日本もキリスト教を盛んにしようよ。 [無断転載禁止]©2ch.net
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札幌人、篠路高校の教師どもはよくも俺をナメてくれたな、悪魔どもよ
必ずや、地獄に叩き堕とし過去、未来で一番地獄で重い刑罰を受けさせてやるからな
地獄で生まれてきたことを後悔しな ____
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人 2012年(主日B年) 4月8日 復活の主日
使 10:34〜43 コロ 3:1〜4 ヨハ 20:1〜9
「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」(ヨハ v.9)
教会では毎年この日にみなさん “イースター、おめでとうございます” と挨拶します。
英語のイースターカードの決まり文句は “Happy Easter” です。
でも、何がおめでたいのか、なにが Happy なのか、ほとんどの信者はあまり実感がない ・・・・・、それでこの挨拶に気恥ずかしい思いを持ったりします。
さて、今朝の福音のテキストには何かおめでたい、何か Happy なメッセージが語られているでしょうか。
そこに書かれているのは、墓が空だったという事実だけであり、しかもその最初の発見者である婦人は、これをてっきり墓荒らしの仕業だと判断しました(ヨハ v.2,20:13)。
それは何も護教的、あるいは教育的な手が加えられる以前の、あるがままの事実の伝承であると受け取るのが正しいのです。
イエスが復活したのは本当だったとか、だからキリスト教は本物の宗教なのだ ・・・・・ などという説明のために、この伝承があるのではないという冷静な判断が大切であるように思われます。 (つづき)
原始教会では、洗礼志願者のためにも信者たちのためにも、その教育の中で主イエスの復活が当然語られていました。
「神はこのイエスを復活させられた ・・・・・ 、このイエスを神は主とし、またメシアとなさった」(使 2:32,36)、
「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられた」(ロマ 4:25)、
「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています」(IIコリ 4:14)。
原始教会の信仰は使徒たちによる “この事実の証言” の上に成り立っていたのであって、単なる復活という不思議な出来事の科学的証明の上に成り立つ虚構ではありませんでした。
最初に空の墓を見た二人の弟子は、そのときまだ神の御業を何も理解していませんでした。
しかし今、その信じている福音の出来事が、歴史の中の出来事であった ! ということが、原始教会における使徒たちの宣教の生々しい原動力となったに違いないことを、私たちは理解しなければなりません。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
「あなたには、わたしをおいてほかに教師があってはならない。」
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人
>「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声を上げ、
>涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ」(ヘブ 5:7)
>と書かれている 「御自分」 とは、“私たち罪人に代わっての御自分” であったことを(Iペト 2:24)、
>そして 「わたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」(イザ 53:6)という十字架と復活の出来事を、
>あなたはまだ信じていないのですか。
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>私たちが毎週ミサで唱える信条の中の、
>「主は、生者と死者を裁くために、栄光のうちに再び来られます」
>という条項の重要性を、あなたはこれまで真面目に考えて来たでしょうか。
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「わたしがキリストに倣う者であるように、
あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」 >>1
日本でキリスト教を信じているのは馬鹿かチョン
68 :老クリスチャン:2018/03/29(木) 11:58:19.82 ID:MCk58KaU
>> 62
今年末に刊行予定の 「聖書 聖書協会共同訳」 の実例集によると、出3:14 の “エヘイェ” は 「私はいる」 となっています。
ヨハネ福音書におけるイエスの言葉 「エゴー・エイミ」 を、神顕現の言葉としてではなくて、「父=御子イエス」 つまり 「同一」 と理解するのは、神学を学んでいない素人の屁理屈に過ぎません。
キクンケ・ウルト(通称アタナシウス信条)を、現代の素人の知恵でバッサリ切り捨ててしまうような連中だけが、そんな屁理屈を大真面目に主張して粋がっているのです。
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1521793664/68
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\ \_| / 。 2003年(主日B年) 4月27日 復活節第2主日
使 4:32〜35 Iヨハ 5:1〜6 ヨハ 20:19〜31
「そう言って、手とわき腹とをお見せになった。 弟子たちは、主を見て喜んだ。 イエスは重ねて言われた。 “あなたがたに平和があるように。 父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。”」(ヨハ vv.20-21)
初代教会の理解によれば、使徒とは次の二つの意味でキリストの証人となった人々でありました。
先ず彼らは、ヨハネの洗礼から始まって、主の復活と昇天に至る歴史上の出来事の目撃者でありました(使 1:21以下 参照)。
言うまでもなく各々の使徒がすべての出来事の目撃者ではありませんでしたが、彼らは互いに他の使徒を頼りにすることによって、主の復活の証人としての “使徒団体を構成(教会憲章 22)” していました。
第二に使徒とは、復活の主御自身から直接福音を委ねられ、これを宣べ伝えるために派遣された人々でありました。
この使徒たちによるキリストの福音の宣教こそが、キリスト教の起源であったという非常に明確な事実を、現代のキリスト者は自ら聖書を読むことによって理解することが大切です。
彼らの福音理解は彼らが自分自身で考え出したものではありませんでした。
そうではなくて復活の主が彼らに現れて、彼らにキリストの福音を理解させ、これを宣べ伝えるために彼らを派遣したのです。 (つづき)
ですから聖書の記述に従えば、復活祭から聖霊降臨祭に至る非常に短期間に使徒たちによるキリストの福音の宣教内容が形成され、最初の共同体が誕生したのでした。
「使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。」(使 v.33)
教会は、この使徒たちの宣教の上に建てられました。
その後の歴史の教会が展開して行った福音宣教にとっても、使徒たちは復活のキリストによって権能を与えられた目撃証人として、特別な位置を占めています。
なぜなら使徒後の時代の教会の宣教は、使徒たちから受け継がれたものであって、その規範は常に最初の使徒たちに属しているからです。
2世紀の教会が新約聖書正典を編纂した重要な動機の一つは、このような使徒たちの宣教の規範性を保つことでありました。
神の啓示に関する教義憲章(10)は、現代の教会が “使徒たちから伝えられたこと” を知る正当な手段を説明して、これを聖伝と聖書に限定しています。
・・・・・ 以下、本文参照。
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† 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。
そして、そこから入って行く者が多いのです。
(新約聖書 マタイの福音書7章13節)
-- 2006年(主日B年) 4月23日 復活節第2主日
使 4:32〜35 Iヨハ 5:1〜6 ヨハ 20:19〜31
かつてある共産主義系の学者たちはこのテキスト(使 4:32〜35)を解釈して、原始キリスト教は社会革新運動であった、イエスはプロレタリアートの解放者であったと主張しました。
ラテンアメリカにおける抑圧と貧困に対する抵抗から生まれて、現在も発展中の “解放の神学” も、これに類似した傾向を強く示しています。
しかしこのテキストは、エルサレム教会でその初期に、それも一時期だけ見られた特殊な現象を伝えているに過ぎず、このような共同生活はユダヤの教会にも異邦人の教会にもその後引き継がれることなく、早晩消え去ったものでした。
使徒言行録が強調しているのは、使徒たちによるキリストの福音の宣教が、力強く進められて行ったことでした。
エルサレム教会における信者の共同生活が、宣教活動の重荷となることを防ぐために、七人の奉仕者が選任されましたが、彼らも奉仕だけに終始し得ず、間もなく使徒の後を追って福音の宣教に邁進したのでした(使 6-8章)。
私たちはその中のステファノとフィリポについてのかなり詳しい記述を読むことが出来ます。
教会は使徒たちの宣教、使徒たちに起源する福音の宣教に耳を傾ける人々の増加に伴って成長し、確立して行きました。 (つづき)
私たちが知っているように、代々の時代の司教たちは使徒たちの後継者と呼ばれて来ました。
“彼らは使徒の後継者であって使徒ではない” という当然の事実に、私たちはもう一度注目する必要があります。
彼らは、教会がいつの時代にも “使徒たちの宣教” に耳を傾けるように奉仕する役務を受けたのであって、それによって代々にわたって 「使徒的伝承が全世界に表され、守られている」 と、教会憲章(20)は教えています。
それは聖職位階にある人々の栄誉であると言ってよいでしょう。
さらに、使徒たちに起源する福音の宣教が教導職だけのものであって、信徒には関係のないことと誤解される傾向があることに、注意を喚起する必要があります。
教会憲章は 「信徒の使徒職は教会の救霊活動そのものへの参与であり、すべての人は洗礼と堅信を通して主自身からこの使徒職に任命される」(33)と述べ、
「信徒は現世的な仕事に従事しているときでも、世に福音を告げるための崇高な働きをすることが出来、またそうしなければならない」(35)と教えています。
教導職も信徒も共に、使徒たちの宣教に耳を傾けるという基本から離れては、正しく教会の救霊活動に参与することが出来ません。
・・・・・ 以下、本文参照。
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使 4:32〜35 Iヨハ 5:1〜6 ヨハ 20:19〜31
「使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、 ・・・・・ 」(使 v.33)
この使徒たちの証しが、教会を真に教会とするのだということを、主日のミサを共にささげる兄弟姉妹一人一人に深く受け止めていただきたい。
“復活を証しする” とは具体的には、私たちが “教会を信じ、罪の赦しをもたらす唯一の洗礼を認め、死者の復活と来世のいのちを待ち望む”(ニケア・コンスタンチノープル信条)ということに他ならないからです。
この信仰の証しが忘れられると、教会はその実質を失ってしまいます。
骨組みのある宇宙船は、地上に係留中もその姿を保っていますが、信仰の証しのない教会は、空から降りた熱気球のようにその姿を失います。
「イエスは生きておられる」(ルカ 24:23)、「復活なさったのだ」(ルカ 24:6)、「本当に主は復活された」(ルカ 24:34)、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタ 28:20)。
そして、「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(使 1:11)
そうです。 「わたしたちの本国は天にあります。」(フィリ 3:20)
・・・・・ 以下、本文参照。
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\____/ > キリスト教はローマ帝国や白人支配を破壊するための呪いである
> キリスト教を信じれば魔境は深まり闇が濃くなる 悪の十字架悪の十字架悪の十字架悪
の十字架悪の十字架悪の十字架悪の
十字架悪の十字架悪の十字架悪の十
字架悪の十字架悪の十字架悪の十字
架悪の十字架悪の十字架悪の十字架 >>607
> 悪の十字架悪の十字架悪の十字架悪
> の十字架悪の十字架悪の十字架悪の
> 十字架悪の十字架悪の十字架悪の十
> 字架悪の十字架悪の十字架悪の十字
> 架悪の十字架悪の十字架悪の十字架
怪談 『 悪の十字架 −大阪なんば 高島屋 』
ここは 大阪なんば・高島屋
朝の5時と言えば まだまだ人通りが少ない時間ですが
薄気味悪い老婆が一人で佇んでいました。
そこに警ら中のお巡りさんがやって来て
老婆に向って職務質問をしたのです。
「大阪府警南署のもんですが、
どないかしはりましたんか?」
老婆が振り向いて 呻くような低い声で
お巡りさんに応えました。
「 こ、この タ、カ、シ、マ、屋、
開くの 十時か?」 2006年(主日B年) 4月30日 復活節第3主日
使 3:13〜19 Iヨハ 2:1〜5a ルカ 24:35〜48
「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。 ・・・・・ 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、 ・・・・・」(ルカ v.37,v.41)
福音書に描かれているイエスと弟子たちの物語りは、キリスト教と縁のない世間の人には、不思議で理解し難いという印象を与えるものです。
ところが、これが既に信者となった人々には、当たり前のこと、当然の事実を記録した物語りのように見えてしまう傾向があります。
たとえば私たちにとって耳慣れた日曜学校の教師の語る福音書物語りを思い浮かべれば、それはある程度納得できることです。
まるでそれは物語りの結末を前もって知っている映画の観客たちが、登場人物であるイエスの弟子たちの驚きうろたえている姿を、昔々の出来事、他人事ででもあるかのように鑑賞しているのに似ています。
しかし、本来聖書が伝えようとしているのは、そのいずれでもありません。
使徒ペトロは次のように証言しました。
「神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。 しかしそれは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまりイエスが死者の中から復活した後、ご一緒に食事をした私たち(使徒)に対してです。」(使 10:40-41)
その使徒たちの体験の生々しい印象を、このテキストは私たちに伝えています。 (つづき)
現代人である私たちと同様に、原始教会の大多数の信者たちも、復活されたイエスを直接見たことがありませんでした(Iペト 1:8)。
歴史の教会は今日に至るまで、使徒たちの証言によって信じて来たのです(ヨハ 17:20,20:29 参照)。
福音は決して弟子たち自身の創作に起源するようなものではありませんでした。
ですから、彼らはキリスト教の教祖ではありません。
福音の起源は、弟子たちが聞いた、復活のキリストによる旧約聖書の再解釈でありました。
その核心部分が、次のように述べられています。
「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」(ルカ vv.46-47)
使徒たちは 「これらのことの証人」(ルカ v.48)、「キリストの証人」(使 1:8)、「主の復活の証人」(使 1:22,2:32,3:15)でありますから、
現代のキリスト者も、時代が変わったといえども、使徒たちが告げ知らせたものに反する “別の福音” を決して宣教したり信じてはならないのです(ガラ 1:1-9 参照)。
・・・・・ 以下、本文参照。
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>現代のキリスト者も、時代が変わったといえども、
>使徒たちが告げ知らせたものに反する “別の福音” を
>決して宣教したり信じてはならないのです。
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ミ′: 老 : ..::_; ミ;リ
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. |:ヽ .,r ..::丶 ..:::: ::::;´: !} 「あなたには、わたしをおいてほかに教師があってはならない。」
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゙ ゙ヽ /':: "::::/::::::::: : 2012年(主日B年) 4月22日 復活節第3主日
使 3:13〜19 Iヨハ 2:1〜5a ルカ 24:35〜48
「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。」(使 v.13)
フランシスコ会訳の聖書は、「その僕イエス」 に次のような注を付けています。
“この称号(使 3:26,4:27,30 参照)は、イザヤの 「苦しむ僕」(52:13〜53:12 参照)によるもので、苦しみを通じて救いをもたらすメシアであるイエスに与えられている。”
イエスの時代のギリシャ語訳聖書(LXX)では、イザヤ書の “主の僕(’ebed Yahweh)” の訳語に “παῖς” が使われていました。
この語には二つの意味があって、その一は “子”、もう一つは “しもべ” です。
それは奴隷(δοῦλος/生まれながらの身分としての奴隷)という語を避けるためであったと考えられます。
ですから上記の注の “僕” はすべて “παῖς” です。
そして新約聖書では、この “主の僕” と “人の子” という二つの称号がほとんど同じ意味で使われています。
使 v.13 の “栄光をお与えになり” は、イザ 52:13 の LXX で使われている “あがめられ” の訳語と同じ “δόξα(栄光)” の派生語で、ヨハ 12:23 でも同じ イザ 52:13 を “人の子” の称号と結びつけています。
大切なことは、使徒たちの宣教が復活の勝利者イエスをイザヤ書の苦難の僕との関連で解釈していることであって、単なるギリシア語の用語の問題などではないのです。
「だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。」(使 v.19)
これが福音宣教の結論であり、私たちがミサでお会いするイエスは、信じる者に “罪の赦し、からだの復活、永遠のいのち” を与えてくださる救い主です。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より キリスト教のルーツがはっきりした。キルギス人。キルギセン。キリル。契支丹。高句麗とも関係あるかな。
キリスト者は、
匈奴(ガド)ゴッドを崇めてるだけ。このガド族が華夏に文明を作り、イスラエルに渡り、文明を作ったんやな。
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人 コンビニの書籍売場で、1冊100から300円位で66分冊の聖書売る、新聞コーナーでカトリック新聞かクリスチャン新聞並べる、駅のキヨスクの新聞コーナーでもスポーツ新聞と並んで売られる、雑貨の売場で数珠の隣にロザリオが置かれる、 2012年(主日B年) 4月22日 復活節第3主日
使 3:13〜19 Iヨハ 2:1〜5a ルカ 24:35〜48
「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」(Iヨハ v.2)
その後に出てくる 「神の掟」(Iヨハ v.3) 「神を知っている」(Iヨハ v.4) 「神の言葉」(Iヨハ v.5)という用語を、いわゆる律法主義的に解釈するのは、聖書の浅薄で表面的な読み方に原因があるのであって、正しくありません。
「罪を償ういけにえ」 と訳されている “償う(ἱλάσκομαι)” は、文語訳の時代には “宥めの供物”、口語訳の時代には “あがないの供え物”、そしてフランシスコ会訳では “贖いの供え物” と訳されました。
このギリシア語は異教の世界でもともと “神の怒りを宥める” という意味で使われていました。
しかし聖書にとってはそのような思想は異質であって、神が、ただ神だけが “和解” を与えることが出来るのです(IIコリ 5:18-21)。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえ(ἱλασμός/名詞形)として、御子をお遣わしになりました。 ここに愛があります。」(Iヨハ 4:10)
どうか 「神の掟を守る」(Iヨハ v.3) 「神の言葉を守る」(Iヨハ v.5) という表現を、神の怒りを宥める善行や功績のように考えないでいただきたい。
私たちが主日ごとに集まって共にミサをささげるとき、“聖霊の交わりの中で、会衆と共にいてくださる復活のイエス” が、その成し遂げられた永遠の贖いを私たちに理解させてくださいますように。
信者がミサ典礼をよく理解し、意識的に、敬虔に、また行動的にこれに参加するということと、聖書を通して神のことばに教えられるということ(聖書の学び)は、堅く結びついていて切り離せないのですから。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>619
『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/
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人 >>616
ニダーニダーニダーウェーハァッハァッハァッホコラシーニダーホコラシーニダーチョパーリホコラシーニダー
ウェーハァッハァッハァッウェーハァッハァッハァッウェーハァッハァッハァッチョパーリ
ウェーハァッハァッハァッウェーハァッハァッハァッウェーハァッハァッハァッ
ホルホル
∧_,,∧ ウェーハッハッハ
< `∀´>
( )
し―-J 🌟 あなたに贈る言葉C
「テロ」と「革命」の違い
キリスト教とイスラム教における「十字軍戦争」は、もう結構です。キリスト教の成立にも、私はかかわりました。天上界から、明らかに、ユダヤの地におけるイエス・キリストを指導しました。
また、その同じ私が、その六百数十年後、サウジアラビアの地において天上界からムハンマドを指導したのです。私の生み落とした宗教が千年以上も憎しみを持って戦い続けているのは、見るに堪えません。
ならば、どうするか。それは、彼らに共通の理解の基盤をつくること、そして、その教えを説くことです。それが次の目標であってよいはずだと思います。
仏教においても、「慈悲」と「救済」、そして、「信仰の大切さ」が説かれました。その思想の多くは、東洋の土壌や文化的な考え方の基礎をつくっているでしょう。
「慈悲」とは、自分と同じものを他の者のなかに見つける「愛の心」です。他の人々のなかにも、神の子としてのダイヤモンドが光っていること、また、仏の子として、努力による「悟りの道」が用意されていることを、信じることなのです。
これが説けるのは、西洋と東洋を融合することのできる、この日本の地においてのみだと、私は考えています。
🌟 大川隆法著 「伝道の法」より 2003年(主日B年) 5月11日 復活節第4主日
使 4:8〜12 Iヨハ 3:1〜2 ヨハ 10:11〜18
キリスト教を多くの宗教の中の一つの宗教の名称に過ぎないものと考え、その時代ごとの思想に迎合した新しい福音を考え出そうとする人々が、いつの時代にも絶えませんでした。
最初の使徒たちによる宣教のキリストを拒否して、その時代の哲学や思想によって再解釈された別のキリストを説く人々が、教会の歴史には満ちています。
しかし教会は、使徒たちが伝えたキリストの福音の宣教によってだけ、真のキリストの教会であり続けます。
そしてそれを受け継ぐ教会だけが “使徒継承の教会”(ニケア・コンスタンチノープル信条)なのです。
使徒たちが伝えた福音によれば、生まれながらの人間は “神の怒りを受けるべき者”(エフェ 2:3)であって、そのままで神の子なのではありません。
使徒パウロが 「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」(IIコリ 5:17)と語った通り、人は洗礼によって 「新たに生まれ」(ヨハ 3:3)て始めて神の子とされるのです(ガラ 4:5)。
「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。 それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。」(Iヨハ v.1)
そして神の子であれば、今はまだ見ることの出来ない将来の神の国を 「忍耐して待ち望むのです。」(ロマ 8:25)
なぜならその日には私たちは、御子に似た者として(Iヨハ v.2)神の国に復活することを知っているからです。
ミサを共にささげている全世界の教会で、今朝の集会祈願は次のように祈られました。
「キリストの声に従うわたしたちがあなたの国に導かれ、聖人とともに喜びを分かつことができますように。」
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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人 2006年(主日B年) 5月7日 復活節第4主日
使 4:8〜12 Iヨハ 3:1〜2 ヨハ 10:11〜18
使徒ペトロが、エルサレム神殿の境内で施しを乞うていた人の足をいやしたという奇跡は、多くの民衆を驚かせました。
かつてイエスが多くのいやしの奇跡を行われたように、使徒たちも同様に病人や汚れた霊に悩まされている人々をいやしたと述べられています(使 5:12-16)。
しかし私たちがそこで見落としてならないことは、この人がイエス・キリストの名を信じる信仰によって(使 3:16)救われた、すなわち神の子の一人とされたということです。
この一点を見失うなら、イエスも使徒たちもただのヒューマニスト、博愛主義者に過ぎなくなってしまいます。
20世紀の教会が力を注いで来た医療・福祉事業や教育事業に欠けていたものは、「異邦人を信仰による従順へと導くため」(ロマ 1:5)という、教会が使徒継承によって受け継いで来た “救い” の理解でありました。
「ほかのだれによっても、救いは得られません。 わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使 v.12)
社会の中で疎外され、抑圧され、差別され、搾取されている貧しい人々を助けることが至上命令となって、その後にいわば付録のように “イエスと神の愛の話” を美しく語ろうとして来た ・・・・・ 、そんなキリスト教に、
“人を神の子にしようと(エフェ 1:5)、御自身を罪を償う供え物として献げられたキリスト(Iヨハ 4:10、ヘブ 10:12,14)” の救いの重大性は、理解出来なかったという悲しくも確かな事実を、21世紀のキリスト者は認めることから再出発しなければなりません。
教会が再びキリストの羊の群となるために。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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チロチロ 2012年(主日B年) 4月29日 復活節第4主日
使 4:8〜12 Iヨハ 3:1〜2 ヨハ 10:11〜18
「わたしは良い羊飼いである。 わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」(ヨハ v.14)
イエス・キリストはその十字架の死と復活によって、御自分の民である教会の羊飼いとなってくださいました。
主キリストは、その復活から終わりの日の来臨に至るこの世の教会の大牧者(ヘブ 13:20、Iヨハ 5:4)であり、ユダヤ人ばかりではなく異邦人をも集めて一つの群れにしてくださいます(ヨハ v.16)。
教会における救いの業は、実に教会の頭であるキリスト御自身の業であることを説明して、典礼憲章は次のように宣言しました。
「このような偉大な業を成就するためにキリストは、常に自分の教会と共に、特に典礼行為に現存している。 キリストはミサの犠牲のうちに現存している(秘跡的再現)。
・・・・・ キリストは自身のことばのうちに現存している。 聖書が教会で読まれるとき、キリスト自身が語るのである。」(7)
このキリストの御業は、人間がこれを自由に処理したり管理したり出来るものではなくて、ただ信仰に対してだけ開かれており、司祭と会衆一同が心を合わせて尊いいけにえを奉献し、これを霊の食物として拝領するときに、
また聖書の朗読を通して語られる福音が真に 「人の言葉としてではなく、神の言葉として」(Iテサ 2:13)聴かれるときに、信じる者の群れである教会の中に “現に働いているもの”(同)なのです。 (つづき)
ですから私たちはいつも信仰的に目覚めていて、キリストの言葉(十字架と復活の福音)を “聞き分ける”(ヨハ v.16)羊になりましょう。
私たち一人一人が本物のキリスト者であるか、本当に救いを受けているかどうかの判定は、「その声を知っている」(ヨハ 10:4) 「わたしの声を聞き分ける」(ヨハ v.16,10:27)か否かで決するからです。
キリストの十字架の死は、決して予想外の、道半ばの無念の死などではありませんでした。
それは神の御心であって(ヨハ 3:16、Iヨハ 4:10)、信仰の創始者また完成者であるイエスは、自ら(ヨハ v.18) 「御自分の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を堪え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」(ヘブ 12:2)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ■■■■■■■■■■■■■■■
■■ ■■ 頭悪いんだから素直に注卒でええやろ!滑稽な偽学位で騙さんても!
iiiiiii iiiiiii
iiii __ __ iii 数々の不祥事、 パワハラや強姦紛いの宗教を騙った暴力!
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| | 金銭トラブルに嘘の総会、反抗する者には83で恫喝!
| | 虚偽宣伝、自意識過剰な虚栄心!
| \ / | やり直し出来るなんて真っ赤な嘘、何人の人を神から遠ざけましたか?
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| | 神学的知識も自慢するが間違いだらけとある牧師が笑ってました!
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| | | | 教会員を追い出し自殺に追いやって惚けてる!
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| \ / | 周囲の牧師と異常な競争心を燃やす♪
| \/ | 下らない自己顕示欲が幼稚♪
\_______________/ それも年下の牧師に嫉妬ばかり♪ 若い牧師から嫌われている♪
牧師金ちゃん、まだしゃぶって末世!目的は自分の名を挙げ上座に座ることや♪
今も元◎X△を強調しそれをひけらかせては周囲を恫喝!
教会を離れた信徒の悪口に陰口、自己正当化を謀る様々な愚行!
日本の教会の未来はまるで自分の肩にかかってるかのようにかっこ良く語るが、とても尊敬できるような人ではない!
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チロチロ チロチロ 2003年(主日B年) 5月18日 復活節第5主日
使 9:26〜31 Iヨハ 3:18〜24 ヨハ 15:1〜8
キリスト教の起源が使徒たちの宣教にあると語るとき、その使徒たちの宣教が、十字架にかけられて死に、神が死者の中から復活させられたイエス・キリスト御自身に由来するという事実に注目する必要があります。
ヨハネ福音書の15-17章は、主イエスが引き渡された夜の弟子たちとの晩餐の席における “決別の説教と祈り” という形式で記述されています。
言うまでもなく、ヨハネ福音書は当夜の模様を録音したテープからこれらの部分を文書に書き起こしたのではありません。
そうではなくて、恐らく一世期末と思われる頃の教会の信者たちに向かって、十字架と復活のキリストに由来する使徒的福音を理解させ、キリストの体である教会がこの福音にしたがって正しく歩むことを目的として、書かれ編纂されたのでした。
ですから、ここでは “ぶどうの木” とは復活の主イエス・キリストのことであり、教会の信者たちはその枝に例えられています。
洗礼を受けて救われるとは、ぶどうの枝になることであって、その結果豊かな実を結ぶようになることが期待されています。
このように使徒たちが宣教したキリストの福音とは、使徒たち自身がそうであったように、その後の時代の信者たちも十字架と復活のキリストに対してその枝のように連なって、教会を造り上げて行くことを命じているものとここでは理解されているのです。 (つづき)
神の子イエス・キリストの名を信じる(Iヨハ v.23)とは、もちろんいつの時代にも個人の主体的な決断の事柄ではあります。
しかし、それが “使徒たちの宣教する福音のキリスト” であること、従ってイエス・キリストの名を信じるとは “使徒たちの宣教する福音を信じること” であることを忘れてはなりません。
それはキリストの体を造り上げて行く(エフェ 4:12)福音でありますから、「互いに愛し合う」(Iヨハ v.23)ということもその線上で理解されねばなりません。
「この方がわたしたちに命じられたように」(Iヨハ v.23)とはそういう意味です。
互いに愛し合いなさいという主の命令は、共にミサをささげている共同体である教会を第一の対象としています。
信者一人一人は単なる個人として主観的にキリストに繋がるのではなくて、使徒たちの宣教という土台の上に立つミサ共同体を通してこそ、本当にキリストに連なる 「ぶどうの枝」 となるのです。
実に復活して天に上げられたキリスト御自身が、使徒たちの宣教を通し、また現代のミサを通して私たちに出会い、語りかけ、私たちを 「いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」 ことに感謝しましょう。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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人 2009年(主日B年) 5月10日 復活節第5主日
使 9:26〜31 Iヨハ 3:18〜24 ヨハ 15:1〜8
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。 人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。 わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハ v.5)
人がキリストとつながるのは、福音を通してであることを、先ず明確にしなければなりません。
福音を学ぶことには怠慢なままで、単なる主観的な信仰や、個人的な信心で満足している人は、当てにならない迷信の世界に住んでいることになります。
私たちはキリストの福音を、教会の仲間である友から聞かされる以外に、他の途を持っていません。
宣べ伝える人(ロマ 10:14)が使徒であれ、預言者であれ、福音宣教者、牧者、教師であれ(エフェ 4:11)、同じキリストの体の一部であって(Iコリ 12:27-30)、友であり仲間だからです。
そして、その福音の伝承はすべて使徒たちに起源しているということを、強調しなければなりません。
ですから、使徒たちが伝えた福音を聞くことから切り離して、何か別の権威ある人や集団の教えによって、十分にカトリックの信仰は伝えられ得ると思い込んでいる人は、自分が最終的には焼き捨てられる枝(ヨハ v.6)であることを知らなければなりません。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています