■■■臨死体験■■■
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マナ識は「夢」や「坐禅の魔境」でも働いている
神と出会い、霊魂体験が終われば、後は霊界との関係になる。
その時に働くのがマナ識であり、神と霊魂以外に、
天使や死者の霊などの、霊的現象全般を対象にする識である。
霊魂体験をした後、なぜか非想非非想処に入るのが困難になった。
そのため坐禅をやめようかと何度も思ったが、それでも続けたのは、
まだ何かあるかもしれないという感触があったからだ。
そしてそれが的中し、坐禅中に高級天使に出会うことができた。
さすがにもうないだろうと思い、しばらくして坐禅をやめた。
その後は仕事探しを始め、あっという間に生活が楽になった。^^ 神秘の意識でも 意識の神秘は解けない - -; G名言 意識の要約
日常意識(物質世界を対象)→→感覚器官→→自然界
意識喪失←←感覚喪失←←全身麻酔
*** 全身麻酔は坐禅の想受滅に近い?
マナ識 ( 精神世界を対象)→→アラヤ識(過去世・カルマ・本能)
*** マナ識はアラヤ識に執着→→ここから転倒妄想が生じる
【欲望否定】→→アラヤ識消滅→→マナ識で神・霊魂に出会う
*** 転倒妄想の消滅、正見の成立
人間は基本、転倒妄想する動物なんですね。 >>277
女は現実的だから、男の方が転倒妄想がひどいかもしれない。
これがひどくなると、肝心なことに限って逆にやってしまうから恐ろしい。
思い当たる人は、欲深くなってないか反省するといい。
これは欲深すぎるという神からの警告です。 神 ← 虚無 → 物質 ・・・ ビッグバン
神 → 霊魂 → 物質 ・・・ 霊魂誕生
この関係が、わたしが想定する原初の存在様式である。
従って、霊魂(プルシャ) イコール 物質法則(ブラフマン) という
ヒンドゥー教の梵我一如の立場には同意できない。
そこに神が考慮されていないからである。
すでに述べて来たように、霊魂には他者を認識できる意識がある。
しかし問題は、いかにして霊魂が誕生したかにある。
霊魂を産んだ存在は神以外にいないのだが、神は形のない命であり、
限定されない存在のはずである。それなのに霊魂という形を持った。
どうして形を持つことができたのか。
神がそれを希望したから ・・・ それが神の意志だから
としか言いようがない。 神と物質の次元は異なっている。次元が異なっているからこそ、
形のない命と、形のある命が同時に存在できる。
命が形を持ったのは、物質宇宙に誕生するためである。
命が丸い球、透明な霊魂になったとき、
そこに自分以外のものを他者として認識できる意識が誕生する。
この霊魂(アートマン)は、神が自らを限定することで誕生する。
自己と他者の関係ができれば、意識が成立する。
神は自らを限定できたから意識が誕生し、
神が人間を意識するから、人間も神を意識することができる。 神と霊魂とは次元が違うから同一視はできない。
しかし、神から霊魂が誕生したなら、霊魂は神由来ということになる。
肉的で物質的なものに覆われた人間の意識は、
まだまだ粗くて愚鈍だが、神の意識が反映したものだとも言える。
神はいったい何をやっているのだ?
人間や生き物を苦しめるためなのだろうか。
それとも、この地上を神的な楽園にしたいのだろうか。
後者だと思いたいものである。 神はどこにいるのか?
神と物質宇宙との次元が異なるならば、
人間が神にいくら祈っても、その祈りは虚しいのかもしれない。
神がいると言っても、いないのと同じなのかもしれない。
神にすれば、物質宇宙に自分がいなくても済むように、
地上の管理人として人間を送り込んだつもりなのかもしれない。
しかし、人間にその自覚がなく、人間同士で争い、
他の生き物を巻き込んで、この地上を地獄と化している。
管理人どころか、地上の破壊者が人間だ! そんな時のために神が用意したもの
それが天使だ!
天使は神の傑作、霊界生き通しの霊的な存在である。
神の直接関与は次元が異なって無理だから、人間は間接的に、
天使に対して祈願するようになっている可能性もある。
ということは、気付きによって、神に出会うだけでは足りない。
坐禅による霊魂体験で、自分に出会ったとしても足りない。
さらに坐禅を続け、天使に出会う必要がある。
ーー そうしないと天使の存在を確信できないからだ。 ーー まず天使の試練に勝つ
ーー 天使が仕えてくれないと話にならない kamiと宗教 宗教と宗教団体は 其々別ものである - -;
爺ごときが言わねばならんほど巷は短絡思考で満ちてんょ (^こ^); やぁ、今日はこっちで遊ぼうかな
身体が滅して心だけになった状態を仮に死後の世界としてみる。
さて、君たちに僕の身体が認識できるか? 僕に君たちの身体が認識できるか?
心臓が動いているのか、脳波が停止しているのか、
そんな事はここではどうでもいいね、つまり身体が無くて心だけ、考えだけ、意識だけ、そんな処だね、ここは。
つまり死後の世界があるとしたら、ここはそのシミュレータと言ってもいいのかな?
丹波哲郎氏は、こうおっしゃています。
死後の世界では、悪は悪、善は善、ひがみやねったみ、明るさや思いやり そういった性質はその人の本性のままにエスカレートするそうです。
死後はしばらく精霊界に留まり、そこで本性をむき出しにされるそうです。
そしてその性質に従って死後の行き場所が決まるそうです。 そこが天国とか地獄とか呼ばれる場所なんでしょうね。
みなさん、どうですか、 ここだけと思っていい加減な言動を繰り返してると心に焼き付いて、それがあなた自身になりまっせ
信じるか信じないかは貴方次第 天使が仕えてくれるとしたら、どんな場合に仕えてくれるのか。
天使の使命が物質から神界を守ることにある以上、
物質的な願いは当然拒否されるだろう。
では物質的な願い以外にどんな願いがあるというのか。
生きているといろいろな問題に出会う。
そんな中で追い詰められ、八方塞がりになることもある。
強く自己主張しないタイプだとなおさらだが、どうしようかと悩み
苦しんでいると、偶然に問題が解決してしまうことがある。
それも暗から明への大逆転である。
これが天使の介入を感じる時の基本パターンだが、
死の淵に追い詰められることに、天使が反応しているような気もする。
天使に祈るとか、天使に願うとかは、効果がないのかもしれない。
精神的にどれだけ自分を追い込めるかが肝心なのかと。 神に祈る???
神は異次元に存在するから、物質宇宙とは基本的に関係ない。
その神にいったい何を祈るのか。
自分の物質的欲望を祈っても、神は何もしないし、何もできない。
そうであれば、神に祈っても何の役にも立たないではないか。
ーー 神を知ることは決定的に大切なんだが・・・
天使に祈るのもスジが違う。
天使は神に仕えているのであって、人間には仕えていない。
人間が試練に勝てば、人間に仕えることもあるが、
だからといって人間の物質的欲望に仕えるわけではない。
天使は仕えたいときに仕えるのだから、天使に祈っても意味がない。
ーー 天使の立ち位置は微妙である。
ーー 中道(霊主体従)なら、物質的欲望でも認める感じがある。 <自分自身の不幸なら深刻に悩む>
特に祈らなくても、これが天使出動の前提条件である。
天使の任務は、その人を傷つけることなく生の側へと導くことにある。
天使はそれを中道、霊主体従によって、ほどよく実現する。
必要以上の物質的繁栄を与えるものではない。
** 霊主体従 〜 霊的なものが主、物質的なものが従ということ
<他人の不幸には力を発揮できない>
祈ると言っても、他人のために祈ることは難しい。口先だけである。
自分の天使が動くには、他人の不幸を自分のものとして感じ取り
深刻に悩む必要がある。しかしこれが簡単ではない。
可能性としては考えられるが、他人の不幸には基本、無力である。 霊力によって他人の運命には干渉できない、という意味で、
この方が摂理なのかもしれない。 神が存在し、かつ、この地上を直接支配しているなら、
なぜWW1、WW2を見過ごし、米国の原爆投下を見過ごしたのか。
このことだけで、神は存在するにしても、
この地上を直接支配していないと断言できると思う。
しかし、人間を野放しにしているわけでもない。
天使と良心、そして遺伝子が常に見張っている。
ただし個人的レベルでしかない。
それらの中枢に個人的レベルの中道(霊主体従)があるが、
それから先は人間の「自由意志」に委ねている。 神は人間の「自由意志」を認めている。
人間が少人数で暮らしているなら、これで特に問題は生じない。
神の摂理が働いて平和な生活を営める。
だが、キリスト教やイスラム教やヒンドゥー教などの宗教洗脳の下で
集団規模が大きくなれば、人類の破滅も予想されるようになる。
この原因はいったいどこにあるのか。
今の宗教がことごとく誤りで、神を冒涜するものだからではないか。
今の世界状況は神のタタリではないのか。 弱肉強食の闘争原理も大いなるシステムの主要摂理のひとつなんょ - -; >>295
基本その通りですが、天使がそれをひっくり返します。
でもそれは、ごく稀な、個人的な出来事です。
かりに自力救済型の人間が多数いて、利害を共通にできれば、
大規模なひっくり返しも可能かもしれません。^^ 中道の意味すること
ビッグバンによって、命そのものと物質宇宙ができ、
命そのものから霊魂ができ、霊魂と物質が合体して生物が誕生する。
この経緯が事実であれば、生物は霊魂と物質から成るが、
どちらにも偏しない生き方を良しとし、これを仮に「中道」と名づける。
ところで、精神の究極に霊魂が存在するが、霊魂を見た人がほとんど
いないので、霊魂の代わりに「霊的なもの」を用いたい。
この方が、霊魂や精神的なものよりも、イメージしやすい感じがある。
すなわち中道とは、霊的なものと、物質的なものとの中間になる。 なぜ「中道」を生きるべきなのか。
命そのものを神という。その神が霊魂を造り、
その霊魂が物質と合体して、人間(生き物)になる。
そうであれば、霊的なものと、物質的なものとの合体は、
神の意志ということになる。
ゆえに人間(生き物)は中道を生きるべきである。
*中道から一歩を進めて「霊主体従」という理由
神は、地上を生き物の楽園にしたいから、地上を目指す。
さらに、生き物の成長や進化から、単なる中道ではなく、
生き物の霊的な成長を意図していることもわかる。
霊主体従は、この意図を汲んだものである。 「祈」の意味
〔解字〕 形声。示と、音を表わす斤キン
(キは変わった音。ねがう意→幾)とで、神に願い求める意。
〔意味〕 @いの-る。いの-り。神に願って幸いをもとめる。
Aねがう。もとめる。 かりに神(命そのもの)を父、物質(大地)を母にたとえよう。
そうすると人間は、父と母の子になるだろう。
このとき、子は父母に祈って何かを願うだろうか。
祈りはしない。どうしても欲しければ父母に直接言うはずだ。
祈ったりしたら、かえって父母を怒らせる。
父母に対して他人行儀だし、
父母を道具扱いすることになる。
神に祈ることにはもっと慎重になった方がいい。
祈りが聞かれないばかりでなく、神の怒りを招きかねない。
安っぽい、口先だけの祈りなどもってのほかである。 いま西日本の豪雨で大変な被害が出ているが、
全国のキリスト教会はいったい何をやっているのか。
祈りの効果などまったくないではないか。
偉そうなことを言っても、役立たずなことおびただしい。
まるで神社仏閣並みだ。
他方で、個人的にボートを出して救助活動をする人々もいる。
口先ではなく、こういった勇敢な行動が人命を救う。 祈りの歴史は古そうだ。
人類はそれこそ、歴史のあけぼのから祈っている。
それはたぶん、言葉の歴史と重なっている。
言葉のない動物に祈りがないことからもわかるだろう。
言葉はもともと、事物や行動を指し示すために誕生した。
事物や行動があって → 言葉がある。
それがいつのまにか、言葉があって → 事物や行動へと転倒する。
ーー 転倒のきっかけは、動詞活用のひとつ、命令形かも。
この転倒から、言葉には事物や行動を生み出す力があるという妄想が
生まれる。この転倒妄想こそが人類特有の精神病の原因である。
言葉のない動物に精神病がないことからもわかるだろう。
残念だが、祈りも言霊信仰も・・・。^^ こんな感じが理想ですね
普段の心がけは、人事を尽くして天命を待つ
神への思いは、絶対帰依、絶対信頼、すべてよし
ーー 神にすべてを委ねきる あるかも知れない死後世界に備えて 🐼
人生の目標を「魂(心)磨き」に定めておけば
幸福な人生を送れる確率が高くなります (^こ^)
【^J^】< 魂(心)磨きを心掛けましょう >【^c^】
_/ ̄ ̄\_
// \ヽ
fY Y|
| | /\)(/ヽ | |
(V <・)| (・> V)
| ー | ー |
| \ ^^ / | 輝く魂は
\ ヽ /\ / / この人生をも照らします
/\____/\
| | VL∧/ | | 中道を生きる
欲望に従った物質中心の生き方は間違っている。
かといって、欲望を否定した精神中心の生き方も間違っている。
人間は、霊的なものと物質的なものとで存在するのだから、
そのどちらにも偏らない中道を生きるべきである。
だがしかし、そういった考え方だけでは中道を生きられない。
霊的なものを知らなければ、中道の意味がわからないからである。
中道を生きるには、霊的なものとの出会いが欠かせない。
そういった出会いがないと、だいたい中道を生きようとは思わないし、
中道を生きることも五里霧中になってしまう。 かって神との出会いをしたとき、昼間なのに、目を開いているのに
突然目が見えなくなり、次の瞬間、頭の中に漢字の「中」を横倒しにした
ような図形が一瞬浮かび、その直後に「命の雫」が一滴落ちてきた。
横倒しの「中」の意味はすぐに理解できた。
霊的なものと物質的なものとで、人間が成立している象徴である。
それも物質には意志が欠落しているから、
ただの中道ではなく「霊主体従」という意味になる。
私の場合、中道という生き方自体が神秘体験に根ざしている。
頭の中で考え出したものではない。 大乗仏教、龍樹の「非有非無」は中道ではない。
なぜなら、非有→無 であり、無は否定できないから 非無→無、
これを空というらしいが、結局そこには何もないことになる。
空(無)では、現実を生きて行く指針として役立たない。
釈尊は、悟りのために、安楽な暮らしも過酷な修行も誤りだから、
どちらにも偏しないような中道の大切さを説いた。
これに対して大乗仏教は、無意味な空(無)を中道だと説いている。 現実とは ペラ つまり 無限抽象である (^こ^) また新語やね >🐼w 『論語』 巻第六 先進第十一
子貢問う、師(子張)と商(子夏)とはいずれか賢(まさ)れる。
子の曰く、師や過ぎたり、商や及ばず。
然らば則ち、師はまされるかと。
子の曰く、【過ぎたるは猶(な)お及ばざるがごとし】
ーー 儒教にも中道(中庸)があった。 ^^
ーー 孔子は、凡百の宗教より、学ぶ価値がある。 >>303 の続き
ーー 転倒のきっかけは、動詞活用のひとつ、命令形かも。
命令形の始まりは、親→子の関係にあるのだろう。親にすれば、
子供は言葉で命令できる相手だし、言葉が通じれば子育てが楽だ。
だが落とし穴もある。言葉への依存と子育ての手抜きが、
子供の精神を次第に歪めてしまう。 子供は親の鋳型のようなものであり、
成長すると、今度は親からされたことを他人にやるようになる。
しかし、それでは対等の人間関係ではうまくいかない。
他人との関係は、親子の命令→服従の関係ではないからである。
対応@ 同じことを何度も繰り返して心の傷をいっそう深くする。
→ 精神病へ直行?
対応A これ以上傷つくのを恐れ、周囲との接触を減らす。
→ 引きこもりや、ドロップアウトなど。
対応B 命令をあきらめて、服従の側に積極的に身を投じる。
→ 宗教(聖職者→信者)、上下関係のある組織へ。
対応C 服従できる相手を探しつづける。
→ 神の発見 → 言葉による転倒妄想の必然性を理解する。 この中で問題なのは、対応Bの宗教(聖職者→信者)だろう。
聖職者は全員、ウソつき、詐欺師、ペテン師だと思って間違いない。
言葉を操って、命令→服従の関係を利用し、命令する側に立とうとする。
自分が親の立場になり、信者を子の立場にしようと常に試みる。
かれらの偉そうな口ぶりや態度はここから出ている。
その見返りが多額な献金や奉仕である。
@とAとCは、ウソの無いストレートな反応だが、
彼らに必要なのは、「中道」という処世術だと思われる。
なんにしてもほどほどでよく、それがベストでもある。
完璧主義を捨て、ほどほどに慣れる。
だらしなさも美徳、と構えられたら気楽かもしれない。 もはや臨死体験スレとは何の関係もない、
個人的なメモ帳の場と化してしまったようだ 服従は、従順や信者の子供扱いに言い換えられる
どんな宗教でも聖職者は神の代理人を自称する。
ーー かりに神を自称していたら間違いなく精神を病んでいる。
かれら代理人は、信者に神を信じさせ、献金や奉仕を中抜きする。
この中抜きが最初からの目的である。
代理人の、だれ一人として神を知らないのだから。
(子供を祝福する) マルコ10:13−16
イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。
弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、
弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。
妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、
決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、
手を置いて祝福された。 ローマ書1:5
わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を
信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。
ローマ書16:25
この福音は、世々にわたって隠されていた計画を啓示するものです。
その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの
書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべての異邦人に
知られるようになりました。
ーー イエスは人間を生き、今は死者の霊となって霊界にいる。
ーー 旧約の約束は、ユダヤ人にイスラエルの地を与えるというもの。
ーー 信者に死後、天国を与えるというものではない。
ーー イエスは旧約を信じたユダヤ教徒だった。
ーー これは、パウロがキリスト教を発明したことの決定的な証拠! *キリスト教の儀礼の目的
信者を子供扱いして従順にすること。→ 信者は子供か!
自分たちの教会の羊として囲い込むこと。→ 信者は家畜か!
洗礼 〜 証人である信者たちの前で、自分から使徒信条を唱え、
聖職者に跪ずく姿勢を取らされたうえ、頭に水を振りかけられる。
こんな屈辱的なことをされたら、もう簡単には信仰をやめられない。
聖餐 〜 日曜ごとに、パンとブドウ酒でイエスの体を食する、
人肉食ゴッコをやらされる。これで、イエスとのつながりを確認させ、
さらに秘密の共有によって仲間意識の鼓舞にも役立てる。
いかにも子供っぽい仕掛けとしか思えないのだが・・・。^^
按手 〜 教師になるには、上級の教師から按手を受ける。
上級の教師を前に跪き、両手で頭を押さえつけられるらしいが、
こんなことをされたら生涯、この人には頭が上がらない。 >>286
また根拠のない有象無象の雑魚オカルトか。 聖書の中の、一元論と二元論
一元論〜神は「言葉」で天地を創造する。創1:1-2:3
ーー 宇宙も生き物も神の言葉から造られる。
ーー ヨハネ伝の冒頭「初めに言葉があった」に継承される。
二元論〜神は泥人形に命の息を吹き込んで人を造る。創2:4-7
ーー まず天地を造り、次に命の息で人を作る二段階創造説である。
ーー 一元論とは微妙に異なり、命の息と泥人形を区別している。
ーー その区別は神と天地の区別へと逆照射する。
ーー すなわち、神と天地を区別する思想の萌芽がそこにある。
ーー 神→人間←天地(物質)という構造である。 (思いついた数例ですが)、聖書の中の二元論
コレヘトの言葉 12:7
塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。
マタイ伝(下記には二元論的な認識が読み取れる)
幸い 5:3−10
天に富を積みなさい 6:19−21
神と富 6:24
思い悩むな 6:25−26 聖書は神の一元論である 創1:1-2:3
神と言葉? → 精神病患者の妄言を連想する。
天地創造が一週間? → あまりにも荒唐無稽なので却下。
二元論を思わせる神話もあるが 創2:4-25
最初に天地を造った(2:5)以上、やはり神の一元論になるのだろう。
男のアバラ骨から女を造る? これも荒唐無稽すぎるので却下。
事実無根。聖書の最初の最初がデタラメすぎる。
こんな馬鹿げた話を信じる人間のあまりの愚かさに慄然とする。
聖書の転倒妄想に、信者の転倒妄想が共振するのだろう。
キリスト教は病的な精神を思わせる。^^ 精神を病んでいる人が神や天使や天皇などを名乗るのは、
自分を大切に扱えというメッセージなのだろう。
だから、偉い人であることを否定されると怒り出す。
そういう人が自己主張を始めたら、周囲は説得不能である。
要するに、自分を通したいがために病んでいるのだから。
ーー 熱心な宗教信者も似たようなもの。
妥協したり、距離をとったり、ギブアンドテイクなどの交渉術がない。
時には損をしたり反省することも必要なのに、それができない。
その挙句、精神のバランスを保つために偉そうな名前を口にする。
ーー 信者にとっては団体名や教祖の名前も印籠である。 ただし聖書にも弁解の余地がある。
いまから2500年以上前の話であり、当時から現代に到るまで
世界を解釈する際の、一方の旗頭として貢献して来た。
バラモン教の聖典であるヴェーダも似たようなものである。
3000年〜2500年の歴史をもっているが、要するに神を動かす
ための祈りと供儀の手引書である。神を道具視するのも同じ。
それに欠点も多いが、啓発される言葉や話も数多くある。
バラモン教もそうだが、神官たちは麻薬を常習していたようである。
日本の神道も大麻を使っていたようである。
宗教と薬物との関係は世界中至る所に痕跡が残っている。
古くから薬物によって神秘体験をしていた可能性は否定できない。 原罪とは何か 〜 創世記3章 蛇の誘惑
このテーマはさんざん論じられてきたが、残念なことにいっこう
明らかにならない、というかすっきりしない。パウロの原罪理解が
問題の解決を阻んでいるからだ。 参考・ローマ書5:12-21
パウロは、神の命令に違反したアダムの原罪は、イエスの十字架に
よって購われたと主張する。すなわちイエスは、神に対し、人類全員の
原罪を贖ったキリストという位置づけにされる。さらに、普通の人間に
そんなことは不可能だから、イエスを神に祭り上げる。
しかし、この主張には致命的な欠陥がある。原罪が購われたはずなのに、
相変わらず人類の全員が必ず死んでいるからである。
イエスが十字架で死んだのに、実際には何ひとつ変わっていない。
ーー パウロの妄想だったのか。
ーー パウロの主張には、何の証拠もないからである。^^ そこでパウロの主張を無視、創世記3章から原罪を考察しよう。
手がかりは、「善悪の知識の木」という名前にある。
善悪の実を食べることで、アダムとエバの中に、自分にとって
何が善で何が悪かを知る能力が備わったのである。
つまり、自分中心に判断し行動することができるようになるが、
この能力が原罪だと言われている。
ーー この能力は地上を生きる最低限の前提だろうと思う。
神はそれを食べるなと命じた。しかし、そんな重要な木を、
なぜ園の中央の目だった場所に生やしたのかが問題になるだろう。
全能の神であることを考慮し、その理由を合理的に考えれば、
神はむしろ、アダムとエバに善悪の実を食べさせようとしていた。
ーー 原罪どころか、それが神の意志だったわけだ。^^ 善悪の実が、人間の欲望、食と性を象徴していることからみても、
神はむしろ、アダムとエバを楽園から地上の荒れ野に向かわせたと
読み取るのが自然だろうと思われる。
男は食料の確保に苦労し、女は出産、子育てに苦労する。
そして人間は、いずれ全員が死ぬことになる。これは地上の定め
であって、地上に生きる人間の当たり前の話ではないか。
神は、地上の荒野に旅立つ二人を心配し、皮の衣を着せている。
そのうえーーこの話を読む者に、人間が永遠の命を得ることのできる、
「命の木」があることをそれとなく教えている。
ーー パウロ先生は、「命の木」のことを完全に忘れているね。
ーー きっと何のことかわからなかったのだろう。^^ 「命の木」に至る道は、
アダムとエバがたどった道の逆に行けばいい。
自分が、自分の善悪しか生きていないことに気づき、
自分の欲望(食と性)を捨ててしまえ。
そうすれば、心の中のエデンの園にたどりつけるだろう。
そんなことをすれば死んでしまうと心配しなくてもいい。
心底そう思えたら、その瞬間にーー命の実が落ちて来る。 キリスト教を信じれば救われる、どころか、信じればだまされる。
いくら信じても天国の話は証拠なしの空手形だ。
それどころか、自分中心の善悪はそのまま、心の中の欲望もそのまま。
死んでからではもはや手遅れ、地獄へと直行する。
パウロにだまされたとはいえ、それではあまりに惨すぎるではないか。
安心するがいい。神はそんなことまで配慮されている。
もう一度人生をやり直したければ、再生することが赦されている。
ーー 再生とか輪廻とかはあるのかもしれないね。
ーー それがないと、非業の死者に対する神の正義が成立しない。 バラモン教の中心テーマは輪廻(再生)にある。
これに対して聖書は、輪廻を排除し、
神の救い(永遠の命の獲得)を中心テーマにすえる。
この違いはいったい何に由来するのか。
エジプトからインドに至る広大な領域には、相互交流があったはずだ。
ここにいた人々は基本、神の存在を前提に価値観を形成していた。
これに対して聖書は、神との関わりを問題にする。
すなわち、神とはいったい何か、という問題意識で動いていく。
その理由としては、大国に囲まれ、交通の要衝に位置した小国の
悲しい現実である。もし神がいるなら、神に救われたいという痛切な
願いがあったのではないか。この現実を生き抜くことが先きで、
来世のことなどはその後の話である。そう考えた神官たちが、輪廻の話
を有害なものとして意図的に排除したのではなかろうか。 かりにそうであるなら、イスラエルの神官たちの考え方に賛成する。
臨死体験ではなく、能動的意志的な神秘体験には必然的な順番があり、
神との出会い → 自分(霊魂)との出会い → 霊界存在との出会い
になる。まず最初に、神との出会いをする必要があるからだ。
それに輪廻の問題は、神による神秘のベールによって覆われている
ようなのである。かりにその仕組みがわかったら、人間は必ず悪用する
ことだろう。だから、輪廻の可能性は認めてもよいが、
輪廻の仕組みはわからないし、わからない方がいいだろう。 今年もこの季節になりますた w (^こ^);
全ての生き物の其々の不思議な能力は神秘に値する - -;
唯物論風に言えば それらはただの物質だからである w 🐼 笑
気象庁の地域ごとの「梅雨明け宣言」よりも
蝉が羽化して一斉に鳴きだす事の方が遥かに信憑性が高いw - -;
この蝉の超能力は「蝉の霊性」と考えればいとも腑に落ち易い w 🐼 長周期の体内時計でしょ。
↑ それが気象庁のスパコンを遥かに超える精度とか笑えるやんょー(^こ^);
太平洋高気圧分布を感知する体内時計の神秘 ww 🐼 野性の生き物は「言葉」がないだけ人間より霊性が高い。
「言葉」はウソをつくし、「言葉」に振り回されて限度を超してしまう。
これが「言葉」の致命的な欠陥である。
ただ、「言葉」なしでは「命の実」には到達できないのだろう。
人間はそういった矛盾を生きている。
野性と言っても、蚊やゴキブリやゲジゲジ、寄生虫や寄生植物、
毒グモや毒ヘビ、擬態や保護色で周囲をだましている生き物などは、
悪人が輪廻してきたような印象があって好きになれない。
こういったケースは、霊性が高いはずはなく低くなくてはならない。^^ やぁ、今日はこっちで遊ぼうかな
身体が滅して心だけになった状態を仮に死後の世界としてみる。
さて、君たちに僕の身体が認識できるか? 僕に君たちの身体が認識できるか?
心臓が動いているのか、脳波が停止しているのか、
そんな事はここではどうでもいいね、つまり身体が無くて心だけ、考えだけ、意識だけ、そんな処だね、ここは。
つまり死後の世界があるとしたら、ここはそのシミュレータと言ってもいいのかな?
丹波哲郎氏は、こうおっしゃています。
死後の世界では、悪は悪、善は善、ひがみやねったみ、明るさや思いやり そういった性質はその人の本性のままにエスカレートするそうです。
死後はしばらく精霊界に留まり、そこで本性をむき出しにされるそうです。
そしてその性質に従って死後の行き場所が決まるそうです。 そこが天国とか地獄とか呼ばれる場所なんでしょうね。
みなさん、どうですか、 ここだけと思っていい加減な言動を繰り返してると心に焼き付いて、それがあなた自身になりまっせ
信じるか信じないかは貴方次第 生きている時、いつも思っていたこと、やっていたことを、
死後の世界でも思い続けることになる。
だから生前、悪いことばかり思っていた人は、
死後、悪い世界が善い世界だと逆さまに見えてしまう。
その結果、善い世界だと思って悪い世界を喜んで選び、
そこへと輪廻して行く。怪談みたいで恐ろしいね〜
輪廻とは、自分の日頃の思いが物質化することを言うなり。
蚊やゴキブリやゲジゲジ、寄生虫や寄生植物、
毒グモや毒ヘビ、擬態や保護色で周囲をだましている生き物 いくら話してもわからない以上、
好きなようにさせて、本人が気づくのを待つ以外にない。
悪人は悪趣生物に輪廻させることで浄化する。
これが事実なら神の正義である。
何十人も殺した極悪人をどう矯正したらいいだろう?
何十回も殺される必要がある。 ドストエフスキーが『地下室の手記』に書いた、
天国とは風呂場の蜘蛛の巣かもしれない、という話を思い出した。
聖書には天国、天国と書いてあるが、
その天国が具体的に何も書かれていない。
クモ男・クモ女にはきっとクモの巣が天国なのだろう。
こういう人間をそうじゃないと説得するのは、
神でさえ不可能なのだ。^^
本人に体験させて身体で納得させる以外にない。 ああ言えば上祐だから、言葉だけではダメなんだよね。
深刻な体験をしないと真理はわからない。 >>340
蜘蛛の巣天国は『死の家の記録』でしたね。m(__)m
人間精神の究極は霊魂(アートマン)である。
かりに輪廻するとしたら、輪廻する基体はすでに用意されている。
そして神の正義を成立させるためにも、輪廻は必然である。
あるかもしれないではなく、あるべきなのである。
人間が輪廻するとしたら、たぶん他の動物も輪廻することだろう。
人間が特別である理由は何もない。
人間からクモやゴキブリ、あるいはその逆へと輪廻するとしたら、
世界観の大転換が必要になるかも。^^
ーー 菌類や植物のことはよくわからない。 輪廻と言えば、インドの宗教(バラモン教・ヒンドゥー教・仏教)である。
輪廻から解脱できなければ、永遠に六道をさ迷うことになる。
この教えが気になり、民衆の心は自然と道徳的なものに導かれる。
これに対してキリスト教は輪廻を認めない。信者になりさえすれば、
原罪が赦され、天国に行けることを約束している。
この教えは信者を油断させ、信者は自分自身を甘やかすことになる。
キリスト教徒は輪廻などないと信じ込んでいる。
その根拠は、キリスト教がそう説いているからでしかない。
輪廻してからでは手遅れなのに。^^ ところが 死後世界構造が一通りでは無い可能性も有力なのょ - -; 多元宇宙論ということですか?
わたしが参考にしているのは、マイヤーズ霊の霊界通信から作成された
「梅原伸太郎」氏の「魂の旅の旅程表」です。A4一枚の表。
これによれば、第一界(物質界)、第二界(冥府)、第三界(幻想界)
第四界(色彩界or形相界)、第五界(恒星界・火焔界)、
第六界(光明界or白光界)、第七界(彼岸or無窮)
ーー 霊界が第二界から第七界までに区別されています。 輪廻は難解なので少し間をあけ、
先にキリスト教の「原罪」の話にケリをつけてしまいたい。
原罪のウソがわかればキリスト教は崩壊する。
キリスト教は旧約を土台に成立しているが、その旧約は最初の最初で、
善なる神が天地を創造したことになっている。
これは、この天地には悪がまったく存在しないということを意味する。
悪がまったく存在しないのだから、原罪が発生する余地はない。
原罪などもともと存在しないのだから、イエスが原罪を贖う必要もない。
キリスト教はパウロが作った妄想だったことになる。
エデンの園は、この地上の悪や不幸を「神の一元論」で説明するために
考え出されたものである。そういうものだと知れば、悪や不幸を
合理的に説明できる「神と物質の二元論」の意味をしかと悟ることだろう。
その時には、キリスト教だけでなく、それ以外の一神教も崩壊する。 多元宇宙論ということですか?
↑ 宇宙は普通物質世界の名称だが その多元構造を
精神世界構造に移し視れるならそれも有効かと - -;
我々とは結局「意識」の事なのだが その意識はおそらく生命の
物理的合理性から脳に付随した自動意識であると思われる - -;
脳やその他(例えば精神世界)に制約されない「真我的意識」の体験は無いが
「真意識」は「真意識」自体を客観出来ないから永遠に不可知のベールを剥がせない - -;
坐禅でいう想受滅を通過できれば、霊魂体験をする。
霊魂は究極の意識だが、それを坐禅をしていた別の自分が見る。
霊魂を見たということは、意識を意識が見たということになる。
その間の意識の入れ替わりは微妙過ぎて表現しにくい。
感覚も意識もある霊魂は深い霧のなかを猛スピード走り抜けるが、
それをどうも坐禅中の自分が霊魂を通して同時に見ているような感じ
だった。ここはどこなんだろうと呟くと、その声が白い霧の外側から
雷のように轟いた。その瞬間に霊魂が急停止し、もうその時には
意識は坐禅中の自分にあり、そこから霊魂を見上げている。
それは満月のように見えたが、次の瞬間には自分に向かって来て、
坐禅中の自分を飲み込んだ。→坐禅終了→日常意識へ 愛される側から → 愛する側へと成長しよう
子供のうちは「愛される側」にいないと育たない。
親から愛されなかった子供は不幸だ。
愛に飢え、何歳になっても愛を探すことになる。
思春期を過ぎたら、「愛する側」へと成長しなければならない。
愛する人のために死ねるか、これがテーマである。
死んだら終わりだと思っていたら、逃げてしまうかもしれない。 子供から → 親へと成長する
愛される側から → 愛する側へと成長する
この変化は、宗教とは無関係であって、人間全員が経験する。
そして子供時代の在り方で二つのタイプに大別される。
愛された子供は、生きることに疑問を感じることなく育っていく。
周囲からも愛され、愛されることにも慣れ、ますます愛され上手になる。
愛されることにも生きていることにも、あまり疑問を抱かない。
その状態で卒業し、就職し、恋愛し、結婚し、子供を作ってしまう。
精神的に未熟なのに、見かけだけで愛する側の一員になる。
事故や病気や失業や離婚などがなければいいのだが、
このタイプの人は不幸に対する耐性が小さいから、
何かあればうつ病になったり、自殺する可能性が高い。 愛されなかった子供は、愛を探してさ迷うことになる。
この道は狭くて険しい。塗炭の苦しみがある。
愛を探す? 愛を探すとは神を探すこととイコールなんだね。
何で愛されないのか? 自分の何が悪いのか?
自分は何で生きているのか?
こういったことは、宗教で教えられなくても、必要に迫られて
自分自身で考えるようになる。そして、宗教に洗脳されていないだけ、
回り道をしないで済み、早く答えを見つけ出すことができる。
むしろ宗教の知識はない方がいい。
ーー 心が砕ければ、神に出会うことができる。
ーー 自分があるうちは永遠に出会えない。
ーー イエスとかキリスト教とか、まったく無関係だった。^^ >>350-352 は、
エデンの原罪が作り話であることを示すために、
人間の育ち方や成長などを素描してみた。宗教とは無関係に、
思春期で心の在り方をひっくり返す必要があるんだね。
生まれたての赤子は本能で母親の乳を吸う。それを原罪だ、
善悪の知識だ、などと信じていたら人類は滅亡する。
キリスト教は生きることを罪悪視、
生きる目的を地球が滅亡した後の世界に置こうとする。
なんという退廃的な人生観。絶望的な暗さ。
キリスト教徒は死の仮面を被って生きている。(TT) >>349
それ、自分も体験した。
霊魂体験って呼んでるの? その霊魂が、
キリスト教徒にはキリストだし、
仏教徒には仏陀だし、
大日如来であり、極楽浄土であり、天国であり、魂であるんだけど? 経験したらわかることなんだけど。
なぜわからないの? 🎆 キリスト教の終わりがやって来た 🎆
聖書の神は、全能であり、善なる神でもある。
この神が言葉で天地を創造した。創1.1
そうだとすれば、この天地には悪が存在しないことになる。
悪が存在しなければ、アダムの原罪も成立しない。
それゆえ、イエスがアダムの原罪を贖う必要性がなくなり、
イエスの十字架は単なる処刑ということになる。
ーー やっぱりパウロの作り話だったか。 (TT) 🎇 キリスト教は偶像崇拝教だった 🎇
常識があれば、イエスが人間であることに気がつくはずだ。
それなのに気がつかない。すっかり洗脳されているからである。
これでは人間を神にして拝んでいることになる。
神を冒涜したひどい話じゃないか。 (# ゚Д゚) ところが それほど単純な全体事象(たとえば各宗教)は存在し得ない - -;
裏を返せば 言語 概念 定義 表現 解釈 の何処にも絶対性がなく
加えて霊魂もメタ複合無限構造の不可知然たる世界だから 🐼 聖書の大前提は、全能なる唯一神が天地を創造した点にある。
それも言葉で。ーー これを忘れたら話が混乱する。
個々のテーマは、この大前提から絶えず吟味しなければならない。
木を見て森を見ず、という愚を避けるために。
神は悪を創造できない。 → アダムに原罪はなく、贖罪説は不成立。 神の一元論では、全能の神が天地を創造したのに、
天地には自然災害・人間の罪悪・不幸などが満ち満ちている。
この結果を考えれば、全能の神が天地を創造したという
大前提が間違っていたことになる。ではどう考えるべきなのだろうか。
神の一元論ではなく、神(命)と物質の二元論にすればよい。
140億年前、ビッグバンによって神(命)と物質が誕生した。
この二元論によって天地創造とその後の経過が矛盾なく説明できる。
そのすっきり感に、あなたもビッグバンしよう。^^ 🎇 人は何のために生きているのか 🎇
神(命)と物質の二元論から言えば話は簡単だ。
物質には意志がないから、神が物質との合体を目指してる。
神は霊魂に姿を変えて、物質との合体に成功した。
神の分霊が霊魂になるが、人間には霊魂が宿っている。
そうであるなら、人は神の意志を自分の意志とすれば、
神とともに歩むことができることになる。
地上の命を大切にし、地上を生き物の楽園にすること、
これが神の意志である。ハルマゲドンなどまったく考えてない。
キ教徒はバカげた妄想をやめなさい。神は怒ってる。 子供は親の鋳型のようなものであり、
成長すると、今度は親からされたことを他人にやるようになる。
しかし、それでは対等の人間関係ではうまくいかない。
他人との関係は、親子の命令→服従の関係ではないからである。
神を命そのものだと知り、
周囲の命を大切にしようと思って生きていると、
自然に十戒を守っている。
何とも不思議なことだが・・・
神が命そのものである証拠かもしれない。^^ ネットで検索したが、「神(命)と物質の二元論」がなかった。
少しはあるかと期待したのに拍子抜けしてしまった。
そこで哲学的な見方を整理しながらその理由を考えてみたい。
物質の一元論 〜 唯物論(共産主義)
唯物論者は、神を否定し、命は物質から湧いてきたと主張する。
かれらは、本能や欲望を重視し、道徳や倫理をできるだけ軽視する。
神の一元論 〜 唯一神教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)
神は全能であり、神が万物(宇宙・人間・生物)を創造した。
そうであるなら、この地上が悪や不幸で満ち満ちているのはなぜか。
それを問題にしたのがグノーシスである。 デカルトの二元論(精神と物質) 〜「我思う、ゆえに我あり。」
精神の定義が実体的でなく、二元論として不十分。
プラトンの二元論(霊魂と肉体) 〜 霊魂不滅説
人間は霊魂と肉体が一つになって生きている。
霊魂と肉体が分離すれば死ぬ。
霊魂には部分がないから壊れることがなく不滅である。→ 輪廻肯定へ
ーー 霊魂体験があるような印象も受けるが、霊魂定義を欠いている。
ーー これを欠いたら、やはり二元論として不十分。 ゾロアスター教 〜 「自分という一元論」
善悪二元論とも言われるが、実際には「自分という一元論」だろう。
善は自分にとっての善であり、悪は自分にとっての悪なのだから。
この自分中心主義は、エデンの「善悪を知る木」と同じ。
ただし、ゾロアスター教には「命の木」がない。
開祖ゾロアスターはBC1200年頃に活躍? その後、教えは口伝。
啓典「アヴェスター」はBC600年頃に成立?
ここには、救世主、善と悪との最後の決戦、善の勝利、最後の裁き、
「検別者の橋」、新しい世界などが描かれているらしい。
これらも聖書に影響を与えた可能性が濃厚である。
ーー 旧約はバビロン捕囚後のBC500年頃に成立。
ーー 旧約・新約が影響を受けた可能性は十分に考えられる。 ゾロアスター教の特色 〜 世界に約15万人
善 〜 善神アフラ・マズダ、天国、生、光明、火、正義、昼、牛など
悪 〜 悪神アーリマン、地獄、死、暗黒、破壊、虚偽、夜、サソリなど
救世主がいる 〜 サオシュヤント
火は善神アフラ・マズダの象徴として祈りの対象である。→ 拝火教
風葬 → 死後、天国に昇る連想からだろう。
近親婚 → 善に近いものは善だから、親子・兄弟姉妹同士が聖婚。 重力による空間の歪みは 光の(重力による)落下現象から来る文学的表現に過ぎない
それは過去に光の行路を直線と定義したことが関わっている様に思える
何よりも空間は「歪む実体」の無い非物質 つまりメタ存在だから マニ教 〜 やはり「自分という一元論」
開祖マニ(AD216-277)。その教えは、ゾロアスター教を母体に、
ユダヤ教・キリスト教・パウロの福音主義(律法主義を排斥)・
グノーシス・ギリシャ哲学・仏教など、諸教の総花的なものだった。
教義の核は、光と闇、善と悪、精神と物質という二項対立にある。
始原宇宙は、光と善と精神、闇と悪と物質(肉体)に分かれていた。
救済は、この始原(光と善と精神)に回帰することで達成される。
ーー 恣意的な二項対立でしかないから → 自分教
ゾロアスター教の場合は、生が善、死が悪 → 現世肯定
マニ教の場合は、物質(肉体)を否定する → 精神的・厭世的 アケメネス朝ペルシャ BC559-331 ←アレキサンダー侵略
ササン朝ペルシャ AD226-642 ←イスラム侵略
・ゾロアスター教は両朝の国教
・マニ教はササン朝を中心に布教されたが迫害されて国外流出
3〜6世紀にかけて拡大衰退 ← キリスト教・イスラム教の迫害
西〜メソポタミヤ・シリア・パレスティナ・エジプト・北アフリカ
イベリア半島・イタリア半島
東〜中央アジア・インド・中国など
アウグスティヌスが一時マニ教徒だった。
ローマ、297年、マニ教徒迫害勅令。 ミトラ教 〜 キリスト教によって破壊された宗教
ミトラ教は「牡牛を屠むるミトラ神」を信仰する宗教であるが、
ローマ帝国がキリスト教を国教化するなかで徹底的に破壊された。
従って、その教義内容はほとんど明らかになっていない。
しかし、アーリア人が牛を崇拝することから、
ミトラ教がアーリア系の宗教ではないかと推測することができる。
インドのバラモン教しかり、ペルシャのゾロアスター教しかり。
ゾロアスターはBC1000年頃、牛の供儀をやめさせることを目的に
宗教改革を行い、ゾロアスター教の開祖になったとも言われる。
ということは、ミトラ教は改革前の、古い宗教だった可能性もありえる。
そうだとすれば、ミトラ教はゾロアスター教と似ているだろうし、
バラモン教の『リグ・ヴェーダ』も参考になることだろう。 なぜアーリア人は牛を供儀するのか
(広義の)アーリア人は中央アジアのステップ地帯を出身地にする。
ここには広大な草原があり、牛の放牧に適していた。
放牧によって生活が成立したから、牛を大切にし崇拝することになる。
このアーリア人に何らかの理由で「神の観念」が生じたとしよう。
ーー イランやアフガニスタンなどの高地は大麻やケシの産地である。
ーー これらの麻薬が神の観念につながった可能性は濃厚だ。
さて神の観念が生じたとき、その神を崇拝するために何を捧げるか。
自分たちが大切にしている「牛を捧げる」のが自然だろう。
崇拝する神に、カエルやサソリやトカゲを捧げはしない。
こうして牛を神に供儀する祭式が成立し、アーリア人共同体に広がる。
逆に、これがアーリア人であることの証左になった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています