マインドフルネス瞑想 Part9
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>>262
なんでレスを見ただけで本で得た知識だとわかるんですか? >>261
>>229で発言したことは幻であり現実ではありませんでした
で終了ということ 幻という表現はこの世界では沢山使われるんですが
幻自体は問題になりません
幻に拘ってしまうのが問題なんです
死んだ子供 友人 彼女に似ている 目で追ってしまう その人のことを思い出してまた悲しくなってしまう
「似ている」だけだとわかっているのに何かがまた発生 生起してしまう
幻だとわかっていることと それに拘っていることは全く別の事象 カテゴリ違いの問題なんですよ メンタリストDaigoのチャンネル見て所謂「脳の筋トレ」だと思って始めた
将来の事とか過去のトラウマとか現在仕事で受けるストレスを受け流して散った気を戻す訓練みたいな感じ
ずっと憂鬱な気分で胸がつっかえてたけどまだ意識しないといけないとはいえ楽になってきた
まだ2週間15分ずつくらいしか出来ないけど続けるとやばいの? 幻のことをインドではマーヤーという。
宇宙の根本原理ブラフマンは個人の本体であるアートマンとまったく同一であり、ブラフマンすなわちアートマンのみが実在し、
それ以外のいっさいはマーヤー(幻)に基づき、あたかも幻影のように実在しない。
マーヤーを実在と見なすことを無明という。
ブラフマン(アートマン)のみが真実であり実在であり(一元)第二の実在はない(不二)、この説を不二一元論という。
不二一元論によると、日々の瞑想の継続により、
自己の内側にある不必要なものを浄化することができ、心は平安と静寂に包まれながら、
外側では本来の自己の能力が開花され、日常をより力強く、快活に日々楽しく生きることが出来るようになる。
そして自己の浄化が加速するにつれ、心(マインド)から一切のエゴと様々な二元的な考えを取り除き、宇宙(梵)と我々(個我)の本質がひとつであることを体現する。 >>269
瞑想指導の先生から、感情やストレスを受け流すというのは抑圧されているだけだと聞いた。
瞑想はその抑圧され蓄積された感情の源(潜在意識)まで降りて行くからいきなり長時間やるのは危険で、一日10分くらいから徐々に増やしていきなさいと指導されたよ。 仕事関係で朝とか不安感が強いんだけど、こんなときはどうしたらいいかな 呼吸を見るのはアーナパーナ?抑圧になる?
ボディスキャンをすればいいのかな?
いろんな宗派でいろんな解釈、いろんなやり方があってわからなくなってきた ブッダのアーナパーナでも、ティクナットハンのマインドフルネスでも、
体の安楽を感じながら、とか体を楽にしながら、というフレーズが出てきて、
それって抑圧なのか?やらないほうがいいのか?などと思ってしまう マインドフルネスを知らない人がやる「受け流す」は気にしないようにしてるだけだから抑圧になるかもね
マインドフルネスは違う
というか、気にしないように「する」んだからマインドフルネスとは反対か やってみて効果があるかないか試すしかないわな
気になるなら指導者のいるとことろでおしえてもらうか
かといって指導者がちゃんとしてるかどうかわからんし結局のところ自分に結果が出るまで何もはっきりしない
時間があるならいろいろ本読んでいろいろやってみるのがいいんじゃないの ちゃんとした本に書いてある事を書いてある通りに素直にやってみるのが一番なんだが…
レシピをいろいろ工夫してマズメシ的なコースに入っちゃう人ってほんといるからなあ ただ身体感覚を追い続けるだけなんですけど
難しいのかな? ゴエンカ師のところでは身体の感覚を順番に観るだけだね
スマナサーラさんのところの呼吸を感じる方法は、
ゴエンカさんのところだとサマタになる?
それに、ティクナット ハンさんのところだと、身体を楽に、幸せを感じて、とか、感覚を作るというか、サマタなのかなと思うことが 感覚を追い続けるだけって本に書いてあっても
真面目な人ほど、感覚を追うんだ、集中しなきゃ駄目だ、何で自分はできないんだ、ああっまた気が逸れてた、次こそ…次こそ……グッタリorz
とかやりがち >>275
安楽に 安楽な状態で... その場合の安楽は抑圧ではないです
寧ろ日常でどれだけ心身が硬直しているか実感する機会になる確率の方が高い気が....
是非挑戦して下さいませ
一番向いているのは休みの日の寝起きなんかが代表的です ・舌は上のあごに掛けるのである。
息は鼻から通じさせるべきである。
唇と歯は相い付けるべきである。
眼はまさに開くべきであり、張っても微[ほそ]めてもならない。まぶたで瞳を覆ってはならない。
うなじが背中から違ってもならない。
鼻からの息は通じるに任せて、喘がず音も出さず、長くもなく短くもなく、ゆっくりでもなく急ぐでもない。
身と心をともに調えて、身体を挙げて数回欠気して、内外を放ちゆるくするのだ。
(道元『辨道法』)
https://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/5f6c3e0c68ce3273e94adc590ae30d6b >>276
そうだね。
例えば失恋の場合、普通の人は趣味とか仕事とか旅行とかほかのことやって失恋の苦しみを紛らわせるが、
マインドフルネスの場合、失恋の苦しみに伴う想いなり感情なりに正面から突っ込む感じ。
普通の人から見たらマインドフルネスの方がしんどく見えるけど、想いや感情を乗り越えるには結局逃げずにしっかり観るしかないんだよなあ。
逆に普通の人の受け流すやり方だと、怒りや悲しみや恨みがいつまでも潜在意識に残ることになる。 >>284
ありがとうございます
なんとなくその感覚わかります。平静に体の緊張を見ること自体に安楽な土台が感じられるというか
試してみます >>285
舌は上のあご?前歯?につけろ、
眼(のまぶた)は半眼にしろ、っていうの、
言ってるの曹洞宗だけじゃない? こんな事書いたら、また気取った物言いしてんじゃねーよって言われんのかな
先に謝っとくわ。ごめんねごめんね〜 >>288
曹洞宗以外の仏像も半眼だよ
奈良の大仏の毘盧舎那仏
鎌倉の大仏の阿弥陀如来
広隆寺の弥勒菩薩像
金剛寺の大日如来像
有名な仏像はみな半眼で瞑想している
タイやミャンマーの仏像も瞑想しているものは殆どが半眼 まあそらそうなんやけど
半眼で瞑想するのお勧めしてるのって実質的には禅だけやで チベット仏教基本半眼
ヒンドゥー教目は開いたままか半眼で瞑想
あるいは軽く閉じて瞑想 出来るところでやっていけば良いのではないかと
少なくともその時間は今に居るはずですから >>294
お勧めっていうか半眼の指示があるかどうかね
閉眼か半眼かって特に指示無し、つまりどーでもいいってのが普通で、あえて指示があるときは閉眼じゃない?
キリスト教の黙想とか閉眼だし
ヒンドゥーは開眼なの?俺の知ってるヨーガ系の人達は閉眼だけど… 指導書の多くは、眠くなるなら開ければいいし気が散るなら閉じればいいなどと結構柔軟だね。
ラリー・ローゼンバーグの本には、そんなこと(目を閉じるべきか開けるべきか)で問題を起こすなと書かれていてハッとした思い出がある。 そうだよね
開眼か閉眼かを指示してくるのはあまり無い印象、つまりどうでもいい要素
歩行瞑想は開眼、観想は閉眼ってやり易さに合わせるのはあるだろうけど 足の組み方とか印の結び方も宗教や宗派によってまちまちだね 自分の頭の中の雑念をラジオを聴くかのように観れるようになってきた。
この意識状態いいね、自分を外から眺めてる感じ。
ふと怒りが湧いてきても、おお俺怒っとるなーみたいにひとごとみたいに受け止められる。
人に言ったら離人症とか思われそうだから何も言わないけど、自分でも瞑想状態と離人症の区別がはっきりついてないんだよなぁ。
瞑想修行が進めばわかってくるのかな? このスレの住人って頭でっかちでgdgdばっかゆーてるけど、ヨガくらいやってんの? なんでこのレスの流れで理論武装がどうたらとかw
誰がバカなんだか >>301
その状態をこのスレでいうと病気扱いされちゃうけど、それでいいんだよな多分 >>309
私の知っている先生は若い頃からその状態が普通だったんで 人類全員が同じだと思ってた 違うと知った時ほんとに驚いたと言ってましたよw
私も大昔に最初に座った時には自分のおしゃべりの激しさに初めて気づいて笑ってしまいましたけど 今は あ 音に気づいた あ 怒りに気づいた あ 思考に気づいたという感じです
もっというと体という乗り物に観察する意識が乗っていて 勝手に色々動いたり反応したりする様子をただ眺めている感じの時も増えてきましたよ
あんまり心配なら専門外来受診を勧めますが 離人症を見分ける医者は少ないだろうな という気もします どのくらい瞑想したらそんな感じになれるのかな
感情はあっていいけど感情に巻き込まれないようにしたい 瞑想始めてからすごく怖くなったよねって知人に言われてびっくり(知人は俺が瞑想始めたこと知ってない)
自分としては以前より苦しみ減ったと思うんだけど >>311
>>310書いてる人は、文体と内容からみて>>199だと思うんだけど ラーフラ、捨の瞑想を深めなさい。というのも、捨の瞑想を深めれば、ラーフラ、どんな怒りも消えてしまうからです。 捨の瞑想・・^^
最終的には自分なる者をも捨てる^^ 自分なる者・・^^
そんなものなかった^^
でござる^^ 究極には一切をも捨てる・・^^
「空寂清浄」の境地やな・・^^ なぜ捨てられないのか・・^^
考えるのもいいかもしれん^^ 分別してるから捨てられないんやで^^
なんて言ったら・・^^
おまえらちんぷんかんぷんになるから・・^^
ここまでとしとくか^^ >>310
どうもそういうことが、普通は出来ないらしい
おしゃべりが止まったとき、うるさいラジオのスイッチをブチッと切ったようになりますよ
シーーーーーーンと、なんだこれはと その時、あたかも心が静かなピーンと張り詰めた湖の湖面の様な状態
恐ろしく静かとでも言うような マインドフルネスの客観視ってトラウマ忘れるための方法みたいに言われてるけどどこまで忘れれるの?
ちょっとしたことにしか効果ないのか
それとも例えばトイレにスマホとか財布を落としたみたいなどう頑張っても忘れれないようなことまで忘れれるのか >>327
ただ 観察を続けていると心のおしゃべりがかなり少なくなっても何かを感じていたい 新たな強い刺激が欲しい 空っぽ 無になりたくない という衝動が 意識 無意識に常に湧いてくるのがわかります
それが悪いということはないと思うんですが そういう衝動もおしゃべりと一緒で観察する必要があります
繰り返す思考行動パターン 考えるのも恐ろしいので通常は滅多に現れない秘めた恐怖 などなど
いっぱい観るものがあります うんざりするぐらいw >>329
マインドフルネスで極限まで到達した場合は たぶん自分が人間だということを忘れるんじゃないでしょうか という冗談は置いといて...
正確には気にならなくなる 思い出すのが難しくなる感じだと思います 私の例で恐縮ですが 車を駐車場に止めて用事を済ませて戻ってみると 見事に運転席のドアがバーンと開いたままでした 閉めることを忘れてたんですね
またこの記憶もあやふやです どこの駐車場で何の用事だったかはもう完全にわからなくなっている
個人差は大きいでしょうがある瞬間を起点にしてそれ以降の体験 記憶は希薄になるような気がします
ある瞬間以前の記憶の方が問題です 多くはそれがトラウマの場合が大きいでしょうが それはしつこいながらも気にならなくなります ドアを閉めるのを忘れるってマインドフルネスとは真逆なような トラウマの対処は忘れることではなく観ることだと思うな。
あるリトリートで過去のトラウマ的な記憶が鮮明に現れて、その日ほぼ一日号泣して、翌日以降は思い出しても気にならなくなった。
これを指導者なしでやるのは危険かもしれないけど、たぶんいつかは覚悟を決めてその感情と向き合わない限り生きてる限り永遠に追いかけてくると思う。
例えば家族の葬儀とかで悲しむ素振りも見せず気丈に振る舞ってる人ほどあとあと酒に溺れたりしていつまでも囚われてるし、逆に人目もはばからずギャンギャン泣きわめく人ほど短期間であっさり乗り越えているような気がする。
たぶん日本人は前者のタイプが多いからリアルタイムでは感情が抑圧されまくって瞑想時にその感情が噴き出す感じがする。 トラウマの直接の解決は完全にハッキリ観ることだとは思うけど、観れるような人はこれまでに観えてるだろうし、
観たくない観られないからトラウマなんだろうから、今までとは違う余程の決意と真剣さでやらないとトラウマ解決まではいかないだろうね
そもそも怖れから観ることを避けてるそのプロセス自体がトラウマだから、観れれば解決されるし、
観れない観るのが嫌なものは多かれ少なかれその人にとってトラウマだろうし
ハッキリ観ることができない人は客観視で地道にやってくものかも
客観視でもそのうちハッキリ観えて来るだろうし >>331
どこがマインドフルネスで極限まで到達した、だよw
ただの注意欠陥障害か健忘症だろ
それ車のドアだからよかったもののガス器具とかだったらヘタすりゃ死んでるだろ >>332
ほんとに謎です 自分でもw
原付のメットインもパカーンと開けたままが何度もある
感覚的には自分に意識が集中して外のことが目に入らないというか 外に意識を向けるのが疲れるというか 煩わしいというか
でも仕事は遅刻することなく行けている 不思議だ
>>336
そこは本当によくわからないですよね
まあ聞きおよぶところによると ある人は数を数えることが難しくなったり 動作が極端に遅くなったり 変化の前後にはそういう状態になるエピソードがあるようだけど
そこまでじゃないしなー という感じ 集中が極限になって本当にいまのこと以外一瞬前のことも忘れてしまうんでしょ
忘れてしまうというかいまの一瞬のこと以外自分の中になくなる
普通のマインドフルネスの状態じゃないよね やるべきことやってないんだから現在に集中出来てないと思うんだけど ただ今に気づき続けていると
時間がものすごく早く過ぎ去っていくように思える
集中しているからだろう
ただ、集中しているという感じは全く無いのだけど 七慢 しちまん
1.慢まん 自分より劣っている人に対しては自分が勝っている、とうぬぼれ、同等の人には、自分と等しいと心を高ぶらせる。
2.過慢かまん 自分と同等の人に対して自分が勝っているとし、自分以上の人は自分と同等とする。
3.慢過慢まんかまん 勝っている人を見て、自分はさらに勝っている、とうぬぼれる。
4.我慢がまん 自負心が強く、自分本位。
5.増上慢ぞうじょうまん 悟っていないのに悟ったと思い、得ていないのに得たと思い、おごり高ぶる。
6.卑慢ひまん 非常に勝れている人を見て、自分は少し劣っている、と思う。
7.邪慢じゃまん 間違った行いをしても、正しいことをしたと言い張り、徳が無いのに有ると思う。 お日様の高いうちからマンマンマンマンえろくさいスレだな 俺もトイレの電気の消し忘れとか、今さっき食べた食事わからなくなったり、
小学生の算数レベルの足し算引き算とか間違うこと多いよ
おそらく、生来のADHD傾向が顕在化してるのと、多量の飲酒による脳萎縮に加えて
加齢による脳機能低下、ひょっとすると認知症も出てるかも知れない
マインドフルネスノーマター >>339
ちょっと上でも書いたような気がしますけど 現在 今 というのが問題です 今というのは0秒なんです 急ブレーキ!で世界最高峰のドライバーが反射で反応して0.1秒後半でしょう
0.1秒はもの凄く長い時間なんです
屁理屈っぽい話をすると0秒に限りなく近くになるにつれて思考 判断する時間がなくなります じっと観ているだけしかできなくなります 次々と次の0秒がやってくるからです
0秒はたぶん無理だと思うんですが 深まっていくと瞑想中 時間が超超スローに流れるようになって音楽が細切れに聞こえたり指を一本動かすのに8つも10も細かい動き(気持ち悪いw)をしていることがわかる瞬間がきます(個人差あり?)
こういう変態的なことに挑戦していると 車のドアを開けっ放しでも 気にしない人生を送れるようになりますw 必要があってお金を貯めてた人が、貯金が趣味になっちゃった感… もうなんでもマインドフルネスのせいにしてりゃあいいよ 俺の母親は70過ぎだけど、最近は今言ったこともすぐ忘れるようになってきた 寺院なりサンガなりで、修行を積んでいる人間が、
作法を忘れました、しくじりやらかしました
「えへへ、マインドフルネスの成果ですね。えへへへ」
こんなん、通用するのw 大学のマインドフルネスの公開講義で、脳科学の先生(名前忘れた)が呼吸に集中するなどの一点に集中力を研ぎ澄ますタイプの瞑想法は、あまりやり過ぎると注意分割機能?だかが衰えるので注意不足や記憶力低下が起こると言われておられた気がします。 >>353
熊野さんの講義ですかね?
一点集中型っていうのは熊野さんの分類によるサマタ系の瞑想を指してのことですよね
そういうこともあるんですかね、あるかもしれませんね
注意分散型の瞑想とではまた違いがあると思いますが
いろいろ不確か、不確実な点がありますので、あまり突っ込みませんです 熊野さんはマハーシ式を含めた「一点集中」型をサマタ、
注意分散型をヴィパッサナーって言ってるし
マハーシ式を実践してる人たちは自分たちの流派をヴィパッサナーって言ってるし、
多分、単純に言葉の問題だけじゃなくてもっと深い部分でも見解の相違があるように思うんですけどね >>354
確かその先生です。
あまりサマタやヴィパッサナー、マハシ式などの流派には触れず、あくまで臨床の話がメインでした。
注意集中は呼吸に意識が向きすぎて周りの何も聞こえない、匂いもわからないような状態。
注意分割は呼吸に意識を向けながら、思考や身体の感覚や音や匂いにまで意識を広げるというやり方だったと思います。
何年か前のことなのであまり詳しい内容は覚えてませんが、過度の集中の危険性は何度も強調されてましたね。 >>357
>注意集中は呼吸に意識が向きすぎて周りの何も聞こえない、匂いもわからないような状態。
その先生はそのまでの状態になったことがあるのか?w 「sati(マインドフルネス、念)」の意味は
「憶えていること」「思い出すこと」
「注意すること」「気をつけること」です
その反対の「憶えていないこと」「忘れること」は
「失念」と言います 自我が薄れていく段階で忘れっぽくなるのは有るだろうな
自己が失われる恐怖から開放されて浮かれている状態
その先に進むと慈悲の心が芽生えて全体のために生きようと覚醒する 一点集中したら人によっては禅定とかサマーディとか言われる状態に入っちゃうでしょ
状態によっては他の一切が何もわからなくなったりするよ
呼吸じゃなくても何かに本当に集中できたらそうなったりすると思う
日常生活的には危険だけど、その状態を知るためにやってるひともいるし一概に危険で済ますものではない気もするよね
普段の生活の中ではそうならないようにしたほうがいいと思うけど >>361
それはいわゆるゾーンというやつだすな
スポーツ選手や芸術表現者などはゾーンに入れていつもの自分とは違うパフォーマンスが出ることがあるようだす
そういう自分もゾーンかどうか分からないだすが楽器演奏してて乗りが自分なりに極まってくると
リズム隊の演奏がゆっくりに聞こえリズムの表裏を細かくとらえられた経験がなんどかありその時の演奏は多分良かったと思うだす
瞑想ではなかなかそこまではないだすが
いつも思うのは最初は呼吸はランダムでも10分20分と瞑想を続けているうちに呼吸が整ってきて
呼吸が整ってくると同時に心の波風も静まってくるのは感じてるだす むかし武術の大会で優勝したことがありましたが
その時の状態は、ゾーンと言うべき状態でした
しかしゾーンをどう生み出すかがわからなかった
何十年も探してきましたがけど
どうも
それに近づく方法は瞑想にあるようです。 ピアノの練習をしているとき、指の動きが一本一本全てみえる状態に
遭遇しています。
ものすごいスピードで動いているのに
スローモーションで動いている様な感じです。
その時は思考が止まっているというか、思考が邪魔をしないと言う状態で
非常にクリアではっきりみえているという状態 心理学から見たら禅定=フローみたいね
フロー (英: Flow) とは、人間がそのときしていることに、完全に浸り、精力的に集中している感覚に特徴づけられ、完全にのめり込んでいて、その過程が活発さにおいて成功しているような活動における、精神的な状態をいう。
ゾーン、ピークエクスペリエンス、無我の境地、忘我状態とも呼ばれる。
心理学者のミハイ・チクセントミハイによって提唱され、その概念は、あらゆる分野に渡って広く論及されている。 続きっす
チクセントミハイが見たところによれば、明確に列挙することができるフロー体験の構成要素が存在する。彼は8つ挙げている。
1明確な目的(予想と法則が認識できる)
2専念と集中、注意力の限定された分野への高度な集中。(活動に従事する人が、それに深く集中し探求する機会を持つ)
3自己に対する意識の感覚の低下、活動と意識の融合。
4時間感覚のゆがみ - 時間への我々の主体的な経験の変更
5直接的で即座な反応(活動の過程における成功と失敗が明確で、行動が必要に応じて調節される)
6能力の水準と難易度とのバランス(活動が易しすぎず、難しすぎない)
7状況や活動を自分で制御している感覚。
8活動に本質的な価値がある、だから活動が苦にならない。
3と4なんか特に、このスレでも言われてることに似てると思うが 366.
心理学をやっている場合ではない。
それは宗教ではない。
なんでか。 当方心理学を専攻しとりますが、サティ(気づき)がなぜ有効なのかは未だはっきり解明されてないようです。
メタ認知機能とか注意機能とか使ってそれらしい解釈もできますが、臨床ではメタ認知療法では寛解しなかった精神疾患のケースでもマインドフルネスは有効性が見られた。
まあ心理学的に見るとブッダは史上最高の腕のいいセラピストですな。 >>368
失礼、ここ宗教板だったね。自重しますです。 369.
ブッダはセラピスト、か。
それならば、金儲け、ができる。
宗教とは何か、理解していない。
だからして、心理学になってしまう、のだ。 うーん ゾーンは似ているけどちょっと違うんですよね 同じような集中状態なんですけど ちょっとポジティブなんです 動作に自分の思考は介在しないが気持ちは介在するというか
対戦相手なり 何かの動作なり自分以外の対象がある
ノリノリって感じです ただゾーン状態で不二一元が起きたこともあるんで関係ないとも言えないけど
大きな違いはそれまでの自分という感覚に対して 疑い 違和感を発生させて足腰をガクガクさせるかどうか ということだと思います
ゾーンのスーパー能力発動だとせいぜい ねえ 聞いて聞いて! 昨日こんな状態になって相手の動きがスローに見えたの! すっごく不思議だったよ!で終わってしまうので ここでゾーン体験をした人だけの話になってしまうんですが 体験をした人は 昨日のことのように覚えている人も多いと思います
ゾーン中に自分で体を操作していた 思考で自分を操っていた感覚は希薄ではなかったですか? 動作が勝手に起こっていたのではないですか?
日々の瞑想でも 日常生活でも良いんですけど その時と違いがあるか確かめてみて欲しいんです 歯ブラシを手に取る時 テレビの電源をつける時 家の鍵を閉める時
よし 歯を磨くので今から手を動かすぞ と決意してから手を動かしているのかどうか ぼーっとしながら家を出て鍵を閉め忘れたと思ったけれど 実際は閉めていたことはなかったか 長時間やるとうっ血の痺れで立ったらがくがくなるけど 無意識で何かやってるのはマインドフルネスじゃないよな
そこから脱却するのがマインドフルネスであって 光らない物・音が出ない物・動かない物
電気系統を持たない物 車の運転は無意識だよね
全ての感覚にマインドフルネスしてたら絶対に事故るわ >>377
確かにそうなんですけどねw
いやー なんか嬉しいな なんでだろw
それでは何にマインドフルになるのか という問題があります 実際心身で起こっているのは風を感じつつかつ 何かを思考しつつ 手を動かしつつ 足を動かしています まあ内臓も動いてますよね 眼球も忙しく動いています
意識が同時に全部を観られれば 全部を同時に観察できます ですが実際は瞬間瞬間には一つしか観察できないんです
本当は数え切れないことが心身で起こっているのに....
ということは 意識して観察しているのは 観察しやすいごく一部 または任意にこれ!と決めた一部を観察していることになります 観察さえ一部しかできないのに全ての動作を意識して行えるか?という新たな疑問ができるわけです >>379
車の運転は半分は無意識かもしれんだすな
ヴィパッサナーで脳内実況中継しながら運転するのは疲れてしまうので長くはできないのは確認しているだす 交通事故って無意識の運転中に起きてることが多いんじゃないか >>382
だから半分は無意識ということだす
全くの無意識だったらそりゃ事故ります
自分がした運転中の実況中継は
前車との距離15メートル
前車との距離15メートル
カーブミラーを前方に確認
対向車を発見
前車のナンバープレートの番号は〜
カーブミラーの横を通過
周りの木々は枯れている
対向車はスピードを出している
こういった実況を「休みなく」、口に出さずとも脳内で言葉を使ってするもので10分もしたら疲れてしまっただす
あと丹田呼吸に浸ったまま運転するのも危険だす 車の件はそこにこころを置くというか
気をつけるというか
じゃないかと >>383
そんなラベリング要るか?
なんかずれてるような気がする。ちゃんと指導者いる? 15メートル
15メートル
カーブミラー
対向車
7830
通過
枯れてる
スピード
こんなラベリングを運転中ずっとしててごらん
運転中ぼっーとすることもなく運転に集中できるだろう マインドフルネスストレス低減法では
発進の前に瞬間的に呼吸を意識する
運転中は運転と運転している自分に注意を集中する
ラジオは聞かない
それくらい 意識も無意識も両方必要
ポイントはそれを統一する「何か」。 >>369
メタ認知療法には慈悲が必要なんじゃないでしょうか ホオポノポノはシンプルでやりやすい
無駄な議論よりクリーニングを優先するぜ >>383
あえて文章にしたためにそういう表現になってしまってるのかもしれませんけど 「思考」の領域が多いですね
それが実際に起こっているなら相当疲れそうです 見ている 見ている 信号を観た 右足で踏んでいる 右手に力を入れている
対向車線を観ている 標識を観た 体に緊張が走った(スピード違反に気づいて) と私なら実況中継するんですが
ちょっと工夫して何かに影響を受けて五感と思考が発生した 瞬間にだけ注目してみて下さい
ただ思考が煩い初期の間は確かに 何かをみたら ガーっと思考が文章のように自走することもあるかもしれませんね
人によって相当違いがあるようですから >>395
何言ってんの? ここマインドフルネス瞑想のスレだから >>396
そこに書かれている全ての動作は別にラベリングなしでもサティを入れられそうな気するのですが、わざわざ実況中継する必要あるのでしょうか?
ラベリングを否定するわけじゃないのですが、私の師はラベリングを行わずサティを入れるやり方なのでちょっとその辺の必要性がわからないんですよ。 陳那
「直接知覚が概念化構想、いわゆる分別を交えない知であり、
これが正しい認識の根拠であり、正しい認識の手段である」
つまり・・^^
受想行識を捨てろと・・^^
う〜〜〜ん^^
おまえらにはちんぷんかんぷんか・・・^^ >>399
あなたは受想行識を捨てられますか?
まだ捨てられていないなら、あなたは実際に十二因縁のどこでサティが入りますか?
あなたの修行は清浄道論に定義される智慧のうちどこまで得ていますか?
あなたは預流果以上ですか?それ以上だとしたらどの段階ですか?
あなたはなぜ、おまえらにはちんぷんかんぷんだと判るのですか? 『色蘊は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。
『受想行識蘊は空寂なり』の清浄なる句義、是れ菩薩の句義なり。 受想行識を捨てられますか?
捨てろというより・・・^^
色・受想行識に執着するな・・^^
と言ったほうがよかったか・・・^^
捨てろということは執着するなということだけれどもね^^ その肉体と受想行識を「自分のもの」だと思うから苦しみが起こる。
だから、その肉体と受想行識に執着するな。とゴータマ・ブッダは説いたという。
http://blog.livedoor.jp/kazusa69/archives/50827784.html
う〜〜ん^^
ブッダちゃんと考えがおなじや^^ 五感による直観で生きていくようにしろ・・^^
これは・・^^
肉体と受想行識に執着せずに・・^^
「直接知覚が概念化構想、いわゆる分別を交えない知であり、
これが正しい認識の根拠であり、正しい認識の手段である」
直接知覚のこと言ってると思うんだけれどもね・・^^ 「テーラワーダ仏教のヴィパッサナーの瞑想の基礎も、唯今の動作だけに意識を集中
させて、できる限り受想行識という認識作用が起きないようにする基礎訓練である。」
分別により虚妄の世界に入ってしまうからな・・^^ 【非思量】
仏語。すべての相対的な観念を捨てた無分別の境地。座禅の要とされる。
〘仏〙 人間の立場からする思考を突き抜けた心の在り方。
唐の禅僧薬山惟儼いげんが、座禅の際の心の在り方を問われて答えた言葉。 簡単に言えば・・^^
いらないものはどんどん捨てろと・・^^
究極には一切をも捨てろということだな・・・^^ 723因縁果 ◆d........o 2018/04/28(土) 18:08:25.54ID:9r4TjTsy
かかるむほんなどをたくまんと、おもいいたす最初の一念は、たばこの煙などのごとくにして
、きわめてかすかなる、ただ一念の妄想なり。
この一念の妄想を、わざわひの本ぞと知らずして、ひたと思いかさぬる故に、はては一天に
みつる雲のごとくにして、いよいよ思いやめがたし。
その最初の一念のとき、やれ妄想よと、あきらめ知りて、胸の内にて消さん事は、
何よりもってやすき事なり。
724因縁果 ◆d........o 2018/04/28(土) 18:09:31.70ID:9r4TjTsy
妄想もまた、これに似たり。
最初の一念の時、はやく思い捨つべし。
一念心をひるがえせば、無始久遠の妄念も、刹那があいだにはるるなり。
このことわりをわきまえて、夢の妄想を思い捨てて、さとりの心にもとづくべし。
この妄想を思い捨てて、第三の想蘊をこえて、さとりの田地にいたるべし。 >>410
とりあえずその興奮したら連投しまくる自我と
承認欲求を捨ててみては? ライフハッカーさんから残念なお知らせきてるで
(2014年8月17日の記事の再掲載)
https://www.lifehacker.jp/amp/2018/04/what-is-mindfulness-and-why-is-everyone-talking-about-it.html
米紙『ニューヨーク・タイムズ』は、創造性や洞察力のためには、ぼんやりしたり空想にふけったりすることが必要である可能性を紹介しています。
またこの記事によると、高度にマインドフルネスな状態は、「潜在的学習」(無意識のうちに、新しいスキルや習慣を学ぶこと)における効率の低さと相関している可能性があるようです。
--
だってさ。
ぼんやりする時間て敢えて必要?
俺は座るか風呂入る時間あったらそれで良いけどな〜 非思量
http://www.joshukuji.info/hishiryo.html
坐禅中の考え事は、対向車線を向こうから来る車だと捉えて、
流れているままにしておきましょう。
そちらに注意をとられると、脇見運転をしていることになり、ひどい場合事故につながります
今している呼吸に注意を向ける(観つづける)というのは、脇見運転をしないように、
気がそれないように、なおざりにせず(不放逸)、注意深く気をつけているということ。
今やるべきことは、今この瞬間に起こっていることに気づくということなのです。 >>417
>>402の質問に何一つ答えていない。
あなたにあるのは外部から得た知識のみで自ら修行で内面から得たものは何一つないと。
そういうことでしょうか? >>414
日付みりゃわかるけど、何年前の記事だよw
このスレにも何度貼られたことか.。飽きた >>398
結論をいうと別にどっちでもかまわないと思います
私も色々試したんですが ラベリングやマナマハリシ師のように自分 私 を気づきの中に入れる利点は 常に意識を正気をしっかり保つ効果なんだと思いました
観察も慣れてくるとダラダラと新鮮な気持ちがなくてもできてしまうので 常にしっかりハッキリ気づきを保ちやすい
感覚的にいうと何かをする前に自分でポッペタをパチンと叩いてから よし! 次もパチンとやってから よし! という感じ
ただ進んで深まってくるとそのへんはあまり重要ではなくなってくると思います このスレ見てても、瞑想やってる人ってメンタル崩壊してる人が多そう >>418
>>402さんかな?
ちょっと気になったんで質問
>>398のラベリングしない流派ってパオ式のこと?
それともゴエンカ式? マインドフルネスで「気づき」に相当する英語は awareness だが、
この語は「(〜への)意識があること」というニュアンスで用いられる。
つまり、マインドフルネスは、今ここ(にいる自分)を意識することが中核となる。
が、「気づき」という訳に引きずられて、
今まで見えていなかったものがふと見えてくる小さな発見こそ
マインドフルネスの肝だと勘違いしている人がたまにいる。
小さな発見に喜ぶことも悪くはなさそうに思えるが、
この勘違いで間違った瞑想を行い、人生を悪くした人を一人だけ知っている。
その人は、自己の利益のために嘘をついてもよいのだという「気づき」が入ってしまった。 ちなみに、サティ(sati)を「気づき」と訳す人がいるのも、
sati が英語圏で awareness または mindfulnes と訳されたことから来ている。
しかしサティは本来「忘れないこと」「思い出すこと」すなわち記憶を意味する言葉で、
そこから「注意すること」という意味でも使われる。
「朝 雨が降っていたので傘を持って出たが、昼晴れたので置き忘れてきた」人は
「サティが足りない」ということになる。
仏教的には「法」を忘れないことがサティになる。
「サティを入れる」というのはほとんど意味が解らない。
この「サティを入れる」という言い回しも、サティを小さな発見と勘違いさせる要因となっている。 時々コテつけてキチガイみたいに連投するのもよそうよ 知り合いから教えてもらった副業情報ドットコム
暇な人は見てみるといいかもしれません
グーグルで検索するといいかも『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
SIGBQ 好ましい好ましくない等がゆるやかになったりするのについては、ただ見る以外にも
苦(好ましいことがあると執着が起こる。その好ましいことが壊れそうになると執着のぶん苦しみが起こる、など)や
無我(完全にコントロールできるものはない。ある程度できても最後は破綻する、などいろいろ)等の日常の観察、
理解も上座部だと使っているような気が。
仕事で何度も破綻している(と言うと大げさだけれど)のを見ていれば、新しく予想外の何か(破綻)があっても
なんか普通に対処できるというか。
それだけでも感情の上下が穏やかになっていくような感じの気がします。 >>423
タイのルアンポー・ティエンの教えです。
日本ではプラユキ・ナラティボー師のお名前を良く聞きますが、私はタイ在住の時期にバンコクでパイサーン師の法話があったのでそこで彼から指導して頂きました。 >>427
非人格的かつ無限定・無属性のブラフマンのみが実在し、現象界は迷いつまり無明によって仮に現れている「幻(マーヤ)」
に過ぎないことを悟らないとこの手の妄想はいつまでたっても起こりうるよ
それを悟るためにはヨーガによる瞑想が必要 >>432
タイってホテルにテーラワーダ協会の本おいてあるからテーラワーダかな
と思っていたよ。
でもスマナサーラのとこはマハシ式だよな…
人によって違うのかね?? >>432
チャルーンサティの人か。
チャルーンサティだとどこで砂泥は言ってどんな感じになるの? >>435
砂泥は言ってじゃなくて、
サティ入って >>432
http://www.mahasati.org/manual_selfawareness.htm
なんかここ↑をみると
10日で名色を得、(定ってことかな?意味がよくわからんが…)、
だいたい1年(最短1日最長3年)で苦滅に至る、って事みたいだが、実感としてどんな感じ?
どうでもいい事だがチャルーンサティて、別にダンスでもいいんじゃないのかコレ? 教理、学理はどうでもいい
こういうところにいって生きるのが楽になったとかの答えが欲しい どこかにいくのではなく
ここにいるのがマインドフルネスだから
どこかに行って幸せを得ようとする考えならば
マインドフルネスじゃなく違うことやった方がいい こんなとこで聞くより本やネットででも調べて一週間でも自分でやってみたらいいのにって書込みが多いな 人を構成する要素は色(体)と受想行識である・・^^
例えば・・^^
歩いている人を見たら色・受想行識が歩いていると・・^^
人は色・受想行識から離れられない・・
ゆえに苦が生じる・・^^
なぜなら・・色・受想行識が自分であると感じている・・^^
つまり・・色・受想行識が自分であると・・^^
ゆえに我執が生じる・・^^
すると・・思いどうりにならないと苦が生じる・・^^
生きるのが楽になるためには・・^^
色・受想行識への執着をなくせばいい^^
そうすれば・・寂静の境地に到る^^
これが「ここにいる」ことになる^^
う〜〜ん^^
やはり・・自分で書くと文章がへたや・・・^^
最悪・・^^ Heart Sutra / 般若心経
https://www.youtube.com/watch?v=DqsH_VLqUwA
仏説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。
舎利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。
舎利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不浄。不増不減。
是故空中。無色無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。無眼界。乃至無意識界。
無無明。亦無無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。無苦集滅道。
無智亦無得。以無所得故。
菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。心無罣礙。無罣礙故。
無有恐怖。遠離一切顛倒夢想。究竟涅槃。
三世諸仏。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。
故知。般若波羅蜜多。
是大神呪。是大明呪。是無上呪。是無等等呪。
能除一切苦。真実不虚故。説般若波羅蜜多呪。
即説呪曰。
羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。
般若心経 照見五蘊皆空。度一切苦厄。
つまり・・これやな・・・^^ 色・受想行識への執着をなくす・・^^
これはかなり難しい・・・^^
さてっと・・^^
温泉瞑想に行って
色・受想行識への執着をなくしてくるかなっと^^ 唯識的に簡単に言えば・・^^
前五識と阿頼耶識のみでいることができるかだな・・^^ 第八阿頼耶識・・貯蔵意識
↓ ↑
第七末那識・・・自我意識
↓
・・・・・・・・無意識(90%)・・・・・・・・・
・・・・・・・顕在意識(10%)・・・・・・・・・
↓
第六意識・・思考意識
↓
五識・・感覚─(目・耳・鼻・舌・身)
第一眼識・・視覚
第二耳識・・聴覚
第三鼻識・・臭覚
第四舌識・・味覚
第五身識・・触覚
↓
(外界) つまり・・・^^
「いまここ」とは・・^^
第八阿頼耶識・・貯蔵意識
↓↑
・・・・・・・・無意識(90%)・・・・・・・・・
・・・・・・・顕在意識(10%)・・・・・・・・・
↓↑
五識・・感覚─(目・耳・鼻・舌・身)
第一眼識・・視覚
第二耳識・・聴覚
第三鼻識・・臭覚
第四舌識・・味覚
第五身識・・触覚
↓↑
(外界)
この状態なんだな・・^^ ついでに・・・^^
五蘊皆空とは・・
これらは・・^^
第七末那識・・・自我意識
↓
・・・・・・・・無意識(90%)・・・・・・・・・
・・・・・・・顕在意識(10%)・・・・・・・・・
↓
第六意識・・思考意識
空性であると・・・^^ う〜〜ん^^
なんでか知らんが連投した^^
すまん^^
ERROR: We hate Continuous...
連投ですよ
うわっ^^
では温泉瞑想へ^^ 1因縁果 ◆d........o 2016/07/23(土) 17:18:36.79ID:IFwNDQWa
石の上で瞑想し半年・・
何が見えてきたのか・・
書き込んでみようと思う
2因縁果 ◆d........o 2016/07/23(土) 17:23:41.49ID:IFwNDQWa
瞑想は止観と観察があると言われている・・
今日の瞑想はそれらを試行してみた・・
止観はなにも考えずに座ること・・
それは既に習得してる
3因縁果 ◆d........o 2016/07/23(土) 17:27:27.99ID:IFwNDQWa
習得してると言っても・・
高温のサウナから
低温の水風呂に頭から浸かり・・
石の上に座れば・・
必然的に止観の状態になる^^
4因縁果 ◆d........o 2016/07/23(土) 17:33:34.42ID:IFwNDQWa
仏教では瞑想を「止」と「観」の二つに大別する。止(奢摩他、サマタ瞑想)とは、
心の動揺をとどめて本源の真理に住することである。
また観(毘鉢舎那、ヴィパッサナー瞑想)とは、不動の心が智慧のはたらき
となって、事物を真理に即して正しく観察することである。
このように、止は禅定に当たり、観は智慧に相当している。
止だけでなく観を重視するところに、仏教の瞑想法の特徴がある。
はや2年が過ぎたか・・・^^
それなりのことはあったな^^
止観・は、しばしば2つの車輪に例えられ、不離の関係にある。 なんで自分のスレでやらずに出張してくるの?
強大な承認欲求がそうさせるの?
人に捨てろという自我が 食事の直前、なんとなくマインドフルになる
キリスト教の人は、食事の前に祈ったりするけど、あれもこれから食事をすることに自覚的になるあちらなりのマインドフルネスなんだろうな 妄想分別有る故に、我と人との隔てを成し、仏と衆生の隔てを成し、有無を隔てて、
迷悟を分かち、是非善悪の隔て有り。之を小心とは言うなり。
分別・妄想は、‘自分’を仮設(仮説)する故に‘他者’を作り、
自分を凡人と思う故に梵人(仏・ホトケ)との差別化に陥り、
知覚認識に従って有るとか無いとかを主張し、
自分は迷いの状態にあるとか悟りを目指すとかの二極化をひねり出し、
刷り込まれた情報・知識に洗脳されては是非善悪を振りかざしてアタマをフライパンにする。
これが小人[←→大人]の心というものである。
アタマをフライパンにする・・^^ この身は本より法身の体なれども、法身なる事を知らずして、わが身と思えるは
、法身を見かくして、わが身と思い、わが身に迷いて、貪瞋煩悩をつくり、
ふかく悪道にしずむなり。 まず一重のまよいは、この身は、地水火風の四大を、仮にあつめて、つくりたてたるものなり。
身の内の皮肉筋骨のたぐいは土なり。
涙よだれ血などは水なり。
あたたかなるは火なり。
出入の息と、うごきはたらくは風なり。
この地水火風をはなれては、わが身というべきものなし。
ただ今なりとも命おわりて、地水火風もとにかえりぬれば、
ただ白骨となりて、つゆほどもわが身とたのむべきものなし。
かかるあさましき白骨を、わが身と思いて、千生万劫、
このされこうべにつかわれて、地獄の業をのみつくりて、三
途にしずみはつるは、おろかにあさましきことにあらずや。 かかる地水火風の、仮なる身なることを知らずして、
わが身と思いて、千万年も、死すまじきように思い、
わが身ぞとかたく執着す。
これ一重の、凡夫のまよいなり。 瞑想なんて掘り下げたところで、何の意味もない
それじゃビジネスにならないから、あれやこれやと勧誘してくる
昼寝でもしてた方がよっぽどストレス解消になるよ あれやこれや以前に
瞑想の勧誘なんてされたことない 前にこのスレで離人症の話があったけど、ネルケ無方さんが初めて座禅をしたときに、頭だけじゃなく呼吸するこの体も自分なんだと初めて発見できたと言ってるのを見つけた。
ここが実感的に理解できるのが座禅であり瞑想であって、それは離人症とは別なんでは。 呼吸しているこの色(肉体)は無常である。無常であるから苦である。苦であるから無我である。
無我であるから、これはわが所有ものにあらず、我にあらず、また、わが本体(アートマン)でもない。
そのように正し智慧をもって如実に観察するがよいのである。
比丘たちよ、受(感覚)は無常である。・・・
比丘たちよ、想(表象)は無常である。・・・
比丘たちよ、行(意志)は無常である。・・・
比丘たちよ、識(意識)は無常である。
無常であるから苦である。苦であるから無我である。無我であるから、これはわが所有にあらず、我にあらず、また、わが本体でもない。
そのように、正しき智慧をもって如実に観察するのがよいのである。
そのように、正しき智慧をもって如実に観察するならば、遠い過去をふり返ってああ思いこう思うこともない。
遠い過去をふり返ってああ思いこう思うことがなければ、遠い未来を思いやってああ思いこう思うこともないであろう。
遠い未来を思いやってああ思いこう思うことがなければ、しつこい執著もないであろう。
もはやしつこい執著がなくなれば、その心は、色(肉体)において執するところなく、煩悩を離れて解脱し、
・・・受(感覚)において、・・・想(表象)において、・・・行(意志)において、・・・また識(意識)において執するところなく、煩悩を離れて解脱するであろう。
解脱するがゆえに、もはや動揺することなく、動揺せざるがゆえに充ち足り、充ち足りるがゆえに恐怖せず、
恐怖せざるがゆえに、おのずからまったく涅槃して、
<わが迷いの生はすでに尽きた。清浄の行はすでに成った。作すべきことはすでに弁じた。
このうえは、さらに迷いの生を繰返すことはないであろう>と知るのである。 それは煩悩を消したいという自分に焦点の当たった自己中心的(エゴ)な考えだからです。
つまり、煩悩を消したいと思う心の時点ですでにそれが欲(煩悩)だからです。
煩悩で煩悩を消したいなんて汚れた雑巾で床の汚れを一生懸命落とそうとしているのと同じです。
ますます汚れが目立つのは当然です。
結論を言えば先程も述べたように煩悩は絶対に消えて無くなることはありません。
今現在、自分が苦しんでいる原因が煩悩にあるからといってその煩悩を無くそうとして人生の大切な時間を無駄にしてはなりません。
煩悩は人間が人間として生きるためにすべての人に備わっている大切な心の機能、装置なのです。
この機能が無くっなてしまったら人間は生きていけません。 想念はどこから湧いてくるという話だよな・・^^
想念に従っている人ばかりだからね^^
いわゆる・・想念のいいなり・・これでいいのか・・^^
と言う話なんだよな・・^^ ・・となると・・・^^
想念を客観的に見る目が必要になってくる・・^^
想念は絶えず湧いてくるからね・・^^ 想念があって行動する・・・^^
ほとんどの人達はこれ^^
では・・想念とは何か?
これを考える人は少ない^^ う〜〜ん^^
解答言ってるな・・・^^
すんばらしい^^
解答知ってたけど^^
・・何か問題でも・・^^ この問題抜きに「マインドフルネス瞑想だぁああああああああああ」
何ていっても意味がない感がする^^ 壁に向かってブツブツ独り言いってる人がいて怖いんです うわぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ いやね・・^^
簡単に言うと・・・^^
あなたのまわりにおしゃべりな人がいたとする^^
なぜおしゃべりなのか・・・^^
想念がつぎからつぎに湧き出てるんだよ・・^^
なぜ想念がつぎからつぎに湧き出てるくるのか・・・^^
自我に執着してるからなんだな・・・^^
自我に執着しなければ・・寂静でいられる^^ ここで重要なのは・・^^
智慧と想念は別物なんだな・・^^
想念ではなく智慧でみる^^
智慧でみるということは・・^^
真理を見るということであり・・^^
これが重要なんだな・・・^^ マハリシ: サマーディだけが真理を示すことができる。
想いは、実在にヴェールを投げかける。
それゆえに、サマーディ以外の状態にあっては、実在が実現されることはない。
サマーディにあっては「私は在る」という感覚だけがあり、想いはない。
「私は在る」という経験は、静かであることである。
うん?
「いまここ」か^^ 言語は人の想いを他の人に伝達するための媒体にすぎない。
それは想念が現れたあとにのみ呼び起こされる。
「私」という想念が立ち現れたあとに、他の想念は続く。
それゆえ、「私」という想念が全ての会話の根源と言えよう。
>>488
やな・・・^^
おいらのまねや^^ どうも名のある人達はすぐおいらのまねをする・・^^
う〜〜ん^^
あかん^^ 結局これも三法印に行き着くんだよな・・^^
「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」
真我はどうだか知らんが・・^^ 「私は在る」というのは言葉の問題でもあるけど「私」という想念が生じてることじゃないよ
「私」という想念は「私」というのを対象としてる
そうではなく「私は在る」というのは「在る」というのが近い
寝て起きたとき最初に起こる存在してるという感覚
「私」という個人を意識する前、「私」というものを対象とする前に存在してる感覚だよ
そして「私」を対象にして認識されるものは「私」ではない
「私」はいついかなるときも主体ゆえに対象として認識されるはずがないし認識の対象とされたときそれは「私」ではない
対象となる「私」は「私は在る」から二次的に生じる観念としての「私」
マハルシやマハラジを丁寧に読めば皆が「私」というものを勘違いしてることがわかる 唯識的に言えば・・^^
第八阿頼耶識・・貯蔵意識
↓ ↑
第七末那識・・・自我意識
↓
・・・・・・・・無意識(90%)・・・・・・・・・
・・・・・・・顕在意識(10%)・・・・・・・・・
↓
第六意識・・思考意識
↓
五識・・感覚─(目・耳・鼻・舌・身)
第一眼識・・視覚
第二耳識・・聴覚
第三鼻識・・臭覚
第四舌識・・味覚
第五身識・・触覚
↓
(外界)
自我意識は無意識にあるから想念には出てこないね^^ 第七末那識・・・自我意識
我法二執の根本である。八識はみな思量の作用があるが、末那識は特に恒(間断なく常に作用する)と
審(明瞭に思惟する)との二義を兼ね有して他の七識に勝っているから末那(意)という。
思量とは「恒審思量」といわれ、恒に睡眠中でも深層において働き続け、審(つまび)らかに根源的な心である阿頼耶識を
対象として、それを自分であると考えて執着し続ける。この深層的な自我心を滅することによって、
我々は初めて真の無我行を実践することができる。
第七識・末那識と相応するものは、我癡・我見・我慢・我愛の四煩悩、作意・触・受・想・思の五遍行別境の慧、
大随惑の八(不信・懈怠・放逸・惛沈・掉拳・失念・不正知・散乱)であるとされる。
一説では、この識を因縁識といい、過去の事象が潜在する識といい、悪念の集結潜在力(障碍作用)の依所といわれる。 唯識的に言えばとかじゃなく
自分で自我意識がどの時点でどのように出るか、自我意識とは何なのかを自分自身を使って調べ熟考したほうがいいと思うけど 深層心理には、第七識の末那識と第八識の阿頼耶識が
あります。
末那識とは、いつも自分のことばかり考える心で、
自我執着心のことです。この自我意識は 我ち つまり自己に対する愚かさと
我見 つまり自己へのとらわれと、我慢 つまり自己へのおごりと、我愛
つまり自己に対する愛着という4つの煩悩として働き、
オレがオレがという心が出てくるのです。
阿頼耶識とは、記憶装置のようなもので、良いこと、悪いこと、あらゆる体験や
学んだことなど、何でも記憶し身についていて、それらのことが自然に、
自己の上に生ずることをさします。 簡単に言えば・・・
第七末那識・・・自我意識 が・・
つまり・・
我癡・我見・我慢・我愛の四煩悩が無意識下にあると・・
それが想念として顕在意識に現れると・・^^
こういうことや^^
う〜〜ん^^
やはり・・下手や^^ その第七末那識・・・自我意識が第八阿頼耶識・・貯蔵意識 を見て
自分だと錯覚してると・・^^
こうなる^^ 「根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続ける」
これやな・・・^^ つまり・・・^^
自我など探してもどこにもおらん^^
ということになる^^ 「オレがオレがという心が出てくるのです。 」
うわっ^^
おまいらやんけ^^
だから絶え間ない想念が湧いてくるんや^^ 「オレがオレがという心が出てくるのです。 」
おいらはそういうことないので^^
想念がそんなにない^^
寂静しとるんや^^ こうなると・・・^^
会話するのも良し悪しだな・・・^^ 想念が出なけりゃいいなら寝てればいいだけで
一生寝てても悟りもしないだろうし自分が何であるかもわからないでしょ
自分や「私」という問題は想念がどうだかの問題ではなく(想念はあくまで修行の段階的な問題で)、
いかに対象とならない自分をあらわにできるかだと思うけど
ここはマイオンドフルネスのスレだからそれにあわせて言えば対象をただそのままの知覚にとどめ続けることによって
だんだんと対象でないもの、主体の正体があらわれてくる 主体の正体
虚妄分別とは・・^^
たとえば,《ウパニシャッド》文献に端を発するベーダーンタ学派,
サーンキヤ学派の考えによれば,われわれが経験するこの世界は,
われわれが自己の本体(アートマン)が何であるかを知らないこと(無知,無明)が
きっかけとなって展開したものであり,
つまりわれわれの日常的認識(分別,迷妄)が作り出したものであるとする。
これは仏教でも基本的には同様であり,《華厳経》の〈三界唯心〉,
瑜伽行派の〈唯識無境〉〈識の転変〉なども,
日常生活における主客対立の見方である〈虚妄分別〉の心作用が
この世界を形成すると説いている。世界はいわば〈観念〉の所産であることになる。… ところが、仏教では、この分別がくせ者であり、仏道の障りとされる。
「虚妄分別」(邪まな世界を作り出す分別)という言い方に代表されるように、
この分別によって、私たちに苦悩が生まれるというのが、仏教の考え方である
。仏教にとって分別とは、認識主体と認識対象を分け、認識主体を「我れ」として固執(我執)し
、認識対象を「我がもの」として固執(我所執)することである。
この分別によって、自己中心的な固執が生まれ、それによって苦悩が生まれる。
仏教では「煩悩は分別によって生まれ、分別は戯論(言葉によって固執の世界を虚構する
こと)によって生まれる」と説かれる
。私たちの世界は言葉によって虚構され、その虚構によって自己と自己の所有に
対する固執が生じ、勝れた他と比較して劣等感を抱いたり、劣った他と比較して
優越感を抱いたりする。その分別によって煩悩(苦悩)が生まれる。
人間は善悪・正邪の分別なしでは生きられないが、その分別によって人間は苦悩する
。そうした分別の本質が明らかになるとき、分別は分別のままにそれに固執しない智慧の
世界が開かれる、それを「無分別智(分別を超えた智慧)」という。
それは分別のない世界ではなく、分別の本質を知見し、分別が障りとならなくなる世界である。 うん?
その主体の正体が・・^^
日常生活における主客対立の見方である〈虚妄分別〉の心作用が
この世界を形成すると説いている
とこうなる^^
なにか問題でも?
自分で書くと何時間もかかるんだよな^^ う〜〜ん^^
マイオンドフルネスを超えたかもしれん^^ ・・・ではこのスレから去るか・・^^
ではでは^^ 私がこの肉体と言う物質であったならどうでしょう。
肉体を構成する物質は、約3年に1回入れ替わります。では、3年前の私は、今の私ではないのでしょうか。また、3年後の私は今の私ではないのでしょうか。
私の肉体を構成する物質は、少しずつ入れ替わって行きます。では、将来の何時の時点で、今の私ではなくなるのでしょうか。私とは、今の肉体を構成している物質の内のどれなのでしょうか。 うん?
>>522 さん・・・^^
「雑念だらけ」って言われてるよ^^ マインドフルネス瞑想を簡単に言えば・・
対向車線の車が想念だとすると・・^^
そっちに気が取られ今運転していることを忘れ・・
前を注意してみていない^^
つまり・・^^
対向車線の車・・想念は受け流すだけでいいんだよな・・^^
前をみて注意しないと^^
前を見て注意して運転しろ・・ということだな・・^^
つまり・・「今ここ」・・・^^ 意識的にしろ無意識的にしろネットに書き込んでしまう人なんだろうな おまいらは・・・^^
対向車線の車に注意をとられ・・^^
下手すれば・・それに突っ込んでいる状態^^
「ちゃんと前を見て運転しろ」・・こうなる^^ >>528
>>522 さんのこと悪く言うなよ・・・^^ でだ^^
車の運転をうまくするにはどうしたらいいのか・・^^
まずは車の構造を調べる^^
時にはメンテナンスをする^^
運転中の集中力を高める・・・ まぁ・・・^^
実際乗ってみなければわからないんだけれどもね^^ そうなると・・・^^
はじめは教官が必要なのか^^
うむ〜〜^^ おまいら叩かれる^^
「なんでやねん^^」
となる^^ かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。
その時、長老ラーダ(羅陀)は、世尊のましますところに至り、世尊を拝して、その傍らに座した。
傍らに座した長老ラーダは、世尊に申し上げた。
「大徳よ、無我、無我と仰せられますが、大徳よ、いったい、いかなることを無我というのでありましょうか」
「ラーダよ、色(肉体)は無我である。受(感覚)は無我である。想(表象)は無我である。行(意志)は無我である。識(意識)は無我である。
ラーダよ、そのように観じて、わたしの教えを聞いた聖なる弟子たちは、色を厭い離れ、受を厭い離れ、想を厭い離れ、行を厭い離れ、識を厭い離れる。
厭い離れることによって、貪りを離れる。貪りを離れることによって、解脱するのである。
そして、すでに解脱するにいたれば、ああわたしは解脱したとの智が生じて、
<わが迷いの生活はすでにおわった。清浄なる行はすでに成った。作すべきことはすでに弁じた。もはやかような迷いの生活に入ることはあるまい>
と知ることができるのである」 つまりやな・・^^
五蘊の執着から開放されたら解脱にいたると・・^^
こういうことや・・^^
そこから・・
五蘊皆空かでてきたのかもしれん^^ マインドフルネスを簡潔に
「今ここでの経験に評価や判断を加えることなく
能動的な注意を向けること」と定義している 今ここでの経験に
→ 価値の役割
評価や判断を加えることなく
→ 距離をおくスキル
能動的な注意を向けること
→ 注意のコントロール 簡単に言えば・・^^
「妄想すんな」・・ということか・・^^ おまえらは・・・^^
スルーする技術が未熟だからな・・^^
想念が湧いたらスルーしろと・・^^
簡単や^^ けど・・・^^
これではまだ不十分や・・^^
「なぜ想念が湧くのか?」まで突っ込まんとあかん^^ そこがマインドフルネス瞑想と仏教の違いやな・・^^
仏教では「なぜ想念が湧くのか?」まで教えてくれている^^ 想念が湧いてきてスルーするにも限界がある^^
もとを断たんとあかん^^ そういえば・・・^^
この板で人気のあるスマサなんとか長老の動画がなんかあったな・・^^
探してみるか^^ スマナサーラ長老「悟りを開く瞑想について」
https://www.youtube.com/watch?v=SiqcshhHDJs
これかな・・・^^
自我も幻覚か・・・^^
思考もバイアス・貪・瞋・癡
思考を止める・・^^
だいたい2週間で成功する・・^^
思考を止めたら悟れる^^
簡単でしょ^^
思考止めるには今の瞬間に気付く^^
いいこと言うね・・・^^
見直した^^ 生まれ落ちた瞬間に100%のシステムを兼ね備えている
それに気づくことだ
そのシステムを叩き壊そうとするウィルスが蔓延している
絶対に感染しないように心得るべきだ マインドフルネスA 脳(ココロ)のエクササイズ
https://www.youtube.com/watch?v=yNNPr6gQ0yw
ウィルスというより・・副作用な気がするんだが・・・^^ ^^ を全板でNGワード登録した方がいいよ
どの板でも気分で荒らしてくるから 道元著『正法眼蔵 坐禅儀』には、
「坐禅は習禅にはあらず、大安楽の法門なり、不染汚の修証なり」
という一文がある。
そのまんまマインドフルネス瞑想やんけ^^
坐禅は、精神統一や瞑想のための手段としての“習禅”ではない。
命と心を開放する安心の教えの門である。
不染汚心(人間的意志が働きだす以前のあるがままの心)で坐る。
悟りの上での修行を信じ、確かめ続けていくということである。
不染汚心で坐るということはどういうことであろうか。
坐禅には、今までの経験・知識・価値判断などの意識や分別を持ち込まない。
いかなる思いが浮かんでも、浮かぶに任せ消えるに任せて一切取り合わない。
期待・疑問・感情などを持ち込まず、心のはたらきを停め「ただひたすら坐る」ことである。 「今までの経験・知識・価値判断などの意識や分別を持ち込まない。 」
この分別を仏教では虚妄とみてるんだよな・・^^
ここ重要^^ 「いかなる思いが浮かんでも、浮かぶに任せ消えるに任せて一切取り合わない。
期待・疑問・感情などを持ち込まず、心のはたらきを停め「ただひたすら坐る」ことである」
つまりや・・・^^
おいらが何を書いてもスルーする能力が大事や^^
おまいらを鍛えるために書き込んでいるといっても過言ではない^^ 不染汚心(人間的意志が働きだす以前のあるがままの心)で坐る。
う〜〜ん^^
道元ちゃんは分っておる^^ >>550
君はアホタレである
そもそも病気もないし当然クスリも必要ない
副作用?
麻薬を取り込まなければよいのだ
生まれ落ちた途端に100%の完璧なのだ
クスリを取り込まなければ副作用もないのだ 道元禅師は「修証不二」を説かれます。
修は修行、証は悟りのことです。その修行と悟りがへだたりがなく一体だということです。
常識的には修行が先で、悟りは後で、修行の結果お悟りがひらけることだと思いますが、
そうなると修行しながら悟りを待ち望むようになりかねません。
禅では、修行と悟りを対立させてその間にいろいろの思慮分別をさしはさむことを
「染汚」(ぜんな)といって、とても嫌います。
修行は汚れのない事が、不染汚の行でなくてならないのです。
修行のときは、求める心を投げ捨て、身も心も修行に打ち込むことが、
そのまま悟りだというのです。
う〜ん^^
色蘊は空寂なりの清浄の句義は是れ菩薩の句義なり。
受想行識蘊は空寂なりの清浄の句義は是れ菩薩の句義なり。
これに近い^^^ 資本主義という麻薬、共産主義という麻薬、
民主主義という麻薬、社会主義という麻薬
優れているという麻薬、劣っているという麻薬
肥えているという麻薬、貧弱という麻薬
全て捨ててしまえばよいのだ 正解を知っているだろう
しかし正解を実行することができない
麻薬に侵されているからだ
自分という幻
それが失われる苦しみ
苦しみから解き放たれる快楽
全て幻
生まれ落ちた途端に100%である
それに気付け 道元禅師 普 勧 坐 禅 儀
さて、坐禅するには、静かなところがよろしい。飲食の量は節度が大切である。
種々の縁(とらわれ)を放って、心ゆるやかにして静かならしめ、万事のいとなみを
休息(とりや)め、善悪是非の分別にかかずらわない。
心がはたらき動くのを停(や)め、一切思量をめぐらすことなく、また仏に成ろうと図ってはならない。
作仏は、迷妄の日常生活の上の坐臥に拘わるものでなく、「坐臥を脱落すべし」である。
巌のように不動のかたちで坐し、箇の不思量底を思量せよ。不思量底で、どう思量なのであろう。
思量はない。超出しきっている。ありとあらゆるものは非思量。人間界の是非、善悪等の思量分別を脱落し、
ただ打坐のみである。
不思量に止(とど)まり居る処のみを任運に、そのまま不思量底であるところ、本来の相としての非思量に在る。
これが、まさに坐禅の要術である。
坐禅は、禅定に習熟することではない。ただ本来おちつくべきところにおちつく、この上ない安楽の法門(おしえ)である。
究めつくしている仏のいのちはたらきそのまま、すなわち、修行即実証(さとり)の相(かたち)である。 「人間界の是非、善悪等の思量分別を脱落し、ただ打坐のみである。 」
マインドフルネス瞑想・・・^^
道元ちゃんのまねしやがった^^ 「箇の不思量底を思量せよ」
動画が確かあったな・・^^
探すか^^ 「坐禅は習禅にはあらず、. 大安楽の法門なり。不染汚の修証なり」 17/04/09 マインドフルネスとは「習禅」ではなく、「非思量」そのものだった
| 一法庵 : http://www.onedhamma.com/?p=5906
17/03/26 「これまでの何十年の人生がすべて間違っていた」という良き知らせ
| 一法庵 : http://www.onedhamma.com/?p=5878 因○果もうええで
お前おもんないから
これ以上スベリ続けたいんやったら好きにしたらええけども せっかく仏教や瞑想を知ったのにそれでもわざわざ遠回りする人は縁がないんだろうな
まあでもその人の道というか業やカルマなのかね
善友になれない他人は放っといて犀の角のようにただひとり歩むのがよいかな コテをつけて人を見下す人間と仲良くするよりは
犀の角のようにただひとり歩むのがよいだろうね 仏典 聖典に触れるのは多くの場合は害になることが多いような気がするけれど 意味はわからないのに何故か気になる 認識に影響を与える場合も多々あります 自己責任ですね
方法もたくさんあるでしょう 歴史に残っているマスター達は自己を観察する瞑想をしていたか といわれればそうではありません 帰依 明け渡し 完全な絶望の方が多いかも
ただ自己を観察する方法は普通の人である私たちにとっては確実な方法です 強力です それは何故か
雑念 想念をも丸ごと引っくるめて否定せず ただただ観察すれば良いからです 加えて途中途中でやる気の出るイベント サプライズがある
楽になりたい 真実を知りたい そんな人は続けて欲しいですね >>440
10日で得られると書かれているもの(roop-nahm)とは身体や心を観る認識が変わるものです。ちょっと説明しにくいですが、その段階まで行けば自分で認識が変わったとはっきりわかります。たぶん他の流派の名色分離智と同じだと思います。
ティエン師は10日で得られると書かれていますが、それは24時間気づきを保つことができる人です。自分には2年かかりました。
タイで瞑想を学んでもう5年以上ですが、苦滅には至ってません。在家で、仕事が忙しくて24時間気づきを保つほどのガッツが残されてませんからね。
それでもストレスや悩み苦しみは以前の100分の1くらいまで減りましたけどね。
ダンスでもいいですよ。気づきを保つことができるなら、ですが。 そう気づきが全ての入り口だった。
ここからはじまるなんて
書いてあるように気づき続ければよいだけ ドア開けっ放しにして喜んでる変な改行の人、習禅やってる感強い。 瞑想で智慧というのが得られると頭が良くなるの?
智慧と知恵でどう違うの? スマナサーラさんのところでは呼吸で生じる感覚を見るやり方はヴィパッサナーだけど、
ゴエンカさんのところではアーナパーナなんだよね。見る場所が違うだけで。
一方、ゴエンカさんのところでは感覚に集中することを推奨し、プラユキ・ナラテポーさんのところでは
感覚に集中することは推奨しない
それぞれのよさがあるんだろうけど、どれも「ヴィパッサナー」というとなると、
いったいヴィパッサナーってなんだろう
みなさんはどれをやってますか? >>575
ドアの人ですが、習禅なんて用語もあるんですね たぶん禅でいえば座っているそのままが悟りで
それに気づかないであれこれ工夫したりするな 的な意味なのかな
それは難しかったですね 5年も6年もやりましたけど幻覚はどんどん出るし自律神経は壊れるし
それも気にせずにいたけど ヴィパサナをしたら2年で小悟までいったんで今は次の段階です
>>574
そうです!気付くだけです!
良くなろう 改善しようとも考えずに気付くだけ
自分がどんな要素 何を恐れて嫉妬して喜んで望んで等に気付くだけ
>>576
普通の知恵との違いは その得られ方の違いがまず上げられるかなと
また内容は自分と世界の正体に関しての認識がハッキリするという意味だと思います
まだ私は自分の正体しかわかっていないので世界に関しては想像ですけど
その他 日常生活で我を失うことがないので冷静に判断できたりというのはあるけれど
知能指数は上がらないと思うw >>578
ヴィパサナという言葉がたまたまあるだけなので定義は気にしなくても良いかと
枝分かれした流派の人が よし ボンカレという独自の名前 ジャワカレという
名前を付けようとなっていなかっただけのこと
それでも気になるのであれば共通する特徴 内容を上げて自身で再定義してみるのが良いと思います
もっと簡単なのはどっちもやってみること どのみち進んでいくと宗派を問わない自分だけの 観る
が始まると思いますよ 1108 「世人は何によって束縛(そくばく)されているのですか?世人をあれこれ行動させるものは何ですか?何を断ずることによって安らぎ(ニルヴァーナ)があると言われるのですか?」
1109 「世人は歓喜に束縛されている。思わくが世人をあれこれ行動させるものである。妄執を断ずることによって安らぎがあると言われる。」
1110 「どのようによく気をつけて行なっている人の識別作用が、止滅(しめつ)するのですか?それを先生におたずねするためにわたくしはやってきたのです。あなたのそのおことばをお聞きしたいのです。」
1111 「内面的にも外面的にも感覚的感受を喜ばない人、このようによく気をつけて行なっている人、の識別作用が止滅するのである。」
http://suttanipata.com/acyaafeafaea/
五蘊による感受に喜ぶのをやめた人は識別作用は止滅するので安らぎ(ニルヴァーナ)に到達する模様 >>579
>ドアの人ですが〜(中略)〜我を失うことがないので冷静に判断できたり
できてませんやんw >>582
ああ なるほど そっちのほうに目が行くわけですね
その場合でいうと昔の私だったらドアが空いてるのに気づいたら
ドキ!!と確実にしていたと思います バイクなんかも何台も盗難された記憶がありましたからね
どちらかというと何かを認識した後の心 思考の動きの話です
ドアは締めるべきなのかな? どうして締めるべきなのでしょう?
どう思われますか? >>583
毎回ドアを開けっ放しにしてるわけではないんでしょ?
その時たまたま締め忘れただけで、いつもはきちんと締めているんでしょ
締めるべきだとあなた自身が考えているから締めているんじゃないんですか >>578
自分の体験では、
ゴエンカ師のメソッドでは、自分の心の深いとこまで見れたけど日常は大して変わらなかった。
プラユキ師のメソッドでは、あまり心を深く見ることはないけど、日常は楽になる感じ。
要は目的次第かと。 >>580
>>586
ありがとうございます。腑に落ちるレスです。
「要は目的しだい」「自分なりの観るがはじまる」確かに
同じ真理の法則を使って、目的にあったメソッドが多種あるわけですね
自分はメソッドに囚われすぎていたかもしれないなぁ
日常楽になりたいというのがあるので(そうすれば周囲にも好影響がでるだろうし)、
プラユキさんのメソッドも学んでみたいなぁ
手動瞑想?
ありがとうございます。 >>578
夫々のヴィパッサナー瞑想で、お釈迦様が成道に至るためにおこなった瞑想だと言われているんでしょうが、
でも、結局どの「ヴィパッサナー」も、本当にお釈迦様が行っていた瞑想の通りのものなのか疑わしい。
なにせ、2500年も前のことなんだし・・・。
結局どの方式が一番自分に向いているかとか、好みであるかで選ぶしか無いと思う。
ゴエンカ式は、心の奥底まで浄化するとか言われているが、心の浄化という点では、それ程効果的な
瞑想だとは思えない。
ゴエンカ式を長く行い、指導的立場の人を見るにつけ、表面上はそれらしく振る舞っているが、心の
中に傲慢さを強く残している人が多い。
>>585氏が、間違った瞑想をするとおかしな人になってしまう例 ・・と言っているが、ゴエンカ式の指導者
には、一般常識からややかけ離れた「心」の人が多い。
ゴエンカ式では謙虚さとか自省心は養われ難い。その意味では吉本伊信氏の内観法をおこなってから
ヴィパッサナーに入ると、非常に効果的。 >>583
横から
オープンの幌しめない派だけど
別にどうにかなったことはないから
ドアあいてても平気平気〜
自分の車だと思って乗ったら人の車だった、とかならドキッとするかな
て関係ないな
ドアは閉めるべきかどうかか…
ルームランプつきっぱなら2日でバッテリー上がるから閉めたほうがイイけど元々点けなきゃいい話だし、
一昔前に流行ったナビまるごと盗難とか遭っても…そもそも別にナビいらんというか保険かかってたらむしろ持ってけドロボーだし、
ETCカード盗難とかそもそもなんに使うのかわからんし…
閉めなくてもさして問題にはならんな、うん。
そういや普通グローブボックスには鍵ついてないか。
防犯グッズ仕掛けといたら? 駐車場でみんながドアを開けて駐車してたらどうなるか想像してみ
他の車の通行にめちゃくちゃ邪魔になるな
それでも閉めなくてもさして問題にはならんか?w みんながドア開けて駐車してたら通行の邪魔だとか思わないだろう? 屁理屈はいい
お前は駐車場でドアを開けたままにすればいい
俺は締めるから マインドフルネスってのは考えることを放棄してバカになることではないんだよ 昔のトラウマのせいで毎日が辛い・・・
マインドフルネス客観視?で消せるのかな?
徐々に思い出せなくなるって聞いたけど いまに身体を気づいているように
心がければ良いんですよ
自らをよりどころとするんです >>595
いや思い出せなくはならないよ
むしろ抵抗が外れるのか必要になればめっちゃ明瞭に思い出せる
でもまったく気にならない @ERcUp5PO2AGVtWh: 有心のマインドフルネスを通らずして無心のマインドフルネスをやろうとすすると、ただ動物化してしまうという罠があるように思いますね。
@neetbuddhist: これは全くそのとおりで、私が「感覚に開かれて、それの告げるままに生きればいいの♪」みたいなお気楽言説に抵抗し続けているのは、
そのようなナイーヴなスタンスに基づいた実践は、多くの場合において本人が単に自身の傾向性の奴隷になり下がること、換言すれば「動物化」を帰結してしまうからです。 実は慈悲はとんでもないものなんです。
だからしつこく慈悲慈悲と書いてある >>589
おおっ なるほど ごく真っ当 正当な考え方ですね
多くの人はそんなもんに理由はない! 閉めるのが当たり前で理由もクソもない!というのが普通のような気がします
実はドアの開け閉めはどうでも良いんです その無意識にやっている行動 習慣化している行動の裏にどのような思考 気持ちが潜んでいるかが重要です
ドアを閉め忘れたと思考が起こった時に ドキっとする人は 何かの恐怖がそこに潜んでいます 私または私の大事な何かが失われてしまうと心身が大騒ぎを始めるんですね
私の名誉 存在意義 財産 能力 所有物 それらが苦しみの原因です 実際は放棄しなくてもよくて心理的な放棄で良いんですけどね >>587
頑張って下さい
それに方法というのは段階的なもので 普通の指導者は万人向けに段階を設けた教え方をすると思います
自分の心と対峙するあたりからが面白いので 深く観れるようになるまでは練習だと思ってやってみて下さい
面白いですよ 感動的ですよ 自分にビックリしますよ〜
集中!精神統一! >>588
>一般常識からややかけ離れた「心」の人が多い。
今までいろんな人見てきたけどこれはある、確かに。
ゴエンカ式だけじゃなく、グリーンヒルも変な方向に行く人が多い印象。
スマナサーラさんやプラユキさんのところの人は比較的バランス取れてるように見える。
初心者が多いせいかもしれないけどね。 スベってるスベってるスベってる
では気を取り直して
なんか般若心経スレに賢そうな文章あったなそういえば…
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1522314305/
なかなかエスプリの効いた巧みな文章だと思わないかい君たち
666 神も仏も名無しさん[] 2018/04/24(火) 03:59:31.37 ID:sFSqpfZN
大海で風が波を掻き立てている時、安全な陸の上から、海上にいる他人の苦労をながめていのは面白い。
他人が困っているのが面白い楽しみだと云うわけではなく、自分はこのような不幸にあっているのではないと自覚することが楽しいからである。
とはいえ、何ものにも増して楽しいことは、賢者の哲学を以て築き固められた平穏な知的高所にいて、人々を見下し、彼らが人生の途を求めてさまよい、あちらこちらと踏み迷っているのを眺めていられることである。
能力を競い、人間関係に悩み、日夜甚だしい辛苦を尽くし、あくせくしている愚かな人々を眺めていられるのは、本当に楽しいことである。 うぉっ、間違えてスレ誘導してしまった…
まいっかぁウペッカーでしょマイフルは
667 神も仏も名無しさん[] 2018/04/24(火) 04:01:09.16 ID:sFSqpfZN
幸せをよぶ人は、日常の生活が安らかで静かであることはいうまでもなく、
夢みる魂までも、和やかである
不幸をよぶ人は、日常の言動が悪どいことはいうまでもなく、
その声音や笑い声までも、まるごと人の心を逆なでする プラユキさんはご本人もバランスが取れた人に思える
手動瞑想がいいのだろうか
ご本人は昔ゴエンカさんの合宿にも行ったし、蚊に全身刺されても動じないようなやりかたしてたってね
そういうのを経ての現在だから、説得力あるような
でも、手動瞑想って瞑想って気がしないけど、やりこむと違うのかな >>610
ゴエンカ式だけじゃなく、ほかでも様々問題はあるが、ゴエンカ式での問題の特徴として、
問題の原因究明を十分に行なわず、曖昧な対応で済ませてしまう傾向がある。
問題の再発を防ぐためには、原因究明と対策が必要なのだが、それを行う事は担当者の
人格否定だとでも思っているのか、究明と対策がおろそかなので、問題の本質が中々
解決されない。
AT(アシスタント・ティチャー)と呼ばれる指導責任者が10日間の合宿瞑想の責任指導者
だが、そのATによっても差が大きい。ATに問題があって、他のATがそれを知っていても
互いに問題点を指摘し、改め行こうという気風はない。 手動瞑想、呼吸瞑想、歩行瞑想これらの共通点が
瞑想のもとだと思う >>615
>これらの共通点が瞑想のもとだと思う
では、「これらの共通点」の、エッセンスとは?
自身の肉体の一部に意識を集中して、他の妄念が沸き起こらないように
意識を制御すること? 心身の活動に巻き込まれずそこから離れてただ全てをありのままに観るだけの観察者になることだろ >>617 の 山西 茂氏の「ゴエンカ式ヴィパッサナー合宿瞑想」については、些か古い情報で誤っている
部分もある。
また、なぜ合宿体験しない方がいい結果なのか?についても、緻密な調査に基づいた結果か疑わしい
そのような主張をするなら、綿密で合理的な調査結果のもとに発言すべきだろう。
「「寄付金」には、もちろん「領収書」もでません。」とあるが、領収書は出る。
山西 茂氏の考え方、見方も一つの意見として否定はしないが、やや的外れな批判と感じる部分も
少なからずある。
ただ「そういう「悟れていない人」が、宗教団体で幹部になる構造的問題があります。」については
まさしくその通りで、「悟れていない」どころか、幹部になったことで増上慢となり、自我を抑圧させつつ
肥大化させ、一般常識からかけ離れた人格形成となる人が多い。
ゴエンカ師の指導規範があるので、大きな逸脱はないと思われるが、幹部の増上慢が、自分達の行って
いることは正しいという「盲信のような気風」がカルトの芽生えにも似た状態となっている。
幹部による人権侵害やパワハラのような違法行為が容認されているのが、今のゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想
だとも言える。 ヴィパサナの定義ですね 私も参加させて下さい
私の定義は 心身で1秒の間に数えきれないほど発生している現象の一部を 極端な集中力 精神統一 脱力などによって観る方法
言い換えると体感的な時間の流れを極端に遅くなるよう操作してスローモーションの自分を観る方法
またはそれを実現するために心身の観察を通してそれを妨げている肩の荷を下ろす方法
ひと段落ついた状態から考えるとこんな風に感じますよ
あー 今日から仕事だ 疲れるー >>617
このサイトは
『メールマガジン「脳科学で願望実現を可能にする実践講座」』
『引き寄せの法則や社会的洗脳の仕組みなどを正しく理解し、具体的な実践としての、誰にでも導入できる瞑想方法や自己催眠を詳しく解説します。』
なので内容はお察しな感じですなあw 手動瞑想、呼吸瞑想、歩行瞑想、ヴィパッサナー瞑想。
どの瞑想法が一番自分にあっているか、様々模索して余計な回り道を
してしまいそうだが、結局はどの道もたどり着く頂上は同じだと思い、余り
迷わないほうがいいとおもうのだが >>617
俺の感想は違っていて、
去年初めて参加したときの合宿は、先生もコーディネーターの人もとてもいい人だったよ
人の痛みとか、自然な感情を自然なものとして認める能力のある人だった
その後一度行った一日瞑想会の先生も同様、素晴らしい人にみえた。
静かで温厚で偉ぶらず、こうなりたいと思えるような人たちで、
一生モノのアドバイスももらえた
ただ、肝心のゴエンカ師の講話テープは、自分にはちょっときつかった
失敗例と他メソッドの欠落みたいなのの繰り返しで、耳をふさぎたくなるほどだった
まあミャンマーで瞑想の純粋性を保つためには仕方ないのかなと思った。
悲しむと、なくなった人たちに暗い波動がつたわって不幸になる、とか言われ、身内をなくした
あとだったので絶望的になった
でも日本人の先生は、死別はもっとも悲しいこと、涙を止めないでいい、でも、
自分がかわいそうだと思ってしまうようなら、感情に引っ張られすぎだと。
とても腑に落ちるアドバイスだった
まあゴエンカ師も、思想や信じる信じないに関わらず効果のある瞑想だと
いっていて、その通りだと思った 人の業を見るな 己の業だけ見よ
これって他者の名誉を自慢してる人間にも言える >>627
スマナサーラ長老の仏教法話@jtba_talk
殺生する人は短命・病弱になるのだと、ブッダは業論のなかで語られています。
今世に限ったことではありません。
今世で逃げることできても、身体はくたくた壊れているはずです。
遊びで狩りをしたり、釣りしたりする人は、頭がおかしくなるのです。
スマナサーラ長老の仏教法話@jtba_talk
今世だけではなく来世でも短命、病弱、殺されたりして、キリがないんです。
生命の法則を知っているなら、一匹の生命も奪えないのです。
それは自分を守るためです。
教えてもらってイヤイヤ守ることはないのです。
我々が戒律・道徳を教える場合は、ただ教えてあげるだけ。「これが生き方だよ」と。 「ブッダ感興のことば」より
人がもしも善または悪の行ないをなすならば、かれは自分のした一つ一つの業の相続者となる。
実に業は滅びないからである。
悪い事をしても、その業は、刀剣のように直ぐに斬ることは無い。
しかし、来世におもむいてから、悪い行ないをした人々の行きつく先を知るのである。
のちに、その報いを受けるときに、劇しい苦しみが起る。
生きとし生ける者どもは死ぬであろう。
生命は終には死に至る。
かれらは、つくった業の如何にしたがっておもむき(それぞれ)善と悪との報いを受けるであろう。 666
けだし何者の業も滅びることはない。
それは必ずもどってきて、(業をつくった)主がそれを受ける。
愚者は罪を犯して、来世にあってはその身に苦しみを受ける。
(ブッダのことば−スッタニパータ)
http://76263383.at.webry.info/201411/article_4.html 【ミリンダ王の問い 第一篇 第四章 第三節】
王は問う、
「尊者ナーガセーナよ、いかなる理由によって人々はすべて平等ではないのですか?
すなわち、ある人々は短命で、ある人々は長命です。またある人々は多病であり、ある人々は病が少ないです。
ある人々は醜怪ですが、ある人々は端麗です。ある人々は力弱く、ある人々は力が強い。
ある人々は財少なく、ある人々は財が多い。ある人々は卑賎の家に生まれ、ある人々は高貴の家に生まれます。
ある人々は愚かであり、ある人々は賢明です」
「大王よ、なぜ樹木はすべて平等ではないのですか?
<それらの果実についてみるに>、あるものは酸っぱく、あるものは塩からく、あるものはにがく、
あるものは渋く、あるものは甘いです」
「尊者よ、それはもろもろの種子が異なっているからだ、と私は思います」
「大王よ、それと同様に<宿>業の異なることによって、人々はすべて平等ではないのです。
すなわち<その故に>ある人々は短命で、ある人々は長命です。
(中略)大王よ、世尊(釈迦)はこのことをお説きになりました。
―『バラモン学生よ、生けるものどもは、それぞれ各自の業を所有し、業を相続するものであり、
業を母胎とし、業をよりどころとしている。
業は生けるものどもを、賤しいものと尊いものに差別する』と」
「もっともです、尊者ナーガセーナよ」 「正法眼蔵」に(道元の中国での師)如浄禅師は
「参禅は心身脱落なり 焼香、礼拝、念仏、修懺(しゅうさん・・懺悔の法を修して身心を清浄にする)、看経(かんぎん・・お経を唱える)を用いず、只管(しかん・・ひたすら)に打座するのみ」と示し、
さらに「身心脱落とは坐禅なり。只管に坐禅するとき五欲煩悩が除かれる」
と説かれたと記している。
つまり禅の修行は焼香も礼拝も念仏も懺悔(さんげ)も読経も不用である。只ひたすら座禅することが身心の脱落に通じることなのだ。
焼香、礼拝、念仏、修懺(しゅうさん)、看経(かんぎん)を用いずといわれたからといって、
参禅修行においてそれらの行為をすべて排除するということではもちろんない。
それらは悟りにおいての直接的手段とするものではないからである。
だが、不用であっても不要では決してない。
禅者は日常生活、すなわち行住座臥著衣喫飯そのものが、仏作仏行であり、座禅であり、仏法そのものであると言われていることからでもわかる。
http://www.jyofukuji.com/10zengo/2006/06.htm ちなみに道元によると座禅においては心は頭ではなく法界定印を結んでる右手の上の左手に置くように、と 座禅はダメだわ じれったい
1/3の確率で死んでしまう 高い崖の上から年に2回飛び降りる修行の方が絶対早い
死ぬか大悟するまで続ける
どう? 633.
身心脱落、したらば、どうするか、という問題である。 他人の過失を見るなかれ。他人のしたこと・しなかったことを見るな。ただ、自分のしたこと・しなかったことだけを見よ(ダンマパダ) 「身心脱落」って、ある種悟りへの過程で起きる「心の状態」を表現したものだと理解していたけど、違うの? >>635
或いは、須弥山の高い山の上で、
誰かに突き落とされるようなときでも、
かの観世音菩薩の力を念じるならば、
太陽のように虚空に住するであろう。 >>638
真面目な瞑想者ほどここで得るものはないと悟って、離れていくような気がします。
以前は面白くてかつハッとさせられるレスが結構あったんですけどね。
最近は自身の瞑想そのものの参考になるようなレスがめっきり減った気がします。
まあ、私は不真面目な瞑想者なので惰性でここ見てますけども。 自分の分別をしないでいられるようにマインドフルの実践するには5ちゃんはいい修行場所だけどなー
無駄だと思ったり感情が生じる場所のほうが反応している自分に気づきやすいし
わざわざマインドフルネスしづらいとこに行かなくてもいいのはそうだけど ここに「内観」の経験者はいますか?
一週間のコースを体験すると殆どの人は心境が激変するそうです。
そして内観を行ってから「瞑想」すると瞑想の深まりが顕著だと聞いています。 >真面目な瞑想者ほどここで得るものはないと悟って、離れていくような気がします。
憶測で他人を持ち出すのは余計なことじゃない?
俺様はこのスレはつまんねーよ、って言えば済む話じゃん >>646
私がやっていたような方法かな?
とりあえず仮にでもわかりやすいストーリーを作って心の納得 落とし所を決める感じでしょうか?
心理学なんかでよくある悩みのパターンを調べれば大なり小なり大抵自分も当てはまるので 瞑想の準備運動になるし 中にはそれだけで満足する人も多いと思います
まあ勇気はいるんですけどね
風呂上がりのさっぱりしたような気持ちで瞑想に移れます しっかりした自我を確立するためでもありますね
親との関係 イジメ 貧乏 兄弟関係 性に関することe.t.cでつまづいてる人は良いかもしれない >真面目な瞑想者ほどここで得るものはないと悟って、離れていくような気がします。
以無所得故―――得る所無きを以ての故なり
<般若心経>
*空(くう):二つの意味がある。
1.無我(むが)
あらゆる物は因縁によって四大(しだい)が和合したものにすぎず、時々刻々と変化するために、時間によらない個性は存在しないことをいう。(小乗)
2.平等(びょうどう)
物を差別あるいは区別しないことを『平等』という。
特に『我』と『彼』を区別しないことをいう。
自分と他人とを区別して意識することを顛倒(てんどう)した見解として、あらゆる苦しみの根本的な原因であると見なすことが仏教の特徴である。(大乗)
*無所得(むしょとく):一切のものは平等であり、区別できないと悟ったとき、得るという概念はもうなくなる。
何故かと言うと、その人は既に持っているからである。
人が覚るべきものは何もないと言われる理由でもある。
※所得(しょとく)とは執著し分別するの義。
無相の真理を体すれば心中に執著する所無く、分別する所も無し。これを無所得という。
*阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい):仏の覚り、あらゆる生き物が幸福になった時、または幸福になることを確信した時の心の境地。
また無上正遍知(むじょうしょうへんち)ともいい、一切の真理に通じる仏の智慧をいう。
仏とは一切衆生(すべての生き物)を既に幸福にした人、もしくはそのためのプログラムを確信して心に迷いが一切無い人。
そのような仏の心の状態を阿耨多羅三藐三菩提という。 >>648
それとは違うでしょう。
「内観」とはネットで検索すれば詳しく出ますが、元々は浄土真宗の修行法の「身調べ」を
吉本伊信という方が昭和20年代に現代風に再構築したものです。
日本中に「内観研修所」は何箇所もあり、一週間で自身を見つめる訓練をします。
幼少期から今現在まで、3つの事について考えます。
1、世話になったこと
2、して返したこと
3、迷惑をかけたこと
やったことのない人には理解しがたいでしょうが、この一週間で心の中に激的な
変化の起きます。涙・涙で内観を終える人が殆どです。
行った事のない人は是非一度体験すると良いでしょう。
10日間の合宿ヴィパッサナー瞑想などより、良い効果があると思います。
私は随分前に一度経験しておりますが、「瞑想」が話題になるのに、なぜ「内観」が
話題にならないか不思議です。 内観は仏教からは逸脱しているのに坊主が率先しているのはおかしい
内観はキリスト教のザンゲ(懺悔)の一形態であって、
仏教のサンゲ(懺悔)はそんなくだらない一々の出来事ではとらえきれないあらゆるすべての行為に対してごっそりまとめて謝るのであって(始まりのない永遠の過去世から現在に至るまでの行為)、
自分がこれまで何をやって来たかのような「自己という幻想」に出番はない >>656
まったく的外れの意見です。 批判をするならせめて自身で体験してからが良いでしょう。 >>656
>あらゆるすべての行為に対してごっそりまとめて謝るのであって
とりあえず内観を「そんなくだらない一々の出来事」とこき下ろすことを謝れば?
それで救われる人もいるはずだから グリーンヒルの地橋さんは内観すすめてたね。
著作で懺悔の瞑想というのも紹介してる。
ゴエンカさんの合宿のメッターでも、「今まで迷惑をかけた人」にメッターを送ってたような
自我は「迷惑をかけられたこと」という一方的なストーリーでものを見がちだから、
それを突き崩す助けになるのでは >>650
へぇー 浄土真宗が起源のところもあるんですね
やっぱり涙 涙になるんだw 細かいところは自己流とはもちろん違うだろうけど結果は同じようになるんだな....
ポイントを3つに絞ると しかし親の悪い影響が原因で今の苦しい自分がいる みたいなネガティブなやり方はしないと
ここは一週間では無理だからあえて踏み込まないのか 悪感情が爆発する危険性を回避しているのか
生の体験談ありがとうございます 勉強になりました 内観は昔知り合いがしててその効果を聞いたけど、瞑想でも深い瞑想状態まで行くと嫌でも過去の記憶に直面しなければならない段階があるし、わざわざ別枠でする必要あるかな、って思ってしなかった。
結果的に内観なしで過去の荷を下ろした感じだけど、ジャーナに入るのに何年もかけられない人には有りかなとは思う。 僧侶の立場から見た「内観」
http://www15.wind.jp/~jyorenin/naikan/more/souryo01.html
>私自身も、山寺に籠って修行したり、密教の瞑想である阿字観をしたり、山々に登って修験修行をしたりしましたし、
>時には禅宗のお寺で座禅をした事もございますが、どのような修行方法でも長い年月が必要だと感じました。
>そこで、短い期間で、事実をありのままに観る訓練は出来ないものかと考えていたところ、「内観」に出会いました。
>「内観」は、先入観や感情や偏見などのフィルターを透さず、事実をありのままに観る為の訓練であり、僅か一週間の実践です。
>私も最初は、一週間でどれほどの効果があるのか半信半疑で研修を受けてみたのですが、
>一週間経ってみると、僧侶の数年分の修行が凝縮しているのではないかと感じた程でした。 >>662
>一週間経ってみると、僧侶の数年分の修行が凝縮しているのではないかと感じた程でした。
個人差のあることなので、出来るだけ控えめに表現しますが、全くその通りで「内観」を行い
一旦心を整える事で、その後の瞑想の深まりが全く異なると思います。
例えて言うならば、「内観」を行なわないでの瞑想はビニール包装されているスポンジのような
もの。
「内観」を行ってから瞑想に望むことはビニール包装を剥いだスポンジのようなもの。
瞑想が水だとすれば、ビニール包装を剥いだスポンジが水を吸収し易いのは明白です。
本格的に瞑想を行いたい。深い瞑想に至りたいとおもうなら、「内観」 を行い、引き続き
瞑想に入る事をお勧めします。
一週間の「内観」 によって、全てに対する「深い感謝と素直で謙虚な心」となりましょう。 原始仏教で言うところの業って現代医学のストレスではないの? >>667
秘伝中の秘伝がさらっと紹介されててワロタw ひょっとすると瞑想は続けてると段々と世俗のことがどうでもよくなってきて「ま、いいか」病に陥るかもしれない
既に自分はそうなりつつある
昔SSRIという抗うつ剤を飲んでいた時と同じような感じになってきた
「ま、いいか」で細かいことにこだわらず怖いものもなくなりやる気になればいいのだが、やらなくても「ま、いいか」となり無気力の方向に走る傾向のほうに陥る >>669
あっ!それはよく分かる。 あるヴィパッサナー瞑想の先生は、良く言えば「物静か・穏やか・
動じない・冷静・・・・」ともいえるが、物事に対して感情の起伏が無さすぎる。
社会的な問題や、悪しき出来事にも常にさめた感じで、話をしても物足りなさを感じる。
オマイには情熱は無いのか!と言いたく成る程だが、本人はそういった冷静さこそが
瞑想が進んだひとつの現れだとも思っているのだろう。
それが良いのか悪いのか自分には今ひとつ判斷できないが、なんだかなぁ〜!ってな感じ。 そういうのって、戒の要素を全く無視して瞑想しているからでは? 情熱って聞こえはいいけど自分が持ってないものを欲しがってるだけだからなあ
手に入れたものなんてみんな死ぬときまた手放すだけだしあっていいと思うのは悟りたいっていう情熱くらいかなおれは 悟った後の釈尊の45年間は悟る前の35年間よりはるかに厳しい人生だし挫折と妥協の繰り返しですが、悟りたいと思う人というのは、悟りとは何かを大きく勘違いしてるんだろう
それは頑張って上り詰めたゴールではなく、いきなり崖っぷちに立たされてのスタート
落ちるのがわかっていても歩みはじめる
そういうものだ >>674
済まないが言ってることが俺のボケ頭には理解できない。できれば分かりやすく書き直してほしい。
『悟った後の釈尊の45年間は悟る前の35年間よりはるかに厳しい人生だし挫折と妥協の繰り返しですが』と
書いてますが、その断定の根拠って何なのでしょう。
単なる個人的な推測と思い込みなら全く意味の無い記述だし、文章全体の意味合いが変わってしまいます。 釈迦は事実上、人間を宗教から解放させるために教えを開いた。
原理としては【神】という物を宗教から追放した。
仏教全般に言えることなのだが、【神の否定】は決して正しいとは言えない。
神の否定は【髪】の否定でもある。
けっして冗談ではない。 >>669
調子が悪い時は確かにそうだけど、うつの症状が和らぐにつれてまあなんとかなるに進化するからあんまりそこら辺は、気にしなくていいんじゃない? 原始仏教の経典の中に神が出てきて釈迦と話をしてるのは、ありゃなんだ 原始仏教の経典でなくとも、いま日本で読まれている多くの経典には神や仏が出てきて
釈迦の説法を聞いている。
お経によれば、お釈迦様は遥か久遠の昔に覚者となっている。そして改めて2500年前に
この世に誕生し、修行して仏陀となった。
だから、瞑想によって悟りを開いたというよりも、瞑想によって悟りを思い起こしたと言った
方が正しい。
既に過去世で幾度も釈迦となった身だからこそ「覚者」となり得た。
よって、我々のような凡夫がこの世で幾ら瞑想しようとも、その効果はたかが知れている。
阿弥陀経などによれば、遥か十劫という長い長い昔に仏となった存在が阿彌陀佛であり
他の多くの仏の存在も説かれている。
つまり、仏教という宗教は釈迦の教えから発しているのだが、所謂『仏の世界』はとんでもない
遥か昔に既に出来上がっているのである。
日本の仏教でもその事は余り教えとして説かないが、お経にはそう記されている。 大乗仏教といえども、釈迦滅後500年頃の編纂成立を言われている
よって、大乗経典だからといって軽んじる事はできない。
原始経典でろうが、大乗経典であろうがお釈迦様が直接書き残したものは
何一つなく、今となってはお釈迦様の教えはお経を拠り所とする以外ないのである。 >>675
ほんとうにボケ頭なんだな
もっと分からなく書いてやるわ
悟った後のブッダは、釈迦族滅亡、不本意な女の出家、コーサンビーの破僧、デーヴァダッタの破僧など、ロクな出来事に遭遇してない
もちろんふざけた比丘衆の後始末なんかは無数にある
仏教学者の間には仏教がはじまったのはどの瞬間か(つまるところ悟りとは何か)という定番のネタがあって、
1. 菩提樹下の瞑想によって法を得たその時
2. 梵天勧請によって法を説くことを決め立ち上がった時
3. 初転法輪として初めて法を説いた時
この3つが議論され、2か3とする人がほとんど
1は自分だけが法楽を得て満足している状態
2は1によって導き出された慈悲の心の発露
3は2の実践
本来なら1で良かったのに、人間には本質として慈悲というものが備わっているのか、やらなくてもいいのに自分から進んで荒野に向かった
結果、大勢の釈尊の弟子が生まれ、組織を運営統理することとなり、世俗にまみれることに
実に釈尊の悟りとはこういう行動そのものであって、自分1人の瞑想ではなんの意味もない
これを端的に表しているのは『大日経』の三句の法門
「菩提心を因とし、大非を根とし、方便を究竟とす」
「原因は悟りを得たいという心であり、根本には慈悲がある故に、最も重要なのは衆生救済の方法である」
悟りを得たいと思うのであれば、現に今、誰かの苦を抜くために行動するしかなくて、釈尊はそれを45年間やり続けて死んだ
そんなことがしたいなら悟りたいと思って頑張って行動すればいい 683.
それは、生活の問題である。
それは、宗教の問題ではない。 >>670
私の尊敬する先生は、落ち着きがありながらも感情豊かで、様々な社会的な問題にも積極的に取り組まれていますよ。
日常生活に役立たないなら瞑想なんてするべきじゃないという理念の先生で、私自身瞑想で無気力に落ちていた際に先生から、瞑想で心が整ってきたら失敗を恐れずに新しいことに挑戦しなさいと指導されました。
先生を見て何か違和感を感じたなら、その先生の理念なり目指すところとの相性が合わなかったのでしょう。 >>685
誰それ?
教えて
私の先生、全く落ち着き無いです。 日本曹洞宗の開祖である道元禅師は、「座禅をする時は心を左の掌に置くべし」と言いました。
これは、道元禅師が中国で師事した如浄禅師(宋朝時代の代表的禅僧)からの教えだといいます。
これも頭を空っぽにするには、意識を頭から出して、掌の上に置くようにしなさいということです。
(心がスーッとなるブッダの呼吸法 高田明和) まず悟りと宗教 哲学は全く関係がないと思って下さい
ある日普通の主婦 サラリーマンがそれらのバックボーン無しにそれに至ることも当然あります
また仏教の専売特許でもありません 他宗教の聖典でも目覚めに関しての記述はたくさんあります
また悟った後に本を書いて伝える人もいれば 瞑想教室を始める人もいるでしょう 何も生活が変わらない人 同じ仕事が続けられなくなってリタイヤ 転職する人もいるでしょう
共通するのは自分を含めて世界のことに興味が無くなること それと同時に楽になることです
他の人にも楽になって欲しいというところだけは何故か残りますが 中には思わない人もいたかもしれません
宗教は予備校 方法論なんです 悟っていない人にだけ役に立つサークルのようなものです 誰も質問してないことを突然解説始める人の頭の中ってどうなっちゃってるんだ?
普通の日常会話でもそんな感じなのかね? まぁまぁ、良いではないですか。 それぞれの瞑想への考え方の一端が分かるから。 慈悲の瞑想の功徳に、神々に愛されること、神々に守られること
というのがあるそうですが、この神々(天人)というのは、天部のこと?
テーラワーダでも神々が人間を守るというような思想があるの? マインドフルネス瞑想は治療を目的とした瞑想で
宗教などのオカルトとは切り離した瞑想だけど
宗教板で、マインドフルネス瞑想を語る目的は何? 元々はメンタルヘルス板にあったスレで
ここは論文が大好きなお利口さんが宗教を語る人を排除する為に立てたスレじゃないの?
結果的にはマインドフルネスを語る上でルーツの仏教に触れざるを得ないから
メンヘル板のスレは過疎って消滅
ここが生き残ったという流れでは? >>683
> 仏教学者の間には仏教がはじまったのはどの瞬間か(つまるところ悟りとは何か)という定番のネタがあって、
もうこの時点で悟りと仏教を一緒にしてるがな。
頭悪いの? みんなこのスレくらい仲良くやろうよ
ただでさえ苦しみ多い世の中に、さらに苦しみを増やすことはないだろ っていうか瞑想、座禅を数ヶ月続けてたら肩甲骨の間がどんどん痛くなってきてるし腰痛も酷くなってきた。
一応背筋は伸ばしてしかも脱力してやってるつもりなのだが… 藤田一照さんの禅のやり方はアレクサンダーテクニークや野口体操等のボディワークの経験も活かされているらしいから、そういう人には特に良いんじゃないかな >>698
座禅を一日何時間もやってるの?
座禅じゃなくて、ほかの生活習慣も疑ったほうがいいような気がする あるいは、生活習慣とは関係ない加齢に伴う疾病とか、
加齢等にも関係ない疾病とかね
ともかく、自分の身に起きてることを、ただちになんでもかんでも
瞑想とか座禅に結びつけるのはいかがなものかと思うんだ 坐禅もマインドフルネスも自律訓練法もみな『瞑想』の一種だね。 禅寺での7日間の「接心」に行ってきた。 特段の心境の変化は無かったが
非日常の時間の中で、それなりに楽しい経験だった。 >>702
その定義は通用する範囲はあまり広くないかも ヨガにも「瞑想」あるやんか。 呼称は違ってもやることはオナシ。 南無阿弥陀仏と唱えて阿弥陀仏と合一しその時に自分の煩悩も苦しみも悦びをも含めて全てのエゴを阿弥陀仏に明け渡します
それをバクティヨガと言います 他人が何言うかで自分がやること変えるのか
人生大変そうだな… 悟りは身心脱落、である。
身心脱落、した主体は、坐禅をするか。否、それは座禅バカである。
その主体は、瞑想、ヨガをやるか。否、それはバカのやることである。 自分は恐れを克服するために瞑想してるけど、心を観察してると、物事そのものを恐れるのではなく、「恐れている状態」になることを恐れていることに気づいた。
結局恐れとは、外部の環境よりむしろ、心が映し出すものを恐れ、その心が映し出すものと自分を同一視することから生じているのだなと理解できた。
このスレでよく瞑想してると怖いものがなくなるという人がいるけど、なくなるというより、もともと実在しないものを恐れていたからなくなったように感じるのではないか。
そんなことを瞑想しながら考えてました。 >>711
凄いですね 進んでますね
加えて恐れ 恐怖の具体的な現象とは何なのか 体の反応なのか思考の中で完結しているのか観察してみるのも良いかもですね
元々実在していなかった とも言えますし 少しの間 確かに実在したが 自分であえて記憶から引っ張り出して気にし続けようと努力していた とも言えるかもです
何故同一視するのか せずにはおられないのか 自分のことがどんどん解ってきますね〜 悪欲(無為な性行為、無為な物欲食欲など)を認識して浮かぶたびにしない方向に意識を向けるんだが合ってるのかな >>711
それから色々分析したり考えたりするのはもちろん問題ないというか仕方ないというか自然なことなんですが 本当の本当の理由なんていうのは本人はもちろん誰にもわかりませんので深追いしない方が良いかもしれません
本当のことは観ている瞬間にしかない と 1秒でも過ぎてしまったらそれはもう妄想(分析がほぼ100%確実だとしても)だと思っていただく方が良いかと
もうそろそろ いきなり気づきが向こうからやってきそうな段階でしょうかね 頑張って下さいね 自分の存在自体を強く感じつつ観る 精神統一 集中! >>715
ここは宗派によって違いがあると思いますが 私なら 1.欲望を認識した瞬間を観て 間髪入れずに 2.それは悪いことなんだ と浮かぶ思考 感覚をそのまま観ますかね
少なくとも二つが浮かんできていますので 二つ観るようにしてましたよ >>715
無為な性欲、無為な食欲、無為な物欲を悪欲と捉えてるけどあってるの?って話…ジャネーナ
依存症を自制してるんだがそれであってるか?って意味ならあってるというかそれでいいんじゃないか? 【サマーディ(三昧)からモークシャ(解脱)へ】
ハタヨガの聖典『プラディーピカー』は、サマーディ(三昧)についてこう説明する。
それはあたかも塩が水に溶けて一体となるように「アートマン(真我)とマナス(意)とが、合一した状態である、と。
ヨガスートラなどの古典ヨーガが、サーンキヤ哲学による世界観をともなった二元論に依っていたのに対し、ハタ·ヨーガでは、ヴェーダーンタ哲学により近い概念を採用する。
それによれば、この三次元的な世界はアートマンと
いう唯一、真の実在である「我」が仮に描いた幻的な
存在に過ぎず、人がもし、その唯一の真理であるアートマンの実相を覚醒したとき、その個体はアートマンと同一の実在であるブラフマン(宇宙我、神々)と合一するというものである。
そのことを仏教ではブッダの境涯(輪廻からの解脱) と呼び、ヨーガでは、梵我一如(神人合一)と呼ぶのである。
『プラディーピカー』はさらにこう続ける。
個我(ジーヴァ·アートマン)と最高我(パラマ·アートマン)との二つが均一となり、合一し、すべての観念が消え去った状態をサマーディと呼ぶ、と。
この場合の最高我とは、もちろんブラフマンのことでもある。
こうした仏教の如来蔵思想にも通じる個々人の真の我という概念が、宇宙の絶対的な意識と合一するという感覚は、ウパニシャッド哲学を背景とするインドにおいて、古くから存在した考え方であった。
実は、このような明確な解脱の感覚は古典ヨーガ(制御のヨーガ)には存在してない。
これらの普遍性をもった解脱の概念はハタ·ヨーガ
(活性のヨーガ)の登場によって、初めて具体的な方法
論をともなって確立したのである。 観察よりも自在にジャーナに入れる能力の方が現代社会では役立つような気がするな。
まだ軽いジャーナしか入れないけど、ストレス感じる場面でもジャーナ入ると一瞬で幸福感が湧き上がるし。
確かに観察に比べると根っこから取り除いてないから一時しのぎでしかないけど普通の人は薬や酒とかに頼ったりするからそれに比べて遥かに健全。
やり方は簡単で、一呼吸の観察ができるなら数日か数週間でジャーナに入れると思う。
観察瞑想ばかり持ち上げられてて、集中瞑想はなんか軽く見られてる印象だなあ。 >ストレス感じる場面でもジャーナ入ると一瞬で幸福感が湧き上がるし。
そこまで行けば大したもの。自分もそうだが未だその域には達していない。 >>723
それはサマタじゃなくてヴィパッサナーをしてるからじゃないか?
観察はせずに、呼吸以外に生じるものを無視して全ての意識を呼吸に注ぐように瞑想すれば比較的入りやすくなる。
毎日30分ひと呼吸も見逃さない勢いで集中したら、二週間くらいでジャーナに入れるようになった。
自分にはヴィパッサナーで嫌な感情を受け入れる勇気がなかったからそれを消す方に特化したら上手くいったな。 一時の瞑想で何を得てもその後の行為が得たものの現れにならなければ悟りではない >>722
私はサマタ 集中して止めるところから入ったので知っていますよ 観察する瞑想はやるつもりがなかったので仮死状態になるまでやりました これで決着をつけようとして
でもやっぱり仮死状態では足りなかったようで 心のお喋りが極端に恒久的に減るという結果になりましたね
そのお陰か観察の瞑想で次々気づきがやってくるまで2ヶ月もかからなかったように思います 最初から心も観れましたしね
求める力が強ければ今の状態から自然に遷移していくはず
でも幸福感は無かったなー 個人差が大きいんでしょうね うーん... >>726
仮死状態ってどのくらいの期間どんな状態になったんですか? 「仮死状態」ていうのはいささか盛りすぎなんじゃないですかね、失礼ながら >>726
幸福感を感じるコツはあって、日常で感じた微かな幸せ(美味しいものを食べる、風呂に入る等)に意識を集中させるんだ。ジャーナに入れるくらいの集中なら何倍にも幸福感が倍増されるはず。
それを習慣にしてれば、ただジャーナに入るだけで幸福感に満たされるようになる。
>>725
悪いが俺は悟りは目指してない。
ていうか、ここにいる人の多くは悟りより日常を楽に生きるために瞑想してるんじゃないのか?
そういう風に厳格になりすぎて瞑想の敷居を高くするのはどうかと思う。 幸福感は自分が幸福に思えば幸福なんだから自己催眠と同じとわかれば簡単にできるようになるよ
ただ病気や痛みや身体的な不調のときでもできるようになるのがむずかしいだけ
不幸に感じてるとか心に感じてるだけなら自分でそう思ってるだけなんだから幸福に思えば幸福に思える
ただそれだけのこと
それほど集中力がなくても観察で心は単なる心にすぎないとわかればできるようになるよ >>733
幸福感について、同じような事が出来る人がいたんですね >>733
ありがとう そうか そんな単純なことだったんだ....
今更になって最近やっとその辺りのことを見つめ直してたところでした ありがとう
>>729
仮死状態はインパクトあり過ぎたかもしれませんね 一回のサマタ1時間ぐらいで 2週間ぐらいまともに歩けなくなって 2ヶ月ぐらい後遺症が残った感じでしたよ そんなことが期間をあけて2回ぐらいありましたかね ◼︎道元 典座教訓
「宋の天童寺に留学中だった私(道元)はある夏の日、中庭で寺の老典座(食事係)が海草を干しているのを見た。
老人は眉は白く腰は曲がっていたが、炎天下に竹の杖をつき、汗だくになり、苦しそうに働いていた。
私は気の毒に思って近づき、年齢を聞くと老人は『68歳だ』と答えた。
『なぜ、下働きの者にやらせないのですか』
老人は答えた。『他の者とやらは、私自身ではない』
『なぜ、今のような炎天の日中にされるのです』
老人は答えた。『今のほか、いつを待てと言うのか』
私はその場を離れた。そして廊下を歩きながら、典座職の重要さを考えたのであった」
「また私が上陸許可を待って港の船の中にいた時、ある老僧が食材の買入れに港にやってきた。
船室に招いて茶を勧め、話を聞くと
『私は、阿育王寺の典座である。故郷を出て四十年、歳も六十を越えたが、これからまた20キロほど歩いて、食事の用意に寺まで帰らねばならぬ』
『飯の用意など誰かがやるでしょう。何か差し上げますので、ゆっくりしていかれては』
『それは駄目だ。外泊許可を貰っていないし、典座は老人にもできる修行、他人には譲れぬ』
私は聞いた。
『あなたほどのお年なのに、なぜ忙しく働いてばかりいて、坐禅したり先人の教えを学ばないのですか。それでいったい何のいいことがありましょう』
老僧は笑って言った。
『外国からきたあなたは、どうやら何もわかっていないようだ』
私はこれを聞き、大いに驚き、また恥じた。
そして老人は「もう日も暮れた。行かねばならぬ」と立ち上がり、寺へと帰っていった。
私が多少とも修行のことを知るようになったのは、実にこの老典座の恩によるのである」
道元は日本に帰国してより建仁寺に留まったが、建仁寺の典座が食事の用意を軽く考え、職務を適当に行っていることを見、宋との落差を非常に遺憾とした。
そして『典座教訓』を執筆し、典座職の重要性と、その職務要領を詳細に書き残した。 心の中に、例えば過去幸福感を感じたときのイメージを思い浮かべて感情をコントロールしたり、
辛かったときのイメージを思い浮かべてその書き換えをしたり、
っていうのは以前流行ってたNLPがそんな手法・技法を多用してたと思う
NLP以前にそういう心理療法があってNLPはそれを拝借しただけかもしれんけど あいかわらず、NLPでぐぐると
マインドフルネス関連以上に怪しげなサイトもわんさか引っかかってくるなぁ
ご注意ご注意 >>737
臨済宗の食作法は体験したことがないけど、曹洞宗の食作法は接心に何度か
参加しているので体験している。
常住坐臥。全てが修行で食事も修行の一環ということで坊さんも袈裟を付けたまま
食事をとる。 食事の流れも実に素晴らしく「美しい」といえるほど。
寺によって多少の違いはあると思うが淡々と進む食事は体験の
価値アリだと思う。慣れない内は食べたような気がしないと思うかもしれないが
機会があったら是非「禅宗の食事」を体験するといい。 >>741
俺のこと言ってる? 誘導してると思ったら勘違いだよ
よく読め 食事を作るにしても、食事を取るにしても
それらは実は瞑想なんですけど、説明しにくいのですが
全ての動作において気をつけている
というか、心を置く、留める、念ずるとでも言うか
だと理解しています。 まぁ、回峰行を「歩行禅」と言うくらいだから確かにそうなんだが・・・ ていうか、このスレに来てる人間で食べる瞑想なりレーズンエクササイズとか
歩行瞑想知らない人間いないでしょ 日常の中で何事も気づきをもって丁寧にやりなさい、ってなんかお説教にしか聞こえないし、何人が実践できるんだろう。 英語が上達したければ〇〇すればいいよ、っていうのは説教じゃないし
英語が上達したい人のなかでそういう方法やりたい人だけやればいいんじゃないですかね
マインドフルネスとは限られた場で実践するものではなく、
こういう方法もありますよ、っていうのは説教じゃないし、
マインドフルネス瞑想をやりたい人、そういう実践をしたい人・やりたい人がやれば
やればいいんじゃないですかね 長年引き込もってるがマインドフルネス瞑想?して2日で謎の覚醒が起こったことがある
ベットで横になってたらいきなり世界が氷ついた感じで自分が死んだ感じがして、ぼんやりツベで動画探してたらマインドフルネス瞑想ってのを見つけてやってみた
初日は真面目にやったが、2日目はストーブにあたりながら猫背でやった
んで背中が丸まって口もポカーンと開けてもう死んでもええわって気持ちで座ってたら息してなくて気づいたら頭のなかがスッカラカンになってた
んで見えるものぜんぶに感謝の念が湧いてきて今までの世界と違いすぎて最初はガクガクビビってたが、とにかく意欲や興味が半端なく湧いてきてそっこーで10年ぶりにバイトの面接いってたわ
あんだけ社会不安でビビってたおっさんなのに余裕で年甲斐もなく若い連中に混じって働いてた
まあバイト辞めてまた引きこもってるがねw ええ話やなーおもいながら読んでたら
辞めたんかいw ほんとかどうかは別にして引きこもりみたいに自分の時間が持てるのは
過去生の修行から今生でも修行できる時間が与えられてるなんていう人もいるし
せっかく時間があるんだから瞑想や修行してみるのはいいことだと思う あるいは引きこもりにとっては就活が最高の修行なのではないだろうか? >>749
なんかごめんw
あれ以来瞑想はしてるが、自分の体験が自我の崩壊だったとするとやっぱ我が無くなるには自分に心底嫌気がさしてることがキーポイントなのかもしらん >>750
一応まじだ
つかかなり控えめに書いたつもりだ
当時書いたら魔境だなんだとバカにされて終わったw >>751
何社も落ちまくって心底辟易したらあるいは
おっと、なんかはしゃいで長レスしてすません
寝ます 鼻の頭に意識を集中するのはどうでしょうか?
また、URLなんかを知ってる人は教えてもらえると凄く助かります そんなんただの躁鬱だろ
瞑想はやったらあかん病気もあるから気をつけなよ >>747
いや、そういう意味の説教じゃなくてな。
日常の生活の中の行動を丁寧にやりましょうって、マナーとか道徳的な目的以上に何があるの?
それが瞑想であるなら、なんらかの効果があるんでしょう?
3ヶ月くらい気づきを持って物事を丁寧にやってきたつもりだけど、精神面は変わった実感ないんだよ。 どんなことでも丁寧に3か月も続けたら何らかの精神的変化はあるだろうし、
何も変化ないっていうなら期待しすぎで自分が見えなくなってるんじゃないの?
まあそれは一般論として瞑想で変化がないならやり方がわるいか真剣さが足りないかじゃないのかな
それにどれくらい真剣にやったのかはわからないけど結論出すのに3か月は少ないかと
本当に真剣にやれば一か月でも変化はあるかもしれないし適当にやってると10年経っても何も変わらないかも 座禅中に妄想に耽ってるからだろ
思考以外に足場を作るのが目的なのに思考に浸かってたら意味がないぜ >>757
> 日常の生活の中の行動を丁寧にやりましょうって、マナーとか道徳的な目的以上に何があるの?
> それが瞑想であるなら、なんらかの効果があるんでしょう?
それって、そもそものマインドフルネスの理念なり目的なりそういったものがわかってないんじゃないの?
呼吸瞑想も歩く瞑想も食べる瞑想もそこらへんは一緒でしょ
じゃあ、呼吸瞑想もうまくいってません、なので呼吸瞑想もマナーでしょ、道徳でしょ、ってなる?なんないよね
マインドフルネスの理念とか目的とかってなんだよって聞かないでね。標準的なテキストに載ってることを羅列するだけになるから 宗教的な立場からは、瞑想の「目的」って言葉を使うことが正しいのかよくわからんけどね >>757
ここの趣旨から説明すると 丁寧に ではなく 自分を観察しなさいということになります 観察しようとすると 結果的に動作 思考がのろまになって 一つ一つ丁寧に行う傾向に確かになります
最初は大雑把に観て段々と虫眼鏡 顕微鏡 電子顕微鏡 というふうに微細に観察を進めていきます 観察して分析して納得する段階から最後は観察だけになっていきます
そんなことで何が変わるんだ 馬鹿らしいと思うのが普通ですが 思考 理屈以外の理解の仕方があることを初めて体験することになるでしょう
目的は辛いことから逃れるため 真実を知るためです 能力を高めるのが目的ならば手っ取り早い方法は他にあります 仕事でミスして落ち込んだ勢いでケンタッキーチキンをマインドフルに腹一杯食べました
ありがとう 緊張を消そうとする→現在の自分の否定→マインドフルネスではない
緊張を自覚する→今を生きている→マインドフルネス 自分の場合、完全にリラックスしているより、程よい緊張感が有ったほうが良いと思うが・・ しかし過剰に緊張しやすい性で大勢の前でスピーチできないとか面接で問い詰められたりするとパニクって冷静な応答ができないとか
そういうのは瞑想で克服できるのかというとかなり厳しいのではないかと思う
瞑想で不動心が生まれるというけど自己流だからかその不動心がなかなか芽生えないねw >>771
やっぱ禅寺とかにいって指導してもらうべきか
http://www.rinnou.net/cont_02/zen_info.html
でも参禅できる寺は俺の家からは遠いんだよな
田舎の自営業の朝7時半から店を開ける俺には夜しかまともに時間が取れないのだが夜に座禅の会をしている寺はうちの県にはない
隣県にもない
ヨガスクールか… 坐禅会は黄檗宗だけにあらず。 禅宗は他にも曹洞宗や臨済宗もある。
特に坐禅会をやってなくても、毎朝とか毎夕坐る住職なら大抵受け入れてくれる。
近所の禅宗の寺に当たって見るといい。
もしその住職が余り坐らない人でも、他の寺を紹介してくれるかもしれない。
但し、禅宗とは一口に言っても宗派によって違いがある。よって其の宗派のやり方が
自分に合う合わないもあるかもしれない。
宗派による違いぐらいは事前に良く調べておいたほうがいい。
また、お手軽なのは、youtube で「坐禅の仕方」で入力すればイロイロ出てくるから
基本くらいは学べる。 ツベが何でも教えてくれる便利な時代だわw
因みに>>772 氏は何県住まい? >>773
ありがとございます
宮城県住まいで菩提寺は曹洞宗ですが住職は座禅の指導をしているなど聞いたことがないし
ちょっと難しいところがある住職なので指導されるのも難しそう
YouTubeでは雲堂の動画を見てそれから雲堂のアプリを使って座禅している
たまにマインドフルネスのアプリも使う
一般的にはサマタ瞑想で精神統一してからヴィパッサナーなんだけど
自分の場合はアナパナというか呼吸の観察・実況をしている内に段々と呼吸が落ち着いてくるからそれからサマタというか気持ちの良さに集中できる呼吸をしているから順番が逆かなとは思っているw
アナパナの前には禅の欠気一息で邪気を出す暗示をかけたりもしているからやはり自分の瞑想は色々なもののフュージョンで自己流だw >>774
宮城辺りは「曹洞宗」のお寺が多いと思います。 菩提寺の住職が苦手なら他の曹洞宗の
住職に相談して見ては如何でしょう。
自営業だそうですから、来店のお客さんに他の曹洞宗寺院の檀家さんもお出でかと思います。
気軽に話のできる住所ということであれば、その住職に相談してみてはいかがでしょうか。 追記
『宮城県での坐禅会』で検索したら、曹洞宗の坐禅会が随分ヒットしましたが・・ >>776
お陰様で我が家から近い、かつ夜に座禅会しているお寺が見つかりました!
有益な情報ありがとうございましたm(__)m https://www.youtube.com/watch?v=v09nboZMRIk
タイ仏教瞑想法
これどうなんだろう
タンマガーイ寺院はスキャンダルや批判もあるが、この人の瞑想は落ち着くし、
ティクナットハンの瞑想も「体を楽〜に」の繰り返しだからよく似てる
白隠のなんその法もだけど、サマタ瞑想のリラックスもいいもんだと思うな 禅宗が大嫌い
禅宗に対する「怒り」で自分自身を傷つけています
って言えば? 坐禅をしてもなんにもならん
という言葉の意味を勘違いしている例 カバットジンのマインドフルネスストレス低減法でさえ
「何かを得ようと期待するのではなく、瞑想すること自体を目的として励むのが最良の方法」
と言っているではないか。 ティク・ナット・ハンや仏教3.0の藤田一照は禅宗でございます >>780
ほぅ・・・其の結論に至った理由を聞かせてほしい。 んなこたーない。 悟りを究めた仏でさえ瞑想しとるやないか。 別にわざわざ座禅がどうとか言わなくても悟った人に必要なものなんてあるのっていう 瞑想と催眠術は関係があるとおもってて、他人から補助された軽めの瞑想が催眠術ではないか?
高僧とか、スポーツで成績出してる選手とかは、催眠術には掛からないと予想。
日常で自力で瞑想(催眠)状態になれるので。
術を受けたところでそれが特別ではないと認識できていて。
たとえば、催眠術に掛かる坊さんはニセ物の可能性ありで、イチローとか催眠術に掛からないとおもう。 調べてきた同じだろ?無我で表されるのが催眠・瞑想の理想で。
「自己催眠」は「瞑想」とどう違う? - goo ニュース
https://news.goo.ne.jp/article/lifehacker/trend/lifehacker_166918.html
変性意識状態とは?
変性意識状態は瞑想状態なのですが、じつは催眠術をかけられた状態も変性意識です。
http://seishinkougaku.com/kanemochininaruhouhou-gyousyubetu/kanemochi-benkyou/henseiishikijyoutai02.html
瞑想とは何か?
瞑想をすることで、変性意識状態になることができます。この原理を応用したのが催眠術です。催眠術師は、催眠をかける人を変性意識状態にすることで暗示をかけます。
https://laboratory.brainhuck.info/category1/
アスリートが実践する精神と肉体を連動させる方法 2015.02.17
ポジティブな独り言、目標宣言、視覚化、瞑想、催眠、NLPの実践が、パフォーマンスを上げるのにどのように役立つかについて論じていきたいと思います。
世界最強のアスリートたちが、どのように使ってトップに上りつめたかを見ていきましょう。
https://www.lifehacker.jp/2015/02/150217connect_mental_and_physicalself.html
催眠状態の「脳」で起きていること 2016.08.17
催眠状態に陥っているヒトの脳内は、いったいどうなっているのか? 何らかの変化が脳内で起きているのだろうか?
その興味深い実相が、米スタンフォード大学医学部のDavid Spiegel氏らによるMRI検査の研究報告で明らかにされた。
催眠は、暗示に左右されやすい変性意識状態の一種。催眠時に3つの明瞭な脳内変化が認められた。
変化1:脳を司る主要ネットワークの一部である背側前帯状皮質の活動が低下
―この領域は物事を比較する機能を有し、心配するに値するかどうかを判断する際に働くといわれている
変化2:脳の最も進化した部位であり、集中力の源泉である背外側前頭前野と身体状況の把握を司る島皮質のつながりが増大
―催眠状態下では、その人の心拍数や血圧を変えることも可能とのことだ
変化3:一方、背外側前頭前野と創造性に富む初期モードネットワークのつながりは減少
――このDMNはぼんやりしたり、自分のことを考える際に活性化する領域
http://healthpress.jp/2016/08/51-2_2.html 完全な無我なら、スポーツなどでパフォーマンス上げる必要もないだろうが。
リミッター外しは延長線上に無我があって、弱めの無我、瞑想では。
身体能力の限界は脳が決める!?思い込みを捨てることでリミッターを外し、もっと身体能力をアップさせよう
http://www.logophilia.com/sport/limiter/
柔軟な発想力を手に入れろ!頭のネジを一瞬で外す5つの方法 2017.02.08
http://careersupli.jp/career/neji/
脳リミットのはずし方 | 茂木健一郎 | Amazon 2018/3/14
「自分にはムリ」「どうせムダ」「普通は」など、自らが脳に作った限界を解除し、脳の力を最大化するための、AI時代の脳の活かし方
自分の限界は、自分がつくり出した幻想だと知ること。
自分という枠から飛び出す勇気を持つこと。失敗を恐れずに、変化を心の底から楽しむこと。
さあ、脳リミットをはずして、“脳力”を最大化しましょう!
https://www.amazon.co.jp/dp/4309248535
なぜ我々はリミッターを外すことができないのか?〜それは脳に原因があった
2016.09.16
よく「我々人間は30%の力しか使えない」と言いますが、なぜ100%の力を使えないのでしょうか?脳と体の関係からその理由を解説した論文をご紹介します。
なぜいつも「火事場の馬鹿力」がだせない?
脳を守るために肉体活動に制限?
なぜ力を出し切れないかという理由は数多くあるのですが、その一つに脳の生理学的特徴が関係しているようです。
脳は大きさでは体重の約2%に過ぎないのですが、そのエネルギー消費量は全消費エネルギーの約20%になるそうです。
しかもこの脳というのはエネルギー不足に非常に弱く、ほんの数分間酸素によるエネルギー供給が止められただけで多くの組織が不可逆的に損傷してしまうという特徴があります。
そのためヒトの生体は、この脳を守るため、脳に十分なエネルギーを与えるために、肉体の活動に制限をかけているそうです。
生体メカニズムが肉体の活動に制限をかけてまで守ろうとする脳。我々は体だけでなく脳の健康ももっと意識すべきかもしれません。
http://jeb.biologists.org/content/211/11/1792 俺も催眠は興味あって、催眠と瞑想は似た部分あるなとは思ってるけど、同じだとは思わない。
瞑想が目指してるのは催眠と違って、意識によってコントロールされる世界ではない。
そういったものをすべて手放したところが瞑想。 目標はちがうだろうが。
実際にワザを披露する前(テレビなどのパフォーマンスとして)の、
予備催眠や催眠深化をしてるだけの状態は瞑想状態と近いのかと。深さに差はあるが。催眠にも瞑想にも。
催眠深化法を行うタイミングと催眠誘導のセオリー
https://ameblo.jp/konzentherapy/entry-12290760339.html そこでいうなら近いのは「集中」という部分だけでは。 催眠によって、特定の場で何か特定のことがらが上手く行ったとして、それが根本の苦の解消にはならないというのが瞑想という立場の考え方。 イチローで思い出したけど、肩の力を抜きたい時に必死に肩の力を抜こうとしても抜けないけど、膝をゆるめれば肩の力も抜けると語っているのを見たことがあって、
刻一刻と変化していく現在の自分の体の状態を正確に捉えらることが出来てるのだから、イチローもマインドフルネスに近い状態で生きているんだなあと思ったことがあった。 知識ばかりで物事を理解しようとする典型的な無明。
瞑想が催眠と同じかどうかなんて自分でやって確かめたらいい。 瞑想は思考じゃないよ。
思考で分かることなら、論理哲学でもやればいい。 論理哲学は思考をするが、
瞑想における思考は、気づきの対象であって、主ではない。
瞑想でやることは、あくまでも気づき(正念)。 そんなことしてどうなるのか、と思うかも知れないが、
気づきの力を育成していくと、例えば、日常生活のなかで
色んな状況におかれた時に、自分がどう思考するべきか(意業)、
どう反応すべきか(口業、身業)、それを選ぶ選択の自由が得られるようになる(如理作意)。 平たく言い直せば、自己制御能力が高まる。
車の運転にたとえるなら、
身体に宿る自我を操作している心(意識)を
冷静で優秀なドライバーに育てていくことができる。
頭もよくなる
性格もよくなる(そうしたいと望んで、その方向に努力すれば) 最終的には、人智を超えた悟りの智慧と解脱に達する。
(仏法に素直に忠実に従い、そうしたいと望んで、その方向に努力すれば) どう思考するべきかは、八正道の正見、正思惟に対応する。三学では慧学にあたる。
どう行動するべきかは、八正道の正語、正業、正命に対応する。三学では戒学にあたる。
どのように瞑想するかは、八正道の正精進、正念、正定に対応する。三学における定学にあたる。 日常生活においては、正しいことを、適切な方法で行う。
そこに八正道のすべての項目、あるいは三学のすべての項目がすでに含まれている。 まあそんなに興奮するな
それくらいのことこのスレにいる人間なら知ってるから 気づきの対象として「思考」と呼ばれているものは、思考ではなく、浮かんでは消える思いというか妄想というか、そういうものであって
論理哲学?でいうところの「思考」とは別物なのでは 思考に飲み込まれる>哲学
思考に気づいて放棄する>瞑想
思考を強制・上書きする>催眠・洗脳 想(sanna)と見(ditthi)の区別は有用。
瞑想中に出てくる思考は想。
思い込み、固定観念は見。 お釈迦様はスジャータの乳粥の差し入れを食したあと、菩提樹の木の下で坐禅を組んで瞑想し、
「血が枯れ果て、肉がただれ、骨が腐っても、悟りを開くまではこの場所を絶対に立たないであろう」という強い決意をもって坐禅を続け、
一週間後の明けの明星が上がる時に悟りを開いたけど、その悟りとは死は生によって起こり、生は有によって起こり、有は取によって起こり、、、
という十二支縁起だったと聞いたことがある。
このどうして死ぬのか、それは生まれるからだ、どうして生まれるのか、それは存在(有)があるからだ、と考察していったのは思考ではないの? >>815
うんうん 至極真っ当な分析なんですが 私の小さな体験を通してもそれは違うだろうな と容易に想像できます どちらかというと一瞬にして根源となる理解が起こった
ご本人はこの時点で分析も理屈での理解ももう必要無かったんだろうと思います が それをまだ理屈で考えてしまう人々に教える時に 理屈が必要になるんです
最初期は単純な縁起で12も無かったと思いますが それでも これがあればかれがある のように理屈が必要になる 普通の人でも理解できるんですが 小さな悟りでさえ 得た人にとっては全く理解の仕方は異なります
文章でカレーの味を理解するのと 食べて理解する違い 衝撃度的にはこれ以上の違いがあります
ですから考察は自分以外の人のために行う作業だと思いますよ 本来はいらない作業 自分に起きたこと、状態などを後から考察するのは大事だとマハーシの本にも書いてあったと思うけどね
考察しないで最後までいける人はそれでいいけど、
思考によって思考の必要ない部分をきちんと知り日常と修行に活かしていくのは大切だと思うけど
禅定や思考が生じない状態などはもちろんあるけど、それとそれを考察しないってのは話が別でしょう
きちんと考察しないせいで以前入れた状態になかなか入れないなんて話もあるし
思考(雑念や必要ない思考)が生じなくてもよくなるために正しく思考(考察や熟考)を使っていくのは仏教全般にあることだと思うけど 哲学って思考に飲み込まれてる状態かなあ。
自発的に考えてるのは、飲み込まれてるのとは別なような。
哲学じゃなくて例えば数学でもいいけど。
頭に勝手に浮かんでくるイメージにとらわれてしまうのと、
何か問題があってそれについて思考することはごっちゃにしない方がいいような。
そこを一緒にして、すべて放棄したら動物になってしまう。 マインドフルネス瞑想は価値判断しない、
っていうのが大前提になってると思うんですが
そこらへんとのかねあいはどうなんですかね トリガーがあって、そのトリガーに執着(飲み込まれ)て分からないことを理解しようとする 価値判断しないというのは体験することに対して、良い悪いあるいは好き嫌いという自動的に起こる判断をやめようということでしょう。
何か問題があった時に、それをどう対処すべきか考えるのとは違うんでは。 >>815
観察による洞察。
例えば、天文学者が、天体の並びや運行を知るのは、
観察によるのであって、思考によるのではない。
体験的な理解。
言語は思考を介するため、言語的説明による理解は
概念的にならざるを得ない。
地図と現場の関係でいえば、言語説明は地図であり、
地図の理解は思考であり、現場を見るのが観察。 言語では、富士山を十合目と、10に分割して説明することもできるし、
1%から100%まで、100に分割して説明することもできる。
概念的には、いくらでも複雑化(または単純化も)できる。
しかし、体験的には富士山は富士山。
身体を五体と分けることもできるし、上半身、下半身と分けることもできる。
内蔵、筋肉、骨、筋、皮、のような組成毎に分けることもできる。
概念的には、いくらでも、どんな風にでも分けられる。
しかし、体験的には、身体は身体。 体験だけでは生きていくことさえ出来ないではないというお話? >>361
>359神も仏も名無しさん2018/05/19(土) 00:39:25.50ID:o3b2Gtmd
>>>344
>思考は我ではないよ
>
>真理追求の思考は我から生じないかもしれん^^
これか^ ^
謎解けた^ ^ >>822
智慧を得た後なら思考の質も変わる。
ある程度瞑想が進めば、思考が自我を守る方向にしか働いていないことに気づくだろう。
価値判断はたいてい、自我を肥大させる方向に条件付けられる。
それが極端に進んだケースがイデオロギーだったりする。
思考を正しく使いたければ、一度思考を自我から引き離してやる必要がある。 思考自体してはいけないと勘違いすると、ドアを開けっ放しでも気づかないし、しばらくして気付いたあとも喜ぶというヘンな人になってしまう。 >>825
菩提樹の木の下でひたすら瞑想しながら何を観察していたのですか?
心(エゴ、チッタ)の動きですか? 思考なしにどうやって日常生きるのか疑心暗鬼になってた時期は俺にもあった。
ある日、気づきを重ねていった先に得られる新しい認知の形式(仏教的には智慧等と呼ぶが)が開かれて全ての疑問は氷解したよ。
ああ、なるほど、こういうことか、ってね。
人間は思考に頼らずとも目前の問題を解決するために脳の新たな部分を開発させるのだと思う。
安心して取り組んだらいい。 >>835
え、日常の判断に思考使ってないの?
ジュース買うのにお金出すときどれが10円玉で100円玉か判断せず無意識か直感で財布から出してるわけ? 5ちゃんねるの修行者は、如理作意までも燼滅すべきものだと思っている。 >>805
なにやらいろいろと勘違いしている様に見受けられるが… いつもの観察至上主義者で天体は望遠鏡で心理作用は瞑想で観察することで真理真実に到達できる、の人でしょ
前はテーラワーダのスレで連投していた人 体験智の話は、話になった時点で概念化するから
概念(思考)から抜け出した経験のない人に言って
理解を求めても無理。 エックハルトトールは言います。
「あなたが自分の内面で思考を超えた次元に触れれば、思考することが最高レベルの在り方ではないことがわかります」と。 極度の集中力が持続して、一時的に思考に流されない状態になったとしても
日常生活ではまた思考を使うんだよ。 日常で思考を使う時は、適切に使う(という訓練をする)ことになる。
適切に思考するとはどういうことか、というのは、仏教的には四諦
に基づくことだと思う。
世間的な仕事や問題への対処としては、GTD(Getting Things Done)
やZTD(Zen To Done)のようなモデルが分かりやすいかも知れない、
と個人的に思う。
気づきの力が弱い人は、刺激に対して(貪瞋痴で、本能で)反射的に反応する。
気づきの力が強い人は、刺激に対して(如理作意で、理性で)選択的に反応する。
反応を選ぶ自由が得られる。 「結局思考を使わずに生活なんてできないよね 」
思考は我執を伴うから迷う・・^^
直接知覚か・・非思量か・・^^
まっ・・^^
聖人は思考ではなく智慧でみてるからな・・^^ 知恵は、損か得か。(我執を伴う)
智慧は、真か偽か。(我執を伴なわない)
おまえらは 知恵を使うほう・・^^
う〜〜〜〜〜〜〜〜ん^^
この違いはでかい^^ 気がつかなくたって体なんか勝手に動いてるもんだよ
むしろ勝手に動いてる体や勝手に浮かんでくる思いに気付くのがマインドフルネス
自動操縦状態から脱するのがマインドフルネスで、勝手な動きに委ねてしまうのは傾向性の奴隷になってるのに過ぎない カンポンさんの本にも「思考は止められない」「悪いものではない」
「巻き込まれるのではなく、それを観る」と。
>>844さんと同様の見解だったような気がする。 体が知ってることは勝手にできても頭を使わないとできないことは考えるんじゃないのだろうか
テストの答案も体が勝手に動いてできるのだろうか
だとしたらすごいけど 九九とか考えなくてもできるだろ
禅の先生は一目でクラス全員の名前覚えられるけどおそらく考えてはいない
空間的情報などチンパンジーでも瞬時に覚えられるわ。
俺もあまり物考えてないスカポンタンだが極まれにしか出来んわ…
つまりサルになれ!ちゅうことだ 第T篇 第三章 剣 第五節 敬わるべき人
〔神いわく、ー〕
「なすべきことをなし了え、煩悩の汚れを滅ぼし、
今や最後の身体をたもっている真人となった修行僧は、
『わたしが語る』と言ってもよいのでしょうか。
また『人々か〔これこれ は〕<わがもの>である、と語っている』と言ってよいのでしょうか。」
〔尊師いわく、−〕
「なすべきことをなし了え、煩悩の汚れを滅ぼし、
今や最後の身体をた もっている真人となった修行僧は、 『わたしが語る』と言ってもよいでしょう。
<わがもの>である、と語っている』と言ってもよいでしょう。
真に力量ある人は、世間における名称を知って、 言語表現だけのものとして、
〔仮りに〕そのような表現をしてもよいのである。」
(神々との対話(サンユッタ・ニカーヤ)) >>849
観察によって実感できましたか?それがありありとわかるということは もう相当観察力がついているはず この実感は今までの自分という感覚 思い込みをぐらつかせ 自分という概念に疑念を起こさせます
思考 感情 動作 ほとんど勝手に自動的に起こっている 観察している自分だけは違う それでは観察する自分が本体なのか? もしかして観察する自分さえも.....
このパターンがベタなパターンです 頑張ってください! 今まで2つの認識だったのが瞑想によって3つになるといえばわかりやすいかな。
思考(自発的な思考。問題解決などに使う)
雑念(無意識に流れている。デフォルトモードネットワーク)
智慧(上記2つを使用することなく、直接事実を認識する)
智慧に関してはそれを体験してない人には理解困難だと思う。
普通は何かを知覚した瞬間、概念化するから。
例えばりんごを見た瞬間、りんごだと理解する。
智慧で見たなら、りんごという概念以前のその存在そのものを知覚する。
心も同じ。
智慧で怒りを観察すれば、心身に生じる純粋なエネルギーを感じるだけになる。 概念以前の存在そのものというのは、意味をもたない存在ということでしょ
日常生活において思考の代わりになるものとは違うのでは 九九は暗記だし、人の名前を覚えるのも暗記力
仏教のいう智慧ってのは、そんなもんなのか >>856
とても静かなものが観ている、ただ身体が動いている
その静かなものを邪魔するものが出てこないのです。
ただ気づいているという表現が一番近いものです。 >>859
多分チンパンジー以下だと思うけど…
そんなもんとか言う?
わかる範囲で言ったつもりだ立たんだけどなぁ… テストの話は、じゃあ九九じゃなくてもいいや。んー、1から1000までの整数の総和とか、例えばの話 整数だと簡単過ぎか…てそういうもんだいでもないな
ようするに、自由な視点から物事を捉えるって話。 自由な視点からものごとを捉えるのが仏教の智慧というなら、わからないでもないけど
それがイコール整数の総和を求める能力に直結するというのが分からない。
智慧が開かれると、そんな数学的能力が手に入ると本気で言ってんの? >>852へのレスとして>>853を書いたわけでしょ
例えテストの答案だったとしても頭を使わずに体が勝手に答を導きだすと
それが仏教の智慧であると おほよそ、心三種あり。
一つには質多心(シッタシン)、此の方(=中国では)に慮知心(=思考して分別する心)と称す。
二つには汗栗多心(カリタシン)、此の方に草木心(=草木のような心)と称す。
三つには矣栗多心(イリタシン)、此の方に積聚精要心(シャクジュウ セイヨウシン)と称す。
このなかに、菩提心をおこすこと、かならず慮知心をもちゐる。
菩提は天竺の音(菩提とはインドの言葉(ボーディ(=悟り)の音写)、ここには道(ドウ)といふ。
質多は天竺の音、ここには慮知心といふ。
この慮知心にあらざれば、菩提心をおこすことあたはず。
この慮知心をすなはち菩提心とするにはあらず、この慮知心をもて菩提心をおこすなり。
菩提心をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願(ホツガン)し、いとなむなり。
そのかたちいやしといふとも、この心をおこせば、すでに一切衆生の導師なり。 例えだつってるだろ
〇〇智とか解説する必要ないだろ? 仏教の智慧があれば頭を使わずにテストの答案が書ける
なんていうことの例えになってるんすかそれ いや、発想は考えて得るものじゃないでしょっていう話
まあ考えてもいいけど マインドフルネスはモンキーマインド
とは反対の状態
つまり、猿になってはいけない それで思考なしで日常生活は送れるの送れないの?
7×6は瞬間的に42って答え出ても7×3×8は思考で考えるんじゃないの?
そもそも7×6だって瞬間的に思考してるんじゃないの?
思考しなかったら7も数字だとも思わず視覚上の白の上の黒い線か模様でしかないんじゃないの?
瞬間的に「7」「×」「6」の意味を思考してそれを掛け算だと思って答えを出してるんじゃないの?
それが自動的にしろ自分でわからないほど瞬間的であるにしろ思考はあるんじゃないの? >>860
なるほど! 良い感じじゃないですか
どんどん自分に起こることを観て下さい! 全部です! できれば24時間です! 勇気を出さないと観られないことがあるかもしれません
ある特定の状況になった時 初めて気づくようなこともあるかもしれません 無意識が邪魔をして誤魔化そうとするかもしれません
でも自分の微細な変化を頼りにしていけばきっとひと段落つくところまでいけると思います 応援してます! 映画マトリックスで例えるなら、仮想現実の世界(マトリックス)で生きている状態が無明、智慧が開かれるとは、プラグを抜かれて現実世界を知るということ。
いくら説明しても本人が直に見るまでは理解できない。
仮に現実世界を知っても、それを受け入れられず、結局マトリックスに戻ってしまう人もいる。 自分が思考しているというのは幻想。
思考が思考しているのであって、心とはその一部を選択的に映し出しているに過ぎない。
未だ、自分が〜する、と考えている人はまだ智慧の目が開かれていない。 それなら思考はあっても巻き込まれないとか
思考は脳や心がしているもので自分がしているわけではないって言わないと
思考はなくなるって言い方じゃ誤解を招くよね テストに望むのに思考は必要としない、みたいなこと言いたがる人って
瞑想とか仏教の人間じゃなく超常現象のマニアとかそういう類いだろう 俺のことか
九九とか考えなくてもできるだろと言ってるんだが 1から1000までの総和は幼稚園児でもわかる話です 九九覚えるのって暗記じゃなくて仏教の智慧なのか
へー >>872
> それで思考なしで日常生活は送れるの送れないの?
送れないんじゃね?
あんまり考えなくても送れることは送れるが左と右の区別はつかなかったりはするな。
>
> 7×6は瞬間的に42って答え出ても7×3×8は思考で考えるんじゃないの?
例が良くない。
21x8=168ならそらで言える人は結構いるはず
たとえば20日x8hはいくつだ?
> そもそも7×6だって瞬間的に思考してるんじゃないの?
「しちろくしじゅうに」と言語化するタイプと
'7*6' => '42'が反射的に出てくる人がいるだろうな。
7を6倍せよ、なら思考する。
> 思考しなかったら7も数字だとも思わず
7が数字であるというのは、後から出てこないか?
7は数字という属性をもつけどいちいちそんなことかんがえないだろ?
> 視覚上の白の上の黒い線か模様でしかないんじゃないの?
いいとこ突いてる。
7 ,VII 七 という形が数字の7だと思うのは記憶によるもの
(想かな?)
> 瞬間的に「7」「×」「6」の意味を思考してそれを掛け算だと思って答えを出してるんじゃないの?
意味は考慮してないよ。掛け算だとも認識してない。
無意識的には認識してるかも。
> それが自動的にしろ自分でわからないほど瞬間的であるにしろ思考はあるんじゃないの?
んーどうだろう。
反射的に処理してるけどそれを思考と呼ぶかどうかは知らん あっと付け加えると、思考を最小限にすることは可能だね。
煩雑な処理をしなければ良い。 >>877
超常現象のマニアではないな、説明の付かない写真は撮れるが、説明つかなねーな、で終わり。
まあ、なんていうかな、共感性の強いタイプ?ではあるかもしれん。
母方のほうは揃って心霊体質だが俺はなんも気にしてない。 仏教ってさ、考えること自体をやめろって教えじゃないでしょ
あらわれては消える妄想や雑念に囚われて価値判断や感情に縛られないようにしようってんじゃないの
なんで数学みたいな部分まで考えるのやめようみたいな思い込みしてるの そもそもテストの話だったのにあんたが99(数学)の話にしたんじゃないのw
なんで世の中いろんなテストがあるのに99だけを例に話をしだすんだよw 考えてないと言ってるんだから単純にバカなんだと思う まぁ、空間把握がチンパンジーには遠く及ばないなたしかに 悟っていない人間が、理性的な思考だと思っているものは、
実は貪瞋痴のループで、ある種の錯覚だからな。
自我というもの自体が、ある種の錯覚。
世界最高峰の理性を持つ人間でさえ、瞑想の智慧がなければ
自我の錯覚を見破ることは無理だろう。 「悟っていない人間が、理性的な思考だと思っているものは、実は貪瞋痴のループで、ある種の錯覚だからな。自我というもの自体が、ある種の錯覚。」
という想いは無常である。すべて無常なるものは苦である。すべて苦なるものは無我である。
すべて無我なるものは『これ我がものにあらず。これ我にあらず。これわが我(アートマン)にあらず。』と、このように正しき智慧をもって、あるがままにこれを見なければならぬ。
「悟っていない人間が、理性的な思考だと思っているものは、実は貪瞋痴のループで、ある種の錯覚だからな。自我というもの自体が、ある種の錯覚。」
という固定観念をを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) 瞑想する哲学者の永井均氏のこのツイートがすべて
実践方法や体験談を語る言葉が間違っていたら間違った思い込みを与えてしまいます。もし間違って思考をしてはいけないのだと思い込んでしまったら、苦しみ和らげるどころか壊滅的なことになってしまう、という話をこれまでずっとしてきました。
https://twitter.com/hitoshinagai1/status/868830539033174016?s=19 >>873
873の方に質問なのですが
みえているものが、非常に綺麗にみえるようになりませんか? >>895
観照状態になった時には一時的にそのような視覚の変化が起こる場合も多いそうです 私もビルの看板とかネオンを見た時にわー なんか見え方が違う 何だこれ と思ったこともあります
そういう意味じゃなかったらごめんなさいね ただ一時的な現象です 前にも書きましたけど正坐をしすぎて足が痺れるぐらいの現象だと思って気にしないで下さい
一気に釈迦レベルの意識状態まで行ってしまってる場合にはまた違った意味合いですが 私はそこまで至っていないのでわかりません 🌟 あなたに贈る言葉@
真実の世界に目覚めよ
この世は、真実の世界から見たならば、
ちょうど正反対の世界である。
あなたがたが、その目でもって見ている、
この世の世界というものは、
ちょうど、「池のなかを覗いて、
その水面に、鏡のごとく映っているわが姿を見て、
自分だと思っている」のと、同じなのである。
あなたがたの見ている世界は、本当の世界ではない。
目の前にある、池の上に映った世界にしかすぎないのだ。
言葉を換えるとするならば、
あなたがたが、
現実であり、真実であると思っている、その世界は、
「真実の世界を映している、模倣している、
その影絵にしかすぎないのだ」と、知らなくてはならない。
あなたがたは、
映画のシーンを観て、現実だとは思わないであろう。
同じように、真実の世界から、
この世界にて生きている、あなたがたを見ている、
霊的世界の者たちの目には、
あなたがたの実社会や学生の生活が、
映画のように見えているのだ。
それは、現実を模倣したフィクションの世界であるけれども、
そのフィクションの世界が、まさしく、
あなたがたが生きている、その世界そのものであるのだ。
あなたがたが真実の世界だと思っている世界が、
真実の世界ではなく、
あなたがたが夢幻だと思っているところの、
昔話や、伝説や、宗教においてのみ、聞いたことのある世界が、
実は、本当の世界なのである。
−「目覚めたる者となるためには」より
🌟🌟 大川隆法著 「伝道の法」より
→
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1521134950/42 普段人は何重にも認知のフィルターを通して物を見てます。
瞑想によって、概念化がある程度停止した状態で見ると、それらのフィルターを通さずに見るので、やけにリアルに感じるんですよ。
それでも、まだまだありのままの真実には程遠くて、本当に純粋な世界を見ようと思うなら、少なくとも1万時間は坐る必要があると先生はおっしゃってますけどね。 >>899
毎日8〜9時間坐って、3年かかる。
まぁ、それぐらいかかるんだろうな。 ニー仏さんは、目に入るものが単なる色の組み合わせでしかないとこまで行ったらしいけど、そんなにかかったのかなあ とか言いつつ、未来に違う自分を求めるのは、マインドフルネスとは違うのではという思いも まぐれでサマディに1回入れた程度なら、10日間もあれば
入れる人は入れる。
安定していつでも再現できるようになるのは、また別。 サマーディにもよるけどまぐれでいいなら瞑想もしなくても経の内容読んだだけでも一瞬でなるひとはなるでしょ
自分が作ってる錯覚を取っ払うだけなんだから 身体の感覚、五感全部消えて、思考も止まってないと
サマディとは言わないのでは。 サマーディは完全に今の自分である状態なので
修行を続けて将来違う自分になるんだみたいな意識は邪魔になる バイノーラルビートで脳波を変化させられる、リラックスできるというのがあるが、しらべると科学的事実として確立されてるわけではないようだ。
この著者が言い出した理屈らしいのと、実験したら効果なかったという記事みつけた。
奇跡を引き寄せる音のパワー (CDブック) | ジョナサン・ゴールドマン, 宇佐和通 |本 | 通販 | Amazon
2009/6/16
https://www.amazon.co.jp/dp/4584131678
ヒーリング効果があるとされる「バイノーラルビート」は実際の脳波にどんな影響を与えているのか? - GIGAZINE
結論
実験結果をもとに研究チームは、「バイノーラルビート音源は脳波に明確な同調作用(エントレインメント)を及ぼさない」と結論づけています。
実験では、17Hzに加えて8Hzのバイノーラルビート音源が同様に実験されていますが、こちらも同様に明確な結果は確認されなかったとのこと。
研究チームは「実験内容にはいくつかの制限がある」として、以下の点についてさらなる検証が求められることにも触れています。
検証時間
今回は5分ずつに区切った実験が適切と判断したが、実際にはより長い時間をかけた実験が求められる可能性がある。
周波数
バイノーラルビートによる効果は、特有の周波数にのみ表れる可能性もある。
被験者の選び方
おそらくバイノーラルビートによる効果には個人差があるものと考えられる。さらに多くの被験者を用いて効果の有無が検証されるべきである。
https://gigazine.net/news/20150624-binaural-beats/ そう言えばソルフェジオの528hzをYouTubeから流しながら瞑想していたという人の記事を見たことがあるなあ
その時は528hzとかソルフェジオかプチブームになっていたからその人はプラシーボ効果も相まって瞑想が捗ったのかもしれない
自分はこの一定て揺らぎがない音を聴くのは苦手ですが
https://youtu.be/mD0DmtQAfWo ・すこしはましになっているかもしれないと思って、次の瞬間、その次の瞬間とあせったところで、どの瞬間もあなたの人生であることには変わりはないのです。
・同じ瞬間というのは、二度と訪れません。
今の一つひとつの瞬間に、かけがえのない可能性が秘められているのです。
初心を忘れないということが、この簡単な真実を教えています。
・あなたは、誰かのようになることはできません。
人は"より自分らしくなる"ことしかできないのです。そして、瞑想というのは、より自分に近づくために行うものなのです。 瞑想がある程度睡眠の代わりになるのってどれくらいやってきたらなる? ちょくちょくそんな感じの記事とか見たりして試してみるんだけど
あんまり効果ないんだよね 瞑想の効果がふだんの昼間の時間帯に効いてきてストレスが減ったり
睡眠が効率的になったりはあると思うけど
代替にはならんだろうなあ 起きている間に生じる知覚や感情、記憶の整理が睡眠中に行われるが
日常瞑想してればそれらが生じてもその場である程度整理されてしまうのでその分睡眠量は減る
悟った人は寝ない(肉体は寝ても意識はずっとある)というもそのせいもあると思う 瞑想をしてる奴はしてるだろ
その深度に違いがあるだけで 瞑想が無意味ってのは案外本質ついてるかもね
正確にいうなら、意味以前なわけで 無意味だと思ってた方が、何年瞑想すれば超能力的なものが身に付くんだろ
みたいなこと思いながら瞑想するよりいいかも知れんね ずっと気づいていると
それすらも出てこなくなりますよ みんなどんな瞑想してますか?
1.呼吸を観察
2.呼吸しながら全身を観察
3.ボディスキャン
4.歩行瞑想
5.手動瞑想 >>932
4と5に近い気がするけど、ラベリング瞑想してる。
あらゆる物事に頭の中でラベルを貼っていくことで自我が勝手に過去や未来に怯えないようにしている。 >>932
三密加持
身心脱落による只管打座とかいうのは帰謬論証の空観からすると馬鹿げた話、自己矛盾に陥った状態であり、マインドフルネスと同じくどこまでやっても無意味 >>935
そんなお方がなんでまたマインドフルネススレまでご出張あそばして
罵詈雑言だか駄弁だかの類を発しないと気がすまないのでしょうかね 1日に17万通り考えているか・・^^
そのうちのほとんどが過去と未来のこと・・^^
う〜〜ん^^ 想念に囚われずに流せ・・・^^
執着するなということやな・・・^^ >>939
◼︎道元 典座教訓
「宋の天童寺に留学中だった私(道元)はある夏の日、中庭で寺の老典座(食事係)が海草を干しているのを見た。
老人は眉は白く腰は曲がっていたが、炎天下に竹の杖をつき、汗だくになり、苦しそうに働いていた。
私は気の毒に思って近づき、年齢を聞くと老人は『68歳だ』と答えた。
『なぜ、下働きの者にやらせないのですか』
老人は答えた。『他の者とやらは、私自身ではない』
『なぜ、今のような炎天の日中にされるのです』
老人は答えた。『今のほか、いつを待てと言うのか』
私はその場を離れた。そして廊下を歩きながら、典座職の重要さを考えたのであった」
「また私が上陸許可を待って港の船の中にいた時、ある老僧が食材の買入れに港にやってきた。
船室に招いて茶を勧め、話を聞くと
『私は、阿育王寺の典座である。故郷を出て四十年、歳も六十を越えたが、これからまた20キロほど歩いて、食事の用意に寺まで帰らねばならぬ』
『飯の用意など誰かがやるでしょう。何か差し上げますので、ゆっくりしていかれては』
『それは駄目だ。外泊許可を貰っていないし、典座は老人にもできる修行、他人には譲れぬ』
私は聞いた。
『あなたほどのお年なのに、なぜ忙しく働いてばかりいて、坐禅したり先人の教えを学ばないのですか。それでいったい何のいいことがありましょう』
老僧は笑って言った。
『外国からきたあなたは、どうやら何もわかっていないようだ』
私はこれを聞き、大いに驚き、また恥じた。
そして老人は「もう日も暮れた。行かねばならぬ」と立ち上がり、寺へと帰っていった。
私が多少とも修行のことを知るようになったのは、実にこの老典座の恩によるのである」
道元は日本に帰国してより建仁寺に留まったが、建仁寺の典座が食事の用意を軽く考え、職務を適当に行っていることを見、宋との落差を非常に遺憾とした。
そして『典座教訓』を執筆し、典座職の重要性と、その職務要領を詳細に書き残した。 「觀音導利興聖寶林禪寺住持傳法沙門道元記」
典座教訓は嘉禎3年(1237)春、道元禅師が三十八歳の時、
興聖寶林寺で、特に典座の役職について教え示されたものである。
ふむふむ^^ 釈迦の時代には食事の用意なんて自分ではしなかったのに インド文化圏には解脱の概念があるが、
中国以東の儒教文化圏では、解脱思想は反社会的ニート行為だ(と見なされてしまう)から。 一般の人間が、無我や輪廻などの真諦を理解することは難しい。
説くに、(人間の)思考概念を通して理解することは、ほぼ不可能。 一般人の道徳観からすれば、他人様のお役に立ててこその仏教でござろう、
みたいな話になってしまう。
只管打坐とか、無意味で無価値にしか見えないでしょ。
人間的、世俗的価値観の尺度で測れば、確かに無意味で無価値と言えるでしょうし。 迷いの世界(六道輪廻)の価値基準で、悟りのことを判断すること自体がナンセンス
なのだが、言ったところで角が立つばかりでしょうがないし。 映画「マトリックス」に例えるなら、マトリックスの住人と
マトリックスが虚構であることを知ってしまった主人公たちとが、
決して同じものの見方にはならないのと一緒。 >>947
> 一般人の道徳観からすれば、他人様のお役に立ててこその仏教でござろう、
> みたいな話になってしまう。
そうかな。「小乗仏教、大乗仏教」レベルの知識は高校くらいまでに
ガッコで習うでしょ ニー仏さんの本を読むと無我とか輪廻とか分かりやすい 医学部で勉強中の学生に向かって、患者を治せてこその医学でござろう、みたいな批判的な視線を向ける人は、
医学と医療、学生と医者の区別もできてない。
ブッダも、まず自己を修めて、のちに人を教えよと仰っている。
私は、自己修養していない人(悟っても解脱してもいない人)が、いきなり菩薩になれるとは思わない。
自己を修めていない人が気取る大乗仏教とは、菩薩ごっこでしかないと思う。
そこにあるのは、悟りの智慧からでる慈悲ではなく、人間的な常識と良識からくる人情であって、人智を越えた
悟りと解脱に導く力はない。 大乗仏教ごっこ、菩薩ごっこ、wanna be a 菩薩。
こういう人たちが言う「小乗仏教」という言葉からは、悟りと解脱の智慧を欠いた
形骸化した仏教の腐臭が感じられる。 菩提心を発すというは、己れ未だ度らざる前(さき)に一切衆生を度さんと発願し営むなり、
設(たと)い在家にもあれ、設い出家にもあれ、或いは天上にもあれ、或いは人間にもあれ、
苦にありというとも楽にありというとも、早く自未得度先度佗(じみとくどせんどた)の心を発すべし。
其(その)形 陋(いや)しというも、此(この)心を発せば、已(すで)に一切衆生の導師なり、設(たと)い七歳の女流なりとも即ち四衆(ししゅ)の導師なり、衆生の慈父なり、男女(なんにょ)を論ずること勿(なか)れ、此れ仏道極妙の法則なり。
若(も)し菩提心を発して後、六趣四生(とくしゅししょう)に輪転(りんでん)すと雖(いえど)も、其(その)輪転の因縁 皆菩提の行願となるなり、
然(しか)あれば従来の光陰は設い空(むなし)く過すというとも、今生の未だ過ぎざる際(あい)だに急ぎて発願すべし、
設い仏に成るべき功徳熟して円満すべしというとも、尚(な)お廻らして衆生の成仏得道に回向(えこう)するなり、
或は無量劫行いて衆生を先に度(わた)して自からは終(つい)に仏に成らず、但し衆生を度し衆生を利益(りやく)するもあり。 >>953
ああ、ごめんごめん
自分がガッコで習ったときの用語を用いたまでで
侮蔑的な意図はないよ 瞑想するときは、何か綺麗な景色をイメージしても良いでしょうか?
無になろうとすると集中が難しいのですが。 >>956
十牛図も知らないし、分かってるのか、分かってないのか判断できる材料がない。
悟ったわけでもないので、知識として理解している人も、多分、本当には分からないはず。 一から九までをすっ飛ばして、十だけが仏教でござるみたいに思ってるとしたら、
それは勘違いだろう、という風には思う。
そして、そういう人は仏教徒を自認する人のなかにも多い気がする。 >>957
うーん 一般的には自分を観察する瞑想ではそういうイメージは使いませんが どういう目的 瞑想に触れたルーツはどんなものだったでしょうか?
もう少しそういうところを教えてもらうとアドバイスもし易いかもしれません >>958
十牛図の勉強をしてから>>947みたいなレスをした方がいい
何のために只管打坐を行するのか、座ってるときはそれだけが目的でも、結局その後があるのだからな
あと君も悟っているわけではないので分かってないことをグダグダと言うのはやめようなw
君の行為はスレ荒らしと変わらないから 好きな人に拒絶された痛みがたまに戻ってきてつらい
昨日職場でひさびさに近くで仕事して、お互いに避けあっていて辛かった
今日は休みだけどそのことで多くの時間を無駄にした
いろいろと工夫してるけど裏目に出たりうまくいかないです >>932
全部それなりにやってましたが、今は基本的に1,5ですかね。
どれも個性ありますし、気分によって使い分けしますね。
落ち着きがない時は1で、元気を出したい時は5みたいな感じで。 >>963
そうですか。私は2.3かなぁ。特に2はああ今ここに戻ってきたんだなぁという感じです。
ヨンゲイミンゲールリンポチェの本にある「対象のない瞑想」に近いです。
今は肉体的にきつい状況なので、2.3が好きなんですね
>>962
それはきついですね。相手も何らかの感情があるから、拒絶という態度に出ている可能性が
高いと思いますが、個人的な経験から言うと、自分の場合は好きでもうまく行かなかったです。
執着から来た感情だったので。まあその人とうまく行くもよしですが。
そのきつさも無駄だと思った時間も、いずれ過ぎ去る。そして新しい良いものがやってきますよ。
その人があなたの人生に現れる前は、その人が現れるとは想像もしなかったはず。
たぶん一年後には、あなたが想像もしないもっと良い出会いがある。なんて聞き流してくださいね 拒絶反応
○怨憎会苦(おんぞうえく) ── 会いたくない人や物に会わねばならぬ苦しみ 俺は土の中のコンテナで瞑想してるぜ。尊師のクソアホ俺に水中クンバカ5分もやらせやがってマジでコロ助する機かよ、あのクソロンゲ。テメーかクンバカする時には毒ガス仕込まれてるから、やらんとか言い出してマジで大草原 瞑想つってもいろいろあるわけで「綺麗な景色」をイメージする瞑想もあるだろうけど
それは「マインドフルネス瞑想」なのかなぁ マインドフルネス瞑想ってのは、雑にいうと心に浮かんできたものをそれに取り込まれることなく観察するものでしょ
イメージを利用するなら、サマタ系は該当するかもしれんけど・・・
どっちかっていうとヒプノセラピーとか前世療法とかNLPとか、AIBO開発者さんのやってるやつとか、そっち系の瞑想でしょ 瞑想する時には、イメージは持たない方が良いと言うことですね。
ありがとうございます。
過去の嫌なイメージが出てくることがあり、美しい風景に置き換えてしまうのは邪道で、観察するしかなさそうですね。 >>971
それは此岸の尺度。
わたしが向かっているのは、お彼岸。 瞑想する時に無になろうなんて考えてないな
呼吸を観察しようと思うだけ 嫌なイメージの観察なんかしなくてもいいんじゃないか
手離してまた呼吸に戻れば 向かっているということは、今ここにはない場所なんだ 瞑想にも色々あって、チベット仏教ではヴィパッサナのほかに、菩薩が液薬を頭からたらすとか、
オームの字を観想するとか色々ある 穏やかな気持ちになれる!自宅で簡単瞑想法「阿字観」のやり方
https://mor-phey.com/taste-view-way/
>「阿字観」は真言宗、いわゆる密教の座禅なのですが、本尊に描かれている「阿」にはどのような意味があるのでしょうか。
>「阿」というのは梵語の第一字母で万物の不生不滅の原理「諸法本不生」を1文字で表したものです。
>人間は生を受けてから「得た」「失った」「美」「醜」などで一喜一憂します。
>例えば、今冬はボーナスが少し多くて嬉しかった、逆にボーナスが下がって辛かったなどですね。
>悟りを開いた目で見ると、それらは人の心の中で生まれて消えていくだけと映るのです。
>悟りを開いた目で心理のことを「諸法本不生」といいます。
>また「阿」は大日如来の象徴でもあります。
阿字観瞑想と言えば大日如来の種子である阿字(の梵字)を描いた額を目の前にして大日如来と一体化して即身成仏する瞑想というイメージがあったけど、
ここで紹介されてるのは自宅でも出来るもので集中と観察を兼ね備えているものみたいだな。
今入院中だけど退院したらやってみるかな。
ってか入院初日の今日21時消灯でも眠れん。
奥の手で寝たまんまヨガ使って今から眠りに入ろう。 34: 名無しさん@おーぷん 2018/04/06(金)19:26:06 ID:x5K
科学も宗教の一種だとか言う奴たまにいるけどどうなの?
38: 名無しさん@おーぷん 2018/04/06(金)19:33:25 ID:f86
>>34
まるで別のもだろ
論理的根拠と観測に基づくのだから
地球が丸いと観測されてるのに平面であると言い続ける奴がいたらそいつは宗教的だろうけど
41: 名無しさん@おーぷん 2018/04/06(金)19:35:49 ID:8di
>>34
自然科学という思想は必ず客観的な事実によって証明されていなければならない
しかし事実の証明自体に限界があるわけで
たとえばジュラ紀の恐竜の体色なんか化石に残ってないからイラストレーターの想像で勝手に描いてるし
宇宙の果てがどうなってるのか?なんてのは仮説の仮説でしかない
そうすると自然科学も事実証明の限界を超えると宗教化するものだと言わざるを得ない 闇雲な思考否定は様々な問題を引き起こすとプラユキ師が言ってるな 不善心(アクーサラ)ではなく、善心(クーサラ)を引き起こすように
正念を保ち、正見に基づいて正思惟し、正語、正業、正命に努める(正精進)。
これが1年365日、24時間、死ぬまでずっと続くように安定してくれば
正定、正しい心身の統一になってくるのでは。
つまりは身口意の行いを四諦に基づいて統一するっちゅうことだよね。多分。 思考が完全に止まるのは、禅定などのサマタ瞑想のサマーディのことであって、
そうでない限り、思考がなくなることはないと思うよ。 六道輪廻から輪廻のシステム分解していくと面白い。欲がつきない苦しみ、悪の布施、天道=地獄道とか 輪廻の観察・分析は、サマーディに入った上でのヴィパッサナーじゃないと無理らしい。
サマーディの定力がないと、過去世とか思い出せないし。
頭で考えた思考概念のなかで輪廻について考えても、それは思考という自我のなかに
生み出した思考概念でしかないからね。
輪廻の分析をしたいなら、仏陀やその直弟子たちのように、止観双運でないと無理ぽ。 過去世の記憶は、脳の中にはないし。
今使ってるその脳みそは、過去世には存在してなかった。
そんなところに過去世の記憶はない。
これに関しては、頭で考えて分かることと違う。 >>985
能書きはいいから自分の瞑想の体験談を書いてよ 瞑想体験から出てきた洞察だよ。
体験を書いたら書いたで、どうせ文句言うくせに。 >>987
座学優先での洞察にしか思えないのですがあなたのレスを見ると 過去世って何?
もしかして生まれ変わる前とかそういう話? マインドフルネス瞑想はやるけど、生まれ変わりとかは信じられんわ
輪廻に関しては、今の生きてる状態というのが生成消滅を繰り返してる状態なので、それが輪廻だというのが俺の理解 仮に生まれ変わりがあったとして、無我で何が輪廻するのか議論の対象になってたりするっぽいのに、生まれ変わる前の記憶って何ぞ? 実際には生まれもしないし死にもしない
自我という幻想視点で観ると生まれたように思えるし死んでしまうように思える
しかしその元となる視点が幻想なのでそこから連鎖する生滅もやはり幻想なのである 輪廻転生オーブ数
人間が死亡時のオーブ数18(死亡時と転生時のオーブ数は一律)
☆転生に必要なオーブ数
人間±18
オーブひとつひとつに同じメモリーが蓄積している。死亡時に18のオーブは拡散され転生する。大概は別の流浪している複数のオーブと整合し転生する。
運動能力に優れている人間は動物のオーブが多数を占め整合している。逆に内向的な人間は植物のオーブが多数を占め整合している。多重人格は人間のオーブが多数を占め整合している。
オーブのメモリーは恐怖症とも関連し、様々な恐怖症などは前世で味わった嫌悪な記憶が関与している。急死するとオーブは拡散し難くなり滞留し、具現化(最低限一個体オーブ×13必要)しやすくなる。
他生物への転生に必要なオーブ数は動物(哺乳類)±10、他動物9~3 (魚±3)、昆虫や植物±1(界隈のオーブが飽和状態になると植物や昆虫に転生しやすくなる)。
オーブ1つでも脳をもつ生物で転生し続ければ今までのメモリー(前世)は残るが、数百年を脳がある生物で転生し続けるのは極めて難しい。
いずれは前述者の18(人間)のオーブは植物か昆虫へ転生しメモリーは失われ輪廻(前世)が絶たれる。
近年は自然災害(伐採)等で植物のオーブが飽和気味になり、元植物のオーブが多数を占めて整合した転生が増加している傾向である。 東南アジアで、リトリート目的に突然行って、参加させていただけるような場所はあるでしょうか?
できれば、本格的に悟りを目的とした所が良いのですが。個人的にはウ ジョーティカさんの本とか愛読してます。 死体を死んでないとかいってずっと施設?に置きっぱなしにしてたカルト何て言ったっけ このスレッドは1000を超えました。
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