ローマカトリック教会20180220
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臨終の霊魂のための祈り http://tenshikan.jp/inori.htm *煉獄の霊魂たちがマリア・シンマに言うところによると、人々の霊魂の救いのために 祈る人があまりにも少ないので、多くの霊魂が失われていくということです。 もし毎朝・毎晩、免償を与えられている次の祈りを、三回の「めでたし」とともに、その日 死を迎える人たちのために唱えるなら、多くの人々が救われることになるでしょうと。 その祈りとは、次のようなものです。 「ああ、霊魂を焼き尽くし、愛に燃えさかるいとも憐れみ深きイエズスよ、あなたの聖心の悶えと、 汚れなき御母のお苦しみゆえに祈願いたします。今臨終に悶え、まさに今日(または今晩)死ななくては ならないはずの地上のすべての罪人たちを、あなたのおん血によって浄めてください。臨終の苦しみに 悶えるイエズスの聖心よ、どうか死に臨んでいる人々を憐れんでください。アーメン。 (この後に「アヴェ・マリアの祈り」(旧い名称だと「めでたし」「天使祝詞」)を三回唱える)」 梅宮辰夫のけがなどどうでもいいし稲村亜美の痴漢騒動などどうでもいいし高橋由美子のマジイキなどどうでもいい がメディアでは大事件だそうだ。 >>421 修道会も老人ホーム化して シスターも婆さんばかりだろう! マッチポンプ花田光司 こだわりという名の発達障害 弟子筋と親方の動きに注意 V・メッソーリ 著 吉向キエ 訳 信仰について ラッツィンガー枢機卿との対話 ドン・ボスコ社 1993 年 (対話は 1984 年に行われ、原書も同年に出版されたそうです) 上記の本を最近購入して、読んでいますが、考えさせられ、また反省させられました。 第十章 ”最後のこと(終末)’’について を、暫くは繰り返し読もうと思います。 この章において、悪魔について多く語られています。また、煉獄や死者への祈りに ついても語られています。 この本の在庫は、僅かであるそうです。 感動の切り売り。 日本での宣教=糖尿病になるほど飯が喰えて酒が飲めて善からぬことを謀議するほど暇で安全な地=天国。 NHK ラジオ 第二放送 カルチャーラジオ 文学の世界 詩と出会う 詩と生きる 批評家・随筆家…若松英輔 毎週木曜 午後8時30分 | 再放送 毎週木曜 午前10時 第10回【語りえない詩〜須賀敦子が描いた言葉の厚み】 2018年3月8日(木)放送 2018年5月4日(金) 午後3:00配信終了 を聴き、前回と同様に圧倒されました。 今何気なく、イタリア文化会館 東京, Istituto Italiano di Cultura, Tokyo の site を 見ていたら、展覧会『須賀敦子没後20年』2018 年 4月 07 日 → 2018 年 4月 14 日 が案内されていました。 ttps://iictokyo.esteri.it/iic_tokyo/ja/gli_eventi/calendario/2018/04/ suga-atsuko-a-vent-anni-dalla-scomparsa.html また、次もありました。 講演会「禁書−グーテンベルクから百科全書まで」2018 年 4月 08 日 開催日: 2018 年 4月 08 日 時間: 14:00 15:30 主催 : イタリア文化会館 入場 : 無料 ttps://iictokyo.esteri.it/iic_tokyo/ja/gli_eventi/calendario/2018/04/_7.html 人類に天国や救いなど必要ない、地獄があれば事足りる 人類を救おうとするエロヒムは殺す 俺を地獄より地獄的な生き地獄で飼い殺しにして俺を支配、利用して自分達だけが幸せになり天国に行けると思ったか? 俺が歴史上一番嫌いなのはナザレのイエスだ 一番嫌いな宗教はキリスト教だ 基本的にハト派の考え方が大嫌いだ ガンジー、ナイチンゲール、仏陀、マザーテレサも嫌いだ 入植して乗っ取る。乗っ取り政治的な影響力を得て寄生する 簡単な仕掛け Joseph Ratzinger, Introduction to Christianity, Ignatius Press (Second revised edition 2004) は 現在も出版されているようですね。日本語訳の書名は「キリスト教入門」(1968)。 >>436 まさにその通りだな その先に世界征服がある ユダヤ系宗教の父エロヒム、YHWHと暗黒霊は諸悪の根源で汚物と言っていい糞野郎で邪神である 決して信じてはならない 仏陀のおしえで救われようとしている聖職者の多いこと。 そういったことに想いをはせられる余裕こそ宗教の看板 それでいいんだよワラ マインドフルネスあたりで癒されてキリスト教の布教をしてくださいませ これぞ宗教の本質。 結局はただ数字を追いもとめる俗で陳腐な株式会社 早めに受け入れたほうが良い 家族内の矛盾は家族では解消できないことが多い 精神科に通ってる神父やシスターをみてるとほんとうにあわれみを感じる こういった深刻な矛盾への適応が統合失調症という病理にあらわれるんだよね このような教会発の矛盾はエクソシストのおまんまネタだろうけど、 教会組織の矛盾はそれほどダメージが大きいものであるんだろうね。 理想と現実の乖離がおおきいと地獄だね この世はグレーで成り立っていることの証明だろう 自他との優劣が悪の根源。 コンプレックスとかその反対の優越感とか。 しかしながらそれらが精神的物質的な高度文明と調和を生んだ 今や、まわりは生まれながらの釈迦と解放されたローマ市民ばかりだ それでもキリスト的犠牲を信念と? さて、こぼれ落ちたものよ どう生きる? 2000年(主日B年) 4月16日 受難の主日 イザ 50:4〜7 フィリ 2:6〜11 マコ 15:1〜39 私たちの主イエス・キリストの受難の物語りの朗読を、今年も聞きました。 教会はその誕生の頃からずっと、特別に典礼暦のこの期節に、主の受難の物語りを語ったり朗読したりして来ました。 教会の宣教の中で、この受難の物語りがどんなに重要であったかを理解するには、私たちは自分で聖書を開いてみれば分ります。 マタイ福音書では 21-28章、ルカ福音書では 19-24章、そしてマルコ福音書では 11-16章が主の受難と復活の物語りに当てられています。 イエスの数々の説教をここに含めているヨハネ福音書では、実に半分を越える 12-21章がこれに当てられています。 そのような訳で、現代の私たちの教会でも毎年受難の主日には、三年周期で共観福音書の中の受難物語りが朗読され、聖金曜日の祭儀では毎年ヨハネ福音書の受難物語りが朗読されています。 (つづき) 教会がそれを聞き、代々にわたって受け継いで来た福音、そして今も教会が告白し宣べ伝えている福音によれば、神の救いの御業はかつてのイエスの宣教で完成して終わったのではありませんでした。 “キリスト教とは、イエスの教え、つまりイエスの宣教された福音のことだ” と(誤って)単純に考えている人も、今年は聖なる過越の三日間の朗読聖書に、もう一度よく耳を傾けてみましょう。 福音書の受難物語りが、ミサではいつも旧約聖書と使徒書から選ばれたテキストと組み合わせて朗読されることには、重要な意味があります。 教会が宣べ伝えている福音によれば、主イエスの十字架は神の救いの御業の最後を締めくくる出来事ではなくて、むしろ神の御業の決定的な開始の出来事であったからです。 受難物語りの朗読は、それに続く復活の光に照らされて初めて、本当に福音になります。 “キリスト教とは、十字架の福音のことだ” と多くの人が考えています。 しかしそれは決して、主の受難で神の御業が完了してしまったという意味ではないことを、知らねばなりません。 そうではなくて、“神の国の完成に向かう新しい時代が、主の受難と復活によって開始された” ということなのです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より この世は戦場であるとわかれよ 戦場でハト派の考え方は糞の役にもたたない 俺の戦いは俺の肉体が朽ちても敵、悪魔の肉体が朽ちても終わらねー どちらかが地獄に堕とされ何も出来なくなるまで終わりゃしねーんだよ 俺は戦場で生きている 祟り神、鬼神を目指すよ 矛盾を感じる宣教の苦しみを 仏教で克服する。 それが生きるということ 他者の罪が生きる糧なのだから、 それらを見極めうまく捨てさせ、その捨て去った執着の品を吸い上げる実力を涵養していかねばならん もちろんその罪こそが我々の売り上げに聖変化するわけだが 生活のためにキリスト教の聖書を売るユダヤ人にたくましさを見出し、 あふれる愛でつつみこみ、こちらのフランチャイズ店舗の忠実な店長に任命する。 信頼と安定した収益が得られるわけだ。 信仰とはこういうことだ。 一方、重箱の隅をつついて一銭も稼げない自己満足のワザで現実から目をそらし夢見る無能。 偶像崇拝者、いわゆる"Mr.nothing" 純粋さだけではだめだ。すべて剥がされる しかしながら洗練された資本主義のゲームをサーフィンするだけでもだめだ。妬まれ蜘蛛の糸一直線 謙虚さと感謝の気持ちをもって喰われた霊と魂を鎮めていく ”巧妙に本質を蔽しながら毟り取りいただく” という仕掛け。 ざんねんながら、この聖なるクソ「ほーりーシェット」こそが幸福のもっとも現実的な最大公約数なのだろう 殺戮強奪をして絶対王者に君臨できる居場所を確保(汚れた土地を格安でor強奪or騙して乗っ取る) そのうえで矛盾を抱える迷える従順な子羊を巧みに懐柔して武装解除させ、 自分たちの負債を負わせるために巧みにのれん分けをさせるゲーム。 うまく誘いこんだら、ショバ代としてのリース料金とノウハウの技術料を徴収し搾取する(違約金付きのれん分けフランチャイズ) うまく軌道に乗れば(価値を高めたうえで)独立をそそのかして土地代を含めた諸々の権利をぼったくりの高額でカモネギに買い取らせ 全責任を負わし汚れた土地を透明に洗浄し清め(ロンダリング)カモネギにババをつかませ使命の完了とする いかに長く引っ張るかが腕の見せ所。 心配しなくても独立できるほどの実力を持つものはほんの一握りで、 というよりもそのようなレベルには誰も到達できない。判定するこちらが神なのだから ”隣人愛 自己犠牲 煩悩の克服 本尊(ゴミ)の復活 永遠のいのち 執着を捨てる”などわけのわからない荒唐無稽の夢や苦しみの根源になる不条理なものを持ち出す ようするに、誰も到達できるわけのないことを永遠にやらせることで永遠の収益を得られるということ。 賢人は、そのことを知っている 悟り。 とかいってるうちに純粋な馬鹿が自発的に命を捨ててくださるのでますますカネやモノが集まりブランド化する ということも賢人は知っている 悟り。 こういうところに嵌め込まれないように生きる力をつけていれば良いのだが世の中は厳しい もし毟り取られたなら、さっさと逃げてこれらのやり方を学び殺されない程度に馬鹿に使えばよい この原則は世のシノギとして不変だから。 これぞ失敗から学んで成長するということ 謙虚に、カモネギに感謝しつつ強くたくましく生きよう。 すべてのキリスト教徒は神社本庁の手先アベ政権打倒に起ちあがろう 2003年(主日B年) 4月13日 受難の主日 イザ 50:4〜7 フィリ 2:6〜11 マコ 14:1〜15:47 教会の一年の中で、受難の主日から復活の主日に至るいくつかのミサは、特別に大切にされます。 それは教会の宣教の中心が 「十字架につけられたキリスト」(Iコリ 2:21)であり、キリストの福音は正に十字架の福音だからです。 福音書の中で主の受難の物語りは非常に大きな部分を占めており、使徒たちが伝えた信仰にとって十字架は中心的な事柄でありました。 それは受肉された神の子イエスの生涯全体の単なる結末ではなくて、完成そのものであったからです。 神の子イエスは十字架の死を遂げるために受肉されました。 受難の数日前、「イエスがベタニアでらい病人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壷を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけ」(マコ 14:3)ました。 主イエスは、神が御計画になったこの十字架の死への備えとして、これを受け入れられました。 「この人はできるかぎりのことをした。 つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。 はっきり言っておく。 世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」(マコ 14:8-9) 最後の晩餐の席で、イエスは御自分の体と血による感謝のいけにえを制定され、これを新しい契約として教会にお与えになります。 そしてゲッセマネの園で祈った後に捕えられます。 「・・・・・ しかし、わたしが願うことではなく、御心にかなうことが行われますように」(マコ 14:36 )と、主イエスは祈られました。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ---- † エペソ6章10-12節 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、 また天にいるもろもろの悪霊に対するものです。 ---- 傍観のプロ 勝手に踊って放棄していただくよう誘導する(引き寄せ自発的に行動するように仕組む) 同じミスを繰り返さないよう謙虚に、丁寧に生きていれば馬鹿が勝手に脱落する もしくは型に嵌って下さる確率が高い 勝ち組の生き方。 >こういうところに嵌め込まれないように生きる力をつけていれば良い 宗教を信じたいなら社会に寄生しないで原始人のような生活してろよ 社会に食い込んでくるな 小教区にもいろんな派閥があって疑心暗鬼のなか目に見えない戦い探り合いがくり広げられている 色んな謀議があるがそれぞれ極めて杜撰で脆弱。 気を付けないといけないのはそんな陳腐なパワーゲームのなかで自己保身のために嵌められないようにすること さいごは金持ちと立派な肩書を持つ人間へ忖度されるから力の無いカモネギは”キリスト”にされないように 聖書の教えの理解など正直どうでもよい 小教区でのパワーバランスを俯瞰してウマく幹に取り入りそれらに通じる所の奉仕と人間関係を構築していく それが修行であり神の国に入るもっとも賢明で善い道となるよ 馬鹿は歯向かって何も得られない 信仰とは、「来てくれない」「やってくれない」ことに対して嘆くのではなくて、その不条理失敗から 成功のために「来ていただく」「やっていただく」を必然的かつ可及的に引き寄せ、 願った成功を高確率で実現させるための信頼関係をつくるということ。 そのためにコスプレ信心業wまたは政治的平和活動wが必要ならばそれぞれ躊躇なくすればよい 協力者なしにはより高いステージの仕掛けは成就しない。 しっかり仮面をかぶり、努力しつつ”コト”を成し遂げよう。 日本が受ける制裁は、米大使館のエルサレム移転を支持しなかった報復らしい。 前にも忠告したが、イスラエルは全世界を敵に回すくらいの覚悟がある。 日本はユダヤ人に味方して最終戦争の勝利国になるべきだったんだよ。 世界各国の顔色を窺って日和見した腰抜けの日本政府は無能すぎ。 芯が無くてブレまくりなんだよ。臆病者が。 >>466 追記 エルサレムがユダヤの首都なのは歴史的事実であり正当。 偽善者どもが反対しているだけ。 香山リカとか日本の司教とか日本基督教団とか、 間違ってるヤツらの逆張りすればいいんだよ。 おっさんのチンポをしゃぶってでも生き延びるか 拒否して脳髄を3日かけてぶちまけながら殺され その死体すら弔われない無価値な死を遂げるか さぁどっち オ〇ム被害者家族 「悩みを救ってくれるのが宗教であって」 wwwwww それはない。大前提としてそれはない。絶対ない。 正解 「悩みを持っているものを食い物にするのが宗教であって 」 唯一の真実 「許せません。」 V. メッソーリ 著、𠮷向 キエ 訳 信仰について ラッツンガー枢機卿との対話 ドン・ボスコ社 (1993) 第十章「聖書学者、それとも社会学者?」 その最後の部分を引用します。 「信仰教育(カテケージス)は、あれこれの意見の一つにではなく、世にはびこる意見 をはるかにしのぐ内容をもつ、教会の信仰に基づく確かな教えに戻らねばならない。 それなのに、少なからぬ現代の信仰教育では、永遠の生命に関する根本原理は暗に 示されるだけであり、死の問題にも軽く触れるだけで、それもほとんどの場合は いかにして死を遅らせるか、あるいはどのように死の苦痛を軽減させるかを問うことに 終始する。多くのキリスト者は終末論的感覚を喪失し、死は沈黙と恐怖、さもなければ、 凡俗化の試みに包囲されている。教会は何世紀にもわたって、突然の死を免れるように 準備をして、死を迎えることができるように祈れ、と教えてきた。ところが、最近の 風潮では突然の死こそ恵みだと考えられる始末である。しかし、死を受容せず、尊重 しないことは、生命をも受容せず、尊重しないことを意味する。」 多くの事について反省させられましたが、その一つとしていやしの秘蹟について深く 考えていないことを自覚させられました。洗礼式の際の塗油については、はっきりと 覚えているにもかかわらず。Catechism の「いやしの秘蹟」をよく読もうと思います。 どうであれ、 理念と現実との乖離が大きいところには 所謂、豚に喰わせるべき「うごめく矛盾の死霊」が湧く これが精神病の萌芽である これらを適応させられると人生の大半を奪われ無為で悲惨な老後となろう 「カネと自分自身のために生きる」という揺るぎない事実から目をそらすとたとえでいう”悪霊につけ込まれる”ことになる 謙虚に他者の命をいただき感謝し、生かされている自分自身に余裕ができたらできる範囲で世に還元すればよい。 まちがっても、聖職者や欲深い信徒の”例外”に利用されないよう切に祈っている 主体的であれ。 NYでのある夜、パーティーで友人のハーパーを大声で呼ぶと えな〇かず〇のような典型的な弥生式ヒラメ日本人が関西弁で「ハッパ」あるんですか?「マジっすか?」「ナンボですか?」 寄って来られるくらいのズレ。 これがカトリックの真実の姿。 こういったものを押し付けられると当然、深刻な病理に悩むことになる 2009年(主日B年) 4月5日 受難の主日 イザ 50:4〜7 フィリ 2:6〜11 マコ 15:1〜39 「ピラトが再び尋問した。 “何も答えないのか。 彼らがあのようにお前を訴えているのに。” しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。」(マコ vv.4-5) 受難物語りの頂点であるイエスの逮捕から十字架上の死に至る部分で、それまでは多くを語ってきたイエスが、もはや何一つ主張も反論もせずに 「屠り場に引かれる小羊のように ・・・・・ 口を開かなかった」(イザ 53:7)という姿で、描かれていることに注目しましょう。 一見すると、この場面でいろいろな役を演じているのは人間たちだけであって、神も神の子も実際には登場していない ・・・・・ 、ただの物言わぬ人形のようなイエスが滅多打ちにされている、そんな描写が貫かれています。 「他人は救ったのに、自分は救えない。 メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。 それを見たら、信じてやろう」(マコ vv.31-32)という言葉が、この事件が起こった世界を見事に表現しています。 この世の知恵で見るとき、イエスの死はそのようなものでしかありませんでした(Iコリ 1:21,2:8 参照)。 しかし使徒たちは十字架の出来事を、「神はキリストによって世を御自分と和解させ」(IIコリ 5:19)、「永遠の贖いを成し遂げられた」(ヘブ 9:12)と宣教したのです。 イエスの受難と復活は神の御業であったからです。 それはイエスの生涯の中での、単なる一事件のようなものではなくて、「まさにこの時のために」(ヨハ 12:27) 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハ 1:14)のです。 (つづき) 「三時にイエスは大声で叫ばれた。 “エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。” これは、“わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか” という意味である。」(マコ v.34) イエスはその死に際して 詩 22 の冒頭の句を口にされました。 そして、「わたしは虫けら、とても人とはいえない。 人間の屑、民の恥」(同 22:7)となって、「御自身を献げることによって」(ヘブ 7:27)、「永遠の贖いを成し遂げられ」(ヘブ 9:12)ました。 実にイエスの十字架の苦難と復活の勝利こそが、使徒たちが宣べ伝えた福音のすべてであり、神が教会に委ねられた 「和解の言葉」(IIコリ 5:19)であることを理解しましょう。 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(Iコリ 1:18) このキリストの永遠の贖いは、既に成し遂げられただけではなくて、現在も教会を通して活き活きと私たちに働いています。 私たちは現在、原始教会の使徒たちや会衆と同じ救いに与っているのです。 ですから、「揺るぐことなく信仰に踏みとどまり」(コロ 1:23)、今年も復活の祭儀に備えようではありませんか。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>475-476 『老クリスチャンの長文コピペについて』 (1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。 (2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。 (3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。 そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。 (4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。 (5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。 (6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。 (7)まったく読む必要はない。 (8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。 (9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。 (10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。 (11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。 (12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。 (13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。 (14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。 (15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。 (16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。 (17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。 (18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。 (19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと 老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。 (20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。 【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】 http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ 弥生式の田吾作がコンプレックスに向き合わず50歳過ぎて10代の喜びに憧れ悶絶しているおっさん。 せめてこの世に恨みを残さず逝ってほしい 歴史上の人物でナザレのイエスが一番嫌いだ キリスト教は一番嫌いな宗教だよ 森友問題 相撲のパワハラ事件 レスリングのパワハラ事件 カトリック小教区での虐待事件 この辺りを実写ドラマ化してほしい その時代における人生の佳境をすぎた哀しき断末魔の慟哭 イエスキリスト・ そのイエスキリストなるものに勝ってはいけない 逆恨みされあぼーんされるから 真理。 1995から学ぼう。 神経系の浸潤は相当苦痛だという事実。 そして刺されると強烈痛いはずだ Youversionで新共同訳をスマホでタダで読むことができるようになったぞ 日本FEBC の新番組 雨宮慧神父様の福音書講座「イエスの、ことばの、その根」 が 4/13 から始まるそうです(毎月第二金曜日 21:37 から 60 分間)。 精神病を回避できる魔法の言葉 「へーそうなんだすごいですね」 >>479 おい、田吾作。久しぶりだな。 十十十十 「田吾作(>>479 )」って一体何者? 十十十十 ・自称カトリック信者。 ・キリスト教を賛美し、神道を異様に敵視する。 ・カトリックスレに徘徊することが多い。 ・奴のキーワードというか口癖は「田吾作」「八百万の愚」「イエズス様」「秘孔」「毒まんじゅう」「とうほぐ※」「ふぐすま※」 ※のあとに「〜の田吾作」と付けること多し ・田吾作、田吾作って喚くから、奴の通称が「田吾作」となる。 ・カトリック優越主義のくせして、カトリックの教義の優位性を語ることができない(つまり、教義に関する知識に乏しい)。 ・「マッカーサーはカトリック信者」という、キリスト教信者としては極めて低レベルの教養しか身についていない。 (恐らく、MacArthur→Mac→アイルランド系→カトリックという類推だと思うがwww) ・現実社会では不遇をかこったDQNと思われ、そのことを指摘すると居なくなるwww |/-O-O-ヽ| ブツブツ・・・ | . : )'e'( : . | イエズスサマハァハァ ` ‐-=-‐ コノタゴサクガァァァァ / \ ★(21世紀 聖書を信じる宗教別人口) ユダヤ教 2千万人 キリスト教 22億5千万人 イスラム教 16億人 ★21世紀のキリスト教人口 約22億人(カルトは含まない) Aカトリック教会 (12使徒から継承) 14億 Bギリシャ正教(12使徒から継承) 2千万 C正教会(Bから分離) 3億 Dプロテスタント(Aから分離)) 4億 E英国国教会(Aから分離) 5千万 参考資料 ◆20世紀各国 【カトリック教会】 〈英国国教会〉『正教会』(プロテスタント)の割合 ポルトガル 【カト97】 スペイン 【カト94】 イタリア 【カト93】 フランス 【カト70】 ベルギー 【カト75】 オーストリア【カト80】 ポーランド 【カト97】 クロチア 【カト90】 スロバキア 【カト70】 アイルランド【カト90】 メキシコ 【カト83】 ペルー 【カト89】 コロンビア 【カト90】 ベネズエラ 【カト76】 ブラジル 【カト73】 エクアドル 【カト90】 アルゼンチン【カト93】 フィリピン 【カト83】 イギリス 【カト13】+〈英国国教会 60〉 カナダ 【カト43】+〈英国国教会&プロ29) アメリカ 【カト21】+ (プロ 67) ドイツ 【カト30】+ (プロ30) スイス 【カト43】+ (プロ40) スェーデン 【 カト5 】+(プロ70) デンマーク 【 カト5 】+(プロ85) ノールウェー【 カト5 】+(プロ80) ギリシャ 『ギリシャ正教95』 セルビア 『正教会80』 ルーマニア 『正教会84』+【カト10】 ロシア 『正教会40』 警察と在日マフィアと創価による集団ストーカーの模様 (車両ナンバーつき) ht^tps://www.youtube.com/watch?v=gTOBN1AkSz0 https://www.youtube.com/watch?v=bbPcpPwO3ug https://www.youtube.com/watch?v=de1jeSPGGNo ^おそろしくてお漏らししそう´・ω・` >>493 統計上はたくさん信徒はたくさんいるけど 定期的に教会通いをしている 信徒は5%前後です。 イギリス、フランスは定期的に教会通いをしている信徒の割合は1%くらいですよ。閉鎖になってレストランやクラブ、イスラム教のモスクに転用されている教会もたくさんあり、日本の葬式仏教と同じで 冠婚葬祭以外は宗教と関係ない暮らしを している人もたくさんいます 子どもに洗礼を授けない親も増えてきて います >>493 20世紀の統計でしょう! 現在はもっと西欧諸国のカトリックと プロテスタントは信徒数は減ってイギリス 逆に、旧共産圏の東欧の正教会は信徒数が 増えて ロシアは現在86%がロシア正教会を信仰して います 東欧の正教会は教会が復興していて 正教会の活動が活発です 牧者がペトロの初代教会であるカトリック教会は 神の子イエス・キリストと12弟子とが救いの契約を結んだ神の民 すなわち新約における唯一の教会である その後ヨーロッパ全土に広がったこの唯一の教会は歴史的事情により 西側地域のカトリック教会と東側地域のギリシャ正教に分断されたものの イエス・キリストとの契約により 頭がキリストの同じ羊の群れである それは12使徒とキリストの母マリア及び聖人が共にいる羊の群れであって我々カトリック信者も洗礼によってその群れに加えられるのである 新約聖書はこの羊の群れ(カトリック信仰共同体)Aについて語っている よって上記の羊の群れ(カトリック信仰共同体)Aと全く異なった信仰を持つ羊の群れである信仰団体(プロテスタント 聖公会 正教会)CDEに於いて洗礼を受けると自動的にそれらの羊の群に加えられる つまりCDEの羊の群れは「頭がキリストの羊の群れA」の信仰とは異なった信仰を持つ羊の群れだから CDEの羊の群れは頭がキリストではない 要するにAの群れに移ることによって頭がキリストの羊の群れの羊となる ことができるのだ 毎日の読書 ー「教会の祈り」読書 第二朗読 第二巻 四旬節 カトリック中央協議会 (1990) 四旬節第三火曜日 第二朗読 聖ペトロ・クリソゴロ司教の説教 人は祈りによって戸をたたいて願うことを断食によって獲得し、施しによって受け取る 「教会の祈り」の読書として読んだ時は、よくわからず、その後も時々この説教を読み ましたが、よくわかりませんでした。大きな誤解をしているかもしれませんが、十戒を 念頭において読むとこの説教が少しはわかるような気がしました。祈り、断食そして 施しは、イエスの掟 Mt 19:16-29, Mt 22:34-40 と深く関連していると思います。祈り だけでは、イエスの第二の掟がおろそかになる可能性があると思います。断食だけ では、苦しみを(少しは)理解できても、芽がでませんし、十戒の第七の掟 Ex 20:15 がおろそかになる可能性があると思います。Catechism に説明されているように、 イエスの掟が十戒に由来していることを忘れてはいけないとを強く思わされました。 cf. Catechism 第3編 第二部 神の十戒。それから、それら 3 つをすべて同時に実行 すれば、自然にわかるのかもしれません(説教では、同時に行わなければいけない ことが強調されています)。実行することは大変なことだと思いますが。 2017年夏 カトリックニューズ カトリック教徒14億人越える 尚 過去10年間に約1割 信徒数が増加 新約聖書 カトリック教会の完成形が神の国 「肥満」「高血圧」「高脂血症」「糖尿病」は『死の四重奏』+「歯周病」で堕落の権化 全世界のことをとやかく言う前にまずは自分自身の救済だw >>501 日本の人口は減っても地球上の 人口は、現在も増える一方なので 地球の人口が増えると同時に信徒の 人口が増えるのは当たり前 信徒が増えていると言っても カトリックは、葬式仏教と同じで 冠婚葬祭と洗礼式以外は 教会に行かない信徒もたくさんいます 中南米はカトリックから福音派・聖霊派、創価学会などの新興宗教に改宗する人も たくさんいるんですけど スペインの宗教 カトリック 70.1% 無宗教 25% 無回答 2.2% その他 2.7% 「社会学調査センター」による2011年のスペインでの所属宗教の調査結果[1] イタリアの宗教(カトリック)が国民の約80%。 その他,キリスト教(プロテスタント), ユダヤ教,イスラム教,仏教。 >>503 >中南米はカトリックから福音派・聖霊派、創価学会などの新興宗教に改宗する人もたくさんいるんですけど 前教皇が初の外遊地に選んだのが中南米。新興宗教が問題を引き起こしているので直接自分の目で見て確かめたいという気持ちがあった。 神のユニバーサル教会に代表される新興宗教は創価学会と同じ教えで「この宗教を信じれば金が儲かって病気も治る」とやっている。 これに騙されて貧乏人が・・・というのはまさしくかつての日本がたどった道。 お風呂とか掃除とかそーいうときだけ鬱になって 何時間もネットカキコする元気はあるんでちゅか? 風呂なんて20分でいいんだよー 何時間もネットカキコする元気はあって 20分の風呂だけ鬱や陰性になるんです? ただの甘え 徳川幕府が禁教令を出したのは安全保障のためだったというのは、歴史学の間では常識。 当時のキリスト教は、世俗化されておらず、侵略の尖兵であり、国体を破壊する危険なテロリスト集団だった。 神社仏閣を破壊し、僧侶を追放したり、日本人を奴隷として海外へ売り飛ばしていた。 つまり迫害していたのはキリシタン側だったのだよ。 いわば切支丹=IS構成員なのである。 キリシタンは何をしたか 日本の神社仏閣を破壊してたんだぞ 他国に来て民衆を洗脳してその国の文化を破壊させようとした 処刑されるのは当然だ 宣教師というと奴隷の話が出てくるが 基本的に人身売買というのは当時の世界では当たり前の話であって 黒人奴隷だってアフリカの黒人国王が売っていた奴隷を購入したもので 日本人奴隷だって日本人が売っていた奴隷を購入したものなんだよね 秀吉の朝鮮出兵で九州の大名がどれだけ大勢の奴隷を朝鮮から連れ帰って 売りさばいていたか 戦争でのこういう乱取りは普通のことだった 当時のイタリア人が日本にきてこういった朝鮮人奴隷を買った記述が残ってる それで買った方は奴隷を悲惨な境遇から助け出してやったと思ってる 布教の妨げになるとイエスズ会から報告が言って王から奴隷売買を禁止するような 働きかけもやっているんだけどね 結局「宣教師が奴隷売買にかかわってる」ということでスキャンダラスに 叫ばれるのだろうと思う 「旅するカトリック教会」の完成形が神の国 神は全ての人を神の国に招かれているのだから ましてやご自分の羊(カトリック教徒)を心配しないはずがない 教皇ベネディクト十六世 回勅 希望による救い カトリック中央協議会 (2008) の最初の部分を読んでいましたら、その 7. に、ヘブライ人への手紙 第11 章をとおして、 信仰における現在と未来との関係について説明されていて驚きました(関係した事を 少し考えていましたので)。全く何もわかっていませんでした。Heb 11:1 の古代教会が 作ったラテン語訳は、 「信仰は望んでいることがらの<実体>であり、見えないことがらの証拠です。」 実体の元のギリシャ語は、hypostasis で、そのラテン語訳は substantia であるそうです。 ルターは、実体と証拠を主観的な意味で理解したそうで、その結果(?)ドイツ司教団 が認可した共同訳 (Einheitsübersetzung) は、 「信仰とは、希望することがらに堅くたち、見えないことがらを確信することです。」 Glaube aber ist: Feststehen in dem, was man erhofft, Überzeugtsein von dem, was man nicht sieht. cf. Überzeugtsein: conviction 現在の改訂訳は、…, Überzeugtsein von Dingen, die man nicht sieht. 上記の本の 7. の後半の一部を引用します。 信仰はわたしたちに何かを与えてくれます。信仰はすでに今、待ち望んでいる現実の 一部をわたしたちに与えてくれます。そして、この現在の現実が、わたしたちにとって、 まだ見えないことがらの「証拠」となります。信仰は未来を現在に引き寄せます。 こうして未来は単に「まだ存在しない」ものでなくなります。このような未来が存在 することが、現在を変えます。以下省略(後少し続きます)。 キリストは日本国憲法で認められた思想信条の自由に含まれない違法な団体で 隠れて人体実験やらなにやら日本を実験場にしてるからお引き取りいただこう ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる