マハーカルナー禅師の潔白を検証するスレ Part 4
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水源禅師もうすぐ来日されるから、
その時この件に関して何か言及されるかね。 ぴぃぴぃ便所の落書きしても状況は何も変わらない可能性が高いが、
そのぴぃぴぃ言った行為の結果は必ず受け取ることになる。
逆の立場で考えても、
勝手に自滅していくんだから、見ていて滑稽だろうよ。 勝手に自滅していくってのを信じることが既に宗教的視点だからなあ…
それにその自滅に巻き込まれる人を減らしたいってのはまっとうな願いなのでは?
皆が皆、落書きではないと思うけど >>480
では、パーティモッカに波羅夷が制定されている理由はなんなのか。 ある仏教徒が、ある仏教徒の破戒行為を非難して責め立てているわけじゃないんですよ。
ある人が不道徳な淫行で、他者の人生を踏みにじる行為を繰り返し、その行為の隠蔽に
仏法を利用している、ということなんです。
まったく話が噛み合ってないと思いますね。 話の第一の主旨は非難ではなくて、警鐘です。
振り込め詐欺に対する注意喚起をする、市区町村のアナウンスは
詐欺師に対する誹謗中傷であり、けしからん、などと言う人がいるでしょうか。 「理性の人」を目指しているはずなのに、いつのまにか
「宗教信者」になってませんか。 >>39 の時点で既に既出だが、
スダンマ長老は、事実確認しないうちに断定してしまってるでしょう。
MKが、少なくとも比丘だという認識で話している。
もし比丘だったら、最低限、戒律を守る意志はある(あった)はずだし
仏教徒なら最低限、五戒はある。
悪いことをするはずがない、という暗黙の前提認識がある。
だから、その前提に基づいて判断しているのだと思うが、
実は、その前提は成り立っていない。
そこが全くわかってない。 無差別殺人はしないだろうが、タイプとしては、麻原彰晃と同じ方向性。 仏法に関しては、長老の仰ることは正しいと思うのだが、
事実誤認の部分は、事実誤認と言うしかない。
事実誤認に基づいて、仏法を当てはめられても、それはやっぱり
ズレてるとしか言いようがない。
申し訳ないが。 http://fujisugatavihara.blogspot.jp/2017/11/blog-post_21.html?m=1
ここでスダンマ長老様は
「私は出来るだけ今世で十波羅蜜を実践していきたいと思ってる」
とありますのでスダンマ長老様は恐らく大乗(仏=ブッダに成る事を目指しておられる)の方の様で
御座いますね。
いまだに上座部仏教を小乗と言う方も居ますが大乗か小乗かは個人の選択の問題としていますので
小乗と言われる上座部仏教の中に、やっぱりスダンマ長老様の様に大乗の方もまた存在する訳です。
一方で大乗仏教は大乗至上主義なんですが無自覚な人は大乗のくせに小乗の修行をしている方までいて、
そこの辺り、よくよく調べて理解した上で行った方が良いと思われます。 十ハラミツの実践なら、テラワーダの範疇で、
彼は、仏陀を目指すテーラワーダの菩薩、
という事になります。
大乗で仏陀を目指す方は、六ハラミツを
実践します。
テラワーダの10ハラミツ=
布施、持戒、出離、智慧、精進、
忍辱、真実、決意、慈、捨。
大乗の6ハラミツ=
布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧。
テラワーダには、阿羅漢を目指す人と、
菩薩の実践をする人と、両方おります。
大乗は、菩薩を目指す。、 上記、言葉不足の為補足。:
大乗は、仏陀になるために、菩薩の実践をする。実践の内容は、
6ハラミツである。
テラワーダは、阿羅漢を目指す人と、仏陀になる為の菩薩の実践を
する人がいる。テラワーダにおける、菩薩の実践の内容は、
10ハラミツである。以上。 497>>
テラワーダでは、阿羅漢目指す人も、菩薩行を行う人も、行捨智までは、同じ修行をする。
行捨智まで来たら、仏陀になりたい人は、菩薩の誓願を立てる。
そうすると、阿羅漢にはなりたくてもなれない、という心理的、実相的な
ストップがかかる。その後は、ただひたすら10ハラミツの実践。
大乗の菩薩の実践は、原始仏教、テラワーダの翻案です。
497さん、このあたり、よく勉強された方がいいかも、です。 497>>
一人の人間が、テラワーダの中で、阿羅漢になりたいか、
それとも、仏陀になりたくて、菩薩の実践、10ハラミツを
するか・・・それとも、大乗の中で、菩薩行、6ハラミツをするか、
(大乗にいながら、阿羅漢をめざす、を含む)は、
まったくもって、個人の自由です。
大乗の批判概念である
<小乗>というものは、存在しない。
他者蔑視はやめましょう。 497>>
大乗の6ハラミツを展開すると、
テラワーダの10ハラミツになる。
10ハラミツを縮めると、6ハラミツになる。
10と6は同じことを言っている。
10も、6も、さらに縮めると、
2ハラミツになる。
すなわち智慧と方便。
10がなぜ6になり、6がなぜ2になるのか、
考えてみると、パズルみたいで、面白い。 497>>
なぜ、大乗の中に<阿羅漢を目指す人がいてもよい>のかというと、
大昔、まだ原始仏教と大乗が分かれていなかった、インドにおける、
牧歌的なサンガの時代、原始仏教の中で、大乗の思想が芽生えた時、
原始仏教サンガの中に、大乗の菩薩を目指す一群の人々が許容
されていたから。
そういうことで、反対に今、大乗の中に、阿羅漢を目指す人がいても、
ちっとも不思議ではない、という訳。
宗教運動は、ダイナミックに、常に、動いているもの。
その動きは、自分の好みとは関係がない。 なるほど、そう言った運動や喧騒を楽しむ連中がダイナミックに公開質問状を出すなどして
マハーカルナー禅師を叩いていたんですね。
そういう運動や喧騒を厭う者は原始仏教やテーラワーダ仏教に結集しようとしているのですね。
仏教の理想は寂静・涅槃なのですから。 解散直後にマハーカルナー氏が旧スタッフに向けてHPで放った呪詛に比べれば、このスレでの叩きなんか可愛いもんよw 「人生のある側面で悪事を行いながら、違う側面で善を行うことはできない。
人生は一個の不可分な全体である。」―ガンジー >>504
↑
これがマインドコントロールを受けている状態の人の発言。 う〜〜ん^^
おまいら大衆部やろ^^
なんかあったな・・^^ 289因縁果 ◆d........o 2018/04/07(土) 19:11:12.79ID:FMs6SBZ3
北伝によると・・
羅漢の資格や性質について意見が分かれ、マガダ国で分派した。
その中心となった問題を「五事」という。
その五か条を認めるのは「大衆部」、これを異端とするのは「上座部」になった。
290因縁果 ◆d........o 2018/04/07(土) 19:15:19.23ID:FMs6SBZ3
「五事」
釈尊の没後 100年頃,大天の唱えた五ヵ条の異議のこと。
五事とは,次の5つをいう。
余所誘──阿羅漢でも他のもの (天魔など) に誘惑されると不浄をもらすことがある。
無知──阿羅漢でもまだ知らないことがある。
猶予──阿羅漢でもなお疑問をいだくことがある。
他令入──阿羅漢でもみずからは阿羅漢となったことを知らず,
必ず他人が汝はもう阿羅漢の位に入ったと悟らせてくれて,
初めて自分が阿羅漢であることを知る。
道因声故起──聖なる道は「苦しいものだな」と叫ぶことによって起る。
上座部の長老たちはこれを妄語としたため,五事を認める人たちが一派をなして
大衆部を立てたといわれる。 まぁ似たようなもんだな・・^^
え〜〜と^^
おまえらは・・・^^
十事とは従来の戒律(教団の規則)を緩和した十の除外例であり、
この中に「金銀を扱ってもよい」という条項が入っていた。
ところが、実際に托鉢などに出ると食事だけでなく金銭を布施されることがあり、
この布施を認めるかどうかが大きな問題となった。
これを認める現実派は、多人数であったので「大衆部」と呼ばれ、
この除外例を認めない厳格なグループは少人数で長老上座が多かったので
「上座部」と名づけられた。上座部ではこの十事を非法と定めたことから、
これを十事非法(じゅうじのひほう)という。
長老上座が多かった・・^^
おまえらは・・長老やな・・・^^ う〜〜ん^^
聖なる道は苦しいものだなぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ^^ うん^^
まちがえた^^
おまえらは「上座部」や^^ 504>>
最近、ミャンマーのセヤドー方の経歴を
WEBで見るようになった。MK効果。
身にやましいことがなく、慙愧を知るならば、
質問に答えればいい。
第三者が検証できるように、
HPで、文章で。 504>>
寂静・涅槃は、<何もしない事>なのではない。
聖者は、不動心で、慈・悲の行いを実践する。
それが通用しない時は、不動心で、<捨>をする。
それが通用しない時は、不動心で<遠離>する。
寂静・涅槃は、それを目指す仏教徒や聖者に、
慈・悲と、不動心があるか、ないか、
が問われるのであって、
「何も行動しないでいい」「だまって見ていろ」という
のは死人の事。仏法ではない。 >>517
まだMKを信じている方の発言でしょうか。
もしそうなら、悪用された仏法によって
思考停止させられてることに気づいて欲しい。 他人に対して思考停止しているというが
あなたこそ思考停止していないか。 仏法を悪用しているだの、仏法をろくに知らない凡夫の分際で
ましてや出来事に直接関与していない外野の分際で
どうこういうことは恥ずかしいと思った方がいいと思うよ。
聖者だというなら別。 >>521
おや?
すべてに感謝、感謝だったのでは?…
やっぱり感謝できるものと、できないものがあるんだね >>523
感謝感謝って言ったのその人じゃなく私、
全ては法にしたがって生きるだけなんで感謝しかないでしょう。 >>524
ありゃりゃ、話つながってると思ったんだけど勘違いでしたか
失礼しました
> 全ては法にしたがって生きるだけなんで感謝しかないでしょう。
これまったく同意なんだけど、今ここでそれを言うとMK氏にも感謝なのかって思われちゃうから…
前に自分もやりましたw
感謝するのは法に対してであって人じゃないんですよね 良き事があればその事に感謝。
自分に都合の悪い出来事があれば私の業を引き受けてくれた、それをした人に感謝。
誰が悪い訳でも無いんですけどね、此の世は >>526
> 自分に都合の悪い出来事があれば私の業を引き受けてくれた、それをした人に感謝。
いや、
法によって起きたことだからという視点で法に感謝はわかるけど、
法によって起きたことだからという視点で人に感謝はおかしくね? >>86
大変
興味深いです。その発言は動画か文章として保存されてないのでしょうか? >>134
見えてしまっただけでなく、意図的に見せたのでしょうか? >>500
ソースは?テラワーダで仏を目指すって初見だけど >>531
いやいやいますよ、ここでは仏陀といってもいいんだけど、
正自覚者といったほうが厳密かな。
阿羅漢は今世でなれるけど正自覚者は今世ではなれないので
(教義上テーラワーダが残っている間は現れない)
そうとう後、弥勒仏陀(菩薩)が次の正自覚者というのは大乗と一緒。
正自覚者になろうとするお坊様はそれこそ戒律完璧に守るし
頭陀行十三全部やってたりね。
テーラワーダの中でもちょっと特別な感じだね。 >>533
う〜ん、テーラワーダって現代の学術的なやり方と違って
ソースソース言わないから正直そういわれてしまうと困ってしまうんだが
(学者の人はそのやり方でもできるけど)、
とりあえず
http://tipitaka.org/romn/cscd/s0513a1.att0.xml
こことか
http://tipitaka.org/romn/cscd/s0511a.att1.xml
こことか言っとけば良い?
訳は勘弁してね、専門家じゃないから >>534
ありがとうございます。日本語の本には出てないのでしょうか? >>535
う〜ん、注釈書だからなぁ。
ジャータカはなんと全部(!)出てるけど、
他はあったかなぁ。
自分で調べてみて。 >>536
経典には出てこなくて、上座部のいずれかの国の注釈書ということでしょうか?すみません。もう少しヒントください >>537
違う違う、
三蔵はもちろん、注釈書、副注釈書と副々注釈書の大部分までは
テーラワーダのすべての国共通、
それ以降はそれぞれの国のオリジナルのものがある(ごく少数例外あり)。
ミリンダ王のはミャンマーでは三蔵扱い、他の国は注釈書扱いだったっけかな。
アビダンマッタサンガハは副々々注釈書くらいだっけ?
まあとにかく専門家ではないから公の場に書くのは怖いんですわ。
なのでこの辺で。
といって逃げる… >>538
わかりました。ありがとうございます。調べてみます 500>>
南伝菩薩道(英語版で、The Great Chonicle of Buddhas )。
作者:The Ven. Migun Sayadaw.
後、パオサヤドの「菩提資糧」にも似たような説明が。
自分で探しなさい。 500>>
他人に<ソース、ソース>言う前に、自分で勉強しなさいよ。
インターネット探せば、いくらでも見つかるだろ。 アンカーの付け方間違ってるの今後は直して欲しい
>>500 OK
500>> NG
あと付け先もちょっと違うような… パオサヤドの「菩提資糧」は<菩提樹文庫>に載っている。日本語。 お釈迦様じゃあるめぇに瞑想「だけ」では全てはわからんよ
ソース(笑)
http://tipitaka.org/romn/cscd/s0201m.mul0.xml
ここの2番、7つ見出しがあるじゃろ?
瞑想というのはこの7番目なんじゃ
これなら日本語訳があるぜぇ
調べて読んでみるがよい 頭で考えると別々のもの、矛盾した概念に思えるものが
無分別智の視座から見ると、全く矛盾していなかったことがわかったり、
そういったことは、慧が出てくるまで瞑想を進めないと分からない。
思考概念と次元が違うので。 これ以上、苦しむ人が現れませんように。ただそれだけ。 >>551
四禅まで行ってそれからヴィパッサナーやってるんですね。
流石です。 まともなお坊さんかどうかの、日常的な判断基準としては、
戒律を護っているかどうかで判別できると思う。 その為には、在家であっても比丘戒律をひと通り読んで内容を把握しておくことが役立つはず。
別に暗記、暗唱しろとは言ってない。 個人的な意見として、戒律が根付くことなしに、
その先の道が根付くとは到底考えられない。 戒律は難しいから、在家が口を出すべきじゃないと思いますよ。
現実問題テーラワーダの国以外では227は守れないし。
わかりやすい例として服の問題がある。
三衣以外着てはならないが、寒い国では不可能。
神通身につけてでも守れ、というのなら話は別だが(笑)、
戒律の意味がわかってない人がいかにも言いそうな話だ。
お金も、町のお坊さんには現実的に無理。
お付きの人がいればいいが、そのたびに在家に迷惑かけるのは本末転倒。
もちろん在家としてはそれをサポートするべきだと思うのは良いこと。
それぞれの宗派や国によって戒律に関しても独自に決めていることがあるが、
それによって経典は変えられないので、全サンガに周知、
というわけにはいかない。
ここら辺は裁判ネタにもなってるね。
そもそもアーナンダ尊者が従者につく前の二十年間は
戒律といえば「諸悪幕作…」しかなかった。
あとのは誰かがいろいろしでかしたからできたわけだし。
でももちろん戒律を守ることは良いことだし、
戒律を完璧に守っている山で修行するお坊さんを尊敬するのは良いこと。
しかし戒律をもってきて人を攻撃するのは良いこと?悪いこと?
ちなみにパーティモッカは注釈書も読まないと意味わかんないよ。
よくいるんだ、注釈書読まずに適当なこと言う奴。
またソース出す?(笑)
まえ言ってたパーラジカはここな。
http://tipitaka.org/romn/cscd/vin01a.att2.xml
なんのためのパーラージカか、よく書いてある。
そのまた注釈書がここ
http://tipitaka.org/romn/cscd/vin01t2.tik0.xml
経典だけ読んで適当な解釈されても、ねぇ 戒律で人を裁くというより、
仏法で人を騙すことが問題だということでしょう。
今回の事案が示していることは。 戒律を守れないなら、自分がテラワダの衣を脱ぐべきであって、
衣を脱がずにテラワダの戒律を変更するべきではない、という立場です。 どうか五戒と人間としての社会的道徳だけでいいから守って欲しい。
また被害者が出ることのないように。 >>559
そんなこと言うと、日本では衣が着られなくなってしまう。
現代ではどうしても、戒律を厳守すると俗世間と衝突を起こすことがあるんですよ。
だからそういうことができるように在家がお布施して環境を整えてたりするじゃん、
たとえば前に出てたアーチャン・チャーの寺なんて。
だからそういう森林派、というのかな、
そういうお坊さんたちはありがたいんですよ、
戒律を守ることによって戒律を後世に残しているし。
それはあなたのおっしゃるとおり。
しかし法要したり町の家族の問題解決したり子供のしつけしたり
争いの調停したり在家に仏法教えたりする町のお坊さんは
社会のこと知らないとそんなことできないし、
そこでどの戒律までは大丈夫かは本人が決めてるわけではないんですよ。
こういうお坊さんがいないと仏教は滅びるし、
外国となるとさらに難易度は格段に上がるので、
外国でについてはお坊さんに聞けばどこからどこまで、というのは
聞けると思いますよ。
でもこんな環境になったのはここ数十年のことなので、
まああなたのような意見があるのも当然だとは思います。
しかし私はそれより新しいところに仏教を広げることのほうが
良いと思うなあ。
きっと、あなたがもし出家したら在家の相手なんてしてないで
森の中で修行するのに向いているのでしょう。
そういう人がいるのもありがたいことです。 >>559
追加。
前の文、自分で見ても長すぎだね(笑)
なのでこれで最後。
> テラワダの戒律を変更するべきではない
これはその通りですね。
だからパーティモッカは変えないし、
パーリ語三蔵、注釈書、副注釈書他は絶対に変えない。
翻訳だとどうしてもパーリ語の原意から外れてしまうところがあるし、
でも翻訳しないと我々にはわからないから助かるんだけど、
やっぱりパーリ語で変えずに保存してくれてあるから
それが残る限りそこから翻訳すれば意味が変わってしまうのを
少なくとも最低限におさえられる。
それと同様に、明文化されていない僧団の伝統もある。
そこもちょっとわかってあげて下さいな。
仏教を伝えてくれるのは、お釈迦様の時代から続く僧団なんですから。 クムダセヤドーからご意見を頂けるかも。この問題、解決するといいですね。苦しみがなくなりますように。 「戒律を守れないなら、自分がテラワダの衣を脱ぐべき」って部分には決して触れないのなw いや前から不思議なんだけど
この件って何か苦しむ要素ある?
もしあるとしたら典型的な二の矢だと思うんだが…
そういうの受けない様になるのが仏法の実践なのでは? >>561
「だからそういうことができるように在家がお布施して環境を整えてたりするじゃん、
たとえば前に出てたアーチャン・チャーの寺なんて。」
↑
日本にアーチャン・チャーのお寺があるのですか…? 問題は非常にシンプル。
四大戒律違反は、告発側の誤認でない限り、
即時、サンガ追放。
衣など、多少融通がきく部分はある。
タイの山奥の寒い地方の比丘は、衣の下に
茶色のベスト(衣からはみ出さないようなタイプ)
を着ているし、帽子もかぶるし、靴下も履く。
仏陀の時代は時計がなかったので、現代の比丘も
腕時計はNOだけれど、懐中時計を衣の下に
忍ばせている比丘はいる(待ち合わせなどで、
時計は必要かも)。
良心と常識に照らして、戒律を守れないならば還俗
すればよい。
サンガと比丘は、清浄でなければならない。 アビダルマをパーリ語で滔々と説明できても、
いつ出家して、いつ還俗したのか、
正式の比丘なのか、賊住なのか
自分自身の位置づけもできないなら、
何をかいわんや。 >>532
> >>531
> いやいやいますよ、ここでは仏陀といってもいいんだけど、
> 正自覚者といったほうが厳密かな。
> 阿羅漢は今世でなれるけど正自覚者は今世ではなれないので
> (教義上テーラワーダが残っている間は現れない)
> そうとう後、弥勒仏陀(菩薩)が次の正自覚者というのは大乗と一緒。
> 正自覚者になろうとするお坊様はそれこそ戒律完璧に守るし
> 頭陀行十三全部やってたりね。
> テーラワーダの中でもちょっと特別な感じだね。
菩提資糧 p54
生きている仏陀の前で発した至上願だけが効力がある。世尊が般涅槃を証した後、仏塔の前、菩提樹の下、仏像の前、辟支仏の前、または仏弟子の前に発した至上願は、無効である。
要するに現代では不可能ということですな 「比丘達よ。
君達は戒をそなえ、戒条を守って住しなさい。
戒条による防護によって守られ、行為と行動の領域をそなえて住しなさい。
わずかの罪に対しても恐れを見て、もろもろの学処を受持して学びなさい。
それ故に、私達は学ぶべきである
「私達は戒をそなえ、戒条を守って住します。
戒条による防護によって守られ、行為と行動の領域をそなえて住します。
わずかの罪に対しても恐れを見て、もろもろの学処を受持して学びます」と。
私達はこのように学ぶべきである。 >>571
そうそう、その通り。
菩薩の誓願は現代では不可能。
その時点で阿羅漢になる能力があって、正自覚者の前で
「私は将来正自覚者になります」と誓願する。
正自覚者の前での誓願のみ有効。
> 生きている仏陀の前で発した至上願だけが効力がある
ここね。
お釈迦様も、28仏前だっけ、その仏陀のまえで誓願し、
その正自覚者が「こういう名前でいついつに正自覚者になる」と予言する。
それが、それからの26の仏陀のうちの、3分の2くらいだったかな、
同じように予言を受ける。
残りの3分の1くらいの仏陀とは確か会ってない。
第四禅定に入ると過去が見える、っていうでしょ?
誓願を思い出すから、その輪廻の中で修行を積む、
その人たちが今もいる、ということなんじゃない?
または誓願の前に阿羅漢になる能力はつけなきゃいけないから、
その時点で十波羅蜜を完成直前には持っていかなきゃならない
(今世中とは限らない)。
逆に今世で預流果になってしまったらもう正自覚者になるのは無理。
正自覚者になるには三十波羅蜜が必要で、
阿羅漢になるのとは段違いの難易度。
未来永劫正自覚者は無限に現れるわけだから、
現代に正自覚者になる!という気持ちで修行している人は
何人いるかはわかったもんじゃない
(いつか正自覚者になる誓願をするんだ、という気持ちになるのは自由)。
現に弥勒仏陀(いまは菩薩。兜率天にいる)は
お釈迦様のもとで出家していて、予言も受けている。
と、こういう話はすんげぇ宗教っぽいからあんまり話したくないんだけどw
一応テーラワーダの国共通の認識ね。
在家がそこまで知ってるかどうかはわからないけど。 >>573
訳語の違いは突っ込まないでねw
サヤレーのは中国語からだし
私のはパーリ語と日本語の大乗用語のちゃんぽん。
ただ、Buddhaというと仏陀のことはもちろん
正自覚者のことも阿羅漢のことも
(今言うべきではないかもしれないけど外道のグルにも)
指すので(そこは文脈による)、
厳密に訳そうとするといろいろ問題が起こるんだよねぇ。
なのでそこは、ちょっと多めに見てね。
「(厳密に言うと)その単語は違う!」ってのは無しで、お願い… >>569
>パーリ語で滔々と
単語をローマナイズされたパーリ語で並べているだけで、
パーリ語の文法にのっとっているわけでもないし、
パーリ語を話しているわけでもないんだけどね。
>>573
>と、こういう話はすんげぇ宗教っぽいからあんまり話したくないんだけどw
いや、分かるよ。
サマディ経験者なら、分かるでしょ。
そうでないなら、人間の常識の外側は理解不能だと思うけど。 >>575
> 単語をローマナイズされたパーリ語
すまん、俺もそうだ(爆)
ビルマ文字、シンハラ文字、タイ文字(他)のパーリ語はまったく読めない。
ま、もともと文字はなかった言語だから、
ローマ字でも何の問題もないと思うけど
(大きな声では言えないが、ビルマ文字から起こしたものと
シンハラ文字から起こしたものはほんとにビミョーに違う。
ここだけの内緒の話な。ほんとにビミョーな違いだから。
実は第六結集では(僧団内)裁判にまでなった。
在家が勉強するにははっきり言って何の問題もないが、
お坊さん方はそこまで必死になって一文字変えるかどうかで争う、ということ)。
気になる方はこちらをどうぞ
http://tipitaka.org/mymr/ >>576
リンクでビルマ語ってオレはビルマ語わかるんだぞという自己主張が滲み出ててキモい ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています