日本もキリスト教を盛んにしようよ。 [無断転載禁止]©2ch.net
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2000年(主日B年) 4月2日 四旬節第4主日
代下 36:11〜23 エフェ 2:4〜10 ヨハ 3:14〜21
エフェ vv.4-6
私たちはミサの中でイエス・キリストの御聖体に与かるために、先ず悔い改めと信仰によって洗礼の秘跡を受けました。
典礼憲章の14項は、すべての信者のミサへの参加について述べて、「キリストを信ずる民は、 ・・・・・ 洗礼によってこれに対する権利と義務を持っている」 と言っています。
「罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし」(エフェ v.5)とは、このすべての信者が受けた洗礼の秘跡のことであり、
それに続く 「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」(エフェ v.6)はミサ、特にその中の感謝の典礼のことを指しています。
ここで説明しておかねばならないことは、“地上の教会が主日ごとに守っているミサ、特にその中の感謝の典礼” は、将来の “神の国での天上の礼拝” のいわば先取りのようなもの、あるいはその保証(エフェ 1:14 参照)なのだということです。
地上の教会で私たちがささげているミサは、“天上の礼拝と結びついているのだ” ということを、エフェ v.6 は言っているのです(典礼憲章 8 参照)。
私たちはこのことを忘れてはなりません。 (つづき)
ミサを司式する司祭は、「キリストの代理者としていけにえをささげ、神の民の集いを司会する」 と説明されていますが(ミサ典礼書の総則 4)、そのキリストとは “天上のキリスト” のことで、
復活して今は父の右におられるキリストが、私たちのミサに臨んでくださるのです。
やがて終りの完成の日には、私たちは神の国に復活して、天上のミサに参加する民となるのです。
歴下の朗読と、それに続く今朝の答唱詩編(典 28)は、このように神の国を待望しつつミサを守る私たちを励ましてくれます。
特に答唱詩編で歌われた 詩 137 は、神の国の別称である “天のエルサレム” での将来の礼拝を待望する信仰の歌として、古くから教会で愛唱されて来ました。
「信じない者」 ではなくて、「御子を信じる者」 である私たち会衆は、この “天のエルサレムを待望する歌” を歌って、復活祭儀に向かって今年の四旬節も備えて行きます。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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2009年(主日B年) 3月22日 四旬節第4主日
歴下 36:14〜23 エフェ 2:4〜10 ヨハ 3:14〜21
「御子を信じる者は裁かれない。 信じない者は既に裁かれている。 神の独り子の名を信じていないからである。 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。 それが、もう裁きになっている。」(ヨハ vv.18-19)
肉となってこの世に宿られた “神のことば”(ヨハ 1:14)なるキリストは、死者の中から復活して天に昇り、栄光を受けられました。
しかし、それは主とその栄光がこの世を去ったということではありませんでした。
今やキリストは弁護者なる聖霊として戻ってこられ(ヨハ 14:18)、信じる人々と一緒に住んでくださる(ヨハ 14:23)。
キリストは宣教する教会の “福音のことば” として、共におられます。
ですから 「光が世に来た」 とは、歴史の教会にとって常に現在の事柄であって、従ってキリストの福音を信じているか否かにより、“神のことば” の剣によって裁かれるというのも(黙 19:11-16)、すでに現在の事柄なのです。
主イエスが不法の者たちを御自分の口から吐く息で殺すという表現が、再臨の日の裁きとして描かれていますが(IIテサ 2:8)、その起源は イザ 11:4 にあり、それが 黙 1:16,2:12,16,19:15,21 では “神のことばの剣” になっているのです。 (つづき)
神のことばなるキリストが、救いであると同時に裁きでもあるという、ヨハネ福音書および黙示録の語るメッセージを深く聞くことが、現代の教会に求められています。
「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」(ヨハ v.14)
この人の子が上げられるという言葉で、ヨハネはキリストの福音を表現しました。
「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」(ロマ 4:25)
「死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」(ロマ 8:34)
この十字架の福音を、教会は聖伝と聖書によって、現代に至るまで守り受け継いで来ました。
それはすべての人に対して公にされていて、“聞く耳のある者” (マコ 4:9)は聞くことが出来ます。
ですからカトリック教会では神の啓示に関する教義憲章が、「教会の教えも、キリスト信者の信仰そのものも、聖書によって養われ、規定される」(21)、「聖書を知らないことは、キリストを知らないことである」(25)と明確に宣言しています。
・・・・・ 以下、本文参照。
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> 「御子を信じる者は裁かれない。
>信じない者は既に裁かれている。 神の独り子の名を信じていないからである。
>光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。
>それが、もう裁きになっている。」(ヨハ vv.18-19)
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l ', l , /(. !ゝ、__ノノ 「わたしがキリストに倣う者であるように、
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l ヽ、 >‐---イ 老クリスチャン 2012年(主日B年) 3月18日 四旬節第4主日
歴 36:14〜23 エフェ 2:4〜10 ヨハ 3:14〜21
「罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、−−− あなたがたの救われたのは恵みによるのです。」(エフェ v.5)
キリスト教関係の雑誌や新聞の数々の記事を読んでいて、私がいつも不満に思うのは、このキリストの贖いと罪の赦しという福音の核心が語られることが非常に稀だということです。
その昔西行法師が伊勢神宮に参ったときの有名な歌に、“なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる” というのがあります。
そのように現代の教会は、“神様が いつもニコニコしているキリスト教 なにごとの おはしますかは 知る人ぞなし” という状態なのです。
しかしカトリック教会は、世を聖とされる神の働きにすべての信者が豊かにあずかれるように、第二バチカン公会議を経て典礼の刷新を進めて来ました。
ですから私たちが現在のミサ典礼書について学ぶとき、「この刷新によって、典礼文と儀式が示す聖なることがらが、明白に表現された」 ことと、
「キリストを信じる民が、聖なることがらを ・・・・・ 理解し、 ・・・・・ 意識的、行動的にこれに参加」 するよう求められていることを、尊重しなければなりません(典礼憲章 21,33)。
私が自分のインターネットサイトに、★典礼について★ という題で書いている中から、以下の文章を紹介しておきましょう。
|| 多くの教会で、オリエンス宗教研究所発行の 「ともにささげるミサ」 が使われていますが、誤解してな
|| らないのは、これはみんなが自分たち独自のミサを工夫したり作り出すための資料ではないというこ
|| とです。 決して独自の解釈や工夫を加えてはなりません。 そうではなくてこれは、「ローマ・ミサ典礼
|| 書の総則」 に沿って実際にミサがささげられるための要約書、ないしガイドブックなのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2000年(主日B年) 4月9日 四旬節第5主日
エレ 31:31〜34 ヘブ 5:7〜10 ヨハ 12:20〜33
救われてミサをささげる民となった私たち教会にとって、イエス・キリストの十字架の死とそして復活は、最も重要であるだけではなくて、最も深く私たち自身の救いに関わっています。
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。 だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハ v.24)
この節はイエス・キリストの死と復活を指していて、それによって神の教会が生み出されて来たということを語っています。
しかしこの節は、ここではその “前後関係の中で” 語られていることに意味があるのです。
祭りのときに ・・・・・ 、ギリシア人たちがイエスのもとへ来ました。
一世紀末の教会は、その大部分が異邦人たちの集まりでした。
“ギリシア人” という呼び名は、ギリシア語を話す異邦人全体を表しています。
イエス・キリストの死によって、そのような異邦人が罪から贖われて教会に集められ、ミサをささげる民となったのでした。
そのような、ミサをささげる会衆である異邦人たちに向かって、続く ヨハ vv.25-26 が語りかけていることを理解しましょう。
私たちの救いは、主イエス・キリストの死と復活に深く関わっています。
イエス・キリストを信じて洗礼の秘跡を受け、ミサをささげる民となった私たちは、主の死に結びつき、主の復活にも結びつくのです。
イエス・キリストの救いは、私たちを死から救って、御自身の復活に与からせ、永遠の命に至らせてくださる救いなのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2006年(主日B年) 4月2日 四旬節第5主日
エレ 31:31〜34 ヘブ 5:7〜9 ヨハ 12:20〜33
「何人かのギリシア人が ・・・・・ 。 彼らは ・・・・・ “お願いです。 イエスにお目にかかりたいのです” と頼んだ。」(ヨハ vv.20-21)
初代教会の宣教は当初のユダヤ人から間もなく異邦人世界へと向けられ、ギリシア人を始めとする多くの異邦人がイエス・キリストの救いを受けて、交わりに加えられて行きました。
民族宗教としてのユダヤ教から世界宗教としてのキリスト教へと、初代教会を導いた決定的要因は、イエス・キリストの死と復活による“罪の赦しと永遠の命の福音” でありました。
キリストの死と復活に結ばれる洗礼の秘跡(ロマ 6:3-4)によって、異邦人がユダヤ人と共に神の国を受け継ぐ者、同じ約束にあずかる者となる(エフェ 3:6)ことが出来る時代が始まったのでした。
ヨハネ福音書はこの出来事、キリストの死と復活という決定的な出来事に、私たちが注目するように導きます。
「人の子が栄光を受ける時が来た。 はっきり言っておく。 一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。 だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハ vv.23-24)
「今こそ、この世が裁かれる時。 今、この世の支配者が追放される。」(ヨハ v.31)
イエス・キリストの死を、単なる偉人伝や、私たちのための高度な道徳の手本のように考えてはなりません。
それは、神がその独り子を “罪を償う供え物”(ロマ 3:25)として、“時が満ちて”(ガラ 4:4)歴史の中でお与えになった事件でありました。
ですから私たちも、決して単なる入信の儀式としてではなくて、“キリストと共に葬られ、その死に与る”(ロマ 6:4)ために洗礼を受けたことを理解しましょう。
・・・・・ 以下、本文参照。
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人 2012年(主日B年) 3月25日 四旬節第5主日
エレ 31:31〜34 ヘブ 5:7〜9 ヨハ 12:20〜33
「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」(ヘブ v.8)
この 「従順」 とは、私たち罪人に代わっての従順であって、御子は 「過ちと罪のために死んでいた」(エフェ 2:1)私たちの間に受肉して(ヨハ 1:14、ガラ 4:4-5)、
私たちに代わって 「激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いをささげ」(ヘブ v.7)てくださったのです。
それが、「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ」(IIコリ 5:18)と宣べ伝えられている福音の内容であって、このような使徒たちの宣教こそが “ともにささげるミサ” を現代においても意味のあるものにします。
人が救いを得るためには、ミサに出席することと並行して、使徒たちによる福音証言を自らしっかりと聖書から学ぶ必要があるということなのです。 (つづき)
私たちのミサで、エレミヤの預言は実現しました。
しかし私たちは、今朝の第二朗読で語られている神のことばを理解しているでしょうか。
感謝の典礼の奉献文で、“これはあなたがたのために渡される、わたしのからだ”、“これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて、罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血” と司祭が唱えるとき、
それはあなたにとっての信仰の実感となっているでしょうか。
私たちは使徒たちから伝えられた福音をしっかりと学んで、“小さい者も大きい者も神を知る”(エレ v.34)ことが必須の時代に生かされていることを、心から感謝出来るようになりましょう。
「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。 ・・・・・ わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるのです。」(ガラ 2:19-20)
四旬節を通して教会は今、過越の神秘の祭儀に備えて歩んでいます。
良い備えが出来て、今年も復活の祭儀で会衆一同が、ミサの閉祭のあいさつに心からの “アレルヤ” を加えることが出来ますように。
・・・・・ 以下、本文参照。
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/ / 2000年(主日B年) 4月16日 受難の主日
イザ 50:4〜7 フィリ 2:6〜11 マコ 15:1〜39
私たちの主イエス・キリストの受難の物語りの朗読を、今年も聞きました。
教会はその誕生の頃からずっと、特別に典礼暦のこの期節に、主の受難の物語りを語ったり朗読したりして来ました。
教会の宣教の中で、この受難の物語りがどんなに重要であったかを理解するには、私たちは自分で聖書を開いてみれば分ります。
マタイ福音書では 21-28章、ルカ福音書では 19-24章、そしてマルコ福音書では 11-16章が主の受難と復活の物語りに当てられています。
イエスの数々の説教をここに含めているヨハネ福音書では、実に半分を越える 12-21章がこれに当てられています。
そのような訳で、現代の私たちの教会でも毎年受難の主日には、三年周期で共観福音書の中の受難物語りが朗読され、聖金曜日の祭儀では毎年ヨハネ福音書の受難物語りが朗読されています。 (つづき)
教会がそれを聞き、代々にわたって受け継いで来た福音、そして今も教会が告白し宣べ伝えている福音によれば、神の救いの御業はかつてのイエスの宣教で完成して終わったのではありませんでした。
“キリスト教とは、イエスの教え、つまりイエスの宣教された福音のことだ” と(誤って)単純に考えている人も、今年は聖なる過越の三日間の朗読聖書に、もう一度よく耳を傾けてみましょう。
福音書の受難物語りが、ミサではいつも旧約聖書と使徒書から選ばれたテキストと組み合わせて朗読されることには、重要な意味があります。
教会が宣べ伝えている福音によれば、主イエスの十字架は神の救いの御業の最後を締めくくる出来事ではなくて、むしろ神の御業の決定的な開始の出来事であったからです。
受難物語りの朗読は、それに続く復活の光に照らされて初めて、本当に福音になります。
“キリスト教とは、十字架の福音のことだ” と多くの人が考えています。
しかしそれは決して、主の受難で神の御業が完了してしまったという意味ではないことを、知らねばなりません。
そうではなくて、“神の国の完成に向かう新しい時代が、主の受難と復活によって開始された” ということなのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
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2006年(主日B年) 4月9日 受難の主日
イザ 50:4〜7 フィリ 2:6〜11 マコ 15:1〜39
「しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。」(マコ v.5)
総督ピラトは、正しい判断をすることが出来なくて、イエスを十字架刑に処してしまったのでしょうか。
ユダヤ人の群衆は、イエスに対する祭司長たちのねたみによって扇動されて、“十字架につけろ” と最後まで叫び続けてしまったのでしょうか。
それは十分に考え得る推測です。
しかしそれでは、もし彼らが別の判断、別の行動に出ていたら、イエスは処刑されず、歴史は変わっていたであろうと主張することが、マルコ福音書の意図であったと考えるなら、それは間違っています。
聖書の中に登場する特定の人物たちを、私たちの聖書が語っているのとは違う観点から判断して、弁護したり名誉を挽回しようとすることは、古くから行われて来たことです。
ごく最近では、イエスを裏切ったユダは実はイエスの最良の弟子で、ただ一人イエスから使命を授けられて正しく神の命令を遂行したという、2世紀頃のグノーシス主義の文書 “ユダによる福音書” と呼ばれるものが発見されて、話題になっています。
まさに典型的な、ユダの名誉挽回の第一級の史料であることは間違いありません。 (つづき)
私たちの聖書の中にある四福音書は、元来は “マルコによる(カタ・マルコン)” というように、著者と伝えられる使徒の名で呼ばれているものです。
ところが1522年に初版が出たルター訳のドイツ語新約聖書でも、1611年初版の英語欽定訳聖書でも、“福音書” という表題がつけられていて、以後今日まで世界中で踏襲されて来ました。
それはヨハネ福音書が 「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、信じてイエスの名により命を受けるため」(20:31)と語っているように、それがキリストの福音を伝えることを目的としている書物であると理解されて来たからです。
この点で “ユダによる福音書” と呼ばれる新発見の文書は、ユダの名誉を挽回することによってグノーシス主義の論理を補強しようとしているに過ぎず、キリストの福音には全く触れていないようです。
つまり “福音書” ではないらしいのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
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イザ 50:4〜7 フィリ 2:6〜11 マコ 15:1〜39
「ビラとがイエスに、“お前がユダヤ人の王なのか” と尋問すると、イエスは “それは、あなたが言っていることです” と答えられた。」(マコ v.2)
「三時にイエスは大声で叫ばれた。 “エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。” これは “わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか” という意味である。」(マコ v.34)
「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」(マコ vv.37-38)
マルコ福音書の記述によると、イエスが最後に口を開かれたのはこの三回だけで、残りの部分は初代教会の解釈による伝承と考えられます。
マコ 14:62 をこれに加えるべきかも知れません。
これは旧約聖書の二つの箇所からの引用句であって、それは 詩 110:1 「わが主に賜った主の御言葉。 “わたしの右の座に着くがよい。 わたしはあなたの敵をなたの足台としよう”」 と、
ダニ 7:13 「見よ、“人の子” のような者が天の雲に乗り “日の老いたる者” の前に来て、そのもとに進み ・・・・・ 」 によっています。
いったい傍観者というものは、いくらでも減らず口をたたくものですが(マコ vv.13,18,29-32)、
同様に多くの “聖書物語” でも、さらに司祭たちの説教でも、傍観者としての人間の勝手な感想や敬虔を装った作り話のようなものが、神の子である苦難のキリストを抜きにして語られることが多いのです。 (つづき)
「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」(ヘブ 5:8)
「人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリ 2:7-8)
御子の従順とは、いったい何に対する、だれへの従順だったのでしょうか。
今朝の福音書のテキストの中にあるイエスの言葉からは、何が聞き取れるでしょうか。
そして私たちのキリスト教信仰にとって、それはどんな意味があるのでしょうか。
イエス・キリストが従順をささげられたのは、彼をお遣わしになった方の御心に対してでありました(ヨハ 5:30,6:38)。
それが可能であったのは、イエスがその父の御心を知っておられたからです(ヨハ 6:39-40,8:55,12:27)。
この父の御心を解き明かし、解釈することがキリスト教神学の課題であって、教会の教えと司祭の説教はしっかりと神学によって支えられていなければなりません。
新約聖書は初代教会の宣教を支えた使徒たちの神学の、いわば果実であります。
この新約聖書が、キリストの父なる神への従順を理解する鍵として、イザヤ書の中の “僕の歌” を取り上げ、しかもこの理解の仕方がイエス御自身にまで遡ることを福音書で語っているのです。
使徒たちが原始教会で繰り返し説教し、当時の信者たちに熟知されていたこの背景を前提にして、今朝の第二朗読は理解されねばなりません。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 >>526-527
『老クリスチャンの長文コピペについて』
(1)本人は17年間カトリックに改宗していない元プロテスタントの牧師である。
(2)枝葉末節のどうでもいいことを重要視してみせる。
(3)神学や聖書の知識が多い者ほど、信仰が篤いという歪んだモノサシをもっている。
そんな歪んだモノサシを、他のキリスト者にあてて、残念がったり、失望してみせる。
(4)自分のメガネにかなわない者、自分を批判する者を野良犬呼ばわりする。
(5)カトリックの神父様にも、マムシの目と心を向けて、揚げ足を取ろうとする。
(6)御言葉の切り貼り。パッチワーク。
(7)まったく読む必要はない。
(8)「自分のコピペを読まないと救われない」というようにもっていく。
(9)自分のだ液まみれの長文コピペを人の口の中に強引に押し込もうとする。
(10)元牧師の個人的な葛藤である。歪んだ信仰のパン種入り。
(11)イエズス様の教えられたことを念頭に老クリスチャンのコピペを読むと
どこか違う方向へ連れて行こうとしてるのがハッキリとわかる。
(12)都合の悪い批判に対してはまったく答えない。逃げ回る。反省しない。
(13)上から目線である。自分には非がないと思い込んでいる。
(14)自分をラビ(先生)と奉らせたい。信仰が篤い者と思われたい。
(15)カトリックにコンプレックスがあるようだ。マウンティングしたい。
(16)自分を変えるのではなく、カトリック(他者)を変えようとする。
(17)カトリックを呪っている。ときおり「しっぽ」を出す。
(18)自分を預言者だと自惚れている。傍目には現代のファリサイ人でしかない。
(19)『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック著)を読むと
老クリスチャンが「邪悪な人間」であることがわかる。
(20)リアルでは老クリスチャンにだれも注意(批判)しなかった。
【マルチポスト】老クリスチャンという名の暴走老人【だれか止めて】
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1487336445/ ____
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人 2003年(主日B年) 4月20日 復活の主日
使 10:34〜43 コロ 3:1〜4 ヨハ 20:1〜9
私たちの主イエス・キリストは死者の中から復活されたという喜びの知らせを、私たち教会は使徒たちの証言を通して聞いています。
「神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。 しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。」(使 vv.40-41)
使徒たちは主イエスの証人(使 1:8)、特にその死と復活の証人(使 v.39)であります。
この使徒たち(および共に働く福音の宣教者たち)の証言を土台として、教会は成立しました。
ですから、使徒パウロはその手紙の中で言っています。
「福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけた(生んだ)のです。」(Iコリ 4:15)
私たちキリスト者は、この使徒たちの証言する十字架と復活のイエスを信じているのです。
信じて救われたのです。
信仰の喜びと救いの確信を与えられて、一同で主の復活を祝っているのです。 (つづき)
福音書が記している主の復活の証言の記録は、人々を説得するために工夫されたものではなくて、初代教会のいわば信仰の告白としての性格を強く示しています。
「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」(ヨハ v.9)
しかし実際、キリストは死者の中から復活し(Iコリ 15:20)、墓は空でありました。
この事実の前に使徒たちは圧倒され、「見て、信じた」(ヨハ v.8)と述べられています。
理解したのではなくて、信じたのだ ・・・・・ というのが、初代教会が使徒たちと共有した実感であったことを、福音書は率直に伝えているのです。
現代のキリスト者にとっても、復活祭を祝うということは同様の事柄です。
私たちが使徒たちと実感を共有し、使徒たちの証言を通して信じていればこそ、復活祭の祝いは意味を持つのです。
東方教会ではこの日、「主は復活された」 「本当に主は復活された」 と、ルカ 24:34 の言葉を使って会衆が互いに挨拶する習わしであると言われています。
私たちは理解したのでも、納得したのでもなく、信じたのです。
「見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」(Iペト 1:8)
これが初代教会の信仰、そして今も変わることのない私たち教会の信仰であり、実感であります。
西方教会(ローマカトリック教会)では、復活の八日間と聖霊降臨の主日のミサで、通常の閉祭のあいさつの後に、司式者も会衆もそれぞれ “アレルヤ” を加えます。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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68 :老クリスチャン:2018/03/29(木) 11:58:19.82 ID:MCk58KaU
>> 62
今年末に刊行予定の 「聖書 聖書協会共同訳」 の実例集によると、出3:14 の “エヘイェ” は 「私はいる」 となっています。
ヨハネ福音書におけるイエスの言葉 「エゴー・エイミ」 を、神顕現の言葉としてではなくて、「父=御子イエス」 つまり 「同一」 と理解するのは、神学を学んでいない素人の屁理屈に過ぎません。
キクンケ・ウルト(通称アタナシウス信条)を、現代の素人の知恵でバッサリ切り捨ててしまうような連中だけが、そんな屁理屈を大真面目に主張して粋がっているのです。
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1521793664/68 ,,,;;;‐;;;;;;;;;;;;;;;;;-;,,、
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「あなたには、わたしをおいてほかに教師があってはならない。」 2006年(主日B年) 4月16日 復活の主日
使 10:34〜43 コロ 3:1〜4 ヨハ 20:1〜9
「見て、信じた。」(ヨハ v.8)
ヨハネ福音書がここで何を言っているのかを、私たちは正しく理解しなければなりません。
これは主の復活の朝の弟子たちの心理描写をしているのではありません。
ヨハネ福音書が書かれた頃、既に原始教会は使徒たちによる力強い宣教によって、確固とした福音理解を土台とする共同体に成長していました。
使徒たちは、彼らが目撃したイエスの死と復活の出来事が、神の偉大な贖いの行為であったという信仰によって宣教したのであって、自らの個人的主観的な心理描写を語ったのではありませんでした。
神は御子の死と復活によって人間に罪の赦しを提供し、将来キリストの再臨によって実現される “秘められた計画” を宣教させるために(ロマ 16:25)、使徒たちをお立てになりました。
使徒たちの福音は、彼らが目撃した一連の出来事に対する彼ら自身の解釈ではなくて(ヨハ v.9)、復活の主から教えられたものであり、聖霊が彼らを福音の証人としました(使 1:3,8,2:11)。
ですから教会の宣教はこの使徒たちの宣教の継承ないし継続であって、彼らが 「見て、信じた」 ものから決して切り離すことは出来ません。
このような使徒の証言を伝えるものとして、原始教会が福音書を生み出したことを、私たちは正しく理解しましょう。
始めは理解出来なかったが、イエスが死者の中から復活された後に信じるようになった福音を伝えることが、使徒の使命であったからです(ヨハ 2:22,12:16)。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より >>1
イエス、エロヒムの子の天にいる父エロヒムやYHWHって汚物である汚物神だろ
日本では貧乏神の疫病神ってゆーんだよ
地獄に堕ちろ、糞エロヒム 札幌人、篠路高校の教師どもはよくも俺をナメてくれたな、悪魔どもよ
必ずや、地獄に叩き堕とし過去、未来で一番地獄で重い刑罰を受けさせてやるからな
地獄で生まれてきたことを後悔しな ____
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人 2012年(主日B年) 4月8日 復活の主日
使 10:34〜43 コロ 3:1〜4 ヨハ 20:1〜9
「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」(ヨハ v.9)
教会では毎年この日にみなさん “イースター、おめでとうございます” と挨拶します。
英語のイースターカードの決まり文句は “Happy Easter” です。
でも、何がおめでたいのか、なにが Happy なのか、ほとんどの信者はあまり実感がない ・・・・・、それでこの挨拶に気恥ずかしい思いを持ったりします。
さて、今朝の福音のテキストには何かおめでたい、何か Happy なメッセージが語られているでしょうか。
そこに書かれているのは、墓が空だったという事実だけであり、しかもその最初の発見者である婦人は、これをてっきり墓荒らしの仕業だと判断しました(ヨハ v.2,20:13)。
それは何も護教的、あるいは教育的な手が加えられる以前の、あるがままの事実の伝承であると受け取るのが正しいのです。
イエスが復活したのは本当だったとか、だからキリスト教は本物の宗教なのだ ・・・・・ などという説明のために、この伝承があるのではないという冷静な判断が大切であるように思われます。 (つづき)
原始教会では、洗礼志願者のためにも信者たちのためにも、その教育の中で主イエスの復活が当然語られていました。
「神はこのイエスを復活させられた ・・・・・ 、このイエスを神は主とし、またメシアとなさった」(使 2:32,36)、
「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられた」(ロマ 4:25)、
「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています」(IIコリ 4:14)。
原始教会の信仰は使徒たちによる “この事実の証言” の上に成り立っていたのであって、単なる復活という不思議な出来事の科学的証明の上に成り立つ虚構ではありませんでした。
最初に空の墓を見た二人の弟子は、そのときまだ神の御業を何も理解していませんでした。
しかし今、その信じている福音の出来事が、歴史の中の出来事であった ! ということが、原始教会における使徒たちの宣教の生々しい原動力となったに違いないことを、私たちは理解しなければなりません。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
「あなたには、わたしをおいてほかに教師があってはならない。」
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>「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声を上げ、
>涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ」(ヘブ 5:7)
>と書かれている 「御自分」 とは、“私たち罪人に代わっての御自分” であったことを(Iペト 2:24)、
>そして 「わたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」(イザ 53:6)という十字架と復活の出来事を、
>あなたはまだ信じていないのですか。
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>私たちが毎週ミサで唱える信条の中の、
>「主は、生者と死者を裁くために、栄光のうちに再び来られます」
>という条項の重要性を、あなたはこれまで真面目に考えて来たでしょうか。
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「わたしがキリストに倣う者であるように、
あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」 >>1
日本でキリスト教を信じているのは馬鹿かチョン
68 :老クリスチャン:2018/03/29(木) 11:58:19.82 ID:MCk58KaU
>> 62
今年末に刊行予定の 「聖書 聖書協会共同訳」 の実例集によると、出3:14 の “エヘイェ” は 「私はいる」 となっています。
ヨハネ福音書におけるイエスの言葉 「エゴー・エイミ」 を、神顕現の言葉としてではなくて、「父=御子イエス」 つまり 「同一」 と理解するのは、神学を学んでいない素人の屁理屈に過ぎません。
キクンケ・ウルト(通称アタナシウス信条)を、現代の素人の知恵でバッサリ切り捨ててしまうような連中だけが、そんな屁理屈を大真面目に主張して粋がっているのです。
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1521793664/68
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:{ ` 、 ;;rz彡彡ミミ‐:::;;;;;Vムリ|
ヾ゙、ミミミヽ :: 'ゝrtッ_‐ァ::':::;;;;;∨/! いいかな?
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使 4:32〜35 Iヨハ 5:1〜6 ヨハ 20:19〜31
「そう言って、手とわき腹とをお見せになった。 弟子たちは、主を見て喜んだ。 イエスは重ねて言われた。 “あなたがたに平和があるように。 父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。”」(ヨハ vv.20-21)
初代教会の理解によれば、使徒とは次の二つの意味でキリストの証人となった人々でありました。
先ず彼らは、ヨハネの洗礼から始まって、主の復活と昇天に至る歴史上の出来事の目撃者でありました(使 1:21以下 参照)。
言うまでもなく各々の使徒がすべての出来事の目撃者ではありませんでしたが、彼らは互いに他の使徒を頼りにすることによって、主の復活の証人としての “使徒団体を構成(教会憲章 22)” していました。
第二に使徒とは、復活の主御自身から直接福音を委ねられ、これを宣べ伝えるために派遣された人々でありました。
この使徒たちによるキリストの福音の宣教こそが、キリスト教の起源であったという非常に明確な事実を、現代のキリスト者は自ら聖書を読むことによって理解することが大切です。
彼らの福音理解は彼らが自分自身で考え出したものではありませんでした。
そうではなくて復活の主が彼らに現れて、彼らにキリストの福音を理解させ、これを宣べ伝えるために彼らを派遣したのです。 (つづき)
ですから聖書の記述に従えば、復活祭から聖霊降臨祭に至る非常に短期間に使徒たちによるキリストの福音の宣教内容が形成され、最初の共同体が誕生したのでした。
「使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。」(使 v.33)
教会は、この使徒たちの宣教の上に建てられました。
その後の歴史の教会が展開して行った福音宣教にとっても、使徒たちは復活のキリストによって権能を与えられた目撃証人として、特別な位置を占めています。
なぜなら使徒後の時代の教会の宣教は、使徒たちから受け継がれたものであって、その規範は常に最初の使徒たちに属しているからです。
2世紀の教会が新約聖書正典を編纂した重要な動機の一つは、このような使徒たちの宣教の規範性を保つことでありました。
神の啓示に関する教義憲章(10)は、現代の教会が “使徒たちから伝えられたこと” を知る正当な手段を説明して、これを聖伝と聖書に限定しています。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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人 --
† 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。
そして、そこから入って行く者が多いのです。
(新約聖書 マタイの福音書7章13節)
-- 2006年(主日B年) 4月23日 復活節第2主日
使 4:32〜35 Iヨハ 5:1〜6 ヨハ 20:19〜31
かつてある共産主義系の学者たちはこのテキスト(使 4:32〜35)を解釈して、原始キリスト教は社会革新運動であった、イエスはプロレタリアートの解放者であったと主張しました。
ラテンアメリカにおける抑圧と貧困に対する抵抗から生まれて、現在も発展中の “解放の神学” も、これに類似した傾向を強く示しています。
しかしこのテキストは、エルサレム教会でその初期に、それも一時期だけ見られた特殊な現象を伝えているに過ぎず、このような共同生活はユダヤの教会にも異邦人の教会にもその後引き継がれることなく、早晩消え去ったものでした。
使徒言行録が強調しているのは、使徒たちによるキリストの福音の宣教が、力強く進められて行ったことでした。
エルサレム教会における信者の共同生活が、宣教活動の重荷となることを防ぐために、七人の奉仕者が選任されましたが、彼らも奉仕だけに終始し得ず、間もなく使徒の後を追って福音の宣教に邁進したのでした(使 6-8章)。
私たちはその中のステファノとフィリポについてのかなり詳しい記述を読むことが出来ます。
教会は使徒たちの宣教、使徒たちに起源する福音の宣教に耳を傾ける人々の増加に伴って成長し、確立して行きました。 (つづき)
私たちが知っているように、代々の時代の司教たちは使徒たちの後継者と呼ばれて来ました。
“彼らは使徒の後継者であって使徒ではない” という当然の事実に、私たちはもう一度注目する必要があります。
彼らは、教会がいつの時代にも “使徒たちの宣教” に耳を傾けるように奉仕する役務を受けたのであって、それによって代々にわたって 「使徒的伝承が全世界に表され、守られている」 と、教会憲章(20)は教えています。
それは聖職位階にある人々の栄誉であると言ってよいでしょう。
さらに、使徒たちに起源する福音の宣教が教導職だけのものであって、信徒には関係のないことと誤解される傾向があることに、注意を喚起する必要があります。
教会憲章は 「信徒の使徒職は教会の救霊活動そのものへの参与であり、すべての人は洗礼と堅信を通して主自身からこの使徒職に任命される」(33)と述べ、
「信徒は現世的な仕事に従事しているときでも、世に福音を告げるための崇高な働きをすることが出来、またそうしなければならない」(35)と教えています。
教導職も信徒も共に、使徒たちの宣教に耳を傾けるという基本から離れては、正しく教会の救霊活動に参与することが出来ません。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ____
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\ \_| / 。 2012年(主日B年) 4月15日 復活節第2主日
使 4:32〜35 Iヨハ 5:1〜6 ヨハ 20:19〜31
「使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、 ・・・・・ 」(使 v.33)
この使徒たちの証しが、教会を真に教会とするのだということを、主日のミサを共にささげる兄弟姉妹一人一人に深く受け止めていただきたい。
“復活を証しする” とは具体的には、私たちが “教会を信じ、罪の赦しをもたらす唯一の洗礼を認め、死者の復活と来世のいのちを待ち望む”(ニケア・コンスタンチノープル信条)ということに他ならないからです。
この信仰の証しが忘れられると、教会はその実質を失ってしまいます。
骨組みのある宇宙船は、地上に係留中もその姿を保っていますが、信仰の証しのない教会は、空から降りた熱気球のようにその姿を失います。
「イエスは生きておられる」(ルカ 24:23)、「復活なさったのだ」(ルカ 24:6)、「本当に主は復活された」(ルカ 24:34)、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタ 28:20)。
そして、「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(使 1:11)
そうです。 「わたしたちの本国は天にあります。」(フィリ 3:20)
・・・・・ 以下、本文参照。
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