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バカモノ!!
右翼が正義のヤクザなわけがないのじゃ 2005年(主日A年) 10月2日 年間第27主日
イザ 5:1〜7 フィリ 4:6〜9 マタ 21:33〜43
イエスはこの譬え話を、有名なイザヤ書のぶどう畑の歌からの引用によって語り始められました。
当時の聴衆たちが、主のぶどう畑がイスラエルを意味することをよく知っていたので、祭司長たちやファリサイ派の人々はそれが 「自分たちのこと」 であるとすぐに気づいたと報告されています(マタ 21:45)。
主イエスは間近に迫っていた御自分の死と、その後にやって来るユダヤ社会の瓦解を、この譬え話で予告されました。
初代教会の伝承の過程で叙述が幾分か押し広げられたために、ユダヤ人が退けられて異邦人が選びに入れられたという理解がより明確にされ、詩 118:22-23 の引用がキリスト証言のために付け加えられたと考えられます。
宗教的指導権は、今やユダヤの権威者たちからキリストの使徒たちに移ったというのが、初代教会の見解でありました。 (つづき)
「さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」(マタ v.40)
神の国にふさわしいのは、この悪人どもではなくて、「季節毎に収穫を納めるほかの農夫たち」 であるというのが、この譬え話が意図する自然な結論でありました。
そして初代教会がユダヤ人を前者に、異邦人キリスト者を後者に当てはめて理解したことは言うまでもありません。
ただその場合、教会は “使徒たちの宣教” によって、そのような理解を得たのでした。
「事実、あなたがたは恵みにより、信仰によって救われました。 このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」(エフェ 2:8)
「では、人の誇りはどこにあるのか。 それは取り除かれました。」(ロマ 3:27)
しかもこの理解は本来、イスラエルの信仰から受け継いだものであったことを忘れてはなりません。
すでに申命記は情熱を込めて述べています。
「あなたは、“私が正しいので、主は私を導いてこの土地を得させてくださった” と思ってはならない。 この国々の民が神に逆らうから、主があなたの前から彼らを追い払われるのである。」(申 9:4,7:6-8 参照)
ですからもし私たちが、ユダヤ民族は呪われた民、キリスト教に属する人々は神に祝福された民であるという単純な類型化によって神の救済史を理解しているなら、それは大きな誤りであると言わなければなりません。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2008年(主日A年) 10月5日 年間第27主日
イザ 5:1〜7 フィリ 4:6〜9 マタ 21:33〜43
使徒パウロはここで、「わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと」(フィリ v.9)を強調しています。
彼はその手紙の中で、しばしば 「伝えられた教え」 「わたしたちが伝えた教え」 「わたしたちから受けた教え」 を強調しました(ロマ 6:17、Iコリ 11:2、IIテサ 2:15,3:6)。
それは原始教団の伝承であって、その内容はイエスの生涯の諸事実と、それを信仰告白の様式に従って要約したキリストの福音でありました。
それは ヘブ 4:14 で 「わたしたちの公に言い表している信仰」 と呼ばれているものです。
このような伝承を、単に歴史上のイエスの記憶から出発した言い伝えの連鎖であると理解してはなりません。
そのようなものは、歴史学者や文学者の仕事に過ぎません。
使徒パウロは Iコリ 11:23 でこの伝承を、「わたし自身、主から受けたものです」 と言いました。
この 「主から」 とは、復活して神の右の座に着いておられる主を指しており、原始教団の使徒たちによる伝承の中にこの天上の主が働いておられるという理解を示しています。
このような “使徒たちから伝えられたこと”(神の啓示に関する教義憲章 第2章)への理解を前提にして、パウロはこの手紙を書きました。
ですから、カトリック教会の主日のミサで朗読される聖書のテキストを、その前後関係から切り離して、使徒たちが伝えた福音そのものとは無関係に、現代的に解釈するなどということは、非常に不適切なことなのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>90-91
『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
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O型は、小麦、トウモロコシ、豚肉、大豆、チーズ、蕎麦、ピーナッツ、カシューナッツなどを食べると体調が悪くなる
B型は、小麦、トウモロコシ、鶏肉、カニ、貝、エビ、ピーナッツ、蕎麦、カシューナッツなどを食べると体調が悪くなる
日本人は牛乳を消化することができない
植物油は体に悪い最悪の食べ物
アメリカとオーストラリアの牛肉は成長ホルモンが大量に含まれてるので体にすごく悪い
養殖のサーモンには抗生物質が、マグロには水銀が大量にあるので体にすごく悪い
◆米、小麦などの炭水化物(砂糖)を食べると統合失調症(糖質)になります。糖分は果物から取るといいです。◆ 2011年(主日A年) 10月2日 年間第27主日
イザ 5:1〜7 フィリ 4:6〜9 マタ 21:33〜43
イスラエルはその嗣業の民としての従順に、ついに成功しませんでした。
「彼らはつまずきの石につまずいたのです。」(ロマ 9:32)
彼らは主が 「収穫を受け取る」(マタ v.34)ことを拒否しました。
「わたしの息子なら敬ってくれるだろう。」(マタ v.37)
父の 「独り子」(ὸ μονογενής υὶός ヨハ 1:14,3:16)、「愛する子」(ἀγαπητός マコ 1:11,12:6)は、その嗣業を受け継ぐ 「跡取り」(マタ v.38)であり、
彼らは 「さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう」(マタ v.38)と言って十字架にかけてしまいました。
「だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」マタ v.43) (つづき)
それで ・・・・・ 、今日の異邦人キリスト教会が古きイスラエルに代わって、もっとましな嗣業の民になったと単純に考えるなら ・・・・・ 、それは全くの誤解でしかありません(ロマ 11:28-29 参照)。
異邦人である私たちはユダヤ人と共に罪の下にあり(ロマ 3:9)、生まれながら神の怒りを受けるべき者であった(エフェ 2:3)という厳粛な事実に直面ることなしには、“御子に関する福音”(ロマ 1:3,9)は理解出来ないからです。
古きイスラエルだけの話ではなくて、教会も、自らの回心によって “良いぶどう畑、あるいはぶどうの木” に変身することが出来たなどというお目出度い話は、聖書には全く存在しないのです。
イエスが 「わたしはまことのぶどうの木」(ヨハ 15:1)と言われたのは、今やイエスこそが新しいイスラエル、真のぶどうの木になられたという意味であり、「このキリストのお陰で」(ロマ 5:2)教会は 「その枝」(ヨハ 15:5)にならせていただいたということです。
教会は神の国の 「キリストと共同の相続人(συγκληρονόμοι)」(ロマ 8:17)とされたのであって、それは厳密な意味で終末論的に理解されねばなりません。
私たちを律法の支配から贖い出して、神の子としてくださった御子をこそ(ガラ 4:1-7)、賛美しようではありませんか。
私たち教会は、「御国を受け継ぐことの保証」(エフェ 1:14)である 「初穂としての霊」 をいただいているけれども、なお 「神の子の身分、つまり、体の贖われることを待ち焦がれて」(ロマ 8:23/フランシスコ会訳)いるのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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× ロ α ノ こ 2014年(主日A年) 10月5日 年間第27主日
イザ 5:1〜7 フィリ 4:6〜9 マタ 21:33〜43
「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。」(フィリ v.6)
現代の教会は、世界のこと、社会のこと、貧しい人々や難病に苦しんでいる人、災難にあって困窮している人、各地の紛争によって次々に生ずる難民たちのこと等々で、大いに思い煩っています。
“何とかしなければならない” という責任を現代の教会は負わされているという強迫観念に、キリスト教界の多くの論者たちが囚われているように見えます。
しかし、教会は約束された終末的嗣業の “キリストと共同の相続人” であって、このキリストの再臨の日を “忍耐して待ち望む希望”(ロマ 8:24-25)によって、救われているのです。
今朝の朗読部分が、その直前の 「主はすぐ近くにおられます」(フィリ 4:5)を前提にしていることを理解しましょう。
この部分を口語訳では 「主は近い」 と直訳していました。
フランシスコ会訳では、現代の私たちに理解させようとして説明的に、「主はもうすぐ来られます」 と訳した上で、これに “恐らく初代教会の典礼式文の一表現であろう” という訳注をつけています。
現代のローマ典礼の式文で私たちは、「主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで」(記念唱)、「わたしたちの希望、救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます」(主の祈り)、と唱和します。
ミサを通しての私たちの交わり、つまり 「御父と御子イエス・キリストとの交わり」(Iヨハ 1:3)からこそ、教会とキリスト者の “良いぶどうという収穫を納める行為” が流れ出、
しかも同時にまた、それがミサに向かって秩序づけられるのだということを(ミサ総則 1)、真剣に考えようではありませんか。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>90-92
>>96-97
>>99
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降臨 | | LL/ |__LハL |
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イザ 25:6〜10a フィリ 4:12〜20 マタ 22:1〜14
イエスの語る福音が 「正しい人々」(マタ 9:13)によって拒否され、見捨てられている 「罪人たち」(マタ 9:13)によって受け入れられて行った情景が、目に浮かびます。
「食事の用意が整いました。 牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意が出来ています。 さあ、婚宴においでください」 は、イエスの 「悔い改めよ。 天の国は近づいた」(マタ 3:2)という招きの言葉に対応しています。
招かれていた人々は、彼ら自身の都合を優先してイエスの招きに応じようとしませんでした。
しかし罪人である徴税人や娼婦たちは、信じて福音を受け入れました(マタ 21:32)。
マタイ福音書には、明らかに初代教会の解釈が加えられていて、かつてのイエスの語った譬え話が彼らの時代へのメッセージとして読み直されているのが分かります。
前後関係のやや不自然な マタ vv.6-7 は、ユダヤ戦争と紀元70年のエルサレム陥落に言及したものと考えられますし、「盛大な宴会」(ルカ 14:16)を 「王子の婚宴」 にしたのは、この譬え話を終末的なメッセージとして受け取ったからであると思われます。
さらに、たぶん元来は別個の譬であった婚礼の礼服を着ない人のエピソードが付け加えられています。 (つづき)
最初に招かれていたユダヤ人は 「ふさわしくなかった」(マタ v.8)ので、それに代わって集められた人々が初代教会の信者たちでありました。
彼らは 「恵みにより、信仰によって救われました。 このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」(エフ ェ2:8)ということを学ばねばなりませんでした。
教会訓練(Discipline ヘブ 12:4-11 参照)は、すでにこの時期から受け継がれて来た大切な課題であります。
マタ v.14 の 「選ばれる」 と マタ v.8 の 「ふさわしい」 は同義語であって、それはイエスの招きへの信仰的応答にかかっています。
招かれた人々の中に婚礼の礼服を着ていない人がいたとは、ただの付和雷同による信仰的応答に無関心な層がすでに当時の教会でも見られたということでありましょう。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>103-104
老クリスチャン 降臨
┃ ┃━┓ ハ_ハ. ┃┃┃
┗┓━ ┃━┓ ┗━━('(゚∀゚∩━━━━ ┃┃┃
┗┓━ ┗ ┃ O,_ 〈 ┗┗┗
┗ ┃ `ヽ_)゚ ┗┗┗ 2008年(主日A年) 10月12日=@年間第28主日
イザ 25:6〜10a フィリ 4:12-14,19-20 マタ 22:1〜14
「それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。」(フィリ v.14)
フィリピの教会はその誕生のとき以来、師であるパウロの宣教を、あるいは送金によりあるいは会員の派遣によって、直接間接に助けました(フィリ 4:15、IIコリ 11:9)。
しばらく機会を得なかったフィリピの教会でしたが、ローマの獄中にある師のことを聞くに及んで、金銭を拠出して、会員の一人エパフロディトに託して届けさせ、パウロを見舞わせました(フィリ 4:10)。
キリストの福音を宣教するという働きに、フィリピの教会がこのようにして “参加した” (フィリ 4:15)ことを、パウロは感謝しています。
それはいわゆる “顔の見えない援助” ではなくて、“神の業への参加” でありました。
現代のキリスト者である私たちは、その奉仕や金銭の負担によって、神の業に参加しているでしょうか。
神の国への終末的な招きに実際に応じているでしょうか。
「食事の用意が整いました。 ・・・・・ さあ、婚宴においでください」 という主の呼びかけは、今朝私たちに向かって再び語りかけられているのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>103-104
>>106
『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ >>96-97
>>99
>>103-104
>>106
老クリスチャン 降臨
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イザ 25:6〜10a フィリ 4:12〜20 マタ 22:1〜14
「万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される。」(イザ v.6)
神の義は、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義であって、人はただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです(ロマ 3:21-24)。
この無償の義を、イエスは “天国の宴会”(マタ 8:11)という終末的な表象を用いて語られました。
それは私たちがキリストの勝利に与り(ロマ 8:37-39、Iコリ 15:55-57)、ついに イザ 25:8の預言が実現する日です。
「主は ・・・・・ 、死を永久に滅ぼしてくださる。 主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民の恥を地上からぬぐい去ってくださる。 これは主が語られたことである。」(イザ v.8)
聖書の中の “婚宴のたとえ” も、“五千人の給食の物語り” も、そして私たちのミサの中の “感謝の典礼” も、それらはみな天の国の “地上における芽生えと開始”(教会憲章 5)であることを、
そして私たちは “地上の典礼において、天上の典礼を前もって味わい、これに参加している”(典礼憲章 8)ことを、感謝しようではありませんか。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>99
>>103-104
>>106 老クリスチャン 降臨
>>110
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┗ ┃ ┗┗┗ 2005年(主日A年) 10月16日 年間第29主日
イザ 45:1〜6 Iテサ 1:1〜5b マタ 22:15〜21
「神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、私たちは知っています。 私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。」(Iテサ vv.4-5)
使徒パウロはこのように書いて、テサロニケの教会のことを神に感謝しました。
マケドニアに渡って最初の町フィリピで投獄の難に遭ったパウロとシラス(シルワノ)は、テサロニケに着いて 「激しい苦闘の中で神の福音を語った」(Iテサ 2:2)のでした。
そして彼らは 「聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」(Iテサ 1:6)、来るべき怒りから私たちを救ってくださる復活のキリストが再び天から来られるのを、待ち望むようになったのでした(Iテサ 1:10)。
この福音は “秘められた計画”(天に蓄えられている希望)を知らせるものであり、その完成を待望する終末的な群としての教会を “造り上げる” という実を結んだことを理解しましょう。
聖書が聖伝と共に現代の私たちに伝えていることは、教会がこのような救済史の中を旅する群であるということであります。
私たちが聖書に親しみ、ミサの中で “ことばの典礼” が正しくその役割を果たすとき、テサロニケの人々に働いたのと同じ聖霊は現代にも働いて、私たちに “秘められた計画”(天に蓄えられている希望)を知らせてくださいます。
なぜなら福音は、復活して今も父の右におられる現在のキリストからの“良い知らせ” だからです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2005年(主日A年) 10月16日 年間第29主日
イザ 45:1〜6 Iテサ 1:1〜5b マタ 22:15〜21
この物語りで、主イエスの対抗勢力であるファリサイ派の人々の判断基準は、“律法に適っているか、いないか”(マタ v.17)でありました。
そして恐らく伝承は意図的に彼らの口に 「神の道」(マタ v.16)という言葉を入れて、これを彼らの律法主義に対比させています。
使徒パウロはその改心前に、“この道に従う者”(使 9:2)を迫害しました。
エフェソの町でプリスキラとアキラが信徒伝道者アポロに伝授したのも、「神の道」 でありました(使 18:24-28)。
新約聖書で “道” とは、キリストの福音によって救済史の中に生きるようになることであり、“秘められた計画” を知ってその完成を待望する終末的な群としての教会を “造り上げていく” ことなのです。
聖書を読むこと、それも色眼鏡なしに素直に読むことが、日常の習慣とはほとんど無縁になった近・現代のキリスト者たちは、この “道” をキリスト教的な文化や思想、また道徳観や価値観に置き換えて理解して来ました。
そのような価値観や基準に “適っているか、いないか” に人々の関心が寄せられて、キリストの福音の内容である “秘められた計画” と教会を “造り上げていく” という目的に沿って歩むということは忘れ去られてしまいました。 (つづき)
皇帝のものを皇帝に返すとは、ローマ帝国民としての法的、また道徳的な責務を果たすということですが、それは律法が要求していることではない。
だからその責務を果たしたからといって、神の要求をいささかでも満たしたことにはならない。
それは神に仕えることの免責理由にはならないと、そう初代教会は主イエスのことばを理解したようです。
律法にせよ他の価値観や基準にせよ、それに “適っているか、いないか” という判断の仕方と対比して、“神の道” を考えることの大切さを知りましょう。
「知恵のある人はどこにいる。 学者はどこにいる。 この世の論客はどこにいる。 神は世の知恵を愚かなものにされたではないか」 と使徒パウロは言いました(Iコリ 1:20)。
福音の前進に役立っているか(フィリ 1:12)、教会を造り上げるために益となっているかどうか(Iコリ 14:12,17,26)という視点が大切なのです。
「神のものは神に返しなさい。」(マタ v.21)
これまでしばしば教会は頭脳明晰なこの世の論客たちに振り回されて、無用な議論に引き込まれて疲れ果て、本来の “神のものを神に返す” ことをずっと後回しにして来たのではなかったでしょうか。
そのような私たちのありのままの姿を、復活のキリストは天から、また祭壇から御覧になっているのです。
今朝の福音朗読から、そのキリストの眼差しを感じることが出来る人は幸いです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>103-104
>>106 老クリスチャン 降臨
>>110
>>115-117
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: "しソ 2008年(主日A年) 10月19日 年間第29主日
イザ 45:1,4-6 Iテサ 1:1〜5 マタ 22:15〜22
神は捕囚の民の解放と、エルサレム神殿再建のために、ペルシア王キュロスの心を動かされました(歴下 36:22)。
第二イザヤ(イザ40〜55章)が、当時の急速に変化する世界情勢に目を向けて、その政治解説を行った偉大な宗教的思想家であったと観る人々がいます。
現代のテレビのニュースキャスターが、あたかも大所高所から政治や社会問題への批評を語るように、現代の教会もこの世に対する社会的政治的発言をなすべきだという手本を、ここから読み取ろうとするのです。
しかし、預言者は救済史を、神の御業を、その民に語りました。
「あなたは知らなかった」(イザ v.4)、「あなたは知らなかった」(イザ v.5)、「わたしが主、ほかにはいない」(イザ v.6)。
かつて古い伝統的な朗読配分では、今朝の福音書のテキストに フィリ 1:3-11 が組み合わされていました。
教会がそこからどのように福音を聞いていたかを、それは示しています。
神の国も、復活も、永遠の命も、皇帝のものではなくて神のものであると知りましょう。
そうであるなら、私たちは聖書から復活と神の国の希望を、キリストとその教会への愛を、そして罪の赦しの福音への信仰を学ぼうではありませんか。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>106
>>110
>>115-117 老クリスチャン 降臨
>>119
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イザ 45:1〜6 Iテサ 1:1〜5b マタ 22:15〜21
「わたしは、祈りの度に、 ・・・・・ あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。
あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。」(Iテサ vv.2-3)
ミサの “ことばの典礼” で朗読される聖書のテキストを、聖伝と聖書という背景から抜き出して、自分たちが生きている世界の政治や社会の問題にそのまま当てはめようとする傾向が、多くの人に見られます。
司祭や牧師たちの多くも、まるでそれが当たり前のように、聖書を材料にして自分が工夫した “現代人の歩み方” を説教しています。
毒にも薬にもならないそんな説教に、信者はすっかり馴らされて来たのではないでしょうか。
先ず 「信仰によって働き」 とは、使徒たちから伝えられたキリストの福音という土台の上に(Iコリ 3:10-17)、神の国の到来を待ち望む共同体を造り上げることを指しています(Iテサ 1:9-10)。
「希望を持って忍耐している」 根拠は、教会が福音を通して神の招きを受け(Iテサ 2:12)、教会の中に神のことばが 「現に働いている」(Iテサ 2:13)からです。
「愛のために労苦し」 とは、教会の中で信者が “主の言葉に基づいて ・・・・・ 互いに励まし合っている”(Iテサ 4:15-18)ことに外なりません。 _,. -‐、────- 、
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┼ヽ‐- 、`ヽY Y´!ヽ 丶 ノ '´ ト、├--r 、 (つづき)
教会は、ただ一度成し遂げられたキリストの永遠の贖い(ヘブ 9:12)を根拠に存在しているだけではなくて、復活して神の右に上げられたイエスがその体である教会の頭として、今もその御業を継続しておられる(エフェ 1:20-23)のです。
それは “時が満ちるに及んで完成される”(エフェ 1:10)終末的な “新しい時”(ロマ 13:11、IIコリ 5:17)に属しています。
この教会はこの世に存在していますが、この世には属していません(ヨハ 18:36)。
だからと言ってこの世に対して責任がない訳ではなく(ロマ 13:5-7)、ただ “この世の有様は過ぎ去る”(Iコリ 7:31)ことを知っているのです。
“わたしたちの本国は天にあります。”(フィリ 3:20)
・・・・・ 以下、本文参照。
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老クリスチャン 降臨
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三 ` 2005年(主日A年) 10月23日 年間第30主日
出 22:20〜26 Iテサ 1:5〜10 マタ 22:34〜40
寡婦や孤児と並んで寄留者を同胞と同じように愛せよという律法の命令には、「あなた達もエジプトの国で寄留者であった」(申 10:19)、
「あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない」(申 5:15)という理由が付いていました。
彼ら寡婦や孤児が贖われた民に属しており、あるいはその民の中に生活しているということが前提とされていたのです。
「あなたの神である主を愛しなさい」 「隣人を自分のように愛しなさい」 という聖句の前提になっているものは、「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」(使 20:28)であることを、現代のキリスト者は再発見しなければなりません。
「御言葉」(Iテサ v.6) 「主の言葉」(Iテサ v.8) とは、使徒パウロが 「私たちの福音」(Iテサ v.5) と言っているもののことです。
この福音が 「力と、聖霊と、強い確信とによって」(Iテサ v.5)テサロニケの町に伝えられて行ったとき、これを受け入れた人々は
「偶像から離れて神に立ち帰り、 ・・・・・ (来るべき怒りから私たちを救ってくださる)御子が天から来られるのを待ち望むようになった」(Iテサ vv.9-10)と書かれています。 (つづき)
聖書を自ら読もうとしない多くの人々は、それが永遠の真理である格言や理念を集めた教訓集であるという先入観に陥っています。
そのような人々にとっては、「御言葉」(Iテサ v.6) 「主の言葉」(Iテサ v.8) とは単なる普遍的な “教えの集成” のように思えるに違いありません。
しかし、「信仰の創始者また完成者であるイエス」(ヘブ 12:2)は、再び私たちが福音を聞き、神の国の相続人である教会、すなわち “キリストの体” を造り上げる(エフェ 4:12)生きた石(Iペト 2:5)となるために、
聖書を通し、感謝の祭儀を通して、今朝も語っておられるのです。
聞いている耳は幸いです(マタ 13:16)。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>128-129 >>121 >>119 >>115-117
老クリスチャン 降臨
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┗ ┃ `ヽ_)゚ ┗┗┗ 2008年(主日A年) 10月26日 年間第30主日
出 22:20〜26 Iテサ 1:5〜10 マタ 22:34〜40
使徒パウロはテサロニケの町で、「メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」 と、また、「このメシアはわたしが伝えているイエスである」 と、福音を語りました(使 17:3)。
そして、「力と、聖霊と、強い確信とによって」(Iテサ v.5)御言葉を受け入れたテサロニケの信者たちは、「偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになり」(Iテサ v.9)、更にまた、御子の再臨を待ち望むようになりました(Iテサ v.10)。
この 「わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたイエス」(ロマ 4:25)を信じる信仰によって、
テサロニケの信者たちは生活し、同じ信仰に生きる仲間たちへの愛のために労苦し、キリスト再臨への希望を持って忍耐していました(Iテサ vv.3,8)。
このような人々の間で、 “神を愛し、隣人を愛する” ということが、どのような意味で理解されていたかを私たちは聖書から学ばなければなりません。 >>128-129
『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ (つづき)
聖書を読んだことも学んだこともない人たちが口にする、ただの道徳訓としての “敬神愛人” が、キリスト教文化の標語のように思われて、既に久しい時が経ちました。
そして多くのキリスト教信者も、実際それに何の違和感も抱いていないように見えるのです。
しかし、「神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか」(エフェ 1:18)を悟ることなしに、
原始教会の人々が抱いていた “神を愛し、隣人を愛する” という信仰と倫理を、私たちが共有することは出来ないのです。
神を愛し、隣人を愛しているテサロニケの信者たちへの、使徒パウロの激励の言葉は次のようなものでした。
「そして、わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように、アーメン。」(Iテサ 3:13)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>131>>133 >>128-129 >>121 >>119
老クリスチャン 降臨
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┗ ┃ ┗┗┗ 2014年(主日A年) 10月26日 年間第30主日
出 22:20〜26 Iテサ 1:5c〜10 マタ 22:34〜40
「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」(マタ v.36)
日本語の翻訳聖書が一貫して、旧約聖書のトーラーおよび新約聖書のνόμοςを “律法” と翻訳して、世間における各種の法律一般から区別しようとして来たことに注目しましょう。
と言うのは、残念なことに殆どのキリスト信者が旧約聖書における律法についても、新約聖書が述べている新しい掟(Ἐντολή)やキリストの律法(νόμος)についても、その独自の意味を知らないでいるからです。
しばしば誤解されて来たように、それは一般社会における正義や道徳の規範とは次元の異なるものであります。
ですからこれをそのまま世界に通用する法律のように考えたり、場合によってはこの世の法律に対抗するより高度な指針であると解釈するのは、聖書そのものの本来の主張ではないのです。
旧約聖書におけるトーラーとは、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出 20:2)、「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である」(申 7:6)という前提に立ってイスラエルの民に与えられたものでありました。
ですからこの前提を知らないで、あるいはこの前提から切り離して、いわゆる一般論として 「どの掟が最も重要でしょうか」 と尋ねるのは、見当外れなことなのです。 (つづき)
同様に教会はキリストの血によって贖われ、罪を赦された者たちの共同体であって、そのような神の国の相続者である新しいイスラエルのために、「互いに愛し合いなさい」 という “新しい掟”(ヨハ 13:34)が与えられているのです。
ところがこの前提を無視して、聖書を一般教養書のように自らも読み、他人にも “良いことがたくさん書いてある本” として推薦している中に、いつの間にか現代の教会は “信仰” という骨格を失ったただの文化団体のようなものに形骸化してしまいました。
“神である主を愛し、隣人を愛する” ということが、私たちが主日毎にささげるミサの体験そのものでないとしたら、それは私たち一人一人がクリスチャンであるとは名ばかりで、“ただの人” “肉の人”(Iコリ 3:3)に過ぎないということです。
福音書というものの成立の背景が、初代教会のカテケージスであって、「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい」(Iペト 2:5)という奨めのために編集されたということを理解しましょう。
主が私たち信者一人一人を憐れんで、“キリストの体を造り上げていく”(エフェ 4:12)情熱を、もう一度与えてくださいますように。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 人間が奴隷であることは論証済みで、自覚済みだよな。 >>136-137 >>133>>131 >>128-129 >>121
∧_∧ 老クリスチャン 降臨
( ・∀・)/ヽ
ノ つつ 老 ) 老栗 チャッチャッチャッ♪ 老栗 チャッチャッチャッ♪
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|| 老 栗. !
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.厶/ww|| 侵略の旗を
ノリ ^ヮ^ || 立てるでゲソ
ヽ つ0
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ルター派と改革派以外の分派が宗教改革を我が物のように祝うのを許すな!
バプテスト、メソジスト、福音派、聖霊派、など。こいつら分派から分派した連中でしょ?
こいつら宗教改革なんてしてないからw 2002年(主日A年) 11月3日 年間第31主日
マラ 1:14〜2:10 Iテサ 2:7〜13 マタ 23:1〜12
使徒パウロはテサロニケの教会の人々が、彼の伝えたキリストの福音を神のことばとして受け入れたことを、大いに感謝しました。
福音は力と聖霊と強い確信とによって(Iテサ 1:5)、テサロニケの信徒たちの中に働いていました(Iテサ v.13)。
彼らは偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになった(Iテサ 1:9)ばかりでなく、更にまた、御子キリストが終末の日に天から来られるのを待ち望むようになりました(Iテサ 1:10)。
「あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、父親がその子供に対するように、あなたがた一人一人に呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧めたのでした。
御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます。」(Iテサ vv.11-12)
私たち教会は、この使徒たちが伝えた福音を再び聞くこと、受け入れること(Iテサ v.13)、これを信仰生活のよりどころとすること(Iコリ 15:1)を今朝呼びかけられています。
しかしこのことは、福音を語る者にとっても聞く者にとっても、共に 「激しい苦闘の中で」(Iテサ 2:2)なされねばならないことを歴史は教えています。
そして歴史は私たちにとって、現在を写す鏡の役割りを果たします。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>145 >>136-137 >>133>>131 >>128-129 >>121 >>119
老クリスチャン 降臨
∧_,,∧ 老栗 チャッチャッチャッ♪
. /\. (`・ω・´) /ヽ
| 老 ⊂ ⊃ 老 | 老栗 チャッチャッチャッ♪
ヽ/ / く \ /
(ノ⌒'、)... 2011年(主日A年) 10月30日 年間第31主日
マラ 1:14b〜2:2b,8-10 Iテサ 2:7〜13 マタ 23:1〜12
「わたしは大いなる王で、わたしの名は諸国の間で畏れられている、と万軍の主は言われる。」(マラ v.14)
かつて宗教改革時代にルターが “万人祭司” を強調したために、これがまるでプロテスタントの主張ででもあるかのように誤解されて来ました。
しかし、先に述べたように教会憲章は、これを “信徒の共通司祭職” という言葉で再確認しました(Iペト 2:9、黙 1:6 参照)。
「祭司の唇は知識を守り、人々は彼の口から教えを求める。 彼こそ万軍の主の使者である」(マラ 2:7)という栄誉が、自覚と教養のある信者にも与えられる可能性があるのに、
実際にはしばしば教会で奉仕する無自覚な信者が 「教えによって多くの人をつまずかせ、レビとの契約を破棄してしまった」(マラ v.8)のを、私たちは見て来ました。
すべての司祭が、必ずしも知的なレベルや学識において信徒に勝っている訳ではないので、信徒や奉仕者のそのような逸脱を適切に処理出来ないでいることを、決して非難してはなりません。
彼らは学問や知識に特に優れているから司祭になったのではなくて、イエス・キリストによって小羊の牧者となるために召されたから司祭になったのです。
叙階の秘跡はその人に “消えない霊印” を与えたのです(カトリック教会のカテキズム p.481)。
高ぶるのではなくてへりくだり、しかも自ら熱心に “使徒的伝承” を学ぶ “神に仕える祭司”(黙 1:6)として、主が私たち信者一人一人を育ててくださいますように。
どうか間違った人間的熱心によって、自分が教会の “困った君” になることから、主が私たちを守ってくださいますように。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>148 >>145 >>136-137 >>133>>131 >>128-129 >>121
老クリスチャン 降臨
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( 老 と つ 老 ) 老栗 チャッチャッチャッ♪
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し' >>145 >>148
『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ キリスト教やヤーウェ(ユダヤ教)は不動明王に非常にだまされやすい。
西洋の分析では見抜けない所から、嘘おおげさ紛らわしい術他を不動は仕掛けてくる。
だから西洋が東洋の術を見破るにはKSAから東洋のよくよく仏陀になったものを何体もつれてこなくてはならない。
東洋でもアマテラスみたいに浅知恵だとだまされている。(例えば今まであたった霊媒師達が私のことを
こぞってわるくいってるのにひっかかていたが、それらは全員不動の術中にはめられてる者たちだった。)
釈迦もだまされていた?ことがある。
過去にキリストはだまされて神戸の地震をおこしてると霊媒師に何件も聞いたし、
ヤーウェは不動にだまされたまんま豊田にいやがらせをした。そしてだまされたまんま
どちらもこっちの邪魔をしてくる。だから不動はみんなおがんじゃいけないし
不動はもはや悪い方へ行ってしまったのではやく上の神仏が弁償大きくとって抹消しきらなきゃいけない。
イルミナティも不動のわけ御霊だといっていた霊媒師がいたので同じ。
今後もこんなことが続くようならクリスマスも祝って栄えるに値しない。
もちろん初詣も不動関係の神社には絶対いってはいけない。みんなつぶしあいになって
ダメにされてしまう。 >>156
宣教母体が違うとかだったような
日本福音ルーテル教会はアメリカ南部一致シノッド
日本ルーテル教団はミズーリシノッド 日本ルーテル教団の教会って、聖書は新共同約?新改訳? >>167
教会によると思う。
私は10年以上前にNRKからJELCに移ったから
今のNRKはわからないけれど。 >>168
ありがとう。そういうものなのか。
近所にルーテルを名乗る教会が出来たんだけど、
そこは聖書が新改訳だとHPに載ってたんだ。
牧師は日本ルーテル教団を退職して単立で開いたようで、
教団時代から新改訳使ってたっぽい。
地元の一番大きいルーテル教会は、礼拝案内見る限りだと
新共同訳のようだし「?」って思って。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています