三位一体論のような理屈の通らない詭弁が無ければ、キリスト教徒はユダヤ教のセクトという立場から抜け出せないのでしょう。
三位一体論だけでなく、新約聖書の編纂にだって正当性など無いと思います。
権力と癒着した教団が、都合の良い文書を残し、都合の悪いものを異端と決めつけ葬り去っただけでしょう。
論理が優れているから、三位一体論が勝ち残ったということはまったくないと思います。

ただ、帝国の権力と教団の権威に都合の良い論理だから、不条理な、無意味な馬鹿馬鹿しい三位一体論を採用したのでしょう。

宗教の教義の正当性を議論する会議が、ローマ皇帝によって開催されたということ自体、キリスト教団が権力と共犯関係であった事実を証明しているのです。