■■■臨死体験■■■
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(まとめ) 人間は入れ子構造であり、その精神は重層的である。 @ 日常的な身体・・・6識、日常意識 A 夢や魔境に登場する身体・・・7識、マナ識 B 過去世の身体、生きている死体・・・8識、アラヤ識(沈黙する識) C 霊魂・究極の精神・・・9識、究極の意識 わたしは唯識のように、すべての事物は心が作り出した表象に 過ぎない、とは考えない。従って、マナ識・アラヤ識という用語は、 世親の『唯識三十頌』から借用してはいるが、自分の体験を整理する のに便利だからに過ぎない。たとえば次のようなイメージ。 アラヤ識・・・異なって熟したもの(過去世)、輪廻を担っている。 マナ識・・・精神的対象を認識する識。アラヤ識に執着している。 六識・・・物質的対象を認識する識。 ーー偏計所執自性・依他起自性・円成実自性などは完無視。 もっと適切な用語があれば唯識との混乱も避けられるが、 いまのところ思いつかない。唯識とも共通する所があるから難しい。 唯識だと生じる矛盾などなど @ 霊魂(アートマン)を想定しないから、アラヤ識を消滅させて 解脱するとその後には何も残らない。生きて解脱不可。 A アラヤ識の消滅と共にマナ識も消滅するらしいので、 想受滅に入ると想受滅から帰れなくなる。想受滅で必ず死ぬ。 B それにも関わらず、釈尊は生きて解脱した。 霊魂を認める以外に説明できない。 C 唯識を説いた世親は、霊魂体験をしてなかったわけね。^^ D 霊魂は、三途の川の生きている死体、アラヤ識の中にある。 それを見捨てるから想受滅に入り、霊魂体験が可能になる。 E 坐禅中の身体には、脱魂してもマナ識がかろうじて残っている。 それが霊魂を呼び戻し、満月のような霊魂を夜空に見上げる。 龍樹も世親も、矛盾したことを難解に語って信者を煙に巻いた。 この二人を土台に、他力信仰の大乗仏教が誕生した。 パウロもローマ書で独特の詭弁を弄し、キリスト教の土台を築いた。 これも大乗と同じ他力信仰である。 こういった連中を担ぐ宗教団体のネライは、 信者に何も理解させないように、金だけを出させることにある。 それが何かを理解したら金を出さなくなるから。 お幸せなら良いんです。 幸せじゃなきゃ意味がないから。 あなたの言ってること、体験、全部話りますよ。 唯物科学万能信者が 脳細胞を素粒子レベルにまで観察しても 意識が生じる仕組みは明かせない - -; 物質で意識を語る論理は存在し得ない - -; G公理 意識・生命の誕生機序を明かせない限り神秘は否定出来ない - -; 意識創発現象は人智を超えた大いなるメタ異世界の作用である 🐼 シヴァ神 〜 自力救済をシンボル化している ーー 個人的な独断と偏見で推理 額にある第三の目 〜 神の霊を受けたことを意味する。 首を巻く毒蛇 〜 その際に死の試練を受けたことを意味する。 青色の身体 〜 蛇の毒で死に損なったことを意味する。 (身体に灰を塗る行者たち 〜 その意味は上記と同じ。) 踊りの王 〜 物質的な拘束から自由になった精神を意味する。 性的リンガ 〜 欲望に従属した性 → 欲望を超越した性へ。 (シヴァの愛はアガペーであり、妻への愛は永遠である。) (それを象徴するのが、妻と合体した両性具有神。) ヨーガの神様 〜 ヨーガスートラに登場するイーシュバラである。 三日月の冠 〜 太陽との混同を避け、満月ではなく三日月にされた。 ヴィシュヌ神 〜 他力信仰の頂点にシンボル化されている 多数の変化神がいる 〜 他の祭神を自分の変化神にして吸収する。 (釈尊もヴィシュヌの変化神になって吸収されている。) 南インドではヴィシュヌ派よりシヴァ派が目につくという。 そのため、シヴァ神が青色の身体なのは、 先住民ドラヴィタ人の肌が黒いことに由来するとも言われている。 だったら黒くすればいいのに、黒だと地獄を思わせるから 青色にしたのだと補足して説明する。 ーーこの話はたぶん、ヴィシュヌ派のフェイクだろう。 ーー青色はやはり、死を暗示したものだろうと思われる。 シヴァ派は、中部インドで生まれ、カシミールや南インドへと発展する。 従って、先住民の宗教に由来するとは一概に言えない。 シヴァ派には二つの大きな流れがある。 @ カシミール・シヴァ派 〜 不二一元論(神を認めない) A シャイヴァ・シッダーンタ派 〜 二元論(神を認める・南インドだけ) シヴァ派最古の、パーシュパタ派 シャイヴァ・シッダーンタ(聖典シバ派)と思想上深く関連をもち、 身体に灰を塗り、人間のドクロを連ねて首飾りにしたり、衆人の前で 奇行を行って、わざわざ恥辱を求めることをその修行法としている。 その起源は相当古く、2世紀、クシャーナ朝の時代には、 かなりの勢力を持っていたようである。仏典には自在天(イーシュバラ) ないし大自在天(マハーシュバラ)の名で登場する。 この派は、精神を最高位の存在に隷属させる神学で知られた ヴィシュヌ派に反対する。その理由は、他者に依存しつつ独立できる ときを待ち望む者は、自分自身以外のものに依存しているのだから、 決して依存対象から離脱できないと考えたからである。 精神は「苦痛の全ての芽」から解放されたとき、至高の神性と同じ 特性を持つようになるという。師匠不要。個人的な救済も可。 ヒンドゥー教のテーマは、どの派においても精神に付着した 「物質の汚れ」を落とすことにある。 @ヴィシュヌ派〜神へのバクティ(信仰)で落とす。不二一元論。 Aパーシュパタ派〜師につき修行して落とす。2世紀 Bシャイバ・シッダーンタ派〜師につき、師から儀礼を受け解脱する。 ーー王や教団が師となって介入、キリスト教と似ている。 ーー中インド6〜7世紀、南インド6〜9世紀。 Cカシミール・シヴァ派〜シヴァ神へのバクティ。9世紀。 ヒンドゥー教では精神に付着した「物質の汚れ」を落とす。 仏教では同じことを別の視点から、物質への「欲望・執着」を落とす。 ユダヤ教ではエデンの園〜「自分の善悪」から「自分」を落とす。 キリスト教ではイエスが身代わりになって「原罪」を落とす。 シヴァ神の頭髪から聖なるガンジス河が流れ出ている。 その理由は、シヴァ神が「悔い改め」によって神と出会い、 その出会いによって神になったことにある。← 不二一元論 水は汚れを落とすものの象徴だが、 すでに「悔い改め」が終わっているシヴァ神にとっては、 ないに等しいものでしかない。 ないに等しいのだから、シヴァ神は女神ガンガーを頭髪の中に 封じることもでき、そこから解放することもできる。 まだ「悔い改め」の終わってない人々にとっては、 その水は精神に付着した汚れを落とす、 シヴァ神によって吟味された天国行きの聖なる水なのである。 >>184 の訂正 仏典には自在天(イーシュバラ) ないし大自在天(マハーシュバラ)の名で登場する。 ↓ 仏典には自在天(イーシュバラ) ないし大自在天(マハーシュバラ)を崇拝する人々で登場する。 ヒンドゥー教ではヴェーダの権威とバラモンの権威を認めないと 正統派哲学には参加できない。従って正統派でありたければ、 必然的にカースト制度を認めなければならない。 同時に、不可解な身分差別を正当化するための理論も欠かせない。 そのために用意されたものが、輪廻とカルマ(業)である。 ★ シャイヴァ・シッダーンタの新しさ、あるいは居直り この世の身分差別は、過去のカルマ(業)によって決められた カーストへ生まれ、それによって古いカルマ(業)から救済されるために 用意された神の恩恵なのだと、捉え直したところにある。 ーーシヴァ派はやはり自力救済か? 1950年1月 インド共和国成立。 インド憲法17条 〜 カーストによる差別禁止、差別用語も禁止。 バラモンの私塾に代わって新しい学校制度がスタート。 少しづつではあるが、変わり始めているようだ。 それまでは上位3カースト(バラモン・クシャトリア・ヴァイシャ)しか バラモンの私塾に入門できなかった。 ここでヴェーダを学び、輪廻やカルマ(業)などの正統派哲学を徹底的に 教え込まれてから社会に巣立っていく。 → カースト制度の再生産! さらにもう一つ、『マヌ法典』がカースト制度を明記し、 四住期を説いたこともカースト制度の再生産につながった。 子供たちは幼い頃から洗脳されていたのだ。 学生期は(8ー12歳)で始まり古代には12年間。 家長期は、仕事につき結婚して後継者(男子)を作るのが義務。 林住期は、家督を譲る日を見ながら遊行に備える時期。 遊行期は、解脱を求め、乞食をしながら遊行する。 この流れを見れば、かりに遊行期に解脱できたとしても、 年齢的にも金銭的にも、その内容を社会に伝えることは不可能だ。 何か言っても相手にされず、黙して死んで行く以外にない。 そういった解脱者が数多くいた可能性もある。 釈尊は解脱して布教できたわけだから、きわめて稀なケースである。 カピラ城の王子だったこと、35歳で解脱したことが幸いした。 釈尊が何を悟ったかは原始仏典から多少は推測可能である。 バラモン教は「精神に物質的汚れが付着している」と考え、 この汚れを落とすために、輪廻とかカルマ(業)を説くに至っている。 カースト維持が前提だからこそ導かれる結論である。 これに対して釈尊は、「欲望を根こそぎ」にすることを説いた。 欲望を根こそぎにすれば、物質的な汚れを落とすことができる。 心の在り方を変えることで解脱できるのだと。 ーー これは、カルマ(業)に基づくカースト制度の全否定だね! メタ構造論(霊魂説)の正しさは 最も身近な「意識創発機序」を説明出来ないペラ三科学が 身を以って証明してんじゃんょ(^こ^)w ニューロンネットワークと その素粒子群がどうなれば意識になるん? (=^・^=) ニューロンネットワークと その素粒子群がどうなれば意識を感じるん? 🐼 釈尊は、カースト制度を否定しバラモンの権威を否定した。 同時代に誕生したジャイナ教も、同じようにカースト制度を否定し バラモンの権威を否定した。 それゆえヒンドゥー教は、仏教とジャイナ教を異端として退ける。 中村元訳 『ブッダのことば』 岩波文庫の註では、釈尊の教えと ジャイナ教の教えがきわめて似ていることが何度も指摘されている。 しかし、両者は異なる宗教に区別される。 何が異なり何が同じなのかを少し整理しておこう。 釈尊の教え(慈悲) → ジャイナ教(アヒンサー 〜 不殺生) 欲望を精神的に断つ→行為として断つ(僧侶は性交禁止、菜食と断食) 中道を歩み苦行を否定する → 苦行を積極的に行う 修行としての乞食 → 無所有(その究極がジャイナ教裸行派) 欲望を根こそぎにする → 精神に付着した物質的汚れ(業)を落とす 釈尊の教えは乞食を修行の一環として位置づけている。 そのため、信者から布施された食事なら肉が入っていてもいただく。 精神的な汚れは、その人自身の心の問題だからである。 釈尊はジャイナ教徒に問いかける。あなたがたは、精神に付着した汚れ (カルマ=業)を実際に見たのか。見たことがないのに、それがあると 言うのは想像であり、妄想ではないのかと。ジャイナ教徒、黙して答えず。 確かにその辺にジャイナ教の問題があるかと思うが、 結果的にはジャイナ教徒にも、神や霊魂との出会いがあるらしい。 ジャイナ教のニルヴァーナ(経典に見られる記述) 苦痛も快楽もなく、苦しみも生もなく、生まれることも死ぬこともない 場所、それが解脱である。 感覚器官も、驚きも、眠りも、渇きも、飢えもない場所、 それが解脱である。 カルマもなく、心配事もなく、・・・いかなる種類の思考もない場所、 それがニルヴァーナである。 ーー 霊魂との出会いを思わせる。 ーー 神との出会いをしているから、霊魂との出会いが可能になる。 ジャイナ教開祖マハーヴィラが存命中、教団を指揮したガウタマの言葉 あらゆる観点から見ても安全だが、到達しがたい場所があり、そこでは 年を取ることも死ぬこともなく、苦しみもなければ病気をすることも ない。ニルヴァーナ、あるいは苦痛からの解放、あるいは安全性と呼ば れている場所こそがあらゆる観点から見て完全で、幸福で、静寂な 場所であり、偉大な聖者たちがそこに到達できる。そこはあらゆる観点 から見て永遠の場所であるが到達しがたい。そこへ到達した賢者は悲しみ から解放され、存在の流れを終わらせる。 *個別性の問題 解脱後も個別性が失われることはない。 ニルヴァーナには、シッダ(成就者)が無数にいる。 *人間として生まれること 解脱は人間としての生においてのみ到達できる。 人間として生まれること → 得がたく貴重 → 賢い選択をすべし。 ジャイナ教の開祖マハーヴィラは、仏典で六師外道と非難された 相対論者のニガータ・ナータプッタである。 かれは「これである」「これではない」という断定的表現を避け、 常に「ある点からすると」という限定を付すべきだとする。 ーー Aさんの真理とBさんの真理は異なるからである。 ーー これを考慮して再度、釈尊の教えと比較してみよう。 釈尊の教え → ジャイナ教の教え @ 苦集滅道 → 無所有と肉体的な苦行 A 縁起の理法 → 相対主義 B 中道 → 修行から断食死へ進むのが理想とされる カルマ(業)が精神に付着している、というジャイナ教の考えは バラモン教と同じである。この考えでは、いつカルマが落ちるかが 明らかにならないから、修行に終わりがなくエスカレートする。 ジャイナ教には白衣派と裸行派があるが、 2001年現在、合計450万人、全人口の0.5%にも満たない。 ジャイナ教徒は、事実上の一つのカースト(職業的内婚集団)であり、 その結束はきわめて固い。 ジャイナ教の寺院は華麗で壮大なものが多い。 その理由はジャイナ教にある。かれらはアヒンサーから商業を選び、 宝石や貴金属を扱う豊かな者が多くいる。そのうえアヒンサーや 菜食主義で外出も控え、無所有が戒律にあるから質素な生活を送る。 こうして残した大金が寄進になって寺院へと流れ込む。 ーー 日本にも神戸に寺院があるという。 菜食主義の源流はインドにある 釈尊は生きとし生けるものへの幸せを願った。 ジャイナ教はアヒンサー(不殺生)を戒律にしている。 後にヒンドゥー教も菜食主義を受け入れた。 インドの菜食主義にはその背後に輪廻思想がある。 ーー牛はカルマ的には、人になる一歩手前の生き物らしい。 熱帯雨林だったりで、食糧が豊富であることも欠かせない条件だ。 ーー寒冷地では必然的に肉食主義になる。 ーーこういった地域では逆に輪廻思想を受け入れない。 ーー寒冷地の人間は一般的に暴力的である。 日本人は、仏教伝来から明治に至るまで菜食主義を貫いた。 ーーそれは、栄養不足で体が小さくなるほどの徹底ぶりであった。 ーー日本の菜食主義は千年以上の伝統を持つ。 現実(ペラ)を誕生させたのは メタ(非現実)である - -; G公理 三流ペラ論理で 『「『全て』」』 を語れると思うのが 三流ペラ洗脳の成就 - -; その妄想の愚かさは 自身の意識創発機序を語れない事で証明される 🐼 w 神秘の意識でも 意識の神秘は解けない - -; 意識の発生史 〜 試論・〔*〕内は潜在状態を意味する @ ビッグバン ・ 神(いのち) ← 〔無〕 → 物質(因果法則が支配) A 霊魂誕生 ・ 神 → 霊魂(神を対象にした究極の意識) →〔物質〕 B マナ識の発生 ・・・ 天使の誕生 ・〔神〕→ 霊魂 → マナ識(霊的認識力がある) →〔物質〕 C アラヤ識(本能)の発生 ・・・ 生物の誕生 ・〔神〕→〔霊魂〕→ アラヤ識(本能) → マナ識 →〔物質〕 D カルマ(業)の発生 ・・・ 下等生物、夢を見ている状態 ・〔神〕→〔霊魂〕→ アラヤ識(カルマ) → マナ識 →〔物質〕 E 逆転して神を意識する段階へ ・・・ 高等生物、学習能力あり ・〔神〕→〔霊魂〕→〔アラヤ識〕→〔マナ識〕→ 日常意識 → 物質 なぜマナ識がアラヤ識より先に発生するかと言えば、 神から離れた霊魂が下降して霊界の存在になった時、霊的なものと 物質的なものとを見分ける能力が最初に必要になるからだ。 アラヤ識はその後、実際に物質世界で生きることで発生し、 本能となりカルマ(業)になるのではないだろうか。 それが物質世界と関係したものならば、ジャイナ教の説くように、 精神に付着した繊細な物質的汚れと解せなくもない。 ただし、そんな汚れを苦行で洗い流せるのかどうかは疑問だが。 確かにアラヤ識はカルマ(業)なのかもしれないが、 それより本能と解し、本能から生まれた食や性への欲望を断つほうが、 解脱の努力目標が明確になってベターだろう。通常、その人の欲望や カルマ(業)は、その人の個性とか人格とか呼ばれるものである。 >>202 のEからわかるように、 人間はアラヤ識という「過去世」を抱えた状態で生まれて来る。 従って、社会生活が不十分で日常意識が未発達なうちは、 「過去世」のことを思い出す可能性がある。 しかし、成長して日常意識が発達すれば自然に潜在化してしまう。 過去世の記憶があったとしても何の役にも立たないし、 何か問題があったから輪廻して生まれ変わったのであり、 アラヤ識(過去世・欲望・カルマ)を切り捨てることが解脱なのだと 知らなければならない。過去世など知らなくてもいい。 意識の発生史は(マナ識→アラヤ識)なのに、 精神の構造は(アラヤ識→マナ識)になっている。 ここに人間の救いがある。 精神構造が(アラヤ識→マナ識)だから、転倒妄想が生じる。 他方、アラヤ識を消滅させ、神に出会うことも可能だ。 この構造の中に、人間の「自由意志」がある。 マナ識は日常意識に残された最後の「良心」である。 マナ識→アラヤ識→日常意識だと、 良心がアラヤ識に覆われてしまい日常意識に届かない。 天使は存在するのか否か 天使は存在する。天使を見たのだから間違いない。 天使は霊的な存在であり、霊界生き通しである。 知らぬが仏で、人間は何気に生きているが、 この天使と守護霊が人間の運命に大きな影響を与えている。 言葉はウソをつくことがあるが、 体験はウソをつかない。 輪廻は存在するのか否か アラヤ識自体の存在が輪廻を証明している。 アラヤ識に出会うには、坐禅をし、想受滅を体験しないと不可。 そこまでやれたら出会えるが死ぬ可能性があり、 求めて体験できるものでもない。 わたしの場合は偶然体験してしまった。 それが想受滅だったことは、宗教板でどなたかに指摘されて知った。 何も意識しないで、機が熟し、たまたまなのがよかったかも。 死んだら お地蔵さまが助けてくださる。 オンカカカビサンマエイソワカ そもそも、この横槍が問題なのである 要するに、この横槍が、このバイセクシャルのホモ豚と 同一人物がという疑惑につながるのである >>204 の訂正 × アラヤ識(過去世・欲望・カルマ) ○ アラヤ識(過去世・本能・カルマ) 欲望は日常意識に属していた。 食欲や性欲や金銭欲などは日常的に意識できる。 だからこそ、欲望をコントロールしようとすることにつながる。 もちろん簡単ではない。 しかし、精神に付着した物質的汚れを落とすよりやりやすい。 努力目標を具体的イメージで設定できるのだから。 これからはヅラとメタやで ヘビメタからヅラメタや 臨界点超えるでw 瀕死体験ならあるでぇー(^こ^) 子供の頃 赤痢にかかって 田舎医者が症状把握出来んで危うかったんょ🐼 国立病院を退院した時には 悪ガキから誠実謙虚なガキに変身しとっただょ - -; 臨死体験とは、事故や病気により、精神が身体的拘束から解放される ことで生じる、偶発的・受動的な神秘体験のことを言う。 宗教上の悟り体験とは、人生の意味を探求するなかで、精神が身体的拘束 から解放されることで生じる、意志的・能動的な神秘体験のことを言う。 両者の共通点は「精神が身体的拘束から解放される」ところにあり、 本質的には同じタイプの神秘体験だと考えられる。 輪廻転生については下記のサイトを検索してください。 スピ系の諸説をまとめて解説している。 シルバーバーチの霊訓の画期的な通信内容 5章 再生説 植物はわからないが、 愛情表現ができる動物には霊魂があると思われ。 >>216 再生説の終わりに、再生には二つの目的があるという。 @ カルマの清算と A 類魂全体の霊的成長 再生は事実だが、過去の人格がそっくり機械的に再生するのではなく、 その人の意識の総体の、別の部分が再生するという。 しかしこれには同意できない。 カルマの清算は個人的なものだから類魂には関係しないはずである。 過去世のアラヤ識がそのまま再生した方がカルマ的には合理的だろう。 また類魂の話は、霊界に限られるのではないか。 地上でも類は友を呼ぶ。物質的なものが脱落した霊界では、 それ地上以上に「類は友を呼ぶ」ことが想像される。 持論とも呼べない ただの空予測だが (^こ^); 人格は国会決議の様に多種の派閥議員(個々の霊性)の集合体であり (天使と悪魔が同居したり多重人格や酩酊で人格豹変したり・・・etc.) その精神世界で構築された「霊性の質」により 死後世界での振る舞いが決まる - -; 強固な「真我」に成長した主体と 周辺の雑多で虚ろな霊性とは行く末も異なる - -; 個人に集合していた無数の霊性は その死後様々に分散し 様々な「生き物」に新たに参加集合する可能性も否定できない - -; >>219 猫から人へ再生とか、いろいろなパターンがあるかも。 猫顔とかキツネ顔の人がいるものね。^^ >>220 × それ地上以上に → ○ それ以上に >>220 誰が何を基準にしてカルマを清算するの? >>223 横からだが 「大いなる摂理」と言っとけば無難かな? - -; >>224 根拠は? もしかして貴方の脳内で作り出した妄想ですか? >>221 難しい話ですね。もしかして憑霊現象ですか。 >>223 自分のカルマ(アラヤ識)は自分で落とす以外にないです。 それを落とすことが悟りですね。 欲望を否定することで神に出会う。 これ以外の道はない。 それゆえ、金を求め豊かさに執着し、ハーレムを作るような宗教家は、 どれもこれもニセモノだということがわかる。 >>227 根拠は? もしかして貴方の脳内で作り出した妄想ですか? アラヤ識(過去世)は、生きている死体、沈黙の識である。 アラヤ識を落として消去することが悟りだから、 悟った人は過去世とさらに遠ざかる。 悟った人は「六神通」という超能力を獲得するとも言われるが、 これはフェイクである。そんな能力を得たと公言すれば、 悟っていないことが逆にばれてしまう。^^ 神足通〜機に応じて自在に身を現し、思うままに山海を飛行する。 天耳通〜普通聞こえることのない遠くの音を聞くことができる。 他心通〜他人の心を知る力。 宿命通〜自分の過去世(前世)を知る力。 天眼通〜一切衆生の過去世(前世)を知る力。 漏尽通〜自分の煩悩が尽きて、今生が最後だと知る力。 自分の前世もわからないのに、他人の前世を語る人がいる。 そんな人は真っ赤なペテン師だと断言できる。 調べようがないから、適当な作り話をしているだけだ。 あの人も、あの人も、あの人も、金儲けのためにウソをついている。 そんな人にだまされるのは自業自得ではあるが。 >>228 欲望があるから、うそをつき、盗み、淫行し、人を殺す。 欲望を否定すれば精神的に死んでしまう。 しかし、精神的に死ねたとき、神に出会って救われる。 その神は命そのものである。命以外の神などいるはずもなく、 命の代わりに物質で造られた偶像を拝むわけにはいかない。 また命は命であり、特別の名前をつける必要性もない。 原始仏典『スッタニパータ』を読めば、 釈尊が欲望を捨てることを力説していることを知るだろう。 欲望があるからこそ、人間の苦しみも生まれるのだ。 >>221 仏教の「空」には同意できません。 霊魂の有無は、いくら議論しても結論には至れません。 坐禅をし、想受滅から霊魂体験をしないと謎は解けません。 神の有無も同様、実際に神に出会わないとわかりません。 日常意識・マナ識・アラヤ識・霊魂の関係は次のようになります。 目覚めている時は、日常意識が自分自身だと思ってます。 夢を見ている時は、マナ識が自分自身だと思ってます。 霊魂の時は、霊魂が自分自身で、他のことをまったく思い出しません。 四つの意識は相互に関係しあっているはずですが、 時点時点の意識はどれか一つがすべてを代表し、 複数の意識が同時に働いて分裂状態になることもありません。 ーー 多重人格は憑霊現象ではないかと思われます。 キリスト教の原罪も、やはり「欲望」ではないだろうか。 創世記3章、アダムとエバは園にある「善悪の知識の木」からその実を 取って食べるが、食べると目が開け、自分たちが裸であることを知り、 二人はイチジクの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。 この話のポイントは、食欲と性欲という欲望と、(神の命令に背いても) 欲望に屈服してしまう自分たちを善とする判断にある。 すなわち、欲望に負け、欲望に屈服してしまうことが原罪なのである。 そうだとすれば、イエスの十字架で贖えないことは即座にわかる。 欲望は個人的なものであり、イエスを信じても、 欲望すなわち原罪はそのままその当事者のもとに残っている。 だからイエスが死んでも、世の中は何一つ変わらなかったのである。 もともとイエスの贖罪説はパウロの作り話だったわけだ。 キリスト教信者は、教会で洗礼を受ければ救われるとカン違いしてる。 しかし、そんなことで欲望を支配することはできない。 人間は天邪鬼だから、むしろ逆に欲望に火がついてしまうこともある。 欲望が原罪だから、欲望をそのままにしているキリスト教信者は、 天国に入れないことを覚悟した方がいいだろう。 欲望を支配することは、生涯の大事業だと言っても過言ではない。 創世記3章エデンの園には、「命の木」をテーマにした後半がある。 その実を「善悪の知識の木」から取って食べたアダムとエバが、 命の木からも取って食べないように、エデンの園に住んでいた神々は 命の木に至る道を守るために園の番人を置いた。 その実を食べると、永遠に生きる者になることを恐れたからである。 この話は逆に、アダムによって人類に入り込んだ「罪」が救済できる ことを暗示しているではないだろうか。命の木の実を取って食べることが できれば、「永遠の命」を得ることになるのだから。 この話が真実であれば、ここに人類救済の秘密が隠されており、 これが解ければキリスト教はやがて崩壊する。イエス・キリストとは 関係なく、人類は原罪から救済されるからである。 命の木の謎は解けた ^^ → 神は「命」そのものである 前半の「善悪を知る知識の木」は欲望を象徴していた。>>233 そうであれば、欲望を消滅すれば、「命の木」の実を取って食べる ことができる。理屈の上ではそうなる。そして実際そうなる。 命の実とは「命」そのものであり、これが「永遠の命」である。 命の木とは命の実をつける「神」本体のことを象徴する。 園の番人とは、神によって創造された霊界の高級天使である。 園にいる「神々」は、この神話を作ったどこかの祭司たちである。 創世記がバビロン捕囚後に追加されたことを考慮すれば、 ユダヤ神話ではなく、バビロンで採集された神話の可能性が高い。 イエスがキリストであることを信じれば救われる ??? それも死んだ後の話なんだってさー ??? よくこんな怪しげな宗教を信じられなー ??? キリスト教を国教にされ弾圧され、聖書も読めなかった時代の ローマやヨーロッパの民衆なら仕方ないだろう。 しかし今や、信教の自由が保証されている。 キリスト教という邪教を信じる理由などまったくない。 神国アンド仏教国の日本人の世界史的役割は、 キリスト教やイスラム教やユダヤ教などの一神教の批判にある。 ざっと見渡しても、日本以外に批判できそうな国はない。^^ ーー 多重人格は憑霊現象ではないかと思われます。 ↑ 国に喩えれば 党首交代 政権交代 クーデター・・等かも - -; ヒントは、 イエスの教えを守ること、ですよ。 また、 わたしは道であり、命であり、真理である >>238 話題が無くなって困ったなと思っていると、 マスターのレスが入るので大助かりしてます。(^−^) 多重人格の憑霊現象は、どの段階の意識に憑霊するのか? 神の息である霊魂や、過去世や本能であるアラヤ識には憑霊できない。 それらは個体の中枢部分を形成する意識だからである。 かといって表層意識に直接憑霊することもできない。 そんなことが可能なら、この現実で生きられなくなるからである。 表層意識への憑霊は、神の摂理によって赦されないようだ。 だとすれば、マナ識への憑霊によって多重人格現象が生じる。 それも複数の悪霊が取り憑く現象である。福音書にもその例がある。 マタイ 8:28−34 悪霊に取り憑かれたガダラの人をいやす 同書 12:43−45 汚れた霊が戻って来る 表層意識のひとつ下にマナ識がある。夢や魔境に現われる識だが、 催眠術は、表層意識にコトバによって働きかけ、マナ識をコントロール しようとする技術である。退行催眠による前世療法もあるという。 憑霊現象はこれらと異なり、悪霊が直接マナ識に働きかける現象である。 悪霊が近づくのは、その人の精神が汚れているからに他ならない。 その意味では、その人がやった行為は、その人に記憶がなくとも、 その人の責任になる。たぶん憑霊した悪霊も責任を取らされるのだろう。 憑霊現象は、その人の表層意識を悪霊が支配するため、 当人には現実の記憶が基本的に失われる。 悪霊の支配が不完全なら、多少の記憶が残っている可能性はある。 人間には通常、守護霊が憑いていると言われている。 この他にもヨブ記のヨブように、高級天使が憑く場合もある。 こういったケースも憑霊現象に分類できるだろう。 いずれにしろ、マナ識を通して働くので表層意識には把握できない。 善霊にしろ悪霊にしろ、自分以外の存在に運命を左右されている としたら、もっともっと謙虚に自分を見直す必要がある。 相手の姿が見えないから戦いづらいが、どちらであっても一本槍、 【欲望を否定する】ことで勝利者になれることだろう。 人格が内部分裂して党首交代する多重人格は心理学的事象とされるのに対して 憑依霊による多重人格があるなら それは超常的な神秘現象と呼ばれるだろう 実際には(科学的にも)意識自体が宇宙最大の神秘現象なのだが (笑) 内部分裂と外的憑依での「内・外」は精神世界のそれであり 物理世界の「内・外」の様に明確な境界定義も無く解釈が困難である 意識と無意識と集合無意識などの分類では「内・外」の概念が希薄になる 感じとして 言語・概念の絶対性に固執すればその分感性が萎む気がする 🐼 欲望の否定を実践すれば、悪霊が遠ざかり多重人格は消える。 しかし今度は、守護霊、高級天使がやって来て試練に遭うが、 この場合は幸い、多重人格にはならない。 守護霊・高級天使は悪霊を遠ざけ、本人の霊的成長を促進する 目的で試練を与える。本人のための試練だから、本人の意識を破壊する ような多重人格は起こさない。 どちらも無意識無自覚だから、そういった現象が通り過ぎてから、 ああ、あれはそういうことだったのかと気づく程度である。 欲望を否定しようとすれば、遅かれ早かれ体験できることであり、 実際に体験すれば納得せざるを得ないだろう。 憑霊現象の具体例はいくつかある。 自動書記は、大本の出口なお、天理の中山みき 口述霊媒は、出口王仁三郎の『霊界物語』、スピ系の霊界通信多数 エドガーケーシーのアカシックレコード? アラヤ識ではないかとの説(ウィキ)もあったが、憑霊現象だろう。 自分の過去世(業)が自分の日常意識を乗っ取ることなどありえない。 影のようなものはあるのだろうが。 「空」についての補足 宇宙がビッグバンによって「無」から生じたなら、事物は「空」である と考える余地もあるかもしれない。しかし、事物は有の世界の側にあり、 その中で人間は生きている。 インドでは仏教が滅びている。「空」という戯論が、民衆の苦しみを 救うのに役立たなかったからである。日本の仏教も同様であり、 いつ滅びてもおかしくない状況になっている。 どうしたらよいか。「空」という戯論を捨てて、 仏教の原点 〜 苦集滅道、縁起の理法に戻る以外にない。 「G現象界」 >🐼 (メタ現象界) 「絶対無」を 如何なる領域も 如何なる可能性も無い非存在と定義し 「絶対無」以外の如何なる存在も G現象界であると定義すれば 「G現象界」の「絶対無限」が論理確定する - -; G現象界の「原初」を想定しても 常に原初が生じる可能性が 『それ以前に存在する』 ゆえに 「原初」 は否定され G現象界が 「原初の無い永遠」である事が論理確定する - -; 唯一絶対無限の存在に外は無く 外部からのエネルギー供給は 不可能であり G現象界が「永久機関」であることが論理確定する - -; 時間/空間/可能性/摂理/法則/意識/生命 等は 物理現象として説明不可能な 物理以前の存在であるから この世界が メタ異世界から成る 複合世界である事が論理確定する - -; 以上の事から G現象界の「無原初絶対無限メタ複合構造永久機関」が論理確定する 🐼 「メタ天文(ブン)学」 🐼 (=「G現象界」の局所薄皮) この宇宙は無限大と無限小の間に在る この宇宙の両極は無限大と無限小である 無限大空間の背後は メタ空間異世界であり 無時間世界である 無限小空間の背後は メタ時間異世界であり 全時間世界である 「メタ時・空反応」が この宇宙の全現象であり 「メタ時・空落差」が この宇宙の全エネルギーである ビッグバンはメタ時・空異世界の出会い・反応であり 素粒子はメタ時・空異世界反応の定在波(渦)である 重力は物質に流れ込むメタ空間異世界の作用であり 光は物質から放射するメタ時間異世界の作用である 無限大は無数の無限小で埋め尽くされており 両者は対等で表裏一体的「メタ構造」を成している 🐼 巨人の坂本が打てなくなっている バッティング霊の早めの夏休みかねぇ - -; 神と天使と霊の使い分け 〜 暫定的な私論です 神は、命そのものであり、神のいる仮想空間を神界という。 ーー 神から分離した命を神霊or神の霊という場合もある。 ーー たとえば、エデンの園の「命の実」を神の霊と言うように。 天使は、霊界に住む、霊界生き通しの霊である。 ーー 天使は、神に仕え、人間には仕えない。 ーー その任務は、神界が物質に汚されるのを防ぐことにある。 霊は基本、霊界に住んでいる、死者の霊をいう。 ーー 生きている人間に対しても霊を用いることがある。生き霊。 ーー 天使も霊界に住んでいるから、霊の仲間に分類される。 これが正しければ、次のようなことが言えるかもしれない。 守護霊 〜 死者の霊であって、地上で生きている人間を導くために 類魂集団から派遣される。血族・祖先であるとは限らない。 ある特定個人に憑いて霊的成長を促すことを主たる任務にするが、 本人が欲望に囚われ、影響力を行使できない状態になれば、 距離を置くことがある。その代わりに悪霊が近づいて来る。 高級天使 〜 人間が欲望から離れようとすれば悪霊が離れる。 しかし今度は、高級天使による試練が始まる。なぜなら、欲望から 離れようと思ったぐらいでは、物質的な汚れが山ほどついているからだ。 高級天使は、あらゆる霊に対して試練を与えるのではない。 神や神界を目指そうとする人間(生霊・死霊)に対してだけ試練を与える。 ーー 守護霊はいいが、守護天使という言い方は誤りである。 *神は命そのものだが、 「神は、法則なのか、それとも人格神なのか?」 この問題は、神という永遠にして普遍的な存在が、 人間という有限にして個別的な存在に関係することで生まれる。 神に好き嫌いがあっては神とは言えないから、 そういう意味では、神は法則であって人格神ではないだろう。 他方で、人間という有限で個別的な存在が神と出会えば、 自分の個別性で神を理解するから、神を人格神と感じる余地がある。 神の愛は、神と自分との間に生じた限定的な愛なのである。 結局、法則神も人格神も正解だとも言えるし、 どちらも間違っているとも言える。 聖書には、神との出会い話があるようで意外に少ない。 ただ単に、神と出会った、では参考にならない。 神と出会う方法や、高級天使のことを知りたいのである。 それでも参考になるのは、エデンの園、ヤコブとエサウの話、ヨブ記、 マタイ3、4:1−11あたりだろうか。 その点、分厚い本なだけに物足りなさが残る。 それに聖書には、自分との出会い〜霊魂体験への言及がない。 輪廻も一か所を除き同様である。意図的にカットされた印象を受ける。 ーー エリヤの生まれ変わりが洗礼のヨハネ、マタ11:14 ヤコブとエサウの話ではベヌエルの格闘(創31:22 - 32:32) ヤボクの渡しを前にしてヤコブは、背後をラバン(妻二人の父)に ふさがれ、行く手には兄のエサウが400人を連れ迫って来る。 ヤコブは進むことも退くこともできず、ヤボクの渡しで一夜を過ごす。 そこで彼は何者かと夜明けまで格闘した。その人はヤコブの腿の 関節を打ったので、腿の関節がはずれた。 ーー ヤコブが格闘した相手は、ヤコブ自身である。 ーー ヤコブは自分の欠点に気づいた。周囲を出し抜くことである。 ーー ヤコブは自分で自分の腿を打って悔いた。 ーー その瞬間、ヤコブは神に祝福される。 その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと 呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」 創32:29 ーー 神は話さないから、これは物語作者の解説だと思われる。 ヨブ記は31:35-37,40 ーー 自分は絶対に正しいという思い込み ーー 世の中の人は全員がこんな状態になっている ーー 欲望に従って生きることを悪いことだとは思っていない 全能者よ、答えてください。 わたしと争う者が書いた告訴状を わたしはしかと肩に担い、 冠のようにして頭に結び付けよう。 わたしの歩みの一歩一歩を彼に示し、 君主のように彼と対決しよう。 ヨブは語り尽くした。 ヤコブに対する「試練」の始まりと終わり ヤコブは兄エサウとトラブルになり、母の兄・ラバンの家に向かった。 その途中、石を枕に寝ている時、不思議な夢を見る。 天から地に向かって階段が伸び、神の御使いたちがそれを上ったり 下ったりしている。ヤコブはその地をベテル(神の家)と名づけた。 ーー これが天使の「試練」を受け始めるきっかけである。 ヤコブは、ラバンに酷使されること20年、 ついに妻子や家畜を連れてラバンのもとから逃げ出した。 ーー これがラバンの追跡、ベヌエルの格闘へとつながる。>>253 ベヌエルの格闘で正体不明の何者かに勝利して「試練」が終わり、 ヤコブ改めイスラエルに変わり、高級天使が仕えるようになる。 ヨブに対する「試練」の始まりと終わり ヨブは、無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。 それゆえに高級天使の「試練」を受けることになる。 ーー そういった人々は神に近づこうとするから試練に遭う。 あなたのことを、耳にしてはおりました。 しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。 それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し 自分を退け、悔い改めます。 ヨブ記42:5-6 〜 試練の終わりは神との出会い しかし、この詩の意味は微妙である。AからBではないだろうか。 @ 神を見たから悔い改める 〜 それでは当たり前過ぎる A 悔い改めたから神を見る 〜 まず自分の誤りに自分で気づく B それによって神を見たから、衝撃を受け、再度深く悔い改める 神に仕える高級天使は人間にも仕えるのか 〜 マタイ4:1-11 イエスは高級天使から試練を受けている。 ーー イエスが神なら、悪魔に試されるわけがない。 ーー 悪魔が高級天使なら、試練に遭うイエスとの関係が理解できる。 ーー この個所のイエスは紛れもなく人間である。 そこで、悪魔は離れ去った。 すると、天使たちが来てイエスに仕えた。マタイ4:11 ーー 天使が人間イエスに仕えることは基本的にありえない。 ーー しかし、人間に仕える可能性は考えられる。 ーー 天使がその人間を神だと認めればその人間に仕えるだろう。 ーー 高級天使はイエスから離れ、イエスを神とは認めなかった。 ーー このテーマは天使論の奥義だよ〜ん。^^ 神の傑作である天使は、なぜ神に仕えているのか? 天使は霊界生き通しの霊的存在である。 ということは、神→霊魂→マナ識という精神構造になっており、 過去世、カルマ(業)、本能を担うアラヤ識が欠けている。 人間の精神は神→霊魂→アラヤ識→マナ識であり、 アラヤ識が霊魂に覆いかぶさっている。 マナ識は精神世界を認識する能力だが、アラヤ識があることで 神や霊魂とはそれだけ隔てられ、遠ざかることになる。 両者を比較すれば、神や霊魂と近いのは天使であり、 人間の精神はアラヤ識の分だけ、天使に劣ることになる。 これが、人間が天使に劣っている理由である。 その天使がなぜ神に仕えるのか。それは、人間が持っている アラヤ識や物質的なものへの執着を、汚れとして認識するからである。 天使は霊魂しか知らず、純粋で清浄な世界を生きている。 その天使からすれば、人間の物質的汚れは絶対に許せないのである。 だから、神が黙っていても、天使は自動的に神に仕えることになる。 天使が人間に試練を与えるのは、人間が神界を目指す時に限られる。 人間が欲望に支配されて物質世界を生きている限り、 その人間の精神は物質で覆われ、天使の目から隠されるからである。 しかし、もっと誠実に生きようとか、霊的に成長しようとかすれば、 天使の試練が始まり、塗炭の苦しみを経験することになる。 本人が退却すれば、それ以上の試練は経験しないで済む。 進むも退くも本人次第だから、何があっても本人の責任で自業自得。 ーー たどたどしかったが、神の経綸はこんな感じだろうか。 信じられないかもしれないが、 これだけ天使のことが書けるのは、 三途の川で天使に出会ってるからだよ。 臨死体験してるんだね。 間違った教えを信じたり、 お金を貰って間違った教えを説いている人は、 救われるどころか地獄に落ちるかも。 信者より教師の方が罪深いらしい。 教師は死後、間違った教えを信じた人たちを訪ね、 一人一人に謝罪することになるらしい。 赦してもらえるかどうかは相手次第で定かではない。 人間は天使の上位になれるか 天使の精神は神→霊魂→マナ識になっている。 この構造だと霊魂のことはわかるが、神のことは永遠にわからない。 天使には物質的な試練がないからである。 人間の精神は神→霊魂→アラヤ識→マナ識→物質であり、これであれば、 まず物質的な欲望を否定することで「神に出会う」ことができる。 次に想受滅でアラヤ識を消去できれば、「霊魂に出会う」ことができる。 人間が天使と出会う場所は坐禅中の魔境である。 ここで神の愛アガペーを示せたら、天使がその人間に仕え始める。 今まで知る術のなかった愛に出会えたからである。 この観点から、悪魔の誘惑(マタイ4:1-11)を検証してみよう。 イエスは悪魔から誘惑を受けるため、(神の)霊に導かれて荒れ野に 行かれた。そして四十日間、夜も昼も断食した後、空腹を覚えられた。 すると誘惑する者が来て、イエスに言った。 @ 神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。 → 人はパンだけで生きるものではない。 → 神の口から出る『一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。 A 神の子なら、飛び降りたらどうだ。 →『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある。 B 世のすべての国々と繁栄ぶりを見せて、 --『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』と言った。 → 退け、サタン。 →『あなたの神である主を拝み、ただ主にのみ仕えよ』と書いてある。 問題点@ イエスは、悪魔(天使)に神の愛アガペーを示さない。 これだけで失格、イエスに天使が仕えることはない。 問題点A イエスは三つとも、旧約聖書から引用して答える。 その重要性が理解できてないから、まるで他人事のような答え方である。 悪魔(天使)が仕えてくれるかどうかというのに。 問題点B 夢の中で聖書のコトバなど思い出さない! 悪魔(天使)が現われるのは、深層意識、たとえば夜の夢とか 坐禅中の魔境とかである。コトバは表層意識に属しているから、 聖書をいくら学んでも悪魔(天使)対策には役に立たない。 結論 〜 この話は下手な作り話としか思えない。 もしかするとキリスト教は、天使の試練を避けるために、 物質的な欲望をそのままに温存しているのかも。 洗礼がすめば、もう天国に行けるものだと思い込んでいる。 でも欲望まみれだと、死者の霊である悪霊が寄って来るんだよね。 それでなくても処刑具を拝み、人肉食のマネゴトまでやってるし、 ヒェー、教会は恐い〜恐い〜場所なのかも〜〜 ^^ ペラ観察とペラ分析を限りなく捏ね回したペラ論理が (意識創発機序」の触りも語れんのは (当然だが) 笑えるばぃ(^こ^)w 御意 >🐼 w 話の内容が違うが、いったいどっちが本当なのか それとも同じことを言っているのか ヨハネの黙示録 〜 最後の裁き 20:15 その名が「命の書」に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。 エレミヤ書 〜 新しい契約 31:33 来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、 と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、 彼らの心の中にそれを記す。わたしは彼らの神となり、 彼らはわたしの民となる。 神の手元に「命の書」という書物が存在するとは考えられない。 神は命そのものであって、物質的なものではないからである。 そうすると、エレミヤ書で語られている方が本当そうだ。 人間の心の中に刻んで置けば、裁きを間違えること決してない。 生きている間に心の中へ刻まれるとしたら、生きている間に 神の民であることを自覚し、神の民として生きることもできる。 心の中に記された、刻まれたという自覚がないのに、 命の書に自分の名が書いてあると妄想する人々も減ることだろう。 いつ頃から、人間は神に出会えるようになったのか。 ーー その条件はいったいなんだろうか。 まず人間が、神→霊魂→アラヤ識→マナ識→日常意識→物質世界という 精神構造になっていなくてはならない。 ーー その理由は後で説明する。 しかしそれだけでは足りない。コトバと、それを記録する文字がなくては ならない。そうすると、BC3千年前後であり、場所的には四大文明周辺が 考えられるだろう。それ以前は記録が無いから調べようがない。 人間の精神構造と、コトバと文字があれば、神に出会うことができる。 何もしないで黙示録の、地球最後の日をじっと待つことはない。 神との出会いは気づきだから、神との出会いに コトバとか文字とかが欠かせないことは当然である。 そしてもうひとつ、人間の精神構造の中のアラヤ識も欠かせない。 アラヤ識の役割を否定することで神と出会うのだ。 アラヤ識は、過去世とかカルマ(業)とか本能のことであり、 ここから物質への執着心が湧いて来る。生物の原点は食と性であり、 生物はこれがあるからこそ生きていられるし、子孫を残せる。 アラヤ識は、30億年前に地球に生物として登場した時代から 現在に至るまでの、物質への執着心が蓄積された膨大な倉庫である。 そういったものが人間や動物のアラヤ識なのである。 だからそれは、過去世であり、カルマ(業)であり、本能なのである。 人間の日常意識は、アラヤ識の働きを「欲望」として把握している。 かりに「欲望」を否定できれば、アラヤ識の役割を否定できる。 アラヤ識の役割が否定できれば、霊魂はアラヤ識に覆われているから 霊魂も消える。(← これが次に坐禅に向かう伏線なのかも?) 欲望を否定すれば死ぬから、死を本気で決意できさえすれば、 カッコの中の精神構造と物質が消える。 神→(霊魂)→(アラヤ識)→マナ識→(日常意識)→(物質) 目を開いているのに目が見えなくなり、頭の中、額の真ん中あたりに 命の雫が一滴落ちて来る。 これが神との出会いであり、それをマナ識(心眼)で見る。 ★ 神秘体験には順序がある 神に出会った後、自分が何を体験したのかを知りたくなり、 すぐに聖書を読み始める。それと並行して、なぜか坐禅をスタートした。 神の霊に導かれたのかもしれない。半跏趺坐で数息観。 それから半年ぐらいで、想受滅から霊魂体験をやることができた。 わたしは神を信じ切り、坐禅が危険なことなどまったく知らず、 神への絶対帰依だけで坐禅をやった。一日一時間程度で一禅のみ。 だいぶ後になってヨーガスートラを読んだら、シヴァ神である イーシュバラへの信仰だけで究極の境地に到達できると書いてあった。 これも導かれたのだろうが、坐禅の道理に適っていたことになる。 マンションの一室にいたので、廊下があり、部屋との間にある戸を 閉めると、無音で真っ暗な空間を作ることができた。 その頃、たまたま無職だったのも、自由に時間が使えて幸いした。 (神)→霊魂→(アラヤ識)→マナ識→(日常意識)→(物質) アラヤ識が消滅すれば霊魂に出会えるはずである。 そして神と出会う際、すでにアラヤ識の役割を否定できている。 ということは、アラヤ識消滅の予行演習をやっている。 そのうえ心眼(マナ識)も開いている。 だから短期間で、想受滅から霊魂体験へと進めるのである。 大乗仏教の禅は、神霊体験→霊魂体験の順番を無視、 いきなり坐禅を始める。その結果、いくら坐禅をしても効果がない。 だいたい、神を認めないし、アートマンである霊魂も認めない。 最初から誤った設定だから不毛なこと、この上もない。 いくら坐禅をしてもヒマ潰しでは情けない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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