外道の独り言 9
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「ここは誰もが好き勝手に書き込んで良い」というスレではありません
このスレの趣旨は、仏教に関する様々な論点に関して
パーピマン殿が私見、疑問点等を提示いたします
「外道がぶつぶつと独り言を書き散らしているスレ」です
極めて恣意性の強いスレであることを了解願います
上げておりますのは、別段大勢の人たちに来てほしいからではなく
(むしろその逆で過疎って欲しいくらいです)
「真摯なる碩学」が
パーピマン殿の書き込みを目に留め、その瑕疵を指摘してくれることを望むが故です
自由に好きな相手と対論したいと思う人は、このスレを覗かずに他スレに移動してください
昨今、スレ立てが大変困難であり、好き勝手にスレを消費されことは大変迷惑なのです
自由に書き込みしたい方は↓こちらへ
ひだ =^・ ・^= まり
ttp://super2ch.net/test/read.cgi/mattari/1505400181/?s2
ttps://rosie.5ch.net/test/read.cgi/siberia/1500265524
前スレ
ttps://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1512891346/
ログ保管庫
ttp://houjugusya.web.fc2.com/link.html
前スレは
ttps://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1512891346/764
でdat落ちした? おじゃる?
前スレの764
>「法」と言えば、「涅槃」も
根本仏典
上座部
苦集滅道という文脈においては
仮設としての
縁起している世界を手放して超えて
悟りに至るための菩提分法という法である。という感じがする
たとえば
スッタニパータ 21
…
激流を克服して
(縁起している世界を手放して超えて)
すでに渡りおわり、彼岸に到着している
もはや筏の必要はない
この彼岸(涅槃)の世界においては
仮設としての
縁起している世界を手放して超えて
悟りに至るための菩提分法という法も
すべて一切の諸法という法も
手放して超えている
この文脈においては
彼岸(涅槃)の世界は
法である・法ではない。と掴もうとしている『想い』ではない
とりあえずの?キーワード
六師外道
ヒンドゥー(バラモン)
釈迦
根本仏典
中観派
瑜伽行派
密教
前スレの764の
ID:yIp2CHvG師匠は中観帰謬派の系統なのかしらん?
ちなみに
おじゃるは
中観自立派のような系統なので
「我所もある我もある」と妄想しちょりまつ
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E6%A5%BD%E6%88%91%E6%B5%84
常楽我浄
我
仏や涅槃の境涯は、人間本位の自我を手放して離れ、如来我(仏性)がある
おじゃるは
幽霊肯定派なので
とりあえず
ttp://www.gibe-on.info/entry/spirit-spot/
心霊スポット
ttps://vimore.org/watch/A9R4X8Rb31Q/
不動産物件紹介ページの心霊写真
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%A7%E6%95%B7%E7%AB%A5%E5%AD%90
座敷童子(ざしきわらし) アーチャン・チャー「無常の教え−手放す生き方2 苦しみの終焉」(3)
●世間の人々は幸せになることを望む。彼らは苦しみを望まない。だが「ニッバーナ(nibbana涅槃)」とは、望むこと・望まないことを「超えたもの」だ。
●ブッダは「空を理解する者を、死王は追うことができない」と言った。空を理解したとき、死は私たちに影響を及ぼすことはできない。なぜなら、そのとき「私たち」というものは存在しないから。
●ブッダは私たちに「我見」(自己という実体があると信じること)を取り除くことを説いた。
もし、我というものが施説(暫定的な概念)にすぎず、本当は無我なのだということを理解したのなら、私たちの問題は終わる。
http://samten.seesaa.net/article/446643678.html >>1
おじゃるさん、スレ立て乙!!!
私の述べてることは、
あなた方には簡単には理解されないということは最初から分かっています。
もしも、そのことが本当に判れば、とっくに“仏教徒ズラ”(自称仏教徒?)なんかしなくなるからね。
今はまた時間が無いので、またおいおい少しずつ投稿していきます。が、
とりあえず、これを指摘しておきます。 https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1512891346/764
>>前スレ764
>最初から自我はなかったのです。
>自我があるとは人間の錯覚·幻覚です。
>覚りに達する人には、自我の錯覚が消えます。
>覚った人に、今までなかったアートマン (自我)が突然現れるはずはないのです。
>涅槃も無我です。
8.3 第三の涅槃に関することの経
【比丘たちよ、『生じたもの』でなく『成ったもの』でなく『作り為されたもの』でなく『形成されたもの(有為)』でないもの(涅槃)は存在する。
比丘たちよ、もし、その、『生じたもの』でなく『成ったもの』でなく『作り為されたもの』でなく『形成されたもの』でないもの(涅槃)が有るこ
となくあったなら、ここに、『生じたもの』『成ったもの』『作り為されたもの』『形成されたもの』からの出離は覚知されないであろう。比丘たちよ、
しかしながら、まさに、『生じたもの』でなく『成ったもの』でなく『作り為されたもの』でなく『形成されたもの』でないもの(涅槃)が存在する
ことから、それゆえに、『生じたもの』『成ったもの』『作り為されたもの』『形成されたもの』からの出離が覚知される」と。】
http://aranavihaara.web.fc2.com/arana-khuddaka-3.html
はい、
では『〜からの出離が覚知される』というのは、
つまり、誰が覚知してるのか?
涅槃を涅槃であるとして覚知するのは誰か?
涅槃を認識している主体は誰だ?
もしも、本当に無我(自我意識の主体がないこと)ならば、
涅槃を出離したことを認識できない筈ですが。。。
長老さんよ、
この決定的な経文と矛盾することを仏法として語るでないと、
この私はいいたいね。
そもそも最初から、
ゴータマは無我(我は無い)などとは説いてないのだから。
「我は無い」として述べている経文といものは何処にも見つめることはできないのだから。
無我を我は無いという教えにしたいというのは、
あなた方の感情論(バラモン・ヒンドゥーとは異なる仏教の決定的な一大特徴にしたいという想い)に過ぎない。
所詮、それは部派が勝手に言い出したことに過ぎないから。
もしも、ゴータマが今ここにおられたら、
唖然として、「私はそんなことはいってない」というでしょうね! >>5
このアーチャンチャー というのはタイのテーラワーダ 比丘で現在の阿羅漢とも言われている
ただしテーラワーダは阿羅漢であることを自称するのは在家の崇拝の対象となり利益誘導に繋がるために禁止されている
>私の述べてることは
おじゃるの書き込みも「理解されない」という感じがする
宗教(religion)
人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする
神智学
神あるいは超越者が叡智的性格をもち
宇宙や自然もこのような叡智からつくられ
人間の智も神の智に通ずる性格をもっており…
クンダリニー
宇宙に満ちている根源的エネルギーを中心として
人体内に存在する根源的生命エネルギーが現れる
仮設としての
人間本位の自我を手放して離れ
仏や涅槃の境涯は − 如来我(仏性)
仏性からの真如縁起をもって
種子と現行の頼耶縁起を観照する
解脱智見
(縁起している世界からの)解脱を知覚して
涅槃に住む
どこの誰が? − 如来我(仏性)が涅槃に住む >>10
おじゃるさんのことは、
とても真面目で熱心な方だといつも感心していますよ。
確かに、
おじゃるさんは知識もあるし、情報も得られる。
けれども、>>10のような、突然的なただの羅列的なものは何の繋がりも無く、
ただの知識の露呈にしか見えないのでは?
あとは、
あくまでも投稿においては基本的に、
“相手との対話形式”にすることを肝に銘じて心掛ければ問題ないと思う。
おじゃさんにはそれがいつも不足してると私は思う。
それといつもそうなんだけれど、
それが“自分自身の言葉”なのか、それとも引用した転載文なのかの違いはもっと明確にして欲しい。
必ず何か分かるような【】『』で以て区切って締めるというようなことはどうかお願いしたい。
ソースのアドレスリンクを付けるだけではダメだと思う。
〜ただそれだけ
自分自身の言葉はほとんどないでつ
今は
大乗1.0の世界観をもって
般若の智慧と慈悲をもって
上座部 2.0の実践をする
3.0のpodcast法話を前提としているので
それゆえに
おじゃるの書き込みも「理解されない」という感じ
ちなみに
中観自立派の説明も
自分自身の言葉はほとんどなくて
チベット ゲルク派の
中観自立派を前提としているので
「理解されない」という感じ
>涅槃を認識している主体は誰だ?
解脱智見
如来我(仏性)が
(縁起している世界からの)解脱を知覚して
涅槃に住む
という相手との対話形式になってる おじゃる >>13
最近、使っているその1.0-2.0-3.0...というのは何?
簡単に説明もらえる??
仏教1.0
中国経由の日本の大乗(禅宗とか)
仏教 2.0
1990年代後半から日本に入って来たテーラワーダ(上座部、南方仏教)
仏教3.0
両者の資産を活かしつつも両者の問題点を克服した仏教のあり方
ttp://www.shunjusha.co.jp/detail/isbn/978-4-393-13592-1/
〈仏教3.0〉を哲学する
藤田一照 / 永井均 / 山下良道
日本の伝統的な〈仏教1.0〉
上座系瞑想実践的な〈仏教2.0〉
共に包み超えて、新たな〈仏教3.0〉を提唱
藤田一照 − 曹洞宗の僧侶
山下良道 − 元曹洞宗の僧侶・元テーラワーダ僧侶
永井均 − 日本大学文理学部 哲学科教授
大乗の
般若の智慧と慈悲をもって
上座部 2.0の実践をする
3.0
という感じ
ttp://www.onedhamma.com/?p=5136
15/05/24 藤田一照:魚川祐司:山下良道
podcast法話
如来我(仏性)から → 縁起している世界を見れるのか?という対話
2016〜2017に鎌倉の
一法庵に逝ってたときには
ヨーガの専門の先生が
瞑想状態を維持するために身体を整えるヨーガを実践を教えていた
そして
それから
3.0として
山下良道僧侶が
上座系瞑想実践へと進めていく
たぶん今でも
ヨーガの専門の先生が
瞑想状態を維持するために身体を整えるヨーガを実践を教えていると思う
身体を整えるヨーガを実践をして
思考している空間とは → 別の空間に入る
そして、この別の空間から観察して
縁起している世界を
身体を
地水火風の微細な粒子に分解する
ちなみに
おじゃるは
約一年位は鎌倉に行ってたけど
この四界分別という観察は出来なかったけど…
(「意識の集中が出来なかった」という意味でつ)
身体を整えるヨーガの実践をして
思考している空間とは → 別の空間に入る
この別の空間から観察して
縁起している世界を
身体を
地水火風の微細な粒子に分解する
そして
それから
第一禅定
五禅支の一番目
どこかへ飛んでいってしまう心の働きを
呼吸の観察に戻す
思考している空間から → 別の空間に戻す
3.0の場合は
(仏の世界からの現れなので、それゆえに)
仏の世界に戻り帰る
という説明になるのでつ
ttp://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/07/18/061429
上座部 パオ・セヤドー
…
通常は、四界分別観から始めなければなりません ≪三つの解脱≫
仏教とは、解脱という最終目的を目指して実践する教えです。
お釈迦様は「解脱(涅槃)という境地について、概念を用いて語ることはできません」と、おっしゃっています。
何でも論理的かつ明確に説かれるお釈迦様が、解脱とはどういうものかについて説明しなかったのは、解脱という境地は神秘的なものであると言うためではありません。
解脱という境地は生命の理解能力範囲を超えています。概念の範囲を超えています。
ですから、解脱の状況を説明する言語は存在しないのです。
お釈迦様が説かれた解脱の説明は、間接的です。
例えば、“ 一切の苦しみを乗り越えた境地”、“生死を乗り越えた境地”、“超越した境地”、“不死なる境地”などと説明されています。
また、否定形の形容詞で語られた言葉もたくさんあります。
“ 不貪不瞋不痴の境地”、“ 輪廻転生しない境地”、“ 再び生まれない境地”、“不生不死の境地”などです。
否定形の形容詞は、解脱について、分かったような分からないような気にさせます。
なぜならば、そこで否定されている無常・苦・生・死・貪瞋痴・煩悩無などは一般常識で理解できるからです。
それらの否定なので、分かったような分からないような気がするのです。
解脱を説明した具体的な例を挙げると、「涅槃に入られた聖者はどうなるのか?」という質問に、炎の喩えでお答えになっています(火ヴァッチャ経)。
「油と芯があって、炎が燃え続けます。もし油か芯がなくなったら、炎は消えます」と。
そのとき、「その炎はどこへ行ったのでしょうか?」と質問されても、それは答えられません。
言えるのは、「原因がなくなったから結果もなくなった」ということです。
煩悩があるから、五蘊で生命が構成されて変化し続けるのです。煩悩を完全に断ったところで、五蘊の構成が終了します。
生命体として輪廻転生することが終了するのです。 このような説明を聞くと、涅槃とは虚無の境地ではないかと勘違いします。
かつて仏教を研究した西洋の学者たちから、「ブッダは生きる苦しみに対して虚無の境地を推薦しているのだ」と言われたこともありました。
これはそれほど突飛な意見というわけではありません。
お釈迦様の時代にも、「ブッダは虚無を説く人である」との批判を受けたことがありました。
お釈迦様はその批判に、「私は一切の煩悩の断滅を推薦するから、虚無主義者だと言われても構わない」とユーモア的に答えられています。
それでも最終解脱について「言葉で語れない」ということは、知識でものごとを理解しようとする人々にとっては曖昧な表現に映るのです。
ブッダは曖昧な表現を徹底的に避けます。次のように、弟子たちに「比丘たちよ、涅槃という境地がある」と明確に説かれるところもあります。
比丘たちよ、生まれることがない(不生)、存るとはいえない(不存)、造られない(不造)、作為されない(不作為)、という[境地 ī が ある。
比丘たちよ、もしも、その生まれることがない(不生)、存るとはいえない(不存)、造られない(不造)、作為されない(不作為)、
という[境地]がなければ、生まれるもの、存るもの、造られたもの、作為されたものに救済はなくなるのです。
しかし比丘たちよ、生まれることがない(不生)、…… という[境地]があるゆえに、生まれるもの、……に救済があるのです。
(ウダーナ八章三経) 大変難しいフレーズですが、意訳してみれば簡単に理解できます。
「涅槃という境地があります。涅槃という境地がなかったならば、輪廻転生して苦しんでいる生命に何の望みもありません。
しかし涅槃という境地があるからこそ、苦を転生している生命に、救済の望みがあるのです」という意味です。
というわけで、人間が目指すべき唯一の目的は解脱になります。
解脱はゴールなので、当然一つです。種類の違う複数の解脱がある、という考えは論理的に成り立ちません。
では、それなのになぜここで、空解脱、無相解脱、無願解脱という三種類になっているのか、それを理解する必要があります。
これは決して、三種類の解脱がある、という意味ではないのです。実践する修行者の観察の仕方によって、また、「どのように真理を発見するのか?」ということによって、三種類に分けているだけです。
喩えで言えば、東京にいる人が大阪へ行く場合に、交通手段として飛行機を使うか、新幹線を使うか、夜行バスに乗るか、という差のようなものです。
旅の経験はそれぞれ違いますが、着くところは皆、同じです。
アルボムッレ・スマナサーラ; 藤本晃. ブッダの実践心理学 アビダンマ講義シリーズ 第七巻・第八巻[合冊版] ブッダ ラボ - Buddha Laboratory
無我って怖すぎ?【無常・無我】前編
より抜粋
すべての生命には、自分がいるという実感があるんですよ。それで生きているんだから、無我と言われると不安になります。
結構不安がる可能性があります。
どれほど不安になるかというと、お釈迦様は初めから「無我で、因縁性です」と言われたのに、涅槃に入られて100年も経つと、仏教の中からあらゆる工夫をして「何か実態があるんだ」という必死で言いたがる声が出てきたんですね。
「我」と言う言葉を使わないようにだけ気を付けて。それを使っちゃうとやられますから。その代りに他の概念を作るんです。法身とか仏性とか。何か変わらないものを作ったりするんです。
結局は永遠不滅の我があるんだというところに戻ってしまったんです。ブッダの話は消えてしまった。元の原始人の話に戻りました。
これくらい人間が、我と言う幻覚に頼っているんです。
http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2015/04/05/050000 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています