>>64 Ann ちゃん

> ポッたんに「坐禅せよ」と言うのは無駄。 まったく坐禅はしない人ポッたん。 公案オンリー。 』

sどれは、悪意を持っての事だろうか。

お行儀、お作法の宗派、曹洞宗の プリーズシッダン狂徒ではないが為の誹謗中傷なのか、○○坦に直接、さとりが半分だよ、と指摘したことへの反感があっての事なのだろうか。

以前から何度個書き込みをしている事だから、
改めて言うのも、どうか、と思うが、どうしても恣意的に捻じ曲げて言いたい者も居るので、
書いてみよう。
わたしは、50歳半ば頃、股関節を傷めてしまった。
それで、わたしは、いす禅である。

禅に至ったのは、片手の公案に出合い、取り組み、片手の拍手を聞いたことに始まる。
だから、公案は、わたしを真理さとりへと全面に展開させてくれた。

たとえば、お座り、お手のひとであった○○坦も井戸のふたの上に座って、井戸の底からの赤竜と対峙した、と言ってたな。
それが、どのような公案なのか、語る事が無かったので知る由もないが、「騒動衆 そうとうしゅう}は、従容録(しょうようろく)にとりくむようだから、
従容録(しょうようろく)のどこかの章だろうか。

曹洞宗の言うさとりとは、何か、
と思い、取り組んだ事がある。
○○坦が出入りしていた頃の事である。
それは戦術で言う「一点突破 全面展開」 と言うべきものだった。
スカッとしたものである。

只管打坐とは、当時の中国において臨済宗の禅僧たちの形式に陥った公案禅に対抗してのお座りしない、だった。
また、中国人同様に
話し、掻けた道元は、話頭(わとう)をきょくたんにきらい、漢字で表現せよ、との 文字禅 の信奉者であった。

道元が夜坐で、隣の僧が昼間の激しい修行からか、座睡したのを見た如浄禅師が、履いていた皮のスリッパを脱ぎ、手に持って、激しく打ち据えた音を聞いてさとった、と言う。
片手の公案である、と言える。
それ以来、道元は、マブダチである。

朝晩は、冷えるな、風邪ひきさんも、多い。
風邪ひくなよなー