ルーテル教会3 [無断転載禁止]©2ch.net
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'゙ //‖ i ヽ、\ 癶弋ヽ亠-勹'八_yヽ ` ー─‐‐ '" i l / ノ ├ 、__ ┼ヽ‐- 、`ヽY Y´!ヽ 丶 ノ '´ ト、├--r 、 (つづき) 教会は、ただ一度成し遂げられたキリストの永遠の贖い(ヘブ 9:12)を根拠に存在しているだけではなくて、復活して神の右に上げられたイエスがその体である教会の頭として、今もその御業を継続しておられる(エフェ 1:20-23)のです。 それは “時が満ちるに及んで完成される”(エフェ 1:10)終末的な “新しい時”(ロマ 13:11、IIコリ 5:17)に属しています。 この教会はこの世に存在していますが、この世には属していません(ヨハ 18:36)。 だからと言ってこの世に対して責任がない訳ではなく(ロマ 13:5-7)、ただ “この世の有様は過ぎ去る”(Iコリ 7:31)ことを知っているのです。 “わたしたちの本国は天にあります。”(フィリ 3:20) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>121 >>119 >>115-117 >>110 老クリスチャン 降臨 ┃ ┏━┃ ((;;;;゜;;:::::(;;: ∧__,∧ '';:;;;):;:)):).) . ┃┃ ━┏┛ ┏━┃ ━(((; ;;:: ;:::;;⊂(`・ω・´) ;:;;;,,))..).)━━┛ ┃┃ ━┏┛ ┛ ┃ ((;;;:;;;:,,,." ヽ ⊂ ) ;:;;))):..,),)).:) ┛┛ ┛ ┛ ("((;:;;;(;:: (⌒) |. .どどどどど・・・ ┛┛ 三 ` 2005年(主日A年) 10月23日 年間第30主日 出 22:20〜26 Iテサ 1:5〜10 マタ 22:34〜40 寡婦や孤児と並んで寄留者を同胞と同じように愛せよという律法の命令には、「あなた達もエジプトの国で寄留者であった」(申 10:19)、 「あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない」(申 5:15)という理由が付いていました。 彼ら寡婦や孤児が贖われた民に属しており、あるいはその民の中に生活しているということが前提とされていたのです。 「あなたの神である主を愛しなさい」 「隣人を自分のように愛しなさい」 という聖句の前提になっているものは、「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」(使 20:28)であることを、現代のキリスト者は再発見しなければなりません。 「御言葉」(Iテサ v.6) 「主の言葉」(Iテサ v.8) とは、使徒パウロが 「私たちの福音」(Iテサ v.5) と言っているもののことです。 この福音が 「力と、聖霊と、強い確信とによって」(Iテサ v.5)テサロニケの町に伝えられて行ったとき、これを受け入れた人々は 「偶像から離れて神に立ち帰り、 ・・・・・ (来るべき怒りから私たちを救ってくださる)御子が天から来られるのを待ち望むようになった」(Iテサ vv.9-10)と書かれています。 (つづき) 聖書を自ら読もうとしない多くの人々は、それが永遠の真理である格言や理念を集めた教訓集であるという先入観に陥っています。 そのような人々にとっては、「御言葉」(Iテサ v.6) 「主の言葉」(Iテサ v.8) とは単なる普遍的な “教えの集成” のように思えるに違いありません。 しかし、「信仰の創始者また完成者であるイエス」(ヘブ 12:2)は、再び私たちが福音を聞き、神の国の相続人である教会、すなわち “キリストの体” を造り上げる(エフェ 4:12)生きた石(Iペト 2:5)となるために、 聖書を通し、感謝の祭儀を通して、今朝も語っておられるのです。 聞いている耳は幸いです(マタ 13:16)。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>128-129 >>121 >>119 >>115-117 老クリスチャン 降臨 ┃ ┃━┓ ハ_ハ. ┃┃┃ ┗┓━ ┃━┓ ┗━━('(゚∀゚∩━━━━ ┃┃┃ ┗┓━ ┗ ┃ O,_ 〈 ┗┗┗ ┗ ┃ `ヽ_)゚ ┗┗┗ 2008年(主日A年) 10月26日 年間第30主日 出 22:20〜26 Iテサ 1:5〜10 マタ 22:34〜40 使徒パウロはテサロニケの町で、「メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」 と、また、「このメシアはわたしが伝えているイエスである」 と、福音を語りました(使 17:3)。 そして、「力と、聖霊と、強い確信とによって」(Iテサ v.5)御言葉を受け入れたテサロニケの信者たちは、「偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになり」(Iテサ v.9)、更にまた、御子の再臨を待ち望むようになりました(Iテサ v.10)。 この 「わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたイエス」(ロマ 4:25)を信じる信仰によって、 テサロニケの信者たちは生活し、同じ信仰に生きる仲間たちへの愛のために労苦し、キリスト再臨への希望を持って忍耐していました(Iテサ vv.3,8)。 このような人々の間で、 “神を愛し、隣人を愛する” ということが、どのような意味で理解されていたかを私たちは聖書から学ばなければなりません。 >>128-129 『老クリスチャンの長文コピペについて』 (1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。 (2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。 (3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。 そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。 (4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。 (5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。 (6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。 (7)まったく読む必要はない。 (8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。 (9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。 (10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。 (11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。 (12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。 (13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。 (14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。 (15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。 (16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。 (17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。 (18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。 (19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと 老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。 (20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。 【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】 http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ (つづき) 聖書を読んだことも学んだこともない人たちが口にする、ただの道徳訓としての “敬神愛人” が、キリスト教文化の標語のように思われて、既に久しい時が経ちました。 そして多くのキリスト教信者も、実際それに何の違和感も抱いていないように見えるのです。 しかし、「神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか」(エフェ 1:18)を悟ることなしに、 原始教会の人々が抱いていた “神を愛し、隣人を愛する” という信仰と倫理を、私たちが共有することは出来ないのです。 神を愛し、隣人を愛しているテサロニケの信者たちへの、使徒パウロの激励の言葉は次のようなものでした。 「そして、わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように、アーメン。」(Iテサ 3:13) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>131 >>133 >>128-129 >>121 >>119 老クリスチャン 降臨 ┃ ┃━┓ ┃┃┃ ┗┓━ ┃━┓ ┗━━━━━(゚∀゚)━━━━. ┃┃┃ ┗┓━ ┗ ┃ ┗┗┗ ┗ ┃ ┗┗┗ 2014年(主日A年) 10月26日 年間第30主日 出 22:20〜26 Iテサ 1:5c〜10 マタ 22:34〜40 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」(マタ v.36) 日本語の翻訳聖書が一貫して、旧約聖書のトーラーおよび新約聖書のνόμοςを “律法” と翻訳して、世間における各種の法律一般から区別しようとして来たことに注目しましょう。 と言うのは、残念なことに殆どのキリスト信者が旧約聖書における律法についても、新約聖書が述べている新しい掟(Ἐντολή)やキリストの律法(νόμος)についても、その独自の意味を知らないでいるからです。 しばしば誤解されて来たように、それは一般社会における正義や道徳の規範とは次元の異なるものであります。 ですからこれをそのまま世界に通用する法律のように考えたり、場合によってはこの世の法律に対抗するより高度な指針であると解釈するのは、聖書そのものの本来の主張ではないのです。 旧約聖書におけるトーラーとは、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出 20:2)、「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である」(申 7:6)という前提に立ってイスラエルの民に与えられたものでありました。 ですからこの前提を知らないで、あるいはこの前提から切り離して、いわゆる一般論として 「どの掟が最も重要でしょうか」 と尋ねるのは、見当外れなことなのです。 (つづき) 同様に教会はキリストの血によって贖われ、罪を赦された者たちの共同体であって、そのような神の国の相続者である新しいイスラエルのために、「互いに愛し合いなさい」 という “新しい掟”(ヨハ 13:34)が与えられているのです。 ところがこの前提を無視して、聖書を一般教養書のように自らも読み、他人にも “良いことがたくさん書いてある本” として推薦している中に、いつの間にか現代の教会は “信仰” という骨格を失ったただの文化団体のようなものに形骸化してしまいました。 “神である主を愛し、隣人を愛する” ということが、私たちが主日毎にささげるミサの体験そのものでないとしたら、それは私たち一人一人がクリスチャンであるとは名ばかりで、“ただの人” “肉の人”(Iコリ 3:3)に過ぎないということです。 福音書というものの成立の背景が、初代教会のカテケージスであって、「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい」(Iペト 2:5)という奨めのために編集されたということを理解しましょう。 主が私たち信者一人一人を憐れんで、“キリストの体を造り上げていく”(エフェ 4:12)情熱を、もう一度与えてくださいますように。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 人間が奴隷であることは論証済みで、自覚済みだよな。 >>136-137 >>133 >>131 >>128-129 >>121 ∧_∧ 老クリスチャン 降臨 ( ・∀・)/ヽ ノ つつ 老 ) 老栗 チャッチャッチャッ♪ 老栗 チャッチャッチャッ♪ ⊂、 ノ \ノ し' ○____ || | || 老 栗. ! || | || ̄ ̄ ̄ ̄ / ¨>.|| 今ここに .厶/ww|| 侵略の旗を ノリ ^ヮ^ || 立てるでゲソ ヽ つ0 ,、 、、 ; 、、、、 , ,、 ,、 ヽ 〜ヽノ , 、 `〜ヽ ,〜 ' 、、、、 、 >>141 ルター派と改革派以外の分派が宗教改革を我が物のように祝うのを許すな! バプテスト、メソジスト、福音派、聖霊派、など。こいつら分派から分派した連中でしょ? こいつら宗教改革なんてしてないからw 2002年(主日A年) 11月3日 年間第31主日 マラ 1:14〜2:10 Iテサ 2:7〜13 マタ 23:1〜12 使徒パウロはテサロニケの教会の人々が、彼の伝えたキリストの福音を神のことばとして受け入れたことを、大いに感謝しました。 福音は力と聖霊と強い確信とによって(Iテサ 1:5)、テサロニケの信徒たちの中に働いていました(Iテサ v.13)。 彼らは偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになった(Iテサ 1:9)ばかりでなく、更にまた、御子キリストが終末の日に天から来られるのを待ち望むようになりました(Iテサ 1:10)。 「あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、父親がその子供に対するように、あなたがた一人一人に呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧めたのでした。 御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます。」(Iテサ vv.11-12) 私たち教会は、この使徒たちが伝えた福音を再び聞くこと、受け入れること(Iテサ v.13)、これを信仰生活のよりどころとすること(Iコリ 15:1)を今朝呼びかけられています。 しかしこのことは、福音を語る者にとっても聞く者にとっても、共に 「激しい苦闘の中で」(Iテサ 2:2)なされねばならないことを歴史は教えています。 そして歴史は私たちにとって、現在を写す鏡の役割りを果たします。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>145 >>136-137 >>133 >>131 >>128-129 >>121 >>119 老クリスチャン 降臨 ∧_,,∧ 老栗 チャッチャッチャッ♪ . /\. (`・ω・´) /ヽ | 老 ⊂ ⊃ 老 | 老栗 チャッチャッチャッ♪ ヽ/ / く \ / (ノ⌒'、)... 2011年(主日A年) 10月30日 年間第31主日 マラ 1:14b〜2:2b,8-10 Iテサ 2:7〜13 マタ 23:1〜12 「わたしは大いなる王で、わたしの名は諸国の間で畏れられている、と万軍の主は言われる。」(マラ v.14) かつて宗教改革時代にルターが “万人祭司” を強調したために、これがまるでプロテスタントの主張ででもあるかのように誤解されて来ました。 しかし、先に述べたように教会憲章は、これを “信徒の共通司祭職” という言葉で再確認しました(Iペト 2:9、黙 1:6 参照)。 「祭司の唇は知識を守り、人々は彼の口から教えを求める。 彼こそ万軍の主の使者である」(マラ 2:7)という栄誉が、自覚と教養のある信者にも与えられる可能性があるのに、 実際にはしばしば教会で奉仕する無自覚な信者が 「教えによって多くの人をつまずかせ、レビとの契約を破棄してしまった」(マラ v.8)のを、私たちは見て来ました。 すべての司祭が、必ずしも知的なレベルや学識において信徒に勝っている訳ではないので、信徒や奉仕者のそのような逸脱を適切に処理出来ないでいることを、決して非難してはなりません。 彼らは学問や知識に特に優れているから司祭になったのではなくて、イエス・キリストによって小羊の牧者となるために召されたから司祭になったのです。 叙階の秘跡はその人に “消えない霊印” を与えたのです(カトリック教会のカテキズム p.481)。 高ぶるのではなくてへりくだり、しかも自ら熱心に “使徒的伝承” を学ぶ “神に仕える祭司”(黙 1:6)として、主が私たち信者一人一人を育ててくださいますように。 どうか間違った人間的熱心によって、自分が教会の “困った君” になることから、主が私たちを守ってくださいますように。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>148 >>145 >>136-137 >>133 >>131 >>128-129 >>121 老クリスチャン 降臨 ∧_∧ 老栗 チャッチャッチャッ♪ /\( ・∀・)/ヽ ( 老 と つ 老 ) 老栗 チャッチャッチャッ♪ \/⊂、 ノ \ノ し' >>145 >>148 『老クリスチャンの長文コピペについて』 (1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。 (2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。 (3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。 そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。 (4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。 (5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。 (6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。 (7)まったく読む必要はない。 (8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。 (9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。 (10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。 (11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。 (12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。 (13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。 (14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。 (15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。 (16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。 (17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。 (18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。 (19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと 老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。 (20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。 【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】 http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ キリスト教やヤーウェ(ユダヤ教)は不動明王に非常にだまされやすい。 西洋の分析では見抜けない所から、嘘おおげさ紛らわしい術他を不動は仕掛けてくる。 だから西洋が東洋の術を見破るにはKSAから東洋のよくよく仏陀になったものを何体もつれてこなくてはならない。 東洋でもアマテラスみたいに浅知恵だとだまされている。(例えば今まであたった霊媒師達が私のことを こぞってわるくいってるのにひっかかていたが、それらは全員不動の術中にはめられてる者たちだった。) 釈迦もだまされていた?ことがある。 過去にキリストはだまされて神戸の地震をおこしてると霊媒師に何件も聞いたし、 ヤーウェは不動にだまされたまんま豊田にいやがらせをした。そしてだまされたまんま どちらもこっちの邪魔をしてくる。だから不動はみんなおがんじゃいけないし 不動はもはや悪い方へ行ってしまったのではやく上の神仏が弁償大きくとって抹消しきらなきゃいけない。 イルミナティも不動のわけ御霊だといっていた霊媒師がいたので同じ。 今後もこんなことが続くようならクリスマスも祝って栄えるに値しない。 もちろん初詣も不動関係の神社には絶対いってはいけない。みんなつぶしあいになって ダメにされてしまう。 >>156 宣教母体が違うとかだったような 日本福音ルーテル教会はアメリカ南部一致シノッド 日本ルーテル教団はミズーリシノッド 日本ルーテル教団の教会って、聖書は新共同約?新改訳? >>167 教会によると思う。 私は10年以上前にNRKからJELCに移ったから 今のNRKはわからないけれど。 >>168 ありがとう。そういうものなのか。 近所にルーテルを名乗る教会が出来たんだけど、 そこは聖書が新改訳だとHPに載ってたんだ。 牧師は日本ルーテル教団を退職して単立で開いたようで、 教団時代から新改訳使ってたっぽい。 地元の一番大きいルーテル教会は、礼拝案内見る限りだと 新共同訳のようだし「?」って思って。 キリスト教の人々は邪神不動明王に非常にだまされやすい!あなた方が吹き込まれて悪だと思ってるものは 善人で不動明王が実は本当の古代から続いてる古代から騙してる悪なのです。その洗脳をさっさとどけ、 自主的に弁償してくること。さもなくば強制的に3倍ぐらい弁償を取られて抹消されるでしょう。 初詣は成田山や不動明王神社へは絶対行ってはいけません! 参考サイト ttp://www.nskk.org/hokkaido/site-list2.html 2009年月(主日B年) 2月8日 年間第5主日 ヨブ 7:1〜7 Iコリ 9:16〜23 マコ 1:29〜39 「イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して・・・・ 」(マコ v.33) 「そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。」(マコ v.39) イエスの宣教は、神の国の開始でありました。 初期のガリラヤ伝道におけるイエスを、永遠の知恵の真理を群衆に教える高貴な魂を持った教師のように想像するなら、それは間違っています。 聖書に書かれている奇跡や教えを割引して考え、これをおとぎ話のように読むときにだけ、そのようなイエス像が出現して来ます。 今朝の福音書のテキストからは、神の国が悪霊の支配に対する戦いであり、イエスが攻撃の先頭を切って進んで行かれる様子が、非常に明確に読み取れます。 神の国の王は父であって、イエスが御自身の祈りの中で 「アッバ、父よ」(マコ 14:36)と呼ばれた方です。 (つづき) 「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」(マコ v.35) イエスは、神がすべての人の父であるとは教えませんでした。 19世紀の自由主義的な聖書解釈者が主張した “神はすべての人の父であり、人はみな兄弟である” というのは、イエスの教えではありません。 イエスは神を自分の父であると語り、人々には 「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことは出来ない」(ヨハ 14:6)と教えました。 主の復活と昇天の後、父と子と聖霊の名によって洗礼を受ける人々には神の子とする霊が注がれて、人は 「アッバ、父よ」 と呼ぶようになりました(ロマ 8:15、ガラ 4:6)。 父なる神が歴史に外側から介入して、悪魔の支配から御自分の民を救い出して行かれる、それが御子イエスの宣教と御業でありました。 ですからヨハネは、ずっと後になって、イエスの生涯を振り返って、「悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです」(Iヨハ 3:8)と書きました。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 知恵袋より引用 キリスト教徒の皆様にお伺いします。 以下にご紹介する動画の内容について、どう思われますか? Ken Peters 患難を見たパート@ https://m.youtube.co.../watch?v=JF5w_RPdqz0 Ken Peters 患難を見たパートA https://m.youtube.co.../watch?v=b3QahaVjS48 Ken Peters 患難を見たパートB https://m.youtube.co.../watch?v=GLHJCE-4yeg キリスト教でも宗派によって、聖書を字句通りに読む方、それとは異なった解釈や読み方をする方の両タイプが存在すると思います。 どちらの方からも、ご意見を伺いたいと思います。 この動画はたまたまYouTubeで見つけました。各パートが約20分程度です。 きちんとしたスーツ姿の紳士が聴衆相手に講義する映像のみですが、内容的に一気に見ることができました。 2012年(主日B年) 2月5日 年間第5主日 ヨブ 7:1〜7 Iコリ 9:16〜23 マコ 1:29〜39 「わたしの一生は機の梭よりも早く、望みもないままに過ぎ去る。」(ヨブ v.6) “女は苦しんで子を産み、男は額に汗してパンを得る” と創世記が語っているように、私たちの人生には困難と苦労と病や災いが満ちています。 それらへの対処は当然必要なものであり、例えば今日の高福祉社会もその解決のために生まれました。 ヨブ記の結論を、あなたはご存じですか。 「ヨブは主に答えて言った。 わたしは軽々しくものを申しました。 どうしてあなたに反論などできましょう。 わたしはこの口に手を置きます。 ひと言語りましたが、もう主張いたしません。 ふた言申しましたが、もう繰り返しません。」(ヨブ 40:3-5) 福音を聞いた人だけがこのように語り、また私たちキリスト者は、人々が 「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」(ロマ 7:25)と言うようになるために、福音を宣教するのです。 教会の福音宣教は、地上に理想の世界を作り出す人間の企画のようなもの(Peace and Happiness through Prosperity)ではないのです。 「見よ、わたしはすぐに来る。」(黙 22:7,12) 「主はもうすぐ来られます。」(フィリ 4:5/フランシスコ会訳) 「アーメン、主イエスよ、来てください。」(黙 22:20) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____ /c c c\// / c c /V / ̄ ̄\ c /- | /Φ Φ\/- / | o ‥ o | -/ \__(__人__)__/ ̄ 人 ____ /c c c\// / c c /V / ̄ ̄\ c /- | /Φ Φ\/- / | o ‥ o | -/ \__(__人__)__/ ̄ 人 来週は灰の水曜日ですね 皆さんの教会は灰をつける儀式はありますか llllll!゙,lllllll!!゙ ., .l,,、__、 .゙!llllllllllllllllllll, .,llllll! ` ) .,、゙゙!!!!!!llァ '゙llllllllllllllllllll, .llllll",iiillllliii! ." .,/" .,,,,,,,,_ .゙llllllllllllllllllli、 .llll! .'゙゙ .゙゙′ ,(´ '!!゙゙゙゙!lllllii,, .゙゙゙!llllllllllllli、 .lll゙ ″ ゙゙゙″ .llllllllllllll ,ll、 .,/ ヽ,、 ,llllllllllll! 阿出川 ./`| l',,,,, ,,,,, ) lllllllllll! ギャハッ!・トホホ・今日の阿出川でした・スーツスタイル・ぎゃふん・ガハハ・自分にご褒美・ビュンビュン .| | .,l゙゙゙゙゙'''゙゙゙゙'''ソ″ ll!!゙゙!l゙ .l゙ .ト'" .'" ゙l l` ゙l | .| .,rニニ,,,"''i,,_ .i、 l゙ ,l゙ .‖ [` ゙''''''リ ''''''') ,/ .| .゙'―---.'" ,i´ l゙ │ l-''"′ ノ人ヾ\゙ ー‐ -イ ∧_∧ / \ ( )何言ってんだ?このチビ .__| | / ヽ ||\  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ / .| | | ||\..∧_∧ (⌒\|__./ ./ >>153 老クリにもっともふさわしい言葉は 「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を 欺いています。」(ガラテヤの信徒への手紙6−3) 聖書等から色々引っ張り出してさも神学に精通しているかのように振る舞っているが、キリスト教 の本質など微塵も理解していない。論語読みの論語知らずならぬ聖書読みの聖書知らずだな。 似たような例として野菜爺がいる。救われない爺さん達だ。自分自身を欺むき続けて朽ちてい けば良い。 牧師は、当然一週間、主日に備えて祈るんだろうけどその間お金を儲けることは難しい、、、いろんな理由をつけてお金を信徒から巻上げる算段をする牧師までもいる。 そりゃ、牧師や宣教師だって人間だから家族を支える為に必死だ。時には伝道集会や講演会などの理由・名目で献金を募りこっそりかなりな額の上前をはねる。 教会の役員をしていたので知ってるが、そのような悪事は既成教会より福音派などを謳うが実は個人商店化しカルト化した教会に多い。 宗教法人にすると公に会計書類を提出する必要も限りなく無いに等しいし(営利事業は別)、当然、有っても役員に現世的利益をちらつかせ、その目やその信徒さえ誤魔化せば良い。 これは忌々しきことだが現実で、神さまはそんなパリサイ化した指導者の状況を永遠に許すわけが無い。 少なくても牧師の衣を借るそのような教会関係者は無意味な事をしてる事に気がついていないか(気がつく義務は有る)、 気がついているとしたら、神さまは居ないから現世のうちに大胆に周囲を騙し、金を献金という名目で巻上げる、、、と腹をくくったか。 大半が後者だろう、神さまの前では言い訳は利かないのは当然だ。 キリスト教を騙り信仰を悪用した泥棒である。神殿の中で堂々と商売をしてるわけである。 自分だけは楽をして信徒には負いきれない重荷を押し付ける、自分の栄誉・宣伝のために意味の無い苦行などを強いるなど、あの手この手だ。 カトリック教会の修道士などは清貧を義務づける修道会も有るのはそういった現実的な意味も有るからだ。 現世と隔絶した生活、当然現世のままを享受するのは不適切と考える修道会が出てきてもおかしくはない。 社会的にもすばらしい業績を残すだけではなく、多くのものが信仰に導かれている。 一部の福音派と呼ばれる教会の中にはそれを非難しそんな肉的な行為で信仰に導かれるのではないと言う。 しかし、そんな戯言を言うのは、ただ、愛がないだけである。つまり、神さまから愛されていない、呪われた頭でっかちの牧師が言う事だ。 一度、献金した金品は法律的にも返還請求するのは難しい。 少しでも疑問が有るのなら、そういった牧師から離れその教会も去ることだ。 それは不信仰なことではなく、神さまに対しても素直なことである。 この日本でも、他にもすばらしい信徒の群れはたくさん有る。 京大卒 新霊山教会の前牧師後藤さんは何処に赴任されていますか? 2009年(主日B年) 5月24日 主の昇天 使 1:1〜11 エフェ 4:1〜13 マコ 16:15〜20 「この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりもさらに高く昇られたのです。」(エフェ v.10) キリストの教会は、ある意味で最初からカトリック教会として成立したと言うことが出来ますが、 いわゆる聖職位階制度とローマ教皇の首位権が確立した中世以来、それは神の民の総体としてよりも、むしろ実質的には司教団の総体として理解される傾向がありました。 しかし、第二バチカン公会議はその教会憲章において、次のように明言しました。 “地上のすべての国民の中に神の一つの民が存在している”(13)、“キリストのこの教会は信者の正当なすべての地方的集団の中に真実に存在する”(26)。 そして聖職位階の任務を説明した後に、“神の民について言われたすべてのことは、信徒、修道者、聖職者に平等に向けられている”(30)と述べています。 昇天されたキリストは今も、歴史の教会の中で継続して 「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされ」(エフェ v.11)ることによって、キリストの体を造り上げてゆかせてくださるのです。 ですから私たちは、教会を造り上げてゆくのは教導職の仕事であって、自分たちの仕事ではないなどと考えてはなりません。 キリストは信者一人一人を 「生きた石として用いて」(Iペト 2:5)くださるからです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より オレゴン 西海岸の中でイケテナイ州だから。黒人がかなり少ないが、これも黒歴史の影響。 メディアでこんだけ騒がれてるオレゴンのポートランドも、 実際はホームレスで溢れかえってるし、多様性とか謳ってるが、極左の街で偏り過ぎで危険だ。 ポートランドがクールだとメディアに踊らされてるのに、眼を覚ますべき。サイトとかでポートランド 最高とか記事書いてるやつも未熟な奴が多い。もっといい街はあるし、日本もいいよ。 ポートランドなんて、アメリカじゃ中都市でも日本の都会とは比較の対象にならんほどド田舎。 マリファナ合法でホットヘッドだらけ。自由だの平和だの間の平等だの叫ぶしか脳がなく、 現実逃避してる人間が集まってる。あそこまでエコだともうエゴの境地だ。 その他の街は、レッドネックだらけ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる