こうまとめてもよいでしょう。
行..因縁によって起こる現象
法..涅槃も含むすべて
「法」と言えば、「涅槃」も「ウサギの角」も「亀の毛も「空華(虚空に浮かぶ実在しない花。凡夫が、実体の無い存在を実体が有るかのように誤ることのたとえ) 」も全部入っています。
それらはすべてが無我です。
ですから、涅槃もまた無我なのです。
「涅槃もまた無我」と言うと、誤解するでしょう。
仏教では究極の幸福の境地として涅槃を説かれています。
無我を発見していない一般の方々は、涅槃の境地に達したら永遠の幸福の命を獲得したようなものだと推測します。
しかし、涅槃という境地は、認識概念では説明不可能です。
すべての概念は現象の世界を指しています。
現象を乗り越えた世界に対して、言葉も概念もありません。
強いて言えば、生き続けることは苦であり、それを乗り越えられたならば、幸福である、という程度の話です。
最初から自我はなかったのです。
自我があるとは人間の錯覚·幻覚です。
覚りに達する人には、自我の錯覚が消えます。
幻覚が無くなるのです。それだけです。
覚った人に、今までなかったアートマン (自我)が突然現れるはずはないのです。
涅槃も無我です。
ですから、諸行無常で諸法無我なのです。

(無我の見方 (「私」から自由になる生き方) アルボムッレ・スマナサーラ)