〕> <修習位>の修行は、真理によって高められ深められていく 己を超えたものによって、己が清められていく 宗教的な言い方をすれば、如来に導かれての修行 人間そのもの、生命そのものは煩悩でも善でもない。人間が生きていること自体に善悪はない 阿頼耶識は、さとりに達するための修行の障害(覆)がないという意味で、「無覆無記(むぶくむき)」 <現行>は、煩悩が実際に働いている状態 <種子>は、煩悩の潜勢態 <習気>は、種子の持つ雰囲気、残り香 _ _ _ >「コントロールするものがコントロールされるもの」ってところでしょうか。 ttps://www.yuishiki.org/category/%E5%94%AF%E8%AD%98/%E5%BF%83%E7%8E%8B/%E9%98%BF%E9%A0%BC%E8%80%B6%E8%AD%98/ 第九意識と究竟位 究竟位はどこにおいて意識されるのか? 阿頼耶識よりも深い世界を認識することは可能なのか すなわち 第九意識とは完全なる涅槃すなわち、完全なる無の世界である その世界を認識することで、究竟位に到達する _ _ _ 完全なる涅槃 第九意識の世界から見る? ところで、渇愛をなくすことができると、どのような状態になるでしょうか。 最終的には苦もなくなって安らぎを得ますが、その安らぎは存在の中にあるものでも、存在の一部でもありません。 これは気をつけて覚えておいてください。 渇愛と無明がなくなると、もう二度と苦しみが生まれません。 「その境地はどこにあるのか」と聞かれても、存在の中には成り立ちません。 存在は苦ですから、存在の中にあるものや存在の一部はぜんぶ苦です。 ですから、そこにその境地はないのです。 そう考えると、涅槃と永遠の天国が同じ境地だというのは、とんでもない話なのです。 人間(生命) の知ることのできる範囲を超えた境地なので、それについては語れません。 「涅槃はすごいところだ」「涅槃に達することはすごい安らぎにいるのだ」とは言えるのですが、涅槃とはどういうものなのかということには「表現、単語、知識、概念はないのだ」というしかないのです。 (アルボムッレ・スマナサーラ著 「苦しみをなくすこと」) >>849 虫歯の痛みも治るにゃん? 南無南無 (-∧-)合掌・・・ 高田じゅんじ!じゅん散歩で不動教神社へは行くな!!今の私がさまざまから得てる情報では そのままいくと死んだとき霊界でまんなかより少なくともかなり下に落ちたところしか行けなくなってしまう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる