婆子焼庵(ばすしょうあん)

>  むかしむかい あるところ、ひとりの老婆が修行の僧に草庵(いおり)を建ててやり、仏道修行が成就(じょうじゅ)するようにと何くれとなく面倒を見ていました。
出家の僧を供養するのは信者のつとめでもあります。

老女は若い女性に命じて僧の世話をしておりました。

 さて長い年月も経ち、ある日老婆は 自分の孫娘に 「あの修行僧も相当修行も進んで力量も出来てきただろう。 ここでひとつ、お坊さんのところにいって誘惑してみよ」 と言いつけました。
 言われた通り孫娘は修行僧に抱きついて、懇ろ(ねんごろ)な言葉(だんじょかんけい)を かけてみました。

すると、僧は決然として孫娘をつきとばし 「枯木寒厳に倚って、三冬暖気なし」(こぼく かんげんによって だんきなし) と言い放ちました。

つまり、その僧は「触るでない!女などに興味はないぞ。私は冬の巌にたつ枯れ木のように、私の心は少しも動かない」といい、娘の手を払いのけたというんです。

 老婆は娘の話を聞いて、たいそう怒って、修行僧を庵から追い出してしまった。 それだけでは足りず、老婆は草庵まで焼きはらってしまった.』

 白隠禅師は、弟子のひとりが得意そうに 「私なら、その場で抱いてしまいます」 と言い放ったのを聞いて、即座に破門にした。 』


⇒ これは公案である。問答である。問いがあり、答えがある。

この僧は長い年月、老婆の供養を受け、師も無くひとりで、どういう修行をしてたのだろうか。
独坐大雄法(どくざだいゆうほう)、この公案に参禅していたのだろうか。
具体的な事には触れていない。

では、長い年月の修業の中身が、答えが、「枯木寒厳に倚って、三冬暖気なし」(こぼく かんげんによって さんとう だんきなし)で、こんな修業の結果としての答えでで、よいのか、と問うている。

まず、男女など、何処にある、
人間でござい、など、笑止である。
生きとし生けるもの、
抱くも抱かぬも無い、おのれ自身ではないか、
そのおのれ自身も一の如しである。
女が絡むと、老婆、娘にかかわらず、とんでもない 話しになるのが、不思議も不思議。